2008年7月 5日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第七章(2)

 本郷は個人的にはこの事件を追ってみたい気はあったが、今はそれ
どころではなかった。こちらの方は、当事者には悪いがまだ被害が発
生したわけでは無いのだ。このところ都内では、過激派の犯行と思わ
れる爆弾騒ぎが異常に多く、猫の手も借りたいほどの忙しさだったの
である。口の悪い同僚の沼尾刑事が「過激派が一致団結でもしたの
か」と悪態をついたぐらいで、ほとんど無差別テロに近い感さえあった。
 派出所に爆弾が投げ入れられるのはまだ程度が軽い方で、公団住
宅が爆破され大勢の死傷者を出したのは記憶に新しい。新興の過激
派らしき「聖なる鳥」と名乗る一味が犯行声明を出しているのだが、そ
の正体は全く掴めていなかった。
 そしてそれから数日後、今度はよりによって深夜挙動不審で任意同
行を求められた若い男が、警官と揉み合ううちに所持していた拳銃を
奪って警官を射殺し、逃亡するという事件が起こった。本郷も他に幾つ
か捜査中の事件もあったのだが、今回の捜査に主として当たるように
村上警部補から言われ、しぶしぶそれに従った。
 現場の周辺を坂上刑事と聞き込みにあたっていた本郷は、その場所
が先の不思議な出来事の起こっているアパートの近くである事に気付
いた。その件は坂上も聞き及んで知っていたので、昼食を取りながら
休憩した喫茶店で、周りに聞かれぬように注意を払いながら、自然と
二人の話はその出来事に及んだ。
「誰か居るのは間違いないわけだが、どうしてそこまでする必要がある
のかな。必要以上に不気味な存在をアピールしてるみたいに感じるん
だが」
「でも状況から考えて、いつも誰かがその部屋に居るとは限らんでしょ
う。皆が始終起きて交代で見張っているわけでもないでしょうから、特
に人が寝静まった明け方なんかに、こっそり出入りしてる可能性が高
いんじゃないですか」
「だがドアチェーンがかかってたっていう事は、内部に人が居るって事
になるんだぞ。雨戸だって閉め切ったままだ。警官と大家に踏み込ま
れた時、その何とかって贋学生はどうやって逃げ出したんだ。天井裏
から屋根に登って逃れた、とでも言うのか。ここまで大騒ぎになりゃあ、
住人全員がその部屋を注意して見張ってるようなもんだぜ。下手に逃
げ出そうもんなら、すぐに誰かが異変に気付くだろうさ」
「一種の密室ってことですか」
「そう。推理小説でよくある、密室から忽然と人が消える、ってパターン
だな。トリックは色々とあるが、あまり必然性がないものが多いね。推
理小説の性格上、物語を面白くして謎めかそうとして、無理矢理に作
り出したって感じだな。ま、今回がどうなのかはまだわからんが」
「内部に人が居るように見せかける事は可能でしょうかね」
「どうかな。夜中も音楽を付けっ放し、ってことが引っ掛かってるんだろう」
「ええ。あまりにもわざとらしいとは思いませんか?」
「たしかにな。部屋の中で何をしてるのかは知らんが、普通はどちらか
と言えば出来るだけ目立たないようにするものな」
「居る事を強調してるってことは、裏返せばひょっとしたら誰も居ないん
じゃないかと……」
「なるほど。じゃあ、ラジオか何かは知らんが、その音源はどうやって始
末するんだ。踏み込んだ時にはそれらしいものは何も無かったんだろう。
あったら目立つだろうし、必ずその事を何か言う筈だ。たまたまその時
持ち出してて無かった、っていう偶然が二度続くのか」
「そうですねえ……」
「ま、今はそれより今回の事件を解決するのが先だ。そっちの方は、実
際に何か事件として発生してから動かないと、我々の身体が幾つ有っ
ても足りないぜ。当面は担当の派出所に任せておいた方がいいだろう
と思うがな」
 喫茶店を出た二人は、再び現場周辺の聞き込みに回ろうとして、二手
に別れようとした。その時、昼下がりの静けさを破る大音響と共に、少し
離れた所から白煙が上がった。
「な、何だ」
「行ってみましょう」

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2008年7月 3日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第七章(1)

 あいにくの雨に阻まれた形となった五月の連休中から、東京都内で
不審な事件が相次いで発生し始め、村上警部補達の捜査は難航して
いた。犯人達に完全に振り回されている、と言った方がいいのかも知
れなかった。
 事の起こりは、一通の手紙だった。本郷刑事はその手紙をもう一度、
慎重に読み返していた。何か自分達が見落としていたものがあるので
はないか、と疑問を持ったからである。

『前略。私のアパートの隣人が引っ越して来てすぐから、一日中部屋
に閉じこもったまま、ここ一ヶ月が過ぎています。夜中も音楽をつけっ
放しで、うるさくて眠れません。部屋の中を動き回る音が微かにする
ので、居る事は間違いないのですが、炊事をしている様子もなく、か
と言って出前を取っているわけでもありません。私が苦情を言いに行
っても、居留守を決め込んで応対に出ません。私は彼の存在が不気
味で仕方ないのです。何とかならないのでしょうか?たまに誰か男の
人が夜中に訪ねて来るようなのですが、それも二言三言、言葉を交
わすとすぐに帰ってしまい、また同じ事の繰り返しです。新聞も取って
いませんし、一日中雨戸を締め切ったままです。電気もメーターは動
いておらず、使っている様子がありません。アパートの大家さんや近
所の派出所にも相談してみましたが、らちがあきません。隣近所で
噂になっていて、皆不安がっています。どうかよろしくお願いします』

 差出人は主婦で、実名と実住所が書かれてあった。およそ常識で
は考えられない状況が書かれているので、あるいはこの主婦がノイ
ローゼの類ではないかとも思われたが、いちおう所轄の派出所に連
絡を入れてみたところ、とんでもない返事が返って来たのだ。
「実は、あまりにアパートの住人が騒ぐので、三日前に本官が大家
立ち会いのもとで、内部から応答がない事を確認して、合鍵でドア
を開けてもらって中に入ろうとしたんです。そうしたら、内側からドア
チェーンが掛かってるじゃないですか。これは絶対に内部に人が居
ると思いまして、さらにドアを開けるように言いましたが、応答があり
ませんでした。そこで強引にドアを壊す形で内部に入りましたところ、
何もなかったんです」
「意味が判らないな。何もなかったとは、どういう意味ですか」
「ですから、全く何も無かったんです。部屋は空き状態で……」
「人が住んだ形跡が無かった、ということですか」
「そ、そうなんです。ところが契約書は四月一日から入居になってい
て、二ヶ月分の家賃が前払いされてます。契約者は田口牧夫、この
春から慶応大学に通うことになった学生となってます。大家も不動産
屋と一緒にやって来た田口牧夫本人に、実際に会ってます。そして
アパートの住人も、彼がたしかに四月一日に引っ越して来た姿を目
撃してます」
「にもかかわらず、本人の影も形も無いわけですか」
「ええ。ちょっとした幽霊騒ぎになってて、両隣りの住人はそれこそノ
イローゼ気味です」
「じゃ今でも、その誰か人が内部にいるような気配がある、って事で
すか」
「そのようです。それに、大家が念のために大学側に問い合わせした
ところ、該当する学生は居ないという返事だったとかで、記入している
本籍地等も全て架空のものでした」
「えらく手が込んでるな」
「はい。ただ、確かに誰か居ますよ。それは間違いありません」
「どうして、そう断言できるんですか」
「実は昨夜、やっぱり何かが居るから気持ちが悪いので調べてくれな
いかと言われまして、本官と大家が現場に向かったんですが……また、
内側からドアチェーンがかかってたんです」
「何だって!……で?」
「はい。それでまたもやドアを壊して入りますと、やっぱり誰も居ないん
です。私達も気味が悪くて」

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2008年7月 1日 (火)

作者の簡単レビュー 【その24】

 女傭兵マユミのイメージは、仲間由紀恵さんでしょうね。普段私達が
見るTV番組の中の仲間さんはその清楚さと性格の美しさで有名です
が、この作品の中で濃い目のサングラスに赤いルージュ、決して笑顔
を見せない凛とした姿には、どうしても彼女のイメージが重なります。
最後にロビンにだけ見せる、くったくのない笑顔の瞬間こそ、彼女でな
くては表現出来ない、と思っています。まあ、早い話が、私が仲間さん
のファンでもあるから、そう思うのかもしれませんが…(^_^)ゞ
 次の第七章、サブタイトル「雨の日の惨劇」、から物語の舞台は再び
日本に戻ります。

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2008年6月30日 (月)

RobbinⅡ-レイン計画- 第六章(13)

 ギュルハネ公園までの道路は、真夜中だというのに大渋滞していた。
かなり先でクラクションが頻繁に鳴らされ続けていることから、何かトラ
ブルがあって渋滞している可能性が高かった。前の席の警官二名も苛
立ちを隠しきれないようで、お互いにとりとめもない話をして気を紛らわ
せている。周囲ではドライバー達が車から降りて、何やら話している光
景も見られる。車はほとんど身動きが取れない状態で、時刻はもう真夜
中の十二時半を回っていた。今ごろは津田がその通訳女性と会ってい
る時間だろう。
『何もなければいいんだが』
 津田からの国際電話での報告を受け、どうすべきか躊躇したのだが、
ホテルのオーナーが日本語が堪能であることを聞いていたので、川田
はすぐにイスタンブールに飛ぶことにした。津田に任せきりではなく、自
分も同席して真実を見定めなくてはいけないと思ったのだ。この機会を
逃すと、二度と真実を知る機会がなくなるように思えて仕方なかった。
ホテルに到着した川田は、たまたまカウンターにいたハッサンと話すこ
とが出来、事情を説明して津田の部屋に入れてもらい、そこに残ってい
た書き置きを読んだ。だいたいの事情を把握した川田は、急ぎハッサン
の車でイスタンブール市警察に連れて来てもらったのである。
  『時間が…』
 あせる川田は、警官に自分の腕時計をさして、数少ない彼が知ってい
るトルコ語のひとつである「ザマン(時間)」を連呼した。彼らも意味がわ
かったようで、パトカーのサイレンのスイッチを押した。突然のけたたま
しいサイレンの音が夜のイスタンブール旧市街に響く。周囲の車が道
を譲ろうとしても、渋滞の中ではそれもままならなかった。
「たのむ、間に合ってくれ」
 少し先に左折できる細い道があった。それを介して行けば、かなり迂
回する形にはなるが、何とかなりそうだった。今は一刻も早くギュルハ
ネ公園に着かなくてはならないし、何よりもこの渋滞から抜け出さない
ことには話にならない。川田は天にも祈るような気持ちで、後部座席に
座ったまま、両手を胸の前で組んで握りしめていた。

 ギュルハネ公園では、なおもゼブラが注意深く海面をじっと見詰めて
いた。マユミも同様だった。
「やったか」
「たぶんね。何発かは確実に腹部や背中に命中したはず、即死じゃな
いかもしれないけど、あのまま生きていられるとも思えない。間違いなく
手応えはあったよ」
 マユミの言葉を裏付けるように、ロビンがいたあたりの足もとに血痕が
いくつか見えた。その横で、身体を震わせる杉本弘美の姿があった。目
の前で銃が乱射され、津田の体に命中するのをその目で見てしまった
衝撃は大きかった。両手で自分の身体を抱きしめるようにして、何とか
身体の震えを止めようとするのだが、身体が言うことをきかない。まるで
極寒の地にでもいるかのように、歯がガチガチと鳴り続けている。
 その時、遠くから夜の闇を切り裂くような、パトカーのサイレンが聞こえ
た。音はこちらに向かって来ている。一瞬ゼブラの脳裏を、あのトリム事
件の決着をつけようとした、北海道での嫌な出来事がよぎる。だがあの
時と今とでは事情が違う、あの時ロビンは身動きできない状態でじっと
していたが、今は確実に何発かの銃弾をまともに受けているはずだった。
浮き上がってきていないところをみると、おそらく意識をなくしていると思
われた。いずれにしても放っておけば死が待っているだけだ。死体をゼ
ブラ自身の目で確認できないのは残念だが、今はこれ以上この場にと
どまるわけにはいかなかった。
「マユミ、行くぞ!」
 ゼブラは嫌がる杉本弘美を無理やり連れ、近くに止めてあった車の後
部座席に彼女を放り込んだ。彼らを乗せた車が去って行ったのと入れ替
わるように、青いシグナルを派手に点灯させながら、一台のパトカーがギ
ュルハネ公園の脇の道に止まった。二人の警官と川田が降り立つと、
川田は海沿いのベンチのある辺りに急いでやって来た。そしてあちこち
見回しながら、大声で叫んだ。
「津田さん!何処にいるんだ。返事をしてくれ」
 けたたましい数の空薬莢が落ちているのを少し先に見付け、川田はぎ
ょっとしたように立ち止まった。その手前のアスファルトの上には、黒い小
さな斑点が幾つか点在している。彼は後からやって来た警官に、その散
乱している空薬莢と血痕を無言で指さした。彼らもその場で何が起こった
のかを悟ったらしく、一人は慌ててパトカーの方に戻り、もう一人はあたり
を懐中電灯で捜索し始めた。
「津田さーん!」
 川田の声が虚しく夜の海辺に響いた。彼はしばらく辺りの海面を注意深
く見ていたが、やがてがっくりと肩を落としてその場にしゃがみ込んだ。
「遅かったか」
 街灯の明かりの下で、しゃがみ込んだ川田の所へ警官が首を横に振り
ながら、ゆっくりと歩み寄って来た。遠くの方からさらに数台のパトカーが
こちらの方に向かって来ているのが、夜の静けさを破るけたたましいサイ
レンの音で判った。
「津田さん……」
 川田はもう一度小声で力なくつぶやくと、夜の海面を涙で潤んだ目でじっ
と見詰めていた。そこには銃弾で打ち抜かれ、ぼろぼろになった上着らし
きものが、静かに暗い波間に漂っているだけだった。

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2008年6月28日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第六章(12)

『あとは神に祈るだけだな…』
 彼らを送り出した後、イイギュン警部は以前からずっと気になっていた
ことを、ハリムに尋ねた。
「なあハリム、どうしてあの通訳女性はやって来たんだろう」
「日本領事館から要請を受けて、トルコ語の不自由なカワダ氏のために
やって来たんでしょう。おかげでやり取りがスムーズに出来て、助かった
ってイイギュン警部もあの時おっしゃってたじゃないですか」
「だが、その直後、彼女は消えてしまった」
「それは帰国したんですから、仕方ありませんよ。消えたわけじゃない」
「どうして帰国したんだろう」
「どうして、って…ビザが切れそうだったからですよ。いいタイミングだと
思ったんじゃないですか」
「本当にそうだろうか」
「どういう意味です?」
「彼女はイスタンブールの日本領事館から要請を受けて派遣されてきた」
「はい」
「どうしてカワダがトルコ語が不自由だと知っていた」
「それは赴任してきて、まだ間もなかったからでしょう。事件が事件です
し、領事館としては賢明な判断だったと思いますが」
「しかし帰国後の連絡先はわからない、と領事館員は言っていた」
「ええ」
「そんな身元があやふやな人間を、日本領事館ともあろうものが要請した
のか」
「それについては、自分も少し調べてみました」
 ハリムも自分と似た疑問を持っていたことが、イイギュン警部には少し意
外だった。それにしてもよく気の利く男だった。イイギュン警部は自分の思
考が、ハリムに看破されているような気すらした。
「うむ、それで」
「彼女の通訳は、サカイ副領事が個人的に要請したようです」
「サカイ副総領事は、たしかトルコは長かった気がするが」
「はい、今年で赴任してから丸十一年が過ぎ、十二年目に入っていますね」
「えらく長いな。よく家族が日本に帰りたいと言い出さないもんだな」
「海外ではずっと単身赴任のようです」
「ふうん」
「…だから、その、正確に言うなら、彼女は領事館公認というわけではなか
ったことになります。ということは、彼女はサカイと特別な関係にあったかも
しれない、と思うんです」
「お前にしては、大胆な仮説だな」
 イイギュン警部は、少し笑みを浮かべて言った。
「茶化さないでください。でもそう仮定するとうまく説明がつくんです。でも、
不思議なことが」
「不思議なこと?」
「はい、彼女はどうやってサカイ副領事と知り合ったのか。普通なら接点は
ないはずです」
「彼女のアルバイト先で会ったとか」
「どんなアルバイトですか」
「うーん、難しいな。たとえば…」
 日本とは違い、若い女性が現地で出来るアルバイトというのは、イスラム
教の影響もあって極端に限られている。そもそもトルコでは、キャリアウーマ
ン自体が珍しいし、女性が前面に出て働ける職種は限られている。イイギュ
ン警部はしばらく考えてみたが、ブティックの店員や最近進出してきた外資
系企業のケンタッキーフライドチキンやマクドナルドの店員以外、特にこれと
いう職種は思い浮かばなかった。ましてや外国人である日本人女性が普通
にアルバイト出来るところとなると見当がつかない。せいぜいどこかの日本
企業の通訳ではないかと思えた。
「日本人だから、イスタンブールかアンカラの日本企業のトルコ語通訳ってと
ころじゃないのか。彼女は確かにトルコ語は上手かったよ」
「そう思って、私も調べてみました」
「ほう、さすがに抜かりないな」
「現在、領事館に届けられている在留邦人のリストをもとに、在トルコ日系企
業に問い合わせをしましたが、彼女が通訳として就いていたと思われる企業
はありませんでした。だから彼女がサカイ副領事と顔を会わせるきっかけが
ない。それに一番疑問なのは」
「何だ」
「彼女の名前がわからない事です」
「そう…」
 たしかにあの時、日本領事館から派遣された通訳です、としか彼女は言わ
なかった。そしてあの緊迫した状況であったから、イイギュン警部もあえて積
極的に名前を聞こうとはしなかった。そしてイイギュン警部が彼女と会ったの
は、その数時間のことでしかない。
「お前のことだ、当然、サカイ副領事にも聞いてみたんだろう」
「はい」
「彼は何と?」
「顔見知りを通じてだから、以前に名前は聞いたことがあるが、ハッキリ覚え
ていないと」
「ちょっと曖昧すぎるな」
「その顔見知りとは誰かと尋ねましたが」
「うむ」
「プライベートなので答えたくない、と」
「妙だな」
「ちょっと不自然でしょう。あまり彼女のことを聞かれたくないように、私には
感じられました。だからそれ以上は、その話は出来ませんでした」
「だから、特別な関係にあると思うのか」
「そう考えると、名前を教えたがらない説明もつきます。自身のスキャンダル
にもつながることですから、それは今後の彼のキャリアを考えると、致命的
でしょう」
「まあ、たしかに十年も海外に一人でいれば、女の一人や二人囲ってても不
思議じゃないな」
「そう、だと思います。イイギュン警部、ところでアンカラ出張はどうでしたか」
 ハリムはいきなり話題を変えた。
「収穫なしだ。わざわざアンカラまで行って、振り回されただけだよ。ケマル
には今度、何かおごってもらうことにするさ」
 最近のイスタンブールでは、観光客相手の睡眠薬強盗事件が多発してお
り、大量の睡眠薬混入により死亡者も出ているが、それに現地の売春組織
が裏でからんでいるらしいという情報が、ギュナイドン紙のケマル記者から
もたらされていた。過激な反政府運動で知られている、クルド民族解放戦線
のメンバーと名乗る男からの電話情報であったという。過激派と売春組織と
の関連性がないので、十中八、九はガセネタとも思えたが、その情報をもた
らした相手から突然、イイギュン警部名指しで極秘でアンカラで話したいと打
診してきたというのだ。結局指定されたアンカラのアナトリア考古学博物館前
で待ちぼうけすること二時間余、イイギュン警部がいくら待っても相手は現れ
なかったのだった。

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2008年6月25日 (水)

RobbinⅡ-レイン計画- 第六章(11)

 イイギュン警部がアンカラ出張から戻って来た時、彼は約一年ぶりに
見る顔と会った。それは忘れもしない顔だった。未だにあの時の彼の落
胆し憔悴しきった表情が脳裏に焼きついていた。彼の子供の表情もま
た同様だった。異国の地で二人にとって失ったものの計り知れない大
きさを思うたび、イイギュン警部は犯人に強い憤りを感じたものだった。
 被害者であるカワダの妻の体内から、犯人のものと思われる精液が
検出されており、検査結果から犯人の血液型がA型であることは判明
している。だがそれ以上の成果は、結局何も得られなかったのだ。現
場周辺の花売りのジプシー達にも範囲を広げて聞いて回ったが、不審
なそぶりの人物を見たという目撃証言すら、まったく出てこなかった。
通常は誰かがその類の情報を提供するものだが、今回は全くお手上
げ状態だった。イイギュン警部の長いイスタンブール警察勤めの中で
も、こんなことは初めてだった。
 来年の定年退職後は、彼はトルコ南部の小さなカシュという港町で、
余生をのんびりと地道に送る予定だった。カシュは妻の生まれ故郷で
もあり、実家は小さな観光客相手の安ホテルを経営している。年老い
た両親も彼らが戻って来るのを心待ちにしていた。二人の間に子供は
いなかったが、一度だけ流産したことがある。その子がもしもこの世に
生を授かっていたなら、ちょうどあのショウという名の子供と同じぐらい
だったろう。
 親日国であるという立場上、表面上は最優先捜査ということになって
いたが、大人数が投入されたのはわずか一週間足らず、川田が出国
したのと前後して、あっという間に規模が縮小された事も、これまでの
経験上からも別に驚くようなことではなかった。そして今ではイイギュン
警部とハリム刑事しか事実上の担当者はいなくなっていた。どこの国
も同じであろうが、一つの事件ばかりを追えるほど、警察の人員には
余裕は無い。彼らも日常茶飯事的に発生するイスタンブール市の色々
な軽犯罪を処理するかたわらで、地道な聞き込み捜査を続けてきた。
 馴れ合いになっているギュナイドン紙の新聞記者ケマルからも、特に
情報はもたらされていなかった。これまでなら彼から、ガセネタも含めて
かなりの情報提供があり、それが捜査の新たな糸口となって事件解決
に結びついた事もある。だがさすがに今回はそんなケマルの情報網を
もってしても、新しい情報は何一つ出てこない。異常と言ってもよかった。
まるで言論統制か緘口令でも敷かれているかのような錯覚さえ、一時は
覚えたほどだった。

「ハリム」
 イイギュン警部は彼の右腕と言ってもいい、腕利きの刑事の名を呼ん
だ。川田のしゃべる英語は彼には理解するのが難しい、その点、アンカ
ラ大学を首席卒業したハリムは英語が上手く、通訳にはもってこいだっ
た。よくもまあそんな優秀な人間が、こんな職業に就きたいなどと思った
ものだ、と今でも彼は不思議で仕方がない。
「そのミスター・ツダが、どうして先日の爆弾事件の被害者だったんだ」
「カワダ氏の代理として、こちらで色々事件のことを探ろうと、通訳女性と
一緒に行動していたようです。私も先日対応してミスター・ツダに会いま
したが、たしかにカワダ氏の直筆で代理者として認める旨の書類を持っ
ていました」
「これだからシロウトは困る、捜査はそんなに簡単じゃないってことを知ら
んのだ。それに今頃探っても、何も新しい事実は出てこんぞ」
「それが…」
「何だ」
「ミスター・ツダによれば、カワダ氏の住んでいたマンションのカプジュが、
事件の起こる数日前に日本人女性と思われる若い女性がカワダ氏の所
を訪ねて来ていたようだ、と話しているようです」
「何だと、あいつそんなこと何も話さなかったじゃないか」
 だからカプジュは信用できないんだ、と言わんばかりの表情でイイギュ
ン警部は手持ちの警察手帳をめくった。カプジュを尋問した時のメモを見
直したが、やはりそのような記述はない。
「…それで?」
 まどろっこしいやり取りを経て、ようやくイイギュン警部は川田が再びイ
スタンブールにやってきた事情を理解した。そのミスター・ツダからの国
際電話で、部屋に爆弾を仕掛けられたが彼は何とか無事だったものの、
他にも問題があるような口ぶりだったことが気がかりで、とるものもとりあ
えずイスタンブールにやって来たのだと言う。宿泊ホテル名を聞いていた
ので、空港到着後すぐにそこに向かったが、川田宛の書き置きが残して
あったのだという。それによればもうすぐ、ギュルハネ公園で事件のカギ
を握る人物に会うことになっているらしい。
 川田に連れ添うように二名の警官を呼ぶと、イイギュン警部は言った。
「いいか、この日本人と一緒にそのミスター・ツダの消息を追うんだ。一年
前の殺人事件の犯人が関与している可能性が高い、一刻の猶予もなら
んぞ。すぐに一緒にギュルハネ公園に向かってくれ。判断に困る場合は、
その場ですぐに私に連絡しろ」

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2008年6月22日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第六章(10)

 ロビンにとって意外だったことは、彼女の喋る日本語は、純粋な日本
人のそれではなかったことだった。
『日本人じゃないのか……』
「父さんにあわせたのと同じ目にあわせてやる。内臓をバラバラに切り
裂いたぐらいじゃ足りないさ」
「俺はそんな残虐なことはした覚えがないぞ。別の傭兵と勘違いしてる
んじゃないのか」
 一瞬、ロビンの脳裏を傭兵コブラの姿がよぎる。
「うるさい、この期におよんで言い逃れするな。生き証人だっているんだ」
「誰だ、そいつは」
 その女は、あごをしゃくって、ゼブラを指した。
『ゼブラが生き証人だと?』
「マユミ、それぐらいにしとけ。こいつはどうせシラを切るに決まってる。
多分そのうち今度は、俺が犯人だとでも言うに決まってる」
 ロビンには彼女に仇呼ばわりされる記憶は無かった。何のことを言わ
れているのかすら、さっぱり見当が付かなかったが、ブラック・ローズ時
代にこなした数々のミッションで、あるいは仇呼ばわりされる状況が形
成された可能性はないとは言えない。だがそれなら、何故自分と同様
のことをしていたはずのゼブラは仇でないのか。どうしてゼブラが生き証
人であることになるのか、それがまったく理解できなかった。だがそれよ
りも、今は目の前にいる杉本弘美のことが心配だった。
「弘美ちゃん、大丈夫だったか」
 彼女は何かを言いたそうだったが、ゼブラが脇に立っていることがそれ
を阻んでいた。
「ふん、相変わらず甘いんだな、ロビン。女の心配をする前に自分の心
配をしたらどうだ」
 その声に促されるように、ロビンの背後の女がロビンに銃口を向けた。
「どういうことだ。俺にはさっぱりわからんな」
「貴様はいつも俺の邪魔をする、トリムの時もそうだった。大人しく引っ込
んでれば、あたら進んで生命を粗末にすることもなかったろうによ」
「どうしてお前が、彼女を知ってるんだ」
「ふん、この女をえらくかばいたがるんだな、ロビン。お前は知らないんだ
ろう、この女も美雪も良子もみんな同じ」
「止めて!……お願い」
 杉本弘美が哀願するようにゼブラに叫んだ。彼女は唇を噛みしめ、うつ
向いた。津田は巽良介が、塚本美雪や川田良子のことも知っていること
が意外だった。
「塚本美雪は、今何処にいるんだ」
「ふん。お前は会えないさ」
 そうゼブラが顎をしゃくって言うのと、マユミが引き金を引くのと、ロビン
が夜の海へ飛び込むのとがほぼ同時に起こった。ロビンが飛び込んだ
あたりを目掛けて、消音されたくぐもった銃声が数十発続いて起こり、夜
目にも海面が雨が降ったように白くなるのが判った。
「マユミ、絶対に逃がすな!」
 そう叫ぶと、ゼブラは自分も背広の懐から銃を取り出し、注意深く夜の
海面を左右に何度も繰り返し見ていた。杉本弘美はこの光景に思わず
その場にしゃがみ込み、震えていた。
「あれか!」
 やがて十メートル程岸から離れた所に津田の着ていた上着のようなも
のが、微かに夜の海面に見え隠れしながら浮いているのが識別出来た。
すかさずマユミが数発をそれに向けて発射した。小さく水音がして、その
服のようなものが微かに揺れた。
「おい、ここはかなり深いのか」
 ゼブラは震えている杉本弘美に聞いた。彼女は返事の代わりに、こっ
くりと頷いた。
「ちっ!浅ければあそこまで行って、奴の死体をこの目で確認したかった
んだが。仕方ないな」

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2008年6月21日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第六章(9)

 海沿いにぐるりとトプカプ宮殿を取り巻くようにあるギュルハネ公園は、
格好の夏場のイスタンブール市民の憩いの場だった。海に向かってず
らりとベンチが並んで、所々に街灯が明かりをともしている。ほとんどの
ベンチを若いアベックと家族が占領している。身を寄り添わせながら囁
き合うアベックの姿に、津田はふと自分と洋子を想った。
 トルコの夏の夜は長い。午後の八時を回らないと暗くならないのだ。
習慣になっているのだろうが、小さな子供の姿も夜十時の時間帯でも
あちこちで見かけられる。家族揃ってレストランで夕食を摂り始めるの
が、だいたい夜の八時を過ぎた頃からだから、自然とそうなってくるわ
けである。だがさすがにそれも、夜の十二時になる頃には一段落する。

 約束の時間がやって来た。
 不思議とそれまで居たトルコ人達は、全てギュルハネ公園から姿を
消してしまっていた。かなり広い公園の海沿いの道を、津田はゆっくり
とあてもなく行き来して、杉本弘美が現われるのを待った。ややひんや
りとした夜風が肌に心地好かった。やがて津田は街灯の脇のベンチの
一つに腰を下ろすと、愛用の煙草を取り出し、風に大きく揺れるジッポ
の炎で火を付けた。やがて遠くからこちらに向かってくる、微かな靴音
が聞こえて来た。靴音の主は津田からかなり離れた所で立ち止まると、
その場に立ち尽くしたままだった。
 津田はゆっくりとその方向に顔を向けた。暗がりの中に佇んでいるそ
の顔は、津田の位置からは識別出来ない。津田はやがてゆっくりと立
ち上がると、その靴音の主の方に歩き始めた。夜風にその靴音の主の
長い髪が揺らぐのが、暗闇の中で判った。
「弘美ちゃんか?」
 津田はそう言いながら近付いた。靴音の主は少し前に歩き、街灯の
明かりの届く所にやって来た。間違いなく杉本弘美だった。だが表情
があまりにこわ張っているように見える。いつもの彼女ではなかった。
「どうしたんだ。心配してたんだぞ」
 津田は努めて笑顔でそう言うと、なおも彼女の方に近付いて行こうと
した。
「来ないで!」
 杉本弘美が悲痛な声で叫んだ。その声に津田は立ち止まった。
「お願い……逃げて、津田さん」
「逃げる?どうして俺が逃げなきゃいかんのだ、弘美ちゃん」
「お前の死に場所が、ここになるからさ」
 不意に日本語で男の声が脇の木の後ろ側ですると、一人の背広姿
の男がゆっくりと姿を現わした。津田の位置からはその男の顔は見え
ない。男はなおもゆっくりと杉本弘美の横にやって来た。男の顔が街
灯の明かりの中に浮かんだ時、津田は全身が硬直するのが判った。
「ゼブラ」
「久し振りだな、ロビン」
 ゼブラはにやりと笑うと、杉本弘美の横に立った。彼女の顔が恐怖
で引き吊っている。
「どうしてお前がここにいるんだ」
「ふ、そんなことどうでもいいじゃないか。それより、お前にぜひ会いた
いって奴がいたんで、連れて来てやったぜ。紹介しとこう、マユミだ」
 ゼブラはそう言って、右手で紹介するような仕草をした。その声に促
されるように、ロビンの背後で微かな靴音がした。ゆっくりと振り返ると、
そこには黒い革ジャンに身を包んだ髪の長い女が立っていた。片手に
は消音装置付きのM-16が握られている。ロビンの記憶の片隅に、
微かにその女があるような気がするのだが、思い出せなかった。歳の
頃は二十歳くらいで、日本人のようだった。
「俺はあんたは知らないんだが」
「お前は知らないだろうが、私にとってお前は仇なんだ」
 女は激しい口調で、ロビンを睨み付けながらそう言った。

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2008年6月20日 (金)

RobbinⅡ-レイン計画- 第六章(8)

「大丈夫でしたか、津田さん」
 予想していなかった日本語で話しかけられ、思わず振り返ると、そこ
には心配そうな表情のハッサンが立っていた。
「ああ、ハッサン。来てくれたのか。何とか間一髪で助かったよ」
「怪我がないなんてラッキーですよ。神様のおかげです」
 無神論者である津田は、あえてそれには反論しなかった。
「どうして、ここに」
「私たちのホテルの近くで、爆破事件が起こったと連絡が入ったんです。
飛んで来るのは当たり前ですよ」
 ハッサンたちの経営するホテルは、たしかにすぐ目と鼻の先にあった。
ピンク色の壁がやたらと明るく見える。
「しかし、本当にビックリしました。まさか津田さんがこんな目に遭うなんて」
「しかし参ったよ、荷物が全部ふっ飛んじまったからね」
「じゃあ、パスポートや現金も何もかも…」
「いや、さすがにそれは大丈夫だったよ、肌身離さず持ってたから」
 津田は手提げポーチをハッサンに見せた。彼にとってはこんな目に遭う
のは、かつてのトリム電子産業の事件依頼のことだったかもしれない。
津田に同情したハッサン達が、津田に自分たちのホテルの一室を新たに
提供することをただちに申し入れてくれたのは、まさしく地獄に仏状態だっ
た。
 津田がその部屋に入った頃には、すでに夜が明けかけていた。常に手
下げポーチに三大貴重品を入れて持ち歩いていたお陰で、帰国やこれか
らの滞在には大きな支障はなかったことが幸いだった。津田はとりあえず
の仮眠を数時間取った後、再び気になっていた杉本弘美のアパートに行
ってみたのだが、彼女は相変わらず所在不明のままで、帰宅した様子も
なさそうだった。

 それから二日後の夕方、津田が一日を徒労に終えてホテルに戻ると、
フロントの人間が津田に「メッセージが入っている」と言いながら、小さく
折り畳んだ紙を部屋の鍵と一緒に手渡した。津田は日本からファックス
でも入ったのかと思ったが、それは感熱紙ではなくボールペンで普通の
紙の上に日本語で書かれていた。階段を昇りながらその紙を開いて読
み終えた時、津田はその場に立ち尽くしていた。

『津田さんへ――ご心配をおかけしてすみません。ちょっと急ぎの用事
が出来て、しばらくイスタンブールを離れることになりました。その前に、
この前のお問い合わせの件で重大なことが判りましたので、是非ともお
会いしてご相談したく思います。つきましては二人だけでお話ししたく、
本日夜十二時半にトプカプ宮殿の下の海沿いにあるギュルハネ公園に
お越し下さい。私はそこでお待ちしています。――杉本弘美』

 津田はフロントに急いで戻ると、この紙は一体どうしたのかと尋ねた。
フロントからは、津田の帰って来る少し前に日本人の女性からこれをミス
ター津田に渡してくれと頼まれたのだ、という答えが返って来た。
 津田は杉本弘美の書く日本語は見たことがないので字の癖は知らな
いから、これが杉本弘美自身の手によるものなのかどうかは定かではな
かった。それに届けに来たのが杉本弘美自身なら、津田の帰りを待って
いればいいわけで、何もわざわざメッセージを残して消える必要はない。
だが杉本弘美がそういう時間の余裕が全く無かった可能性もある。だが
津田は、この文面に何か胡散臭いものを直感的に感じた。
『どうしてわざわざ屋外を指定したんだ。二人きりで話したいのなら、アパ
ートだってあるし、このホテルに尋ねて来ればいいはずだ。相談事を公園
でする、っていうのも妙だが……。だがたとえ罠だとしても、出向かざるを
得ないな。手掛かりはこれしかないし』
 津田は早目に近くで夕食を済ませると、部屋に戻って手紙を書き始めた。
かなり長いことかかってようやく書き上げた後、封をするとフロントに降りて
行きフロントの男にことづけを頼んだ。そしてギュルハネ公園へはどう行け
ばいいのかを尋ねた後、あらかじめ周囲の様子を見ておこうと、津田は早
目に約束の場所へと急いだ。

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2008年6月13日 (金)

RobbinⅡ-レイン計画- 第六章(7)

 やがてホテルに戻った津田は、仮眠していたフロントの人間を起こし
て鍵を受け取った後、いったん部屋に入り明かりを付けた。その瞬間、
津田は我が目を疑った。津田の唯一の手荷物である黒のバッグが跡
形もなく消えて、その代わりに小さな菓子箱が一つ、ベッドの上に無
造作にこれ見よがしに置かれていたのである。それは気にくわない
置き方だった。
 津田はその光景を見た瞬間に、本能的に嫌な感じがした。部屋の
中を見渡しても、その部屋の中に津田のバッグは見当たらない。もう
一人の彼の分身が、じっとその場にいることに身の危険を知らせてい
た。彼はその場を離れるようにして回れ右をすると、そのまま明かり
のついたままの部屋のドアを締め、足早にフロントに向かう階段に近
付いた。自分の荷物には手をつけるな、動かすなとあれだけ念押しし
ておいたのに、という気持ちもあった。フロントの人間を引っ張って来
て、荷物がなくなっていることをクレームしようとも思ったのだ。それに
考え過ぎかも知れないが、ベッドの上にこれ見よがしに置かれた菓子
箱の中身も気にかかる。だが下手に近付いてすぐに中身を確かめる
ほど、津田は無用心ではない。

 津田が階段をニ、三歩降り始めた、その次の瞬間だった。突然の大
音響とともに、津田の部屋がドアごと吹き飛び、爆破の破片が廊下や
階段に飛び散り、煙がもうもうと立ちこめたのだった。津田は階段にい
たが、その振動で思わず滑り落ちそうになった。身体半分がまだその
階にあったので、大小の木片やコンクリートか土と思われる破片が、
爆音と同時に彼に襲い掛かったがそれはさほどではなかった。一瞬
の間をおいて、周りの部屋から泡を食った顔の宿泊客達が、飛び出
すように慌てて駆け出して来た。ホテルは完全にパニック状態に陥っ
ていた。
『あれは、やっぱりプラスチック爆弾だったか』
 先程のベッドの上に置かれていた小さな箱のことが、瞬時に津田の
頭をよぎった。その箱の大きさから計算して、部屋を一つ吹き飛ばす
には多目の量であったことを直感した。念を入れた、とも取れる。時限
装置が仕組んであったのか、遠隔操作なのかは定かではないが、お
そらく後者の方であろうと津田は推測した。道路側から見張っていた
何者かが、津田の部屋の明かりがついて、津田がベッドに一番近付
いたと思われるタイミングを狙って、爆破のスイッチを押したのだろうと
思えた。
『この前の奴らか。それにしてはえらく手が込んだことをしてくれるじゃ
ないか!』
 まるでプロの仕業であった。だが津田はこの前に彼を襲った連中が、
そこまでの知識を持っているとは思えなかった。ただし、さらにその種
の仲間が他にいるとなれば話は別である。
『そこまでして俺を始末したい理由は、一体何なんだ。……ひょっとし
て、弘美ちゃんは奴らに拉致されたんじゃないだろうな』
 危機一髪で難を逃れた津田は、ホッとする間もなくフロントの人間や
他の宿泊客に詰問され始めた。だが津田にも何の事かわからないし、
ましてや余計な事を言うわけにもいかない。間もなくサイレンを鳴らして
パトカーがやって来た頃には、そのホテル周辺は近所の野次馬達で大
混雑になっていた。当然ながら、質問はもっぱら津田に集中する。津田
はありのままを説明し、自分はツーリストでここに滞在していることを強
調した。
 やって来た警官たちの結論はあまりにも単純で、何故津田の部屋に
爆弾が仕掛けられたかは不明だが、時折イスタンブールで勃発するテ
ロリスト達の仕業だろうということになった。これには津田の方が唖然と
させられた。参考人として警察に呼ばれ、背後関係などをかなり厳しく
取り調べられるのだろうと覚悟していただけに拍子抜けしたが、津田に
とっては幸いだと言えた。杉本弘美の行方を探らなくてはならない今、
下手に貴重な時間を取られるのは得策ではなかったからである。

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2008年6月11日 (水)

RobbinⅡ-レイン計画- 第六章(6)

 翌朝津田が目覚めた時には、杉本弘美はすでに起きており、片隅に
片付けられたテーブルの上で、カラフルなものが多いトルコ語の新聞に
しては珍しく地味なジムフリエット紙を熱心に読んでいた。時おり不規
則に聞こえる新聞紙をめくるやや耳に付く音で、津田は目覚めたのだ
った。彼女は津田が目覚めたのを気配で知ると、津田の寝ている横に
やって来てにっこりと微笑みかけた。その仕草はまるで、新婚の妻が
夫の目覚めをやさしく見守るようだった。
「ごめん、起こしちゃった?」
「いや……」
 そう短く言うと津田は、上半身を起こした。彼女は「はい」と短く言っ
て、津田の着ていた服をすぐに彼の元に持って来ると、席を外して台
所の方に行った。やがて津田が服を着変えた頃に戻って来た彼女は、
両手に朝食を持って現われた。二人は無言のまま朝食を終え、やが
て雰囲気がくつろいだのを感じて、杉本弘美の方が津田に甘えるよう
に尋ねた。
「ねえ、今日はどうするの」
「俺の方は別に、これと言って用事は無いんだが」
「私の方は、ちょっと出掛ける用事があるけど、すぐに終わると思うの。
どうしようか」
「何処かで待ち合わせでもするか」
「うん、何処がいいかな」
 杉本弘美は嬉しそうな表情で、津田にそう尋ねた。
「俺にわかる所にしてくれよ、頼むからさ」
 二人は笑いあった。気のせいか、杉本弘美の表情が、このうえもなく
晴れやかなように見えた。
「じゃあ、二人が初めて出会った所で十一時に、どう」
「いいよ、わかった。そこなら間違いなく行けそうだ」
 しばらくして二人は一緒にアパートを出ると、タキシム広場で別れた。
津田は杉本弘美に教えてもらった『T4』バスに乗り、カパルチャルシュ
の前のベヤジットのバス停で降りると、近くのバッカルで缶ビールを買
い、そこから歩いてホテルに戻った。
『彼女の調べた結果いかんによっては、川田良子の昔の男が特定出
来るな。あとはその男が今何処に居るかが問題だが』
 部屋に入って蛇口を捻ると、珍しくシャワーの生温い湯が出たので、
津田は急いでシャワーを浴びることにした。そして少し温まった缶ビー
ルを飲みながら、いつもの煙草に火を付けた。服を着換えたりしている
うちに、杉本弘美と約束した時刻は後三十分足らずに迫っていた。フロ
ントに降りて自分宛ての連絡が入ってないことを確認した後、津田は再
び外出した。

 二人が初めて出会った、その公園の中央には噴水があるが、その回
りを取り囲むように設置されているベンチには木陰の類は一切無い。イ
スタンブールの夏に少し辟易し始めている津田は、少し離れた所の木
陰に腰を下ろすと、杉本弘美がやって来るのを待つことにした。
 だが杉本弘美は、約束の時間になっても姿を現わさなかった。時計の
針が十二時を指す頃になっても一向に姿が見えない。最初の頃は津田
も、用事が長引いて少し遅れているんだろうぐらいに軽く考えていたの
だが、待てど暮らせど彼女はやって来ない。さすがに二時を過ぎた頃
には、津田の中でそれが不安に変わっていた。
『ひょっとして、何かあったのか?』
 彼女の用事が何であったのか、おせっかいでも聞いておくべきだった
と津田は後悔した。これでは彼女の行方を探しようが無いのだ。杉本弘
美が親密になった津田との待ち合わせをすっぽかすとはとうてい思えな
いし、彼女はたとえ用事が長引いたとしても、適当に切り上げてやって
来る筈だと思えた。だが結局その日は、夕方になっても彼女は津田の
前に姿を現わさなかった。
 夜になって、津田は杉本弘美のアパートに向かった。だが心配した通
り彼女は居なかった。仕方なく津田は、アパートの前でしばらく待ってみ
ることにした。歯痒いほどに時計の針が動いて行くが、結局真夜中にな
っても彼女は帰って来る気配がなかった。
『何処へ行っちまったんだろう、何もなきゃいいが』
 彼女が昨夜ぽつりぽつり津田に喋っていた中に、自分はここで夜十時
以降タクシーに一人で乗りたくない、と言っていたことを津田は思い出し
た。
『たしか、公安警察の人間が運転手になって、街の様子を探っているん
だ、って真顔で言ってたな』
 今の時間では最早、タクシーを使わない限りここに戻ってくることは不
可能だと言ってよい。それほどに神経質な面を持つ彼女が、夜中に一人
で歩いてアパートに帰って来ることは、よほどのことでも無い限り、絶対
に有り得なかった。
『仕方ない。今日のところは引き上げて、明日また様子を見るか』

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2008年6月 9日 (月)

RobbinⅡ-レイン計画- 第六章(5)

『現金が消えてたっていうのは、恐らく強盗の仕業を強調したかったか
らだろう。顔見知りなら、困った顔をして急に現金が入り用になったの
で貸してくれないか、とでも何とでも口実は作れるしな。そうなれば川
田良子は、現金を隠してる所から自主的に持って来てくれるわけだ…
…そして犯人との仲が親密であればあるほど、有り金に近く貸すだろ
うし』
 そこまで考えていて、ふと津田は川田が言っていたことを思い出した。
『川田良子は当初イスタンブールへ来ることを嫌がってた、と言ってた
な。と言うことは、彼女は誰かがイスタンブールにいることを知ってたわ
けか。まあ普通に考えれば、昔の知り合いだろうな。それを川田さんに
は秘密にしていて、架空のイスタンブール旅行に行った時の出来事を
でっち上げたわけか。だがそうなってくると、その昔の知り合いには彼
女は会いたくなかったってことになる。そいつが犯人なのか、違うのか
……彼らが再会したのかどうかが問題だな』
 逆算すれば、彼らは十年間の時空を経ていることになる。川田良子
の言動からして、彼女はすでにその知り合いのことを、おそらくは男で
あろうが、忘却の彼方に置き、今の生活を守ろうとしているように受け
取れる。そしてその男が、川田良子がやって来たことを知ればどうな
るか。こういう場合は、えてして男の方が多分にロマンチストであるが
故に、懐かしさと共に愛着を示す場合が多い。
『じゃあ、塚本美雪はどうして川田良子を知ってた?』
 川田の出国時の状況から判断して、塚本美雪は川田良子が殺され
た理由を知っていると思われる。もし犯人がその男ならば、塚本美雪
もその男と川田良子の昔のことを知っていたことになるし、同時にそれ
は違った見方をすれば、彼女がその男の身近に居たことになる。つま
り複雑な形の三角関係になってくる。すると塚本美雪は、多分にこの
犯罪に絡んでいても不思議ではなくなってくる。
 ではもし犯人がその男で無かった場合は一体どうなるのか。たしか
に昔の女を、事情はどうあれ強姦殺人までしてしまう、というのもよっ
ぽどの理由がない限り、かなり無謀な推理であるようにも思える。だ
がこれが計画的な犯行であることは疑う余地がないと言える。そうな
ってくると、川田良子は他の何者かの弱味を握っていた、とも考えら
れる。そしてその人物は十年前に彼女と会っており、さらに去年イス
タンブールに居たことになる。謎に満ちた彼女の三年間の過去の中
で、誰かの弱味が握れるとすれば、彼女は一体どんなことをしていた
のか?
『それも尋常な弱味じゃない筈だ。ばれれば致命的な弱味、そんな秘
密を川田良子は一体どうやって知ることが出来たと言うんだ』
 考えられることは一つ、彼女も今の杉本弘美のようなことをしていた
としか思えないのだが、残念ながら証拠は無い。

 そんな津田の思案を知ってか知らずか、杉本弘美の独白は相変わ
らずぽつりぽつりと続いていた。彼女から津田の顔は見えないから、
自分の言っていることを津田がじっと聞いてくれているものと彼女は
津田の胸の中で思っているようだった。彼女の言葉が途切れた頃を
見計らって、津田はさりげなく尋ねた。
「ところで話を戻して悪いけど、十年少し前にここに赴任していて、去
年もここに赴任してた日本人を知らないか」
「変なこと、聞くのね。今すぐは判らないから、何だったら調べておいて
あげようか」
「ああ、頼むよ」
 彼女がどうやって調べるのかは察しが付いたが、津田は敢えてその
ことには触れないことにした。杉本弘美も津田がそんな突拍子もない
ことを尋ねた理由を察したようで、それ以上は彼女もそのことには触れ
なかった。それがきっかけで、部屋に沈黙が訪れた。二人はソファーの
少しごつごつしたスプリングの圧力を背中に感じながら、蒸し暑い部屋
の中で短い夜を過ごし、いつの間にか深い眠りに落ちた。

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2008年6月 8日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第六章(4)

 問題なのは、その領事以外にこの日本人売春を指示している人間が
いるかどうかであった。津田は漠然とだが、いると思っている。たまたま
個人ベースで杉本弘美のみが動いているのなら、なぜ杉本弘美を尾行
した津田が襲われる羽目になったのか。その犯人達の動機がないのだ。
もちろんイスタンブールが世界的な観光都市である以上、観光客や外人
の類を狙った犯罪も有り得るし、現実に外国人観光客を狙った睡眠薬強
盗などの事件も発生しているのは確かである。だがもしそうだったとして
も、あまりにもタイミングが良すぎた。
 川田良子殺害にしても、通常の押し入り強盗の犯罪なら、何らかの証
拠が残っているはずだった。推理小説に出て来るような完全犯罪めいた
ものは、この世の中には数少ない。そして綿密に計画されたものであっ
たとしても、証拠は必ず何らかの形で残る場合がほとんどである。
 だが川田良子殺害の場合、これまでの経過からして決め手となる証拠
は見つかっていない筈だった。もし見つかっていれば、いくらトルコの警
察が日本のそれに一歩譲るとしても、犯人が検挙されていて不思議で
はない。

 実際にこの数日間というもの、津田はイスタンブール中央警察に出向
き、あらかじめ英語で川田に書いてもらってあった、彼の代理人として
その後の捜査状況を教えてもらいに来たことの証明書を出して主張し、
必死にねばって川田良子殺害事件の捜査状況を聞き出そうとしていた
のだ。
 対応したハリム刑事の口ぶりから、犯人は未だに挙がっていないこと
だけは判っている。担当だったイイギュン警部はたまたま、津田がたず
ねていった期間はちょうどアンカラ出張中であったため、一度も会えて
はいなかったが、今さら、現地警察が全力をあげて捜査しているとは
とても思えなかった。すでに迷宮入り事件として、半ば放棄されている
状態に近いと言えた。
 それゆえに津田は、川田良子は間違いなく計画的犯行によって殺害
されたと考えている。彼女が過去にトルコ語が堪能に喋れるほど、長
期に渡ってトルコのどこかに、可能性としてはイスタンブールかアンカラ
あたりだろうが、長期滞在していたらしいことはほぼ間違いなかった。
日本に連絡を取って調べてもらった結果、川田良子は大学時代には
英文科専攻で、トルコ語には一切関与していない。そして在都の外国
語専門学校のトルコ語コースにも通っていた事実はなかった。いくら最
近そういう外国語の教材が多岐に渡って出ているとは言っても、自力
で完璧に喋れるまでに上達することはほぼ不可能と言っていい。もち
ろんある程度は独学で勉強していたのだろうが、最終的には実践を経
なければ、完全に自分のものにはならない。
 そうなってくると津田が引っ掛かるのは、川田の家で資料の山と格闘
していた時に偶然出て来た、川田良子の履歴書のコピーだった。通常
わざわざ自分の履歴書をコピーして置いておくというのは、たしかにいち
いち自分の履歴を空で覚えている人間は少ないだろうが、少し神経質
すぎるように思える。何か別の目的があった、とも考えられるのだ。

 そしてそれは、杉本弘美のこれからの場合と同じと考えれば、自分の
贋の履歴を忘れないようにするためだと推測されるのだ。もちろん津田
は、川田良子が川田の会社に入る前に三年間在籍していたと記入され
ていた会社名を伝え、裏を取ってもらうようにすでに依頼している。同時
に川田良子の両親も何か知っている筈だと思い、確認を急いでもらって
いる。津田自身も日本を出る前の慌ただしい合間をぬって、川田良子
の住民票を一応は当たってみてはいたのだが、彼女の住所は結婚す
るまで郷里のままで動かされていなかった。
 そして津田はひょっとして自分も含め皆、犯人が川田のアパートに入っ
た男であるとあまりにも固定観念を持ち過ぎていたのではないかと思い
始めた。もちろん彼女は強姦殺人にあっているので、最終的に男が犯人
であることには間違いないだろうが、計画的な犯行であれば少し様子が
違ってきても不思議ではない。
 つまり女の格好をしていれば、まず問題なく除外されるわけである。女
の格好と言っても、完全な女装は必要ではない。長目のコートに頭から
大判のスカーフでもかぶっていれば充分なのだ。イスラム教の国である
以上、ある程度の遠目から見てそれらしい格好をしていれば、まず疑わ
れないだろう。これは津田がイスタンブールに来てこそ、初めて知りえた
事だった。

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2008年6月 5日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第六章(3)

「今のことを始めるようになったのは」
「……それから三ヶ月くらい経った頃。彼がある日、真剣な顔で私に尋
ねるの。何処かに日本人の若い女性で、フランクに割り切ってくれる人
を知らないかって。最初は何のことだかわからなかった。事情を聞くと、
日本から自分が色々と世話になってる外務省高官がプライベートでイス
タンブールにやってくるという連絡が入ったけど、彼は女好きでそういう
若い日本人女性を紹介しろと言われたらしいの。でもそんな人、そうそ
う都合良く居るわけないじゃない?……私もかなり悩んだけど、結局
彼を助けてあげられるのに私に出来ることは、そのくらいしかないって
思ったから」
「それが始まり……になったわけか」
「そう……それからも結局、何度かそう言うことをしてきたわけ。たしか
に貴方が言ってくれたように、自分でしていることの善悪を判断する思
考力が麻痺してたのね。海外だから許されるわけでもないし、バレな
ければ何をしてもいいって法は無いものね」
 ベッドの上で天井を見つめている津田の胸元に、杉本弘美はその小
さめの手を這わせながらそう言った。
「貴方は売春組織があるって思ってるみたいだけど、そこまで大掛かり
なものは無いと思うな」
「そうかも知れん。だが、そう考えた方が辻褄が合うんだ」
「辻褄って?」
「不自然さがない、って言い直そうか。確かに弘美ちゃんはそう理解し
てるんだろうが、それが全て正しいとは限らんよ。全てのものが見え
てるわけじゃないし」
「それは、確かにそうだけど」
「今回のことにしても、何故彼があの、サカモトって名前で宿泊してた
平凡な男の世話をする必要があったんだ」
「……さあ。そこまで考えては見なかったけど、言われてみると、それ
ほど必然性は感じられないわね。たしかに普通の人だったし」
「何もわざわざ、弘美ちゃんをあてがう必要は無かったように俺には思
えるんだがね。彼はたかだか一日本企業の出張者だったと思うよ。彼
をアテンドするのは、こっちに駐在してる人間のすることの筈だ。なに
も領事が世話をやく必要はさらさら無い。違うか」
「私が完全に彼の持ち駒で、いいように使われてるって言いたいわけ」
「まあ、ね。気を悪くするかも知れないが、そう言うことになるんじゃない
のかい。個人的に色々な人間に恩を売っておきたいのなら、話は別か
もしれんが」
「変な世界に巻き込まれちゃったみたいね、私」
「多分ね」
「ねえ……こんなことを今さら私が言っても信じてくれないだろうけど、
私は貴方とこんな形で出会いたくなかったな」
「ん?」
「これまでの付き合いで直感的に判ったんだけど、貴方はとっても優し
い人ね」

 津田は内心、とりとめもない杉本弘美の話にまどろっこしさを感じては
いたが、敢えてそのまま彼女に喋らせておくことにした。彼女は心にた
まったものを吐き出したいが故に、津田に聞いて欲しくて喋っているの
であって、それを途中で止めさせるのは決して得策ではなかった。
「出会うのが遅すぎたのね、私たち」
 津田は彼女の性格を惚れっぽいと思った。根が優しく素直な性格であ
ることは、これまでの付き合いの中で充分に承知しているが、往々にし
て彼女のようなタイプは利用されるだけ利用される。人が良い、と言って
しまえばそれまでだが、世間一般では彼女はまだまだ子供すぎるのだ。
『彼女は塚本美雪ではなかったのか』
 そんなに都合良く物事が運んでくれる筈もないが、津田の中ではまだ
その疑惑は捨て切れずに残っていた。
「弘美ちゃん、悪いんだけどパスポート見せてもらえないかな」
「私が塚本美雪だってまだ疑ってるんでしょ、わかった、ちょっと待ってて。
今証拠を持ってくるから」
 そう言うと、彼女はつと立ち上がり、備え付けの洋服ダンスを開けると、
そこにあったスーツケースの幾重もの施錠を外し、中からパスポートを取
り出すと、津田に差し出した。たしかにそこには、杉本弘美と書かれたパ
スポートと彼女の写真が載っていた。
「これで私の疑いは晴れたかな」
「ああ。ありがとう……」
 パスポート偽造も津田の脳裏に浮かんだが、さすがにそこまで手の込ん
だ事をする必要もないだろうと思い直した。津田の思い込みだったようで、
どうやら塚本美雪と杉本弘美は別人らしかった。

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2008年6月 3日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第六章(2)

 杉本弘美は津田に、ぽつりぽつりとこれまでのことを語り始めていた。
「私、領事に……犯されたの」
「………」
「驚かないの?」
「普通の奴らなら飛び上がるくらいびっくりするんだろうが、残念ながら
俺は商売柄、これまで嫌と言うほどそんな事例を見てきたんでね。ひと
皮剥けば人間なんて皆、色と欲の塊さ。仮面と素顔の醜さを、存分に
教えられてきたからな」
「……そうなの。そう言う意味では、貴方も不幸なのね」
「かもね」
「忘れもしない、去年の九月二十四日だった。当時私は仕事を探してた
関係で、領事館によく出入りしてたわ。領事館の面々や領事とも面識は
あったの。以前から領事にそのうち気が向いたら家に遊びにおいで、っ
て誘われてたの。だから出向いて行ったわけ……仕事があったら回して
もらおうと思って、それをお願いしにね」
「………」
「まさかそんなことになるなんて、思いもしなかった。私は自分でも本当
に気が狂ったんじゃないかと思うぐらい、泣き続けてた……。あの人も
悪かったと謝ってくれたけど」
「それで?」
「私も興奮してて、強姦されたと言い触らしてやる、ってわめいてたわ。
あの人はもちろん、それだけは勘弁してくれ、自分に出来ることだったら
何でもしてあげるから、って言ったの。長い間単身でここに居たから、き
っと魔がさしたんだろうなって思った」
「……人がいいんだな」
「かもね。その時はそれっきりだったし、あの人から連絡も来なかったし、
私の方から連絡もしなかった。そしてそれからしばらく経ったある日、突
然あの男がやって来たの」
「あの男?」
「名前は知らない。やさしそうな感じだったんだけど目つきの鋭い、割と
大柄な日本人の男だった。彼はにこやかな顔で、領事館から聞いてや
って来たんだけど、通訳の仕事をお願いできないでしょうか、って言って
ね。てっきり私は、あの人が仕事を早速私に回してくれたんだと思って
喜んだ」
「ってことは、違ったわけか」
「うん。時間がないから詳細の打ち合わせをすぐにでもしたいって言った
から、部屋に入れてあげたの。そうしたら入るなりいきなり銃を出して、
強盗に早変わりしたの」
「……」
「そして有り金を出せって言われて、怖くって私はその時持ってたお金を
全部出したわ。そしたら、何だこれっぽっちかって言って、不意に私に襲
いかかって来たの」
「……それで?」
「服を破られて首も締められて、いくら叫ぼうとしても声も出せなかった。
殺されるって思って諦めて、されるがままになってた。でも運良く、ちょう
どそこにあの人がやって来たの」
「えらくタイミングがいいんだな」  
「そう言われれば、そうかもね。あの人は部屋に入って来ると、一瞬びっ
くりしたように立ちすくんだけど、すぐにその男に向かって行ったの。俺の
女に何をするんだ、って叫びながらね。その男は下半身を丸出しの格好
だったから、不意を食らったって感じね。結局ほうほうのていで逃げて行
ったけど」
「で、彼を見直したってわけだ」
「そう。それで、彼の全てが許せた。彼は私にあの日のことをきちんと謝
りたくて、休みを取ってわざわざやって来たみたいだったの。それ以来、
私が夕方から彼の家に行く日が続いて、二人の半同棲生活が続いた。
思い返せば、その頃が一番幸せだったのかも」

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2008年6月 1日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第六章(1)

「まったく!役に立たない奴らだ」
 巽良介は思わず日本語で、その数人のトルコ人を怒鳴り付けた。
「仕方ないか、相手が相手だからな。所詮はお前らが束になってかかっ
てみたところで、歯が立つような相手じゃないからな。格が違い過ぎるん
だ。俺もどうかしてたよ、まったく」
「ちょっとまずいことになって来たみたいじゃないか。大丈夫なのかね」
 巽良介の隣で、一人の男が眉をひそめながら呟くように言った。
「心配は要りません。最後は私が決着を付けますよ」
「まぁ、それなら安心だが……。で、彼らはどうするんだ」
 目の前でしょぼくれている男達を横目で見ながら、男は尋ねた。右手
首に金のブレスレットが光っている。それを玩びながら、男は巽良介の
返事を待っていた。彼らから少し離れた所に、黒い革のジャケットに身
を包んだ長い髪の女が一人、手持ち無沙汰に髪を指先で玩びながら
ソファーに身を沈めながら、そんな二人のやり取りを冷ややかに見つめ
ている。
「……当分は今まで通りでいいでしょう。奴は折りを見て、私が誘い出し
て始末します」
「その役は私にやらせてよ!」
 突然その女は、巽良介に鋭い眼差しを向けながら、きっぱりとそう言
った。
「ふん……。マユミ、お前に奴が始末できるのか」
「父さんの仇だ、私がやる。誰にも邪魔はさせないからね」
「ほう……何か複雑な背景があるみたいだねえ」
 男はその場にいたトルコ人達に、流暢なトルコ語で指示を与え彼らを
退室させた後、銀ぶち眼鏡の奥の細い目をさらに細くしてニヤニヤしな
がら、面白そうに二人を交互に眺めていた。
「勝手なことをして、二度も失敗してるくせに、偉そうな口を叩くな」
「あれは……たまたま運が悪かっただけさ。奴は全然こっちに気付いて
なかった」
「運も力量のうちだぞ」
「今度は絶対に、失敗なんかしないさ」
「わかるもんか。お前はまだ奴の恐ろしさを知らんから、そんなことが平
気で言えるんだ」
「まあまあ、そうもめないで。仲間同志で喧嘩しても始まらんだろう」
 銀ぶち眼鏡の男が、笑いながら二人の間に割って入った。
「このお嬢さんが是非とも奴を始末したいって言ってるんだから、どうか
ね、希望をかなえてあげては」
「だがマユミには、最後を締めくくるもっと大事な仕事が残ってるんですよ」
「それはこのあと日本へ行ってからの話だ。ウォーミングアップにはちょう
どいいだろう」
「……わかりました。そう言われるのであれば、止むを得ません。ところで、
あの女の方は?このまま放って置くのもまずいと思いますが」
「大丈夫だ、心配はいらん。それについては私に任せておいてくれないか」
「そうですか……わかりました」
 巽良介は内心はかなり歯痒かったのだが、しぶしぶ承知した。自分とて
その男のお陰でここに居られる以上、さほど彼を無視したことも出来ない
のだ。そのせいで巽良介はこれまでイスタンブールに居る間、色々と面倒
を処理する羽目になっていた。だがそれもあと少しの辛抱であった。それ
が気持ちの中にあったからこそ、彼は不本意ながらしぶしぶ引き下がった
のだ。その男に従うように命令されて来ているとは言え、そうでもなければ
ブラックローズ部隊で「傭兵ゼブラ」の異名を持つ巽良介が自制する筈もな
かった。
『よりにもよって、ロビンが出て来るとは……』
 巽良介は今さらながらに、二人の間の因縁めいたものを感じていた。

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2008年5月31日 (土)

作者の簡単レビュー 【その23】

 本作RobbinⅡのサブタイトルは当時、「イスタンブールの夢に…」とし
ていました。しかし内容的に、イスタンブール編と日本編に分かれてい
ることと、前作のラストでマイクホフマン長官がつぶやいた「レイン計画」
が本作の中心である事から、WEB掲載するにあたって今のサブタイトル
に変更しました。
 次回からの第六章のサブタイトルは「ゼブラ再び」です。イスタンブール
編もついに佳境をむかえます。

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2008年5月29日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第五章(11)

 唇を噛みしめたまま、彼女は膝の上でギュッと握ったこぶしを震わせ
ていた。うつ向き加減の彼女の瞳から、大粒の涙が幾筋もこぼれ落ち
て行く。泣き出すのを必死にこらえていたが、やがて両手で顔を覆いな
がら彼女はついに泣き崩れた。
 津田は黙って煙草を吸い続けていた。あまりにもその姿は寂しげで哀
れだったが、彼女は同情を求めていなかったのだ。やがて彼女は手で
涙を拭いながら、津田にしゃくりあげながら言った。
「私を、どうするつもりなの」
「別に。俺は別に君がここで何をしていようと、そのことを一切問題にす
るつもりはない。それは誤解しないでくれ。こうなるまでには色々事情
もあっただろうし、それを詮索するほど俺は物好きじゃないし、そのため
にここにやって来たわけじゃないからね。俺が知りたいのは、川田良子
の一件に関係のあることだけだ。それについて君の知ってることを、全
部俺に教えてくれないか。
 それに、俺を襲った奴らのことも、少しは知っておかないとこっちも困
る。奴らが俺のことをそうそう簡単に諦めてくれたとは思えない。これか
らも狙ってくる可能性が大きいし、それに今度は多分ただじゃ済まない
だろうからね」
 しきりと鼻をすすっている彼女に津田は、Gパンのポケットからハンカ
チとティッシュを取り出すとそっと差し出した。彼女は受け取る時に少し
頷いただけだったが、いつもの冷静な顔付きが少しづつ戻って来たよう
に見えたので、津田は少し安心した。
「何処か、外でお話ししませんか」
 杉本弘美は控え目に言った。津田はじっと彼女の目を見詰めながら、
押し殺した声で言った。
「わかった。でも、他意はないんだろうね」
「外へ誘き出して、後は待ち伏せしてるお兄さん方と交代、って思った
んでしょう」
「思わない方がどうかしてる」
「信じてくれて無いんですね、私の言うこと」
「信じて無いんじゃない。用心深いだけさ」
「嘘!こんなことしてる女の言うことは信じられない、って正直に言って
よ」
「誰もそんなこと、思ってやしないよ」
「そう?信じられないな」
「弘美ちゃん、いい加減にしろよ。俺に開き直ったって仕方ないだろうが。
それに、君にはそういうのは似合わないよ。変に悪ぶらない方が、ずっと
君らしいと思うけどな」
 彼女は再びしばらくの間、無口になった。
「私を軽蔑しないの」
「ふ、そんなに軽蔑して欲しいのか」
「今までの男は、みんなそうだったから」
「………」
「みんな、そう。私の体を欲しがって近付いて来ただけで、玩具にされて
利用されて、挙げ句の果てに捨てられ続けてきたもの。ここでは人を信じ
ちゃいけない、ってわかったの……でも気付くのが遅すぎたけどね」
 哀しそうな笑いを浮かべ、杉本弘美はそう呟くように言った。
「今も、利用されてるの。わかってるわ、でもね、日本へ近いうちに帰った
時に、生きてくために就職口を探さなきゃいけないでしょう。その時のこと
を交換条件で、割り切ってるんだ」
「日本での就職口を、世話してもらえるってわけか」
「そう。ここに居た期間を、何処かの会社に勤めてた、ってことにして胡麻
化してもらうの。もちろん就職する予定の会社にも、そのことは秘密にして
もらうように圧力をかけてもらうわけだけど。平凡な何のコネも持たない一
人の人間が、普通の人と違うコースを歩んでしまった以上、無駄な時間を
費やさずに元の日本人社会に戻るにはそれしかないもの。
 日本人ってそういうところは結構閉鎖的でしょう?自分の常識と違うこと
を受け入れるのに抵抗があるし、その他大勢の中の一人で居たいという
保守的っていうのか、個性がないっていうのか。要は根が暗いのよ。でも
どうのこうの言ってみたところで、私もその日本人の一人なんだけどね。
たしかに我儘な考え方なんだろうけど、最終的には平凡な結婚生活にた
どり着きたいの」

 やはりこの娘も平凡な女性の一人なんだな、と津田は思った。女子転職
者に多い履歴詐欺の一種であるとも言える。津田達が中途採用調査をす
るにしても、以前の会社の人事課長あたりに話を聞くことが多いわけだか
ら、たしかにその辺まで押さえられていれば、滅多なことでは足は出ない。
絶対にばれない保証のある粉飾された履歴で自分を綺麗に見せ、新しい
会社で一からやり直すことが出来るなら、誰しもそれを望むだろう。自分の
過去を消し去れたような錯覚に一時的に酔いしれるだけの話なのだが、事
実はそれほど単純な人間ばかりではなく、意外と転職詐欺は多い。
「そういう先例があるわけか」
「それは私には判りません。今のその人が、過去にそんなことをしてたとは
思えないし。個人的な関係で、本意じゃないけど彼のために協力してあげ
てるだけだから」
「多分、そう言うだろうと思ってた。じゃ聞くが、今の彼と結婚でもするのか。
どういういきさつで個人的な関係が出来たのかは知らんが。それとも今の
自分のやってることを隠せるなら、それと引き換えにどんなことをしてもいい
とでも言うのか。たしかに我儘な論理だな」
「………」
「弘美ちゃん、君の論理はね、善意の第三者を装う共犯者のそれと同じな
んだよ」
「そんな。共犯者だなんて」
「だって、そうじゃないのか。ここではどうか知らんが、日本では立派な犯罪
だよ。君は自分のしてることが一体どういうことなのか、わかって無いんじゃ
ないのか。君はもっと分別のある女性だと思ってたんだが、どうやら俺の見
込違いだったみたいだな」
 津田はそう言うと、煙草を荒々しく灰皿でもみ消し、やおら立ち上がった。
「何処へ行くの」
「決まってるだろ、帰るのさ」
「私は?」
 不安そうな顔付きで、杉本弘美が尋ねる。
「知らん。勝手にすればいいだろう。俺は我儘な女に付き合ってられるほど
暇じゃない」
 そう言うと津田は、スニーカーを履きながら玄関の方に向かった。同時に
背後から、杉本弘美が凄い勢いで、津田の背中にしがみついてきた。
「お願い、帰らないで。私をこのまま一人にしないで!」
 長い髪を振り乱して、泣きながら杉本弘美はそう言った。
「俺に慰めて欲しいんだったら、お門違いだな。その彼氏とやらに抱いても
らえばいい」
「そんな……」
 なおも杉本弘美は、津田の前に回りこむと服をきつくつかんで、哀願する
ように言った。
「お願い、ここに居て。……お願い」
 そう言うと彼女は、その場に泣き崩れた。津田はじっと冷ややかな眼差し
でそれをしばらく見詰めていたが、やがて彼女の涙で濡れた顔を右手でそ
っと上げながら言った。
「ふ、本当に我儘なお嬢さんだな。ん?」
 その言葉に、杉本弘美は堰を切ったように大声で泣き出しながら、津田に
抱きついて来た。

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2008年5月27日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第五章(10)

 緊張した顔の津田が杉本弘美のアパートを夜九時過ぎに突然訪問し
たのは、その翌々日だった。彼女はちょうどシャワーを浴びて、出てきた
ところだった。
「びっくりしたァ。一体誰かと思っちゃった」
 杉本弘美はバスタオルで髪を拭きながら、その時の精神状態にして
は精一杯の笑顔で、津田を迎え入れた。津田はちょっと唇の端に笑み
を浮かべただけで、何も言わずに勝手に杉本弘美の部屋に入り、テー
ブルの一方に腰を下ろした。
「どうしたんですか、津田さん。そんな難しい顔をして、何か判ったの」
「ごめん、冷えたビールがあったらもらえるかな」
 津田は杉本弘美の問いには答えずに、そう短く言っただけだった。
「はい」
 彼女は素直に津田の言葉に従った。しばらくの間、津田の溜息と互
いのビールを飲む音だけがその部屋の中で聞こえていた。杉本弘美
はじっと黙ったままで、津田が喋り出すまで、彼の正面に座って言葉
を待っていた。ややあって、津田が重い口を開いた。
「弘美ちゃん。一つ聞いていいかな」
「……どうぞ」
「君は初めて会った時、どうして俺が悩んでると思ったんだ」
「え?どうしてそんなこと、今ごろ聞くんですか」
「何か意図があって、俺に近付いて来たんじゃないのか」
「まさか。でもどうして、そんな風に考えるんですか」
「今の組織から逃げ出したい、と考えてるんじゃないかと思ってさ」
「何のことですか、組織って」
「一年前に川田さんに救いを求めたようにね」
「津田さん、何か勘違いされてませんか。私には一体何のことか、さっ
ぱり判りませんけど」
「そうかな。だといいんだが」
「………」
「しかし今の組織には困ったもんだな。いきなり俺まで消そうとするか
らね」
「え?」
 杉本弘美はびっくりしたような顔付きで津田を見た。そう言われて彼
女が津田の格好を良く見てみると、あちこち服は汚れた跡があり、腕
には擦り傷から微かに血が滲んでおり、シャツの胸元には赤い小さな
斑点がポツポツと付いている。
「津田さん、それは血?誰かに襲われたんですか」
「ああ、ちょっと色々あってね」
 津田の脳裏に、先ほどの連中との格闘がよぎる。ナイフを振り回して
くるチンピラ程度だからよかったものの、もう少し腕に覚えがある連中に
拳銃でも持たれていたら、今頃はあの世行きだったかもしれない。
「それで、私が誰かに津田さんのことを教えたと」
「その表現はちょっと違うと思うんだが」
「津田さんにしては、回りくどい言い方ですね。はっきりおっしゃってくだ
さい」
「つまり、君が俺のことを知らせたんだろ」
「私が?どうして」
「これ以上俺に嗅ぎ回られると、組織のことを感付くと思ったからだ」
「また……組織って、一体何のことですか」
「とぼけるのもいい加減にしたらどうだい、弘美ちゃん。俺が知らないと
でも思ってるのか。甘く見てもらっちゃ困るな、俺の職業を忘れたのか」
「貴方が何を知ってるというの。変な言いがかりはよして欲しいわ」
「君は知ってるんだろ。『雨』が何を意味してるのかを」
「判らないなあ。どうしてそこに話が飛ぶの」
「この前のヒルトンホテルの六一四号室のこと、知ってるんだよ」
「!!……」
 しばらくの沈黙があった。ややあって杉本弘美は、真っ青な顔で津田
をじっと睨みながら言った。
「私の後を、付けたのね」
「……そういうことになるね」
「最低だわ、そうやって色々嗅ぎ回るのね。探偵って最低の人種」
 彼女はそう吐き捨てるように、短く言った。津田が無言でいると、
「帰って」
 杉本弘美は血の気の引いた顔で、津田がこれまで見たこともない激
しい形相で突然叫んだ。
「帰って!!」

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2008年5月25日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第五章(9)

 六階のフロアに降り立った津田は、目の前の壁に示されている部屋
番号を見ながら、六一四号室のある方向にゆっくりと歩いた。ホテルに
よっては各階に警備員のような人間が居て目を光らせていることがあ
り、津田も実を言えばそれを少々心配していたのだが、少なくともその
フロアにはその類の人間は居ないようだった。ほとんど音もなく津田は
ゆっくりと廊下の中央の赤い絨毯の上を歩いて行った。六一四号室を
わざと通り過ぎ、いったん一番端まで来ると、また戻り始めた。
 誰もそのフロアにいないことを確認して、津田はそっと六一四号室の
前で止まった。ふとドアの下を見て、彼は思わず目を見張った。白いバ
スタオルらしき物がドアと床の隙間を埋めるように置かれ、少し廊下側
にはみ出ているのが見えたのだ。部屋の中の音が少しでも外部に漏
れることを嫌って、そうしている以外には考えられなかった。通常はそ
こまで防音に気が回る人間は少ない筈だし、それを知っている人間が
ここにいることが、津田には意外だった。
 津田は誰か通りかからないかどうかを注意しながら、少しドアに耳を
近付けた。やがて時折、明らかにあの最中の女の呻き声とわかる音
が、津田のそばだてた耳元にドア越しに微かに聞こえて来た。津田は
何事もなかったかのように再びドアから遠ざかると、ゆっくりと歩き出し
た。エレベーターで一階のロビーまで戻ると、彼はそのすぐ斜め前にあ
るラウンジに入り、エレベーターが二基とも見える入り口から少し離れ
た場所に座ると、コーヒーを注文した。

 日本で津田が最近嫌というほど経験している定石通り、それから一
時間少し経った頃、杉本弘美が独りでエレベーターから姿を現わした。
彼女はややうつ向き加減で、ゆっくりした足取りで正面玄関の方に歩い
て行く。津田の推測に間違いは無いようだった。
『相手が特定の彼氏なら、一緒に姿を現わすはず、か』
 津田は見てはいけない彼女の一面を見てしまったことを少し後悔した。
そして彼女がどうやってここで生活資金をまかなっているのかも察しが
付いた。
『待てよ……彼女のところに電話してきたのは、一体誰なんだ』
 一瞬、突拍子もない想像が頭をよぎり、同時に川田良子のことや塚本
美雪のことが浮かんで来た。
『まさか、雨のことを伝えに来た塚本美雪って女は……』
 杉本弘美というのが本当に彼女の本名なのかどうかを、津田は疑い
始めた。彼女がそう名乗って、津田がそう呼んでいるだけで、別に彼
女のパスポートを見せてもらったわけではないのだ。津田にわざわざ
偽名を名乗る必要はないかも知れないが、本名を名乗る必要もない。
『その前に、お相手と面通しさせてもらっとこうか』
 急いで津田は六階まで上がると、部屋を間違ったふりをしてドアをノ
ックし、開いたドア越しに杉本弘美の相手をした男の顔を間近で確認
した。下手に警戒されるようであれば、シェラトンとヒルトンを間違った
とでも言い訳するつもりだったし、最悪の場合は武力行使もやむを得
ないと覚悟していた。だが幸いその心配は不要だった。相手の男の
顔を確認した後、津田は数日間、出来る範囲でその男を尾行し、身
許を確認しようと決心した。
 単なる行きずりの人間であったにしても、何故彼女のことをサカモト
なるその男が知っていたのか、または直接知らずに偶然彼女が彼に
割り振られたとすれば、どういうルートでそうなったのか。津田の考え
過ぎでなければ、そのあたりから川田良子殺害事件の糸口が見えて
くる筈である。もっとも、これはかなり大胆な仮説に基づいているわけ
だが。

 男の年格好が五十過ぎの小太りで頭がかなり薄めの男だったこと
から考えて、イスタンブールへのこのこと観光に来ているわけではな
さそうに思えた津田だったが、予想通りサカモト氏は翌朝、メジデイキ
ョイにある日系企業に出掛けて行った。そこに駐在していると思しき
日本人達と数人で、昼頃一緒に出掛けているところから、恐らく日本
から短期間の出張で来ているように思えた。だが確証はない。それに
今の状況だと言葉