2009年6月13日 (土)

Robbin - コドモノチカラ - (2)

 次に目を覚ました時、彼は見知らぬ部屋のベッドの中だった。いつ
どうやって、ここに運ばれたのかもわからない。全身の痛みは気にな
らないくらいにおさまっていた。顔面も少しまだ引きつれていて、全体
的にむくんだ感じはあるが、我慢できないほどではない。
 空腹感を抑えながら、彼はゆっくりとベッドから抜け出し、おそるお
そる部屋のドアを開けた。通路が左右に伸びていた。右手には分厚
いドアがあり、そこが玄関らしかった。ドアチェーンがかかっているの
で、誰かが不意に入って来る恐れはないものの、自分でかけた覚え
はなかった。
 ドアを出て、分厚いカーペットを足裏に感じながら、左の明るい方に
歩いて行く。マンションのリビングと思しき部屋が見えてきた。足を踏
み入れるとそこは、これまで見たこともない別天地だった。二十畳ほ
どはあろうかという、開放感のある空間に黒革のソファーとガラステー
ブル、その前には大型のテレビが壁際に備え付けられている。ガラス
張りの外のまぶしい景色は、テレビのドラマでしか見たことのない、見
下ろした都会の景色が広がっていた。
『ここは、どこなんだ』
 そう思った男の視界の端に、何かが動く気配があった。
「やっと目が覚めたみたいね」

 女の声がした。ビックリして声のした左の方を向くと、そこには気の強
そうな、眼鏡をかけた女の姿があった。ショートカットの栗色の髪に、赤
いルージュ、どこかで見た覚えがある気がするのだが、思い出せない。
彼女は吸っていたタバコをダイニングテーブルの上のガラス製の灰皿で
もみ消すと、つと立ちあがった。すらっとしたかなりの長身で、なかなか
のプロポーションなのが服の上からも見て取れた。
「これからのあなたの名前は、高木壮一郎」
「たかぎ…そういちろう」
「そう」
 女は、何枚かの紙を大型テレビの前のガラステーブルの上に置くと、
自分の横に座るように促した。
「この筆跡、完璧に真似られるようにしてちょうだい。それが、あなたが生
きていくための絶対条件」
 言われて手元の紙に目を落とすと、少し個性的な文字が並んでいた。
「それと、自分のプロフィールの暗記ね。この写真と一緒に」
 男はソファーに腰掛け、きょろきょろとあたりを見回した。これまでの生
活とは全く違う、その調度品の豪華さに圧倒されてしまう。
「まず、このビデオを見てちょうだい。内容を徹底的に頭に叩き込んで、
丸暗記して。あとでテストするから」
 女はビデオテープを彼に渡した。大型テレビの下にビデオデッキがあっ
たので、彼は無造作にテープを挿入した。テレビの電源が連動して自動
的に入り、テープの再生が始まった。それは二十分ほどの、ある大企業
の公告ビデオだった。記憶力には自信があったが、最後に登場した会長
の姿を見て、唖然とした。それは少し前に見たことがある顔だったのだ。

「テストは百点満点でないとダメよ。百点を取れなければ」
「…百点を取れなければ」
「あなたの人生はここで終わる」
「え…」
 女は少し顔を上げ、彼の背後に目をやった。つられて振り返ると、そこ
にはいつの間にか、テレビドラマにでも登場しそうな、黒サングラスに黒
い背広の男が無表情で立っていた。
「彼に勝てるなんて思わない方が身のため。だから必死でやることね。
それと」
「…」
「私は高木壮一郎本人の秘書であり、愛人でもあるの。だから必要な時
には、あなたの行動や一挙一動を監視して報告する。今後は一緒に行
動する時があるけど誤解しないでね、私はあなたの女じゃないから。名
前は美咲」
「美咲…」
「それと当面は、ここから絶対出ないように。食事は私が作るから、テスト
に合格さえすればあとは自由にしていいわ。何か用事があるときは、彼
に言えばやってくれる」
 彼女は、その黒づくめの男の方を顎で指しながら言った。
「察しはついてると思うけど、彼はボディガード。いつもいるわけじゃないけ
ど、あなたも彼のことを覚えていないとダメ」
「…金子健司だ」
 そう短く、その男はつぶやくように言った。

「ところで、英語はしゃべれる?」
 不意に美咲が、思い出したかのように尋ねてきた。
「え、英語ですか。中学高校では習いましたけど、その程度で」
「まったく喋れないわけじゃないでしょ、どの程度出来るの」
「いえ、本当にまったくダメです」
 美咲は大きくため息をくと、じっと男を正面から見つめながら言った。
「じゃあそちらの方も、準備するわ。堪能に喋れるようになってもらわない
とね」
「え、そんなぁ。そんなこと聞いてませんよ」
「おだまりなさい!」
 美咲の表情が変わった。
「甘えるんじゃないわよ。何様のつもり」
「…」
「高木壮一郎を演じられないのなら、あなた、用無しよ」
 その言葉に呼応するかのように、黙って背後に立っていた金子が、無
言で数歩近づいて来たのがわかった。理由もなく、背筋が凍りつきそう
な感覚が湧いた。
「あなたの代わりなんて幾らでもいる。この場にいられる幸運を台無しに
したくないのなら、死に物狂いでやることね。そうしたら…」
「そうしたら」
「そうね、ちょっとはいい目を見られるかもよ」
 美咲は意味ありげな笑いを浮かべて、男を正面からじっと見ていた。

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2009年5月 3日 (日)

作者の簡単レビュー 【その33】

 「声」は、数年前に母を亡くした時に、夢の中で母からの電話を受けて
目が覚めた経験をもとに書き下ろしたものです。今も年に一度帰省する
たび、その母が亡くなった病院の近くを通るので、複雑な気分です。

 「バロンの夢」は、人の夢を食べてその人格に一時的になる奇妙な動
物を擬人的に描いた物語です。本当はもう少し色々な話が続くのですが、
今回は最初の二つのエピソードでとどめました。

 「あおいとり」は、実際に西国分寺にあった幼稚園の話です。物語として
はもっと長く出来ますが、今回の掲載にあたっては、あえて最後の卒園式
にしぼった話にしました。
 実際に私の息子がこの最後の卒園者でもあったので、父兄としてこの場
に同席していました。今では当時の記憶が定かではありませんので、内
容はほとんどフィクションですが、年少保育者の家庭に園から手紙が届い
たくだりは事実です。
 記念にもらった果肉植物は、今も我が家で生き続けています。社会人に
なった息子が未だに思い出して言うぐらいなので、子供たちにとっては本
当に素晴らしい場所だったのでしょう。

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2009年4月18日 (土)

あおいとり

「それでは、名前を呼ばれた人は、前に出てください」
 やさしげな声で呼ばれた園児たちの、「はーい」というハキハキした
まだ幼い声が教室に響き、小さな木製の椅子にすわった小さな頭が
動く。後ろの壁際には、立ったままそれをじっと笑顔で見守る父親や
母親たちの姿がある。皆いつもと変わらぬ顔だった。
 ここは、あおいとり幼稚園。子供たちにのびのびと自由な時間を与
えてあげたいという趣旨で設立された私立幼稚園である。決して進
学校への入学準備のための習い事を強要させるところではなく、園
児が笑顔で毎日を自由に遊びながら過ごせる場所だった。
 誰もそのことには触れようとせず、平穏のうちに式次第は進んでい
た。これが最後の卒園式、そう、ここには来年が来ないのだ。

 幼稚園が今期いっぱいで閉園になるらしい、というその噂が出始め
たのは、昨年の夏休みの最中だった。年少保育の家あてに、来年の
幼稚園を探してくれるようにという、園側からの要請文書が届いたの
だ。もちろんそれに関わる入園料や手続き費用は、一家族につき五
万円ずつ園が支払うという。それは保護者たちの間を、大きな衝撃と
ともに、またたく間に広がっていった。
 理由は、事業を起こすための借金のカタに、幼稚園を含む土地すべ
てが抵当に入れられ、結局その借金の返済が出来なくなって差し押
さえられたという、ありきたりと言ってしまえばそれまでのことだった。
それで初めて皆に、切羽つまった園の状況がわかったらしい。
 それでも、園を何とか続けてもらえないか、という嘆願が後を絶たなか
った。だがいかんせん、事態はどうしようもないところまで来ていたのだ。
そして、その願いは決して届かないことが皆にわかった。何人かが借金
の肩代わりを考えたが、それが出来るようななまやさしい額ではなかっ
たこともある。
 誰も文句を言わなかった。不服を申し立てるものは、いなかった。だが、
それは決してあきらめではない。園のことをおもんばかった皆が、思いや
ったのだ。

「あんなこと、こんなこと、あったよね…」
 園児が歌に乗せて、一年間の色々な思い出を振り返る。式次第は、こ
れが最後だった。父兄の中には、つい目頭を押さえる者も出ていた。小
学校にあがることに希望と期待を膨らませる園児たちのくったくのない笑
顔が逆に、廃園のことを知らないことの悲しさと切なさを、父兄たちの心に
湧きあがらせていく。
「それでは最後に、園長先生から、皆さんにお話があります」
 その言葉にうながされるように、静かに園長先生が壇に上がった。園長
先生は、白髪のおじいちゃんだった。いつもと変わらぬそのやさしげな表情
で、皆に語りかけるように話し始めた。
「みなさん、卒園おめでとう。この春から、あなたたちは小学校に行きます。
そこでは新しいお友達が皆を待っているでしょう。どうかこれからも仲良く元
気でいてくださいね」
 そこで言葉を区切ると、園長先生は少し姿勢を正し、園児たちの背後で壁
際に立っている父兄の方に視線を移した。
「…ご父兄のみなさま、本日はお忙しいところ、あおいとり幼稚園の卒園式
にご出席いただき、ありがとうございました」
 そう言うと、園長先生は少しおじぎをした。父兄もおじぎを返す。
「すでにご存じと思いますが、この園での卒園式はこれが最後になります。
こうして目を閉じれば、子供たちのはしゃぐ声が今にも聞こえてきそうな気が
します。あどけなさの残る、かざらない笑顔。そんなみんなの笑顔や姿しか、
ここでは思い出せません。残念な結果となり誠に遺憾ですが、あおいとりは
廃園となります。しかし、ここでのその思い出がある限り、皆がやさしい気持
ちを失うことはありません。どうかこれからもお元気で、お子様たちをあたたか
く見守ってあげてください」
 笑顔でそう結ぶ言葉に、父兄の間から、一斉に力強い拍手がわいた。そし
てそれは、しばらく続いていた。今にも泣き出しそうな気持ちを抑え、誰の目
にも涙が潤む。だが晴れの卒園式に涙は似合わない、その気持ちが伝わっ
ていた。かけられる言葉はない、ただただ感謝の気持ちで、拍手が贈られて
いた。

 卒園式が終わった後、園児には記念に、鉢植えの多肉植物が一つずつ、担
任の先生から手渡された。小さくて地味ではあるが、丈夫でずっと長く園児た
ちのそばにいられるものをと、園長先生が考えたものだった。園児たちはいつ
もと変わらぬ様子で、早くこの窮屈な儀式を終えて遊びたい気持がはやり、さ
かんに横にいる親にもう帰っていいんでしょうと聞き始める。やがて一人、また
一人と、帰路につき始めた。
「はい、さようなら」
 園長先生は、園の出入り門の横で、園児やその父兄に声をかけ、いつまでも
笑顔でゆっくりと手を振り続けていた。そしてその後ろでは、それを微笑みなが
ら見つめる、おばあちゃんの姿があった。園長先生の奥さんだった。この園を創
立する時に、二人で一緒に築いてきた思い出が、ふとよみがえり、熱いものが
こみ上げる。
 ここはいつも、人の心があたたかさであふれていた。せちがらい世の中だが、
こんな世界もたしかに存在するのだ。そしてわずかな期間ではあったが、その
世界の一人としていられたことが、そして最後の卒園式に立ち会えたことが、
誇りに思えた。

 夕方、担任の先生たちも先に帰し、人気(ひとけ)のなくなった園で、教室にひ
とつひとつ鍵をかけて回る園長先生の姿があった。それも終わって、部屋に戻っ
てくると、あたたかな笑顔で奥さんが迎えた。
「お疲れさま、熱いお茶をいれましたよ」
 そう言って差し出した茶碗を、園長先生はうれしそうに「ありがとう」と言いなが
ら、受け取った。
『まあまあ、園児たちと同じ笑顔ね…』
 二人は黙って、お茶をすすった。静かな時が流れてゆく。柱時計のコチコチとい
う音が大きく聞こえる。荷物の整理やらでまだ何日か通わなくてはいけないが、
園の仕事としてはこれで終わりだった。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか」
「はい。いい卒園式でしたね」
「そうだね。みんなの笑顔が見られて、よかったよ」
 最後に門に鍵をかけ、園長先生が振り返ると、奥さんは小さな包みを渡した。
「長い間、おつかれさまでした」
 その包みの中には、三人の唯一の写真が収まった写真立てが入っていた。い
つも机の上に置いてあったせいか、色褪せているが、その思い出だけは決して
忘れてはいけないものだった。そしてそれが、二人が幼稚園を始めようと決める
きっかけになった。
 そこには、まだ若い二人の間で微笑んでいる、幼稚園の制服を着た幼い男の
子がいた。その写真を撮った翌日、家の前でボールを追って車道に出たところを、
車にはねられてあの世に召されていったのだ。あまりにもあっけない死を受け入
れることが出来ず、しばらく二人は茫然自失の状態だったが、やがて失くしてしま
った幼い笑顔を毎日でも見ていたいと願うようになった。そうしていれば、いつも我
が子と一緒にいられる錯覚で、心が慰められたからだ。
 幼稚園の名前、それは息子が一番好きだった童話のタイトルから取られた。い
つも一番近くにいるのに気付かない、幸せという名の青い鳥。だが二人の青い鳥
は、今はもう飛び立ってしまった。
「今日があの子の卒園式なのかもしれませんね」
「そうだね」
 二人の心の中で止まっていた時間が今、ゆっくりと流れ始めた。連れ立って帰
る二人は、その真ん中を少し開けた。そこには息子があの時の姿のままで、二
人を交互に見上げ、うれしそうに手をつないで一緒に歩いている気がした。

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2009年3月11日 (水)

バロンの夢 (4)

 そこまでは何となくだが、覚えていた。だがその先の記憶が何も
なかった。それ以前の記憶もだ。なぜか今、この瞬間の記憶しか
ない。私はいったい何者で、何のためにここにいるのか。家族は
あるのか、仕事は何をしていたのかすらも全く思い出せない。さら
には目の前の二人の兵士が話している言葉も、私には理解出来
ないものだった。
 異世界にでも迷い込んでしまったのだろうか。どちらかといえば
空腹感はあるが、それとは別の何か、むらむらとした抑えきれな
い衝動が、心の中で疼いている。大声を出して叫び出したい気分
だ。ふと、手を見る。
『何てことだ…』
 あの毛むくじゃらの手が、また目の前にある。また化け物の姿に
なってしまっている。
『悪夢なら、早く醒めてくれ』
 私は祈りにも似た気持ちで、じっと檻の外の兵士を見つめていた。
フラッシュバックしていた牢屋の光景が、今、現実に目の前に存在
している。目の前の二人の兵士は、私を冷ややかに見つめながら、
何か会話をしている。
 ふと足もとを見ると、タバコの箱とライターがあった。私は気を落ち
着けようと、その箱をあけた。太い茶色の葉巻がある。その甘い香
りをかぐと、少し落ち着きを取り戻せた。今はジタバタしても始まら
ない。そう思った私は、ライターで葉巻に火を点けた。大きく息を吸
い込みながら、ゆっくりと煙を吐き出す。今は冷静になろう、そう考
えていた。
 やがて兵士が去るのと入れ違いに、白衣を着た赤いセルロイドの
眼鏡をかけた髪の長い女が、何事かを小声で言いながら、檻に近
付いてきた。彼女には、見覚えがあった。
『そうだ、思い出した。彼女が私をここから解放してくれるのだ』
 彼女こそが、私の唯一の理解者であり、協力者でもあるのだ。
「ああ、これでやっと解放される…」
 私は笑顔で、彼女に近づいて行った。

           * * * * *

「こいつ、自分が人間だとばかり思いこんでるのさ。たしかにある
程度は、こっちの言うことも理解出来てる時があるみたいだが」
「へえ、そうなのか。外見からは知能がそんなに高いとは見えな
いがな」
「こいつ、人の夢を食うらしい」
「夢を食う?」
「ああ、そういう噂だ。そしてしばらくの間は、その人間の意識でい
るらしい」
「じゃあ夢を消化するまでは、夢を食ったその人間になりきってる、
ってわけか」
「そうだ」
「じゃあ夢を消化しちまったら、こいつは?」
「こうして元の自分に戻るだけさ」
 そう言いながら、その兵士はそいつを見つめた。まるで自分が偉
い人間であるかのように、そいつは毛むくじゃらの身体を壁にもた
れかけて、ゆったりと葉巻を吹かしていた。
「本当に、お偉いさん気取りだな」
「ああ、男爵サマか何かの生まれ変わりなのかもな」
 ちらりと檻の前の名札を見ながら、片方の兵士が言う。
「上が甘やかすから、こうなるのさ。動物の分際で、タバコの味をす
っかり覚えちまいやがって」
 二人の兵士は、冷笑しながらその場を後にした。入れ違いに、白
衣を着た髪の長い女性がやって来た。彼女は檻の前で立ち止まる
と、にっこりほほ笑んだ。
「さあ、バロン。出かける時間よ」
 そいつは嬉しそうに、彼女の近くに寄って来た。幾度となく繰り返
される宴が、また始まるのだ。

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2009年3月 1日 (日)

バロンの夢 (3)

 フラッシュバックのように、牢屋と思しき光景がまだ少し脳裏に残っ
ている。時々見る光景なのだが、夢なのかどうかも定かではない。
もし夢だとすれば、悪夢の残りなのだろうが…

 次に私が覚醒した時には、廃墟と化した街が眼前に広がっていた。
私は建物の陰に隠れながら、その巨大な怪物と思しきものの右後方
の地面を移動していた。両手を見て、もうあの毛むくじゃらな動物のま
まではないことを知り、ホッと安堵する。やっと本来の姿に戻れたのだ
ろう。
 なぜか最近、自分の意思で空を飛ぶことが出来なくなっている。こ
の前もそうだった。あの時は落下する海面スレスレで、やっと飛べた
から良かったようなものの、そうでなければ今ごろあの世だ。私の仲
間は、もう一人の女性だ。彼女はちょうど私と反対側の位置から、そ
の巨大な怪物を見守っている。別に私たちは天使とかそういう部類
ではない、超能力で空が飛べるのだ。だから精神的なものや体調に
よって、発現される能力にその時その時でバラツキが出るのだ。
 やがて彼方から戦闘機が五機、けたたましい騒音とともにこちらに
向かって来た。私は嫌な予感がした。こういう時は、お決まりの爆弾
攻撃と決まっている。しかし奴の足もとには、この私達がいるのだ。
政府は私たちを見殺しにするとでもいうのだろうか。次の瞬間、不意
にすぐ近くで大爆発が起きた。もうもうとした煙と埃が舞い上がり、建
物の瓦礫が頭上から降り注ぐ。私がすぐ近くの瓦礫の下に逃げ込む
のと、あたりに瓦礫が散乱するのとがほぼ同時だった。数発がすぐ
近くで連続して爆発する。熱波でほとんど呼吸が出来ないくらいの
状況で、私は思わず左腕で口と鼻をおおい、目を閉じて瓦礫の陰で
じっとしていた。下手に動くと命取りだ。

 やがて、あたりが急に静かになった気がした。ゆっくりと目を開ける
と、そこには瓦礫の街の姿があった。だが目の間にあった、怪物の姿
がどこかに消えていた。攻撃で倒れたわけではなさそうだ。上から見
てみないことには、状況がわからない。私は自分が飛び立つ姿を、頭
の中に思い描いた。そして少し背伸びするように、軽く身体を上方に少
し動かした。だが、それだけだった。
『駄目だ、また…飛べない』
 こういうのをスランプとでも言うのだろうか。何度か試みても一向に飛
び立てるとは思えない。すでに彼女は斜め前方の空中に浮かんで、こ
ちらを心配そうに見つめている。気のせいか、彼女の表情がこわばって
いるようにも見えた。不意に、彼女が後方に飛び退くように離れた。私
はずっと、何度も飛び立とうと念じていた。やがて、身体が真上に浮き
あがった。
『ああ、よかった。やっと飛べた』
 だがそれは、いつもの感覚とは違っていた。私の意志ではなかったの
だ。彼女がいる前方に移動しようとしても、その場に止まったままでただ
上昇するだけだ。自分の自由にならないのが、はがゆい。
「オマエハ、何者ダ」
 不意に頭の中に、野太い声ががんがんに響く。
『誰だ、こいつ…』
 自分の意思とは関係なく、背負ったリュックを中心に、身体が回転して
後ろを向く。そいつは、そこにいた。何のことはない、私は自身の意思で
飛び立てていたのではなく、そいつに背負ったリュックを背後からつかん
でつままれて、持ち上げられていただけだったのだ。まるで龍のような顔
をしたそいつは、じっと私を見ていた。やがて何も言葉を発しない私に興
味を失ったのか、そいつは不意に私を瓦礫めがけて投げつけた。
 ぐるぐると回る景色と、急速に近づく瓦礫。こんなスピードで激突したら
即死だ。思わず私は、死を覚悟した。その瞬間、身体がふわりと宙に浮
いた。ふと気付くと、彼女がすぐ目の前にいた。
「大丈夫?」
 どうやら私は、すんでのところで飛べたようだ。
「ああ。なんとか」
 目の前のそいつは、身体を少し反らせると、不意に私たちめがけて炎を
吐きかけてきた。予想もしなかったまばゆい光に目がくらんだ。飛んでい
る時に周りの空間を歪ませているため、幸いにもそれがバリヤーの役目
を果たして、炎が目の前で反れてゆく。その強い熱気に思わずひるんで、
腕で顔を隠す。
 やがてそいつの吐き続ける炎に、少しずつ空間バリヤーが溶かされ、炎
が私に近付いてくる。そして次の瞬間、私はすでにそこにはいなかったの
だ。

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2009年2月15日 (日)

バロンの夢 (2)

 やがて私たちに束の間の休息が許された。私は何気に後ろ手で
床に手を付きながらその場に腰を下ろすと、少し背を反らせた。天
井は今まで気にして見ていなかったが、なかなかどうして立派な
造りだ。がっしりした太めの木を組み合わせた、古風な造りになっ
ている。
 そんな私の右手の平に、わずかに冷たい空気が触れ、少しスー
スーする。その感じに違和感を覚えた。冷たい空気がほんのわず
かに当たっているのだ。私の右手が置かれているのは、床なのだ。
そんな隙間があるのは妙だ。
「あ…」
 よおく目を凝らして、手のひらをゆっくりと移動させながら、その床
のタイル目地に沿って、念入りにのぞき込む。わずかに冷たい空気
が感じられる部分は、その外れたタイルの端から上下にまっすぐ広
がっている。どうしてこんな簡単な部分を、今まで見逃していたんだ
ろうか。最初はタイル地の一部が簡単に外れただけで終わったので、
それ以上探さなかったからだろうか。絵模様のようになっている部分、
その全体が大きなドアになっていて、たしかにわかりづらい構造にな
っていた。
 先ほど外れたタイルのあたりに手をかけ、私が爪を立てるようにし
て持ち上げようとすると、ほんの少しだけ浮き上がった。私は横のキ
ッチンにあるナイフの先をその隙間に差し込むと、こじ開けるようにし
て何箇所かを浮かせた。やっと指が差し込めるくらいに、床全体が
すこし浮いた。そこに両手の指を添わせると、私は身体全体に力を
込めた。意外と簡単に、その床の隠しドアが開いた。思うほどは重く
なかったのが幸いだった。鈍い音をしてドアが開くと同時に、冷たい
風が穴の中から一斉に吹き上げて来る。その音に、周りの皆が振り
返っているのが、感覚でわかった。

 のぞきこんだその中は、ほぼ真っ暗で何も見えなかったが、首を突
っ込んだ状態でしばらくじっと目を凝らしていると、おぼろげながら何
かが見えてきた。すぐ真下には地面らしきものがある。その少し先に
どこからか漏れている光で、おぼろげに光の帯が揺れるのがわかっ
た、たぶん水面だろう。鉄製かどうかはわからないが金属で出来た
ように見える階段がそこの上にかかっている。水面があるあたりの先
には、また暗闇がある。すぐ真下に、まるでミニチュア模型のジオラマ
が置かれているように錯覚しそうな光景があった。
『降りてみよう…』
 未知の空間のはずなのに、特に恐怖心もなにも感じなかった私は、
ごく自然にそう思った。本能的に私は足からこの中に立とうとして、床
に腰を下ろしてまるで掘りごたつに入っている時のように足をブランと
させた状態から、斜め前に滑るようにそこに立とうとした。
 だが立てなかった。
 それは思ったよりも、かなり深さがあったのだ。自分の身長以上の
高さがあった。目の錯覚で、自分の膝ほどの近い距離に思えていた
のだが、実際にはかなりの深さがあった。奇妙な感覚を覚えながら、
それでも私は地面に降り立った。その地面はかなりの急勾配で、下
り坂になっていたので、着地する時にもう少しで足首をひねってしまう
ところだった。
 しばらくの間は周りの様子をうかがいじっとしていたが、静寂だけだ
った。どうやら誰もいないらしい。目を凝らしながら暗闇の中をゆっくり
とそしてまっすぐに歩くと、やはりそれは鉄製の階段だった。わずかな
光をたよりにじっと見ると、左側にはずっと水面があり、陸地らしいもの
が見えているのだが、直接そちら側には行けないようになっていること
がわかった。目の前の階段を使ってその前の島のようなものの上に降
り立ち、いったん向こう側からぐるりと回りこむ形でないと、左側の陸地
には行けないようになっている。
 私はここまで見た時点で、いったん降りた場所に戻ると、上に向かっ
て大声で叫んだ。自力ではもう登れない。何人かの覗き込む顔が見え
る。やがて階段梯子らしきものがゆっくりと降ろされた。先ほどのムチを
持った軍服の男が、何かを抱えて降りてきた。
「ここがそうか。やっと見つけたぞ」
 そいつはその何かを抱えたまま、躊躇なくその鉄製の橋を渡り、ぐる
りと回り込むように、私の左側の陸地に歩いていく。やがてその奥にあ
る建物らしきものの中に入っていった。
 その建物の屋根には、青いトゲトゲ様の突起があるのが微かに見て
取れた。男が入ってしばらくすると、やがてその部分全体が、低いモー
ターと思しき回転音とともに、まるでタービンか何かのようにけたたまし
い音を上げて一斉に回り始めた。それは実に不思議な光景だった。
 そいつが入った場所は暗いながらも見当が付いていた。気になって私
は、後を追うようにそこに入った。一歩足を踏み入れた途端、予想もしな
かったまばゆい光に目がくらんだ。そして次の瞬間、私はすでにそこには
いなかったのだ。

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2009年2月 7日 (土)

バロンの夢 (1)

 車でかなり長い時間揺られ続けたすえに、やっとのことで車が停ま
り、ドアが開け放たれた音と気配がした時は正直ホッとしたものだ。
目隠しを外されて初めて、ここが寒風吹きすさぶ草原の中の一軒家
の前だと知った。私以外には男性二人、女性一人の合計四人が連
れて来られた。厚手の防寒服を着ていても、身体にしみ込んでくるこ
の寒さはどうにもならない。
 軍服を着た男に、フローリング床のどこかにある隠し入口を探すこと
を一方的に命令されて、我々はその家の中に土足のままで踏み込ん
だ。家の住人は年寄り夫婦に若い女性が一人と子供が二人だけで、
みな特に我々の不意の侵入を驚くでもなく、あきらめにも似た表情で
我々の所作をじっと見つめているだけだった。

 まずは居間のテーブルと椅子が置いてあるあたりが一番怪しい。
絨毯をとっぱらい、念入りに床を調べていくが、何も変わったところは
ない。それこそ床に落ちたコンタクトレンズか針でも容易に見つけられ
るほどの念の入れようだった。
 壁際の暖炉のあたりは暖かい半面、炎が逆に邪魔になって床を見
づらい。懐中電灯でもあればいいのだろうが、そんなものは一切持た
されていない。ふと窓ガラス越しに、外が極寒の雪景色であることを
あらためて痛感する。暖かな部屋の中にいられることの幸福を実感し
ていた私をじっと見続けている、その老人と幼い子の視線がやけに
痛く感じる。
『まったく、これだから…』
 これだから、人間って奴は…と思った。だが自分自身で、その表現
に不自然さを感じた。まるで自分が人間でないかのようなものの言い
方だ。ふと何気なく、手袋を外して手を見る。
「え?」
 私の両手は毛むくじゃらだ。まるでゴリラか何かのような。不意に不
安が私を襲う。立ち上がると、無意識に鏡のようなものを探す。ない。
思い付いて、窓ガラスの所に近付く。曇ったガラスを手で拭くと、少しだ
け鏡っぽくなる。
「ウソだろ…」
 そこに映った自分の姿を見て、唖然と立ち尽くした。あの金髪、ブルー
グレイの瞳、白い肌…私の痕跡はそこには何もなかった。そこにあるの
は、さしずめ服を着たゴリラだ。
『どうしてこんなことになってるんだ』
 不意に身近で、ムチの音が大きく響く。さっきの軍服を着た男が、私が
サボっているのを見つけたのだ。その男は無言で私を睨みつけながら、
再びムチの音をその部屋中に響かせた。その男に何か言い訳出来るよ
うな状況ではなかった。私は無言で作業に戻らざるをえなかった。
 居間から隣のキッチン、バスルームやトイレまでも念入りに探しまわっ
たが、それらしい入口は見つからなかった。再度我々は、玄関からもう
一度同じことを繰り返した。何か見落としているかもしれないからだ。

 やがて「おお…」という声にならない声が、隣の居間の方であがった。
皆が駆け寄ると、女が右手に二十センチ四方ぐらいの大きさのタイルを
持っていた。自然と女を取り囲むようにして、そのタイルを皆が見つめる。
だがごく普通の白っぽいタイルのように見える。床全体にはタイル地で
模様のようなものが描かれている。その一枚を手にしていた。よくある
模様で、特に何かの意味があるとは思えない。皆は何度かそのタイル
の表と裏を覗き込むように見ていたが、やがて持ち場に戻っていった。
床のタイルが一枚剥がれただけのようだった。
 それからもずっと、床を叩いたり斜めから覗き込んでみたり、指先をわ
ずかな段差や隙間に入れてみたり、何度となくその作業を繰り返してい
た。しゃがみこんだままの姿勢や這いつくばった姿勢を交互にずっと取っ
ていたせいか、背中が痛くなって来た。私は立ち上がると、少し後ろに
上半身を反り返し、背中を伸ばした。少々肩もこっている。立ったままの
状態で、先ほどの女が外したタイルがあったあたりに立ち、周りを何とな
く見ていた。だが、特にこれといった発見は出来るはずもなかった。

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2009年1月11日 (日)

 母が、亡くなった。
 数年前から入退院を繰り返して、父がずっと付き添いで看病し、
寝たきり状態が続いていたから、いつかはこの日が来るとはわか
っていた。だが不思議と実感はなかった。ずっと覚悟が出来てい
たからなのかもしれない。母の遺体と対面しても、涙が出るわけ
ではなかった。葬儀の時も、火葬場で骨を拾う時も、心はそこに
はなかった。
 自分の中では、母は生き続けていた。小さい頃から母に甘えて
ばかりで、父よりも母を第一に考えてきた。身体が弱く臥せがち
だった小学生の頃、よく「具合はどうかね」と笑顔で尋ねていた母。
実家に戻っても、母に会うのは病院のベッドの上が多かったせい
か、未だに母はあの病院にいると思えた。帰省しても、あの病院
に行けば笑顔の母に会える、そんな気がずっとしていた。
 大学生になった頃から、いつの間にか、おふくろ、と呼ぶように
なった。母はそのことについては、特に何も言わなかった。結婚し
て帰った時、女房を見て娘が増えたよう、と喜んでいた母。子供が
生まれて顔見せに戻った時も、目を細めてその幼い仕草に喜んで
いた母。やがて歳月が母の身体から自由を奪い、骨を溶かしてい
っても、泣きごとを言わずじっと耐えていた母。

 それは明け方だった気がする。枕もとでずっと鳴りっぱなしの電
話を取った。
「具合はどうかね」
 それは忘れもしない、母の声だった。聞き間違えなど、あろうは
ずもない。朦朧としながらも、思わずこらえていた感情が突然わき
上がる。だがそれと同時に、母の葬儀のことも思い出していた。
「母ちゃん、本当に、母ちゃんだよね。今でも母ちゃんが死んだな
んて信じられんよ。こうして話も出来てるし」
 言葉使いは、子供の時に母を呼ぶのと同じに戻っていた。だが
自分なりに、その瞬間、この会話が途切れてはいけないと思った。
そうすると、母が本当に遠い所に行ってしまいそうで、何とか引き
留めたいと思った。だから、続けた。
「元気だよ、だから心配しなくていい。父ちゃんも一人でちゃんと生
活してる」
 だが、もう母の声は聞こえなかった。
「もしもし、もしもし…」
 電話は無音のままだった。寝起きで朦朧としていた私は、そのま
ま受話器を置くと、ふたたび眠りについていた。心の中には、母か
らの電話があった、という安心感があった。
 翌朝、目が覚めた時、電話のことを思い出した。だがあれは夢だ
ったような気もする。それはあの世からつながった電話だったのか
もしれない。ひょっとしたら母は、生前最後に声が交わせなかった
ことを悔いて、ただひとこと、会話をしに来てくれたのかもしれない。
そう思えた。そして皮肉なことに、それで母の死がやっと実感できた。

 今年も、来年も、これからもずっと毎年、帰省しては母の墓前に手
を合わせるだろう。母が死んだという実感が、年を追うごとに少しず
つ増えている気がするのは、やはりあの声を聞いたからだ。誰に言
っても、そんな馬鹿げたことと、信じてくれるわけがない。だから誰に
も言わない。だが、あれはたしかに母の声だった。夢の中でもいい、
私に会いに来てくれた母の声だ、それは間違いない。今でもそう信
じている。
 そしてもう一つ、心残りなことがある。あの時は寝起きでぼうっとし
ていたこともあり、とっさに声に出して言えなかった言葉。人の気持
ちは、声に出さないと相手に伝わらない。それは相手が生きていて
も死んでいても関係のないことだ。
「母ちゃん、あなたの子供に生まれて良かったよ」
 感謝の気持ちを込めたその一言を、今度話す機会があったら絶対
に伝えよう。そう思いながら、また電話がかかってくるのを待ち続け
ている。

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2009年1月 6日 (火)

作者の簡単レビュー 【その32】

 RobbinⅡ‐レイン計画‐、約十か月間にわたる合計156回の連載で
したが、いかがだったでしょうか。原稿用紙換算で約780枚とかなり
の長編でした。もともとサブタイトルは「レイン計画」ではなくて、「イス
タンブールの夢に…」でした。そういうこともあって、いちばん最後は
ああいう風に締めました。もう少し悲観的なラストもあったのですが、
色々と悩んだ末、それはやめにしました。

 実のところ、連載中に過去掲載分にさかのぼって、何回か手を入
れています。イイギュン警部とムスタファの会話のシーンが追加され
ていたり、津田と杉本弘美がバーダット通りでお昼を食べる時に「ア
フェットオルスン」のちょっと笑える話を入れたり、とか。『あれ、前回
見た時はこんなじゃなかったぞ』って思える部分もたぶん幾つもあり
ます。(二度は読んでくれないから、わからないかなあ…)
 この作品は前作・RobbinⅠ‐帝王の花嫁‐の後編としての位置付け
になっています。なので、前作で真犯人がゼブラだったと思わせてい
ましたが、実は違っていた、などのどんでん返しも私なりに入れてあ
ります。

 この二つの作品は、私が実際にイスタンブールに単身赴任していた
時に書き上げたものですが、その時はRobbinという物語は三部構成
になっていました。しかし第三部は、もはや推理小説の体をなさなくな
っていたので、実際に作品として書き上げたのはここまでです。最後
のシーン自体や幾つかのシーンは書いてありますが、悲劇の物語に
なってしまうので、どうしようかちょっと悩んでます。 

 以前の簡単レビューにも書きましたが、ⅠとⅡの間に短編が二つ入
る形なので、そちらが書き上げられれば、また掲載させてもらいます。
 当面は、全然別の短編を幾つか掲載する予定にしています。

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2009年1月 3日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- エピローグ(4)

 時計にせかされるように、彼女は立ち上がった。山の斜面いっぱ
いの墓を左に見ながら、彼女は先ほど登って来た道をゆっくりと戻
り始めた。名残を惜しむように彼女は、何度も振り返ってそのピエ
ール・ロティのチャイハネを見た。そこは今まで彼女が居たことなど
少しも気に止めていないような、相変わらずの落ち着いた雰囲気
のままだった。遠くの方で花火か何かの音が、数度小さく聞こえた
が、それもすぐに収まったようだった。
『もう、ここに来ることも無いだろうな……』
 昔の自分を振り返って見ると、あまりに優しすぎたように彼女には
思えた。他人の気持ちを考え過ぎたようにも思える。それゆえ自分
というものを、常に犠牲にして来た。いつも自分だけが傷付いて来
た。必要以上に相手のことを思い、結果として全てを許して来た。
他人の考えに流されて、しかしそれでも自分が我慢すれば済むの
だと、無理矢理に納得して来た。
 それにここでこれまで見聞きして来た日本人女性達の生活は、彼
女に言わせれば何処か一種の狂気が漂っていた。男に対する免疫
を持ち合わせていないが故に、親に出して貰った金で留学した挙げ
句に、トルコ人青年と堂々と同棲をして今を楽しむだけで将来のこと
など何も考えていない、彼女と同年齢に近いお嬢様達……昼間から
持ち回りで仲間の家に上がり込んでは、酒や菓子を片手にマージャ
ンに興じている有閑奥様達……トルコ人青年の情熱にほだされて結
婚したものの、数年後自分に金がなくなって捨てられたのにそれに
気付かず、それでも私は彼を愛しています、と未練がましく言い残し
て、後ろ髪引かれる想いで日本に帰って行く女達……。そうかと思
えば、逆にトルコ人の男達と三角関係を続けながら、日本人を騙し
て粗悪絨毯を高い値段で売り付け、そのマージンで生活しているし
たたかな女達。
 別に特定の誰かが悪いわけでは決してないのだ、と彼女は思う。
騙す方も悪ければ、騙される方も悪いのだ。ただその狂気に毒され
ていつの間にか、彼女自身もその深淵の中に身を置いていた事は
事実だった。かつて津田がズバリと指摘したように、海外だからと
いう一言で、ここは日本ではないという開放感が、全ての判断を誤
らせ、結果としてそれらを許しているのだ。イエロー・キャブ、誰でも
乗れる黄色のタクシー、それがそんな日本人女性達に秘かに付け
られているニックネームであることを彼女達自身は知る由もない。
 そして同時に彼女は、川田良子達の辿って来た過去に、漠然とし
た不満を感じていた。だがこれからの自分は彼らとは違うのだ、と
彼女は心底思う。
「川田良子さん……貴方も多分、私と似たような道をたどったはずだ
と思うわ。でも結局、貴方は運がなかったのよ。だから殺される羽目
になった。でも私は違う!絶対に貴方の二の舞はしない。私は私の
人生をこの自分の手で掴み取る。人生の敗北者なんてまっぴらよ。
武司さん、私がいつまでも操り人形のように、貴方の言うことを素直
に聞いている女だと思ったら大間違いよ。私はあの二人とは違うの。
これまでの私の借りは日本に帰ってから、そっくり返してもらうわよ。
私が何もしないでただ従順に貴方の言うことを聞いて来たと思わな
いでね。貴方にはこれから色々面倒を見てもらうことになるわ。覚悟
しとくのね、二度目は無くてよ」
 そう呟くと、彼女は前を向いて歩き始めた。もう、心の迷いは何もな
かった。今はただ、自分の新しい人生がこれから始まるのだ、という
すがすがしい気持ちで、彼女の心はいっぱいだった。
 冬のイスタンブールの一日が終わろうとしている。懐かしい褐炭の
臭いが、あちこちの家の煙突から煙と一緒に流れ出し始めているの
が見えた。
『変わらないのね、ここは……』
 彼女はそう小声でつぶやくと、目を細め、にっこり微笑んだ。

 新ガラタ橋の開通は、再三の資金繰り悪化のため、当初の予定だ
った十月二十九日のトルコ共和国誕生記念日には間に合わず、翌
一九九二年の春にずれ込んだうえに、工事が休止していた。旧ガラ
タ橋の処遇については、取り壊すか否かでイスタンブール市議会で
も意見が分かれたまま結論が出ていなかったが、新旧を併用する方
向で決着が付こうとしていた。
 だがちょうどこの頃、係留中のバプールが真夜中に不審火を起しな
がら旧ガラタ橋にぶつかり、旧ガラタ橋が延焼する事故が発生したの
である。結局のところ、失火原因は明らかにされておらず、物議をかも
したのも事実だが、単純な偶然だったのかどうかは定かではない。そ
して皮肉にもこの事故のため、新ガラタ橋の工事が急遽再開され、そ
れから短期間で開通の運びとなった。それまでのイスタンブール庶民
の象徴とも言えた旧ガラタ橋は、延焼の影響で、もはや保存するに耐
えられる状態ではなくなっており、市議会で取り壊される事が正式決
定された。 
 こうしてまたひとつ、かつてのイスタンブールがひっそりと消えていっ
た……
                                    fin

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2009年1月 1日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- エピローグ(3)

 そして空港での不可解な行動の件に関しては、後日塚本美雪の
証言があった。それによれば、彼女はこの時は自分が自分でなか
ったとは言え、あの時の自分なりのレイン計画阻止を狙った誘い水
のつもりだったと言う。酒井にそこまで悪の道に入り込んで欲しくな
かった自分の漠然とした気持ちが、ああいう形でしか表現出来なか
ったらしい。だが同時に彼女はたとえ過去がどうあれ、今の自分が
酒井の隣にいられる事、つまり良子に彼女は勝ったのだということ
を暗に誇示する気持ちも、複雑に絡んでいたとも語ったのである。
 訊問の最後に、レイン計画がいつ頃から動き始めていたかを問わ
れ、酒井はこう答えた。
「ブラック・ローズ組織の一員として、イスタンブールに派遣された頃
から、おぼろげながらレイン計画の案はあったと思います。ですが事
が事だけに、実行する前にあちこちと話を付けるためにある程度の
資金が必要だった。同時に当時のその計画の阻害要因として、正
木英嗣氏の名前が一番に挙がっていました。そのために仕組まれ
たのが、トリム産業株式会社の事件であった、とゼブラから聞いた
覚えがあります。真の首謀者のことは、今はまだ申し上げられませ
ん」
 結局、そう言い残したまま酒井武司は、刑務所への護送で警察か
ら出て来たところを、テレビ局のカメラが回り大勢の取材陣のいるそ
の目の前で、何者かに狙撃され頭部を見事に撃ち抜かれて即死し
た。この事件の犯人は未だに謎である。野宮邦弘という統括者まで
を逮捕されたブラック・ローズ組織が、これ以上の被害を避けるため
に彼の口封じに動いた、と見るべきなのかどうかは警察内部でも意
見が別れた。今回の犯罪に加担していた何者かが裏で暗躍し、政
治家達の存在が浮かび上がらないように画策した、と言う見方も出
来るからだ。
 しかし世間一般に対しては、必ずしも全ての真実は知らされなか
った。何しろ天皇の狙撃計画のことを発表しようものなら、どこかの
輩が本当に真似をしかねないご時世なのだ。酒井がにおわせた真
の首謀者の件もそうだった。野宮の経歴をたどると、おそらくはアメ
リカ合衆国公然の某秘密組織が裏で糸を引いているのではないか
と思われたが、野宮は黙秘権行使で頑として口を割らないままだっ
た。そして多額の保釈金で釈放された後、地検も粘りはしたものの
そこまでの追及が出来ず、警視庁の捜査自体も暗礁に乗り上げて
いた。ブラックローズという組織が存在すること自体も秘密とされ、
あくまでも事件は野宮邦弘と酒井武司による、国家転覆の騒乱罪と
しか発表出来なかった。

 一方の津田については、情状酌量の余地はあるものの、過去にブ
ラック・ローズ組織の一員であった事と、トリム事件の偽証は間違い
のない事だし、実際にゼブラとパープルの二人を、仕方がなかったと
は言え射殺している事実は事実である。懲役刑はまず間違いのない
ところだろうと村上警部補達は思っているが、執行猶予が付くのかど
うかもまだわからない。そもそもブラック・ローズ部隊のことは関係者
に厳重な緘口令が敷かれているので、その事実が今後本当に公表
されるのかどうかもわからない。公表されないとなれば、津田の刑の
重さもかなり変わってくる。だが一つだけ間違いないことは、たとえ執
行猶予になったとしても、津田は今の浅見探偵事務所にはおそらくも
ういられないことだった。
「津田、か」
 今はもう洋子も辞めてしまってひっそりとしている喫茶アルファの片
隅で、本郷はかつての津田の指定席に腰掛け、じっと考えていた。こ
の席で津田はこれまで一体何を考えてきたのか……彼がこれまで体
験してきた世界は、本郷にとっては想像もつかない、あまりにも殺伐
とした世界だった。これまで何度か津田は、ある時は横から強引に割
り込んで来て捜査の邪魔をしかけた事もあったし、ある時は行き詰ま
った捜査を助けてくれた事もあった。結構ストレートにものを言うタイプ
の人間で、時にはこちらが気分を害されたこともよくあったが、現実に
こうして定位置に彼がいなくなってしまうと、実に寂しいものだった。
 洋子はすでに立川のアパートを引き払い、木島にアルファを辞めると
言い残して、長野の実家に帰って行った。龍王は相変わらず、秋葉原
の量販店で真面目に働きながら、いつか自分の元に美雪が戻って来
る日を信じて待ち続けている。そしてこの事件を解くきっかけになった
川田は、再び彼の息子と二人でアメリカに海外赴任して行った。本郷
はあの津田の笑顔を、もう一度ここで見たいと思った。自分の中で津
田の存在が意外に大きく占められている事が、彼には意外だった。
 アルファを出た後、本郷は津田のアパートの前までやって来ると、二
階の彼の部屋がある場所を見た。洋子が部屋の合鍵を持っていて、
事件後にある程度津田の荷物を整理していたことを知り、それで二人
の関係を本郷も知った。それは意外でもあったが、うすうす感じていた
だけに、驚きはなかった。今はひっそりとその部屋だけが、窓にカーテ
ンがかかったままで暗く静かだ。
「帰って来るよな、津田」
 淋しげにそう小さくつぶやくと、本郷はコートのえりを立てて歩き始め
た。

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2008年12月29日 (月)

RobbinⅡ-レイン計画- エピローグ(2)

 シャルと呼ばれる大判の肩掛けを頭から深くかぶって顔が見えな
いようにして、女物のコートを羽織った酒井は、ムスタファに付き添
われながら彼の車に乗り込むと、領事館付近まで急いで戻った。
美雪は彼らとは別行動をとり、ドルムシュを使ってほぼ同時刻に酒
井の家に戻っていた。そして酒井は何食わぬ顔で仕事をしたのだ。
酒井はこの日、あらかじめ休みを取っていたが、急ぎの仕事がある
と言って休みの日に酒井が領事館に午後から顔を出す事はそれま
でも頻繁にあったので、領事館の誰もそのことを不審には思わなか
ったはずである。
 さらに酒井は、イスタンブール警察の上層部の人間に連絡し、捜
査状況を聞き出すと、川田の関係者が入国する情報を得た。すで
に十年もこの地の領事館にいる利点とブラック・ローズ組織を利用
して、それまで惜しげもなく金をばらまいて来ていたので、彼はあら
ゆる方面にコネを持っていた。警察の上層部の人間とて、酒井の息
がかかっている関係者はごまんと居る。一度だけ政府高官に最高
級の女を斡旋した時に、現場の隠し撮り写真が新聞記事になった
ことがあったが、その際も記者に大金をつかませて何とか丸め込み、
事なきを得た。

 今回もことが良子の事であっただけに、彼は領事館から紹介した
という触れ込みで、息のかかった人間を川田と警察の通訳によこし、
状況を慎重に見守る必要があった。そのために眼鏡で外見を多少カ
モフラージュさせた美雪を送り込んだのだ。また領事館で、善意の第
三者を装い川田に悔やみを述べたのも、立場上であったとは言え、
酒井自身は内心複雑な気持ちで川田と接していたのだった。
 念のためを思い、川田が無事に出国するかどうかをゼブラに確認
させた。だがあろう事か、その場に美雪がやって来たのだ。美雪が
川田に何事かを囁いたことを、ゼブラからの報告で知った酒井は美
雪を詰問した。だが彼女のその行動の意味するものは、謎のまま
だった。彼女自身、言っていることがかなり支離滅裂になっていた
のだ。彼女をイスタンブールで人知れず葬ることも出来たが、あえて
そこまでの危険は冒せなかった。
 日本人女性が連続して殺害されれば、否応なく目につくし、捜査に
もかなりの人員が投入される可能性があったからだ。そうなれば、日
本の警察には及ばないとは言え、いつ何をきっかけに自分と良子と
の過去が露呈しないとも限らない。帰国してもまだ美雪の神経が参
ったままであれば、日本で密かに処理してもらおうと考えて、その事
を野宮に相談したのだ。これ以上自分の目の前で、自分に関係した
女が殺されるのは出来るなら見たくなかった。

 野宮はさんざん反対したが、酒井は自分のその考えを何とか押し
切った。美雪が帰国した後の就職先を世話してやったが、結局彼女
はそこにはほんの三ヶ月いただけで辞めてしまった。その頃には彼
女の精神状態も落ち着きを取り戻していたことを、彼は日本からの
連絡で知り、ホッと胸を撫で下ろしていた。
 そして美雪が帰国する前に酒井が知り合った杉本弘美が、彼の三
番目の現地妻になったのだ。そしてそこに、事件から一年を経過した
頃、要注意人物とされる津田宗弘という探偵が事件の真相を探りに
日本からはるばるやって来たのだ。これは帝国ヒューマン・リサーチ
の情報として酒井の元にもたらされた。帝国ヒューマン・リサーチは
日本におけるブラック・ローズ組織の一部でもあり、美雪の動向を探
っていたのもそこを介してだった。
 何度かこれまでトラブルを処理していたゼブラに、酒井は津田の件
を依頼した。その頃にはレイン計画の詳細が本格的に固まり、その
決行が知らされた。そのための狙撃要員として、マユミなる女傭兵が
酒井の元にやって来た。そして津田を仕留めた後、彼ら二人は日本
に向かったのだ。だが実は津田は死んではいなかった。長かった任
期を終了して帰国し、野宮の元に無事に復帰した酒井だったが、そ
の事を彼は迂闊にも知らなかったのである。
 だがこれには川田の機転によるところが大きかった。彼は良子殺害
の一件で、イスタンブール市警の捜査に不審を抱いていたのだ。たし
かに、ひと通りの捜査は行なうように酒井は警察の上層部を通じて指
示していた。だが川田は警察が買収されていたことをうすうす感付い
ていたのだ。それゆえ津田からの状況報告を聞いた時、川田は自ら
急遽イスタンブールに向かうことを決め、休みを取ってやって来た。
一緒にギュルハネ公園に駆け付けた警察官を金で買収し、事をあくま
でも秘密裏に運んだのだ。津田を運び込んだ緊急病院も、以前に秘書
のアイシェルから聞いていた腕利きの医者の所だった。それが効を奏
して、その後の日本での一連の津田の行動に反映されたとも言える。

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2008年12月26日 (金)

RobbinⅡ-レイン計画- エピローグ(1)

「良子がイスタンブールにやって来たことは、イスタンブール市警の
情報提供者に教えられて知っていました。彼女の住んでいたあの
スワディエのアパートには、偶然でしたが五階にムスタファという我
々の仲間が住んでいたんです。ムスタファは元イスタンブール市警
の本部長だった男で、在任中からかなり悪い評判がある奴でした
が、裏情報にも詳しくて色々と利用価値があったので、定期的に会
ったりしていました。
 私は前の日の夜から彼の所にいて、翌日の朝の十時にムスタフ
ァがカプジュを呼んで外に買い物にやらせた隙に、近くに潜んでい
た美雪を合図して招き入れ、良子の所に向かわせて彼女にドアを
開かせたんです。相手が私では、いきなり訪れても恐らく内部には
入れてくれなかったろうし、その点日本人の女なら、良子が油断す
るだろうと思ったんです。結果は案の定でした。そしてその後に私
が向かい、美雪が内側からドアを開けて私を招き入れました。良子
はさすがにビックリしていました。
 当然でしょうね。まさかこの私が、突然に自分の自宅にやって来る
とは思ってもみなかったでしょうから。美雪は川田さんの知り合いで
通訳をしている人間ということにして、急に一両日中に必要になった
金があって借りる目処が付かないので、考えあぐねた結果、悪いと
は思ったが川田さんの善意に甘えようと決心してここにやって来た、
という設定にしてありました。良子は美雪の真に迫った演技に騙され
て、家にあった現金を彼女に貸してやったところでした」

 酒井の脳裏に、あの時の記憶が鮮明によみがえって来た。帰って
くれ、貴方とは二度と会いたくない、とけんもほろろな態度の良子に、
酒井はカッと頭に血が昇り、言葉にならない言葉を発しながら衝動的
に彼女に飛び掛かると、両手でその首を締めつけたのだ。女の冷酷
さと裏切られた現実が脳裏を駆け巡る中で、彼は泣きながら良子の
首を思いきり締め続けていた。
 もはやもう後戻りなど出来なくなっていた。良子の身体が次第に力
を失い、その場に足元から崩れるように倒れていき、ついには息絶え
ても彼の両手はまだ良子の首を力一杯に締め続けていたのだ。
「死んでるわよ、もう……」
 その美雪の言葉で、思わず酒井がハッと我に返って手を放した時は、
すでに手遅れだった。彼は自分のその手で、良子を絞殺してしまって
いたのだ。自分がしでかした事に呆然と立ち尽くしている酒井を尻目
に、美雪は絨毯の上に倒れている良子のスカートを脱がしにかかった。
「何を……何をするつもりなんだ、美雪」
「見ればわかるでしょ。強盗の仕業に見せかけるのよ」
 冷たい目付きで彼女はそう言うと、その後、酒井にとんでもないこと
を言ったのだ。動転していた酒井は、彼女の言い放った言葉に愕然と
し、思わずその恐ろしさに身震いした。
「そんなことが出来るわけ無いだろう。良子はもう死んでるんだぞ」
「何を今さらそんなこと言ってるの!貴方は警察に捕まって、自分の人
生を棒に振りたいの」
「し、しかし。いくら何でも、そんなことが出来るわけは」
「やるのよ!出来なければ私が協力してあげる。私達はもう共犯者な
のよ」
 そう言うと美雪は、良子の死体の横で全裸になって、酒井を招いた。
狂気が二人を支配していた。良子が酒井に強要したこと、それは酒井
に良子を死姦させることだった。狂ったように大胆に酒井を求め、おびた
だしい量の愛液にまみれる美雪に引き込まれ、酒井は横に良子の死体
がある事もいつか忘れていった。その快楽に、二人は溺れた。そして美
雪は酒井に自分の中に射精してと叫びながら、達した。酒井も美雪のそ
の言葉とほぼ同時に、美雪の中に異常なほどの量の自分の熱いものが
ほとばしり出て行くのを股間に感じた。
 酒井のものが自分の中に注入されるのが完全に終わると、美雪はま
だ息を荒げながらも酒井を押しのけ、良子の死体の股間に自分の中か
ら溢れ出てくる酒井の精液を手に付けると、良子の内部にその手を押し
入れた。それを何度か彼女は繰り返した。
 それも終わると彼女は手早く衣服を身に付け、今まで二人が抱き合っ
ていた場所を注意深く観察し、自分の髪の毛が一本落ちているのを見付
けるとそれをそっと取り去った。そして彼ら二人の指紋が残っていそうな
場所を全てハンカチで拭うと、彼らはその部屋を後に、いったん五階のム
スタファの部屋に戻ったのだ。

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2008年12月23日 (火)

作者の簡単レビュー 【その31】

 長かったこの物語も、次回からついに最終章「エピローグ」を迎え
ます。あらためて読み返してみると、ああここをこうすればもっと良く
なったのになあ、とか色々考えたりもしますが、それはおいおい校
正をかけて、過去ログに反映させていこうと思っています。

 イスタンブールもすっかり変わってしまっているのでしょうね。しか
し何よりも今年は、私にトルコ語を教えて下さった、俳優でもあるア
イデン・ヤマンラールさんが七月に逝去されたことが一番のショック
でした。この場を借りて、ご冥福を心よりお祈りします。

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2008年12月21日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(10)

「金銭のやり取りがあったのかどうかはわからない、だが現場にい
たあんたは、その時ケマルに便宜を図って情報提供してやったは
ずだ。だからケマルの記事だけが、他社よりもずば抜けて優れて
いた。そしてそれがきっかけで、以降ケマルは一気に凄腕記者の
階段を駆け登っていく。全部あんたからの情報提供があったおか
げだ。だから奴にとってはルポライター事件は特別なものだった。
だからパスワードが他のと違っていた。パスワードは、イイギュン
さん、あんたの名前だったよ」
「ほう。さすがだ、よく調べたな。パスワードまで見つけ出すとはた
いしたもんだ。私に内緒にしていたのは、そのパスワードのことを
言うわけにはいかなかったからか」
 ハリムは小さくうなずいて、続けた。
「だが、わからない事がある」
「何だ」
「どうしてカワダ夫人殺害の今回の事件も、パスワードがあんたの
名前なんだ?」
「簡単なことさ、わからんのか」
「……」
「頭の切れるお前にしては珍しいな。たぶんケマルは気付いていた
んだ、だから私の名前にしたんだろう」
「気付いていた?何を」
「わからんのか、事件のきっかけを作ったのが私だということさ」
「きっかけ、だと」
「そう、カワダリョウコがこの地にやって来たことを、サカイに知らせた
のはこの私だ。あの女は最高だったからな、今でも覚えてるぐらいだ」
「そうか、あんたは昔、イスタンブール市警で捜査統括課長をずっとや
ってたな。そのつながりで面識があったのか」
「色々と揉め事を水面下で解決してやっていた、その見返りさ。まあ昔
の話だが」
「じゃあ、どうして仲間割れしたんだ」
「仲間割れ、とは」
「これまで殺害された悪徳警官五人のうち、オルファンとハルックはあ
んた達が始末したんだろ。連続殺害犯に罪を着せるために、現場に赤
い薔薇を残す手口を真似て」
「じゃあ残りの三人が連続殺害犯の仕業だと言うのか、そう断言できる
証拠は何だ」
「……」
「証拠があるのなら、言ってみろ」
「証拠はこれさ」
 ハリムが腕組みを解くのとほぼ同時に、不意にイイギュン警部の至近
距離から、パンパンと花火にも似た音がした。イイギュン警部には、何が
起こったのかがすぐには理解出来なかった。

「ハリム、お前どうして…」
 ハリム刑事の腕には、硝煙が少し出ている銃が握り締められていた。
腹のあたりが我慢できないくらいの痛みと熱さで立っていられず、イイギ
ュン警部は思わずしゃがみ込んだ。腹部に当てた手が生暖かい。見ると
おびただしい出血が始まっていた。
『撃たれた?ハリムに?』
「イイギュンさん、あんたは深入りしすぎたんだ」
「何だと」
「私があれほど遠まわしに何度か注意したのに。あんたは見張られてる、
と」
「何だと」
 そう言われれば、ハリムの言い回しには時々首をかしげる場面もあった。
「自制さえしててくれてれば、俺だってこうやって恩のあるあんたを手に掛
けたりはしなかったさ。売春組織と麻薬組織は裏でつながってるんだ。以
前にクルド民族解放戦線を名乗って、あんたをアンカラにおびき出したのも、
俺がケマルに交換条件で要求したことだ。この前日本で起きた原子力発
電所の件もそうだ。あれは表向きは事故だが、実際は違う。世の中ってい
うのは、そんなものさ」
「お前、どうしてそんなことを知ってる……」
 力なくハリムが笑う。
「それは、あんたは知らずに終わる。三人の警官達を殺害した時と同じよう
に、俺が赤い薔薇を置いておくから、あんたはあの世で考えてみるといい」
 イイギュン警部は次第に意識を失っていった。ここは低所得者層の群生
する場所で、誰も他人のことを構わない。ここで殺人事件が起こっても、誰
も警察に通報することはないし、身ぐるみはがされて転がるだけだ。
 この山の向こう側のピエール・ロティのチャイハネで若い頃、今の夫人と
二人でよく通い、将来のことを熱く思い描いたものだった。
「ネルミン…」
 その小さなつぶやきにも似た言葉はイイギュン警部の夫人の名前だった
が、それが彼が発した最後の言葉だった。

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2008年12月18日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(9)

「その理由は何か。私が何か用事があって会いたがっているのを、
その前に社に電話して伝言で知ったんだろう。だから時間を稼ぎた
かった」
「………」
「お前と話す時間をな。あるいはケマルが私に電話していた時、隣
にお前がいたのかもしれん」
「………」
「そう黙るな、ハリム。それじゃ肯定しているのと変わらんぞ」
「いや、あまりにも突拍子もない発想なんで、開いた口がふさがらな
いだけですよ」
「今さら、シラを切るのか」
「どうして私が、ケマルを殺さなきゃいかんのですか」
「それがずっと謎だった」
 そう言うとイイギュン警部は、上着の内ポケットから新聞記事のコピ
ーを取り出して、ハリムに見えるように見せた。
「理由は、これだろう」
 ハリムの顔が青ざめた。
「どうして、そんなものをあなたが持ってるんだ」
 それは、外務省高官がアンカラで女性接待を受けている現場の隠し
撮り写真が掲載されている、ギュナイドン紙の記事の切り抜きだった。
「これを探し出すのにアンカラで丸三日かかったぞ、お前を騙すのが大
変だったが」
 イイギュン警部が珍しく、食当たりと言って数日休んだことを、ハリム
は思い出した。あの時、イイギュン警部はアンカラに出向き、ハリムの
過去を洗っていたのだ。
「この高官の横にいる若い男は、お前だろう。お前もおこぼれにあずか
ったクチだ」
「………」
「この高官はこの記事が原因で自殺した。そしてお前もキャリアではい
られなくなった。だがまだ若く優秀だったお前を惜しむ声はあった、お前
が残れる手段は一介の警察官として天下ることだった。そしてお前は
刑事となったが、アンカラにいるのはまずい。だからイスタンブール市
警に派遣されて来たんだ。そしてこの記事を書いたのは、誰あろうケ
マルだ」
「………」
「ケマルがお前をいつ認識したのかはわからん。だが奴はある時、お
前に気付いた。あるいはお前は、気付いた奴に脅されていたのかも
しれん」
「その通りです」
「!……やはり、そうだったか」
「お察しの通り、ケマルがイイギュンさんに電話していた時、私は隣に
いました。これ以上、私につきまとうのは止めてくれと。たしかに過去
にそういう場に居合わせたが、今は一生懸命に働いているんだ、私は
犯罪者じゃない」
「………」
「だが彼は容赦してくれない。イスタンブール市警の機密情報を渡せ、
としつこく言って来た」
「イスタンブール市警の、機密情報だと?」
「そうです。イスタンブール市警に根付く悪習の温床とも言える、悪徳警
官リストです」
「悪徳警官リストだと?そんなものは存在しない」
「いえ、存在します」
「聞いたことがないぞ、そんなリスト」
「そりゃそうだろ」
 急にハリムの口調が変わった。
「何しろ、イイギュンさん。あんたがその頭目だからね。それに、あんたは
知ってるはずはない」
「どういうことだ」
「私がイスタンブール市警にやって来たのは、さっきの理由だけじゃない。
イスタンブール市警に根付いている悪徳警官一掃の密命を受けてる」
「何だと!」
 今度はイイギュン警部が気色ばむ番だった。
「それにイイギュンさん、あなたもケマルとは一蓮托生の関係だ。あんたと
ケマルのつながりは、奇しくもここで起こった日本人ルポライター殺害事件
がきっかけだったはずだ」
「……」

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2008年12月15日 (月)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(8)

「彼女はルポライターとその同棲相手の二人の男を睡眠薬で殺害
した。被害者二人に共通点がない以上、個人的な感情や関係の
もつれとは思えない。だから誰かに依頼されたか誰かのために殺
人を行ったとも考えられる。そしてそれはおそらく…」
「それが誰だか想像ついてるんですか、イイギュンさん」
「海外では皆が言葉に不自由しないわけではない。それゆえ充分
に意思疎通できる相手、つまり潜在的に同じ国の異性を暗に求め
ている場合が比較的多い。だから彼女の知ってる日本人の誰か、
ではないかと。たとえばサカイとか、な。だがこれは確たる証拠が
あるわけじゃない、私の想像でしかないんだ。だが…」
「だが?…だが、何ですか」
「ケマルが殺された事件とは、全く原因が違う」
「イイギュンさん、話が飛びすぎてて、おっしゃっている意味が良く
わかりません」
「ハリム、どうしてケマルを殺した!」
 突然のイイギュン警部の言葉に、ハリム刑事は一瞬絶句した。
「…わ、私がですか?」
 イイギュン警部はじっと、ハリム刑事を見詰めたまま立っている。
「何を言い出すのかと思えば。悪い冗談はやめてくださいよ、イイ
ギュンさん」
「私は冗談でこんな事は言わんよ」
「………」
「お前はあの時、イスタンブール市警から鑑識連中と一緒にやって
来たんじゃない。ペラパレス・ホテルの前で合流しただけだ」
「………」
「イスタンブール市警から一緒にやって来てなかった事は、顔見知
りだった鑑識の連中に確認して裏が取れてる。それにホテルのフ
ロントマンにイスタンブール市警に連絡させた時、私の名前は彼に
まだ教えてはいなかったから、私の名前を出して通報したはずがな
いんだ」
「………」
「だがお前は私がいる事を知っていたな、それは私がホテルにいる
のを知っていたからだ。だからいかにもそれらしく、鑑識と同行して
きた理由にした。だが、どうしてアンカラから戻って来たばかりのは
ずのお前が、あのホテルに行ったんだ」
「………」
「それにお前はアンカラを、あの日の昼前の飛行機で出発してるな。
どうしてだ。どうしてそんなにイスタンブールに急いで帰ってこなくち
ゃいけなかったんだ」
「………」
「理由を言ってやろうか、ケマルに会うためだろう。ケマルもそのつも
りだったと考えるべきだ、それなら早い時間からチェックインしていた
理由が付く。時間的にケマルが私に電話をかけた時、私はてっきり
ギュナイドン新聞社の奴のデスクからだろうと思いこんでたが、あの
時すでに奴はホテルの部屋にいて、そこから私に電話をよこした。
さも新聞社にいるように見せかけてな」
「………」
 ハリム刑事は腕組みをして、黙ったままイイギュン警部を見つめて
いた。

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2008年12月13日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(7)

 その日、珍しくイイギュン警部は朝から夫人と口論になり、途中の
交通渋滞に苛立ちながら定時を少し遅れて出社した。昨夜判明し、
確信した事実がどうしても信じられず、どうしたものかと今も迷っても
いた。やがて彼は、ハリム刑事を誘って、日本人ルポライターが殺害
された現場におもむいた。これ以上避けては通れない、と覚悟を決め
たからでもあった。行きの車の中でも、運転するハリム刑事の世間話
にもろくに返事をせず、イイギュン警部はじっと目をつぶって腕組みし
たままだった。おのずと二人とも何もしゃべらなくなっていた。
 ゴミがあちこちに散乱し、一夜城とも言われるゲジェコンドが群集す
る山肌の斜面に立ちながら、二人は殺害現場だったとされる場所に
立った。しばらくは二人とも無言のままだったが、やがてイイギュン警
部の方が先に口を開いた。
「なあ、ハリム。あのルポライターを殺した奴は、どうしてこの場所を選
んだんだろう」
「さあ、何か特別な意味があるとは私には思えませんでした。ここなら
山の裏側にあたるので、発見されづらい場所だと思ったんじゃないん
ですか」
「だが実際にはゲジェコンドがあちこちにある。ジプシー達が犯人や遺
棄現場を見かけたとしても、ただちに警察に通報するとは思えないが、
人目につきにくい場所ではない」
「たしかに」
「だから主犯はトルコ人ではない、とも言える」
「え?」
「トルコ人なら多少なりとも地理状況ぐらいわかる。治安の程度もな。
ここはたしかに裏通りに当たるし治安も決して良くないが、人目がな
いわけじゃない。だがあまり事情に詳しくなければ、ここを選ぶかもし
れない」
「その日本人通訳の女性が主犯ということですか。同棲相手のトル
コ人男性ではなくて」
「たぶんな。そして彼女はこの向こう側によく来たことがあるんじゃな
いか。だから裏側のこのあたりの治安が悪いのを知っていた」
「この向こう側に何かありましたっけ」
 ハリム刑事は振り返って丘の上を仰ぎ見た。アンカラからやって来
た彼自身、日頃の多忙さもあり、たまの休みの日はほとんどベッドで
眠っていることが多く、イスタンブールの観光地のことはまだよく知ら
ない。休みの日に観光地巡りが出来るほど、彼はまだ偉くはない。
「ピエール・ロティのチャイハネがある」
 イイギュン警部は少し懐かしそうな表情で、そう言った。
「なるほど、裏側が治安の悪い場所だと知っていた、というわけです
か。だが実際に死体を運び込んでみると、ゲジェコンドが乱立してる
ので、思ったほど人目がない所ではない。だが今さら別の場所に運
ぶには目立ちすぎる。だからやむなくここに遺棄した」
「だがその同棲相手も、睡眠薬強盗の手口で後日殺されてる」
「それはその女が弱みを握られていたからじゃないんですか。だから
口封じで殺した」
「どんな弱みだ」
「共犯ですからね。それにここに来てる日本人の女は、皆だいたい金
を持ってる。今回のことで一生ゆすられ続けるのが心配だったとか」
「本当にそれだけだろうか」
「…と言いますと?」

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2008年12月10日 (水)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(6)

 彼女の中で、消そうとしても消えない酒井武司に対する疑惑が
膨らんできていた。おそらく川田良子と酒井武司は何らかの面識
があったのではないかと思えた。それもわざわざ酒井自身がイス
タンブール市警とやり取りするほどの関係…となれば、単なる顔
見知りのレベルではなく、特別な男と女の関係とみるのが自然だ。
 その関係が終わっていたのか続いていたのかは、彼女にはわ
からない。だがそのかつて愛し合っていただろう二人が、あるいは
川田良子が生きている間に、再びこの地で出会ったのかもしれな
い。そこで何かが起こったのか、今さらそれは彼女には知る由もな
い。だが酒井に後ろめたいところがないのなら、何もわざわざイス
タンブール市警と川田良子の死後も直接やり取りする必然性は少
ないと言える。何かしら酒井は、この川田良子殺害に関与していて、
捜査の進展や情報をそれとなく探っていたように思えた。
 時期的に考えれば、その時酒井武司の横には自分の前の女、
塚本美雪がいた可能性があるのだ。自分がもしも川田良子だった
ら、酒井武司とは会いたくないと思うだろうと彼女は考えた。たとえ
十年前の恋人であったとしても、冷静に現実を秤にかければ、いつ
までも若く気儘な人生を送れるわけでもない以上、今まで築き上げ
て来たそしてこれからの将来の生活基盤の方がずっと大切なはず
である。よしんば酒井との生活を選ぼうとしてみたところで、自分だ
けを一途に思い続けてくれていたのならいざ知らず、彼の横に自分
より若い魅力溢れた女がいる現実が許せるはずもない。

 では酒井武司の方はどう思うのか……これは彼女の想像でしか
ないのだが、おそらく彼の方は川田良子に会いたがると思えた。た
いていの場合、男の方がロマンチストだし、そのあたりの感情をい
つまでも女々しく持ち歩いていることが多いものだ。ではそこに何が
起こるか。たとえ彼女にそんな気が毛頭なかったとしても、その川
田良子の態度から、酒井は築き上げてきた今の自分の立場を危う
くされる可能性を、感じ取ったはずである。
『川田良子が死んで一番安心出来るのは、武司さんということね』
 思わず彼女はチャイグラスを落としそうになった。とんでもない発
想なのだが、今の彼女にそれは否定出来ないほどの説得力があ
った。川田良子は酒井の秘密を握っていた、そしてそれがばれる
ことを酒井が極端に恐れ、川田良子殺害を計画したとすれば、犯
行の動機は成立する。辻褄は全て合うのだ。
『じゃ、私が塚本美雪とすれば、出国する川田さんにわざわざその
事を言いに行くかしら。自分の恋人の秘密を、彼に匂わせるような
ことをする必要は……』
 しばらく思案した後、ある、と彼女は思った。酒井にその余りにも
突拍子もないことを何とか思いとどまって欲しいと心底願う女なら、
それほど酒井を愛しているのなら、そのことを彼にそれを断念させ
るきっかけにしたいと自分なら考える、と杉本弘美は思った。
『それほどまでに恐ろしいことを、あの人は考えていたんだろうか』
 その後日本で起こったレイン計画の顛末を彼女が知っていれば、
あるいはもっと早く真相に気付いていたかも知れない。日本で起こ
った原子力発電所の事故のことは、テレビニュースや新聞報道な
りで多少は知っていたが、遙かなこの地では所詮はその程度で、
さほど大きな扱いにはならなかったのだ。酒井武司が川田良子に
殺意を持った、と言う彼女の推測はたしかに正しい。だがそれは全
てではない。真の犯罪の全貌は、酒井武司しか知らないのだ。そし
て彼はすでに日本で数ヶ月前に逮捕され、一連の事件の真相を自
白していたのだが、杉本弘美がそれを知るはずもなかった。

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2008年12月 9日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(5)

 ゼブラと呼ばれていたその男に、半ば領事館から連れ去られる
ようにして、彼女は彼らのアジト、すなわち酒井領事の自宅に同
行させられ、そこで強制的に津田宛ての手紙を書かされたのだっ
た。拒否すればおそらく、そこに居る何人かの目つきの悪いトルコ
人の男達のおもちゃにされるだけだという恐怖心が彼女の脳裏を
よぎった。せめて津田と一緒にいる間は、彼女はきれいな身体で
いたかった。それが他愛もないことだとはわかっていても、そうあ
りたかったのだ。それゆえ、彼女は言われるままに手紙を書いた。
そしてその手紙を、その場に居たマユミと呼ばれていた女が、津
田の泊まっていたホテルに届ける手はずになっていた。
 彼女はその時初めて、自分と津田は常に遠くから見張られてい
たのだという事を知った。そして彼女が酒井の三番目の女である
という事実もだった。あとの二人は誰、と彼女がゼブラを睨みなが
ら言っても、彼は口を滑らせたことを隠すように薄笑いを浮かべた
ままで何も答えなかった。それくらいは察しが付くだろう、と意味
深な言い方をされただけだった。その時は彼女にはさっぱりわけ
がわからなかったが、ゼブラがギュルハネ公園で津田に言いか
けたあの瞬間に、本能的に悟ったのだ。

 津田の部屋が爆破された事を、彼女は二日後の新聞の片隅の
記事で知った。彼らの仕業に間違いない、とその時彼女は確信し
た。何故ならマユミが出掛ける際に、小さな菓子箱のような物を
異常なほど慎重に手提げ袋に入れていたのを、彼女自身が目撃
していたからだった。おそらくその中には、爆薬か何かが仕掛け
られていたのだろう、と彼女は思った。
 マユミと呼ばれていた女が津田の部屋にその爆薬を仕掛けるの
は、さほど難しいことではない。仲間が当日、津田と同じ階の部屋
にチェックインしていれば、訪ねて行くのも自然だし、見つからない
ように合鍵で侵入するのはたやすいはずである。彼らは恐らくその
手のプロの集団だろうと彼女は考えている。ただ、どうして酒井が
そんな人間達の仲間になっているのかは彼女にはわからなかった。
彼に尋ねてみたところで、正直に教えてくれるはずも無かった。
 彼女の書いた手紙に易々と呼び出された津田に、彼女は津田が
本当に自分を信じてくれていたのだと思った。同時に心底、津田に
すまないと思った。だから津田が銃で撃たれて夜の海に飛び込ん
だ時、彼女はゼブラにとっさに嘘を言ったのだった。その場所は決
して、さほど深い水深ではなかった。ただただ津田に助かってもら
いたい一心で、ゼブラが確認しに近付くことを諦めるように、わざと
そう言ったのだ。
 津田が生命を落としたのか、一命を取り留めたのかは彼女は知
らない。だがどちらにしても、二度と津田に顔向け出来ないことに
変わりはなかった。そしてあまりにも短かい期間であったにも拘わ
らず、印象深かった日々だったがゆえに、鮮烈に津田のことは彼女
の記憶に残っている。
『でも結局、川田良子殺害の犯人は特定できなかった』
 彼女はふと自分が犯人だったら、どうするだろうかと考えた。しば
らく考えていて、彼女の中に過去の或る記憶が突然よみがえって
来た。酒井武司が川田良子の事件のことで、警察と色々あって大
変だったと彼女に寝物語で洩らしていた事を思い出したのだった。
『たしか、そう言ってた。おかしいんじゃないのかしら、どうしてあの
事件のことで領事が直接、いちいち警察とやり取りをする必要があ
るの』

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2008年12月 7日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(4)

『結局、私はあの人を裏切ってしまった。こんなに今でも忘れられ
ないほど好きなのに。今まで出会ったどんな男よりずっと男らしく
って、いつも私を一人の人間として対等に扱ってくれた。本当に
優しい人だったのに、そんなあの人を私は……』
 短かったがこれまでの彼女の人生の中で一番充実していたあ
の夏の日々……自分が確実にその男の役に立っているという充
実感と、その裏に秘めた淡い恋心。自分の正体を知っても、なお
かつそれまでと変わらない態度で接してくれた男。そして銃声と
共にその男が夜の海に消えたあの瞬間を思い出すたび、彼女は
これまで幾度となく悪夢にうなされ続けて来た。
『津田さん、ごめんなさい。私は所詮、こんな女なのよ。貴方が言
ったように、私と貴方は偶然に出会ったんじゃなかったの。最初か
ら目的があって、私は言われるままに貴方に近付いて、貴方を見
張る役をしてたのよ。きっと貴方は気付いてたんでしょう……それ
が結局、あの二人が貴方を殺すことになるなんてわかってたら、
私は絶対にそんな事しなかったのに。どうして私達はこんな星の
巡り合わせに生まれて来てしまったの』
 涙で潤んだ目で彼女はじっと、三分の一ほどチャイの残ったグラ
スを見詰めながら、津田と出会った頃のことを考えていた。すでに
身も心もぼろぼろになっていた彼女は、あの頃真剣に帰国を考え
始めていたのだ。すでにそれまでのイスタンブールの日々は、彼
女が思い描いていた甘い理想を打ち砕き、海外の現実の厳しさは
容赦なく、日本でぬくぬくと育ってきた一人の女性に襲いかかって
いた。彼女に近付いて来る人間を誰も信じられなくなって、いつし
か心に大きな穴がポッカリと開いた状態で、彼女は目的を失った
まま、ほとんど惰性で生活していた。
 それまで自分のしてきたことがどういうことかはわかっていても、
迂闊にもいったん入り込んでしまった底無しの泥沼の世界から脱
出しようとしても、自分の意思では最早どうすることも出来なかっ
た。そしてそんな彼女が命じられたのが、津田に近付いて彼の来
トの目的を探り、同時に彼の行動を逐一報告することだったのだ。
必要であれば誘惑しろ、とまで言われていた。

 だが不思議と津田と話しているうちに、彼女は失われた何かを
彼との間に見出せたような気がしたのだ。それは彼女の中に残っ
ていた、最後の何かだったのかも知れない。津田といる時だけ昔
の自分が取り戻せているような、不思議な感情が彼女の中に芽
生えたのだった。バーダット通りで二人並んでシュミットをかじって
いたあの時、彼女はまるで恋人と一緒に居るような幸福感があっ
た。だがそんなささやかな彼女の幸福感を、たった一本の電話が
すべてぶち壊し、どうしようもない現実に引き戻したのだった。
 大事な日本からの客だからいつものように頼むと言われ、どうせ
自分を利用して誰かに恩を売るんだろうとは思ったが、今さら彼女
に断れる筈もなく、津田に聞かれないように気を付けて喋るのが
精一杯だった。そして津田に後を付けられ、彼にだけは決して知
られたくなかった秘密を知られてしまったのだ。
 津田が自分を抱いてくれたのは、ひょっとしたら彼の優しさだった
のかも知れない、と彼女は思った。たいていの男は自分と関係が
出来ると急になれなれしくなり、まるで彼女を自分の持ち物のよう
に扱いたがった。だが津田はそれらの男達とは違ったのだ。
 津田に頼まれたことを調べるなど、彼女には造作もなかった。ひ
と言尋ねれば、彼女に電話をかけて来た男が即座に調べてくれる
だろうと思っていた。そしてそのつもりで彼女は翌日、津田と別れ
て早速に領事館の方に向かったのだ。だが、そこにはその男と、
彼女が我が目を疑った男が居たのだ。その二人が同室しているな
ど、彼女は想像すら出来なかった。何故ならその二人は以前、彼
女の目の前で派手な取っ組み合いをしていたのだ。
 その瞬間、彼女は自分が落ちた罠を悟った。最初から彼らはグル
で、彼女をこの世界に引きずり込もうとしたのだった。その男……
領事館から紹介されたと偽って彼女のアパートを訪れ、彼女の所
持金を奪い凌辱されそうになった、あの目つきの鋭い冷酷そうな
日本人の男……本名は彼女は知らない。だが津田とその男があ
の夜、ギュルハネ公園で何やらニックネームらしき名前で呼び合
っていたところを見ると、彼らは今は敵対する立場にあるが過去に
おいては互いに知り合いだったと思えた。

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2008年12月 6日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(3)

 反射的に彼女は、「ちょっと待って」と言う代わりにトルコ人がよく
やるように、右手の人指し指を一本立てながら、小走りに折りしも
動き始めたそのバスに飛び乗った。さいわい私営バスだったので、
切符がなくても現金を払えば済む。彼女はバス代を支払うと、運転
席の横にいる助手に自分が行きたい場所を告げ、どこで降りれば
いいか教えてくれ、と尋ねた。
 大体はおぼろげながら覚えているのだが、イスタンブールに来て
まだ間が無い頃、友人に連れられて一度行ったきりだった事もあ
り、はっきりとそのバス停の名前を思い出せなかったからである。
助手は、トルコ人特有のにこやかな顔つきで「わかった」と短く言っ
ただけで、すぐ運転手と雑談の続きを始めた。
 金角湾沿いの道をバスはしばらく走っていたが、トプカプの表示
を過ぎてしばらく行った所にある大きな交差点を、バスは不意に左
に曲がった。エユップ・ジャミイの脇の小道をバスがくねくねと曲が
って行く。バス一台がやっと通れる程度の細い小道だった。駐車
場らしき場所でバスは方向転換をし、今来た道の方に戻って行こ
うとしている。
『たしか、バス停はこのあたりだったはずだけど……』
 一瞬、彼女は不安になった。助手の方を見ると、運転手と何やら
熱心に話し込んでいる。
『ほら、またこれだ。きっと、私が尋ねたこと、もう忘れてるんだわ』
 彼女は仕方なく、次のバス停で降りようと思った。やがてバスは
その細い道の途中の、バス停ではない所で止まり、間髪を入れず
前の乗降口が開いた。
『何かしら』
 どうせ運転手か誰かの知り合いの人間でも居たのでバスを停め
たのだろう、ぐらいにしか彼女は思わなかった。しかし助手は、手
招きをして、その彼女自身を呼んでいる。
『え?』
 彼女は招かれるままに、半信半疑で前の乗降口に向かった。
「ここですよ。ここの細い道を登っていけば着けますよ」
 運転手が説明してくれた。どうやら彼女のために、バス停ではな
い所で親切にも止まってくれたようだった。彼女は丁寧に礼を言う
と、バスから降りた。小さな目立たぬ看板が出ている。横には墓石
屋らしき小さな店があった。
『そう、……ここだったわ』
 長い石畳の上り坂を、ゆっくりと彼女は歩いて行った。
 初めてこの場所に来た時、こんな墓地のある小高い丘の、一体ど
こにピエール・ロティのチャイハネがあるのかと、訝しがったことを思
い出した。
 たしかにここは、観光ガイドに大々的に宣伝されているわけではな
いので、訪れる人間は地元の常連が多く、観光客然とした人間にし
ても大半はヨーロッパ人に限られているようである。そのせいかマナ
ーを心得ている人間ばかりで、むやみに団体で押しかけて騒いだり
するどこかの国の観光客とは比べものにならない。

 丘を一つ越えた所にあるそこは、決して大勢の人間で賑わってい
るわけではないが、寂れた雰囲気の中にも、相変わらずの落ち着い
た静かな風情が支配していた。彼女は見晴らしの良い席に腰を下ろ
した。やがてトルコの民族衣装を着たボーイが、注文を取りにゆっくり
と近付いて来た。
「お茶を、ひとつ。うんと、濃くしてくれる」
 流暢なトルコ語で、彼女はそう言った。ボーイは頷くと、近付いて来
た時と同じように、ゆっくりと去って行った。かじかんだ手を吐く息で暖
めながら、彼女は目の前の景色を眺めていた。金角湾が大きく左に蛇
行して、目の前に大きな浅瀬がある。金角湾沿いの道を通る車が、思
ったより小さく見えた。比較的近くには『E-五』の、空港やエディルネ
の方に通じる橋が見える。その向こうの左岸には軍の造船所が見え、
ガラタ塔がさらに遠くに、冬独特の灰色っぽいイスタンブールの淀んだ
空気の中にぽつんとその姿を見せている。
『ここで、夕焼けを見てみたかったな。きっと綺麗だろうな』
 やがて運ばれてきた小さなグラスに入った紅茶を飲みながら、彼女は
ふっとそう思った。時折イスタンブールが見せる夕焼けの素晴らしさには、
筆舌に尽くしがたいものがある。彼女とて、本当に美しい夕焼けは、これ
まででもわずか一度しか見たことがない。雲のほとんど無い大空がオレ
ンジ色からディープ・パープルに染まり始め、ジャミイのシルエットがその
中に浮かび上がる。ほんの僅かな時間の出来事に過ぎないのだが、初
めてそれに出会った時、彼女は思わず立ち尽くして、呆然としたまま、し
ばらくの間じっと見とれてしまったほどだった。日本人観光客ではないが、
その時だけは流石にカメラを持っていなかったことを心底悔やんだもので
ある。
 両手でそのグラスを握り締めて暖を取るようにしながら、鼻先でトルコ特
有の苦味の効いた紅茶の香りをかいだ。思いの外、ここへ来るのに手間
取ってしまっていた。先程まで持て余していたはずの時間が、今度はあっ
という間に過ぎて行く。
『私のこと、きっと恨んでるだろうなあ』
 心を痛めた数ヶ月前の夏の日のある出来事を、彼女は思い出していた。

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2008年12月 4日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(2)

『貴方はこれからもずっと、イスタンブールが変わっていくのを、ここ
でじっと見守るしかないのね。貴方の周りにはもう、かつての仲間
は誰も居なくなっているのに。こんなにも変貌してしまったイスタン
ブールを、貴方はどんな気持ちで見詰めているのかしら。きっと、
辛く悲しいんでしょうね、だってここはもう、貴方の知ってるイスタン
ブールではなくなってしまったものね。
 目の前のあのガラタ橋も、もう少しの生命ですもの。古き良きイス
タンブールの夢が、少しずつ無くなっていく。でも、誰もそれを止め
ようとしない。これが時代の流れって言うものなの?だとしたら、あ
まりにも切なすぎる。でもたとえ独りぼっちになっても、貴方は、貴
方だけは……』
 潤んだ目で彼女は、ガラタ橋のすぐ横に平行して作られた新ガラ
タ橋を見た。
『何のために人は破壊を繰り返すの。自分達の行為の愚かさにす
ら気付かずに。その結果残されるものは、たった一時の虚しい満足
感でしかないのに』
 冬の北風が、彼女の襟元の暖かさを奪うように、周りを吹き抜けて
いった。
『ごめんね……もう、行くわ。貴方にはこれまで何度励まされたこと
か。でも、これが最後よ。貴方無しでも、私は立派に生きていく。見
ててね』
 彼女はガラタ塔の中に入った。夜になると、ここでは連日観光客相
手のナイトショーが繰り広げられるのだ。有名なべリーダンサーのトラ
イ・カラジャが出演することでも知られている。夜のイスタンブールの
象徴的な、ケルバンサライと並ぶ双璧の一つでもあり、そして観光名
所でもある。誰も居ないステージを横目で見ながら、彼女は再び螺旋
階段を降りた後、エレベーターで一階へと向かった。出入り口のドア
を通り、再び屋外に出た時、彼女は最後にもう一度、ガラタ塔を仰ぎ
見た。灰茶色に薄汚れたその塔は、大空の大部分を占めて、眩しい
くらいに彼女の目に飛び込んで来た。
「さよなら、私のガラタ塔……」
 彼女は小さく囁きかけるように呟いた。もう二度とこの思い出の場所
に来ることは無いはずだった。何もかもが、あの頃と変わっていない。

 彼女は再び娼婦坂を降り、カラキョイに出た。活気とも喧騒とも言え
ぬ、彼女が以前感じたままの、イスタンブールの飾らない現実の姿が
そこにある。時の流れで変わったのは彼女の方だった。
 久し振りにガラタ橋の下の、店の有る方を通ってみようと彼女は思っ
た。ギシギシと小さな音をさせ、その浮き橋は微かに揺れている。目
ざとく彼女を日本人の観光客と見たレストランの呼び込みの男達が、
日本語の魚の名前を羅列し、「どうぞ」とか「いらっしゃい」と言いなが
ら、迷惑なくらいに行く手に何人も群がってくる。最初は無視して歩い
ていたが、流石にそのしつこさに辟易した彼女は、
「悪いけど、静かにしてくれない。私は観光客とは違うの」
 と流暢なトルコ語で、少し大きめの声で言った。呼び込みの男達は
びっくりしたような顔になり、塞いでいた前の道を開けた。橋の上では、
幾人もの釣り人が派手に釣糸を垂れている。それはいつもの見慣れ
た光景だった。

 時計を見ると、まだ少々出発までには時間的に余裕があった。当て
もなく彼女は、バスターミナルの近くにある地下道を通って、道の反対
側のイェニ・ジャミイの前に出ると、雑踏の中をゆっくりとムスル・バザ
ールの方へ歩いた。香辛料の強烈な臭いが鼻を突き始める。時間潰
しにしばらく中をぶらぶらした後、ムスル・バザールから抜け出た彼女
は、アタチュルク橋の方向に歩き始めた。右手の新市街側には先程の
ガラタ塔が後方に見えている。
 しばらく行くと、こじんまりしたバスターミナルがあり、やがて九十九
番の循環バスの表示が彼女の目に入った。行き先はエユップと表示
されている。
『そうだ、あそこへ……』

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2008年12月 2日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(1)

 彼女はカドキョイからエミニュヌ行きの、バプール(汽船)のデッキ
に佇んでいた。アジア側の鉄道の始発駅として知られる、ハイデル
パシャの駅の建物が、目の前をゆっくりと右に流れて行く。冷たい
冬の風に乱される髪の毛を手で押さえようともせず、彼女はじっと
立ち尽くしていた。それに呼応するかのように、相変わらず手前の
防波堤の上では、おびただしい数の海鳥が羽根を休めながらじっと
こちらを眺めている。
 握り締めた手の中に彼女のイニシャルの彫られた、少しくすんだ
色の使い込まれた銀のキーホルダーがあった。この地に来て初め
て迎えた誕生日に、彼女の友人がプレゼントしてくれた想い出の品
だった。だがその友人も今はこの地にはいない。
『結局、あの人が一番、私のことをわかろうとしてくれた』
 今はもう、遠い昔の煌めく思い出の一つになってしまった、束の間
の一人の男との出来事を、彼女はそのキーホルダーを眺めながら思
い巡らせていた。
『優しすぎたのね、あの人は……』
 目の前には、荷揚げされたコンテナが山積みの税関の建物が見え
る。その背後の小高い丘の上には、あまり一般には知られていない
が、思想犯のみを収鑑する刑務所があるのだ。やがてアジア側の長
距離バスターミナルであるハレムが見えてきた。バス会社の名前や
トルコ国内の色々な地名の書かれた看板が掲げられているのが微か
に見え、大型観光バスがその前に何台か停車している。まるでそれ
を覆い隠すように、折しも今しがたエミニュルから到着したばかりと思
われるカーフェリーが見え、人の波や車が動いている。
 彼女はキーホルダーをもう一度見た。裏側にはイスタンブール市の
マークが浅く彫られている。ぎゅっとそれを握り締めながら、彼女はし
ばらくの間、じっと目を閉じた。三年間に彼女がこの地で経験した色々
な出来事が、次々に頭の中に浮かんでは消えて行く。
『イスタンブールの、夢……そう、そうだったのよね』
 やがて彼女は目を開けると、唇をギュッと噛みしめ、思いっきりそれ
をクズ・クレシ(娘の塔)めがけて投げた。太陽の光の中で、それはキ
ラキラと輝きながら、遠い波間に消えた。不思議と涙は出て来なかっ
た。以前の自分なら、きっとこんな時には泣き出していただろう、と思
えた。そんな自分自身に逞しさすら感じられた。いつの間にか、幾多
の経験を経て、彼女は人間的にも成長していたのかも知れない。
 小さく溜息を付き、ふと後ろを振り返ると、そこにはイスタンブールの
三大観光名所である、通称ブルーモスクと言われるスルタンアホメッ
ト・ジャミイ、アヤ・ソフィア、そしてトプカプ宮殿が控えている。もう冬だ
というのに、手前の海岸縁のギュルハネ公園のベンチには、相変わら
ず熱々のアベック達の姿が見えている。

 やがて汽船は大きくガラタ橋の横で左に旋回すると、エミニュヌに到
着した。彼女はガラタ橋を渡りきると地下道をくぐり、急な娼婦坂を登っ
て行った。その先には、彼女がかつて独りの寂しさに辛くなった時によ
く行った、ガラタ塔がそびえている。
 入り口で入場券を買い求め、相変わらず動作の遅いエレベーターで
屋上階まで上がる。そこから螺旋階段のステップの狭さに注意しなが
ら、二階分上がると本当の最上階がある。彼女は屋外に出た。周りが
展望できるその場所で、彼女はじっと、つい先程まで自分が居たアジ
ア側を見詰めていた。
 左の方に、ボスポラスの第一大橋が灰色の淀んだ空気の中でぼん
やりと見えた。そのすぐ右にはチャムルジャの丘の巨大なテレビ塔が
見える。トプカプ宮殿から右の方に目を転じれば、何事もなかったかの
ように六本のミナレットの立つスルタン・アホメット・ジャミイ、そして殺戮
の過去を持つ赤茶色のアヤソフィアも見える。眼前の金角湾では、黒い
煙を吐きながらバプールが、相変わらず忙しそうに行き来していた。

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2008年11月30日 (日)

作者の簡単レビュー 【その30】

 女傭兵マユミについては私なりにかなり悩んだのですが、結局は
彼女の死という結末になってしまいました。私自身というよりも、登
場人物達が紡いでいった物語の流れに沿って進んだ結果、こうなっ
てしまった、というのが真実に近いのかもしれません。
 どうしても私の中では、マユミをイメージした仲間由紀恵さんが重
なって、彼女のその尋常でない清楚で美しい死に顔が脳裏に浮か
んで仕方ありません。マユミには生きていてほしかった…
 仲間由紀恵さんがもしもこの役柄だったら、マユミの心情の変化や
最後のシーンをどう思うのでしょう。必然と思ってくれるのか、それと
も自分ならこう思うって別のストーリーを思い描かれるのでしょうか。
個人的に是非とも聞いてみたい気はしますが、まあ住んでる世界が
違う人なので無理ですけどね。(笑)

 当初はこの次の章がエピローグだったのですが、あまりにもボリ
ューム的に長いので、今回のWEB掲載にあたり章を分けました。
次の第十三章のサブタイトルは「過去の呪縛」です。これまでわか
らなかった部分も次第に明らかになっていきます。そう、事実はまだ
全部明らかにはなっていないのです…。

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2008年11月29日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十二章(9)

 眠りから醒めた非常警報が、再び甲高い音でその建物の内部に
響き渡り始めた。ぐずぐずしてはいられなかった。刻一刻と破滅へ
のカウントダウンが始まっているのは、相変わらず同じなのだ。あと
は運を天に任せるのみだった。
「洋子、行こう……」
 洋子を促してその部屋から出て行く前に、ロビンはマユミの脇に
立った。ほんの数分前までの彼女とのやり取りが、嘘のようだった。
洋子は黙ったまま、横たわったマユミを見つめていた。
「この人は、いいの?」
「もう、死んでる」
「でも、この人はあなたの…」
「同棲相手の恋人だと思ってるんだろうけど、ちょっと違う。俺を育て
てくれた部隊長の娘さんだ。本当はこんな形で出会うはずじゃなか
ったが」
「そうだったの」
「…行こう、もうあまり時間がない」
 洋子はその言葉にうなずくと、ロビンを脇から支えるようにして一緒
に歩き始めた。部屋の入口のところでロビンは立ち止ると、最後に振
り返ってマユミを見た。
『マユミ。あの世で、親父さんに思いっきり甘えろよ』
 少し離れた所に転がっているゼブラの死体を一瞥して、彼らはその
部屋を後にした。

 入り口のドアを出ると、急に明るい日差しが彼ら二人を包み込んだ。
その先には村上警部補や本郷刑事達が相変わらず立ち尽くしたまま、
じっと彼ら二人がやって来るのを見守っていた。
「決着は、ついたみたいだな」
 村上警部補が言った。ロビンは小さく頷くと、今の発電所の内部の
状態を彼らに簡単に説明した。一番近隣にいる現場に詳しい関係者
がすでに数名到着しており、念のために消防車を呼ぶ手配もすでに
完了していたが、ロビンの説明に現場関係者の顔色が変わった。
「万一があるので、防護服の手配が大至急必要です。複数の関係者
ですぐにでも内部に入っていかないと、最悪の事態になりかねない」
「しかし、放射能漏れはまだ起こしてないようだし、何とか制御装置で
抑えられているのかもしれない」
「たしかに、でもいつ暴走するか…」
 皆が不安げに建物を見上げたその時、異変は起こった。
 大地を揺るがす大音響と共に、原子炉の白煙が黒煙に変わり、そ
れも異常な量が凄い勢いで噴出し始めたのだ。その噴煙はまるで天
にも届かんばかりの凄まじい勢いだった。この状態を見てしまえば、
皆パニック状態に陥るのは当然のことである。恐怖感からめいめいが
後も見ずに、一目散にその場から急いで逃げ出し始めた。同時に原子
炉のコンクリートの建屋の壁の一部が吹き飛んで、大音響と共に、逃
げて行く彼らの頭の上から容赦なく降り注いで来た。何人かの警官が
その直撃を受け、地面に倒れ込んだまま起き上がらなかった。そして
それが、逃げ惑う人々の恐怖感をさらに増長させてしまったのである。
 その中に混じって、洋子を庇うようにしてその場から離れようとしたロ
ビンの真上にも、人の頭程もある大きさのコンクリートの塊が降り注い
だ。強烈なショックが二人を襲い、彼らは否応なく地面に叩き付けられ
た。辛うじて意識はあったものの、ロビンは全身が自由にならないよう
な状態になってしまった。集中的な痛みから察して、彼の背中にコンク
リートの塊が直撃したようだった。そして気を失った洋子が、ロビンの体
の下にいた。

 非情にも空は、一転にわかに淀んだ黒雲で覆われ始めていた。轟音
と共に、背後の原子炉がいつの間にか燃え盛っている。ロビンにはコン
クリートが燃える光景が不思議だった。いち早く消防車が現場に駆け付
けて消火作業が開始されたが、火はいっこうに衰える気配を見せなかっ
た。その一方で、防護服を着た原子炉関係者が、火事の中を必死の作
業を決行していた。だが、彼らが内心一番恐怖していたことがやがて起
こった。あたり一面に雨が降り始めたのだ。
 ロビンにもこの雨がただの雨ではないことは本能的に感じ取れていた。
何か鉄分を含んだような、異様な臭いと味がするのだ。雨が降り始める
前の土っぽい臭いとは明らかに違う。自分がこのような盾になってみた
ところで、所詮はこの放射能を含んだ雨から洋子を守れるわけがなかっ
た。それはただの気休めにしか過ぎない。だが今のロビンにはそうする
ことしか出来なかった。これまで仕事とはいえ、幾多の人間をその手で
殺して来た。その報いが今訪れているのかもしれない。だが出来ること
なら、この放射能を一身に浴びても、周りの人間が皆死に絶えても、洋
子にだけは無事でいて欲しかった。
「洋子は関係ないんだ。お願いだから、不幸は俺一人だけでたくさんだ。
頼む!」
 ロビンは生まれて初めて、神に祈った。洋子だけは自分の生命に代え
ても守り通したい、それが津田宗弘としての、そして傭兵ロビンとしての
一人の男の確固たる意思だった。
「黒い雨が…」
 ロビンは、泣き出した曇り空から舞い降りる、灰色の雨粒を見上げなが
ら、つぶやくように言った。それが自分の顔を始め、あたりのあらゆる場所
を濡らしてゆく。瓦礫が散乱するだけの身を隠す場所すらない状況で、人
々はただじっと黒い雨に打たれるだけだった。
「洋子、俺はこれからどうしたらいいんだ。教えてくれ」

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2008年11月25日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十二章(8)

「洋子、お前……」
 その声で我に返った洋子の手から、銃が床に滑り落ちると、静かな
その部屋の中に、金属のやけに大きな音が響き渡った。ロビンは銃
を杖のようにしてゆっくりと立ち上がると、全身の痛みをこらえながら
彼女の所へ歩いて行った。おそらくは生まれて初めて手にしただろう
本物の銃の引き金を引き、実弾の発射される時に予想以上の衝撃を
受けたことに、彼女は未だに呆然としているように見えた。
 それに加えて彼女は、ロビンがゼブラを撃ち殺した現場をその目の
当たりに見たはずだった。通常の人間が、人が殺される現場を見た
時のショックは半端ではない。近付くと、彼女の唇がわなないている
のが、ロビンにははっきりとわかった。
「貴方が殺される、って思ったから……夢中で、私……」
 洋子はそう言うと、泣きながらロビンの胸に飛び込んで来た。少しよ
ろめきながらも、彼は両手でしっかりと彼女を受け止めた。杖代わりの
CAR-十五はもはや不要だった。
「わかってるよ」
 そう言ってロビンは洋子をきつく抱きしめた。むせ返るほどの自分の
血の臭いの中でも、彼女の香りがはっきりと識別できることが、ロビン
にとっては不思議だった。

 どのくらいの時間、そうして二人で抱き合っていただろうか。不意に、
まるで水が沸騰しているような不気味な音が、次第に高まって来るの
が背後から聞こえた。音は中央の丸い大型のポットのような所の内部
から聞こえていた。明らかに異常なのだろうが、彼にはどう対応してい
いのかわからない。唯一わかっていることは、このままではこの原子
炉が恐らく大爆発を起こして日本中が汚染されてしまうだろうというこ
とと、彼ら二人がその最初の犠牲者になるという事実だった。
『たしか、ゼブラは電源系統を切断したと言ったな。警報音が止まった
のもそのせいか……だが、奴にそれほど時間的な余裕はなかったは
ずだ…とすると、奴はあそこからここへ降りてくるまでの間に、それを
やってのけたのか?………どこだ』
 見渡すと、壁際の大きな電源ボックスがロビンの目にとまった。彼は
そこまで必死の思いで歩くと、ボックスのドアを開けた。ブレーカーは
全てオフになっている。即座に彼は全てのブレーカーをオンにした。
『たったこれだけのことで、奴は電源系統を切断したと言ったのか』 
 ロビンの不安は消えていない。警報音は止まったままなのだ。難し
いことは皆目わからないが、冷却水のポンプが作動していないことが
原因で、原子炉が暴走を始めたように思えた。
『だが、緊急停止装置っていうのがあるだろう。それが働くんじゃない
のか』
 これまで幾度となく繰り返されてきた電力会社のPRでは、万一の場
合でも二重、三重の安全装置が働き、大災害には至らないとされてき
ている。だがそれらとて所詮は、電源が切られてしまえばただのガラク
タにしか過ぎない。
『あとは?……他にも絶対何かあるはずだ』
 見渡したロビンの目に、扉が半開きになって何本かコードらしき物が
垂れ下がっている、中二階の壁際に設置された電源ボックスが飛び込
んで来た。瞬間、ロビンは嫌な予感がした。まどろっこしい自分の身体
の動きに苛立ちながらも、駆け巡る痛みに顔をしかめながら、彼は螺旋
階段を登ってその場所に行った。洋子は下で心配そうに見上げている。
扉を開けると、「ECCS」と朱書されたスイッチに繋がる線が引き千切ら
れて、他にも幾つか破壊された部分があった。何処が何処に繋がるの
かすら、すぐには判断出来ない。
『駄目だ……』
 ロビンは戦慄した。彼は破壊されていないスイッチを全てオンにすると、
再び階段を下りた。長居は無用だった。

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2008年11月21日 (金)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十二章(7)

「そんなに悲しむことはない。すぐにまた会わせてやるさ」
 間近で声がした。いつの間にか警報音も途絶えて、あたりはしん
と静まり返っている。声の主の方をゆっくりと振り返ると、そこには
ゼブラがうす笑いを浮かべながら、銃口をロビンに向けて立ってい
た。ロビンは思わずカッと頭に血が昇った。
「貴様!」
 ロビンはゼブラを睨んだまま、ゆっくりとマユミを床に横たわらせた。
「ふん、そんな怖い顔して俺をにらむなよ。その腕で俺と勝負しよう、
ってのが十年早かったんだ。それだけのことさ」
 それだけ言うとゼブラは真顔になり、引き金にかけた指に少し力を
入れた。
『この至近距離だと、俺の頭の半分は跡形もなく吹っ飛ぶな』
 そう思いながらロビンは、じっとゼブラを見詰めたままだった。
「まさかとは思うが、わざと外して嬲り殺しにしようなんて思うなよ、
ゼブラ。俺は今くらい人を殺したいと思った時はない」
「当たり前だ。俺が今までそんなドジなことをした事があったか」
 ニヤリとゼブラは笑い、引き金に掛けた指に力を入れた。その時、
不意に乾いた連射音が二人の背後で上がり、同時に彼らの周囲の
コンクリートの床が何箇所か被弾し、コンクリートの破片があたりに
飛び散った。ゼブラが思わず目線をロビンからそらしたほんの一瞬、
その僅かな隙を付いてロビンは動いた。
 彼は自分でもびっくりするくらいの早さで、脇の銃を掴んで床を転
がり一回転すると、ゼブラめがけて無我夢中でCAR-十五の引き
金を連続して引き続けていた。同時にゼブラも、ロビン目掛けてウ
インチェスター二七〇の引き金を連続して引いた。互いの銃声が
大きくその部屋に数秒間こだまし、互いの肉体が至近距離からの
被弾の衝撃で大きく揺れ動いた。そしてその後に、長い沈黙の時
が訪れた。

 体がちぎれそうな激しい痛みが全身を襲っていたが、ロビンには
今自分が生きていることが不思議だった。彼は床に仰向けに横た
わったまま、しばらくぼんやりと天井を見ていた。即死だけは何と
か免れているようだったが、身体が言うことをきかない。
「う……」
 それから数秒経っただろうか、やがてゼブラの呻き声が足元の
方で小さく聞こえた。その声にうながされるように、ロビンは肩や
腹の痛みに耐えながら上半身を起こし、ゼブラの方を見た。何発
が相手に命中したのかわからないが、互いに即死は免れていた。
ゼブラはうつ伏せに倒れていたが、身体の右半分を斜めに浮かせ
るようにしてロビンの方を見ており、なおかつ両手にはしっかりと銃
が握り締められ、その銃口はロビンの頭部に照準を定めていた。
『よっぽど俺を殺したいんだな……』
 自分でも驚くほど冷静に、ロビンはゼブラを見つめていた。
「貴様さえいなければ……全てが上手くいったんだ。だが、もう遅
い。電源系統を切断したから、この建物はあと数分で木っ端微塵
だ。もう誰にも停められんぞ。日本中を放射能汚染させて壊滅させ
てやる」
 にやりと笑うとゼブラは引き金を引いた。カチンと小さな音がした
だけだった。
「お前の運も尽きたってわけか、ゼブラ」
 ロビンはCAR-十五の引き金を躊躇無く、即座に引いた。銃声が
大きくその部屋にこだまし、床にゼブラの死体が転がった。
「弾倉には常に弾丸を残しておけ、って教えてくれたのはあんただっ
たろうが……」
 ロビンはそうつぶやくと、その部屋の入り口付近を見た。AK-四
七らしき銃を胸元に、じっと立ち尽くし、ロビンの方を見ている人間
の姿があった。洋子だった。

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2008年11月17日 (月)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十二章(6)

「マユミ!」
 ロビンは彼女に自分の方を向かせるためにそう叫び、彼女にジェ
スチャーで自分の意思を伝えた。彼女は大きく頷き、にっこりとロビ
ンに微笑み返すと、弾倉を新しいものと交換した。弾が途中で無く
なったのでは援護射撃にはならない。
 ロビンは大きく頷くと、コントロールテーブルから素早く顔を出し、
ゼブラのいると思われるあたりに一発御見舞いすると、すぐさま一
気に走り出した。マユミの前を走りながら、その螺旋階段に向かう。
マユミがその後を間髪を入れず、ゼブラに銃を撃つ余裕を与えさせ
ないように、連続の援護射撃を行った。抜群のコンビネーションだっ
た。
『いいぞ、マユミ。その調子だ。もう少しだけ頑張ってくれよ!』
 神に祈るような気持ちで、ロビンが螺旋階段を駆け登ろうとしたそ
の時、不意にマユミの銃声が途絶えた。続いてガシャガシャという
音が聞こえた。
『……ジャミング!』
 マユミの青ざめた表情が、一瞬ロビンの脳裏をかすめた。
『まずい!』
 マユミが体勢を整えるまで、今度はロビンが援護射撃をしなくては
ならない。そう思ってロビンが素早く銃を構え、遮二無二ゼブラのい
るあたりりを狙撃しようと引き金に指を掛けた時、聞き慣れたウイン
チェスター二七〇の銃声が数発、その部屋に響き渡った。同時に「
ウッ」と言う小さな呻き声と共に、マユミの身体がゆっくりと床に膝か
ら崩れ落ち、うつ伏せに倒れた彼女の背中に長いストレートの髪が
おおうように広がるのが見えた。
「マユミ!」
 ロビンはマユミの元に駆け寄ると、銃をその場に投げ捨て、彼女
を抱きかかえた。もはや彼等の敗北は明らかだった。同時にロビン
は自分の死をも覚悟した。
「ごめん、貴方の役に立ちたかったのに……」
 マユミは力なく笑みを浮かべた。弾丸は肺を貫通しているらしく、
抱きかかえるロビンの左手がねっとり濡れてきているのがわかった。
大きくむせかえると、鮮血が一筋マユミの口元からゆっくりと流れ出
した。
「喋るんじゃない。すぐ病院に連れてってやるからな」
 マユミは首をゆっくり左右に振って、努めて笑顔でロビンの目をじっ
と見ていたが、やがてその潤んだ目から、不意に涙がこぼれ落ちた。
「気休め言わないで……駄目だってことくらい、私にだって判ってる。
……でも私、死にたくない……貴方のために………生きたい……本
当よ」
 悲しそうな目で、マユミはロビンをじっと見つめた。
「ロビン……好きよ……」
 泣き出しそうな顔つきでマユミは、左手でロビンの右の二の腕をぎ
ゅっと握り締めたが、その力が次第に弱くなっていった。やがて彼女
の頭が不意に力を失ったと同時に、緩やかに彼女の左手がロビンの
右腕を離れ、床に滑り落ちていった。瞬間、ロビンは言葉を失った。
「マユミ、嘘だろ?……なあ、マユミ、返事してくれよ。マユミ!」
 ロビンはマユミの体を揺さぶり、何度も声をかけた。だがすでにマユ
ミは息絶えていた。涙が幾筋も頬を伝って、マユミの顔の上に落ちて
いく。唇を噛みしめ、ロビンはマユミを強く力の限りに抱きしめた。彼
にはそれ以外に、今の自分の感情を表現することが出来なかった。
マユミの最後の言葉が、あまりにも切なく彼の心を締め付けた。そし
てそのすぐ脇では、放り出された銃が持ち主を失って、途方に暮れて
怪しく輝きながら眠っていた。

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2008年11月15日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十二章(5)

 警報装置のうるさい音に紛れて時折、鈍い銃声が奥の方でした。
ロビンはともすれば走り出したい衝動を必死に押さえながら、注意
深く足音を忍ばせ、音のする方にゆっくりと向かった。今この建物
の中にいるのは、ロビンとゼブラとそしてマユミだけの筈なのだ。
 両側をコンクリートに挟まれた幅三メートルほどの廊下を、彼はゆ
っくりと進んでいた。方向的に、建物の中央に向かっていることだ
けは間違いなさそうだった。淀んだ空気がやけに身体を締め付け
ているような気がし、同時に異常なほど急激に咽の乾きが気にな
り始めた。
 数メートル先がやけに明るい。おそらく発電所の中央の空間から
の明かりが漏れてきているのだろうと思われた。すぐそこに二人が
いるのだと思うと、自分が緊張するのがロビンには判った。
 乾いた銃声が聞こえ、次の瞬間、彼は意を決してその中央の空
間に飛び込んで行った。瞬時にして彼の数十センチ脇で、コンクリ
ート・タイルの小さな煙と炸裂音が連続して上がった。的確な射撃
だった。彼としては一番標的になりにくいように充分注意して、回
避動作をしながら動いているつもりなのだが、だんだん着弾位置
が彼に近付いて来ているのがわかり、瞬時の判断で左右の隠れ
る場所を探した。

 勢いよく踏み込んだロビンの左足のすぐ近くに着弾があった時、
反射的に彼はすぐ近くの右側に目に付いた、コントロールテーブル
の下に滑り込みながら、一瞬鋭い視線で周囲とその空間の構成を
一瞥した。その部屋は、円形の直径三十メートルくらいの大きさで、
中央部にはちょうど上から見ると鍵穴のような形の、堅固な機械の
ような物が壁の一方から、周りを幾重もの建築現場の囲いのような
鉄で出来たパイプで囲まれながら、繋がって建てられていた。そこ
の中二階のような場所に、人影が一瞬だけ見えたような気がした。
それとほぼ同時に彼の左腕に熱い感触が走った。完全に自分の
行動パターンは読まれている、とロビンは思った。
『ゼブラか!』
 マユミが自分を誤射するとは考えられなかった。それに彼女はま
だ、ロビンの回避パターンを知らないはずだった。テーブルの陰から
周りを見渡すと、ちょうど反対側のコンソールの脇に、そのマユミの
姿が確認出来た。片膝を立てて座り込んでいる彼女の迷彩服の所
々がどす黒く染まり、照明の光の加減で時折鈍く光るのが見える。
思いのほかダメージが大きい様子で、肩で息をしているのが、ロビ
ンのいる位置からも確認出来たくらいだった。
「マユミ、大丈夫か!」
 思わずロビンは叫んだ。その声が届いたのか、彼女もロビンの方
を見て力のない笑みを返した。状況的には二人とも圧倒的に不利
な位置にあった。見晴らしの良い場所からの狙撃が有利なのは、
至極当然である。ましてやゼブラのスナイパーとしての腕前を考え
れば、二人がかりで対抗してみたところで、どう見ても勝負は時間
の問題であった。あの夜、ゼブラの眉間を打ち抜かなかったことを、
ロビンは後悔した。
「ゼブラ、これ以上無駄なことはやめろ!野宮は逮捕されたぞ」
 返事の代わりに、ロビンの隠れているコントロールテーブルに銃弾
が一発お見舞いされ、小さな火花と金属音が上がった。
 中二階に登る螺旋階段はただ一ヶ所、マユミの隠れているコンソ
ールのすぐ前にあるだけである。相手がゼブラである以上、ロビンが
それを強行するには余りに危険が大きすぎた。おそらくは階段を半
分も登りきらないうちに、見事にあの世とやらの入り口に立っている
自分を発見することだろう。殺して下さい、と言っているのと同じこと
なのだ。
 方法はただ一つ、マユミが援護射撃をしている間に、一気にロビン
が全速力で螺旋階段を登りきるしか手はなかった。それしか今の状
況を突破する道はない。だが問題は、果たして今のマユミがゼブラの
カウンタースナイパーとして、彼の注意を充分に引き付ける役目が出
来るかどうかである。だがそれは彼女を信じるしかないのだ。

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2008年11月13日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十二章(4)

 その場に居合わせた全ての人間の動作が凍りつき、そして静寂
があたりを支配した。やがてドスッという鈍い音と共に、眉間を見事
に打ち抜かれたプリズムの身体が地面に倒れた。ゼブラの姿はす
でに発電所内部に消えて、その場には放り出されたAK-四七が
あった。恐らく発電所内部に彼の愛銃ウインチェスター二七〇が置
いてあるのだろう。ロビンはマユミの方を見た。マユミは彼にウイン
クして見せ、微笑みながらゆっくりと立ち上がった。
「役に立てたみたいね」
 そのマユミの言葉にフッとはにかむように笑うと、ロビンは銃を下
ろして背後をゆっくりと振り返った。そこには村上警部補と本郷刑
事、そして何故か白鳥洋子が一緒にパトカーの脇に立っていた。
パトカーに設置されている警察無線が、時折ノイズと共に何かを叫
んでいるのが聞こえているだけで、誰も一言も発しなかった。
 不意に構内に非常警報ベルが鳴り響き、その場に居合わせた人
間は皆思わず発電所の方を見た。その時、不意にマユミが長い髪
をなびかせながら発電所の方に向かって駆け出したのだ。
「馬鹿な!マユミ、お前の腕でゼブラに勝てるわけがない。引き返
せ」
 プリズムの死体の足元に転がっているCAR-十五コマンド用サ
ブマシンガンがロビンの目に留まった。素早く取り上げて、弾倉に
まだかなりの弾丸が残っているのを確認した後、彼は気になって
洋子の方を振り返った。洋子もじっと彼の方を見ている。
 これで自分のカバーは完全にスッ飛んでしまうだろう。出来るなら
自分の正体は洋子にだけは知られたくなかった。津田宗弘としての
本音を言うなら、今は何もかも捨てて洋子の方を取りたかった。彼女
との明るい未来を選びたかった。しかしマユミをみすみす見殺しにす
るのは、彼の中の傭兵ロビンが絶対に許さない。逡巡している間に
も、発電所の中からは警報に紛れ、時折かすかに小さな銃声が聞こ
えて来る。
「すまん、洋子。俺はやっぱりお前の恋人としては失格なんだ」
 行かないで、と洋子の唇が動いた。ロビンはサブマシンガンを握り
締めた。悲しいほどに切なかった。心底からこの場に置き去りに出来
る自分がもう一人欲しかった。
「あいつが呼んでるんだ。行かなきゃ」
 洋子の悲しみに満ちた顔を振り切るように、ロビンは発電所の方に
向かって駆け出した。ロビンとて、自分がただで済むわけがないのは
百も承知している。
『衝動的な感情で今の俺は動いているのかも知れない。だが……わ
かってくれるよな、洋子』
 それは決して洋子に届くことの無い、彼の心の叫びだったのかもし
れない。

 開きっぱなしのドアから中の気配を伺い、聞き耳を立てながら、ロビ
ンはしばらくの間じっとしていた。構内に鳴り響く警報音以外には、不
気味なくらい物音一つしていない。彼は注意深くあたりの様子を伺い
ながら、その建物の内部に侵入して行った。
 ゼブラがウインチェスター二七〇を愛用していたように、ロビンもCAR
-十五なら扱い慣れていた。かつてのブラック・ローズ部隊のスナイパ
ー科目で、CAR-十五コマンド用サブマシンガンで、二百メートル先に
動く直径二十センチくらいの標的に対して、十発を速射に近い状態で
全て命中させられる程の腕前だったのだ。もちろん望遠レンズなど付
けずに、である。当時はゼブラに一歩譲るとは言え、ロビンの射撃の
腕前もかなりのものであった。ただし残念ながら、今それと同じことが
出来たとすれば、ほとんど奇跡に近かった。

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2008年11月12日 (水)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十二章(3)

 二人はほぼ同時に振り返って、その原子力発電所を見た。先程ま
での表情とは打って変わって、二人とも自然と視線が鋭くなっていた。
ちょうど正面入り口の方を向いている監視カメラが一台あるのが、辛
うじて確認出来た。ロビンは彼にしては珍しく慎重に狙いを定めると、
引き金を引いた。
 鈍い音をしてカメラが破壊されたのと同時に、二人は飛び出すよう
にしてその発電所の正面入り口に向かった。ゼブラやプリズムが監
視カメラをどの程度見ているかはわからないし、今彼らが何処にいて
何をしているのかもわからないが、異常が起こったことを彼らが察知
するよりも前に、出来るだけ早くロビン達は正面入り口に到達してお
く必要があるのだ。
 重い鉄の扉が、辿り着いた彼らの正面にあった。近くで見るそれは
思いのほか、分厚く巨大な物だった。マユミは素早く扉の周辺をあち
こちを見渡し、扉の脇を這っている警報装置らしき線を見付けると、そ
れを素早く引きちぎった。その時、それを合図のようにその扉がゆっく
りと開き始めた。そしてその扉の向こう側に並んで、二人の人間が彼
らを笑顔で出迎えている姿が目に入った。
 瞬時にロビンとマユミは左右に別れて飛んだ。同時に乾いた連射音
が静かな構内に響き渡り、今まで彼らが立っていた場所のコンクリー
トの地面が白い煙を立てた。扉はやがて完全に左右に開き切った。
「ようこそ……」
 不気味に笑いながら、ゼブラがそう言った。その声を聞きながら、ロ
ビンはどうしたものかと思案した。すでに彼らは先程とは違った位置に
移動を開始している筈である。マシンガンの類であれば、連射しなが
ら踊り込んで、きっかけを掴むことも可能だろうが、彼らは通常のスナ
イパー用の銃しか持っていない。そして先程の一瞬の光景の中で、
ゼブラはAK-四七を、そしてプリズムはCAR-十五を構えていたの
だ。

 その時遠くの方から、パトカーがサイレンを派手に鳴り響かせながら、
かなりの数でこちらに向かって来るのが聞こえて来た。あらかじめ示し
合わせていたわけではなかったが、それを合図にロビンとマユミは同
時にゼブラ達がいたあたりを狙って数発を盲撃ちで発射しながら、その
門の所で互いにクロスしながら内部に飛び込むと、地面を転がりなが
らさらに数発を発射した。回転しながら移動する視界の中での狙撃は、
狙いが定まらず全く正確ではないが、今の場合は弾が何処に飛んで
行くかが保証出来ないそちらの方が、ロビン達には都合が良かった。
 案の定、彼らは位置を大幅に移動していたが、数発の内の一発が少
し離れた所にいたプリズムに命中したらしく、彼が一瞬躊躇するのがロ
ビンの視界に入った。一方で彼はゼブラの姿を探した。発電所の入り
口の所で、ゼブラが内部に走り込もうとしている後姿が、ロビンの目に
入った。
「ゼブラ!」
 そう叫ぶとロビンは、視界の端にプリズムが引き吊った形相で、自
分に銃を向けているのを知りながらも、起き上がりながらゼブラの背
中に向けて銃を構えた。同時にマユミがプリズムに銃口を向けていた。
間近に一台のパトカーが突然荒々しく停まり、数人が慌てて降りる物
音を背後に聞きながら、ロビンは引き金を躊躇無く引いていた。ほぼ
同時に三発の銃声が起こり、谺のようにその音が構内に響き渡った。
ロビンの耳元のすぐ脇を、いつか聞いたのと同じ鈍い音が、空間を切
り裂くように通り過ぎて行った。

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2008年11月 9日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十二章(2)

 そこにはもう日本からとっくに脱出しているはずの、マユミの笑顔
が草原の中にあったのだ。彼女は唖然としているロビンを尻目に、
彼の横めがけて、原子力発電所から見えないように気を配りなが
ら、屈みながら走ってやって来た。手には彼女愛用の銃が握られ
ていた。H&Kのスナイパーライフル、PSG-一である。
「マユミ、お前」
「ふふ、来ちゃった」
 そう冗談っぽく言う彼女は、この上もなく幸せそうな顔をしていた。
彼女が近付いて来た方の彼方には、見覚えのある車が目立たない
ように停まっていた。多摩ナンバーの紺とグレーのツートンカラーの
見慣れた車、それは他ならぬロビン自身の車だった。それを見た瞬
間、ロビンには彼女の行動の全てがわかった。
「まったく……。呆れてものが言えんよ」
「しゃべれてるじゃない。で、どうなの?」
 ロビンは仕方なく簡単に状況を説明した。ここから戻れと今さら言
ってみたところで、マユミが素直に言うことを聞くとはとても思えなか
った。たしかに今は猫の手も借りたいぐらいだったが、ロビンとしては
内心はかなり複雑な心境だった。
 本郷刑事や村上警部補達は今頃何処でどうしているんだろう、と
ふとロビンは思った。昨夜はあれから、おそらく酒井を連行して訊問
しているはずだし、新たな証言が得られているかも知れない。レイン
計画の全貌や関わりあっている人間達が何処まで判明するかに興
味はあったが、今ロビンが知りたいのはゼブラ達がこれから何をする
つもりなのか、という事だけだった。ロビンは高性能双眼鏡を自分の
部屋に置き忘れて来たことを後悔した。そんな彼の気持ちを察したか
のように、マユミがつと彼にその双眼鏡を差し出した。
「要るんでしょ、そう思って持って来たわ。なんて言ったら、嘘……私
が貴方の動向を探るのに必要だったから、きっとあるだろうと思って
押入れの中を探して、勝手に持って来たの」
 ロビンはマユミに礼を言うと、早速それを発電所の方に向け、しば
らく様子を伺った。監視カメラの位置を探ろうとしたのだ。同時にゼブ
ラとプリズムのいる位置も掴んでおかなくてはならない。その横でマ
ユミが、何やら包装紙を開く時のような、ゴソゴソした音をさせていた。
「はい……」
 そう言うとマユミはロビンの鼻先に、どことなく恥ずかしそうな表情で、
アルミホイールで包んだ何かの固まりを差し出した。
「言われる前から言っとくね……おにぎり、のつもりだったんだけど、上
手く出来なくて結局、ただのご飯の丸い塊になっちゃったの。ゴメン」
 笑顔でそれを受け取ると、ロビンは包みを開いた。もうすっかり冷め
切っているが、この上もなくそれは温かく感じられた。不器用な彼女が
一生懸命作った様子がうかがえ、梅干しの赤い部分があちこちにはみ
出していて、確かにお世辞にもいい形ではなかった。
「そうだな。腹が減っては戦さは出来ぬ、か。遠慮なくご馳走になるよ」
 旨そうにロビンは、そのおにぎりにかぶりついた。どうもいつもの悪い
癖で、熱中するとロビンは食欲が何処かに置き去りになるのだ。ロビン
が美味しそうにその形の悪いおにぎりを食べるのを見て、マユミも安心
したのか、彼女も同じようにアルミホイールに包んであった自分用のお
にぎりを取り出し、食べ始めた。ロビンはまるで二人でピクニックにでも
来ているような錯覚すら覚えた。最近の一連の出来事が、まるで夢の
ようにすら感じられる。だがこのくつろぎは束の間の今だけに約束され
た、はかない夢物語にしか過ぎないことを、二人は知っていた。
 いつものように、食べ終わるとロビンはショートピースにジッポで火を
付け、大きくそして長く白い煙を吐き出した。脇でマユミはじっと、目を
細めるようにしながらそれを見ていた。やがてロビンは煙草を地面でも
み消した。傭兵達の戦いの前の休息は今、終わったのだ。

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2008年11月 7日 (金)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十二章(1)

 結局ロビンが、ゼブラが潜んでいる原子力発電所を発見するまで
には、かなりの時間を要した。ある発電所だけ全く人気がなく静ま
り返っていたのを不審に思い、近付いて確認したのだが、そこには
ゼブラだけではなく、もう一人の男の姿が有るのが見て取れた。
『プリズム!今度は貴様か』
 ブラック・ローズ部隊の工作班の中心的存在で、カモフラージュを
得意とする傭兵パープルは、射撃は決して得意な方ではなかった。
それゆえに辛うじてロビンは彼を仕留めることが出来たのだが、相
手が傭兵プリズムでは同じことは二度とは続かない。彼は身の軽
さでは部隊随一の腕前だったし、今でもその筈である。射撃の腕は
少なくともパープルよりは上である。それにプリズムとゼブラの二人
が相手では、ロビンには勝ち目は絶対に無い。
『さて、どうするかだが……』
 彼らがこの原子力発電所で一体何を企んでいるのかは、ロビンに
は見当が付かない。原子力発電所の破壊は一番考えられるところ
だが、それをすれば彼らが一番最初に死ぬ。幾ら何でもそんな馬鹿
げたことを実行しようとしているとは思えなかった。だがある意味、日
本の象徴を消そうとまで考えて、実行しようとしている連中のことだ。
その可能性が絶対に無いとは断定出来ない。
『ひょっとして、本当のレイン計画って言うのは』
 まさかとは思いながらも、ロビンは戦慄が走るのを禁じえなかった。
今の日本で原発が一基でも爆発すれば、放射能を強烈に含んだ雨
は、一両日中に日本全土に降り注ぎ、日本は瞬時に壊滅状態に陥
り、国際的な存在価値が消える。円はただの紙切れに変わり、日本
の歴史は終わったと世界中が見放すだろう。必然的にその結果、国
内で生じるものは、混乱を避けるための戒厳令である。その中で日
本人は誰も真実を知らされずに、最後の一人まで見えない放射能に
おかされて、血を吐いて苦痛にのたうちながら死んでいくのだ。
 これまで幾らでもその気になればチャンスがありながら、海外に決
してトリムの金を持ち出さなかった野宮が、どうして今回に限ってわ
ざわざハンドキャリーしてまで、無理に持ち出す必要があるのか……
それが答えなら、筋が通るのだ。今回を逃せば、二度と持ち出せなく
なるような状況が生まれるからに違いないからだ。つまり野宮は生き
ているうちに、二度と日本の土を踏むつもりはない、と言うことになる。
そしてそれは、彼の意思とは関わり無く、日本が二度と立ち入れなく
なる状況が生まれるから、に他ならない。
『もう一度あの呪わしい、黒い雨を降らせることなんじゃないだろうな』
 たかが一つの狙撃で国内や世界が混乱する程度で終わるのなら、
野宮は単にその期間を海外で過ごせば良いのであって、わざわざ大
金をハンドキャリーする必然性はない。混乱に乗じて、番号が控えら
れた金をきれいな物に変えようという魂胆があるとしか思えないのだ。
『だから失策を犯したゼブラだけでは不安だから、パープルとプリズム
を呼び寄せた、か』
 野宮は今ごろ、警察の予期せぬ訪問を受け、緊急逮捕されているは
ずだった。それとも野宮が外交特権とやらを振り回して逃げたか、それ
はロビンには判らない。ここまで来たら日本の警察の良心を信用するし
か方法はないのだ。

 車をはるか彼方に置いて、ロビンは地形を上手く利用しながら、その
原子力発電所に接近していた。幸いなことに深い霧があたりを包み始
めている。少し窪んだ地形の草原で彼は横たわると、仰向けに寝転が
りながら煙草を吹かして灰色の空を見ていた。別にこれと言った名案
が浮かぶわけでもなかった。彼の脇には昨夜パープルが持っていた、
〇〇七の映画にも登場したことがあるドイツ軍のスナイパーライフル、
WAニ〇〇〇が暇そうに出番を待っていた。ご丁寧にもレーザーノクト
ビジョン付きである。ふと何気なく彼方の道路沿いを見ると、霧の中を
木の陰に隠れるようにして、覆面パトカーが一台停まっているのが彼
の目に入った。
『ふ、見張り付きってわけか。…まあ、仕方あるまい』
 まるでこの二日のことなど嘘であるかのように、ヨーロッパの何処か
の田園風景のようなのどかな光景が目の前にある。そしてその中に
原子力発電所が、静かにそして不気味に立っていた。
 その時ロビンは、自分を呼ぶ誰かの声を微かに聞いた気がした。声
のしたあたりを何気なく見て、彼は我が目を疑った。

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2008年11月 4日 (火)

作者の簡単レビュー 【その29】

 この第十一章を書き始めた当初は、こんなに長くなる予定じゃ
ありませんでした。イスタンブールで書いていた第一稿ではトル
コ部分の解決パートがろくに含まれていなかったので、読み返し
た時に、いくら何でもこれじゃあ片手落ちだよなあ、と思い直して
補足的に書くだけのつもりだったのです。

 全般的にこのRobbinⅡでは登場人物たちに引っ張られる形で
物語が作られていっている気がします。ケマル記者やハリム刑
事の部分なんて、その最たるものです。
 またイスタンブール編では、実は登場人物の名前にけっこう苦
労しています。よくあるトルコ人の名前とか、仕事関係で知って
いる人達の名前を一部勝手に借用したりして、それらしい名前に
して使っています。

 次の第十二章のサブタイトルは「哀しみのスナイパー」です。
日本編もついにクライマックスに突入します。そしてロビン対ゼブ
ラ、宿命の対決がついに決着をむかえます。

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2008年11月 3日 (月)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(10)

 イイギュン警部同様に、ハリム刑事もこのサカイ副領事の行動に
は疑問を持っていた。だが彼にはもっと気になることがあった。派
遣された二名の警官、そして殺害現場検証に立ち会った警官、そ
れらにはいずれにも共通する名前があったのだ。
『オルファンと、そしてもう一人…』
 ハリム刑事は、あらためてケマル記者の経歴も見直してみた。
「もともとトラブゾン生まれで現地で結婚し、地元の新聞社に勤めて
いたが、企業癒着や裏金などの摘発記事が評判を呼び、それに目
をつけたギュナイドン紙が破格の契約金で引き抜いたようだな。彼
が単身イスタンブールにやって来たのが、六年前の秋のことだ。し
かしイスタンブールでは地方と違って競争も激しく、なかなか才能
が発揮できないでいたようだ。だが三年前頃から頭角を現してスク
ープ記事を連発するようになってる。何かきっかけがあった筈だが。
まさか…ちょっと待てよ」
 そのルポライター殺害事件の、当時の各新聞紙の報道記事も、
ハリム刑事はすでに収集済みだった。掲載されている現場写真は
ギュナイドン紙のが圧倒的な迫力で、記事内容も他社にはない情
報が含まれていた。確認のため、ギュナイドン紙に連絡し、その回
答を得た時、ハリム刑事の中で何かがつながった。
『そういうことか、その時からつながっていたんだ。だとすると…』
 ハリム刑事は、深呼吸をひとつすると、パソコンの画面に向かっ
た。カーソルが点滅していて、早くパスワードを入れろと言っている。
「i…y…」
 その六文字を入力した後、ハリム刑事は確証を持って、エンター
キーを押した。
「やっぱり!」
 ファイルが何事もなかったかのように開いたのだ。たしかにあたら
めて考えると、両方の事件に関わっている人物を、ハリム刑事は迂
闊にも見逃していたのだ。
『だから、このパスワードか。情報提供を受けてたんだ』
 だがその内容は期待した程でもなく、特に捜査の有力情報になり
そうな内容は含まれていなかった。ハリム刑事はあらためて、カワ
ダ夫人殺害の調書を読み直したが、これには彼自身も当初からか
らんでいたので、特にそういった意味では目新しい発見はなかった。
「ここでも、その後、ルポライターのツダが川田氏の要請を受けて派
遣されてきてる。……妙だな、両方とも本物のルポライターなのか。
ツダの泊まっていたホテルはよくあるツーリスト向け安ホテルだから
真実味があるが、最初の方はスポンサーでもいない限り、ルポライ
ターが泊まる場所としては、高級ホテルっていうのは妙に不自然に
思える。偽者のような気がするが、彼には別の目的があったのか、
またはそこに泊まるように仕組まれていたとも言える。人の出入り
が多いホテルなら、多少は挙動不審でも気付かれにくい。待てよ、
最初の事件でホテル側にハヤシの宿泊予約したのは誰だ?」
 ハリム刑事はシェラトンホテル側に確認電話を入れ、調べた後に
折り返し電話をもらうことにした。画面上にはもうひとつ、そのホル
ダーの横に、トルコ語でバラを意味する「gul」というタイトルのホル
ダーがあった。こちらもパスワードは娘の名前ではなく、また今回
判明したパスワードでもなかった。少し本能的に嫌な感じはしたの
だが、ハリム刑事は今はそのホルダーは気にしないことにした。
と言うよりも、こちらの方こそ、まったく見当が付かないのだ。未知
の事件が何かあるのかもしれなかったが、今はこれら二つの事件
の関わりと解決を優先すべきと判断したのだ。
『イイギュンさんの情報をこれに合わせると…』
 ハリム刑事は、ジグソーパズルのコマが見えてきた気がしていた。
「カパルチャルシュで貴金属売りの呼び込みをやってたカミルという
男が、このルポライター殺害事件が発生してから一カ月も経たない
頃に、致死量の睡眠薬服用で死亡していた。近所の目撃者の話で
は、下半身丸出しで自宅のベッドの上で死んでたらしい。そしてだ、
時を同じくして同棲相手の女性が姿を消す。そしてその女性が、カ
ワダ夫人殺害事件の際に、サカイの要請を受けて現場に派遣され
てきた。だが待てよ、カミルはどうして殺されたんだ」

 ハリム刑事は調書置き場に行き、時間をかけてカミル殺害事件の
調書を探し出そうとしたが、見つからなかった。
『見当たらないとはどういうことだ。誰かが持ち出してる?あの事件
を今さら誰が…。それに捜査が打ち切りになった事が何か記載され
ているのかどうかだ。まさか今回もサカイがからんでるんじゃあるま
いな。それとも例の連中の誰かの仕業か』
 例の連中というのは、イスタンブール市警の中に暗に存在してい
る悪徳警官のグループである。ハリム刑事は警察省の特命を受け
て、イスタンブール市警に潜入捜査をしているのだった。だがこのこ
とは、上司であるイイギュン警部にも知らされてはいないし、ハリム
からも絶対に誰にも口外してはいけないことになっている。
『この女がカギを握ってることは間違いない。サカイと親密な関係に
あると睨んでいたが、もし当たっているとなると、サカイがらみか。ル
ポライター殺害の現場にいた二名が、この女とカミルって可能性が
ある。その秘密を知られたカミルを口封じで殺した…辻褄としては
合うな』
 そう考え事をしていた時、彼の机の上の電話が鳴った。シェラトン
ホテルからの回答電話だった。ハヤシのホテル予約を入れたのは、
トルコ語を話す女性だったという情報だった。被害者がチェックイン
した時に、すぐ近くにその女がいたかどうかまではわからなかった。  
「しかし、すでにサカイは…」
 尋問しようにも、もう無理だった。彼は長かったトルコ共和国での
任期を終え、二か月ほど前に日本に帰国してしまっているのだった。
よほどの物的証拠でもない限り、トルコ警察が日本の警察に代理で
逮捕拘束を要請することなど出来ない。相談しようにも、肝心のイイ
ギュン警部は、ここ二、三日体調不良で珍しく休みを取っていた。
見舞いに行こうかと思ったのだが、細菌性の下痢とかで感染すると
まずいから来ないでいいと、電話口で言っていた。
『何を食べたんだよ、イイギュンさん』

 相変わらず遠くの方の声は鎮まる様子もなく、悲鳴とも驚愕とも取
れる声に変わっていた。
『何だよ、いったい』
 ロビー近くのテレビを設置してあるあたりで、それは起こっていた。
周りを警察署内の野次馬がどんどん取り巻き始めている。尋常では
ないその雰囲気がさすがに気になり、ハリム刑事はその場所に行っ
てみた。テレビの緊急ニュースで、アナウンサーが叫ぶように概要を
繰り返し説明している。
「日本で、そんなことが…」
 イスタンブール市警のその時そこにいた全員が、そのテレビのニュ
ース速報に互いに顔を見合せ、ただ立ち尽くすだけだった。

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2008年11月 1日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(9)

 それから二ヶ月間と言うもの、ハリム刑事はイスタンブール市警
にいる時は、ほとんどこのパスワード解析を試みた。過去形となっ
ている事件については、使用パスワードはハリム刑事の予想通り、
ケマル記者の娘の名前だった。だがイイギュン警部が気にしてい
る、三年前の日本人ルポライター殺害事件とカワダ夫人暴行殺人
事件の二つについては、パスワードは別のものらしく、幾つか試し
たがどれもダメだった。
『どういうことだ。カワダ夫人殺害の方が未解決なのはわかるが、
もう一方の日本人ルポライター殺害の方は、とっくに迷宮入りして
る過去の事件だ。今さら新しい進展があるなんて思えないんだが、
ケマル記者は独自でずっと何かを追い続けていたってことか。い
ずれにせよ、パスワードがわからなきゃ話にならん』
 座ったままで背伸びしながら少し反りかえり、あくびをしたハリム
刑事の背後の遥か彼方、ちょうどイスタンブール市警の出入口あ
たりと思われるあたりから、歓声ともどよめきとも取れる声がした。
『またぁ、誰か有名人が通りかかったとでも言うのか。ほんと好き
だなあ』
 超美系と抜群のプロポーションで知られる歌手、シベル・ジャンが、
三か月ほど前に歌のプロモーションビデオ撮影を近くでしていた時
の、イスタンブール市警の中のあの大騒ぎを思い出し、ハリム刑事
は呆れた。
『歌唱力なんて全然ないのに、どうして顔がいいだけでこうももては
やすのかね…』
 ハリム刑事がお気に入りなのは、小柄で少しボリュームのある、
それでいてパンチの利いた歌で、現地ポップス曲のベストテン常連
歌手、セゼン・アクスだった。今も机の上で自分だけに聞こえる程度
に、彼女のファーストアルバムのカセットを小さな音で控え目に鳴ら
しているのだ。
『完全に行き詰ってるな。見方を変えなきゃ駄目だ』
 そう思い、ハリム刑事は日本人ルポライター殺害事件の手書き調
書を、あらためて最初から眺め直した。

「事件が起こったのは、今から三年少し前の八十八年春。当時日本
からトルコの現地生活レポートを記事にしようと、ルポライターのハヤ
シ・ケニチロウがやって来て、タキシム広場近くの高級ホテル、シェ
ラトンホテルにチェックインした。ルポライターが高級ホテルに泊まる
って言うのも、何か不自然な気はするんだがな。
 で、この日の夜は、ホテルのレストランで夕食しているのがレシート
へのサインでも確認されていて、その際に女性と同席しているという
目撃情報がある。だがその相手女性の詳細がわかっていない。比較
的小柄で黒く長い髪をしていたようだという話があるな、それだと…こ
の部屋の現場検証の際に見つかったという黒く長い髪の毛、とも一致
するから、食事の後にその女性と部屋に戻った可能性が高い。かなり
上機嫌で酔っぱらっていた風だったとも従業員が証言しているしな。
だが彼らがこのハヤシを見たのは、結局それが最初で最後だ。
 結局彼は、到着翌日からホテルを出た姿が誰にも目撃されていない。
部屋のドアには、ドント・ディスターブの札がかかったままだったらしい
から、メイドも部屋に入れないってわけだ。それがその翌日も翌々日も
続き、食事を頼んだ形跡が全くなかったことから、さすがに不審に思っ
たホテル側が、部屋に電話を入れたが誰も出ない。
 そこでイスタンブール市警に電話して、警官を二名派遣してもらった
後に、マスターキーを使って彼らと一緒に部屋に入っている。すると部
屋の中には本人はおらず、パスポートを始めとした持ち物はそのまま
になっていた、部屋のキーもあったと記載されている。
 こうなると何者かに部屋から拉致された可能性が高くなってくるが、
部屋には特に争った跡もなかった、とある。だがガジ・オスマンパシャ
で変死体で発見された時、死体解剖の結果として、ほぼ致死量に近
い睡眠薬成分が血中から検出されていたことが記されている。だが直
接の死因は、後頭部からの鈍器による打撲と思われる頭がい骨骨折
だ。
 発見現場の検証では…足跡が複数あるな。少なくとも被害者以外に
二名はいた痕跡がある。睡眠薬で眠らせた後に運び出して、ここで被
害者が目を覚まして逃げようとしたところを、追いかけて行って後頭部
から撲殺、ってところか。痕跡からして、これは一人は男だがもう一人
は女だな、他の二種類よりも明らかに足跡が小さい。一緒にいたとい
う女と思って間違いなかろう。その女が被害者を騙して、睡眠薬強盗
をやってのけた、仲間の男を呼んでホテルからうまく人目につかない
ように運び出したっていうところまでは想像が付く。
 被害者の死亡推定時刻からして、殺害されたのは到着した翌日の
早朝だな。身元をわからなくするために、財布とかは全部抜き取られ
ていたが、上着のポケットの隅にたまたま名刺がしわになって入って
いたのを犯人が見逃したのが、身元が割れるきっかけだった。で、そ
の第一発見者は…近くに住んでいた住人か。早朝ジョギングの際に、
連れていた犬が過剰に反応するので、不審に思って近づいて行き、
死体を発見したってわけだ。
 ほう、ホテル従業員と殺害現場付近の聞き込みはきっちりやってる
な。何人かの証言はあるが…だめだ、どれも曖昧で決め手にはなら
ない。その後に、これだ。日本の親族の強い要望でこれ以上の捜査
は不要であると日本領事館のサカイ副領事から警察省経由で要請
があった、とある。この事件はこれ以上進展してないな。ここで調書
が終わってる」

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2008年10月29日 (水)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(8)

 イイギュン警部が驚いたように言った。まさしく最新のテクノロジー
にも対応出来る凄腕の刑事である。イイギュン警部が逆立ちしても
到底かなうはずもなかった。
「これはウィンドウズ3.0って奴です。このマイクロソフトのOSのおか
げで、やっとパソコンが使いやすくなってきました。欲を言うとユーザ
ーインターフェイスの使い勝手が、いまひとつなんですけどね」
 イイギュン警部には意味不明な言葉を並べながら、ハリム刑事は
パソコンの画面を食い入るように見つめながら、何やらキーボードで
操作をし始めた。
「起動時のパスワードはかけていないですね、助かりました」
 独り言のように誰に言うともなくつぶやきながら、ハリムは五インチ
ディスクに記録されているファイルのタイトル名を順に見ていった。
「これは…」
「何だ、どうした」
「ケマル記者が調査してたと思われる資料が、見事に整理されて入
ってます」
「奴の持ってた情報が、全部ここにあるのか」
 感心したようにイイギュン警部が言った。
『えらく便利な物が使える時代になったもんだ。じゃあ奴は資料を持
ち歩くのをやめて、これに切り替えたってことか。例の事件の内容も
これで詳しくわかるな、助かった』
 しかしその甘い期待は、ハリムの次の言葉で打ち砕かれた。
「駄目だ、全部パスワードがかかってる。ファイルの中身が開けない」
「何とかならんのか、ハリム」
「私はハッカーじゃないんで…」
「何だ、ハッカーって」
「パソコンに関する知識があって、ソフト的にも詳しくて、要は他人の
秘密をのぞき見するのが好きな連中ですよ。パスワードって言うのは
一種の鍵ですから、その鍵を見つけ出して開けるのが得意な奴とか、
人によって色々得意分野が違うみたいですけど」
「そうか、お前でも無理なのか」
「時間をかければ、何とかなるかもしれませんが。専門の人間に任せ
るべきでしょうね」
「誰か心当たりはいるのか」
「いえ。アンカラの警察省に応援を要請するのが、いちばん時間的に
も早いです」
「時間をかければ何とかなるかも、って言うのは?」
「要はパスワードっていうのは、何かしらの本人が覚えやすい数字や
記号の羅列にしか過ぎないんです。だから何かのヒントで、それが推
測出来れば…」
「このファイルを開いて、中身が見られるってわけか」
「はい、そうです。よくあるのは本人の名前、電話番号、誕生日、出身
地とかですが」
「それじゃ駄目だった、ってことか」
「はい、ケマル記者に関する個人データはある程度調べてきました。
今、その中で関係ありそうな言葉を幾つか試してみましたが、どれも
違いました」
「他に何か、キーワードがあるっていうわけか」
「彼個人に関する内容ではないかもしれません」
「どういうことだ」
「彼の知っている何かに関することではないでしょうか。だから我々に
は容易には推測することが出来ない、でも本人は良く知っている。ま
あ本来パスワードっていうのはそういうものですが。たとえば…」
 そう言うとハリム刑事は、デスクの上の写真立てを指差した。
「その娘さんの名前とか、ね。ただ心配なのは」
「何だ、なにかあるのか」
「ファイルごとにパスワードを違えてあると一番厄介です。普通は同じ
場合が多いんですが、機密性を考えてよほどの内容であれば、それ
とは別のさらに違うものにします。そういうソフトも実際に開発されて
いるようですから」
「面倒なんだな、パソコンとやらは。いちいちそんな事をしなきゃなら
んとは」
「いえ、普通に使うのなら、そこまで神経使う必要はないですよ。内
容が内容なので、万が一を考えて用心していたんでしょう」
「不幸にも、その心配が的中したってわけか」
「まあ、そういうことになります。あと、もう一つ」
「まだ何かあるのか」
「もし外部と頻繁につないで何か情報収集をしているのなら、ウィル
ス感染しているかも」
「ウィルス感染?パソコンが病気にでもなるのか」
「まあ、そう言えるかもしれませんね。パソコンの中のデータを破壊
する、一種の病原菌みたいなものが存在するんですよ」
「それは防ぎようがないのか」
「ウィルス対策ソフトっていうものがあって、それが最新版になってい
れば、できる限りの防御策は打っていることになります。しかしこの
パソコンの中には、それらしきものはないです」
「そのウィルスとやらに感染しているかどうか、わかるのか」
「わざと変な挙動をさせて自分をアピールするウィルスもありますが、
それ以外だとそのウィルス対策ソフトを走らせてチェックしない限り、
持ち主にはわからないでしょうね」
「えらく厄介なんだな、パソコンというのは」
「ええ、まあ。いずれにせよこの様子では、一筋縄ではいかないでし
ょうね」
 ケマル記者の自宅ではパソコン以外に、特にこれといっためぼしい
収穫はなかった。イスタンブール市警ではギュナイドン紙に連絡を取
り、ケマル記者の家族の住所や名前の情報を得て、その訃報を彼ら
に伝えた。ケマル記者の妻が幼い娘を連れて、遙か黒海地方の東に
位置するトラブゾンから、長距離バスでイスタンブールにやって来たの
は、その翌々日のことだった。変わり果てた夫の姿に、取り乱した妻
が泣き続けながらその名前を叫んでいたのが、同席したハリム刑事
には痛々しかった。

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2008年10月27日 (月)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(7)

「どうした」
「いや、直接は関係ないんでしょうけど」
「何か気になることがあるのか」
「連続警官殺しの犯人、まだ捕まっていませんよね」
「ああ、例のやつか」
 主担当ではないとは言え、イイギュン警部もその事件のことは
ずっと気になっていた。イスタンブール市警の警官が、この半年
で五名殺害されているのだ。手口は様々だが、共通しているの
は現場に必ず赤い薔薇が残されていることだった。それゆえ連
続犯の犯行と断定されてはいるが、その後の捜査は進展して
いない。五名中三名はイイギュン警部も多少は顔や名前を知っ
ている人間だった。
「それがこの事件と、どう関係するんだ」
「こういう言い方は殉職した人たちに失礼になるかも知れません
が、少なくとも彼らは善良な警官とは言えない人たちでした。地
元のマフィアがらみの連中とつるんで店から金を巻き上げてたり、
捜査情報を漏らして麻薬密売人と手を組んでいたり。だからと言
って短絡的に彼らを殺してしまうのは、全く別次元の話ですけど
…。しかし彼らの動向を、犯人がどうやって知って予測出来たの
かを考えた時に、ここの内部の人間に共犯者がいるのなら」
「動向がつかめるから、行き先や行動も読めるってわけか」
「はい。可能性の話にしかすぎないので、根拠があるわけじゃな
いですが」
「まあ、たしかに一理はあるな」
 それはそれとして、イイギュン警部には昨夜から気になっている
事があった。
『ケマルが持っていた資料も全部、犯人に持ち去られたと見るべ
きなんだろうな』
 ケマル記者はまめな性格で、イイギュン警部が知っている限りに
おいては、常に色々な資料をヴァッコ製の茶色い革製の鞄に入れ
て肌身離さず持ち歩いていたはずなので、それが現場で発見され
ていないのが気になっていた。その中には、ルポライター殺害事件
とカワダ夫人の事件に関する内容も当然含まれていただろうし、そ
れ以外にイイギュン警部が知りたかった事もおそらく含まれていた
はずである。今日は午後一で、ギュナイドン紙に問い合わせたケマ
ル記者の住居の、家宅捜索を行う手はずになっていた。
「何か手がかりがあればいいんだが…」

 家宅捜索で向かった先は、イスタンブールの中でも高級住宅街の
一つとして知られるシシリー地区だった。場所的にはタキシム広場
から北に三キロほどである。ケマル記者の住んでいたマンションの
大家にはあらかた事情を話し、あらかじめ合鍵を用意してもらってい
た。だが二つある鍵のうちの一つは、大家の持っていた合鍵では開
かなかった。
『やっぱりな…』
 用心深いケマル記者のことだからと、万一を考えてイイギュン警
部が持って来ておいた、所持品のセカンドバッグに入っていた鍵が
役に立った。鍵を挿したままの状態で、それを蝶番側にひねりなが
ら押すと、ガチリと小さな音をたててドアが開いた。
 部屋の内装自体はかなり豪華だが、内部はどちらかというと質素
で、男一人住まいにしては片付いていた。部屋としては寝室とリビ
ング、それにキッチンとバストイレが付いているだけだが、それでも
上流階級の暮らしの部類になる。てっきり独身だとばかり思ってい
たので、寝室のデスク上に家族三人の仲睦まじい写真が飾ってあ
るのが、イイギュン警部には意外だった。
 寝室のベッド横の机の上には、正面にモニターディスプレイが置
いてあり、その右側にデスクトップ型のパソコンが鎮座していた。
身近にパソコンをしげしげと見るのは、イイギュン警部には初めて
だった。まだまだ普及が始まったばかりなので、かなり高価なもの
であるぐらいの知識しか持ち合わせていない。起動したパソコンの
ディスプレイ上の画面を見ながら、横でハリムが言う。
「アンカラでの研修が役に立つかもしれません」
「わかるのか、ハリム」

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2008年10月26日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(6)

 翌朝イイギュン警部が普段より少し早めに出勤すると、ハリム
刑事がにこやかな顔をデスクからのぞかせて出迎えた。
「お、早いじゃないか」
「昨日までの研修報告書をまとめてたんです。イイギュンさん経
由で今日提出するように言われてたのを思い出したものですから」
「ふうん、そうなのか」
 チャイジュが注文を取りに来たので、ハリム刑事はチャイを二個
頼んだ。チャイジュとは、トルコで紅茶の出前配達をする男性のこ
とをさす。
「ひとつは薄くな」
 トルコでは習慣的に紅茶、トルコ語ではチャイと呼ばれる、が頻
繁に飲まれる。火にかけられた二段重ねのやかんがそれ用の道
具である。上側のやかんには三分の一ぐらいに大量に入れられ
た紅茶の葉が、下のやかんにはお湯が入れられていて、下側の
お湯が沸騰した後に上側のやかんに熱湯を注ぎこみ、かなり濃い
紅茶の原液が出来あがる。実際には小さな独特の形をしたチャイ
グラスに注ぐ際に、紅茶の原液の量を調整して下側のお湯で割る
形になるので、濃度を好みのものにできるわけであるが、おおむね
日本人にとっては濃い目に感じる場合が多い。チャイグラス自体は
さほど大きくはないので、少量を一日何度も頻繁に飲むことになる。
さらに小さな受け皿のそのチャイグラスの脇には、小さなスプーンの
上に角砂糖がだいたい二個、置かれている場合が多い。もちろん
甘さも好みなので、自分で好きな量入れればいいのだが、習慣に
なるとかなりの糖分摂取になる。
 トルコではいたるところ街中に、チャイハネと呼ばれる紅茶の仕出
し店がある。さしずめ日本で言うところの喫茶店のようなものだが、
日本のようにカップルがいるわけではない。暇そうにたむろしている
のは、全てひげを生やした男連中ばかりである。またそれぞれの店
は担当エリアを持っていて、複数いるチャイジュがそのエリア内の
電話注文に常に対応し、出前がすぐ出来るようになっている。また
通常に市中で飲まれるチャイにはコーヒーのように銘柄が特にある
わけではない。チャイはチャイなのだ。それとは別に、エルマ・チャイ
と呼ばれるアップルティーも結構人気がある。

 やがてイスタンブール市警専属の店から先ほどのチャイジュが、
取っ手付きのトレーいっぱいに並んだチャイを置き、順番に配り始め
た。ハリム刑事は、丸く青いプラスチックのおもちゃのコインのような
ものを、そのトレーに二個乗せた。頻繁に飲むので、皆あらかじめま
とめて先払いで払っておくのだ。その証しが、そのおもちゃのような
コインなのである。
 薄めのチャイを自分用に取った後、イイギュン警部の机の上にもう
一つのチャイを置きながら、ハリム刑事はイイギュン警部が机の上
の専用電話の受話器の部分を外そうとしているのを見て、声をかけた。
「朝っぱらから、いったい何を始めるつもりですか、イイギュンさん」
「ああ、これか。気にせんでくれ、ちょっと確認したいことがあってな」
「電話、調子悪いんですか」
「そうじゃないんだ」
 受話器の部分のプラスチック製のカバーは、ねじ込み式になってい
る構造なので容易に分解したものの、それ以上はじっと受話器の内
部を横から斜めに覗き込むだけだった。下手にシロウトが力任せに
分解するととんでもないことになるのが目に見えているので、イイギ
ュン警部はまるで子供が様子を見ている状態にしかすぎなかった。
「どんな具合なんですか、私が見ましょうか」
 イイギュン警部が機械オンチなのを知っているハリムが、見かねて
横から声をかけた。
「ああ、助かる。その方がいいかもしれん。これって、こんなもんなのか」
「はあ?おっしゃってる意味がよくわかりませんが」
「受話器の内部に、何か不審な物は見当たらないか」
「不審な物、ですか」
 そう言われて、ハリムは入念に色々な角度から、外された受話器
の送話部分を覗き込んだ。
「特におかしいところはないように見えますが…」
「そうか」
「内部に不審な物ということは、盗聴器か何かが入っているんじゃな
いかということですか」
「そう思ったんだが、考えすぎだったようだ」
「昨日の件ですか」
「ああ、あまりにもケマルが殺されたタイミングが良すぎる。私はこの
電話で奴と喋ってるんだ、その内容を犯人に聞かれた可能性がある」
「だとすると、必ずしも盗聴器はこことは限りませんよ」
「他にも可能性のある場所があるのか」
「結構たくさんあります。この電話は専用回線ですから」
「例えば?」
「たとえば、この市警の電話回線ボックスの中で、イイギュンさんの回
線がモニター出来るようになってるとか、手が込んでればそこから電波
で他の場所に飛ばすことだって可能だと思いますよ。専門の業者に回
線ボックスを調べてもらえば、すぐにわかるでしょうけど」
「犯人はそんなに馬鹿じゃないってことか」
「イスタンブール市警のこの建物の中に、昨日の事件の犯人か共犯者
がいるってことですか」
「思いたくはないが、そうじゃないかと考えてる」
「内部に手引き者、ですか…」
 ハリム刑事は何事か、思案していた。

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2008年10月24日 (金)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(5)

 すぐにイスタンブール市警から鑑識含め警官が数人やって
来た。イイギュン警部はその中に、ハリム刑事の姿があるこ
とに気付き、少々驚いた。まだアンカラにいるものだとばかり
思っていたのだ。
「ハリム、お前いつ戻って来たんだ」
「ついさっきです。アンカラから戻って来て署の方に顔を出した
ところに、変死の通報ですからね。イイギュンさんもいるとなれ
ば、馳せ参じるのは当たり前です。それに水臭いじゃないです
か、言ってくれれば、退屈な研修なんてすっぽかして飛んで来
たのに」
「悪かった。年寄りのボケた推測に、お前をつき合わせるのも
申し訳なかったんでな」
「で、何か進展でもありましたか」
「その矢先に、このありさまだ」
「なるほど」
 所持品が注意深くテーブルの上に並べられたが、特にそれら
しい資料の類は見当たらない。イイギュン警部は手袋をした手
で、慎重にケマル記者の手帳をめくっていった。走り書きが並
び、お世辞にも達筆とは言えない独特の文字が躍っていた。
「死亡推定時刻は…」
 ハリム刑事が横にきて、手帳を用心深く眺めていたイイギュン
警部に小声で言った。
「先ほど、つまり夜十時前後と思われます。飲み物は今、念の
ため化学鑑識班の方に回しました」
「死因は、何だ」
「まだわかりませんが、外傷はないようです。薬物中毒の可能
性があるようです」
「自殺だとでも言うのか」
「いえ、それは何とも。イイギュンさんと会う約束してたんですか
ら、自殺するとは思えませんが」
「じゃあ…」
「睡眠薬強盗じゃないでしょうか」
「バカな、こんなホテルの宿泊先の部屋で、睡眠薬強盗に遭うと
でも言うのか」
「いずれにせよ犯人は顔見知り、ってことになりますね。ドアチェ
ーンが掛かっていなかったところを見ると、自身の意思でドアを開
けて迎え入れたことになります。全く知らない相手を迎え入れると
は思えません」
「それは相手が男であれば、の話だろう」
 イイギュン警部の言葉に、ハリム刑事は意外な顔をした。
「相手は女だと?」
「可能性として、だ。犯人が男という先入観を持つのは危険すぎる」
「なるほど、たしかに。私も犯人がてっきり男だと思いこんで話して
いました。さすがですね」
 この時、すでにイイギュン警部はある仮説を持っていた。だがそれ
には確認すべきことがある。彼はハリムにその場を任せると、部屋
からいったん出た。ドアのすぐ横にいた警官の一人に何事かを小声
でたずね、次にフロントに向かった。ケマル記者のチェックインの時
間を確認したかったのだ。
「何だって、夕方の六時頃にはチェックインしてたというのか」
「はい、間違いございません」
「部屋の電話の通話記録を見せてほしい」
「承知いたしました」
 通話記録からは、部屋からかけたものは夜九時前のギュナイドン
新聞本社あてとイスタンブール市警あての二通、外線からかかって
きたのは夜九時過ぎの一通のみであることがわかった。かかって来
た電話のことを尋ねても、公衆電話からの若い男の声だったことしか
オペレーターは覚えておらず、モニタリングはしていなかった。タイミ
ング的にはちょうど、イイギュン警部がケマル記者との電話を終えた
頃にあたる。
『まさか、そんな馬鹿なことが…』
 最初は半信半疑だったが、だんだんとそれは確信に変わってきつ
つあった。
『我々の会話が盗聴されていた、としか考えられん』
 ケマル記者が宿泊する予定の部屋はチェックイン寸前まで予測でき
ないので、犯人がその部屋に何らかの仕掛けを事前にしておける可
能性は無いと言ってよい。彼らの会話が犯人に盗聴され、二人を会
わせまいとする犯人によってケマル記者が殺害された可能性が高い
となると、問題はもう一方のイイギュン警部側から漏れたと考える方
がごく自然である。
『俺のデスク電話での会話が、誰かに盗聴されているのか』
 偶然で起こった事件でないことは、イイギュン警部が一番良く知って
いる以上、たしかにそう考えるのが自然だった。
「考えすぎなのかもしれんが。まあいい、明日の朝にでも確認してみる
さ」
 ロビーの横でたばこを吸っているイイギュン警部の姿を見つけ、現場
検証を終えたハリム刑事が片手を上げてやってくるのを見ながら、イイ
ギュン警部はつぶやくようにそう独り言を言った。

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2008年10月22日 (水)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(4)

 ペラパラスホテルは、タキシムからほど近いオスマンベイにあ
る、一八九一年にオープンした歴史と格式を持つホテルだった。
昔、オリエント急行がイスタンブール発だった頃、かのアガサ・ク
リスティが「オリエント急行殺人事件」をこのホテルの四一一号
室で書いたことでも有名な所である。他にもトルコ共和国の建国
の父と言われるケマル・アタチュルクが実際に滞在したりして、
ある意味観光地化している場所でもある。
 約束の時間よりも少し早めに到着したイイギュン警部は、ロビ
ーで一服しながらあたりを見回した。観光客だけではなくトルコ
人の顔も見えるが、皆の表情は明るく、笑顔が目に付くのどか
な光景だった。自分が直面している今の状況が、その場にはそ
ぐわないあまりにも異質なものに思えてくる。
『俺も決して清廉潔白な警官の部類ではないだろうとは思うが、
さりとてそこまで悪に手を染めているわけじゃない』
 そう言い訳がましく思い、ため息をひとつ付くとタバコをもみ消し、
イイギュン警部はソファから立ち上がってフロントの方に向かった。

 トルコでは身分証明書を常に持ち歩かなくてはならないので、
日本などのように偽名でホテルに宿泊はできない。フロントでケ
マル記者の名前を言うと、部屋番号をいとも簡単に教えてくれた。
ケマル記者が入ってくる姿が確認できなかったので、自分よりも
早く到着してチェックインしたようだった。
 名物にもなっている、木造のアンティークな手動式エレベーター
に乗り込むと、イイギュン警部はケマル記者が宿泊している三一
一号室へと向かった。ぺラパレスホテルでは部屋の鍵も、昨今流
行りのカードキーではなく、いわゆる錠前タイプだった。ヨーロッパ
仕様の大きく重い扉が目の前に立ち、ドアを軽く二度ノックする。
内部で人の気配がした気がするが、反応がなかった。イイギュン
警部はもう一度、今度は荒々しくノックした。だがやはり何の返事
もない。
『おかしいな、フロントに鍵はなかったし、部屋にいるはずだが…』
 少し嫌な予感がしたが、あまり乱暴な事をするわけにはいかな
い。現に何人かの宿泊客が談笑しながら、時々イイギュン警部の
後ろを通って行く。しばらく様子を見ていたが、何も変化はなかっ
た。イイギュン警部はもう一度ドアをノックしながら、今度は大きめ
の声で言った。
「ケマル、私だ」
 だが内部からは何の反応もないままだった。胸騒ぎを感じたイイ
ギュン警部は、急ぎフロントに取って返して身分を明かし、フロント
からケマル記者の部屋に電話を入れてもらった。だがやはり無反
応であったことから、合鍵を用意させて、ホテルの人間とともに再
度、ケマル記者の泊まっている部屋の前に立った。あらためて部
屋のドアをノックするが、やはり何の反応もない。目で合図すると、
ホテルのフロントマンが合鍵をドアのカギ穴に入れ、ガチャガチャと
やり始めた。少しすると、ガチリと鍵の開く音がし、ドアが開いた。
「ケマル」
 そう言いながら部屋に踏み込んだイイギュン警部の視界に、ベッ
ドの上に横たわって息絶えているケマル記者の姿が飛び込んでき
た。口から泡のようなものを吹いている。
「何てことだ…」
 背後でうろたえているホテルマンに警察への通報を促したイイギ
ュン警部は、あたりを注意深く見渡しながら、その部屋の中央に立
った。ケマル記者の持ち物を探したが、小さなセカンドバッグのみ
が机の上に置かれているだけで、他には何もないようだった。
『持ち物はたったこれだけか、いつも持ち歩いてた奴の鞄がないじ
ゃないか』
 呆然とイイギュン警部はその場に立ちつくした。これから自分と
会おうと約束している人間が、自殺するなど絶対にあり得ないし、
特に持病があるわけではないケマルが、こんな形で突然死するな
どありえなかった。脇のサイドテーブルの上に、飲みかけのイェニ・
ラク(トルコの蒸留酒)が置いてある。グラスの中は乳白色の、ライ
オンのミルクと称される、水割り状態になっている。アニス(ういき
ょう)の独特の香りが、その部屋じゅうに漂っていた。
『まさかと思うが、例の睡眠薬強盗の手口じゃないだろうな』
 つかみかけた真実の端がまた見えなくなってしまったような、虚
脱感いっぱいの感覚にイイギュン警部は陥っていた。

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2008年10月21日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(3)

「ギュナイドン紙のケマルです、電話もらったそうで」
「ああ、待ってたぞ。ちょっと教えてほしい事があるんだがな」
「何です」
「以前に、睡眠薬強盗事件の裏に売春組織がからんでいるら
しい、と言ってたことがあったろう」
「ええ」
「それはどこからの情報だ」
「ニュースソースを言えるわけないでしょう、イイギュンさん。
勘弁して下さい」
「いつ頃、その情報を得たんだ」
「えらく熱心ですね、何かありましたか」
「そんなに最近の情報じゃないんじゃないかと思ってな」
「ほう、さすがですねえ。ええ、数年前に得た情報ですよ」
「独自で調べてるのか」
「ええ、すっぱ抜ければそれこそ一大スクープですからね。
いい金になる」
「ふうん、お前にしちゃ珍しいな」
「何でですか」
「そんなタイプの奴じゃないと思ってたんだが」
「ははは、そりゃあ買いかぶりすぎでしょう。私だって人間なん
だ、お金だって地位だって名誉だって欲しいですよ」
「そうか…まあいい、それに関する情報が欲しい」
「ストレートに言いますね。見返りは何です」
「この前のアンカラでの俺が無駄にした時間」
「またあ…仕方ないじゃないですか。私だって騙されたんです
から。たしかに結果的には、イイギュンさんには悪いことしたな
って思いますけど、相手がそう言って来たんだから、私はそれ
を素直に伝えただけですよぉ」
「反省してるとは思えんがな。結局あれは…」
 自分がイスタンブールから遠ざけられただけだ、と言おうとし
て、イイギュン警部はハッとした。
「どうしました、イイギュンさん」
「いや、何でもない。ケマル、何が欲しいんだ」
「お、大きく出ましたね。そうですなあ、色々ありますよ」
「たとえば?」
「イスタンブール市警の汚職警官リスト」
「ふん、そんなもの、あれば私が欲しいさ」
「ご冗談を。多分イイギュンさんの頭の中にある、そのリストをく
ださい」
「仕方ないか、考えとこう」
「お、了解いただいたと思っていいですね」
「……ああ」
「イイギュンさんもえらく大胆な取引しますね。何が狙いです」
「言えるわけないだろ」
「あはは、そりゃあそうですな。じゃあ情報整理する時間もらえ
ますか」
「早い方がいい。整理できてなくてもいいんだ」
「何が知りたんです」
「三年ほど前の日本人ルポライター殺害事件で、その売春組織
がからんでたかどうかの情報さ。これ以上は電話では話せん」
「わかりました。じゃあどうです、今から男同士のデートっていう
のは」
「何処に行けばいい」
「誰かに一緒のところを見られるのも困るんで、ペラパレスホテル
でどうですか」
「えらく洒落た場所を指定するじゃないか、女との待ち合わせで
よく使ってるのか」
「ドキッとするようなこと言わないで下さいよ」
「ははは、当たらずと言えども、ってところか」
「部屋は予約しておきますから、フロントで聞いて下さい」
「わかった、時間は」
「もう少ししたら大丈夫なんで、そうですね十時半頃でどうですか」
「わかった、じゃあその時間にな」
 電話を終えると、夜の九時を少し回っていた。イイギュン警部
は自宅の妻に帰りが遅くなることを伝え、それからしばらくの間、
今日の分の書類整理や承認書類の処理に追われていた。やが
てイイギュン警部はそれらを終えると、早めに待ち合わせ場所
に向かうことにして、イスタンブール市警の建物を後にしたのだ
った。

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2008年10月16日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(2)

「アラーのおぼしめしを受けて、天国にいった」
 アルパッサンが、少し言いにくそうに答えた。
「死んだのか、いつ頃だ」
「三年ほど前だ」
「死因は」
「わからない」
「わからない?どういうことだ」
「睡眠薬強盗にやられたような話だったが、本当のところは謎だ。
我々よりも、マイクの方が詳しい。ちょっと待ってくれ、呼んでくる
から」
 どうやらアルパッサン達三人兄弟の長男である、マイクの古くか
らの知人の一人であったらしかった。やがて奥からスキンヘッドに
ひげを蓄えた、細身の男が顔を出した。
「マイクです。カミルのことで今さら何か」
 あまり機嫌の良くない顔で、マイクがスキンヘッドを右手で撫で
ながら言う。
「すまんな、彼が死んだ時のことを何か覚えているか」
「そりゃあ、びっくりしたさ。お世辞にも善人とは言えない奴だが、
根はやさしかった。女とヤクにはだらしなかったがね。それに何し
ろ、近所の目撃者の話では、下半身丸出しで自宅のベッドの上
で死んでたらしいからね。致死量の睡眠薬服用と報道されてた
が、そんな状態で睡眠薬自殺するとは思えないし」
「ほう…たしかに不自然だな」
「それに、同棲してた女が、カミルの死以来、プッツリ消息が途絶
えちまってる。その後、誰かがホテルで見かけたという話もあるが、
本人かどうかはわからない」
「怪しいな。警察には、そのことは言ったのか」
「近所の奴らが伝えたはずだ。だが…」
「だが、何だ」
「捜査はたしか、打ち切りになったと聞いた」
「打ち切り、だと」
「ああ、そんな噂があった」
 不審に思いながらもイイギュン警部は、その男の名前と当時の住
所、事件のあった日を聞いて手帳にメモした。通訳女性と同棲女が
同一人物だったとしたら、二人とも睡眠薬を使って死亡、というのは
あまりにも手口が似過ぎていた。それに捜査が打ち切りという話も
見過ごすことは出来なかった。
 以前にハリムが言っていた言葉が、イイギュン警部の脳裏によみ
がえる。津田がもたらした情報として、川田の住んでいたマンション
のカプジュが、事件の起こる数日前に日本人女性と思われる若い
女性が川田の所を訪ねて来ていたようだと話していたことである。
『まさかと思うが、その日本人女性というのが、この通訳女性じゃな
かろうな』
 念のために、イイギュン警部は川田のマンションにその足で出向
き、カプジュに写真を見せた。しかしカプジュの記憶はかなり曖昧で、
そうであったようにも思えるし、別人だったような気もする、とまったく
当てにならないものだった。
 特に何の手がかりも得られぬまま、イイギュン警部がそのマンショ
ンを出ようとした時、紙袋を胸の前に抱えて戻って来た住人の一人が、
彼に気付いて声をかけてきた。
「イイギュンじゃないか」
 その声に、イイギュン警部はその男を見た。
「ムスタファ…さん」
 それは、かつてイスタンブール市警の本部長だった男だった。在任
中から黒い噂が絶えず、イイギュンの好きな部類の人種ではなかった。
「このマンションに、お住まいなんですか」
「ああ。お前がここにいるってことは、例のカワダの件だな」
 顎をしゃくるように、ムスタファが言う。これは本当に偶然なのだろうか、
とイイギュン警部は訝しがった。当然ながら、このマンションの住人には
刑事達が聞き込みを行っていたはずだが、元本部長が住んでいるという
話は聞いていなかった。
「ええ、まあ。そんなところです」
「大変だな。どうだ、犯人の目星は付いたのか」
 無表情でムスタファが言う。内心では何を考えているのかわからない
男だった。
「何とも言えません」
「愛想がないのは相変わらずだな。どうだ、チャイでも」
「ありがとうございます。せっかくですが、急ぎますので」
 そう言うと、イイギュン警部は軽く会釈をし、そそくさとそのマンションを
後にした。

 夜遅くになってイスタンブール市警に戻ったイイギュン警部は、再
び三年前の日本人ルポライター殺害事件の調書を丹念に見返した。
そして最後に調書中に記載されていた名前を見て、イイギュン警部
は首をかしげると、ギュナイドン紙のケマル記者に電話をかけた。
彼はあいにく外出中とのことだったので、連絡をもらうように伝えた。
『どういうことだ、日本の親族の強い要望でこれ以上の捜査は不要
であると、日本領事館のサカイ副領事から警察省経由で要請があっ
た、だと』
 そこにあった意外な人物の名前に、イイギュン警部は首をひねった。
『ルポライター殺害事件で、どうしてわざわざサカイの名前が出てくる
んだ。それに今回のカワダ夫人の殺害については、サカイ自身が通
訳を送り込んできているじゃないか。両方の事件に共通なのは、この
謎の女とサカイの存在だ。…それよりも、どうしてハリムがこの事に気
付かないんだ。ありえない』
 それはイイギュン警部の中で、初めてハリム刑事への疑念が生ま
れた瞬間でもあった。その思考を断ち切るように、不意に机の上の
電話が鳴った。

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2008年10月14日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(1)

 イイギュン警部は、行き詰ったカワダ夫人殺害事件の捜査の
打開のため、別の視点からアプローチしてみようと思い立ち、
それまでの日本人に関する事件を調べていた。彼の片腕のハ
リム刑事が、二泊三日の研修で今日までアンカラに出張中だ
ったこともあり、たまには彼自身の解釈で色々と探りを入れて
みようと思ったのだ。傷害や窃盗事件は幾つか報告があった
ものの、殺人事件にまで発展したものは、三年ほど前のルポ
ライター殺害と昨年のカワダリョウコ殺害の二件のみだった。

 三年前のルポライター殺害事件の方は、日本からやって来た
ルポライターが睡眠薬強盗に遭い、エユップ地区のガジ・オス
マンパシャ近くの丘の斜面で撲殺され遺棄されていたというも
のだった。所持品はほとんど何もなかったが、上着のポケット
に名刺が残されており、そこから日本人であることがわかった。
同じころ市内のタキシム広場近くのシェラトンホテルから、宿泊
しているはずの日本人が行方不明になっていると届け出があっ
たことから、双方の人物が一致することが判明したのだ。
 その日本人はチェックインした日の夕方に、若い女性と一緒に
ホテルのレストランで食事をする姿が目撃されており、かなり酔
っぱらっていた風だったという証言もあったことが調書に残され
ていた。到着翌日から部屋に閉じこもりきりだったので、不審に
思ったホテル側が部屋を調べたところ、パスポートを始めとした
持ち物はそのままで、本人だけが忽然と消えていたというので
ある。
 外出したという目撃情報がないことから、何者かに部屋から拉
致された可能性もあったが、部屋には特に争った跡もなかった。
ただし部屋の現場検証の際に、女性のものと思われる黒く長い
毛髪が一本、ベッド脇の床から見つかっていたとの記録があった。
死体解剖の結果として、ほぼ致死量に近い睡眠薬成分が血中か
ら検出されていたことが記されている。ただし一緒にいたという女
性が特定できず、関連付けがそれ以上出来ないまま、事件は迷
宮入りとなってしまっていた。

 イイギュン警部は個別に、あの日イスタンブール市警にカワダを
運んできた、ハッサンにも当たってみた。二人には直接の面識が
あったわけではなく、ツダという爆弾事件に巻き込まれたあげく夜
のボスポラス海で射殺されそうになった男が、最後に宿泊していた
のがハッサンの経営するホテルであり、日本語が話せるということ
でカワダがコンタクトして来トし、それで二人は初めて顔を合わせた
のだった。兄のアルパッサンも日本語が達者で、そのホテルや隣
のユーリックという名の絨毯屋には、日本人が常に複数たむろして、
さながらちょっとした日本人村の様相を呈していた。
 色々とその爆弾事件のことも関連して尋ねてみたが、そこでは特
に何も、目新しい情報は得られなかった。イイギュン警部が礼を言
って立ち上がろうと手帳を閉じたはずみに、はさんであった一枚の
写真が床に落ちた。それはカワダ夫人殺害現場で撮られた鑑識の
現場写真のうちの一つで、唯一あの日本人通訳女性の顔が映って
いるものだった。それが彼女が確かに存在したという、唯一の証拠
だった。イイギュン警部はずっとその写真を持ち歩いていたのだ。
「この写真は…」
 アルパッサンは床に落ちたその写真を拾い上げながら、少し首を
かしげて何かを思い起こそうとしていた。横から覗き込んだハッサン
も怪訝そうな顔をしている。なにか記憶にある顔らしかった。イイギュ
ン警部はしばらく二人の様子を黙って見ていたが、やがて尋ねた。
「何か、見覚えがある顔なのか」
「昔、知り合いの奴と一時期同棲してた女に似ているような」
「ああ、例のカミルか」
 ハッサンが思い出したように言った。
「そう、カパルチャルシュで貴金属売りの呼び込みをやってた、あの
カミルだ」
 彼らの言い方に、どこか違和感を覚えたイイギュン警部は、はやる
気持ちを抑えて尋ねた。
「そいつは、今どこにいる」

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2008年10月13日 (月)

作者の簡単レビュー 【その28】

 長かったこの物語もついにクライマックスに突入しますが、その
前に、並行しているイスタンブール編のその後を少しお届けした
いと思います。当時イスタンブールで書いていた初稿にはこの章
はなく、今回新規に追加したものです。
 次の第十一章のサブタイトルは「突破口」です。

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2008年10月12日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十章(14)

 そう言うとロビンは、銃の引き金を引いた。悲鳴とも何ともつか
ぬ嬌声を発して、酒井が気を失った。銃はカチリと小さな音を立
てただけだった。弾は全て撃ち尽くしていたのだ。
「ま、そういうわけだ。……後はどうするね、村上警部さん。念の
ために屋敷内部も一応は探した方がいいと俺は思うが。どんな
証拠が出て来るかも知れないからね。トリムの事件はまだ時効
にはなってないんだろう」
 ロビンはそう言うと、空になった銃を本郷に返した。あまりにも
鮮やかな動きで、皆の目の前でその銃は、本郷の左胸のホル
スターに納まった。ロビンはその傭兵パープルの脇に放り出さ
れるようにして眠っていた銃を、さり気なく床から取り上げると弾
倉を確認し、ふっと笑いを浮かべて玄関の方を見た。
 その笑顔の裏に潜む、猛獣が牙を持ったことに気付き、その時
玄関口に居合わせた人間は皆、ぞっとして思わず一歩退いた。
自然とロビンの前に通路が開けた。ロビンはその銃を持ったまま、
その屋敷から出て行こうとした。皆は先程の光景に呑まれ、誰も
制止出来なかった。
「待て、津田。何処へ行く」
 かろうじて村上警部補がそう言った。彼とてロビンの持つ迫力
に呑まれていたのだ。それに今はこれだけの人数が居ても、とて
も彼を止めるだけの力は持ち合わせていないことは、先程の様子
でわかっていた。それに今のロビンは、弾丸のたっぷり詰まった
弾倉の装着された銃を持っているのだ。今の彼を止めるためには
一個師団の装甲部隊でも来ない限り無理だ、と村上警部補の隣
りで本郷は感じていた。
「最後の決着を付けに行くんだ。邪魔はするなよ」
 ロビンはそう言うと、屋敷の片隅の車庫に向かった。誰も一言も
発せない程の緊迫感が漂っていた。その様子に尋常でない何か
因縁めいたものを感じ、同時に村上警部補はふと想った。
『ひょっとして、野宮達の周辺を我々よりも先に洗ってたのは、津田
だったのか』
 彼らはただ呆然と、津田が車で出て行くのを見送るだけだった。
かろうじて尾行の覆面パトカーを付けるのが、今の彼らに出来る精
一杯のことだったのだ。

 あと数時間後に迫った夜明けに向け、見えない空間で警察無線
が異常に行き交う中を、ロビンを乗せた車は首都高速道路を一路
東に、ひたすら茨城の東海村に向けて走っていた。自分の人生が
今日中に終わるだろうと漠然と予感しながらも、ロビンは自分でも
不思議なくらいに恐怖は感じていなかった。自分はこれから死にに
行くようなものなのだろうがこれが運命なら仕方ない、と自分でも
驚くほどに冷静だった。
 洋子とはもうとうに縁は切れているし、別れの挨拶も出来た。マユ
ミにも日本を脱出するように言ってあるから、ひょっとしたら今頃は
すでに空の上かも知れない。もう今日何が起こったとしても、彼の
周囲の人間で直接の迷惑が掛かりそうな人間は居ない筈だった。
もっとも、浅見所長だけには多少なりとも迷惑は掛かるだろうが、
それは愛嬌だとロビンは思った。
 ふと思い出したように、ロビンはカーラジオのスイッチを入れた。
それまで静かだった車の中に、不意にクリス・レアの低い歌声と
それに絡むスライドギターが響いた。
『ロード・トゥ・ヘル、地獄への道、か。ふ、今の俺にぴったりの曲
じゃないか』
 ロビンは助手席の銃に向けて、微笑みながらそう呟くように言っ
た。そして彼が野宮邸を出て以来ずっと、正確に言うなら警察から
ロビン達が野宮邸に向かった時から、その後を一台の車が秘かに
追跡していたことを、ロビンは全く気付いていなかった。

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2008年10月11日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十章(13)

「おい、まだ生きてるか。お前には聞きたいことがあるんだ」
 そのロビンの呼び掛けに、その傭兵はうっすらと目を開けた。その
傭兵は紫色がやたら好きな奴で、俗にパープルと呼ばれていた。
傭兵パープルは朦朧とした意識の中でロビンの顔をしばらく見てい
たが、相手がかつての仲間のロビンだったことがわかったようで、
力なくうす笑いを浮かべると、虫の息でつぶやいた。
「どうしてお前が、ここにいるんだ…」
 ロビンはその問いにはお構いなく尋ねた。時間がないことは、彼
自身も気付いていた。
「やって来たのは本当にお前だけなのか。他にも誰かが来たんじゃ
ないのか、どうなんだ」
「ふ、そんな事を、俺が、喋るとでも、思ってるのか」
「お前の狙撃の相手は、明日迎賓館に向かう車の中の天皇だろう」
「……知らん」
「ゼブラと野宮は、今何処にいるんだ」
「………」
 その時すでに傭兵パープルは、ロビンの腕の中で息絶えていた。
二階から酒井が刑事に両腕を掴まれて、引きずられるように降りて
来た。ロビンは立ち上がると、右手に銃を持ったままで酒井の正面
に立ち、彼の胸倉を左手でいきなり掴んだ。酒井は両脇の刑事に
救いを求めるような目を向けたが、二人ともそしらぬ顔で酒井の両
脇から少し離れた。
「酒井!野宮とゼブラは今何処にいる。知ってることは正直に全部、
吐いた方が身のためだぞ」
「し、知らん。私には一体何のことだか」
 不意にロビンは、右手に持っていたニュー南部と呼ばれるリボル
バーの銃を酒井の口に突っ込み、撃鉄をゆっくりと起こした。カチリ
という小さな音が酒井に恐怖をもたらした。そしてロビンは引き金に
指を掛けた。酒井の目が大きく開かれ、彼のズボンが股間のあた
りを中心にして、両足の方に向けてだんだん黒く濡れて行った。
「そうか。お前はよっぽど銃撃戦の巻き添えで死にたいんだな。それ
に警察の連中がもしも俺を止めに入ったら、その時にはお前にあの
世を見せてやる。こうやってな」
 表情一つ変えずにロビンはそう言うと、引き金を引く手に少し力を加
えた。酒井の引き釣った表情が一層激しくなり、次に彼の身体がガタ
ガタと大きく震え始めた。
「最後にもう一回だけチャンスをやろう。野宮とゼブラは今何処だ」
「あががが……」
 酒井が何か言いたげにあがいた。ロビンは酒井の口の中に突っ込
んでいた銃を外した。大きく肩で息をしながら、酒井が観念したように
一気に喋り始めた。
「の、野宮さんは、今日はここには帰って来ない。成田空港の近くにあ
るエアポートホテルに泊まってる。明日の朝のJALでシンガポールに
向かうことになってる」
「ゼブラは」
「茨木の東海村の、原子力発電所の中にいる」
「何のために」
「し、知らない。本当だ。私は彼の行動を一切知らされてないんだ。別
々に動いてる」
「ところで、酒井。トリムの時の身代金は、この屋敷の中にあるのか」
「!………な、何の事か、私にはさっぱり見当が」
 瞬時に銃の台尻で、酒井の顔めがけ、ロビンが容赦なく殴りつけた。
何かが潰れるようないやな音がした。
「とぼけるんじゃない。まだお前はあの世に未練があるらしいな」
 にやりと笑ったロビンは、再び銃口を酒井の顔に近付けた。
「わ、わかった。言う。言うから殺さないでくれ」
「時間がねえんだ。これ以上手間取らせたら、本当にブッ殺すぞ」
「あの金は、野宮さんが今回ハンドキャリーで半分持って行くことにな
ってる」
「残りの半分は」
「し、知らん。本当だ、信じてくれ」
「ふん。じゃあ、お前の役目は終わりだ。死ね」

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2008年10月 8日 (水)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十章(12)

「くそっ、こうなりゃ強行突破しかないぞ」
 その傭兵は苦々しくそう言うと、銃を片手に廊下に飛び出して
行った。その後を慌てて酒井が追う。車庫には車が一台スタン
バイされているのだ。何とかそこまで辿り着き、一刻も早くここ
から逃げ出すしか、彼らに脱出手段は残っていない。玄関のド
アが破られ、何人かの刑事達が屋敷内部に踏み込んで来た
足音が、階下の方で聞こえた。
「強制家宅捜査を行なう。これが令状だ、手向かう者は公務執
行妨害の現行犯で逮捕する」
 太く響く男の声が聞こえた。その声を合図に、ばらばらと数人
ごとに固まって刑事達が屋敷の中に散って行った。二階への
階段を駆け登っていったはずの刑事が二人、乾いた音の連射
の直後、次々と胸元を赤く染めて階段を転げ落ちるように落下
して来た。
 入り口でこの様子を見ていた津田が、不意に横にいた本郷の
胸元から、あっという間に拳銃を抜き取った。そして本郷が津田
を制する間もなく、津田は銃を持ったまま屋敷内に飛び込んで
行った。彼は緊張している村上警部補達の脇をすり抜け、階段
の所まで来ると斜め上を見上げた。そこに彼は懐かしい顔を見
た。だが懐かしさなど微塵も起こらなかった。
 瞬時にロビンの銃が火を吹いた。二階の階段の昇り口にいた
その傭兵の銃も、ほぼ同時に火を吹いた。何発かの連続した
銃声が、まるで花火の音のようなやけに乾いた軽い音で、刑事
達の耳に大きく響いた。映画などではこういう場合、お互いに何
やら話した後で銃撃戦になるのだが、現実にはこんな時に呑気
に喋ろうとした方が殺される。躊躇することは自分の死を呼び込
むのと同じことなのだ。どちらが早く相手を撃つかで、運命が別
れる。

 一瞬の静寂が、その場に居合わせた村上警部補達にはとて
つもなく長く感じられた。目の前で津田の速射に近い射撃を見
た村上警部補は思わず唸った。自分達とは経験の数が全く違
うことが、目の前の状況を見れば判る。いつもの彼が知ってい
る津田とは全く異なる姿を目の当たりにして、下手をすれば自
分達が皆殺しにされてしまうような戦慄すら覚え、思わず彼は
心底から恐怖した。そんな経験は長い刑事生活の中でも初め
てのことだった。
『凄い、凄すぎる』
 ロビンの左頬に、ゆっくりと赤い線が浮き出て来た。だが彼は
相変わらず、銃口を定めたまま身動き一つしなかった。やがて
階段を派手な音を立てながら、銃を持った男が一人、ロビンの
足元に転がり落ちて来た。男は両肩を真っ赤な血に染め、腹部
にも多量の出血があり、右足の太股にも見事にロビンの銃弾が
貫通していた。階段の上ではこの光景を見た酒井が、腰を抜
かして座り込んだままだった。
 ロビンは銃口を下ろすと、足元に虫の息で転がっている、か
つての仲間を抱き起こした。救急車が来たところで助かりはし
ない。急所を外して射撃しているような余裕など、ありはしなか
ったのだ。そんな事をしようとしていれば、今頃ここにこうして転
がっていたのはロビンだった筈である。そんな器用なことは、あ
くまでも物語の中の状況でしかないのだ。

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2008年10月 5日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十章(11)

 だが不思議なことに、その狙撃のために用意されていた女
傭兵マユミは、何故か行方不明になってしまった。そのため、
急遽現役ブラック・ローズ部隊の傭兵が召喚されたのだ。そ
いつが目の前にいる男だった。だが酒井自身は、傭兵二人
が来日して別々の行動を取っている事を知らされていないし、
加えて昨夜のロビンとマユミのことを野宮やゼブラからは一切
聞かされていなかった。所詮は彼もブラック・ローズ内では、
一介のメンバーであるに過ぎないのだ。
「おい……」
 何度か呼ばれて酒井は我に帰った。ぼんやりしていた酒井
を、怪訝そうな顔で横の傭兵が覗き込んでいた。彼も以前の
ロビン同様に、野宮がブラック・ローズ総統であることなど知
らされていない。
「もう十一時になるぜ。あと三十分もすれば出発だってのによ。
野宮は挨拶も無しかよ」
「まあそう言わないで下さいよ」
 努めて穏やかな表情で、酒井はそう言った。内心はこの傭
兵ごときが野宮の正体も知らずに何を偉そうに言うのかと思
ったが、野宮が彼らの組織の頂点に立つ人間であることは、
一介の傭兵には絶対に秘密にしておいた方が良いのだ。

 野宮はすでにシンガポール行きの切符の手配を完了してい
るはずだった。明日から二週間の予定で、休暇を申請して認
可されているのである。本来であれば、これから日本国内で
起こる大混乱を思えば、酒井も同様に一時的に日本から脱出
したかったのだが、それは許されなかった。彼が直接的に野
宮の留守中の全権を委任されているのだ。まさかそんな大そ
れた事が起こるとは夢にも思っていない同僚達は、これを嫉ま
しく思っているに違いなかった。
 だが表面上は、野宮の留守中に偶発的に起こる大事件の後
処理で、酒井は苦労することになっている。その後は帰国した
野宮が立ち回り、今回の事件後に政財界を一気に掌握する予
定であった。そのために笹本亮三は邪魔な存在だったのだ。
彼が君臨している限り、野宮が頂点に立つことは出来ないの
だ。自然な形で彼をこの世から葬るには、今回が絶好の機会
だったのだが、肝心のマユミが行方知れずになってしまったの
だから、どうしようもなかった。
 もっともその辺については、野宮とて策を巡らせてあるようで、
まだ酒井は詳しいことを聞いてはいないのだが、恐らく今回の
混乱に乗じて社会的抹殺を企んでいるだろうことは想像に難く
ない。そして酒井は薄々感付いているのだが、今回のレイン計
画はこの狙撃だけでは終わらないようだった。まだ何か別の恐
ろしい事が、裏に隠されている気がしてならないのだ。

 酒井は立ち上がると、窓越しに何気なく外の景色を見た。その
時彼は、木立の陰に少し隠れた野宮邸の入り口のゲートあたり
に、赤い点滅する幾つものライトを見たのだ。瞬時に身体がこわ
張り、振り返ってその傭兵の方を見た。咄嗟のことに、口を突い
て言葉が出なかった。
「け、警察だ」
 酒井はそれだけを言うのがやっとだった。反射的に横にいた傭
兵の身体が、埋もれていたソファーから立ち上がると、彼は急い
で銃を片手に窓際に走り寄った。その時にはすでに、数台のパト
カーが玄関前に横付けされ、数人の刑事達が飛び出していた。
玄関のドアを叩く音が、彼らの耳にも届いた。

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2008年10月 3日 (金)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十章(10)

 酒井の知っているコネを使えば、美雪の動向を調べることは
出来たが、今さらそこまでするほどの未練はなかった。それゆ
え、彼女が変なことを仕出かさない限りは、酒井も自分から接
近しようとは思っていなかった。
 それは長かった任期を経て、日本に帰り着いてからも同じだ
った。そして野宮は当初の約束通り、酒井を自分の部署の部
長補佐待遇で迎えてくれた。そしてその頃には野宮はすでに
日本国内のレイン計画賛同者を陰でまとめあげ、いよいよこれ
までの日本の歴史にピリオドが打たれる瞬間が、あと半日の
うちに起ころうとしているのだ。
 その結果起こるものは、秩序の乱れと左翼と右翼との激突、
すなわち内乱である。さらには機に乗じた外国資本の参入も
ありえた。結果として円の暴落が始まり、日本経済は一時的
な壊滅状態になる。それがブラック・ローズ組織の本当の狙い
なのだ。その混乱に乗じて世界的な規模で莫大な富を築こう
としているのである。これまで一部のリベラルな人間が提唱し
てきた、原子力発電所建設にまつわる莫大なリベートにも、ブ
ラック・ローズ組織は常に絡んでいた。
 だが世界的な風潮で最近は風当たりが強くなり、それによっ
て得られる旨味が以前ほどは無くなり、ほとんど困難になって
来たと言っても良かった。建築や解体コスト上昇の問題が取り
沙汰されるようになり、皆が危機感を持ち始め現実に隠され続
けてきた問題を知り、それらに関する知識を持ってしまったのだ。
日本ではそれが一種のブームのようになり、今現在では多少は
薄れて来たとは言え、世界的には決して油断出来ない状態に
あった。

 世界的に原子力産業から撤退する風潮の中で、日本だけは相
変わらずその得られる金銭的なものに目がくらんだ人間達が、嘘
の必要性を主張しながら、相変わらず建設を推進していた。野宮
とトリム電子産業株式会社との癒着は、この中で始まったのであ
る。あのトリムの事件は、なかなか言う事を聞かず柄にもなく堅い
頭を持った黒田専務を社会的に葬るために、会長・正木英嗣と野
宮邦弘が手を組んで打った、佐々木常務の復讐心を利用した大
芝居でもあったのだ。
 そしてその機会に乗じて、かねてからホフマン長官の心証が悪
かった正木会長すら、偽装された飛行機事故で太平洋の藻屑と
なり、命を失っているのだ。そしてその真の犯人を知る者は、今や
誰もいない。
 戦後の混乱期に乗じて莫大な富を手に入れた人間達が、その
後の社会に君臨し支配して来た……野宮が自身にもそれを望む
ことは、決して不自然ではないし、それを誰も責めることは出来な
いのだ。今再び、あの一部の人間によって導かれた悪夢が再来
しようとしている。兵器製造会社の人間も、てぐすね引いてその瞬
間を待ち構えている、と言ってもよかった。
 当然の事ながら、きっかけとなる標的はスケープゴート的な役割
が大きい程良かった。当然力にものを言わせても、今の政府は倒
さねばならない。その付け込む隙を彼らに与えるために選ばれた
標的が、ミカドだったのだ。これ以上の格好の標的は無かった。
 明日の午前十時、ミカドは皇居前から迎賓館に移動する。アメリ
カ大統領をそこで出迎え晩餐会を催すためである。そこを狙撃する
のである。本来であれば跡形もなく始末出来れば良いのだが、幾
らブラック・ローズの末端組織の一つである、宗教団体『天照』が
広域暴力団と繋がっているとは言っても、さすがにバズーカ砲を用
意するわけにはいかなかったので、通常の狙撃の形となったので
ある。

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2008年10月 1日 (水)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十章(9)

 そんな矢先に、良子があろう事かイスタンブールに一家で赴任
して来たのだった。酒井は良子に是非とも会いたかった。特に会
ってどうしようとか、他意は全く無かった。ただただ懐かしさに、あ
れから約十年経った今、もう一度会って色々な話がしたかっただ
けだった。お互いの近況を知りたかっただけの、単純で純粋な気
持ちからだった。
 だが良子は、そんな酒井の願いをかたくなに拒絶し続けた。逆
にそれが酒井の神経を逆撫でさせたのだ。あれほど愛し合い、
挙げ句の果ては自分の方から結婚しても時々は会って欲しいな
どと言っていた、あの良子と同一人物だとはとても思えなかった。
そんな女の現実的な冷酷さに直面し、戸惑うと同時に酒井の心
の中に殺意にも似た気持ちが生まれたのだ。彼女が酒井のこと
をまるで汚いもののように扱っている気がして、極端に嫌がって
いる印象を受けたのだ。
 その頃にはすでに美雪は、精神的に少し参っていた。酒井が
彼女にトルコ人の政府高官の相手をさせたことがあり、同時に
良子とのことを感付いた様子で、それ以来割と塞ぎ込みがちだ
った。それゆえに、冷静さを欠いていた彼女はわざわざ勝ち誇っ
たように、空港まで川田に告げに行ったのだ。自分の酒井の現
地妻としての立場が絶対に揺るぎないことを暗に誇示するため
に……そう酒井は思っていた。あの時の美雪の不可解な行動
は、酒井の目から見ても理解出来ない部分があったのだ。
 杉本弘美を酒井が知ったのは、やはり塚本美雪と同じパター
ンだった。その頃美雪はかなりヒステリックな性格が出始めて
いて、最早イスタンブールで生活するには限界に近かった。そ
れゆえに良子と同様に就職口を世話することを条件に、美雪
に帰国を納得させたのだ。早い話が酒井は美雪の存在がうっ
とおしくなり、杉本弘美に乗り換えた、とも言えるわけである。
所詮は塚本美雪も杉本弘美も、酒井にとっては良子の存在に
は遠く及ばなかったのだ。

 酒井が後日知ったことだが、美雪は酒井に紹介された就職口
には約三ヶ月いただけで、不意にそこを辞めたらしかった。特に
不満があったわけではないようだったが、とりたてた理由もない
ようだった。それ以降の彼女の足取りは、酒井には全くわかっ
ていない。
 領事の立場を最大限に利用して、酒井がイスタンブールでし
ていることを警察に通報する、とひょっとして彼を脅しに掛かって
くるのではないかと懸念した時期もあったが、そんな事は起こら
なかった。それでも多少は美雪のことが気になりはしたが、自分
の意思で酒井の元から離れようとしているようにも感じられたの
で、あえて酒井はそのまま放っておくことにした。

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2008年9月29日 (月)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十章(8)

 何度か一時帰国をした際に紹介されたことがきっかけとなり、
やがて酒井は勧められてある財閥の一人娘と見合い結婚する
ことを承諾した。だがそれでも冬場の大気汚染を理由に、彼は
妻を日本に残したまま、イスタンブールで単身赴任を続けた。
イスタンブールで彼の帰りをじっと待っている本当の妻は、彼
にとっては良子一人しか有り得なかったし、その二人だけの
秘密が壊されることを極端に嫌ったのだ。不思議と良子は彼
が結婚したことを知っても、別に取り乱したりしなかった。酒井
は彼女が最初から、それを諦めていたような気さえした。だが
だからと言って、彼女が酒井に接する時の態度は決して変わ
らなかったのだ。彼女の唯一の希望は、二人きりで一緒に居
る時には必ず、酒井に指輪を外させることだけだった。
 何度か彼は、良子をそのことに利用した。だが不思議とそれ
でも、彼女に対する彼の気持ちが変わらなかったのは、それ
だけなおも酒井が彼女を愛おしく思っていたからに他ならない。
だからこそ彼女が帰国することを酒井に相談した時、彼は彼女
の就職口を探すことを約束し、見事にその際の履歴書の中の
彼女のイスタンブールでの過去を消し去ったのだ。そして彼女
が結婚したことを知った時の酒井の心中には、幸せになってほ
しいという純粋な気持ちと同時に、我儘だとは知っていても相
手の男に対する黒い嫉ましさが有ったのも事実である。

 それからしばらくして、酒井は塚本美雪と知り合った。良子が
イスタンブールを去ってから一人身を通していたこともあり、彼
女を下心無しで気軽に家に呼んだ時、不意に彼は衝動的な気
持ちに駆られ、彼女を半ば強姦する形で無理矢理に抱いた。
酒井が終わった後、ベッドの上で気が狂ったように泣き叫ぶ彼
女を見て、彼は心底からすまないという気持ちが起こった。彼
女は酒井にとって所詮は、肉体的な良子の身代わりでしかな
かったのだ。だが若い頃には精神的より肉体的な関係が優先
するためか、やがて彼女は酒井の二番目の現地妻になってい
った。
 だがその頃、何処でどう嗅ぎ付けたのか、マスコミの人間と称
する男が酒井を脅しにはるばる日本からやって来たのである。
この時の酒井の危機を救ったのは美雪だった。彼女はその男を
空港でわざわざ出向え、親切を装って同行してホテルにチェック
インするのを手伝い、挙げ句の果ては、無断でその男と寝たのだ。
 そして睡眠薬強盗よろしく彼を眠らせると、以前一緒に暮らして
いたことのあるトルコ人を呼び出し、真夜中にその男の車を使っ
て、眠っている男をガジ・オスマンパシャというトルコ語で通称ゲ
ジェコンドと呼ばれている不法建造物、すなわちジプシー達が不
法に一夜の内に建てて住み着いている建物、が散乱する場所に、
人目に付かぬように気を使いながら、秘かに連れ去ったのである。
そしてそこでその男が意識を取り戻して逃げ出そうとするのを、そ
のトルコ人と二人で追いかけて撲殺したのだ。その男の死体は翌
日警察に発見されることとなり、上着のポケットの隅に一枚だけ残
っていた名刺から身元は割り出されてしまったが、事件は結局うや
むやなままで終わった。酒井が警察の有力者に圧力をかけ、事件
を半ば闇に葬ったのだ。
 こうして酒井と美雪は、犯罪の共犯者的な意識で繋がった。そし
てその弱みを握られたトルコ人を彼女が強烈な睡眠薬を用いて殺
害したのは、それからしばらく経ってからだった。何もそこまでする
必要はなかったのだが、美雪はどうやらその男に昔、同じ手口で
犯され半ば強制的に同棲させられていた事情があったらしく、その
復讐心が強かったようだった。

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2008年9月27日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十章(7)

「いよいよ明日だな……」
 念入りに銃の分解掃除をしながら、横のソファに腰かけた傭兵
が、不意につぶやくようにそう言った。その傍らで酒井武司はブ
ランデーの香りと戯れながら、その言葉に小さく頷き、これまで
の遥かな道程を想った。最初にこの恐るべき計画を彼の上司で
ある野宮邦弘から聞かされた時、正直言って彼は動転したもの
だった。その時はまだ彼はあまりに純粋で若過ぎたのだ。
 苦悩しながらも、自分のこれからの人生を野宮が左右出来るこ
とへの恐怖にも似た忠誠心に支配され、彼はブラック・ローズへ
の一歩を知らずのうちに、だが確実に踏み出していたのだ。そし
てイスタンブールで過ごしたこの十年余りの歳月は、酒井武司と
いう一人の人間をしたたかに成長させていた。

 良子と暮らしていた頃、一時はそんな自分に嫌気がさし、全て
を捨てて彼女と一緒の人生を選ぼうかとも迷ったこともあったが、
その時の自分の地位や名誉を捨てるだけの度胸が彼には無か
ったのだ。彼のこれまでの人生の中で、良子ほどに影響を与え
られた女性はいなかった。同時に彼女は時には小悪魔的な、不
思議な魅力で溢れた女性だった。
 そして酒井が悩んだり迷ったりした時、良子は彼に常に的確な
アドバイスを与えてくれた。そのお陰で何度救われたか知れない
のだ。その時彼はもはや、良子抜きの自分の人生などとても考え
られないほどに彼女を愛していた。誰にも決して話すことはないが、
未だに彼はハッキリと覚えているのだ……あのスチームのほとん
ど効いていない肌寒い部屋の中で、毛布にくるまりながら良子と
二人で抱き合って眠った頃を。

 あの頃が一番幸せだった、と酒井は思う。だがその幸せをぶち
壊したのは、他ならぬ酒井自身だったのだ。彼は結局自分の将
来の出世のために、良子を他の男に抱かせたのだ。もちろん彼
自身が良子にそう頼んだわけではない。良子がそれと察して、
彼の知らないうちにそうなっていたのだ。酒井がその事を知った
のはかなり後になってからで、相手の男から覚えのない礼を言
われた時に、ひょっとしたらと良子を問いただして初めてわかった
のだった。この時ばかりはさすがに酒井は、彼ながらに自分の優
柔不断な性格を恨んだ。
 同時に酒井の性格が変わり始めたのも、これが契機だったと言
ってもよかった。彼の中でどうしてもずっと破れないでいた殻が、
ひとつ剥けたような感じだった。ちょうど昔、童貞であった彼が大人
になり切れなくて、人間的な成長の限界をずっと感じ続けていた頃、
女性を知ってその壁を乗り越えた時に得た感覚と同じだったと言っ
てもよかった。だがその意味合いは、実際には全く異なっている。
男であれば誰もが多かれ少なかれ経験する、少年から大人への
脱皮と、善良さの上に悪を身にまとう覚悟をすることとは、決して同
じでは有り得ない。

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2008年9月25日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十章(6)

 誰も好き好んで火中の栗を拾いたいと思う人間はいない。だが
それはいつか誰かがやらねばならないのだ。それならば、誰もが
怖がってそれをせずに同じ状態が続いて行くのならば、いっそ自
分がその役を買ってやろう、とロビンは思うのだ。
 そして、それが今だった。自分の証言で果たして警察が動いて
くれるかどうかは判らない。だが今自分が動いてきっかけを作ら
ねば、警察は永久にこの事件に関して動けないだろう。そう思え
るのだ。警察にはすでに自分自身が野宮のことを密告電話の形
で通報してある。それをどの程度警察が真に受けたかは、現時
点で彼は知らない。だが少しでも動いてくれていれば、脈はある
のだ。もちろん全く動いた形跡がなければ、自分の考えの甘さを
痛感するだろうし、同時に自分のしたことを多いに後悔する羽目
になる。だがそうなるかどうかは今の彼には判らない。全ては彼
の人生を賭けた、大きな賭けなのだ。
 負けた時の保証は一切無い。それどころか、彼はこれまで築き
上げて来た全てを失うのだ。もうすでに、誤解からとは言え、彼は
洋子を失っている。その代わりにマユミを得たが、やはりそれでも
本心は、マユミには悪いが洋子のことが気にかかる。そして彼は
すでに鮫島省吾を失っている。今さらロビンが失うことを恐れるも
のは、何も無いのだ。
 今の彼の心の中を占めているのは、純粋に悪に対する怒りの気
持ちだった。かつて鮫島省吾が虐げられた人々を憂いたように、ロ
ビンはブラック・ローズ組織をこの世から消し去りたいと願っている。
それこそが元凶なのだとわかったのだ。もちろんブラック・ローズを
自己の欲望のために利用しようとしている人間達の方が、はるかに
悪賢いし悪質だと言える。だが彼らとてブラック・ローズが無ければ、
別の手段を取っていたかも知れないが、あるいは今回の計画を思い
付かなかったかも知れないのだ。
 人間の欲望は限りがない。富を得れば次に地位を、地位を得れ
ば次には名声を望むのは性であると言える。だがだからと言って、
他人に迷惑をかけて何をしてもいいわけではない筈である。
 ブラック・ローズ壊滅の突破口は、ロビン自身の手で切り開かね
ばならないのだ。そしてそれは、いつ果てるともない孤独な戦いの
始まりになるだろうことは想像に難くない。だからこそ、それに洋子
やマユミや龍王やその他の人々を絶対に巻き込んではならないのだ。

 ふと気付くと塚本美雪は、津田が彼女に声を掛けるのを座ったまま
じっと待っていた。龍王との話し合いは終わったようだった。
「行こうか、美雪さん」
 津田の言葉に促されるように、塚本美雪は立ち上がると、龍王に精
一杯の微笑みを投げ掛け、津田のいるところにやって来た。最後に津
田は振り返って洋子を見た。
「さよなら、洋子」
 小声で津田は傍らの洋子にそう言うと、そっとアルファのドアを押し
た。誰一人、何も言わなかった。龍王はその津田の言葉の裏に、津田
と洋子の関係を感じ取ったが、彼は黙ったままだった。そして洋子は、
津田と美雪が出て行ったアルファのドアを、黙ったままいつまでもじっ
と見詰めたままだった。

『私は一体、あの人のことをどれだけ判ろうと努力したんだろう』
 心の中が空っぽになってしまったような気持ちになるのを、洋子は感
じていた。短かった二人の恋愛ごっこでの色々な出来事が、次々と走
馬灯のように蘇って来た。津田は恐らくもうここには戻って来ない。そう
思うと余計に、不思議と津田のことが気になった。
『でも私は誰も相談する人が居ない……!そうだ』
 不意に洋子の脳裏を、本郷の顔がかすめた。じっとしていられなくな
った洋子は龍王に「これ、お願い」と言いながらアルファの鍵を放り投
げると、龍王が呼び止める間もなく外に飛び出していた。涙で濡れた
目を袖口でそっと拭いながら、洋子は駅への道を力の限り駆けた。夕
闇の迫る駅への道を、遥か後ろの方でうろたえる龍王の呼び止める
声を聞きながらも、彼女は必死になって津田達の後ろ姿を探しながら
走り続けていた。自分が失いたくないものを本当に失わないために…

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2008年9月23日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十章(5)

 津田は洋子が腰掛けているカウンターの脇の電話の前に立つ
と、自分の部屋の電話番号を回した。洋子はそれをじっと何も言
わずに見つめたままだった。二度鳴らしていったん切り、もう一度
二度鳴らす。そして三回目にかけた時、呼び出し音が鳴るか鳴ら
ないかの内に、すぐにマユミが出た。それが津田がマユミにかけ
る時の合図だったのだ。その合図以外の電話は絶対に取るなと
言ってあった。
「マユミ、俺はこれから塚本美雪さんと一緒に、警察に行く」
「何ですって!警察へ行くって…ロビン、突然何を言い出すの。あ
なた、正気なの。それに、塚本美雪、って、彼女見つかったの」
 マユミは、突然の電話に、状況がよく理解できないでいた。
「ああ、目の前にいる。どうやら今回は、これ以上は俺の手には追
えないようだ。それに事件はまだ片付いちゃいない。そうだろう?
……もちろん俺もただじゃ済まないことは、承知の上だ。だがマユ
ミ、お前は逃げろ。お前まで俺の気紛れに巻き込みたくはない、こ
れが俺が鮫島さんの娘にしてやれる最後の伝言だ。一刻も早く日
本を離れろ。そしてこれまでのことは全て忘れて、何処かで幸せに
暮らすんだ」
「ロビン!一体どうしたって言うの。お願いだから、そんな言い方し
ないで」
「いいか、今すぐにだ。金は俺のベッドの下に挟んであるから、それ
を使え」
「そんなの嫌よ。ロビン、お願い、考え直して」
「今まで美雪さんの話を聞いてて、ふと思ったんだがな。第二の標
的の見当が付いたよ」
「え、誰なの」
「ミカド、さ」
「何ですって」
「奴ららしいとは思わんか。ま、それ以外の意思も入ってるみたいだ
がな。そうなってくると話は別なんだ。そんな大掛かりなことを目論ん
でる奴らが、お前以外のスナイパーを今までかかって用意してないと
は、絶対に断言出来ない。だから多分、レイン計画は実行される。今
も多分秘かに進行してるだろう」
「そんなことが」
「だからお前は、日本から離れた方がいい。お前はこれ以上、この事
件に首を突っ込むのは止めておけ。わかったな」
 そう言い放つと、ロビンは強引に電話を切った。マユミに話している
時に自分でもそうだと思ったのだが、恐らく誰かをスナイパーとして新
たに呼び寄せているに違いないのだ。そうなると事態は一刻を争う。
彼はレイン計画の実行日がいつかを知らないのだ。
 もちろん警察に出頭したところで、津田とて黙ってそのまま素直に
拘留される気はなかった。それはあくまで警察を動かすためであり、
野宮邸に捜査員を差し向けるのに必要なことなのだ。もちろん野宮の
自宅を強制的に家宅捜索して、何らかの証拠が出て来るかどうかは
保証の限りでは無い。だがもしも警察とやらに責任感と義務感が少し
でも残っていれば、何とかなるかも知れないと思った。それで駄目な
ら、元の傭兵ロビンに戻るまでのことだった。

 所詮は警察とは言っても、組織であることに変わりはない。上からの
命令に下の人間が当然従わなければ、秩序も何も生まれない。だが
かつて本郷が不満やるかたなかったように、皆が小羊のように従順な
公務員ではないはずである。もちろんその命令に筋が通っていたなら、
それはそれで良い。だが今回の捜査中止命令は、恐らく上層部の黒
い癒着から来るものに違いなかった。それは誰もが感付いている筈で
ある。だが反発する勇気がない、それだけのことなのだ。
 そんなことは百も承知の上で、それでも津田は日本の警察の良心と
やらに賭けることにしたのだ。それはあまりにも馬鹿げた賭けかもしれ
ない。醒めた考えを持つ人間なら、一笑に伏すだろう。だが津田はそ
れでは何の解決にもならないことを知っている。誰も何もしないから、
何も起こらないのだ。口で批判するのは簡単なのだ、誰にだって出来
る。問題は自分が自分の足で行動を起こせるか、あえて泥沼の中に
踏み出せる勇気を持っているかどうかで決まるのだ。
 それを彼はかつて傭兵時代に嫌と言うほど、経験している。もともと
傭兵とは、普通の人間なら足がすくんで動けなくなるような恐怖感か
ら、一歩を踏み出すことが出来る男達のことを言う。特にオファーによ
っては、大自然の中で対ゲリラ戦が行なわれる場合も多い。しかしそ
の際に、遠くから眺めている限りはこの上もなく美しく、時には優しさ
さえ見せる大自然は、その中に踏み込んで行こうとする人間を、意外
にも厳しく拒絶するのだ。それは自らの力で踏み込んで行ったことの
ある人間でなければ、決して知ることが出来ない。そして自然と対峙
していると、五感が研ぎ澄まされることで、見えないものが見え、不可
能が可能になるのだ。この経験を重ねながら、弱肉強食の世界を目の
あたりに見て、傭兵ロビンは成長していったのだ。

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2008年9月21日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十章(4)

 津田はやがて顔を上げ、アルファの中を懐かしげなそして哀しげ
な、何とも言えない表情で見渡した。やはりどうあがいても津田一
人の力では、合法的に野宮を完全に追い込むことは出来ないこと
に気付かざるを得なかったのだ。そこに実際の警察力を持たない
彼の力の限界があった。たしかに傭兵ロビンなら、非合法的に可
能だろう。だがその結果として彼が得るものは、虚しさ以外の何も
のでもない。彼自身が再び、殺戮の過去に引き戻されるだけなの
だ。自ら進んで戻りたい過去ならばそれでもいい、しかし今の津田
は決してそれを望んではいないのだ。やがて津田は意を決して、
塚本美雪に言った。
「美雪さん……俺と一緒に、警察に出頭してもらえんかな」
 その津田の言葉を聞いた瞬間、美雪の表情がこわ張り、小刻み
に両手が震えた。津田は彼女に微笑みかけながら優しく言った。
「心配いらんさ、君だけの証言じゃ警察は動かない。それに俺の証
言が加わって初めて、警察は動かざるを得なくなるからね」
「私の証言と……津田さんの証言」
「ああ。言ってあげようか、そうすれば安心出来るだろう。俺は君よ
りもずっと昔から、野宮や巽良介を知ってるんだ。何故なら奴らと一
緒に仕事をしてたことがあるからさ。今の仕事に就く前の数年間ね」
「!……」
 洋子は初めて語られた津田の過去に思わず息を飲んだ。彼女は
アルファの鍵を先に帰った木島から預かって、そのアルファの片隅
で彼らのこれまでの会話を一部始終聞いているのだ。話している
内容がよくわからないが、あまりまっとうな仕事でないらしいことは、
津田の口調から想像できた。
「君が知ってるのは、イスタンブールの事だけだろう。だが俺は、そ
れ以外の事を知ってるんだ。俺の方が罪は重いさ。それに俺は証
拠を持ってる、奴らが四年前のトリム事件の真犯人だった証拠をね。
もっとも、警察がそれを証拠と見なすかどうかはわからんが」
「………」
「その時は自分でも、これまでの過去がばれるのが怖かった。だか
ら警察には黙ってた。だが今回はちょっと状況が違うみたいなんだ。
俺もまだ全貌は掴んでないが、奴らはとんでもないことを企んでる。
実は昨日、奴らと一戦交えたばかりでね。今回はさすがに警察の力
を借りなきゃ、奴らを止められそうに無いんだ」
 それは津田の本心だった。昨日の今日だから、彼らがすぐに動き
出すとは思えなかったが、それでも村上警部補や本郷達に協力を
要請するのなら、早いに越したことはない。事が起こってからでは遅
すぎるのだ。
 美雪はしばらくじっとうつ向いて何事かを考えていた。そして顔を上
げ、正面から津田の顔を見ながら言った。
「……行きます、津田さん」
「ありがとう」
 津田は美雪の横で心配そうに彼女を見詰めている龍王に、あらた
めて言った。
「そう言うわけだ、龍王。悪いがちょっとの間、彼女とは会えなくなる
かもしれんが辛抱して待っててくれ。ま、純粋なお前のことだから、
俺がそんな風に言わなくったって、いつまでもずっと彼女を待ってる
んだろうなあ」
 龍王は頷くと、涙で潤んだ目で横の美雪を見た。美雪も龍王を見た。
「いいのよ、無理しなくても。私のこと、嫌いになったでしょう」
「………それでも、俺は……美雪さん……君が、好きだ」
 ほとんど声にならない声で、涙ながらに龍王は言った。龍王の顔を
見詰めた美雪の両目から、幾筋もの涙があふれ、頬を伝って流れて
いく。津田はそっと席を立った。こういう情に訴える光景と言うのは、
彼は大の苦手なのだ。

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2008年9月19日 (金)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十章(3)

 臨時休業にしてもらった喫茶アルファの中で、津田は塚本美雪
を必死になって説得し、やがて彼女が全てを告白するまでに数
時間を要した。それをひと通り聞き終わった後、津田は果たして
これから一体どうしたらいいものか、判断に迷っていた。今の塚
本美雪の証言だけでは、決して野宮達を逮捕することは出来な
い。警察を動かすには、もっと強力な証言者が必要なのだ。そし
て当然のことながら、動かぬ証拠が必要になる。ひとつだけ彼ら
に有無を言わせぬ程の強力なものがあるのだが、果たしてそう
すべきなのかどうか、彼は悩んでいた。マユミと洋子の顔が交互
に、津田の脳裏に浮かんでは消えてゆく。
 彼らに有無を言わせぬ証拠……それは津田自身だった。だが
元傭兵であり、海外でとは言え幾多の人間を殺してきた過去は
決して消せない。そしてそれは彼がこれまで必死になって隠し
通して来たものなのだ。その事が今の日本の法律で、殺人罪に
問われるのかどうかも、彼自身には全く判らない。絶対に間違い
ないのは、それを言えばこれまで必死になって彼が築き上げて
きたもの全てが失われ、元の何もない自分に戻ってしまうという、
単純明解な事実だった。そしておそらくこれからの人生も、保証
の限りでは無いだろう。

 そこまで自分の全てをさらけ出す必要が有るのか、と彼は考え
た。今さら、洋子とのことを考えられる状況でもなかった。彼女は
すでに津田がマユミと同棲していると信じているだろう。津田が
自分を裏切ったと洋子は絶対に思っている筈だった。その事だ
けが津田には気がかりだった。だが今では、本当にマユミとの
関係が出来てしまっている以上、今それを言う事は洋子に嘘を
付くのと同じことになるのだ。
 今さらどう考えてみても、津田がそんな言い訳をしてみたところ
で、彼と洋子との関係が元に戻るとは思えないし、頭から信用し
ては貰えないだろう。結果的に洋子には気の毒なことをしてしま
ったが、所詮は自分とはそうなる運命だったのだろうと思うしか
ないな、と津田は思った。それならいっそのこと、何もそのことを
言い出さない方がいいに決まっている。今さら蒸し返してもお互
いに不愉快になるだけなのだから。
 残るはマユミの問題だった。彼女を今回の事件に巻き込む権
利は、津田には無いのだ。だが結果的には彼女も巻き込んでし
まっている。彼女が登場してしまえば、彼女は殺人未遂で罪に
問われる可能性が高い。銃の不法所持というおまけがそれに
付く。津田自身がどうなるかも判らないこんな状態で、彼女をと
もなうわけにはいかない事は明白だった。
 そんな事をあれこれと思いめぐらしながら、津田は大きくひとつ
溜息をつくと、愛用の煙草に火を付けた。ジッポを閉じる時の金
属音が、やけに大きくアルファの中に響いたような気がした。ふ
と津田は塚本美雪のことを思った。彼女とて、ただで済む筈は
無いのだ。
 彼女の告白の内容は、津田が想像していたものとほぼ一致し
ていた。だが下手をすれば、彼女がこれまでイスタンブールでし
てきた事が明らかにされてしまう。それは、せっかく必死になっ
てはい上がろうとして来た彼女を、再びあの地獄の泥沼に突き
落とすのと同じことなのだ。そして津田がこれまで仕事柄見て
来た幾多の女性と同じように、いったん売春婦の烙印を押され
た彼女は、恐らく再びはい上がっては来れないだろうと思えた。
それはあまりにも残酷な仕打ちだった。

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2008年9月17日 (水)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十章(2)

 なごやかな雰囲気の中で、二人はどのぐらい、そうして時間の
経つのも忘れて話し込んでいただろうか。不思議なもので、こう
して正面からじっと美雪の顔を見詰めながら話していると、龍王
は自分の心が満たされるのを感じていた。ずっと以前からこうい
う光景が何度も続いているかのような、まるで自分達が学生時
代に戻ったかのような、二人がまるで恋人同士であるような、そ
んな錯覚すら覚えていた。夢の世界でまどろんでいる気さえする。
神様がこの世にいるのなら、このままずっと時間が続いてくれれ
ばいい、と願いたかった。

 その時、津田が席を立つ音が龍王の背後でして、彼は我に返
った。龍王は自分に声をかけずに横を通り過ぎようとした津田に、
反射的に声を掛けた。
「津田の兄貴」
 津田はその言葉にちょっとびっくりしたような顔をして立ち止まり、
龍王を見た。津田としても、龍王のデートにわざわざ自分から首を
突っ込んで邪魔したくなかったし、今はそれどころではなかったの
だ。昨夜は運良く事が運べて、野宮とゼブラに一矢報いることが
出来たとは言え、最後の詰めをどうするかという最大の問題が残
されているのだ。それゆえ彼は、まさか龍王が自分に声を掛けて
こようとは思ってもみなかった。
「紹介するよ。津田さん、だ。この人は俺の生命の恩人でね、今の
店で働いてるのもこの人が世話してくれたお陰なんだ」
 そう美雪に説明すると、龍王は目の前の女性を津田に紹介し、
彼女は澄んだ大きな目を津田に向けながら、笑顔で軽く会釈しな
がら話しかけた。
「初めまして、塚本美雪と申します」
 社交辞令的に頭を下げかけた津田の動きが、その言葉を聞いた
瞬間、止まった。まるで幽霊でも見ているかのような顔付きで、津
田は唖然とした表情でその女性をまじまじと見詰めていた。
「塚本……美雪さん、ですか」
 津田はあらためて間近の彼女を見た。横で洋子が変な顔付きで
津田の様子を見ていた。だが津田はそれどころではなかった。まさ
かそんな馬鹿なことが、と内心思いながらも流石に緊張していた。
万が一にもそんな事が起こる可能性は、ほとんど無きに等しいは
ずなのだ。自分の心臓の鼓動がやけに大きく耳に響いてくるのが、
津田には自分でわかっていた。
「あの……失礼な事をお尋ねしますが」
「はい、何でしょうか」
 彼女は屈託のない表情で、津田に笑顔でそう言った。一方の津
田は緊張した面持ちで、ゆっくりと自分の発する言葉を噛みしめる
ように彼女に尋ねた。
「塚本美雪さん、貴方は……昔イスタンブールに居ませんでしたか。
去年の夏、アタチュルク国際空港で、川田さんが出国する時、雨の
ことを彼に伝えませんでしたか」
 目の前の彼女の表情が瞬時にしてこわ張り、サッと顔から血の気
が引いて行った。その瞬間、津田は確信を持った。この目の前の髪
の長い女性は、津田があれだけ捜し求めて、遂にその手掛かりすら
見つけられずに終わった、一時は杉本弘美がそうなのではないかと
さえ疑った、あの謎の女性、塚本美雪なのだ。不意に彼女は真っ青
な顔をして席を立った。龍王は何事かとこの事の成り行きを、ただた
だ唖然と横で見守るだけだった。彼女の唇が微かに震えているのが、
龍王が傍目で見ていても判った。見ていて痛々しいぐらい、小刻みに
彼女の両肩が震え出している。
「な、何かの間違いでしょう。私、知りません、そんなこと」
 そう消え入りそうな震える声で言うと、彼女は急いでアルファから
出て行こうとした。
「待ってくれ!あんたには是非とも教えてもらいたいことがあるんだ」
 津田は逃げる彼女の腕を掴みながら、叫ぶように言った。一瞬、ア
ルファの中の時間が止まったかのような静寂が訪れた。

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2008年9月16日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十章(1)

 龍王五郎が彼女の名前を知ったのは、ごく最近のことだった。
津田が紹介してくれた秋葉原の量販店での仕事は、結構彼の
性に合っていると言えた。もともと販売の仕事が向いていたの
だろうが、思うように商品が売れていくのは、彼にとってすこぶ
る気持ちが良かった。京都の大学で、曲がりなりにも電子科に
在籍していたこともあり、もともと興味があった分野でもあった。
 そんな彼がその彼女を知ったのは、この春のことだった。デュ
ーティー・フリーの店で働いているのを偶然に見たのがきっかけ
だった。幸いにその店には彼の顔見知りの人間がいることもあ
り、時々用事を作ってそこに行っては、秘かに彼女のことを想っ
てチラチラと盗み見していた。
 「美雪ちゃん」と呼ばれている彼女は英語が達者で、皆が一
目置いている存在だった。かと言って、決して英語が出来るこ
とを鼻にかけるような無粋な態度は取らない故、その外見上の
可愛らしさと性格の良さも手伝ってか、皆の憧れの的だった。
普通なら何処かの大会社の秘書にでもピッタリ似合いそうなの
に、どうしてよりにもよってこんなブルーカラー的な仕事を彼女が
選んだのかは誰も知らなかった。彼女の頭の良さと才量がある
なら、もっと別の道が開けているのにと誰しもが思いながらも、
この仕事を選んだのも彼女らしくていい、というわけのわからな
い結論になってしまっていた。
 何人かが彼女に果敢にアタックしたようだったが、ことごとくフ
られてしまっていた。いつの間にかそれが、彼女には格好いい
彼氏がいるのだという噂になり、その噂に龍王も内心ガッカリし
たものだった。だがその噂の彼氏を一目見るまでは、龍王はあ
きらめきれなかった。そして思い切って龍王が彼女を誘ったのが
つい先週のことだった。きっと自分などには見向きもしてくれない
だろうと思っていた彼の想像に反して、美雪は控え目にオーケー
したのだった。龍王は当然、舞い上がった。
 そして龍王が美雪を誘った先が、喫茶アルファだったのである。
気の利いたデート場所などには龍王は縁がなかったし、かと言っ
て背伸びをして赤坂や六本木の高級レストランに連れて行けるは
ずもなかった。さんざん考えあぐね悩んだ末に、龍王が選んだの
が喫茶アルファだった。ここなら安心出来るし、何よりもアルファ
の飾らない雰囲気を美雪にも好きになってもらいたかったのだ。
それで愛想をつかされればそれで良い、と龍王は覚悟していた。
 心持ち緊張で顔色の青ざめた龍王が、美雪とともにアルファのド
アを開けた時、津田はちょうど一人で難しい顔をしながらコーヒー
を飲んでいたところだった。龍王は津田が居るのを見てホッとした。
津田にも出来るならば彼女を見てもらいたいと思っていたし、仕事
柄色々な人間を見ている津田の感想も、ぜひとも聞いてみたかっ
たからだ。

 二人は窓際の席に腰を下ろした。駅からここへ来るまでの間に、
龍王はここのことを美雪に説明してあった。それゆえ、美雪は珍し
いものでも見るかのように、アルファの中を見渡していた。やがて
普段よりもご機嫌斜めのように感じられる洋子が注文を取りに来
て、二人はコーヒーを注文した。津田は二人を一瞥しただけで、再
び椅子の上であぐらを組んで腕組みをするいつもの格好で、何事
かを額に皺を寄せてじっと考え込んでいた。大体こういう時の津田
はえてして御機嫌斜めのことが多い。龍王はこれまでの経験から
それを知っていたので、どうきっかけで津田に美雪を紹介しようか
と迷っていた彼は、ついその機会を逃してしまった。
 美雪の正面に座った龍王は努めて、飾らない自然な会話を心掛
けた。今さら自分が気取って彼女の前でいい格好をして見せても、
所詮はたかが知れている。二枚目を気取ってみたところで化けの
皮はすぐに剥がれて、自分でも長続きしないことを知っているから
だ。自分とこうして一緒の時間を過ごすことにしてくれた美雪の気
持ちだけで、今の龍王は充分満足していた。彼女を退屈させない
ようにと、これまでの自分の失敗談を面白おかしく額に汗しながら
喋っていた龍王だったが、それが功を奏してか、美雪は愛らしい笑
顔でよく笑ってくれ、話は弾んだ。そんな今の時間が、龍王には嬉
しかった。

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2008年9月15日 (月)

作者の簡単レビュー 【その27】

 当初、この物語の構想がまだ充分まとまらないうちに書き始め
た頃は、いったいこの物語はどうなっていくんだろうと内心不安な
気持ちがありました。書いている途中から、色んな新設定が浮か
んできて当初の筋から離れて変化し、いつの間にか私の心の中
に確実に生きている登場人物たちにひっぱられながら、良い意味
で物語が膨らんでいったように思います。
 次回からの第十一章のサブタイトルは「砕かれた野望」です。

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2008年9月14日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第九章(11)

 ロビンは立ったまま銃を構え、スコープを覗いていた。彼方から
猛スピードで接近して来る車からは、ゼブラが助手席から身を乗
り出して、やはり同じような狙撃姿勢を取っていた。運転席では
鬼のようなこわ張った形相で、野宮がじっとロビンを見詰めてい
た。やがてゆっくりとロビンが引き金に指を掛けた。数度、彼の
上半身が射撃時の反動で微かに揺れた。マユミは思わず舌を
巻いた。ロビンの腕前がこれほど凄いとは思わなかったのだ。
その銃は反動が比較的大きく、マユミも苦労していた。それをロ
ビンは事もなげにかわしながら、かつ押さえ込んでいるのだ。
 銃を撃つ時の反動をまともに受ければ、通常の人間であれば
肩を痛めても不思議ではないぐらいの衝撃がある。それゆえか
つてのベトナム戦争時に、一般人に毛の生えた程度のベトコン
兵士が銃の台尻に布を巻き付けて、この衝撃を防いでいたとい
う事実も判っているくらいである。マユミが良く見ると、ロビンは
見事にこの衝撃をその身体全体で吸収しており、肩に大きな衝
撃が掛からないように自然と身体が反応していた。これ程まで
に見事に、絵に書いたような綺麗な射撃をする人間に、マユミは
これまでお目にかかったことが無かった。かつてゼブラが傭兵ロ
ビンを絶賛していたのもうなずけた。
 そんな彼女の気持ちをよそに、車は真っ直にロビン目掛けて突
き進んで来ていた。やがてロビンは身体の向きを少しだけ左の方
に向け、にやりと笑って見せた。それを見た時の野宮は恐らく心
底から恐怖したであろう。真近に迫ったロビンの銃口が、まさしく
自分を狙っているのだ。その彼の動揺を恐らく狙ってのロビンの
行動に違いない、とマユミは直感した。
 案の定、野宮は流石に恐怖心に駆られ、ハンドルを思わず左に
切り、ロビンを避けて通り過ぎようとした。不意に体勢を崩され、
危うく車から振るい落とされそうになったゼブラの驚愕の表情が
マユミにも見て取れた。ロビンはさり気なく数発を彼ら目掛けて
発射し、すぐに銃を下げた。それ以上の深追いは敢えて避けた
のだ。
 パールグリーンのシルビアは相変わらずの凄いスピードで、ガ
タガタと大きな音をさせて上下に大きく揺れながら、彼方に向け
て走り去って行った。それを確認した後、マユミは怪訝そうな顔
付きをしながら、ゆっくりとロビンの元に走り寄った。彼らに復讐
出来る、二度とない絶好の機会に思えたのだ。たしかに今彼ら
を追えば、比較的容易に彼らを始末出来るだろう。
「ロビン、どうして追わないの」
「映画じゃないんだ。今下手に追えば、こっちも捕まる。チャンス
はまた来るさ」
 あっさりそう言うと、ロビンはマユミに笑顔で言った。ロビンの左
肩をゼブラの銃弾がかすったらしく、少し血がにじんでいる。マユ
ミはそれに気付き、自分のハンカチを出すと、その傷口を押えた。
少し痛そうな顔をしたロビンは、何事もなかったかのように言った。
「ちょっと腹が減ったな。悪いがマユミ、帰ったら何か旨いものでも
作ってくれないか」
 マユミはロビンのその言葉に嬉しそうに頷くと、彼の右腕に自分
の腕を絡ませ、そっと頭を持たせ掛けた。フッと言う声にならない
ロビンの鼻で笑う音がした後、彼の手が風に乱れるマユミの長い
髪をやさしくそっと掻き上げた。

 翌朝、ロビンとマユミは一つのベッドの上で抱き合ったまま安らか
な眠りに就いていた。昨夜の小さな勝利の快感が、二人に安堵感
を与え、お互いを激しく求め合った余韻が残っている。まるで事件が
全て終わってしまったかのような錯覚に陥っていたのだ。だがそれ
は決して責めることは出来ない。やがて二人はほぼ同時に目覚め
ると、どちらからともなくまどろみの中で微笑み合った。本当のレイ
ン計画発動まで、あと四十八時間を切っていることも知らずに……

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2008年9月13日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第九章(10)

 数発の着弾が、ゼブラの嫌いな音をさせ、リアのガラスが砕け
散った。弾の命中した座席が、鈍い音を立てながら前後に揺れ
る。不意にゼブラが握っていたハンドルが重くなり、右の方に持
って行かれそうになった。右前輪のタイヤを、ロビンに打ち抜か
れたのだ。同時に銃を向けたロビンが、彼らの視界の左後方に
あっと言う間に流れ去って行った。小さく舌打ちすると、ゼブラは
ロビンのいる位置からかなりまっすぐ行った場所まで走り、そこ
で車を急にUターンさせて停めた。そしてゼブラは車を降りた。
「マユミ、大丈夫だったか。怪我はないか」
 ロビンは大声で叫びながら、マユミに近付いた。マユミは笑顔
を見せながら、黒いアタッシュケースを左手で持ち、ロビンの方
に歩み寄った。彼方にライトを付けたままのシルビアが停まって
いるのが見える。
「やったの?」
「いや、右の前タイヤを打ち抜いただけだ。車はもう使い物には
ならんが、奴らは多分無事だろう」
「運転してたの、ゼブラだったわね」
「ああ。だが奴は左腕に怪我してるからな。まさかあそこでのん
びりタイヤ交換するわけでもないだろう」
「これから、どうするつもりなの」
「その中身を確認するさ。俺の推測が正しければ、その中身は
全部警察にナンバーが控えられてるはずだ」
「貴方がこの前言ってた、トリムの時に奪われた身代金の一部
だって言うの?」
「俺はそう思ってるんだが。ん、奴らが来るぞ!」
 ロビンはマユミを下がらせると、自分だけその岸壁沿いのアス
ファルト道路の中央に、弾装を新しくした銃を持って静かに立った。
近付いて来るライトの明かりの向こうで、走っている車の助手席か
ら身を乗り出し銃を構えている男の姿が微かに見えた。どうやら運
転を代わったようだった。車は前輪を打ち抜かれたにも関わらず、
相変わらず凄いスピードでロビンの居る方めがけて突進して来て
いる。上下にかなり揺れ動いているのがライトの光でわかった。
「賢明だな。ゼブラ、決着を付けようか」
 そう言うとロビンはスコープを覗かずに、無雑作に銃の引き金を
二度引いた。瞬時に明るさの余韻を残して彼方の車のライトが両
方とも消えた。これには傍で見ていたマユミの方がたまげた。
「すごい……」
 マユミは正直言って、まだ傭兵ロビンの腕前を知らないのだから、
それは無理もないことだと言えた。ただその時、かつてイスタンブ
ールでゼブラが何かのはずみで彼女に言った言葉を彼女はふと
思い出した。
「あいつの腕は本当のところは、これまでのブラック・ローズ部隊
の傭兵の中では一番だろうぜ。だがあいつは冷酷さに徹しきれ
ない、っていう致命的な弱点がある。それがもしも無くなった時、
俺は感情を消し去った時のあいつを想像しただけで、心底ゾッと
する」

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2008年9月11日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第九章(9)

 野宮がのこのこと言われた通りに一人で素直にやって来るとは、
幾らロビンでも思いはしないだろう。自分が野宮と繋がっているこ
とを、たとえロビンが知らなくても、彼は野宮がブラック・ローズの
総括者である事をすでに知っていたのだ。そうなれば野宮がどん
な手段を講じているとも限らないことぐらい、子供でも察知出来る。
大勢を秘かに張り込ませ、現金受け渡しの際にロビンを捕獲しよ
うと画策することは、一番容易に最初に考え付く。その場合に彼
が対抗出来る最善の手段は、狙撃しかないのだ。そして大勢を
相手にした狙撃の鉄則は、常に相手より上の位置から狙うことで
ある。この場所であれば、必然的に建物の屋根の上になる。
 そしてそれは逆に、もしもロビンがゼブラと野宮との繋がりを知っ
ていれば、多いに利用価値が有るのだ。つまりゼブラが潜む場所
が、逆に察知出来るわけである。あとはその裏をかけば良い。ゼ
ブラもまさかロビンが自分と同じように、仲間を囮に使いながら目
的を遂げるような方法を実行するとは思っていなかった。それをす
る場合には、囮になっている仲間の腕を充分信用していることが
前提なのだ。囮になっている仲間には、たとえどんな事があって
も自分は手を貸さないつもりでなければ、この連係プレーは成り
立たない。
 何が起こっても自力で脱出出来るか、さもなくば捕まっても絶対
に口を割らないか、そういう仲間には絶対に迷惑を及ぼさないと
いう一種の信頼関係がなければ、囮には絶対に使えない。ただ
し付け加えるならば、この場合にも例外があり、それは囮になる
人間が全く何も状況を知らない場合である。善意の第三者的な
役割を担えるのであれば、頼まれて取り引きの場にやって来る
人間は、誰でも良いわけである。ロビンは恐らくこの方法を取り、
彼自身はこの場所にはまずやって来ないだろう、とゼブラは頭か
ら信じて疑っていなかったのである。
 ゼブラは痛む腕を庇いながら地面に降り立つと、そこに停めて
あったパールグリーンのシルビアに転がるように乗り込み、エン
ジンをかけた。今日のところは彼らの完敗だった。後は野宮をピ
ックアップして、この場から一刻も早く立ち去り、体勢を建て直す
ことが必要だった。そしてこの時ゼブラはまだ、その取り引きの
場に現われた人間が、突然あの狙撃場所から姿を消したマユミ
だったことを知らなかった。

 建物の角を、タイヤの音を荒々しく立てながらシルビアが曲が
ると、ちょうど野宮とマユミがもつれあいながら格闘しているとこ
ろだった。そのマユミの姿を見た時、ゼブラはまさかと思った。幸
いなことに野宮も格闘技は過去に経験があるので、素手であっ
たとは言え、アーミーナイフを持ったマユミはやや圧倒されていた。
だがほとんど勝負は互角だった。ゼブラの視界の端に、ロビンが
やはりこちらの方に向かって走って来るのが目に入った。強引に
野宮とマユミの間に割り込む形で、シルビアはライトを上向きにし
たままで動いた。マユミがそれを感じて、一歩後ろに退く形になっ
た。
「早く、こっちへ!」
 ゼブラが叫ぶのと、野宮が乗り込もうとするのと、同時にシルビ
アのフロントガラスが砕け散った。ロビンが狙撃したのだ。同時に
マユミが運転席側に走り寄り、窓ガラスをナイフの柄で叩き割った。
野宮の身体が半分程車の中に入った時、ゼブラは急発進した。う
かうかしていると自分まで巻き込まれる。車は正面のロビンの方
に突っ込んで行く。ロビンは自分に向かって来るライトの強烈な光
の中で少し目を細め、寂しそうに微笑んだ。瞬時に彼の目付きが
鋭くなり、彼はその場で立ったまま、突進して来るシルビア目掛
け銃口を向けた。ゼブラも野宮も反射的に背を屈めてダッシュボ
ードの陰に隠れるようにしながら、ハンドルを左右に振りながらも
相変わらずゼブラは、アクセルを踏み続けた。

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2008年9月 9日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第九章(8)

 夜のやや肌寒い風が時折強く、微かに潮の香りをともなって
男の周りで吹いていた。約束の時間までにはあと数分あった。
立っている男の右の足元には、鍵の掛かった黒い大き目のア
タッシュケースがある。万一の場合を考え、内部には発信機
が仕込まれていた。これから現われる男のことを考えると、内
部を迂闊に胡麻化すわけにはいかなかった。それゆえ内部に
は、全て本物のアメリカドルの現金がぎっしりと詰まっていた。
それらは新札ではない。だが日本国内では四年前から迂闊に
使用出来ないものだった。
『さて、奴がどう出るか……』
 男はじっと相手が現われるのを今か今かと待ちながら、傍ら
の建物の屋根を見上げた。そこに潜んで待ち構えている筈の
ゼブラは、今の彼の立っている位置からは全く見えない。真夜
中であることもあり、辺りには人っ子一人居なかった。
 やがて彼方に一つ、不意に小さな人影が現われた。その人
影は彼を見付けると、ゆっくりと靴音を響かせながら向かって
来た。そしてその人影に、傍らの建物の屋根の上から、ウイン
チェスター二七〇の銃口が向けられていた。
 場違いな、まるで昔のハードボイルド映画にでも登場するよ
うな格好で、その人物はゆっくりと歩いて来ていた。トレンチコ
ートに身を固め、頭には深々と帽子を被り、両手をコートのポケ
ットに突っ込んだままで、頭をややうつ向き加減にして野宮の
立っている方に向かっていた。

 ゼブラは思わず小さく舌打ちした。彼の今いる位置からは、
その人間がロビンなのかどうかが判別出来ないのだ。ロビン
であればそれでよし、だが万一にもロビンでなく彼の仲間で
あれば、ロビンの居所を吐かせる必要があるのだ。その場合
には、致命傷にならない程度に狙撃しなくてはならない。現金
受け渡しの現場にいる野宮が、よしんばその男を取り逃したと
しても、ゼブラがその男の後をつければそれで済むことだし、
容易にロビンまでたどり着けるだろう。
 傷を負っていればこそ、その男は必死になって真っ直にロビ
ンの元に戻るはずなのだ。それがこういう場合の、いわゆる通
常の人間の習性だった。そしてロビンに仲間が居たとしても、
その人間は幾ら修羅場をくぐっていたとしても、所詮はゼブラの
目から見ればただの日本人にしか過ぎない。傭兵でもない限
り、そんなことまで考えつくはずもないのだ。
 ゼブラはいったんスコープから目を外すと、赤外線双眼鏡を取
り出してその男に照準を合わせた。まさか相手がそんな格好を
してこようとは思いもよらなかったのだ。完全に裏をかかれた格
好だった。流石に向こうから電話連絡して来るだけあって用意
周到だ、とゼブラは思った。
 やがてその人物は野宮の二メートル程手前で立ち止まった。
そしてゆっくりと顔を上げ、野宮の方に向けた。怪訝そうな顔付
きで見ていた野宮の表情がこわ張った。
「貴様!どうして貴様がここに」
 何やら野宮の異変を、双眼鏡越しに察知したゼブラは、その人
物の顔を確認するのを止め、ふたたび愛銃を構え直した。どちら
にしても今はいったん、相手の動きを止めた方が良さそうだった
からだ。

 だがその次の瞬間、彼は左手に突然、焼けつく痛みを覚えた。
久方振りに感じる、彼の一番嫌いな痛みだった。スナイパーの自
分が、狙撃されたのだ。苦痛に顔を歪めながら、ゼブラは斜め左
前方を見た。そこには建物の屋根が幾つか並んでいる光景があ
り、幾つか先の屋根の上で月明かりの中で佇んでいる、右手に
銃を構えた人間の姿が目に入った。そいつは相変わらずの屈託
のない笑顔で、ゼブラに微笑みを投げ掛けていた。
「ロビン!」
 思わずゼブラは叫んだ。ロビンを甘く見ていた自分を呪いながら、
ゼブラは素早く屋根の陰に隠れ、どうして自分の居る位置がロビ
ンに知れたのかと訝しがった。そして即座に自分が致命的かつ初
歩的なミスをしていたことに気付くと、ゼブラは苦笑した。
『奴がこの場所の、下見をしてないはずがなかった』

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2008年9月 7日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第九章(7)

 ゼブラは驚愕の表情でその報告を受け取っていた。電話口の
向こうでは、珍しく野宮が感情を露わにして喋っていた。
「ロビンが、生きていた?そ、そんな馬鹿な!」
「事実だ!そんな悪い冗談を言ってるほど、私は暇じゃないんで
な。それに奴は私がブラック・ローズ部隊の総統だと知ってたぞ。
ゼブラ、お前は一体何をドジな事ばかりやってるんだ。ヤキがまわ
ったもんだな。まさかこのままで済むとでも思ってるんじゃないだ
ろうな。あろうことか、奴は一介の元傭兵の分際で、私を脅しに
かかったんだぞ」
「そ、総統、待って下さい。私は」
「聞く耳は持たん!お前などもう当てには出来ん。ホーク達を呼ん
でやろうか」
「そんな……幾ら私でも、現役のブラック・ローズ部隊にかなうは
ずは」
「まったく!こんな事なら最初から、ブラック・ローズを使うんだった」
「重ね重ね、申し訳ありません。で、奴は一体、何と」
「レイン計画を感付いてる。あのトリムの事件の事もだ」
「げっ!まさか……」
「この失態は、お前の生命で償ってもらうぞ、ゼブラ」
「は、はい。ですが何故ロビンが、そんな事まで知ってるんでしょう」
「知るものか。奴はこう言った、俺は警察にたれ込むほど、野暮じゃ
ないが、生き証人のマユミも居るし、とな」
「!……マユミを拉致したのは、ロビン」
 ゼブラの脳裏にあの鮮やかな手口が甦って来た。一切痕跡を残さ
ずにマユミを連れ去るほどの、腕の立つ人間がこの日本にいる事が
信じられなかったが、それがロビンの仕業となれば、ゼブラにも納得
が出来た。
 ブラック・ローズ部隊在籍中は、ゼブラ、シャーク、コブラというあま
りにも特出した傭兵の影で目立ちこそしなかったものの、一般の傭
兵レベルからすれば、ロビンは決して見劣りするような傭兵ではな
い。その傭兵にしては優しすぎる性格ゆえに、損をしていることが多
かったが、通常であればロビンはトップクラスの傭兵の部類に属す
るのだ。ゼブラとて内心は、ロビンがあの性格を捨て去った時のこと
を、内心恐怖していた部分もある。
「で、奴は何と」
「明日の夜十二時に、芝浦埠頭の三番倉庫の前に、アタッシュケー
スに入れたアメリカドルを持って私一人で持参しろ、とぬかしおった。
使い古しの百ドル札だけにしろ、とな。さもなくばこれまでのブラック・
ローズのことを、洗いざらい警察に全てぶちまけるだと」
「奴がそんな事を……」

 ゼブラには、やにわに恐喝者に豹変した、ロビンの態度が意外だっ
た。あのトリムの時ですら、甘い誘いを断ったロビンだったからだ。だ
がそれとてゼブラには、あの時の折衝相手がロビンの一番嫌ってい
たコブラだったから、と考えればそれとなく納得出来るような気もした。
『当たり前だよな。この世に金の欲しくない奴なんて、いるわけがない』
 だがそれを聞いて、少しだけゼブラの中で、ロビンに失望した部分が
あったのも事実だった。お互いに敵同志だが、ロビンのそんな面は見
たくないというのが、彼の心の片隅に未だ完全には捨て切れていない、
傭兵ロビンの兄貴分、傭兵ゼブラの複雑な本心でもあったのだ。
「……で、総統はどうされるおつもりですか」
「それで相談だ。私は言われた通り、アタッシュに現金を入れて、約束
の場所で奴を待つ。大勢で待ち伏せして奴を捕獲することも考えたが、
下手に気付かれて逃げられると後が厄介だし、騒ぎが警察の連中に
知られるのも困るからな。お前が近くに潜んで、奴が現われたら狙撃
しろ。当然、殺しても構わん。奴はまだ、お前が私とこうして連絡を取
り合って動いていることを知らないはずだ。私一人だと判れば、奴も油
断してのこのこ姿を現わすだろう。そこを狙えばよかろう」
「判りました」
「ま、奴に金をくれてやっても、そのままじゃ使えんさ」
「!……では、例の金をお使いになるんですか」
「止むを得んだろう。まさか奴もそこまでは気付いてない筈だ。よしん
ばその金を持って警察にたれ込んでみたところで、私が犯人だという
証拠があるわけじゃない。逆に奴がトリムの真犯人だった、ってところ
に落ち着くのが関の山さ」

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2008年9月 5日 (金)

RobbinⅡ-レイン計画- 第九章(6)

「奴の周辺や私生活に関する部分は全くの謎で、世田谷に豪
邸を持ってる事だけはわかったんですが、もうすぐ五十になろ
うというのに独身を通してるようですし、奴の豪邸も半端じゃな
い厳重な警戒でして、探ろうにも関係者は皆、奴のことになる
と口を閉ざしたままでして。よっぽどの厳重な箝口令が敷かれ
てるみたいです」
「謎の人物、ってわけか。外務省高官にしては、ちょっとやり方
が大袈裟すぎるな」
 野宮邦弘が必要以上に、自分のことが外部に漏れるのを嫌っ
ているように村上警部補には見えた。それが少々、村上警部
補には気になるのだ。
「で、杉本遼の方は」
「はい。奴は高瀬の秘書を辞めてからは、もっぱら天照の本部
に入り浸っていたようです。ですが今回逮捕された過激派の連
中との接点が無いんです。奴らは別に天照の入神者ではない
ですし、奴らの上層部っていうのも、奴ら自身は良く知らないみ
たいでして。奴らが杉本を紹介された際に会った人間のモンタ
ージュを作成して、今回の捜査でもあたってみたんですが」
「該当者は居なかった、ってわけか」
「はい、残念ながら」
 村上警部補はしばらく思案していたが、やがて彼はふと顔を
上げた。
「この前のタレコミで、野宮がトリム事件の首謀者だと言ってた
が、そのあたりはどうなんだ」
「特にこれと言った新事実は何も出て来てません。その点は、
ガセじゃないでしょうか」
「そうだといいんだが。まあ全面的に信用するわけにはいかんが、
この前の電話の口調では、暗に野宮が全ての黒幕みたいな風に
断言してたからな。その辺がちょっと気になるな。で、奴が言って
たレイン計画については、何か判ったのか。あれだけ我々を煙に
巻いた杉本が、過剰反応した『雨が降り始めた』ってことと何か関
係が有るようにも思えるが」
「その存在すら、確認出来ませんでした。そういう計画が本当に存
在するのなら、よほどの一部の限定された人間しか知り得ない、
超極秘のものでしょうから、これまでの我々の捜査範囲でそれを
知ってる人間が、もしも居るとすれば」
「野宮、ってことになるわけか」
「恐らく。奴の周辺だけが、謎に包まれてますから」
「ふうん。今後引き続いて三人の捜査は行なうとして、特に野宮に
重点を置く必要があるな」
「はい。ところで、タレコミ電話の主が予言してる、とんでもないこと
って、何だと思われますか」
「わかれば苦労はないさ。それらしい情報でも掴めたのか」
「その辺もまだわかってないんですが、ただ……」
「ただ?ただ、何だ」
「どうも我々が捜査する前に、何者かが最近同じようなことを調べ
回ってるフシがあるんです」
「何だと。一体何者だ」
「わかりません。ですが少なくとも二人は居ます」
「奴ら側の人間じゃあ無いな。時期が時期だけに、ちょっと引っかか
るが」
 村上警部補は、予告された日まであと二日しかないことを思いな
がら、自分達の捜査の限界を感じていた。どちらかと言えば警察は、
その権威を傘に強引な頭ごなしの捜査を行なう部分がある。それが
効を奏して、有利に働く場合が通常は多いが、相手次第では逆効果
の場合もあるのだ。特に今回のように、元々自分達の手に余るほど
の大掛かりな事件を、自分達だけで追っている場合、相手が相手で
あるだけに、彼らは一般人とは違い少々扱いが難しい。下手に機嫌
を損ねて騒ぎを大きくされてしまうと、それこそ取り返しがつかなくな
ってしまうのだ。村上警部補は会議が終わってから、しばらく思案し
た後、意を決して机の上の電話の受話器を取った。

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2008年9月 4日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第九章(5)

 一週間後に彼らの捜査結果がまとまり、臨時捜査会議が彼
らの部署だけでひっそりと行なわれた。それによると、まず宗
教団体『天照』が国税局の査察を受けたのは、政財界人相手
に多額の融資を行ない、その見返りとして様々の便宜供与を
受けていた点と、架空会社名義でその一部を広域暴力団にも
流していた点が判明したからだった事がわかった。
 さらには、天照の被害者救済会を担当していた主任弁護士・
久保俊忠の一家が、昨年末から行方不明になっている事も判
ったし、主催者・斎田智紀個人にまつわる種々の行状も噂に
登っていた。前回の査察では、事前に情報が漏れた可能性
が高く、証拠らしい証拠が全く押さえられなかった事から、査
察部でも相変わらずマークしてその動向を探っているらしい、
との情報ももたらされた。

 高瀬慎介の方は、東大を卒業して以来、ずっと出世コースを
順調に歩んで来ていた人間だったことがわかった。彼がつまず
いたのは約五年前からで、ちょうどその頃、杉本遼が彼の秘書
として入っていた。そしてその際に、杉本の身元調査を行なっ
たのが『帝国ヒューマン・リサーチ』なる探偵会社で、その会社
の相談役の一人に何故か、斎田智紀が名を連ねているのだ。
彼の周辺を調べれば調べるほど、逆に宗教団体『天照』の影が
見え隠れしていた。
 そして高瀬のつまずきの原因は、日本赤軍殲滅プロジェクトを
立案したせいであると言う。まだまだ日本赤軍は、一部の人間
にとっては色々な利用価値があるらしく、それを無くされては元
も子もないと言うのが、どうやら黒い思惑絡みの本音のようだっ
た。高瀬はそんなこととは露ほども知らずに、純粋にこれを提案
したようだったが、一部の民間企業や外務省内部の野宮邦弘
以下、これに反発する人間達が、裏金に始まって凡そ考えられ
るあらゆる手段を講じて、これを阻止したとのことだった。
 その結果、高瀬は出世の道を閉ざされ、ほとんど追い出される
ように外務省を去り、今では辛うじて日ト友好親善協会なるとこ
ろで、副協会長をしているに過ぎない。だが、不思議な事に、こ
の協会の設立発起人には、彼を追い出したその急先鋒たる野宮
邦弘が名を連ね、さらには現在の政財界の影の黒幕とさえ一部
で言われている、笹本亮三が協会長としているのだ。
 そしてその野宮邦弘の元では、最近十年以上に渡る長期の海
外赴任から帰国した酒井武司なる人物が、かつての高瀬のポス
トにあり、その手腕を発揮しているらしかった。そしてその酒井武
司はトルコ赴任中から、その日ト友好親善協会とも繋がりがある
ことも判明している。
「仲間同志で、傷口を舐め合ってる感があるな」
 思わず村上警部補が呟いた。閉鎖された世界が結局、回り回
って元に戻っているのだ。
「高瀬の、今の職場での評判はどうなんだ」
「結構皆から一目置かれているようで、事実上の協会長と言って
もいいでしょうね」
「笹本亮三は、日ト友好親善協会の協会長の仕事は、どの程度
やってる」
「実際には、普通の会社でいうところの会長的な立場で、めった
に協会にも姿を見せた事は無いようです。もっとも笹本は、御存
知のように世界的に有名な実業家とも言えますから、そんな小
さな協会にばかり構ってられるほど暇じゃない、っていうのが本
当のところかも知れませんが。彼の協会での実務のほとんどは、
高瀬に任されてるようです」
「ふうん、えらく信用されてるんだな。で、その高瀬の後任の酒井
武司ってのは、野宮と何か関連がある人物なのか」
「もともとトルコに赴任する前から、野宮子飼いの部下の一人だっ
たようです」
「なるほどな。で、野宮の周辺は」
「そ、それが」
「どうした」
「……わからんのです」
「わからん、とはどういうことだ」

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2008年9月 3日 (水)

RobbinⅡ-レイン計画- 第九章(4)

 村上警部補には「野宮に関する捜査には一切及ばず」という
命令が、一体何処から発せられたのかの見当はついている。
彼とてそんな事が面白い筈もなかったし、納得出来ようはずも
ない。現在彼らが、色々な未解決の事件をかなりの数抱えて
いるのは、いつものこととはいえ事実だった。今さら昔の事件
をひっくり返して調べ直すほどの余裕はもともと無いのだ。
 同時に上からの命令を無視してしまえば、下手をすれば自分
の進退問題にまで発展するのは、火を見るよりも明らかだった。
彼とて一サラリーマンの端くれである以上、自分の身は可愛い
い。そして警察の組織の実体を、これまで嫌と言うほど見せ付
けられて来ているから、出来るなら出世したいと内心思っている
のだ。だが同期の人間や他の警部クラスの人間の中では、村
上警部補は少々異質な存在だった。頑ななまでに現場に固執
していたし、今はもうなくなりかけている、正義感とやらを見失
ないたくないと思っていた。現場で苦労している刑事達にやる
気を無くさせる、上ばかりを見ている上司には絶対になりたく
なかった。出世はたしかにしたいのが本音だが、上司に媚び
へつらうのは少なくとも彼にとってはかなり苦痛だったし苦手
だった。
 これまでも何度か、不本意ではあるにせよ、自分は彼らの努
力を無にして来た、とその時村上警部補は思った。本当にそれ
で良かったのか、と自問自答した。今回もそうだ、と彼は思う。
この密告電話が実は悪質なガセネタであり、かえって自分の部
下達を徒労させてしまうかも知れなかった。だがそれはこれか
ら捜査してみないと判らない。それゆえ、たしかに判断に迷うと
ころであるのは間違い無かった。そして色々な事を考えた後、
村上警部補はある決断をした。
 その場にいた刑事達が、村上警部補が発した言葉にどよめき、
やがて駆け出すようにして夜の街に散って行ったのは、それから
しばらく経ってだった。皆の目に刑事としての不屈の闘志が燦然
と輝いていたのは、言うまでもない。

 村上警部補は皆が出払って静かになったその部屋の中で、一
人で煙草を吸った。ゆっくりと煙を吐き出しながら、彼は部下の顔
を一人ずつ順に思い起こした。自分は今、自分の判断に今のそし
てこれからの人生を賭けたのだと思った。不思議と後悔の気持ち
は起こらなかった。だが万一にも判断が誤っていた場合には、彼
に弁解の余地は一切ないのだ。当然立場上、責任を取らなくては
いけない羽目になる。
 そう思い、村上警部補は冷めた茶を小さな音をさせてすすると、
机の引き出しから便箋を取り出し、黒のボールペンでゆっくりと『
辞職願』と書いた。その下に続けて『この度、私、村上俊治は、一
身上の都合により』と書いたが、そこまでで彼は書くのを止めると、
ふと彼の妻の事を想った。あらためて妻の豊子に、自分がこれま
での長い間、どんなに淋しい思いをさせて来たかを振り返って考
えたのだ。
 今これを書いて提出すれば、自分に定職はなくなる。だが同時
に彼の妻と、少々定年には早いが、一緒に慎ましく暮らして行け
そうな気がしたのだ。彼の妻は古風な考え方の女性なので、常
に主人である彼を立てて、自分は一歩下がって後ろを付いて行
くタイプだった。これまで彼に物をねだったことなど一度もないし、
口応えした事もない。収入が途絶えるのだから当然苦労はする
だろうが、彼の妻は口にこそ出さないが、そちらの方が嬉しいに
決まっているのだ。今まで仕事を理由に、とは言っても正直そう
だったのだから仕方ないのだが、彼女のことを充分に考えてやっ
ていたとは自分でも思えなかった。よくもまあこれまでで愛想をつ
かされなかったものだ、と今さらに村上警部補は思った。
 しばらく思案した挙げ句、結局村上警部補は、その便箋を丸め
て屑篭に投げ捨てた。何となくそうはならないような気がしたし、
そうなった時に書いても遅くはないと思ったからだった。そしてそ
れは、彼の長年の現場勤めの経験から来る、第六感だったのか
も知れない。もし自分の判断が正しくて今回の事件が解決したら、
たまには休暇を取って妻と二人で何処かに骨休めの旅行に行く
のも悪くないな、と彼は考えた。その時だけは流石に彼も、村上
俊治という、妻を秘かに思いやる一人の夫に戻っていた。そして
こんな事を考えるようになった自分が、意外でもあった。机の上
の煙草の箱を玩びながら、珍しくしみじみと彼は思った。
『俺も、もう若くはない……か』
 彼はこれまでの人生を振り返って見て、今さらながらにそう感じ
ていた。

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2008年9月 1日 (月)

RobbinⅡ-レイン計画- 第九章(3)

 それによれば、二年程前にコードレス電話が登場した頃、野宮邸では
当時の主流だった微弱型を購入したらしかったが、建物の内部に鉄筋
等が多すぎてほとんど使いものにならなかったらしく、当時は高価で種
類も少なかった小電力型に交換したという事だった。その店が他のメー
カーの製品を扱っていない事を確認して、ロビンは早速龍王に連絡を取
り、その製品のスペックを調べてもらったのだった。同時に龍王に頼ん
で、そのコードレス電話が盗聴出来る盗聴機を秋葉原で探してもらい、
それを手に連夜に渡って野宮邸の周辺で張り込んでいたのだ。
 今のところ、マユミは大人しくしているが、自分が騙されて利用されて
いたことに対する若さ故の暴走をいつしないとも限らない。ゼブラも今の
ところは、ロビンがこうして動き回っているとは夢にも思っていないようで、
それも幸いだった。まだロビンはあの時に受けた銃弾の傷口が完全には
癒えておらず、時折引きつれたような鈍い痛みが走ることがあるのだ。
当然ながらこんな分の悪い状態で、ゼブラと再び相まみえる気はロビン
には毛頭無い。それ故にロビンの行動は注意深く慎重で、これ程までに
神経を尖らせたのは、彼にとっては傭兵時代以来、久し振りのことだった
と言えた。
『さて、だが野宮のことを本格的に調べ直してみるとは言っても、俺に出
来ることには限界があるし、時間も無いな。この一週間のうちに、出来る
だけ早く目処を付けとかないとまずいし……少々気が引けるが、あの手
を使うか。果たして奴らが何処まで探れるかは疑問だが、今はそれしか
手が残ってないし、この際だ、強引な手段も止むを得まい』
 ロビンの脳裏にチラッと本郷のあの何とも言えない表情が浮かんだ。
彼としてもあまり助けて欲しくないし協力もしたくない連中だが、この際
そんなことをとやかく言っている場合ではなかった。ロビンは近くの公衆
電話ボックスから、本郷のいる警察署に電話を入れ、ハンカチで声を変
えながらしばらく喋っていたが、やがてそれも終わると受話器や電話ボ
ックスの自分の指紋の付いた辺りを注意深く何度か拭うと、再び車に乗
り込みその場所を後にした。

 本郷がその録音された密告電話の内容を聞いたのは、その日の夕方
だった。
「……あんた達がどうして野宮の捜査を止めちまったかは知らんが、奴
は昔起こったあのトリム電子産業の脅迫事件の首謀者でもあるんだぜ。
知ってたか。奴はスナイパーを雇って佐々木常務を殺害させたんだ。ま
あ、あんた達にはそこまで判らんだろうから、わざわざこうやって教えて
やってるんだがね。あの頃どうして奴がそんなことをする必要があったか
は、あんた達で調べるんだな。今回だって、早く何か手を打たないと、あ
と一週間後にあんた達の無能を証明する、とんでもない事が起こっちま
うんだ。あとで悔しがったって、俺は知らんぞ。レイン計画のことは当然
もう調べてあるんだろうねェ。野宮って奴は、あんた達が考えているよう
な普通の人間じゃないぜ。それだけは忠告しておいてやる」
 早口で一方的に喋られたテープを何度か聞き直しながら、彼らは互い
に顔を見合わせていた。
「どういうことでしょう、村上警部」
「単なるいたずら電話にしちゃあ、念が入り過ぎてるし、えらくこいつ、裏
の事情を知ってるみたいだぞ。あながち人騒がせないたずら電話とも思
えんのだが」
「でもどうして今頃、トリム事件が……たしかに真犯人は挙げられなくて、
迷宮入りになってますし、奪われた現金も未だに日本国内で使用された
形跡はありませんが」
「野宮が、あのトリム事件の首謀者だと?」
「いったい、野宮とトリムに、どういう関係があるんでしょう」
「さあな……だがどっちにしても、あと一週間後に何かが起こるらしいな」
「レイン計画、って何のことでしょう」
「野宮が俺達が考えているような普通の人間じゃない、とは一体どういう
意味だ」
「でも、野宮を調べることはもう……」
 その言葉に一同は、思い出したように急に意気消沈してしまった。気ま
ずい雰囲気の後、誰言うとはなく皆、何かを期待しながら村上警部補の
方を見た。村上警部補は口をぎゅっとへの字に曲げたまま、しばらく腕組
みをして何やら考え込んでいた。
『はたしてこの密告電話の情報に、一体どれだけの信憑性があるかだな』

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2008年8月30日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第九章(2)

『あの言い方だと、野宮がトリム事件に関わっていた可能性があるかも』
 あの時、九死に一生を得て救い出された後の病室で、村上警部補達
の質問に答えていた時、村上警部補が吐き捨てるように言った言葉を、
ロビンは思い出した。
『たしか、捜査線上に浮かんでない誰かがいて、スナイパーを雇って佐
々木を消しにかかったのかも知れない、って言ってたな……』
 それはあまりに途方もない発想だった。村上警部補の単なる、その場
の思い付きの言葉だったのかも知れない。だが、もしもその推理が正し
ければ、ロビンがトリム事件の黒幕だとばかり信じ込んでいたゼブラが、
実は真犯人では無かったことになるのだ。もちろん警察はゼブラの存在
を知らないから、捜査はそこまで辿り着けず、事件は結局迷宮入りにな
っている。
『野宮があのトリム事件の真犯人だ、という事も考えられるわけか』
 目的は現金しか考えられなかった。だがもしも、野宮がトリム事件の真
犯人で、ゼブラが彼の指示通りに動いていたとしても、ロビンには野宮の
動機が判らなかった。そこまでして大金を手に入れる必要が、果たして
本当に野宮にあるのかどうかが判らないのだ。
『野宮のことを本格的に、最初から調べ直してみる必要があるな……』

 ロビンは車の中の盗聴器をしげしげと眺めながらそう思った。電話の盗
聴は昔から盛んだが、安物の盗聴器を電話回線に直接仕掛けると、イン
ピーダンスの問題からよく回線が輻射を起こして、それが原因で発見され
る事が多かった。だが今の時代はコードレス電話が圧倒的に普及しつつ
あり、なおかつ小電力型が主流である。最近でこそ社会問題になって盗
聴防止装置の付いているものも出始めているが、まだまだそんなに多く
は出回っていない。
 それに現実の盗聴防止装置の中身はと言うと、親機と子機の相互通話
の電波の周波数を変えて行く方法を取るものが主流である。そのために
スクランブルICを追加して、若干改良された回路を使用する関係上、もと
もとそんな装置の付いていないものにアタッチメントで簡単に付けられる
わけでもなく、目指す被調査人の電話が小電力型の初期タイプのコード
レス電話なら、絶好の標的であると言える。見通し距離で百五十メートル
程は到達出来る能力があるということは、裏を返せば周波数さえ判れば、
それだけ傍受しやすいことになるのだ。
 野宮の周辺を調べるのに、一番手っ取り早い方法として盗聴を考えは
したものの、野宮の自宅の電話回線に従来の盗聴器を仕掛けるのは少
々厄介だった。比較的大きい野宮の邸宅には、常時まともな警備員が
配置されているし、飼い慣らされた大型のシェパードが庭を時折うろつ
いているのを、ロビンはあらかじめの偵察で知っていたのだ。彼が通常
の家の電話回線に従来の盗聴器を仕掛ける時のように、NTT技術者を
装って内部に入り、回線や電話をテスターの一つも出してチェックするふ
りは、とても出来そうに無かった。それに迂闊に動いてこちらの動きを感
付かれると致命的なので、下手にリスクの多いことは避けるべきだった。

 その邸宅への出入りを許されている人間を調べるうちに、ロビンが目
を着けたのが電気屋の車だった。調べてみて判った事だが、野宮邸は
近所にある小島電気商会という小さな電気屋と、彼の父親の代からの
付き合いがあり、大体の電気製品はそこから納入されていた。
 フィルムの入っていないカメラを肩にかけて得意のルポライターを装い、
その店に取材で偶然入ったふりをして、津田はきっかけを作った。その
周辺を特集記事にしているところだと言うと、人の良さそうなその店の
主人はすっかり津田を信用してしまったようで、色々と昔からのそのあ
たりの変遷を饒舌に喋ってくれた。その話の中で津田は、野宮邸のこ
とをさり気なく色々と聞き出すのに成功したのだった。

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2008年8月28日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第九章(1)

 突然、軽い電話の呼び出し音が、思いのほか明瞭に聞こえて来た。
反射的にロビンは、小型テープレコーダーの録音釦を押していた。
「……野宮だが」
「私です。ご連絡が遅れて申し訳ありません」
 ロビンが全く予想もしていなかった、聞き覚えのある声がした。ゼブ
ラだった。
「マユミの消息は、まだ判らんのか」
「申し訳ありません。八方手は尽くしてるんですが、皆目」
「まったく、役に立たん奴だ」
「しかし、総統。まさかこんな事になるとは、全くの予想外でして」
『総統?』
 聞き慣れない言葉に、ロビンは戸惑った。
「お前の言い訳など聞きたくない。それでも元ブラック・ローズの腕利き
の傭兵か」
『何故だ、何故ゼブラがブラック・ローズ部隊に居た事を、こいつが知っ
てるんだ。何者なんだ、こいつは』
「最終ターゲットの期限までは、あと……」
「一週間しか猶予がない。それ以降だと完全にアウトだ。どうしてもマユ
ミじゃなければいけない事は無いんだ。いざとなったらお前にやってもら
うからな」
「し、しかし……それでは私が」
「だったら、意地でもマユミを捜し出してスナイプさせろ。今までお前に高
い給料を払って来たのは、一体何のためだと思ってるんだ」
『マユミとゼブラの背後に居たのは、こいつだったのか』
「それは充分に承知していますが、警察が」
「レイン計画の事など、奴らに判るものか。それは心配するな、私の方で
押さえる」
『レイン計画……雨!』
「まさか川田が感付いて、警察に連絡していた、ということは」
「まさか。ロビンがそこまで察知して、逐一を川田に連絡していたとは思
えん。奴はレイン計画の存在すら感付いてなかったはずだ。もしも酒井
のことを知ったとしても、そこまでは辿り着けるはずがないからな」
『俺のことも知ってるだと。こいつ、ブラック・ローズの事を知り抜いてる。
何故だ』
「総統、あと三日猶予をください。必ず手掛かりを」
「これが最後だぞ、ゼブラ。トリムの時のような失敗は、二度とごめんだ。
結局今回も、ロビンに邪魔されかかったんだぞ」
「はい……」
『トリムの時の失敗、だと。いったい、どういう意味だ』
 ロビンが考えあぐねているうちに、電話は終わってしまった。プツッとい
う軽い音がしたのを確認してしばらくしてから、ロビンはテープレコーダー
を止めた。
『一体奴は何者なんだ。俺のこともゼブラのことも知ってる、そのうえトリ
ムの時の失敗だと。どうして奴が、あの事件のことを今ごろ』
 かつての記憶をロビンは辿った。ゼブラにとってのトリム事件の失敗と
は一体何であったのか、を一つ一つ思い出そうとしたのだ。
『俺を巻き込んで、スケープゴートに仕立て上げようとした事か?……違
うな、少なくともあの時は成功だった。まんまと身代金をせしめたからな。
じゃ、何だ。予想していなかった鮫島さんが事件に絡んだ事か?……邪
魔されかかったと言えば、そういう事になるな。それだけか?……俺が
コブラを殺した事か?いや、結果的にそれで奴の取り分は増えたはずだ。
それも違うとすると、後は?……俺を殺し損ねたことか?』
 結局、あの時に奪われた身代金は今も行方不明のままなのだが、そ
れはゼブラが持ち去って海外逃亡したのだとロビンは思っていた。だが
先ほどの野宮の言い方に、ロビンはふとこれまでの自分の考え方が、
あるいは間違っていたのではないかと思い始めた。

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2008年8月27日 (水)

作者の簡単レビュー 【その26】

 長かった第八章がやっと終わりましたぁ(笑)。この章ではロビンと
マユミの対峙から和解までを一気に描きたかったので、あえてひと
つの括りとしました。しかし本当に長かったですね…

 次からの第九章のサブタイトルは「黒い薔薇」。RobbinⅠで謎だった
部分や曖昧に終わっていた部分の真実が徐々に明らかになっていき
ますので、ご期待下さい。

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2008年8月26日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第八章(20)

「ふふ、気休めを言ってくれるなよ。まあ、そう言ってくれるのは嬉しい
んだが」
「察するところ、よっぽどの地位にいる人間なんだろうなあ」
「まあな…」
 本郷はどこまで話したものか困惑していた。たしかに津田が裏で動
くことによって、今後何らかの進展が期待できるかもしれない。だがそ
れは、危険な賭けでもあるのだ。署の連中に知られればそれこそただ
では済まないが、しかし今となっては、それしか方法がないようにも思
えてくる。彼は意識的に言葉を選びながら、あえて津田に情報をリー
クさせてみようと思った。百パーセント信頼するのは危険だが、これま
でのこともあり、ある程度はこちらの意思に沿った形で動いてくれるこ
とはわかっていた。
「何しろ外務省高官だからな、無理もないさ」
「ほう、なるほどな。だったら圧力が掛かったことも判らんでもないな」
 津田ははやる気持ちを抑えながら、じっくりと時間をかけ、やがて三
人の名前を本郷から聞き出すことに成功したのだった。ふと本郷は何
気なく窓の外を見ながら、つぶやくように言った。
「雨は降り始めた、か。この一連の爆弾騒ぎが偽装だって言うあの密
告電話は、やっぱりガセネタだったのかなあ」
 津田は思わず、反射的に声を出しそうになったのを必死でこらえた。
彼が今必死になって探しているのは、『雨』と呼ばれる犯罪めいた計
画のことなのだ。それゆえ、あまりにも本郷の発言は津田にとってタ
イミングが良過ぎた。本郷の言う意味が、果たして津田が捜し求めて
いるものと同一かどうかまでは判らないが、関係があるとまではいか
なくても、何らかの手掛かりにはなりそうな気がしたのだ。本郷はそ
の津田の動揺には気付かずに、煙草をくわえたまま、相変わらずぼ
うっとして窓の外を眺めている。彼にとってそのことは、すでに過去の
ものになってしまっているようだった。
「密告電話、って?」
 さり気なく平静を装い、そうは言ってみたものの、津田は自分の心
臓の鼓動が本郷に聞こえるのではないかとさえ思った。本郷は大ま
かにこれまでの捜査経過を、かいつまんで津田に話した。そしてそ
れは津田を驚愕させるに充分だった。本郷は津田が、単純に彼自
身の知らない一連の事件の概要を知ったことで驚いたと思っていた
が、本当のところは津田は、自分が追っていた川田良子殺害事件と、
今回の本郷達が捜査していた事件とは、あまりにも共通点が有り過
ぎることに気付いて驚いていたのだった。
 プラスチック爆弾を使用した爆破計画、そして『雨』と呼ばれる正体
不明の計画、背後に潜んでいると思われる外交関係の人間達……
偶然にしてはあまりにも状況が酷似し過ぎているのだ。それゆえ、
津田はこれらの二つの事件が互いに何らかの関連があることを確
信した。津田自身に探れることの限界から、帰国後マユミを拉致し
て以来、思うように進まなかったゼブラの行方捜索と不気味な狙撃
計画の全貌が、これをきっかけにこれまでとは違った面から探れそ
うな気がしていた。
 しばらく本郷と話してから、津田は早速今後の対応策をマユミと練
るために、洋子の冷たい視線を背中に痛いほど感じながら、そそくさ
とアルファを後にした。一人でこれらを探るのは到底不可能だし、か
と言ってあからさまに浅見所長に相談を持ちかけても、別にどうなる
ものでもない。それでなくても最近は、浅見探偵事務所での自分の
身の危うさを感じているのだから。さりとて恋愛とやらで浮かれまくっ
ている龍王を、今さらこの事件に巻き込むのも気が引けた。当然のこ
とながら、後はマユミしか残っていない。ゼブラのことも念頭にあるの
で、あまり派手に動くわけにはいかないが、二人居れば何とかなる
だろうと漠然と考えたのだ。

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2008年8月25日 (月)

RobbinⅡ-レイン計画- 第八章(19)

 本郷が久し振りにアルファに立ち寄った時、洋子のご機嫌ななめは
それこそ面食らうほどに最高潮に達していて、本郷は勝手に彼女が
女性特有の期間に突入しているのだろうと思った。それほどに洋子
が荒れているのを、本郷はこれまで見たことはなかった。
 それは木島も同じことだった。洋子によっぽど面白くないことがあっ
たのだろう、という想像は容易に付くが、迂闊にそれを彼女に尋ねて、
こちらまで被害に巻き込まれては大変だと、木島はだんまりを決め
込むことにしていたのだった。それに洋子と一番長い時間、顔を突
き合わせているのは木島自身なのだから、下手にこれ以上彼女の
機嫌を損ねてはたまったものではなかった。だが同じように不機嫌
なのは、本郷も一緒だった。
 不機嫌な二人が居るせいか、アルファにしては珍しくとげとげした
雰囲気になっていた。そしてちょうどそこに運悪く津田が入って来た
のだった。洋子は津田を見ると、いらっしゃいませの挨拶もせずに、
プイッと彼に背を向けカウンターの椅子に腰を下ろしたままだった。
津田は木島に肩をすくめて見せながら、本郷の座っている席の向か
いに、勝手に腰を下ろした。木島がカウンター越しに津田にコーヒー
でいいかと尋ね、津田は大きく頷いた。
 洋子の御機嫌斜めはどうやらかなりのものらしく、津田はわざと彼
女を無視することにした。そして本郷がやはり同じように機嫌が悪い
ことに気付いた津田は、彼に出来るだけ愛想良く声を掛けた。最初
のうちは津田を無視して相手にしていなかった本郷だったが、その
うちぽつりぽつりと自分の機嫌の悪い原因を津田に語り始めた。本
来は捜査上の秘密に属することで他言無用なのだが、彼とて結局
は誰かにグチを聞いて欲しかったのだ。それに津田とは長い付き合
いで、例のトリムの一件以来、何かと親密になっていたこともあった。
「極秘裏に続けていた捜査が、上からの通達で中止になってな」
「それでくさってたのか、お前らしくないぜ」
「だがなあ、どうも納得がいかんのだ。どうしてそんな事になったのか」
「何の捜査だったんだ」
 さすがの本郷もそんなことまでを津田に告げていいものか迷ってい
たが、やがて半ばやけくそ気味になりながらも声を潜めて、津田にだ
け聞こえるように小声で言った。
「このところ起こってた、一連の爆弾騒ぎの捜査さ」
「例の新宿都庁が爆破されかかった、っていうあれか。大変だったみ
たいじゃないか」
「そうだ。もっともあれを最後に、連中は鳴りを潜めてるがな」
「連中って、新聞を賑わしてた『聖なる鳥』とか言う連中のことか」
「そうだ。やっとのことで事件の核心に辿り着けそうだったのに……」
 今さらながら本郷は、さも悔しそうな表情になった。
「と言うことは、首謀者らしき人物を絞り込んで、身辺捜査に乗り出し
てたってことだな」
「ああ。おそらく奴らの内の誰かが、圧力を掛けたんだろう」
「複数か……」
「三人、だった。たしかに相手が相手だったからな」
「誰なんだ」
「おいおい、お前がそんなこと聞いてどうするんだ。いくら俺とお前の
仲だとは言っても、捜査内容を一般人であるお前に、そうそう簡単に
教えられるわけないだろう」
「ことと次第によっちゃあ、協力してもいいぜ。俺が動き回ったところ
で、問題はないんだろう。ほら、トリムの時だって、ちゃんと捜査に
協力した実績があるじゃないか」

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2008年8月23日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第八章(18)

 慣れないデスクワークで疲れているせいか、いつもより夕食後の
酒の回りが早かった。ロビンもマユミも二人ともベッドを背持たれに
して並んで腰を下ろし、口をきかず黙ったままで時間が過ぎていた。
ロビンの左隣りにはマユミが黙って、手持ち無沙汰気に空になった
グラスの中の氷と遊んでいた。その様子をじっと見ていたロビンは
ふと込み上げて来た抑えきれない衝動に駆られ、隣りに座ってい
たマユミを荒々しく押し倒した。二人の唇が重なっても、マユミはロ
ビンにされるがままになっていた。だがロビンの右手がマユミの左
胸に伸びた時、彼女はその手を強く掴んで制止すると、キッとなっ
てロビンを見ながら言った。
「貴方は私を見てない。私を通して彼女を抱こうとしてるだけよ。
私はあの人の代わりじゃないわ」
 ロビンは黙っていた。たしかにその通りだったからだ。
「私を抱きたいのなら、抱いてくれてもいいわ。でも、今は彼女のこ
とは忘れて。この私を見て、この私を抱いて!」
 潤んだ目でマユミはロビンにそう言うと、彼の右手を掴んでいた手
を離し、そっと目を閉じた。彼女の胸が呼吸の度に大きく上下に揺
れていた。ロビンは彼女の頬をそっと手で触れた。マユミはゆっくり
と目を開け、真近のロビンを見詰めた。
「……ごめん」
 ロビンはそう呟いた。不意にマユミは悲しそうな表情になり、そし
て言った。
「ロビン。好きよ」
 彼女は自分の運命を呪った。本当なら今頃は、彼女の父親が彼
を連れて、ブラジルの彼女の元に帰って来ていただろう。そして一
緒に暮らしていればいつかは、マユミはロビンと一緒になれたよう
な気がした。こんな形の出会いしか出来ない現実が、今の彼女に
は腹立たしかった。出来ることなら世の中の裏を知らなかったあの
頃に戻って、ロビンと自然な形で出会いたかったと思った。今さら
自分がロビンを独占出来るなどとは思っていないが、少しでも彼女
はロビンの役に立ちたいと思っていた。それが今の彼女に出来る
精一杯のことだから、そしていつしか彼を愛し始めていたから。
 心底、彼女は出来ることならばロビンに自分の最後の男になって
欲しいと思った。だがそれはあまりにも身勝手な考えだった。それ
は彼女とて承知している。だがそれでもなお、彼女はロビンに抱い
て欲しかった。自分のこれまでの過去を、たとえ今だけでもいいか
ら、忘れさせて欲しかったのだ。そうとでもしなければ、あまりにも
切なかった。
「……抱いて」
 マユミはそう言うとロビンのうなじに両手を回し、彼に抱き付いた。
静寂が支配するその部屋の中で、見詰め合った二人の息遣いだけ
がずっと小さく聞こえていた。

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2008年8月22日 (金)

RobbinⅡ-レイン計画- 第八章(17)

 あの時もしも、川田がギュルハネ公園へ駆け付けてくれていなかった
ら、今頃自分は確実に死んでいただろうとロビンは思っていた。飛び込
んだ水中で上着を脱いで水面に漂わせ、同時にロビンは彼らの居た場
所から出来るだけ離れた岸辺、すなわち少しでも人気の有ると思われ
るバプールが停泊している方に、呼吸の続く限り向かったのだ。そして
幸運にも大き目の岩陰を見付け、そこに出来るだけ静かに近付くと、目
立たぬように水中で身体を斜めにしながら顔だけをその岩陰に出した。
その時、駆け付けるパトカーのサイレンを聞いたのだった。
 用心深いゼブラのことだから、そんなことさえなければあの周辺を念
入りに捜索して、ロビンが隠れているのを見付け出していたかも知れ
なかった。それに時間があれば彼もあるいは飛び込んで、ロビンの死
体をその目で確認しようとしていた可能性は高かったのだ。
 パトカーのサイレンで九死に一生を得たのは、これでロビンは二度目
だった。そして二度とも、相手はゼブラだった。やがて川田に救い出さ
れる形になった津田は、運び込まれた病院の一室で川田良子のこと
を彼にどう説明しようかとしばらく迷った挙げ句、かなり強引に話をねじ
曲げて伝えたのだった。
 つまり川田良子はかつてイスタンブールに旅行にやって来た時、どう
いう偶然かは判らないが、現地の『雨』と呼ばれる大掛かりな売春組
織のことを知ってしまった。それが十年の歳月を経て、たまたま一味
の一人が川田良子の顔を覚えていて、彼女をイスタンブールで見か
けたことから、住居が彼らに知られてしまった。塚本美雪はその売春
組織のメンバーの或るトルコ人の同棲相手で、川田良子を助けようと
したがどうすることも出来ず、結局川田良子は女装したトルコ人男性
に殺されてしまった。罪の意識にさいなまれた塚本美雪は、せめて
川田にだけは教えておこうと空港に向かったのだが、自分も人に言
えることをしているわけではないし、捕まれば同罪と言う気持ちがあ
ったので、あの程度のことしか川田に伝えられなかった。川田の出
国フライトは塚本美雪が川田の知人の妻を装って、領事館に電話を
して聞き出したのだ……と、津田は川田に伝えたのだった。
 黙って津田の言うことを聞いていた川田は、津田のひと通りの説明
が終わると、ややあって大きく溜息を一つつき、「そうでしたか」と小
声で言っただけだった。特に何かを津田に問いただすわけでもなく、
じっと何事かを考えている風で、長い沈黙があった。そしてそれから
しばらく経ってから、川田は津田に「御苦労様でした……」と深々と
頭を下げたのだった。
 その時の何かを言いたげだった川田の瞳が、今でも津田には忘れ
られない。だが川田に本当のことが言える筈もなかった。事件が川
田良子殺害だけで終わっていたのなら、あるいは話は別だったかも
知れない。だが『雨』は今だに降り続けているのだ。一介の平凡な
市民である川田を、下手にこの事件に巻き込むことだけは、津田と
しては絶対に避けたかった。何の自分を守る術もない人間がいった
ん犯罪に巻き込まれてしまえば、その行く末は容易に見当が付く。 
 そしてこれは、例のトリム事件以来続いている、ロビン対ゼブラの
宿命の対決でもあるのだ。それはあまりにも因縁めいていると言え
た。そしてそこには誰も入り込む余地はない。それがたとえ白鳥洋
子であっても、鮫島省吾の娘であったとしても、ロビンは彼らを巻き
添えにはしたくなかった。それが彼の傭兵としてのプライドであり、
強い意思でもあった。

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2008年8月21日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第八章(16)

 白鳥洋子が津田の不審な言動に気付くまでに、さほど時間はかから
なかった。イスタンブールから帰って来てからというもの、どうも自分が
津田のアパートに行くことを嫌っているようなのだ。当初は洋子がその
ことに口出し出来るような雰囲気ではなかった。津田はえらく神経を尖
らせていて、傍目で見てもあまり気安く近付けないほど、ピリピリした
雰囲気が彼の周りにあったのだ。あまり露骨に表情には出さないもの
の、どこか怪我しているか何かで体調が思わしくない風でもあった。
 だが最近はその雰囲気もかなり和らいでいるものの、相変わらず何
かと理由を付けては、彼女が津田のアパートに行こうとすることを避け
ていた。以前の津田とは違い、何かを洋子に隠していることは判った。
だがそれが一体何であるかは、洋子には見当が付かなかった。
 それに最近はほとんど、アルファに津田が姿を見せないことが多くな
ってきた。そんなことは洋子がアルファでバイトし始めて以来、初めて
と言ってもよかった。仕事が忙しいからと、言い訳がましく津田は洋子
に言っているが、果たして本当にそうなのかも洋子は疑い始めていた。
それは女の直感だったのかも知れない。それゆえ、ある夜ついに我慢
出来なくなり、津田のアパートの前で待とうとした洋子が、津田の部屋
の電気がすでについていることに気付き、何気なく部屋のドアをノックし
て、マユミと鉢合わせする羽目になったのである。
 ちょうど運悪く、マユミが夕食の用意をしているところだったので、余
計だった。完璧に洋子は頭にきていた。津田が自分に飽きて、他の女
と同棲していると思ったのだ。もっとも現実には、津田とマユミは同じ部
屋の中で生活しているのだから、そう思われても不思議ではなかった。
逆に、そう思わない方がどうにかしている。
 一瞬にして状況をそう理解した洋子は、津田のアパートから走り去っ
て行った。自分に何か悪いところがあるのなら、言ってくれれば直すの
に、と思っていた。
『だからと言って、何も他の女、引っ張り込むことないじゃない…』
 涙で周りの景色がゆがんで来たが、何とか空を見上げる風をよそおい
ながら、我慢しながら歩いた。そして運の悪いことに、その途中で彼女
は駅から歩いて帰ってくる津田とバッタリ会ったのだ。鉢合わせしたこと
に少し驚いた津田が、笑顔で片手をあげて彼女に挨拶しようとした。
「馬鹿ぁ!」
 そう叫ぶと、彼女は津田の顔を力任せに思いっきりひっぱたいた。津
田はビックリした表情で立ち止まり、何かを言いたそうにしたが、黙った
ままでいた。今何かを言うと、逆に洋子の感情を悪化させる結果になる
のが、目に見えていたからだ。それにマユミと彼との関係は複雑であり、
おいそれと洋子に説明してみたところで、決して理解してもらえるとは思
えなかった。だがそれが洋子には、津田が現場を押さえられて言い訳が
出来なくなっているように映った。

 洋子は涙で濡れた頬を煌めかせながら、駅の方に走って行った。その
後ろ姿を津田は黙ってじっと見送るだけだった。たしかに洋子とのことも
大切だが、今はそんな甘い恋愛ごっこをしていられるような状況ではな
かった。時が来れば、いつかは洋子も判ってくれるかも知れないし、よし
んば判ってくれなくとも、それはそれで仕方ないと思っていた。
 思い返して見れば、自分が洋子とこういう恋愛関係になってしまったこ
と自体が間違っていたのだ、と津田は心の片隅で思った。彼女と津田が
住んでいる世界は、あまりにもその隔たりがあり過ぎる。たしかに津田は
洋子に好意を抱いていたが、それだけで終わらなくてはならない筈のも
のだったのだ。今再び、あの過去の世界に引き戻されている津田にとっ
て、洋子の存在は致命的な弱点なのだ。それが敵に知られれば、今度
は洋子はただで済む筈がない。そしてそれは傭兵ロビンにとっても洋子
にとっても、決してあってはならないことなのだ。
「お帰りなさい。彼女に途中で会ったでしょ」
 マユミは言葉少なにそう言うと、夕食の準備を始めた。津田がシャワー
を浴びて出て来た頃には、準備はすっかり出来上がっていて、マユミが
テーブルの端で津田が座るのをじっと待っていた。
「ねえ、彼女、貴方と私のことを誤解したみたいだけど、いいの」
 マユミが珍しく心配そうな表情で、津田にそう尋ねた。津田は苦笑い
をしながら、溜息とも笑いともつかない息を大きくひとつ付くと、
「ま、なるようになるさ」
 と短く言った。彼はマユミに、決して外に出ないようにと言ってあった。
万が一にもマユミを発見される可能性があるし、ゼブラに自分の生還を
悟られると、ことが厄介になる。それゆえ、出来るならロビン自身もあま
り目立った行動は避けた方がよいのだが、仕事がある以上そうも言って
いられない事情がある。彼は浅見所長に、このところずっと体調が悪く
病院通いをしているので、デスクワークをさせてくれないかと申し出て、
しぶしぶの了解をもらっていたのだ。普通ならいい顔をされる筈もない
のだが、先日のイスタンブールの調査で川田から高額を受け取って満
足しているらしく、今回だけの約束で特別に許可を得ているのである。

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2008年8月19日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第八章(15)

「別に誰かに教わったわけじゃないわ、私だって一傭兵なんだし。それに
こんなこと貴方にあんまり言いたくはないけど、女だから、望まれてそうい
うメンバーと何度か寝たことあるのは事実だし、その時に寝物語程度に
水を向けたら、相手が勝手に話してくれたこと見聞きした色々な事柄を
総合すると、自然とそういう姿が見えて来るのよ。」
「今のブラック・ローズ部隊が、精彩を欠いてるって言うのは」
「やっぱり気になるのね。会ったのよ、ホークとイスタンブールで一度だけ」
「ホーク?」
「今のブラック・ローズ部隊の部隊長よ」
「ホーク、っていう奴なのか」
「そう……まるで獲物を狙う猛禽類みたいな、感情の無い冷たい目つき
の男だったわ」
「それで、ホーク、か」
「さあね、どうだか。結構ミッションでイージーなミスが多い、ってぼやい
てたわ。でも貴方は部隊に居た時に、不思議に思ったこと無かったの?
私設傭兵部隊が何故、こんなに出番が多いのかって」
「言われてみれば、たしかにそうだな。通常の傭兵なら、戦争や内乱に
参加することがほとんどだしな。振り返って見ると、大体が程度の差は
あれ、個人レベルの依頼だったような……」
「でしょう?」
「なるほど。じゃあ結局、ブラック・ローズは売春まで手掛けてることにな
るのか」
「そういうことね。意外と、この日本でもやってるかもよ、外国の偉い人
相手にね」
「ふ、とんでもないところに俺は居たんだな」
「がっかりした?言わない方が良かったかしら」
「いや。じゃ、今回の件にブラック・ローズ部隊は絡んでないってことか」
「そうだと思うわ。断定は出来ないけど、多分ね」
「話は元に戻るが、お前が笹本亮三の狙撃に失敗して、今後一体どう
いう展開になるんだ」
「笹本亮三が、私以外の誰かにもう一度狙われるのか、ってこと?」
「そう解釈してもらって構わないが……」
「私以外に、スナイパーは用意されてなかった筈だけど」
「ゼブラがお前の代わりに狙撃する、ってことも考えられるんじゃないか」
「どうだか……。笹本は狙撃したとしても、第二の標的は彼は多分しな
いでしょうね」
「何故、そうだと言えるんだ」
「日本人だから」
「どういう意味だ」
「そう思うのよ。日本人だったら多分、第二の標的を狙撃するのは無理っ
て言うか、動揺して失敗する可能性が高いと思うの。だからわざわざ日
本人じゃない私を、スナイパーに選んだ……もちろん第二の標的が誰な
のか知らされてないから、私の直感でしかないけど」
「それだけか」
「他に何かありそう?」
「あると思う。これは俺の推測の域を出ないが、たぶん第二の標的を狙
撃したら、お前は無事に脱出出来ないような気がする。だから奴は、自
分が狙撃するのを嫌がってる」
「そうかしら……」
「多分な。でなきゃ、あのゼブラがわざわざお前に狙撃させる筈がない」
「どういう意味?私よりゼブラの方が腕が上、みたいに聞こえたんだけど」
「悪いが、その通りだ。残念ながら修羅場をくぐった数は、奴の方がお前
より格段に多い。奴の腕前は傍に一緒にいた俺が一番良く知ってる」
「そう、ゼブラはそんなに凄腕なの」
「ところで、俺を立川駅前で狙撃しようとしたのは、マユミ、お前じゃない
のか」
 ロビンは、ずっと心の端にくすぶっていた疑問を、マユミに投げ掛けた。
「判った?」
「やっぱりそうか。お前には悪いが、あれがもしゼブラの仕業だったら、
俺はとっくにあのエレベーターの中で死んでるよ。確実にな」
「ふうん。ねえ、ところであの後、貴方は私を見てるんだけど、覚えてる?」
 マユミはいたずらっぽい目つきで、ロビンを見ながら言った。
「え?何処で」
「あの女の人と一緒に、喫茶店でレモンティーを飲んだでしょう」
「どうして、そんなことまで知ってるんだ」
「私も、そこに居たもの」
「え……」
 ロビンは必死に記憶を辿り、あの時の光景を思い浮かべた。覚えてい
るのは自分の前のテーブル越しの洋子と、ウエイトレスと、そして……。
「あれがお前だったのか!そう言われて見れば」
 ロビンはマユミを見て、あの時傍らにいた女の顔と、彼女の輪郭が一
致するのを感じた。マユミはにっこり笑うと、ちょうど空になった二人のグ
ラスにシーバスリーガルを少し音をさせながら注ぎ、氷を数個入れた。
「我ながら、かなり大胆だったなと思うわ」
 照れ隠しに彼女は、グラスに浮かぶ氷を右手の小指でかき回し、透明
な音をさせながらそう言った。彼女の狙撃用の銃の収納場所はいつも、
黒い革製のギターケースだったのだ。 

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2008年8月17日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第八章(14)

 マユミは話し始めた。それによれば、そのプロジェクトはかなり以前か
ら計画が練られていたもので、表面上は主にゼブラがあちこちへの連
絡や仲介の役を担っているが、彼も実際には誰かの命令で動いている
らしい。日本の政財界の大物の思惑と高度な政治的判断、そして怪し
げな新興宗教集団と戦争の亡霊達の思惑が合致した結果の産物らし
かった。
 彼女の狙撃目標は二つで、一つ目のターゲットは昨日ロビンに阻止
されて失敗に終わった笹本亮三だった。彼は日本の政財界を裏で事
実上支えている、莫大な資金源の要だった。なおかつその行動は、
実にマスコミにアピールするものが多く、世界の何処へ行っても国賓
待遇で出迎えられるほどである。だが最近では講演をこなす程度で、
ほとんど国内に居ることの方が多く、もっぱら有名政治家や議員達と
ゴルフをして情報収集をしているとの噂もあった。
 二つ目は、日時は未定で、ゼブラが連絡してくることになっていた。
そしてその二つ目の標的を狙撃すれば、その衝撃の事実が世界中を
震撼させる程の、そして恐らくマユミも顔くらいは見たことのある有名
な人物だ、としか彼女は聞いていなかった。
「例のイスタンブールの川田良子と塚本美雪は、それにどう絡んでる
んだ」
「詳しくは知らないけど、川田良子も塚本美雪も、そして貴方が最後
まで気にしてた杉本弘美も、結局はみんな、一人の男に利用されて
ただけなのよ」
「誰だ、そいつは」
「貴方は多分、直接の面識は無いかも知れないけど……酒井武司っ
て奴」
「酒井武司。何者だ、そいつは」
「イスタンブール総領事館の副領事、ナンバー・ツーってところかな。
私達がイスタンブールで住んでたのも、彼の屋敷の中」
「副領事だって。ああ、そう言うことか。やっと話がつながった」
 ロビンは杉本弘美が彼に告白した過去を、遠い目で苦々しく思い出
し、納得した。
「その酒井が、今回の件と一体どういう関係があるんだ」
「そこまでは詳しく知らないけど、ゼブラは誰かに命令されて、酒井に
協力するように言われてた見たいよ。彼にしては珍しく、私的に酒井
の所に持ち込まれたトラブルとかを、言われたように処理してたみた
いだし。内心はかなり、酒井のやり方が歯痒かったみたいだけど」
「私的なトラブル。例えば、どんな」
「そう、もっぱら女のことが多かったけどね」
「例の売春か」
「そう。日本人相手のそれもあったし、トルコ人相手のこともあったわ」
「何だ、客は日本人だけじゃなかったのか」
「私の知ってる限りでは、杉本弘美の客は日本人だけだったわ。でも
塚本美雪は帰国する前に、トルコ政府高官を何回か客にしたことがあ
った筈よ。もっとも彼女はそのことがきっかけで、精神状態が少しおか
しくなりかけたけど」
「一人の領事が、何のためにそこまでする必要が有るんだ。幾ら出世
のためだとしても、ちょっと行き過ぎじゃないのか」
「ブラック・ローズよ」
 予想もしていなかった言葉に、ロビンは思わず身を乗り出した。
「ブラック・ローズだと!」
「そう。彼はね、ブラック・ローズ組織のリーダー加藤茂樹の、従兄弟
だったはずよ」
「ちょっと待て。ブラック・ローズ組織って、一体どういう意味だ」
「呆れた。貴方は自分が所属してたブラック・ローズが、どういう組織
形態をしてたかも知らなかったの」
「ああ。俺が知ってるのは、ブラック・ローズ部隊のリーダーが鮫島さ
んで、スカウト担当が高橋って奴で、そこに何処からか指令が来てブ
ラック・ローズ部隊が動く、ってことだけだったんだ」
「ふうん。ま、たしかに一傭兵がそこまで組織を知る必要もないだろう
し、知ることも難しいだろうけどね。でも貴方らしくないな」
「ん、どういう意味だ」
「いえ、何でもないわ」
 マユミは、その言葉に必要以上の感情がこもっていたことに気付き、
あわてて胡麻化した。
「ブラック・ローズは、貴方が想像してるような、単なる私設傭兵集団
だけじゃないの。もちろんそれが主だけど、それ以外の間接部門も幾
つか持ってるの。加藤茂樹の上に、本当の統括者がいるって言う噂
もあるけど、真偽までは知らないわ。世界的なトラブル処理を請け負
う、一種の企業と言ってもいいくらいかもね。そのためには色々な人
間に恩を売ったり、そのコネで仕事を紹介してもらうことだってあるわ
けだし、超一流企業ってわけじゃないから。それに最近はブラック・ロ
ーズ部隊も精彩を欠いてて、あんまり評判が芳しくないから、余計で
しょうね」
「マユミ。どうしてお前は、そんなことまで知ってるんだ」

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2008年8月16日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第八章(13)

「絵に描いたようなキザな台詞ね。そんなに単純に人を信じるなんて、
傭兵らしくないわ」
「鮫島さんにも、同じようなことを言われたよ。お前は素直だ、素直す
ぎるんだ、とね」
「そうね、たしかにお人好しね。私が芝居をしてるって思わないの」
「その時はその時だ、仕方ないさ。俺の人を見る目が無かったってこ
とだ」
「私がゼブラのことを、素直に貴方に喋るとでも思ってるの?」
「さあ、ね。好きなようにするさ」
「ふふ。参ったな、貴方みたいな甘ちゃんは見たことないわ」
「何とでも言え。……だが、もうそろそろ行かないか。来たかったら、ま
た連れて来てやるから」
「うん……」
 マユミは素直に頷くと、大きくひとつ深呼吸した。ふと彼女は、鮫島が
ロビンを連れてブラジルの自分達の所へ帰って来ていたら、自分は今
頃どうしていたのだろうかと思った。
 不思議なことに、二人の間にあったギスギスした不信感は、いつの
間にか跡形もなく消え去っていた。帰りの車の中でも、終始二人は無
言のままだったが、行きの車中のとげとげしい雰囲気とは明らかに異
なっていた。ふと何気なくマユミは顔を横に向け、運転席のロビンの顔
をじっと見詰めた。そして数時間前にロビンが、マユミを見ながら考え
ていたことと同じことを、彼女も考えた。
「腹が空いてるんじゃないのか。何処かで何か食べようか」
 ロビンが前を見詰めたまま、そう言った。そう言われて彼女は、今日
の昼からほとんど半日以上、何も口にしていないことに気付いた。彼
女は返事の代わりに、小さく頷いた。ロビンも小さく頷くと、しばらく道
なりに走った後、遠くに赤く輝いている深夜営業のファミリーレストラン
の看板の方に続く道を見付け、そちらの方にハンドルをゆっくりと切った。

 彼らが再びロビンのアパートに帰り着いたのは、真夜中の三時を少し
回った頃だった。ロビンは冷蔵庫から氷を出し、ボトルに半分ほど残って
いるシーバスリーガルで、二人分の水割りを作ると、部屋の中央のガラ
ステーブルの上にそれらを置いた。そしてごく小さな音でいつものケニー・
ランキンのテープをかけた。
 二人は何も言わず、互いに見詰め合ったままグラスを合わせた。小さく
氷とガラスが触れ合う透明感のある音が、複雑に少しだけ響いた。最初
の一口を飲み終えた後の、互いの小さな溜息がほぼ同時に起こり、それ
は声を上げて笑うほどではないが、唇の端が緩むくらいに、少しだけコケ
ティシュに感じられた。ややあって、ロビンが口を開いた。
「お前は知ってるのか。『雨』と呼ばれてる何かが、存在してるってことを」
「多分、私が知ってることと同じだと思うわ」
「それについて教えてくれないか。ゼブラもそれに関与してるのか」
「ええ。でも判ると思うけど、私は全ては知らされてないわ」
「それは構わない。知ってることだけで充分だ」
「じゃあ、私が知ってることを全部話してあげるわ」

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2008年8月11日 (月)

RobbinⅡ-レイン計画- 第八章(12)

 ロビンは無言でマユミを押し倒すと、その上に馬乗りになり右手をかざ
した。マユミは反射的に目を瞬間つぶったが、再び目を見開いたまま、
じっとロビンを凝視し続けていた。ロビンもマユミの瞳をじっと見詰めたま
まだった。しばらくの間、二人はそのままだった。やがてロビンは彼女の
脇腹あたりを目掛けて、ナイフをゆっくりと振り降ろした。軽い衝撃があっ
て、彼女の腕と足を繋いでいたロープが切断された。彼女は怪訝そうな
顔付きでロビンを見た。
「どうした、泣き叫ぶんじゃなかったのか」
 そう言いながらロビンは、マユミを縛ってあったロープを解いた。彼女は
何も言わずに黙ったままだった。ロビンの行動の意味が、理解出来なか
ったのだ。ロビンはやがて立ち上がると、車の鍵を右手に持ち、彼女に
背を向けながら短く言った。
「付いて来い」
「え?」
「お前がもし本当に、鮫島省吾の娘だと言うのなら、黙って俺について来
い。見せたいものがある」
 マユミは何も言わず、ロビンの後に続いた。もともと殺されても仕方ない
と覚悟していた部分もあり、今さらジタバタしても仕方ないことは彼女も充
分に承知している。格闘してもロビンの方が自分より技量が上なのは、多
少の心得があれば、そのくらいのことは感じ取れる。

 真夜中の道路を、ロビンの車が駆け抜けて行く。二人とも前を見詰めて、
黙りこくったままだった。彼女にはどの辺を走っているのかすら、見当も付
かなかった。車の中のメーターやオーディオのイルミネーションだけが、や
けに明るく感じられた。やがて車は山道を登り始め、脇道に入って行った。
地面の状態から、よほどの山中に入り込んでいるようだった。しばらく走っ
た後、不意にロビンは車を停め、ドアロックを解除した。どうやら目的地に
到着したらしかった。
「ここだ。下りろ」
 そうぶっきらぼうに言うと、ロビンは先に車から下りて、彼女を待った。促
されて彼女も車を下りた。少し先に木立が夜の風にざわつきながら、その
黒い姿を月明かりの中に浮かび上がらせていた。ロビンはその木立の方
に歩いて行く。彼女も黙ったまま、素直にその後に続いた。少しその林の
中に入り、不意にロビンは立ち止まった。マユミも立ち止まる。
「この下だ……鮫島さんが眠っているのは」
「え、ここが?」
 マユミはまさか、ロビンが自分を父親の墓に連れて来てくれるとは夢にも
思っていなかった。彼女はロビンの左横に立った。そこは何の変哲もない
地面があるだけだった。
「紫の薔薇の刺繍をした傭兵服を着て、鮫島さんが眠ってる」
「紫の薔薇の……刺繍」
 彼女は絶句した。それこそが彼女と父親を繋ぐ、唯一のお揃いのものだっ
たからである。彼女は腰のポケットから白いハンカチを取り出し、じっと見詰
めた。そこにも紫の薔薇の刺繍がある。ロビンは黙ってそれをじっと見てい
たが、やがてぽつりと呟くように言った。
「そうか、あの薔薇の刺繍は……お前の」
 彼女の両目から、不意に涙が溢れ出した。唇を噛みしめ、彼女はじっとう
つ向いたまま顔を上げなかった。夜風が時折、寂しげな音を立てて、彼らの
脇を通り過ぎて行く。
「俺が、鮫島省吾の娘に出来ることは、これで全部だ」
 ロビンはポケットから愛用の煙草を取り出すと、風の中で大きく揺れるジッ
ポの炎で火を付けた。マユミは涙で濡れた顔を上げ、ロビンを見ながら言った。
「私が鮫島省吾の娘だと、信じられるの」
 ロビンはちょっと考えながら、短く言った。
「お前を信じたわけじゃない。お前が流した涙を、信じたのさ」

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2008年8月 9日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第八章(11)

「鮫島さんを、お前が簡単に父さんと呼ぶな!」
 ロビンは珍しく声を荒げて言った。
「俺はあの人に育てられて一人前の傭兵になったんだ。あの人は俺に
とって父親代わりの大切な人だった。俺は未だに、あの人と交わした
最期の言葉を覚えてる。その俺の大切な思い出をぶち壊すような真似
はするな!」
 マユミの心の中に小さな迷いが生じていた。ひょっとしたら、この男の
言っていることの方が本当じゃないのか、と思え始めたのだ。当然のこ
とながら、それほどにロビンの言葉には、有無を言わせぬほどの説得
力があった。
「最期に交わした言葉って……」
 マユミは初めて、ロビンに尋ねてみたい気になり、素直にそう言った。
「今回の件が片付いたら、ブラジルにでも行って畑でも耕しながら一緒
に暮らさないか、とな。俺もそのつもりだったが、まさか鮫島さんがコブ
ラに殺されるとは思わなかった」
 ロビンは苦悩に満ちた表情で吐き捨てるように言った。彼の潤んだ瞳
は、部屋を照らす蛍光燈の白い光の中でキラキラと輝いていた。それは
マユミにも見て取れた。ロビンが言っていることは嘘ではない、と彼女は
感じた。彼がそれほど嘘をそれらしく演技出来るような、器用な人間で
ないことくらいは、彼女にも見当が付く。ややあって、彼女はつぶやくよ
うに言った。
「ブラジルでは、母と私がずっと、父さんの帰りを待ってる筈だった」
「え?」
「私が父さんのことをどのくらい知ってるんだ、って言ったわね。残念な
がら、ほとんど知らないわ。生まれてから一度も会ったことないから」
 ロビンは複雑な気持ちでマユミを見詰めた。自分がもしも鮫島と共に
ブラジルに渡っていれば、今頃はひょっとしたら彼女と一緒に暮らして
いたかも知れないのだ。こんな形ではあれ、彼女との出会いが何か、
因縁めいているように思えて仕方がなかった。
「教えてくれないか。ゼブラは今、何処にいるんだ」
「ふん、誤解しないでよ。お前の言うことを全部信用したわけじゃ無い
んだ。誰がお前なんかに教えるもんか。殺されたってごめんだよ!」
 マユミの口調は、先程のそれに戻っていた。
「頑固だな。どうすれば俺の言うことを全面的に信用してくれるんだ」
「証拠を見せてよ。お前が父さんを殺してないって言う証拠を。お前だ
けが父さんの墓の場所を知ってることは証拠にはならないよ。わかる
だろう」
「そう……たしかに難しいな。ゼブラに白状してもらうしか手はない」
「それみろ」
「だがな、それはお前にも言えるぞ。お前が鮫島さんの正真正銘の
娘だ、って証拠が何処にあるって言うんだ。名前がサメジマって言う
ことが、絶対的な証拠にはならんぞ。そう思い込まされてる可能性
だってあるんだ」
 辛辣な言葉の応酬だった。お互いに薄々は、相手の言っているこ
とが真実なのだろう、と察しは付いているのだが、ゼブラが彼らの間
に存在しているが故に、素直に互いを認めたくない気持ちがあるの
だ。そして残念ながら、互いに自分の主張の正当性を証明する客
観的な物は何一つ持ち合わせていなかった。
「私を、どうするつもり」
「そうだな……当面はここで、じっとしてて貰おうか」
「ふん、そんなきれいごと、誰が信用するもんか。どうせいずれは嬲
り殺しにして、何処かに埋めちまうんだろう」
「ふん、よっぽど俺は信用されてないんだなあ。だがお望みなら、そ
うしてやってもいいぞ」
 ロビンはニヤリと笑いながらそう言うと、ベッドの下からアーミーナ
イフを取り出し、それを右手に握ったままマユミの前に屈んだ。

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2008年8月 7日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第八章(10)

 マユミの狙撃を阻止出来はしたものの、ゼブラに関する手掛かりは何
一つ無い。結果論にしか過ぎないが、マユミが狙撃に成功した後、彼女
を尾行すれば守備よくゼブラの居場所も突き止められただろうし、その
他にも何らかの手掛かりを得られた筈である。
 彼女が狙撃しようとした相手は、ロビンには見当が付いていた。日本
の政財界のドンとも呼ばれ、世界的な難民救済運動や青少年育英に
貢献しているとされている笹本亮三であった。あの時マユミをスタンガ
ンで昏睡させた後、ロビンが会場の方に目を向けた時、こちらの方を
向いていたのは、ちょうど挨拶をしていた彼しか居なかったのだ。
 スコープの視野が限定されている以上、背後から後頭部を狙って狙
撃することは、標的が明らかにそれと判別出来る場合以外は行なわ
ないのが普通である。あの場合、数十名がいる会場でこちらに背を向
けている人間のうちの一人を狙撃するなど、絶対に有り得なかった。
 スナイパーの、というよりも人間の性質として、狙う標的は自分の目
で絶対間違いないことを確認しながら遂行する。つまり標的が目立っ
ていて絶対に間違いようが無い場合なら兎に角、通常その標的の顔
が見える位置で、これまでの世界中で起こった全ての狙撃は行なわ
れていると言えるのだ。
 ただ問題は、何故笹本が標的になったかである。ゼブラがマユミの
背後にいるのは間違いないのだが、彼が笹本を殺しても直接の利害
関係は有り得ない。すると必然的に、誰かに依頼されて笹本殺害を
請け負った、としか考えられなくなってくる。だが笹本から逆に辿るこ
とはあまりに利害関係が複雑すぎて、刑事でもない一介の探偵が限
られた時間の中で探ることは、ほぼ不可能と言ってもよかった。
『かと言って、このお嬢さんが素直に教えてくれるわけもないしな』
 ロビンはふと、彼女に尋ねた。
「お前の名前は、マユミと言ったな。生粋の日本人じゃないみたいだが、
一体何処で生まれ育ったんだ」
「………」
 彼女はそのロビンの問いには、答えようとしなかった。
「だんまり、か。だが、本当にお前は鮫島省吾の娘だ、という証拠があ
るのか」
 ロビンはわざと、憎たらしそうな微笑みを作りながらマユミに言った。
彼女は相変わらず黙ったままだった。
「俺は鮫島さんと色々話してるが、お前のことは聞いたことが無いんだ。
それに、お前は鮫島さんのことを、どのくらい知ってるって言うんだ」
「………」
 彼女の瞳の中に僅かな変化があったのを、ロビンは見逃さなかった。
「鮫島さんが何処に眠ってるか、お前は知ってるのか」
「………」
「お前が本当に鮫島さんの娘だと言い張るのなら、その証拠を見せて
みろ。もしそれが本当なら、俺はお前をあの人の墓に連れてってやっ
てもいい」
「父さんの墓だって?いい加減なことを言うな、お前が知るわけないじ
ゃないか。騙そうって言うんだろう、ふん、誰がそんな子供騙しの手に
乗るもんか」
「ふ、ゼブラが教えてくれるのか。有り得ないな。残念ながら、鮫島さ
んの眠ってる場所を、ゼブラが知ってるはずは絶対にないよ。どうして
かお前に判るか」
「………」
「それはな、鮫島さんの遺体を警察から盗み出して、埋葬したのがこ
の俺自身だからさ。鮫島さんが眠ってる場所は俺しか知らない」
「!……何だって」
「俺はその時、奴らに復讐を誓ったんだ。鮫島さんを殺ったコブラは何
とか倒せたが、ゼブラには逃げられちまった。早いもんであれからもう
三年経ったな」
「コブラって奴が、父さんを殺しただって。嘘を言うな!父さんはお前に、
お前に殺されたんだ!」

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2008年8月 5日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第八章(9)

 ロビンはマユミの表情から、彼女の感情を感じ取ると、力なく少し微笑
んだ。本当ならまだ病院で横になっていなくてはいけないのだ。幸いな
ことに助け出されたのが早かったことと、万一を想定してホテルの部屋
のカーテンをサラシ状に体にきつく巻いていたことが幸いし、致命傷には
至らなかった。また受けた弾丸が、肋骨で止まっていたから良かったよ
うなものの、貫通していれば出血多量で重症だった筈である。そしてあ
の時、マユミが持っていた銃がM-16ではなくウズィであったなら、彼
の身体は至近距離からの被弾でぼろぼろにされていただろう。
「俺が仇と言ってたな。説明してもらえんかな」
 じっと憎しみを込めた目で睨み付けているマユミに、ロビンはそう言うと
彼女の猿轡を外した。不意に真近から、マユミが一言も発せずに、ロビ
ンに唾を吐きかけた。ロビンは黙って顔に付いた唾を拭った。気の強そ
うな女のようなので、これくらいのことはするかも知れないと予想はして
いたが、案の上だった。ロビンはさすがにムッとしたが、かろうじてマユミ
を殴ろうという感情は抑えた。
「人殺し!」
 マユミの口を突いて、ロビンの過去の傷口をえぐるナイフのような言葉
が、彼の胸に突き刺さった。彼はさすがに少し眉をひそめ、溜息を一つ
つくと、脇のベッドに腰掛けた。
「人殺し、か。嫌な言葉だな」
 自嘲するかのように、彼は少しだけ目を細めた。
『……だが、本当のことだ』
 と、その続きを心の中で呟いた。気を紛らわせるようにロビンは煙草に
火を付け、大きく天井向けてゆっくりと白い煙を吐き出した。マユミはそ
んなロビンをじっと見ていた。
「ふん、よくもまあ助かったもんだよ。お前はよっぽど悪運が強いんだね」
 マユミは憎たらしそうにそう言うと、苦々しい表情になった。よっぽどロ
ビンを殺し損ねたのが悔しいと見え、それからもしばらく彼女はひとしき
り悪態をついていた。
「私をどうする気なの」
「ん?……さて、どうするかな。色々と聞きたいこともあるしな」
「ふん、私が素直にお前に聞かれたことに答えるとでも思ってるのか。
なめるんじゃないよ」
「ほう、流石に気が強いな」
「私は父さんの血を受け継いでるんだ。甘く見るな!」
「父さんの、血?」
「そうさ。お前に殺された鮫島省吾のね!」
「!何だと!」
 今度はロビンが呆然とさせられる番だった。一瞬彼は自分の耳を疑った。
「今、何と言った。お前は、鮫島省吾の娘だと?」
「そうさ……」
「ちょっと待て。それがもし本当なら、お前は誤解してるぞ」
「誤解?」
「そうだ。シャークを、いや鮫島さんを殺したのは俺じゃない」
「何を言い出すかと思えば……今さら、見苦しい言い訳は止めたらどう。男
らしくないわよ。私は知ってるんだ、お前は私の父さんを殺したばかりか、
目先の金に目がくらんでコブラとか言う傭兵も殺しちまったろうが」
「おい、お前。一体それを誰から聞いたんだ」
「ふん、それ見ろ。本当じゃないか」
「そうか、ゼブラだな。それをお前に吹き込んだのは」
「そんなこと、どうだっていいじゃないか」
 彼女はそう言うと、まるで汚い物から目を背けるように、ロビンから顔を反
らした。
「だからお前は、俺を仇だと言ったのか」
 マユミは黙ったままその問いには答えようとはしなかった。ロビンは途方
に暮れて、大きくひとつ溜息をついた。あまりにも意図的に曲折された事
実が、彼女に擦り込まれている。この誤解を解くのは半端ではなかった。
それに加えて、彼女から聞き出さねばならぬことは、山ほども有る。時間
的にも決して余裕があるとは思えないのだ。すでに彼女は狙撃を試みて
いる。幸いにもロビンが事前に阻止出来たから良かったようなものの、ゼ
ブラが絡んでいる以上、とてもこれで終わるとは彼には思えなかった。
『何を考えてるんだ、ゼブラは』

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2008年8月 3日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第八章(8)

 暗い部屋の中で、マユミは気が付いた。両手は後ろ手で縛られており、
口にはタオルが食い込むように巻かれてあった。両足も自由がきかない。
足を真っ直に延ばそうとすると、両手が下に引っ張られた。小さく呻き声
をあげながら、彼女は意識を取り戻した。しばらくの間は、どうして自分
がこんな所でこうして縛られているのかが理解出来ないでいた。横たえ
られている彼女の目の前には、男が一人、何かに腰掛けながら暗闇の
中で煙草を吸っていた。その煙草の明かりは、まるで蛍か何かの生き
物のようにぼんやりと光っていた。
 すこし頭の芯に鈍い痛みを残しながら、彼女は記憶を手繰り始めた。
そして思い出した。パシフィックホテルの庭園で、狙撃しようと引き金に
指を掛けようとした時彼女は、不意に彼女の集中力を乱す何かの気配
を身近に感じたのだった。先ほどの猫かとも思ったが、それとは違う何
かだった。
『何?』
 彼女は不審に思いながら、何気なく背後を振り返ろうとした。そしてそ
れはほんの一瞬の出来事だった。何かを顔に吹き付けられ、同時に顔
面が焼けるような凄まじい熱さと痛みが彼女を襲った。信じられないが、
何者かが完璧なカモフラージュで気配を全く消したまま、彼女の背後に
じっと潜み、機を伺っていたとしか考えられなかった。
『だ、誰なの』
 だがそれは催涙ガスの一種らしく、とても目を開けていられる状態では
なかった。同時に彼女の口と鼻を布のような物が塞ぎ、背後から羽交い
絞めにされるような形で、彼女は完全に自由を奪われた。それ以上に、
急速に薄れる意識に、彼女は抵抗出来なかった。
『駄目だ…』
 その場に崩れ落ちるように、彼女は意識を失った。遠くの立食パーティ
ーは相変わらずの盛況で、時折大きな笑い声が意識だけは微かに生き
ている彼女の耳に入って来たが、やがてそれも次第に遠ざかって行った
のだ。

 その次が、今だった。彼女は自分が拉致されたのを悟り、なおかつその
犯人は目の前にいる男に違いないと直感した。彼女は暗がりの中で、必
死に目を凝らしてその男を見た。彼女が気付いたのが判ったようで、その
男の唇が微かに微笑むのが、煙草の明かりで読み取れた。
「気付いたみたいだな」
 男は独り言のようにそう呟いた。自分の背後から気配を消して忍び寄り、
こうもいともたやすく自分を拉致したこの男は只者ではない、と彼女は感じ
ていた。そんな男がこの日本に居たことが意外でもあった。だがマユミは、
その男が彼女をこうして拉致した理由を知らない。それが今の彼女に暗闇
の中で不安感を募らせていた。
『私をどうしようっていうんだろう』
 その彼女の問いに答えるかのように、男は彼女の前にあったガラステー
ブルの上の灰皿で吸っていた煙草を揉み消すと、静かに立ち上がった。彼
女は身体を硬くしていた。彼女の位置から見上げたその男がえらく大きく、
そして威圧感を持って見えたのだ。
『私を拷問にかけて、あのことを聞き出そうっていうのか……』
 その男の手が彼女の肩に触れた時、彼女は思わず肩に力が入った。暴
行を受けても不思議ではない状況だったが、その男は彼女の上半身を起
こすと、部屋の明かりをおもむろに付けただけだった。不意の眩しさに、思
わず彼女はうつ向き、目を細めた。やがて目がその明るさに慣れた頃、彼
女は少し目を細めながら顔を上げて目の前の男を見た。次の瞬間、彼女は
呆然とした。そして我が目を疑った。
 そこにいたのは彼女があの数日前の夜、イスタンブールで夜の海に葬っ
たはずの男だったからだった。

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2008年8月 1日 (金)

RobbinⅡ-レイン計画- 第八章(7)

 このマユミの狙撃から、日本中をいや世界中を震撼させる、ある一世
一代の恐るべき陰謀が幕を開けるはずだった。そのための捨て駒として
マユミを選んだのは、他ならぬゼブラ自身の考えだった。本命である第
二の標的のことを考えれば、どうしてもマユミでなくてはならなかった。
下手に日本におけるその標的の社会的立場や存在感を知らない人間
の方が、スナイパーとして適役だったからである。それにゼブラとて、み
すみす逃げ場のない狙撃を請け負うほど楽天家ではない。
 マユミがそこまで裏の事情を知っているとは思えない以上、状況から
して、彼女は彼女の意思とは関係なく、この場から何者かに連れ去ら
れたと見るべきだった。
『だが、抵抗した跡も無いってのは、一体どういうことだ』
 傭兵訓練学校では格闘技も必須科目である。加えて彼女の気性を考
えれば、無抵抗で柔順に従うことなど、絶対に有り得なかった。だが現
実には、そうしたとしか考えられないのだ。現場は地面が荒れた跡もな
ければ、靴跡すら付いていない。ゼブラはまるで彼女がこの場所に潜入
して狙撃しようとしていたことなど、嘘であるかのような錯覚すら覚えた。
 もし銃を持った大勢で取り囲まれていれば、彼女とて抵抗しないかも知
れない。だがそうであれば何らかの痕跡が有っても良さそうだった。第一、
傭兵部隊が動きでもしない限り、絶対に人目に付く筈だし、何か騒ぎが
起こっていても不思議ではない。
 だがその仮定はこの日本では余りに現実離れし過ぎており、ゼブラが
考える限りにおいては、絶対に有り得ないことだった。かと言って、少人
数で彼女を捕獲出来るような技量を持った人間が、この日本にいるとは
絶対に思えない。腕に自信の有る屈強の現役刑事達が彼女を取り押さ
えようとしても、素手対素手なら絶対に一筋縄では取り押さえられない
はずである。たとえ女ではあっても、傭兵である以上マユミとて例外では
なく、それくらいの腕前は皆持っているのだ。
『第一、どうしてマユミが今日ここに潜むことを知ってた奴が居ると言うん
だ』
 ゼブラは頭が混乱して来た。今日のこの狙撃のことは超極秘であり、
当事者であるゼブラとマユミ以外に事前に知っていた人間が居るとは
思えなかった。よしんばこの狙撃のことを知っていた人間が居たとして
も、一体いつ狙撃が行なわれるかは判るはずがないのだ。何故ならゼ
ブラ自身が、この日時と場所を設定して独断で決定したからである。
彼は一人の例外を除き、マユミ以外にこの日時を洩らしてはいない。
そして唯一の例外であるその一人は、絶対に口外することなど有り得
ない、と言う確信をゼブラは持っている。
 あきらめて彼は、停めてあった車まで戻り、それに乗り込むと、冷静
にならねばと自身に言い聞かせるため、煙草を吹かしながらしばらく
の間、ぼんやりと考えていた。だが考えれば考えるほど、判らなくなっ
てくる。
『マユミが誰かに今日のことを洩らした?馬鹿な、あり得ない』
 まさかこんな事態が起ころうとは、彼は予想だにしていなかった。ま
さしく虚を突かれた形だった。それゆえ、いつも冷静な彼にしては珍し
く何度も、レバーをドライブ位置にしてあることも忘れたまま、エンジン
をかけようとしたくらいだった。

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2008年7月29日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第八章(6)

 時計の針はすでに午後八時を少し回っていた。ゼブラは少し苛立ちな
がら、マユミを待っていた。別段何か騒ぎが起こったような様子も聞こえ
て来ない、いつもと変わらぬ静かな夜だった。
『遅い……』
 幾ら何でも、もういい加減マユミが姿を現わしてもいい頃だった。だが
その気配すらない。流石にゼブラは不安になり、くわえていた煙草を投
げ捨てると、パシフィックホテルの見える道路際までゆっくりと歩いて行
った。歩いている人影はまばらで、マユミらしきものとは明らかに違って
いる。彼はゆっくりとした足取りで、パシフィックホテルの庭園の横を、
道路に沿って歩いてみた。庭園で行なわれているパーティーの雑談の
声が、道路の方まで響いて来る。特に何事も起こっていないようだった。
『何をやってるんだ、あいつは』
 慎重を期して機を見計らっているようにも思えるが、それにしても長過
ぎた。ゼブラとてスナイパーの端くれである以上、下見の段階でマユミ
が狙撃場所に選びそうな場所の見当は付いていた。考えられる場所は
二箇所あったが、狙撃後の逃亡ルートを考えると、道路に近い方を恐ら
く彼女は選んでいる筈だった。
 ゼブラは一瞬迷ったが、思い切ってその庭園の中にある小道に入って
行くと、人気のないのを確認して身軽な動作で、その小山の部分を少し
登った。そこにはテーブル程の大きさの岩があり、その陰は人目に付き
にくい絶好の狙撃場所と言えた。あたりは夜間照明も届かない暗がりが
支配している。
「マユミ、俺だ」
 小声でそう呟くように言ったが、反応は何もなかった。岩陰からそっと
会場の方を見ると、和気あいあいとしたお開きの様相を呈し、招待され
た側を代表してと思われる外人が英語でスピーチしている。少なくとも
誰かが狙撃された痕跡はまったく無い。
『何処へ行ったんだ、あいつは』
 半ば憮然とした表情で、ゼブラは注意深くあたりを見渡した。
『まさかとは思うが、反対側で狙ってるのか?しかし、遅過ぎるぞ。見ろ、
もう終わっちまう。失敗だ……』
 ゼブラは暗闇の中を素早く、庭園の中の道路とは反対側にある植え込
みの脇にある大きな岩の所まで動いた。だがそこにもマユミの影は無い。
ゼブラは何となく嫌な予感がした。
『消えた?まさか』
 彼女が仕事を途中で放り出すと思えない以上、そ