Robbin - コドモノチカラ - (2)
次に目を覚ました時、彼は見知らぬ部屋のベッドの中だった。いつ
どうやって、ここに運ばれたのかもわからない。全身の痛みは気にな
らないくらいにおさまっていた。顔面も少しまだ引きつれていて、全体
的にむくんだ感じはあるが、我慢できないほどではない。
空腹感を抑えながら、彼はゆっくりとベッドから抜け出し、おそるお
そる部屋のドアを開けた。通路が左右に伸びていた。右手には分厚
いドアがあり、そこが玄関らしかった。ドアチェーンがかかっているの
で、誰かが不意に入って来る恐れはないものの、自分でかけた覚え
はなかった。
ドアを出て、分厚いカーペットを足裏に感じながら、左の明るい方に
歩いて行く。マンションのリビングと思しき部屋が見えてきた。足を踏
み入れるとそこは、これまで見たこともない別天地だった。二十畳ほ
どはあろうかという、開放感のある空間に黒革のソファーとガラステー
ブル、その前には大型のテレビが壁際に備え付けられている。ガラス
張りの外のまぶしい景色は、テレビのドラマでしか見たことのない、見
下ろした都会の景色が広がっていた。
『ここは、どこなんだ』
そう思った男の視界の端に、何かが動く気配があった。
「やっと目が覚めたみたいね」
女の声がした。ビックリして声のした左の方を向くと、そこには気の強
そうな、眼鏡をかけた女の姿があった。ショートカットの栗色の髪に、赤
いルージュ、どこかで見た覚えがある気がするのだが、思い出せない。
彼女は吸っていたタバコをダイニングテーブルの上のガラス製の灰皿で
もみ消すと、つと立ちあがった。すらっとしたかなりの長身で、なかなか
のプロポーションなのが服の上からも見て取れた。
「これからのあなたの名前は、高木壮一郎」
「たかぎ…そういちろう」
「そう」
女は、何枚かの紙を大型テレビの前のガラステーブルの上に置くと、
自分の横に座るように促した。
「この筆跡、完璧に真似られるようにしてちょうだい。それが、あなたが生
きていくための絶対条件」
言われて手元の紙に目を落とすと、少し個性的な文字が並んでいた。
「それと、自分のプロフィールの暗記ね。この写真と一緒に」
男はソファーに腰掛け、きょろきょろとあたりを見回した。これまでの生
活とは全く違う、その調度品の豪華さに圧倒されてしまう。
「まず、このビデオを見てちょうだい。内容を徹底的に頭に叩き込んで、
丸暗記して。あとでテストするから」
女はビデオテープを彼に渡した。大型テレビの下にビデオデッキがあっ
たので、彼は無造作にテープを挿入した。テレビの電源が連動して自動
的に入り、テープの再生が始まった。それは二十分ほどの、ある大企業
の公告ビデオだった。記憶力には自信があったが、最後に登場した会長
の姿を見て、唖然とした。それは少し前に見たことがある顔だったのだ。
「テストは百点満点でないとダメよ。百点を取れなければ」
「…百点を取れなければ」
「あなたの人生はここで終わる」
「え…」
女は少し顔を上げ、彼の背後に目をやった。つられて振り返ると、そこ
にはいつの間にか、テレビドラマにでも登場しそうな、黒サングラスに黒
い背広の男が無表情で立っていた。
「彼に勝てるなんて思わない方が身のため。だから必死でやることね。
それと」
「…」
「私は高木壮一郎本人の秘書であり、愛人でもあるの。だから必要な時
には、あなたの行動や一挙一動を監視して報告する。今後は一緒に行
動する時があるけど誤解しないでね、私はあなたの女じゃないから。名
前は美咲」
「美咲…」
「それと当面は、ここから絶対出ないように。食事は私が作るから、テスト
に合格さえすればあとは自由にしていいわ。何か用事があるときは、彼
に言えばやってくれる」
彼女は、その黒づくめの男の方を顎で指しながら言った。
「察しはついてると思うけど、彼はボディガード。いつもいるわけじゃないけ
ど、あなたも彼のことを覚えていないとダメ」
「…金子健司だ」
そう短く、その男はつぶやくように言った。
「ところで、英語はしゃべれる?」
不意に美咲が、思い出したかのように尋ねてきた。
「え、英語ですか。中学高校では習いましたけど、その程度で」
「まったく喋れないわけじゃないでしょ、どの程度出来るの」
「いえ、本当にまったくダメです」
美咲は大きくため息をくと、じっと男を正面から見つめながら言った。
「じゃあそちらの方も、準備するわ。堪能に喋れるようになってもらわない
とね」
「え、そんなぁ。そんなこと聞いてませんよ」
「おだまりなさい!」
美咲の表情が変わった。
「甘えるんじゃないわよ。何様のつもり」
「…」
「高木壮一郎を演じられないのなら、あなた、用無しよ」
その言葉に呼応するかのように、黙って背後に立っていた金子が、無
言で数歩近づいて来たのがわかった。理由もなく、背筋が凍りつきそう
な感覚が湧いた。
「あなたの代わりなんて幾らでもいる。この場にいられる幸運を台無しに
したくないのなら、死に物狂いでやることね。そうしたら…」
「そうしたら」
「そうね、ちょっとはいい目を見られるかもよ」
美咲は意味ありげな笑いを浮かべて、男を正面からじっと見ていた。
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