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2009年4月18日 (土)

あおいとり

「それでは、名前を呼ばれた人は、前に出てください」
 やさしげな声で呼ばれた園児たちの、「はーい」というハキハキした
まだ幼い声が教室に響き、小さな木製の椅子にすわった小さな頭が
動く。後ろの壁際には、立ったままそれをじっと笑顔で見守る父親や
母親たちの姿がある。皆いつもと変わらぬ顔だった。
 ここは、あおいとり幼稚園。子供たちにのびのびと自由な時間を与
えてあげたいという趣旨で設立された私立幼稚園である。決して進
学校への入学準備のための習い事を強要させるところではなく、園
児が笑顔で毎日を自由に遊びながら過ごせる場所だった。
 誰もそのことには触れようとせず、平穏のうちに式次第は進んでい
た。これが最後の卒園式、そう、ここには来年が来ないのだ。

 幼稚園が今期いっぱいで閉園になるらしい、というその噂が出始め
たのは、昨年の夏休みの最中だった。年少保育の家あてに、来年の
幼稚園を探してくれるようにという、園側からの要請文書が届いたの
だ。もちろんそれに関わる入園料や手続き費用は、一家族につき五
万円ずつ園が支払うという。それは保護者たちの間を、大きな衝撃と
ともに、またたく間に広がっていった。
 理由は、事業を起こすための借金のカタに、幼稚園を含む土地すべ
てが抵当に入れられ、結局その借金の返済が出来なくなって差し押
さえられたという、ありきたりと言ってしまえばそれまでのことだった。
それで初めて皆に、切羽つまった園の状況がわかったらしい。
 それでも、園を何とか続けてもらえないか、という嘆願が後を絶たなか
った。だがいかんせん、事態はどうしようもないところまで来ていたのだ。
そして、その願いは決して届かないことが皆にわかった。何人かが借金
の肩代わりを考えたが、それが出来るようななまやさしい額ではなかっ
たこともある。
 誰も文句を言わなかった。不服を申し立てるものは、いなかった。だが、
それは決してあきらめではない。園のことをおもんばかった皆が、思いや
ったのだ。

「あんなこと、こんなこと、あったよね…」
 園児が歌に乗せて、一年間の色々な思い出を振り返る。式次第は、こ
れが最後だった。父兄の中には、つい目頭を押さえる者も出ていた。小
学校にあがることに希望と期待を膨らませる園児たちのくったくのない笑
顔が逆に、廃園のことを知らないことの悲しさと切なさを、父兄たちの心に
湧きあがらせていく。
「それでは最後に、園長先生から、皆さんにお話があります」
 その言葉にうながされるように、静かに園長先生が壇に上がった。園長
先生は、白髪のおじいちゃんだった。いつもと変わらぬそのやさしげな表情
で、皆に語りかけるように話し始めた。
「みなさん、卒園おめでとう。この春から、あなたたちは小学校に行きます。
そこでは新しいお友達が皆を待っているでしょう。どうかこれからも仲良く元
気でいてくださいね」
 そこで言葉を区切ると、園長先生は少し姿勢を正し、園児たちの背後で壁
際に立っている父兄の方に視線を移した。
「…ご父兄のみなさま、本日はお忙しいところ、あおいとり幼稚園の卒園式
にご出席いただき、ありがとうございました」
 そう言うと、園長先生は少しおじぎをした。父兄もおじぎを返す。
「すでにご存じと思いますが、この園での卒園式はこれが最後になります。
こうして目を閉じれば、子供たちのはしゃぐ声が今にも聞こえてきそうな気が
します。あどけなさの残る、かざらない笑顔。そんなみんなの笑顔や姿しか、
ここでは思い出せません。残念な結果となり誠に遺憾ですが、あおいとりは
廃園となります。しかし、ここでのその思い出がある限り、皆がやさしい気持
ちを失うことはありません。どうかこれからもお元気で、お子様たちをあたたか
く見守ってあげてください」
 笑顔でそう結ぶ言葉に、父兄の間から、一斉に力強い拍手がわいた。そし
てそれは、しばらく続いていた。今にも泣き出しそうな気持ちを抑え、誰の目
にも涙が潤む。だが晴れの卒園式に涙は似合わない、その気持ちが伝わっ
ていた。かけられる言葉はない、ただただ感謝の気持ちで、拍手が贈られて
いた。

 卒園式が終わった後、園児には記念に、鉢植えの多肉植物が一つずつ、担
任の先生から手渡された。小さくて地味ではあるが、丈夫でずっと長く園児た
ちのそばにいられるものをと、園長先生が考えたものだった。園児たちはいつ
もと変わらぬ様子で、早くこの窮屈な儀式を終えて遊びたい気持がはやり、さ
かんに横にいる親にもう帰っていいんでしょうと聞き始める。やがて一人、また
一人と、帰路につき始めた。
「はい、さようなら」
 園長先生は、園の出入り門の横で、園児やその父兄に声をかけ、いつまでも
笑顔でゆっくりと手を振り続けていた。そしてその後ろでは、それを微笑みなが
ら見つめる、おばあちゃんの姿があった。園長先生の奥さんだった。この園を創
立する時に、二人で一緒に築いてきた思い出が、ふとよみがえり、熱いものが
こみ上げる。
 ここはいつも、人の心があたたかさであふれていた。せちがらい世の中だが、
こんな世界もたしかに存在するのだ。そしてわずかな期間ではあったが、その
世界の一人としていられたことが、そして最後の卒園式に立ち会えたことが、
誇りに思えた。

 夕方、担任の先生たちも先に帰し、人気(ひとけ)のなくなった園で、教室にひ
とつひとつ鍵をかけて回る園長先生の姿があった。それも終わって、部屋に戻っ
てくると、あたたかな笑顔で奥さんが迎えた。
「お疲れさま、熱いお茶をいれましたよ」
 そう言って差し出した茶碗を、園長先生はうれしそうに「ありがとう」と言いなが
ら、受け取った。
『まあまあ、園児たちと同じ笑顔ね…』
 二人は黙って、お茶をすすった。静かな時が流れてゆく。柱時計のコチコチとい
う音が大きく聞こえる。荷物の整理やらでまだ何日か通わなくてはいけないが、
園の仕事としてはこれで終わりだった。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか」
「はい。いい卒園式でしたね」
「そうだね。みんなの笑顔が見られて、よかったよ」
 最後に門に鍵をかけ、園長先生が振り返ると、奥さんは小さな包みを渡した。
「長い間、おつかれさまでした」
 その包みの中には、三人の唯一の写真が収まった写真立てが入っていた。い
つも机の上に置いてあったせいか、色褪せているが、その思い出だけは決して
忘れてはいけないものだった。そしてそれが、二人が幼稚園を始めようと決める
きっかけになった。
 そこには、まだ若い二人の間で微笑んでいる、幼稚園の制服を着た幼い男の
子がいた。その写真を撮った翌日、家の前でボールを追って車道に出たところを、
車にはねられてあの世に召されていったのだ。あまりにもあっけない死を受け入
れることが出来ず、しばらく二人は茫然自失の状態だったが、やがて失くしてしま
った幼い笑顔を毎日でも見ていたいと願うようになった。そうしていれば、いつも我
が子と一緒にいられる錯覚で、心が慰められたからだ。
 幼稚園の名前、それは息子が一番好きだった童話のタイトルから取られた。い
つも一番近くにいるのに気付かない、幸せという名の青い鳥。だが二人の青い鳥
は、今はもう飛び立ってしまった。
「今日があの子の卒園式なのかもしれませんね」
「そうだね」
 二人の心の中で止まっていた時間が今、ゆっくりと流れ始めた。連れ立って帰
る二人は、その真ん中を少し開けた。そこには息子があの時の姿のままで、二
人を交互に見上げ、うれしそうに手をつないで一緒に歩いている気がした。

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