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2009年1月 3日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- エピローグ(4)

 時計にせかされるように、彼女は立ち上がった。山の斜面いっぱ
いの墓を左に見ながら、彼女は先ほど登って来た道をゆっくりと戻
り始めた。名残を惜しむように彼女は、何度も振り返ってそのピエ
ール・ロティのチャイハネを見た。そこは今まで彼女が居たことなど
少しも気に止めていないような、相変わらずの落ち着いた雰囲気
のままだった。遠くの方で花火か何かの音が、数度小さく聞こえた
が、それもすぐに収まったようだった。
『もう、ここに来ることも無いだろうな……』
 昔の自分を振り返って見ると、あまりに優しすぎたように彼女には
思えた。他人の気持ちを考え過ぎたようにも思える。それゆえ自分
というものを、常に犠牲にして来た。いつも自分だけが傷付いて来
た。必要以上に相手のことを思い、結果として全てを許して来た。
他人の考えに流されて、しかしそれでも自分が我慢すれば済むの
だと、無理矢理に納得して来た。
 それにここでこれまで見聞きして来た日本人女性達の生活は、彼
女に言わせれば何処か一種の狂気が漂っていた。男に対する免疫
を持ち合わせていないが故に、親に出して貰った金で留学した挙げ
句に、トルコ人青年と堂々と同棲をして今を楽しむだけで将来のこと
など何も考えていない、彼女と同年齢に近いお嬢様達……昼間から
持ち回りで仲間の家に上がり込んでは、酒や菓子を片手にマージャ
ンに興じている有閑奥様達……トルコ人青年の情熱にほだされて結
婚したものの、数年後自分に金がなくなって捨てられたのにそれに
気付かず、それでも私は彼を愛しています、と未練がましく言い残し
て、後ろ髪引かれる想いで日本に帰って行く女達……。そうかと思
えば、逆にトルコ人の男達と三角関係を続けながら、日本人を騙し
て粗悪絨毯を高い値段で売り付け、そのマージンで生活しているし
たたかな女達。
 別に特定の誰かが悪いわけでは決してないのだ、と彼女は思う。
騙す方も悪ければ、騙される方も悪いのだ。ただその狂気に毒され
ていつの間にか、彼女自身もその深淵の中に身を置いていた事は
事実だった。かつて津田がズバリと指摘したように、海外だからと
いう一言で、ここは日本ではないという開放感が、全ての判断を誤
らせ、結果としてそれらを許しているのだ。イエロー・キャブ、誰でも
乗れる黄色のタクシー、それがそんな日本人女性達に秘かに付け
られているニックネームであることを彼女達自身は知る由もない。
 そして同時に彼女は、川田良子達の辿って来た過去に、漠然とし
た不満を感じていた。だがこれからの自分は彼らとは違うのだ、と
彼女は心底思う。
「川田良子さん……貴方も多分、私と似たような道をたどったはずだ
と思うわ。でも結局、貴方は運がなかったのよ。だから殺される羽目
になった。でも私は違う!絶対に貴方の二の舞はしない。私は私の
人生をこの自分の手で掴み取る。人生の敗北者なんてまっぴらよ。
武司さん、私がいつまでも操り人形のように、貴方の言うことを素直
に聞いている女だと思ったら大間違いよ。私はあの二人とは違うの。
これまでの私の借りは日本に帰ってから、そっくり返してもらうわよ。
私が何もしないでただ従順に貴方の言うことを聞いて来たと思わな
いでね。貴方にはこれから色々面倒を見てもらうことになるわ。覚悟
しとくのね、二度目は無くてよ」
 そう呟くと、彼女は前を向いて歩き始めた。もう、心の迷いは何もな
かった。今はただ、自分の新しい人生がこれから始まるのだ、という
すがすがしい気持ちで、彼女の心はいっぱいだった。
 冬のイスタンブールの一日が終わろうとしている。懐かしい褐炭の
臭いが、あちこちの家の煙突から煙と一緒に流れ出し始めているの
が見えた。
『変わらないのね、ここは……』
 彼女はそう小声でつぶやくと、目を細め、にっこり微笑んだ。

 新ガラタ橋の開通は、再三の資金繰り悪化のため、当初の予定だ
った十月二十九日のトルコ共和国誕生記念日には間に合わず、翌
一九九二年の春にずれ込んだうえに、工事が休止していた。旧ガラ
タ橋の処遇については、取り壊すか否かでイスタンブール市議会で
も意見が分かれたまま結論が出ていなかったが、新旧を併用する方
向で決着が付こうとしていた。
 だがちょうどこの頃、係留中のバプールが真夜中に不審火を起しな
がら旧ガラタ橋にぶつかり、旧ガラタ橋が延焼する事故が発生したの
である。結局のところ、失火原因は明らかにされておらず、物議をかも
したのも事実だが、単純な偶然だったのかどうかは定かではない。そ
して皮肉にもこの事故のため、新ガラタ橋の工事が急遽再開され、そ
れから短期間で開通の運びとなった。それまでのイスタンブール庶民
の象徴とも言えた旧ガラタ橋は、延焼の影響で、もはや保存するに耐
えられる状態ではなくなっており、市議会で取り壊される事が正式決
定された。 
 こうしてまたひとつ、かつてのイスタンブールがひっそりと消えていっ
た……
                                    fin

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