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2009年1月11日 (日)

 母が、亡くなった。
 数年前から入退院を繰り返して、父がずっと付き添いで看病し、
寝たきり状態が続いていたから、いつかはこの日が来るとはわか
っていた。だが不思議と実感はなかった。ずっと覚悟が出来てい
たからなのかもしれない。母の遺体と対面しても、涙が出るわけ
ではなかった。葬儀の時も、火葬場で骨を拾う時も、心はそこに
はなかった。
 自分の中では、母は生き続けていた。小さい頃から母に甘えて
ばかりで、父よりも母を第一に考えてきた。身体が弱く臥せがち
だった小学生の頃、よく「具合はどうかね」と笑顔で尋ねていた母。
実家に戻っても、母に会うのは病院のベッドの上が多かったせい
か、未だに母はあの病院にいると思えた。帰省しても、あの病院
に行けば笑顔の母に会える、そんな気がずっとしていた。
 大学生になった頃から、いつの間にか、おふくろ、と呼ぶように
なった。母はそのことについては、特に何も言わなかった。結婚し
て帰った時、女房を見て娘が増えたよう、と喜んでいた母。子供が
生まれて顔見せに戻った時も、目を細めてその幼い仕草に喜んで
いた母。やがて歳月が母の身体から自由を奪い、骨を溶かしてい
っても、泣きごとを言わずじっと耐えていた母。

 それは明け方だった気がする。枕もとでずっと鳴りっぱなしの電
話を取った。
「具合はどうかね」
 それは忘れもしない、母の声だった。聞き間違えなど、あろうは
ずもない。朦朧としながらも、思わずこらえていた感情が突然わき
上がる。だがそれと同時に、母の葬儀のことも思い出していた。
「母ちゃん、本当に、母ちゃんだよね。今でも母ちゃんが死んだな
んて信じられんよ。こうして話も出来てるし」
 言葉使いは、子供の時に母を呼ぶのと同じに戻っていた。だが
自分なりに、その瞬間、この会話が途切れてはいけないと思った。
そうすると、母が本当に遠い所に行ってしまいそうで、何とか引き
留めたいと思った。だから、続けた。
「元気だよ、だから心配しなくていい。父ちゃんも一人でちゃんと生
活してる」
 だが、もう母の声は聞こえなかった。
「もしもし、もしもし…」
 電話は無音のままだった。寝起きで朦朧としていた私は、そのま
ま受話器を置くと、ふたたび眠りについていた。心の中には、母か
らの電話があった、という安心感があった。
 翌朝、目が覚めた時、電話のことを思い出した。だがあれは夢だ
ったような気もする。それはあの世からつながった電話だったのか
もしれない。ひょっとしたら母は、生前最後に声が交わせなかった
ことを悔いて、ただひとこと、会話をしに来てくれたのかもしれない。
そう思えた。そして皮肉なことに、それで母の死がやっと実感できた。

 今年も、来年も、これからもずっと毎年、帰省しては母の墓前に手
を合わせるだろう。母が死んだという実感が、年を追うごとに少しず
つ増えている気がするのは、やはりあの声を聞いたからだ。誰に言
っても、そんな馬鹿げたことと、信じてくれるわけがない。だから誰に
も言わない。だが、あれはたしかに母の声だった。夢の中でもいい、
私に会いに来てくれた母の声だ、それは間違いない。今でもそう信
じている。
 そしてもう一つ、心残りなことがある。あの時は寝起きでぼうっとし
ていたこともあり、とっさに声に出して言えなかった言葉。人の気持
ちは、声に出さないと相手に伝わらない。それは相手が生きていて
も死んでいても関係のないことだ。
「母ちゃん、あなたの子供に生まれて良かったよ」
 感謝の気持ちを込めたその一言を、今度話す機会があったら絶対
に伝えよう。そう思いながら、また電話がかかってくるのを待ち続け
ている。

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2009年1月 6日 (火)

作者の簡単レビュー 【その32】

 RobbinⅡ‐レイン計画‐、約十か月間にわたる合計156回の連載で
したが、いかがだったでしょうか。原稿用紙換算で約780枚とかなり
の長編でした。もともとサブタイトルは「レイン計画」ではなくて、「イス
タンブールの夢に…」でした。そういうこともあって、いちばん最後は
ああいう風に締めました。もう少し悲観的なラストもあったのですが、
色々と悩んだ末、それはやめにしました。

 実のところ、連載中に過去掲載分にさかのぼって、何回か手を入
れています。イイギュン警部とムスタファの会話のシーンが追加され
ていたり、津田と杉本弘美がバーダット通りでお昼を食べる時に「ア
フェットオルスン」のちょっと笑える話を入れたり、とか。『あれ、前回
見た時はこんなじゃなかったぞ』って思える部分もたぶん幾つもあり
ます。(二度は読んでくれないから、わからないかなあ…)
 この作品は前作・RobbinⅠ‐帝王の花嫁‐の後編としての位置付け
になっています。なので、前作で真犯人がゼブラだったと思わせてい
ましたが、実は違っていた、などのどんでん返しも私なりに入れてあ
ります。

 この二つの作品は、私が実際にイスタンブールに単身赴任していた
時に書き上げたものですが、その時はRobbinという物語は三部構成
になっていました。しかし第三部は、もはや推理小説の体をなさなくな
っていたので、実際に作品として書き上げたのはここまでです。最後
のシーン自体や幾つかのシーンは書いてありますが、悲劇の物語に
なってしまうので、どうしようかちょっと悩んでます。 

 以前の簡単レビューにも書きましたが、ⅠとⅡの間に短編が二つ入
る形なので、そちらが書き上げられれば、また掲載させてもらいます。
 当面は、全然別の短編を幾つか掲載する予定にしています。

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2009年1月 3日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- エピローグ(4)

 時計にせかされるように、彼女は立ち上がった。山の斜面いっぱ
いの墓を左に見ながら、彼女は先ほど登って来た道をゆっくりと戻
り始めた。名残を惜しむように彼女は、何度も振り返ってそのピエ
ール・ロティのチャイハネを見た。そこは今まで彼女が居たことなど
少しも気に止めていないような、相変わらずの落ち着いた雰囲気
のままだった。遠くの方で花火か何かの音が、数度小さく聞こえた
が、それもすぐに収まったようだった。
『もう、ここに来ることも無いだろうな……』
 昔の自分を振り返って見ると、あまりに優しすぎたように彼女には
思えた。他人の気持ちを考え過ぎたようにも思える。それゆえ自分
というものを、常に犠牲にして来た。いつも自分だけが傷付いて来
た。必要以上に相手のことを思い、結果として全てを許して来た。
他人の考えに流されて、しかしそれでも自分が我慢すれば済むの
だと、無理矢理に納得して来た。
 それにここでこれまで見聞きして来た日本人女性達の生活は、彼
女に言わせれば何処か一種の狂気が漂っていた。男に対する免疫
を持ち合わせていないが故に、親に出して貰った金で留学した挙げ
句に、トルコ人青年と堂々と同棲をして今を楽しむだけで将来のこと
など何も考えていない、彼女と同年齢に近いお嬢様達……昼間から
持ち回りで仲間の家に上がり込んでは、酒や菓子を片手にマージャ
ンに興じている有閑奥様達……トルコ人青年の情熱にほだされて結
婚したものの、数年後自分に金がなくなって捨てられたのにそれに
気付かず、それでも私は彼を愛しています、と未練がましく言い残し
て、後ろ髪引かれる想いで日本に帰って行く女達……。そうかと思
えば、逆にトルコ人の男達と三角関係を続けながら、日本人を騙し
て粗悪絨毯を高い値段で売り付け、そのマージンで生活しているし
たたかな女達。
 別に特定の誰かが悪いわけでは決してないのだ、と彼女は思う。
騙す方も悪ければ、騙される方も悪いのだ。ただその狂気に毒され
ていつの間にか、彼女自身もその深淵の中に身を置いていた事は
事実だった。かつて津田がズバリと指摘したように、海外だからと
いう一言で、ここは日本ではないという開放感が、全ての判断を誤
らせ、結果としてそれらを許しているのだ。イエロー・キャブ、誰でも
乗れる黄色のタクシー、それがそんな日本人女性達に秘かに付け
られているニックネームであることを彼女達自身は知る由もない。
 そして同時に彼女は、川田良子達の辿って来た過去に、漠然とし
た不満を感じていた。だがこれからの自分は彼らとは違うのだ、と
彼女は心底思う。
「川田良子さん……貴方も多分、私と似たような道をたどったはずだ
と思うわ。でも結局、貴方は運がなかったのよ。だから殺される羽目
になった。でも私は違う!絶対に貴方の二の舞はしない。私は私の
人生をこの自分の手で掴み取る。人生の敗北者なんてまっぴらよ。
武司さん、私がいつまでも操り人形のように、貴方の言うことを素直
に聞いている女だと思ったら大間違いよ。私はあの二人とは違うの。
これまでの私の借りは日本に帰ってから、そっくり返してもらうわよ。
私が何もしないでただ従順に貴方の言うことを聞いて来たと思わな
いでね。貴方にはこれから色々面倒を見てもらうことになるわ。覚悟
しとくのね、二度目は無くてよ」
 そう呟くと、彼女は前を向いて歩き始めた。もう、心の迷いは何もな
かった。今はただ、自分の新しい人生がこれから始まるのだ、という
すがすがしい気持ちで、彼女の心はいっぱいだった。
 冬のイスタンブールの一日が終わろうとしている。懐かしい褐炭の
臭いが、あちこちの家の煙突から煙と一緒に流れ出し始めているの
が見えた。
『変わらないのね、ここは……』
 彼女はそう小声でつぶやくと、目を細め、にっこり微笑んだ。

 新ガラタ橋の開通は、再三の資金繰り悪化のため、当初の予定だ
った十月二十九日のトルコ共和国誕生記念日には間に合わず、翌
一九九二年の春にずれ込んだうえに、工事が休止していた。旧ガラ
タ橋の処遇については、取り壊すか否かでイスタンブール市議会で
も意見が分かれたまま結論が出ていなかったが、新旧を併用する方
向で決着が付こうとしていた。
 だがちょうどこの頃、係留中のバプールが真夜中に不審火を起しな
がら旧ガラタ橋にぶつかり、旧ガラタ橋が延焼する事故が発生したの
である。結局のところ、失火原因は明らかにされておらず、物議をかも
したのも事実だが、単純な偶然だったのかどうかは定かではない。そ
して皮肉にもこの事故のため、新ガラタ橋の工事が急遽再開され、そ
れから短期間で開通の運びとなった。それまでのイスタンブール庶民
の象徴とも言えた旧ガラタ橋は、延焼の影響で、もはや保存するに耐
えられる状態ではなくなっており、市議会で取り壊される事が正式決
定された。 
 こうしてまたひとつ、かつてのイスタンブールがひっそりと消えていっ
た……
                                    fin

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2009年1月 1日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- エピローグ(3)

 そして空港での不可解な行動の件に関しては、後日塚本美雪の
証言があった。それによれば、彼女はこの時は自分が自分でなか
ったとは言え、あの時の自分なりのレイン計画阻止を狙った誘い水
のつもりだったと言う。酒井にそこまで悪の道に入り込んで欲しくな
かった自分の漠然とした気持ちが、ああいう形でしか表現出来なか
ったらしい。だが同時に彼女はたとえ過去がどうあれ、今の自分が
酒井の隣にいられる事、つまり良子に彼女は勝ったのだということ
を暗に誇示する気持ちも、複雑に絡んでいたとも語ったのである。
 訊問の最後に、レイン計画がいつ頃から動き始めていたかを問わ
れ、酒井はこう答えた。
「ブラック・ローズ組織の一員として、イスタンブールに派遣された頃
から、おぼろげながらレイン計画の案はあったと思います。ですが事
が事だけに、実行する前にあちこちと話を付けるためにある程度の
資金が必要だった。同時に当時のその計画の阻害要因として、正
木英嗣氏の名前が一番に挙がっていました。そのために仕組まれ
たのが、トリム産業株式会社の事件であった、とゼブラから聞いた
覚えがあります。真の首謀者のことは、今はまだ申し上げられませ
ん」
 結局、そう言い残したまま酒井武司は、刑務所への護送で警察か
ら出て来たところを、テレビ局のカメラが回り大勢の取材陣のいるそ
の目の前で、何者かに狙撃され頭部を見事に撃ち抜かれて即死し
た。この事件の犯人は未だに謎である。野宮邦弘という統括者まで
を逮捕されたブラック・ローズ組織が、これ以上の被害を避けるため
に彼の口封じに動いた、と見るべきなのかどうかは警察内部でも意
見が別れた。今回の犯罪に加担していた何者かが裏で暗躍し、政
治家達の存在が浮かび上がらないように画策した、と言う見方も出
来るからだ。
 しかし世間一般に対しては、必ずしも全ての真実は知らされなか
った。何しろ天皇の狙撃計画のことを発表しようものなら、どこかの
輩が本当に真似をしかねないご時世なのだ。酒井がにおわせた真
の首謀者の件もそうだった。野宮の経歴をたどると、おそらくはアメ
リカ合衆国公然の某秘密組織が裏で糸を引いているのではないか
と思われたが、野宮は黙秘権行使で頑として口を割らないままだっ
た。そして多額の保釈金で釈放された後、地検も粘りはしたものの
そこまでの追及が出来ず、警視庁の捜査自体も暗礁に乗り上げて
いた。ブラックローズという組織が存在すること自体も秘密とされ、
あくまでも事件は野宮邦弘と酒井武司による、国家転覆の騒乱罪と
しか発表出来なかった。

 一方の津田については、情状酌量の余地はあるものの、過去にブ
ラック・ローズ組織の一員であった事と、トリム事件の偽証は間違い
のない事だし、実際にゼブラとパープルの二人を、仕方がなかったと
は言え射殺している事実は事実である。懲役刑はまず間違いのない
ところだろうと村上警部補達は思っているが、執行猶予が付くのかど
うかもまだわからない。そもそもブラック・ローズ部隊のことは関係者
に厳重な緘口令が敷かれているので、その事実が今後本当に公表
されるのかどうかもわからない。公表されないとなれば、津田の刑の
重さもかなり変わってくる。だが一つだけ間違いないことは、たとえ執
行猶予になったとしても、津田は今の浅見探偵事務所にはおそらくも
ういられないことだった。
「津田、か」
 今はもう洋子も辞めてしまってひっそりとしている喫茶アルファの片
隅で、本郷はかつての津田の指定席に腰掛け、じっと考えていた。こ
の席で津田はこれまで一体何を考えてきたのか……彼がこれまで体
験してきた世界は、本郷にとっては想像もつかない、あまりにも殺伐
とした世界だった。これまで何度か津田は、ある時は横から強引に割
り込んで来て捜査の邪魔をしかけた事もあったし、ある時は行き詰ま
った捜査を助けてくれた事もあった。結構ストレートにものを言うタイプ
の人間で、時にはこちらが気分を害されたこともよくあったが、現実に
こうして定位置に彼がいなくなってしまうと、実に寂しいものだった。
 洋子はすでに立川のアパートを引き払い、木島にアルファを辞めると
言い残して、長野の実家に帰って行った。龍王は相変わらず、秋葉原
の量販店で真面目に働きながら、いつか自分の元に美雪が戻って来
る日を信じて待ち続けている。そしてこの事件を解くきっかけになった
川田は、再び彼の息子と二人でアメリカに海外赴任して行った。本郷
はあの津田の笑顔を、もう一度ここで見たいと思った。自分の中で津
田の存在が意外に大きく占められている事が、彼には意外だった。
 アルファを出た後、本郷は津田のアパートの前までやって来ると、二
階の彼の部屋がある場所を見た。洋子が部屋の合鍵を持っていて、
事件後にある程度津田の荷物を整理していたことを知り、それで二人
の関係を本郷も知った。それは意外でもあったが、うすうす感じていた
だけに、驚きはなかった。今はひっそりとその部屋だけが、窓にカーテ
ンがかかったままで暗く静かだ。
「帰って来るよな、津田」
 淋しげにそう小さくつぶやくと、本郷はコートのえりを立てて歩き始め
た。

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