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2008年12月29日 (月)

RobbinⅡ-レイン計画- エピローグ(2)

 シャルと呼ばれる大判の肩掛けを頭から深くかぶって顔が見えな
いようにして、女物のコートを羽織った酒井は、ムスタファに付き添
われながら彼の車に乗り込むと、領事館付近まで急いで戻った。
美雪は彼らとは別行動をとり、ドルムシュを使ってほぼ同時刻に酒
井の家に戻っていた。そして酒井は何食わぬ顔で仕事をしたのだ。
酒井はこの日、あらかじめ休みを取っていたが、急ぎの仕事がある
と言って休みの日に酒井が領事館に午後から顔を出す事はそれま
でも頻繁にあったので、領事館の誰もそのことを不審には思わなか
ったはずである。
 さらに酒井は、イスタンブール警察の上層部の人間に連絡し、捜
査状況を聞き出すと、川田の関係者が入国する情報を得た。すで
に十年もこの地の領事館にいる利点とブラック・ローズ組織を利用
して、それまで惜しげもなく金をばらまいて来ていたので、彼はあら
ゆる方面にコネを持っていた。警察の上層部の人間とて、酒井の息
がかかっている関係者はごまんと居る。一度だけ政府高官に最高
級の女を斡旋した時に、現場の隠し撮り写真が新聞記事になった
ことがあったが、その際も記者に大金をつかませて何とか丸め込み、
事なきを得た。

 今回もことが良子の事であっただけに、彼は領事館から紹介した
という触れ込みで、息のかかった人間を川田と警察の通訳によこし、
状況を慎重に見守る必要があった。そのために眼鏡で外見を多少カ
モフラージュさせた美雪を送り込んだのだ。また領事館で、善意の第
三者を装い川田に悔やみを述べたのも、立場上であったとは言え、
酒井自身は内心複雑な気持ちで川田と接していたのだった。
 念のためを思い、川田が無事に出国するかどうかをゼブラに確認
させた。だがあろう事か、その場に美雪がやって来たのだ。美雪が
川田に何事かを囁いたことを、ゼブラからの報告で知った酒井は美
雪を詰問した。だが彼女のその行動の意味するものは、謎のまま
だった。彼女自身、言っていることがかなり支離滅裂になっていた
のだ。彼女をイスタンブールで人知れず葬ることも出来たが、あえて
そこまでの危険は冒せなかった。
 日本人女性が連続して殺害されれば、否応なく目につくし、捜査に
もかなりの人員が投入される可能性があったからだ。そうなれば、日
本の警察には及ばないとは言え、いつ何をきっかけに自分と良子と
の過去が露呈しないとも限らない。帰国してもまだ美雪の神経が参
ったままであれば、日本で密かに処理してもらおうと考えて、その事
を野宮に相談したのだ。これ以上自分の目の前で、自分に関係した
女が殺されるのは出来るなら見たくなかった。

 野宮はさんざん反対したが、酒井は自分のその考えを何とか押し
切った。美雪が帰国した後の就職先を世話してやったが、結局彼女
はそこにはほんの三ヶ月いただけで辞めてしまった。その頃には彼
女の精神状態も落ち着きを取り戻していたことを、彼は日本からの
連絡で知り、ホッと胸を撫で下ろしていた。
 そして美雪が帰国する前に酒井が知り合った杉本弘美が、彼の三
番目の現地妻になったのだ。そしてそこに、事件から一年を経過した
頃、要注意人物とされる津田宗弘という探偵が事件の真相を探りに
日本からはるばるやって来たのだ。これは帝国ヒューマン・リサーチ
の情報として酒井の元にもたらされた。帝国ヒューマン・リサーチは
日本におけるブラック・ローズ組織の一部でもあり、美雪の動向を探
っていたのもそこを介してだった。
 何度かこれまでトラブルを処理していたゼブラに、酒井は津田の件
を依頼した。その頃にはレイン計画の詳細が本格的に固まり、その
決行が知らされた。そのための狙撃要員として、マユミなる女傭兵が
酒井の元にやって来た。そして津田を仕留めた後、彼ら二人は日本
に向かったのだ。だが実は津田は死んではいなかった。長かった任
期を終了して帰国し、野宮の元に無事に復帰した酒井だったが、そ
の事を彼は迂闊にも知らなかったのである。
 だがこれには川田の機転によるところが大きかった。彼は良子殺害
の一件で、イスタンブール市警の捜査に不審を抱いていたのだ。たし
かに、ひと通りの捜査は行なうように酒井は警察の上層部を通じて指
示していた。だが川田は警察が買収されていたことをうすうす感付い
ていたのだ。それゆえ津田からの状況報告を聞いた時、川田は自ら
急遽イスタンブールに向かうことを決め、休みを取ってやって来た。
一緒にギュルハネ公園に駆け付けた警察官を金で買収し、事をあくま
でも秘密裏に運んだのだ。津田を運び込んだ緊急病院も、以前に秘書
のアイシェルから聞いていた腕利きの医者の所だった。それが効を奏
して、その後の日本での一連の津田の行動に反映されたとも言える。

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2008年12月26日 (金)

RobbinⅡ-レイン計画- エピローグ(1)

「良子がイスタンブールにやって来たことは、イスタンブール市警の
情報提供者に教えられて知っていました。彼女の住んでいたあの
スワディエのアパートには、偶然でしたが五階にムスタファという我
々の仲間が住んでいたんです。ムスタファは元イスタンブール市警
の本部長だった男で、在任中からかなり悪い評判がある奴でした
が、裏情報にも詳しくて色々と利用価値があったので、定期的に会
ったりしていました。
 私は前の日の夜から彼の所にいて、翌日の朝の十時にムスタフ
ァがカプジュを呼んで外に買い物にやらせた隙に、近くに潜んでい
た美雪を合図して招き入れ、良子の所に向かわせて彼女にドアを
開かせたんです。相手が私では、いきなり訪れても恐らく内部には
入れてくれなかったろうし、その点日本人の女なら、良子が油断す
るだろうと思ったんです。結果は案の定でした。そしてその後に私
が向かい、美雪が内側からドアを開けて私を招き入れました。良子
はさすがにビックリしていました。
 当然でしょうね。まさかこの私が、突然に自分の自宅にやって来る
とは思ってもみなかったでしょうから。美雪は川田さんの知り合いで
通訳をしている人間ということにして、急に一両日中に必要になった
金があって借りる目処が付かないので、考えあぐねた結果、悪いと
は思ったが川田さんの善意に甘えようと決心してここにやって来た、
という設定にしてありました。良子は美雪の真に迫った演技に騙され
て、家にあった現金を彼女に貸してやったところでした」

 酒井の脳裏に、あの時の記憶が鮮明によみがえって来た。帰って
くれ、貴方とは二度と会いたくない、とけんもほろろな態度の良子に、
酒井はカッと頭に血が昇り、言葉にならない言葉を発しながら衝動的
に彼女に飛び掛かると、両手でその首を締めつけたのだ。女の冷酷
さと裏切られた現実が脳裏を駆け巡る中で、彼は泣きながら良子の
首を思いきり締め続けていた。
 もはやもう後戻りなど出来なくなっていた。良子の身体が次第に力
を失い、その場に足元から崩れるように倒れていき、ついには息絶え
ても彼の両手はまだ良子の首を力一杯に締め続けていたのだ。
「死んでるわよ、もう……」
 その美雪の言葉で、思わず酒井がハッと我に返って手を放した時は、
すでに手遅れだった。彼は自分のその手で、良子を絞殺してしまって
いたのだ。自分がしでかした事に呆然と立ち尽くしている酒井を尻目
に、美雪は絨毯の上に倒れている良子のスカートを脱がしにかかった。
「何を……何をするつもりなんだ、美雪」
「見ればわかるでしょ。強盗の仕業に見せかけるのよ」
 冷たい目付きで彼女はそう言うと、その後、酒井にとんでもないこと
を言ったのだ。動転していた酒井は、彼女の言い放った言葉に愕然と
し、思わずその恐ろしさに身震いした。
「そんなことが出来るわけ無いだろう。良子はもう死んでるんだぞ」
「何を今さらそんなこと言ってるの!貴方は警察に捕まって、自分の人
生を棒に振りたいの」
「し、しかし。いくら何でも、そんなことが出来るわけは」
「やるのよ!出来なければ私が協力してあげる。私達はもう共犯者な
のよ」
 そう言うと美雪は、良子の死体の横で全裸になって、酒井を招いた。
狂気が二人を支配していた。良子が酒井に強要したこと、それは酒井
に良子を死姦させることだった。狂ったように大胆に酒井を求め、おびた
だしい量の愛液にまみれる美雪に引き込まれ、酒井は横に良子の死体
がある事もいつか忘れていった。その快楽に、二人は溺れた。そして美
雪は酒井に自分の中に射精してと叫びながら、達した。酒井も美雪のそ
の言葉とほぼ同時に、美雪の中に異常なほどの量の自分の熱いものが
ほとばしり出て行くのを股間に感じた。
 酒井のものが自分の中に注入されるのが完全に終わると、美雪はま
だ息を荒げながらも酒井を押しのけ、良子の死体の股間に自分の中か
ら溢れ出てくる酒井の精液を手に付けると、良子の内部にその手を押し
入れた。それを何度か彼女は繰り返した。
 それも終わると彼女は手早く衣服を身に付け、今まで二人が抱き合っ
ていた場所を注意深く観察し、自分の髪の毛が一本落ちているのを見付
けるとそれをそっと取り去った。そして彼ら二人の指紋が残っていそうな
場所を全てハンカチで拭うと、彼らはその部屋を後に、いったん五階のム
スタファの部屋に戻ったのだ。

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2008年12月23日 (火)

作者の簡単レビュー 【その31】

 長かったこの物語も、次回からついに最終章「エピローグ」を迎え
ます。あらためて読み返してみると、ああここをこうすればもっと良く
なったのになあ、とか色々考えたりもしますが、それはおいおい校
正をかけて、過去ログに反映させていこうと思っています。

 イスタンブールもすっかり変わってしまっているのでしょうね。しか
し何よりも今年は、私にトルコ語を教えて下さった、俳優でもあるア
イデン・ヤマンラールさんが七月に逝去されたことが一番のショック
でした。この場を借りて、ご冥福を心よりお祈りします。

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2008年12月21日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(10)

「金銭のやり取りがあったのかどうかはわからない、だが現場にい
たあんたは、その時ケマルに便宜を図って情報提供してやったは
ずだ。だからケマルの記事だけが、他社よりもずば抜けて優れて
いた。そしてそれがきっかけで、以降ケマルは一気に凄腕記者の
階段を駆け登っていく。全部あんたからの情報提供があったおか
げだ。だから奴にとってはルポライター事件は特別なものだった。
だからパスワードが他のと違っていた。パスワードは、イイギュン
さん、あんたの名前だったよ」
「ほう。さすがだ、よく調べたな。パスワードまで見つけ出すとはた
いしたもんだ。私に内緒にしていたのは、そのパスワードのことを
言うわけにはいかなかったからか」
 ハリムは小さくうなずいて、続けた。
「だが、わからない事がある」
「何だ」
「どうしてカワダ夫人殺害の今回の事件も、パスワードがあんたの
名前なんだ?」
「簡単なことさ、わからんのか」
「……」
「頭の切れるお前にしては珍しいな。たぶんケマルは気付いていた
んだ、だから私の名前にしたんだろう」
「気付いていた?何を」
「わからんのか、事件のきっかけを作ったのが私だということさ」
「きっかけ、だと」
「そう、カワダリョウコがこの地にやって来たことを、サカイに知らせた
のはこの私だ。あの女は最高だったからな、今でも覚えてるぐらいだ」
「そうか、あんたは昔、イスタンブール市警で捜査統括課長をずっとや
ってたな。そのつながりで面識があったのか」
「色々と揉め事を水面下で解決してやっていた、その見返りさ。まあ昔
の話だが」
「じゃあ、どうして仲間割れしたんだ」
「仲間割れ、とは」
「これまで殺害された悪徳警官五人のうち、オルファンとハルックはあ
んた達が始末したんだろ。連続殺害犯に罪を着せるために、現場に赤
い薔薇を残す手口を真似て」
「じゃあ残りの三人が連続殺害犯の仕業だと言うのか、そう断言できる
証拠は何だ」
「……」
「証拠があるのなら、言ってみろ」
「証拠はこれさ」
 ハリムが腕組みを解くのとほぼ同時に、不意にイイギュン警部の至近
距離から、パンパンと花火にも似た音がした。イイギュン警部には、何が
起こったのかがすぐには理解出来なかった。

「ハリム、お前どうして…」
 ハリム刑事の腕には、硝煙が少し出ている銃が握り締められていた。
腹のあたりが我慢できないくらいの痛みと熱さで立っていられず、イイギ
ュン警部は思わずしゃがみ込んだ。腹部に当てた手が生暖かい。見ると
おびただしい出血が始まっていた。
『撃たれた?ハリムに?』
「イイギュンさん、あんたは深入りしすぎたんだ」
「何だと」
「私があれほど遠まわしに何度か注意したのに。あんたは見張られてる、
と」
「何だと」
 そう言われれば、ハリムの言い回しには時々首をかしげる場面もあった。
「自制さえしててくれてれば、俺だってこうやって恩のあるあんたを手に掛
けたりはしなかったさ。売春組織と麻薬組織は裏でつながってるんだ。以
前にクルド民族解放戦線を名乗って、あんたをアンカラにおびき出したのも、
俺がケマルに交換条件で要求したことだ。この前日本で起きた原子力発
電所の件もそうだ。あれは表向きは事故だが、実際は違う。世の中ってい
うのは、そんなものさ」
「お前、どうしてそんなことを知ってる……」
 力なくハリムが笑う。
「それは、あんたは知らずに終わる。三人の警官達を殺害した時と同じよう
に、俺が赤い薔薇を置いておくから、あんたはあの世で考えてみるといい」
 イイギュン警部は次第に意識を失っていった。ここは低所得者層の群生
する場所で、誰も他人のことを構わない。ここで殺人事件が起こっても、誰
も警察に通報することはないし、身ぐるみはがされて転がるだけだ。
 この山の向こう側のピエール・ロティのチャイハネで若い頃、今の夫人と
二人でよく通い、将来のことを熱く思い描いたものだった。
「ネルミン…」
 その小さなつぶやきにも似た言葉はイイギュン警部の夫人の名前だった
が、それが彼が発した最後の言葉だった。

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2008年12月18日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(9)

「その理由は何か。私が何か用事があって会いたがっているのを、
その前に社に電話して伝言で知ったんだろう。だから時間を稼ぎた
かった」
「………」
「お前と話す時間をな。あるいはケマルが私に電話していた時、隣
にお前がいたのかもしれん」
「………」
「そう黙るな、ハリム。それじゃ肯定しているのと変わらんぞ」
「いや、あまりにも突拍子もない発想なんで、開いた口がふさがらな
いだけですよ」
「今さら、シラを切るのか」
「どうして私が、ケマルを殺さなきゃいかんのですか」
「それがずっと謎だった」
 そう言うとイイギュン警部は、上着の内ポケットから新聞記事のコピ
ーを取り出して、ハリムに見えるように見せた。
「理由は、これだろう」
 ハリムの顔が青ざめた。
「どうして、そんなものをあなたが持ってるんだ」
 それは、外務省高官がアンカラで女性接待を受けている現場の隠し
撮り写真が掲載されている、ギュナイドン紙の記事の切り抜きだった。
「これを探し出すのにアンカラで丸三日かかったぞ、お前を騙すのが大
変だったが」
 イイギュン警部が珍しく、食当たりと言って数日休んだことを、ハリム
は思い出した。あの時、イイギュン警部はアンカラに出向き、ハリムの
過去を洗っていたのだ。
「この高官の横にいる若い男は、お前だろう。お前もおこぼれにあずか
ったクチだ」
「………」
「この高官はこの記事が原因で自殺した。そしてお前もキャリアではい
られなくなった。だがまだ若く優秀だったお前を惜しむ声はあった、お前
が残れる手段は一介の警察官として天下ることだった。そしてお前は
刑事となったが、アンカラにいるのはまずい。だからイスタンブール市
警に派遣されて来たんだ。そしてこの記事を書いたのは、誰あろうケ
マルだ」
「………」
「ケマルがお前をいつ認識したのかはわからん。だが奴はある時、お
前に気付いた。あるいはお前は、気付いた奴に脅されていたのかも
しれん」
「その通りです」
「!……やはり、そうだったか」
「お察しの通り、ケマルがイイギュンさんに電話していた時、私は隣に
いました。これ以上、私につきまとうのは止めてくれと。たしかに過去
にそういう場に居合わせたが、今は一生懸命に働いているんだ、私は
犯罪者じゃない」
「………」
「だが彼は容赦してくれない。イスタンブール市警の機密情報を渡せ、
としつこく言って来た」
「イスタンブール市警の、機密情報だと?」
「そうです。イスタンブール市警に根付く悪習の温床とも言える、悪徳警
官リストです」
「悪徳警官リストだと?そんなものは存在しない」
「いえ、存在します」
「聞いたことがないぞ、そんなリスト」
「そりゃそうだろ」
 急にハリムの口調が変わった。
「何しろ、イイギュンさん。あんたがその頭目だからね。それに、あんたは
知ってるはずはない」
「どういうことだ」
「私がイスタンブール市警にやって来たのは、さっきの理由だけじゃない。
イスタンブール市警に根付いている悪徳警官一掃の密命を受けてる」
「何だと!」
 今度はイイギュン警部が気色ばむ番だった。
「それにイイギュンさん、あなたもケマルとは一蓮托生の関係だ。あんたと
ケマルのつながりは、奇しくもここで起こった日本人ルポライター殺害事件
がきっかけだったはずだ」
「……」

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2008年12月15日 (月)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(8)

「彼女はルポライターとその同棲相手の二人の男を睡眠薬で殺害
した。被害者二人に共通点がない以上、個人的な感情や関係の
もつれとは思えない。だから誰かに依頼されたか誰かのために殺
人を行ったとも考えられる。そしてそれはおそらく…」
「それが誰だか想像ついてるんですか、イイギュンさん」
「海外では皆が言葉に不自由しないわけではない。それゆえ充分
に意思疎通できる相手、つまり潜在的に同じ国の異性を暗に求め
ている場合が比較的多い。だから彼女の知ってる日本人の誰か、
ではないかと。たとえばサカイとか、な。だがこれは確たる証拠が
あるわけじゃない、私の想像でしかないんだ。だが…」
「だが?…だが、何ですか」
「ケマルが殺された事件とは、全く原因が違う」
「イイギュンさん、話が飛びすぎてて、おっしゃっている意味が良く
わかりません」
「ハリム、どうしてケマルを殺した!」
 突然のイイギュン警部の言葉に、ハリム刑事は一瞬絶句した。
「…わ、私がですか?」
 イイギュン警部はじっと、ハリム刑事を見詰めたまま立っている。
「何を言い出すのかと思えば。悪い冗談はやめてくださいよ、イイ
ギュンさん」
「私は冗談でこんな事は言わんよ」
「………」
「お前はあの時、イスタンブール市警から鑑識連中と一緒にやって
来たんじゃない。ペラパレス・ホテルの前で合流しただけだ」
「………」
「イスタンブール市警から一緒にやって来てなかった事は、顔見知
りだった鑑識の連中に確認して裏が取れてる。それにホテルのフ
ロントマンにイスタンブール市警に連絡させた時、私の名前は彼に
まだ教えてはいなかったから、私の名前を出して通報したはずがな
いんだ」
「………」
「だがお前は私がいる事を知っていたな、それは私がホテルにいる
のを知っていたからだ。だからいかにもそれらしく、鑑識と同行して
きた理由にした。だが、どうしてアンカラから戻って来たばかりのは
ずのお前が、あのホテルに行ったんだ」
「………」
「それにお前はアンカラを、あの日の昼前の飛行機で出発してるな。
どうしてだ。どうしてそんなにイスタンブールに急いで帰ってこなくち
ゃいけなかったんだ」
「………」
「理由を言ってやろうか、ケマルに会うためだろう。ケマルもそのつも
りだったと考えるべきだ、それなら早い時間からチェックインしていた
理由が付く。時間的にケマルが私に電話をかけた時、私はてっきり
ギュナイドン新聞社の奴のデスクからだろうと思いこんでたが、あの
時すでに奴はホテルの部屋にいて、そこから私に電話をよこした。
さも新聞社にいるように見せかけてな」
「………」
 ハリム刑事は腕組みをして、黙ったままイイギュン警部を見つめて
いた。

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2008年12月13日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(7)

 その日、珍しくイイギュン警部は朝から夫人と口論になり、途中の
交通渋滞に苛立ちながら定時を少し遅れて出社した。昨夜判明し、
確信した事実がどうしても信じられず、どうしたものかと今も迷っても
いた。やがて彼は、ハリム刑事を誘って、日本人ルポライターが殺害
された現場におもむいた。これ以上避けては通れない、と覚悟を決め
たからでもあった。行きの車の中でも、運転するハリム刑事の世間話
にもろくに返事をせず、イイギュン警部はじっと目をつぶって腕組みし
たままだった。おのずと二人とも何もしゃべらなくなっていた。
 ゴミがあちこちに散乱し、一夜城とも言われるゲジェコンドが群集す
る山肌の斜面に立ちながら、二人は殺害現場だったとされる場所に
立った。しばらくは二人とも無言のままだったが、やがてイイギュン警
部の方が先に口を開いた。
「なあ、ハリム。あのルポライターを殺した奴は、どうしてこの場所を選
んだんだろう」
「さあ、何か特別な意味があるとは私には思えませんでした。ここなら
山の裏側にあたるので、発見されづらい場所だと思ったんじゃないん
ですか」
「だが実際にはゲジェコンドがあちこちにある。ジプシー達が犯人や遺
棄現場を見かけたとしても、ただちに警察に通報するとは思えないが、
人目につきにくい場所ではない」
「たしかに」
「だから主犯はトルコ人ではない、とも言える」
「え?」
「トルコ人なら多少なりとも地理状況ぐらいわかる。治安の程度もな。
ここはたしかに裏通りに当たるし治安も決して良くないが、人目がな
いわけじゃない。だがあまり事情に詳しくなければ、ここを選ぶかもし
れない」
「その日本人通訳の女性が主犯ということですか。同棲相手のトル
コ人男性ではなくて」
「たぶんな。そして彼女はこの向こう側によく来たことがあるんじゃな
いか。だから裏側のこのあたりの治安が悪いのを知っていた」
「この向こう側に何かありましたっけ」
 ハリム刑事は振り返って丘の上を仰ぎ見た。アンカラからやって来
た彼自身、日頃の多忙さもあり、たまの休みの日はほとんどベッドで
眠っていることが多く、イスタンブールの観光地のことはまだよく知ら
ない。休みの日に観光地巡りが出来るほど、彼はまだ偉くはない。
「ピエール・ロティのチャイハネがある」
 イイギュン警部は少し懐かしそうな表情で、そう言った。
「なるほど、裏側が治安の悪い場所だと知っていた、というわけです
か。だが実際に死体を運び込んでみると、ゲジェコンドが乱立してる
ので、思ったほど人目がない所ではない。だが今さら別の場所に運
ぶには目立ちすぎる。だからやむなくここに遺棄した」
「だがその同棲相手も、睡眠薬強盗の手口で後日殺されてる」
「それはその女が弱みを握られていたからじゃないんですか。だから
口封じで殺した」
「どんな弱みだ」
「共犯ですからね。それにここに来てる日本人の女は、皆だいたい金
を持ってる。今回のことで一生ゆすられ続けるのが心配だったとか」
「本当にそれだけだろうか」
「…と言いますと?」

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2008年12月10日 (水)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(6)

 彼女の中で、消そうとしても消えない酒井武司に対する疑惑が
膨らんできていた。おそらく川田良子と酒井武司は何らかの面識
があったのではないかと思えた。それもわざわざ酒井自身がイス
タンブール市警とやり取りするほどの関係…となれば、単なる顔
見知りのレベルではなく、特別な男と女の関係とみるのが自然だ。
 その関係が終わっていたのか続いていたのかは、彼女にはわ
からない。だがそのかつて愛し合っていただろう二人が、あるいは
川田良子が生きている間に、再びこの地で出会ったのかもしれな
い。そこで何かが起こったのか、今さらそれは彼女には知る由もな
い。だが酒井に後ろめたいところがないのなら、何もわざわざイス
タンブール市警と川田良子の死後も直接やり取りする必然性は少
ないと言える。何かしら酒井は、この川田良子殺害に関与していて、
捜査の進展や情報をそれとなく探っていたように思えた。
 時期的に考えれば、その時酒井武司の横には自分の前の女、
塚本美雪がいた可能性があるのだ。自分がもしも川田良子だった
ら、酒井武司とは会いたくないと思うだろうと彼女は考えた。たとえ
十年前の恋人であったとしても、冷静に現実を秤にかければ、いつ
までも若く気儘な人生を送れるわけでもない以上、今まで築き上げ
て来たそしてこれからの将来の生活基盤の方がずっと大切なはず
である。よしんば酒井との生活を選ぼうとしてみたところで、自分だ
けを一途に思い続けてくれていたのならいざ知らず、彼の横に自分
より若い魅力溢れた女がいる現実が許せるはずもない。

 では酒井武司の方はどう思うのか……これは彼女の想像でしか
ないのだが、おそらく彼の方は川田良子に会いたがると思えた。た
いていの場合、男の方がロマンチストだし、そのあたりの感情をい
つまでも女々しく持ち歩いていることが多いものだ。ではそこに何が
起こるか。たとえ彼女にそんな気が毛頭なかったとしても、その川
田良子の態度から、酒井は築き上げてきた今の自分の立場を危う
くされる可能性を、感じ取ったはずである。
『川田良子が死んで一番安心出来るのは、武司さんということね』
 思わず彼女はチャイグラスを落としそうになった。とんでもない発
想なのだが、今の彼女にそれは否定出来ないほどの説得力があ
った。川田良子は酒井の秘密を握っていた、そしてそれがばれる
ことを酒井が極端に恐れ、川田良子殺害を計画したとすれば、犯
行の動機は成立する。辻褄は全て合うのだ。
『じゃ、私が塚本美雪とすれば、出国する川田さんにわざわざその
事を言いに行くかしら。自分の恋人の秘密を、彼に匂わせるような
ことをする必要は……』
 しばらく思案した後、ある、と彼女は思った。酒井にその余りにも
突拍子もないことを何とか思いとどまって欲しいと心底願う女なら、
それほど酒井を愛しているのなら、そのことを彼にそれを断念させ
るきっかけにしたいと自分なら考える、と杉本弘美は思った。
『それほどまでに恐ろしいことを、あの人は考えていたんだろうか』
 その後日本で起こったレイン計画の顛末を彼女が知っていれば、
あるいはもっと早く真相に気付いていたかも知れない。日本で起こ
った原子力発電所の事故のことは、テレビニュースや新聞報道な
りで多少は知っていたが、遙かなこの地では所詮はその程度で、
さほど大きな扱いにはならなかったのだ。酒井武司が川田良子に
殺意を持った、と言う彼女の推測はたしかに正しい。だがそれは全
てではない。真の犯罪の全貌は、酒井武司しか知らないのだ。そし
て彼はすでに日本で数ヶ月前に逮捕され、一連の事件の真相を自
白していたのだが、杉本弘美がそれを知るはずもなかった。

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2008年12月 9日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(5)

 ゼブラと呼ばれていたその男に、半ば領事館から連れ去られる
ようにして、彼女は彼らのアジト、すなわち酒井領事の自宅に同
行させられ、そこで強制的に津田宛ての手紙を書かされたのだっ
た。拒否すればおそらく、そこに居る何人かの目つきの悪いトルコ
人の男達のおもちゃにされるだけだという恐怖心が彼女の脳裏を
よぎった。せめて津田と一緒にいる間は、彼女はきれいな身体で
いたかった。それが他愛もないことだとはわかっていても、そうあ
りたかったのだ。それゆえ、彼女は言われるままに手紙を書いた。
そしてその手紙を、その場に居たマユミと呼ばれていた女が、津
田の泊まっていたホテルに届ける手はずになっていた。
 彼女はその時初めて、自分と津田は常に遠くから見張られてい
たのだという事を知った。そして彼女が酒井の三番目の女である
という事実もだった。あとの二人は誰、と彼女がゼブラを睨みなが
ら言っても、彼は口を滑らせたことを隠すように薄笑いを浮かべた
ままで何も答えなかった。それくらいは察しが付くだろう、と意味
深な言い方をされただけだった。その時は彼女にはさっぱりわけ
がわからなかったが、ゼブラがギュルハネ公園で津田に言いか
けたあの瞬間に、本能的に悟ったのだ。

 津田の部屋が爆破された事を、彼女は二日後の新聞の片隅の
記事で知った。彼らの仕業に間違いない、とその時彼女は確信し
た。何故ならマユミが出掛ける際に、小さな菓子箱のような物を
異常なほど慎重に手提げ袋に入れていたのを、彼女自身が目撃
していたからだった。おそらくその中には、爆薬か何かが仕掛け
られていたのだろう、と彼女は思った。
 マユミと呼ばれていた女が津田の部屋にその爆薬を仕掛けるの
は、さほど難しいことではない。仲間が当日、津田と同じ階の部屋
にチェックインしていれば、訪ねて行くのも自然だし、見つからない
ように合鍵で侵入するのはたやすいはずである。彼らは恐らくその
手のプロの集団だろうと彼女は考えている。ただ、どうして酒井が
そんな人間達の仲間になっているのかは彼女にはわからなかった。
彼に尋ねてみたところで、正直に教えてくれるはずも無かった。
 彼女の書いた手紙に易々と呼び出された津田に、彼女は津田が
本当に自分を信じてくれていたのだと思った。同時に心底、津田に
すまないと思った。だから津田が銃で撃たれて夜の海に飛び込ん
だ時、彼女はゼブラにとっさに嘘を言ったのだった。その場所は決
して、さほど深い水深ではなかった。ただただ津田に助かってもら
いたい一心で、ゼブラが確認しに近付くことを諦めるように、わざと
そう言ったのだ。
 津田が生命を落としたのか、一命を取り留めたのかは彼女は知
らない。だがどちらにしても、二度と津田に顔向け出来ないことに
変わりはなかった。そしてあまりにも短かい期間であったにも拘わ
らず、印象深かった日々だったがゆえに、鮮烈に津田のことは彼女
の記憶に残っている。
『でも結局、川田良子殺害の犯人は特定できなかった』
 彼女はふと自分が犯人だったら、どうするだろうかと考えた。しば
らく考えていて、彼女の中に過去の或る記憶が突然よみがえって
来た。酒井武司が川田良子の事件のことで、警察と色々あって大
変だったと彼女に寝物語で洩らしていた事を思い出したのだった。
『たしか、そう言ってた。おかしいんじゃないのかしら、どうしてあの
事件のことで領事が直接、いちいち警察とやり取りをする必要があ
るの』

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2008年12月 7日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(4)

『結局、私はあの人を裏切ってしまった。こんなに今でも忘れられ
ないほど好きなのに。今まで出会ったどんな男よりずっと男らしく
って、いつも私を一人の人間として対等に扱ってくれた。本当に
優しい人だったのに、そんなあの人を私は……』
 短かったがこれまでの彼女の人生の中で一番充実していたあ
の夏の日々……自分が確実にその男の役に立っているという充
実感と、その裏に秘めた淡い恋心。自分の正体を知っても、なお
かつそれまでと変わらない態度で接してくれた男。そして銃声と
共にその男が夜の海に消えたあの瞬間を思い出すたび、彼女は
これまで幾度となく悪夢にうなされ続けて来た。
『津田さん、ごめんなさい。私は所詮、こんな女なのよ。貴方が言
ったように、私と貴方は偶然に出会ったんじゃなかったの。最初か
ら目的があって、私は言われるままに貴方に近付いて、貴方を見
張る役をしてたのよ。きっと貴方は気付いてたんでしょう……それ
が結局、あの二人が貴方を殺すことになるなんてわかってたら、
私は絶対にそんな事しなかったのに。どうして私達はこんな星の
巡り合わせに生まれて来てしまったの』
 涙で潤んだ目で彼女はじっと、三分の一ほどチャイの残ったグラ
スを見詰めながら、津田と出会った頃のことを考えていた。すでに
身も心もぼろぼろになっていた彼女は、あの頃真剣に帰国を考え
始めていたのだ。すでにそれまでのイスタンブールの日々は、彼
女が思い描いていた甘い理想を打ち砕き、海外の現実の厳しさは
容赦なく、日本でぬくぬくと育ってきた一人の女性に襲いかかって
いた。彼女に近付いて来る人間を誰も信じられなくなって、いつし
か心に大きな穴がポッカリと開いた状態で、彼女は目的を失った
まま、ほとんど惰性で生活していた。
 それまで自分のしてきたことがどういうことかはわかっていても、
迂闊にもいったん入り込んでしまった底無しの泥沼の世界から脱
出しようとしても、自分の意思では最早どうすることも出来なかっ
た。そしてそんな彼女が命じられたのが、津田に近付いて彼の来
トの目的を探り、同時に彼の行動を逐一報告することだったのだ。
必要であれば誘惑しろ、とまで言われていた。

 だが不思議と津田と話しているうちに、彼女は失われた何かを
彼との間に見出せたような気がしたのだ。それは彼女の中に残っ
ていた、最後の何かだったのかも知れない。津田といる時だけ昔
の自分が取り戻せているような、不思議な感情が彼女の中に芽
生えたのだった。バーダット通りで二人並んでシュミットをかじって
いたあの時、彼女はまるで恋人と一緒に居るような幸福感があっ
た。だがそんなささやかな彼女の幸福感を、たった一本の電話が
すべてぶち壊し、どうしようもない現実に引き戻したのだった。
 大事な日本からの客だからいつものように頼むと言われ、どうせ
自分を利用して誰かに恩を売るんだろうとは思ったが、今さら彼女
に断れる筈もなく、津田に聞かれないように気を付けて喋るのが
精一杯だった。そして津田に後を付けられ、彼にだけは決して知
られたくなかった秘密を知られてしまったのだ。
 津田が自分を抱いてくれたのは、ひょっとしたら彼の優しさだった
のかも知れない、と彼女は思った。たいていの男は自分と関係が
出来ると急になれなれしくなり、まるで彼女を自分の持ち物のよう
に扱いたがった。だが津田はそれらの男達とは違ったのだ。
 津田に頼まれたことを調べるなど、彼女には造作もなかった。ひ
と言尋ねれば、彼女に電話をかけて来た男が即座に調べてくれる
だろうと思っていた。そしてそのつもりで彼女は翌日、津田と別れ
て早速に領事館の方に向かったのだ。だが、そこにはその男と、
彼女が我が目を疑った男が居たのだ。その二人が同室しているな
ど、彼女は想像すら出来なかった。何故ならその二人は以前、彼
女の目の前で派手な取っ組み合いをしていたのだ。
 その瞬間、彼女は自分が落ちた罠を悟った。最初から彼らはグル
で、彼女をこの世界に引きずり込もうとしたのだった。その男……
領事館から紹介されたと偽って彼女のアパートを訪れ、彼女の所
持金を奪い凌辱されそうになった、あの目つきの鋭い冷酷そうな
日本人の男……本名は彼女は知らない。だが津田とその男があ
の夜、ギュルハネ公園で何やらニックネームらしき名前で呼び合
っていたところを見ると、彼らは今は敵対する立場にあるが過去に
おいては互いに知り合いだったと思えた。

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2008年12月 6日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(3)

 反射的に彼女は、「ちょっと待って」と言う代わりにトルコ人がよく
やるように、右手の人指し指を一本立てながら、小走りに折りしも
動き始めたそのバスに飛び乗った。さいわい私営バスだったので、
切符がなくても現金を払えば済む。彼女はバス代を支払うと、運転
席の横にいる助手に自分が行きたい場所を告げ、どこで降りれば
いいか教えてくれ、と尋ねた。
 大体はおぼろげながら覚えているのだが、イスタンブールに来て
まだ間が無い頃、友人に連れられて一度行ったきりだった事もあ
り、はっきりとそのバス停の名前を思い出せなかったからである。
助手は、トルコ人特有のにこやかな顔つきで「わかった」と短く言っ
ただけで、すぐ運転手と雑談の続きを始めた。
 金角湾沿いの道をバスはしばらく走っていたが、トプカプの表示
を過ぎてしばらく行った所にある大きな交差点を、バスは不意に左
に曲がった。エユップ・ジャミイの脇の小道をバスがくねくねと曲が
って行く。バス一台がやっと通れる程度の細い小道だった。駐車
場らしき場所でバスは方向転換をし、今来た道の方に戻って行こ
うとしている。
『たしか、バス停はこのあたりだったはずだけど……』
 一瞬、彼女は不安になった。助手の方を見ると、運転手と何やら
熱心に話し込んでいる。
『ほら、またこれだ。きっと、私が尋ねたこと、もう忘れてるんだわ』
 彼女は仕方なく、次のバス停で降りようと思った。やがてバスは
その細い道の途中の、バス停ではない所で止まり、間髪を入れず
前の乗降口が開いた。
『何かしら』
 どうせ運転手か誰かの知り合いの人間でも居たのでバスを停め
たのだろう、ぐらいにしか彼女は思わなかった。しかし助手は、手
招きをして、その彼女自身を呼んでいる。
『え?』
 彼女は招かれるままに、半信半疑で前の乗降口に向かった。
「ここですよ。ここの細い道を登っていけば着けますよ」
 運転手が説明してくれた。どうやら彼女のために、バス停ではな
い所で親切にも止まってくれたようだった。彼女は丁寧に礼を言う
と、バスから降りた。小さな目立たぬ看板が出ている。横には墓石
屋らしき小さな店があった。
『そう、……ここだったわ』
 長い石畳の上り坂を、ゆっくりと彼女は歩いて行った。
 初めてこの場所に来た時、こんな墓地のある小高い丘の、一体ど
こにピエール・ロティのチャイハネがあるのかと、訝しがったことを思
い出した。
 たしかにここは、観光ガイドに大々的に宣伝されているわけではな
いので、訪れる人間は地元の常連が多く、観光客然とした人間にし
ても大半はヨーロッパ人に限られているようである。そのせいかマナ
ーを心得ている人間ばかりで、むやみに団体で押しかけて騒いだり
するどこかの国の観光客とは比べものにならない。

 丘を一つ越えた所にあるそこは、決して大勢の人間で賑わってい
るわけではないが、寂れた雰囲気の中にも、相変わらずの落ち着い
た静かな風情が支配していた。彼女は見晴らしの良い席に腰を下ろ
した。やがてトルコの民族衣装を着たボーイが、注文を取りにゆっくり
と近付いて来た。
「お茶を、ひとつ。うんと、濃くしてくれる」
 流暢なトルコ語で、彼女はそう言った。ボーイは頷くと、近付いて来
た時と同じように、ゆっくりと去って行った。かじかんだ手を吐く息で暖
めながら、彼女は目の前の景色を眺めていた。金角湾が大きく左に蛇
行して、目の前に大きな浅瀬がある。金角湾沿いの道を通る車が、思
ったより小さく見えた。比較的近くには『E-五』の、空港やエディルネ
の方に通じる橋が見える。その向こうの左岸には軍の造船所が見え、
ガラタ塔がさらに遠くに、冬独特の灰色っぽいイスタンブールの淀んだ
空気の中にぽつんとその姿を見せている。
『ここで、夕焼けを見てみたかったな。きっと綺麗だろうな』
 やがて運ばれてきた小さなグラスに入った紅茶を飲みながら、彼女は
ふっとそう思った。時折イスタンブールが見せる夕焼けの素晴らしさには、
筆舌に尽くしがたいものがある。彼女とて、本当に美しい夕焼けは、これ
まででもわずか一度しか見たことがない。雲のほとんど無い大空がオレ
ンジ色からディープ・パープルに染まり始め、ジャミイのシルエットがその
中に浮かび上がる。ほんの僅かな時間の出来事に過ぎないのだが、初
めてそれに出会った時、彼女は思わず立ち尽くして、呆然としたまま、し
ばらくの間じっと見とれてしまったほどだった。日本人観光客ではないが、
その時だけは流石にカメラを持っていなかったことを心底悔やんだもので
ある。
 両手でそのグラスを握り締めて暖を取るようにしながら、鼻先でトルコ特
有の苦味の効いた紅茶の香りをかいだ。思いの外、ここへ来るのに手間
取ってしまっていた。先程まで持て余していたはずの時間が、今度はあっ
という間に過ぎて行く。
『私のこと、きっと恨んでるだろうなあ』
 心を痛めた数ヶ月前の夏の日のある出来事を、彼女は思い出していた。

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2008年12月 4日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(2)

『貴方はこれからもずっと、イスタンブールが変わっていくのを、ここ
でじっと見守るしかないのね。貴方の周りにはもう、かつての仲間
は誰も居なくなっているのに。こんなにも変貌してしまったイスタン
ブールを、貴方はどんな気持ちで見詰めているのかしら。きっと、
辛く悲しいんでしょうね、だってここはもう、貴方の知ってるイスタン
ブールではなくなってしまったものね。
 目の前のあのガラタ橋も、もう少しの生命ですもの。古き良きイス
タンブールの夢が、少しずつ無くなっていく。でも、誰もそれを止め
ようとしない。これが時代の流れって言うものなの?だとしたら、あ
まりにも切なすぎる。でもたとえ独りぼっちになっても、貴方は、貴
方だけは……』
 潤んだ目で彼女は、ガラタ橋のすぐ横に平行して作られた新ガラ
タ橋を見た。
『何のために人は破壊を繰り返すの。自分達の行為の愚かさにす
ら気付かずに。その結果残されるものは、たった一時の虚しい満足
感でしかないのに』
 冬の北風が、彼女の襟元の暖かさを奪うように、周りを吹き抜けて
いった。
『ごめんね……もう、行くわ。貴方にはこれまで何度励まされたこと
か。でも、これが最後よ。貴方無しでも、私は立派に生きていく。見
ててね』
 彼女はガラタ塔の中に入った。夜になると、ここでは連日観光客相
手のナイトショーが繰り広げられるのだ。有名なべリーダンサーのトラ
イ・カラジャが出演することでも知られている。夜のイスタンブールの
象徴的な、ケルバンサライと並ぶ双璧の一つでもあり、そして観光名
所でもある。誰も居ないステージを横目で見ながら、彼女は再び螺旋
階段を降りた後、エレベーターで一階へと向かった。出入り口のドア
を通り、再び屋外に出た時、彼女は最後にもう一度、ガラタ塔を仰ぎ
見た。灰茶色に薄汚れたその塔は、大空の大部分を占めて、眩しい
くらいに彼女の目に飛び込んで来た。
「さよなら、私のガラタ塔……」
 彼女は小さく囁きかけるように呟いた。もう二度とこの思い出の場所
に来ることは無いはずだった。何もかもが、あの頃と変わっていない。

 彼女は再び娼婦坂を降り、カラキョイに出た。活気とも喧騒とも言え
ぬ、彼女が以前感じたままの、イスタンブールの飾らない現実の姿が
そこにある。時の流れで変わったのは彼女の方だった。
 久し振りにガラタ橋の下の、店の有る方を通ってみようと彼女は思っ
た。ギシギシと小さな音をさせ、その浮き橋は微かに揺れている。目
ざとく彼女を日本人の観光客と見たレストランの呼び込みの男達が、
日本語の魚の名前を羅列し、「どうぞ」とか「いらっしゃい」と言いなが
ら、迷惑なくらいに行く手に何人も群がってくる。最初は無視して歩い
ていたが、流石にそのしつこさに辟易した彼女は、
「悪いけど、静かにしてくれない。私は観光客とは違うの」
 と流暢なトルコ語で、少し大きめの声で言った。呼び込みの男達は
びっくりしたような顔になり、塞いでいた前の道を開けた。橋の上では、
幾人もの釣り人が派手に釣糸を垂れている。それはいつもの見慣れ
た光景だった。

 時計を見ると、まだ少々出発までには時間的に余裕があった。当て
もなく彼女は、バスターミナルの近くにある地下道を通って、道の反対
側のイェニ・ジャミイの前に出ると、雑踏の中をゆっくりとムスル・バザ
ールの方へ歩いた。香辛料の強烈な臭いが鼻を突き始める。時間潰
しにしばらく中をぶらぶらした後、ムスル・バザールから抜け出た彼女
は、アタチュルク橋の方向に歩き始めた。右手の新市街側には先程の
ガラタ塔が後方に見えている。
 しばらく行くと、こじんまりしたバスターミナルがあり、やがて九十九
番の循環バスの表示が彼女の目に入った。行き先はエユップと表示
されている。
『そうだ、あそこへ……』

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2008年12月 2日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(1)

 彼女はカドキョイからエミニュヌ行きの、バプール(汽船)のデッキ
に佇んでいた。アジア側の鉄道の始発駅として知られる、ハイデル
パシャの駅の建物が、目の前をゆっくりと右に流れて行く。冷たい
冬の風に乱される髪の毛を手で押さえようともせず、彼女はじっと
立ち尽くしていた。それに呼応するかのように、相変わらず手前の
防波堤の上では、おびただしい数の海鳥が羽根を休めながらじっと
こちらを眺めている。
 握り締めた手の中に彼女のイニシャルの彫られた、少しくすんだ
色の使い込まれた銀のキーホルダーがあった。この地に来て初め
て迎えた誕生日に、彼女の友人がプレゼントしてくれた想い出の品
だった。だがその友人も今はこの地にはいない。
『結局、あの人が一番、私のことをわかろうとしてくれた』
 今はもう、遠い昔の煌めく思い出の一つになってしまった、束の間
の一人の男との出来事を、彼女はそのキーホルダーを眺めながら思
い巡らせていた。
『優しすぎたのね、あの人は……』
 目の前には、荷揚げされたコンテナが山積みの税関の建物が見え
る。その背後の小高い丘の上には、あまり一般には知られていない
が、思想犯のみを収鑑する刑務所があるのだ。やがてアジア側の長
距離バスターミナルであるハレムが見えてきた。バス会社の名前や
トルコ国内の色々な地名の書かれた看板が掲げられているのが微か
に見え、大型観光バスがその前に何台か停車している。まるでそれ
を覆い隠すように、折しも今しがたエミニュルから到着したばかりと思
われるカーフェリーが見え、人の波や車が動いている。
 彼女はキーホルダーをもう一度見た。裏側にはイスタンブール市の
マークが浅く彫られている。ぎゅっとそれを握り締めながら、彼女はし
ばらくの間、じっと目を閉じた。三年間に彼女がこの地で経験した色々
な出来事が、次々に頭の中に浮かんでは消えて行く。
『イスタンブールの、夢……そう、そうだったのよね』
 やがて彼女は目を開けると、唇をギュッと噛みしめ、思いっきりそれ
をクズ・クレシ(娘の塔)めがけて投げた。太陽の光の中で、それはキ
ラキラと輝きながら、遠い波間に消えた。不思議と涙は出て来なかっ
た。以前の自分なら、きっとこんな時には泣き出していただろう、と思
えた。そんな自分自身に逞しさすら感じられた。いつの間にか、幾多
の経験を経て、彼女は人間的にも成長していたのかも知れない。
 小さく溜息を付き、ふと後ろを振り返ると、そこにはイスタンブールの
三大観光名所である、通称ブルーモスクと言われるスルタンアホメッ
ト・ジャミイ、アヤ・ソフィア、そしてトプカプ宮殿が控えている。もう冬だ
というのに、手前の海岸縁のギュルハネ公園のベンチには、相変わら
ず熱々のアベック達の姿が見えている。

 やがて汽船は大きくガラタ橋の横で左に旋回すると、エミニュヌに到
着した。彼女はガラタ橋を渡りきると地下道をくぐり、急な娼婦坂を登っ
て行った。その先には、彼女がかつて独りの寂しさに辛くなった時によ
く行った、ガラタ塔がそびえている。
 入り口で入場券を買い求め、相変わらず動作の遅いエレベーターで
屋上階まで上がる。そこから螺旋階段のステップの狭さに注意しなが
ら、二階分上がると本当の最上階がある。彼女は屋外に出た。周りが
展望できるその場所で、彼女はじっと、つい先程まで自分が居たアジ
ア側を見詰めていた。
 左の方に、ボスポラスの第一大橋が灰色の淀んだ空気の中でぼん
やりと見えた。そのすぐ右にはチャムルジャの丘の巨大なテレビ塔が
見える。トプカプ宮殿から右の方に目を転じれば、何事もなかったかの
ように六本のミナレットの立つスルタン・アホメット・ジャミイ、そして殺戮
の過去を持つ赤茶色のアヤソフィアも見える。眼前の金角湾では、黒い
煙を吐きながらバプールが、相変わらず忙しそうに行き来していた。

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