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2008年10月29日 (水)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(8)

 イイギュン警部が驚いたように言った。まさしく最新のテクノロジー
にも対応出来る凄腕の刑事である。イイギュン警部が逆立ちしても
到底かなうはずもなかった。
「これはウィンドウズ3.0って奴です。このマイクロソフトのOSのおか
げで、やっとパソコンが使いやすくなってきました。欲を言うとユーザ
ーインターフェイスの使い勝手が、いまひとつなんですけどね」
 イイギュン警部には意味不明な言葉を並べながら、ハリム刑事は
パソコンの画面を食い入るように見つめながら、何やらキーボードで
操作をし始めた。
「起動時のパスワードはかけていないですね、助かりました」
 独り言のように誰に言うともなくつぶやきながら、ハリムは五インチ
ディスクに記録されているファイルのタイトル名を順に見ていった。
「これは…」
「何だ、どうした」
「ケマル記者が調査してたと思われる資料が、見事に整理されて入
ってます」
「奴の持ってた情報が、全部ここにあるのか」
 感心したようにイイギュン警部が言った。
『えらく便利な物が使える時代になったもんだ。じゃあ奴は資料を持
ち歩くのをやめて、これに切り替えたってことか。例の事件の内容も
これで詳しくわかるな、助かった』
 しかしその甘い期待は、ハリムの次の言葉で打ち砕かれた。
「駄目だ、全部パスワードがかかってる。ファイルの中身が開けない」
「何とかならんのか、ハリム」
「私はハッカーじゃないんで…」
「何だ、ハッカーって」
「パソコンに関する知識があって、ソフト的にも詳しくて、要は他人の
秘密をのぞき見するのが好きな連中ですよ。パスワードって言うのは
一種の鍵ですから、その鍵を見つけ出して開けるのが得意な奴とか、
人によって色々得意分野が違うみたいですけど」
「そうか、お前でも無理なのか」
「時間をかければ、何とかなるかもしれませんが。専門の人間に任せ
るべきでしょうね」
「誰か心当たりはいるのか」
「いえ。アンカラの警察省に応援を要請するのが、いちばん時間的に
も早いです」
「時間をかければ何とかなるかも、って言うのは?」
「要はパスワードっていうのは、何かしらの本人が覚えやすい数字や
記号の羅列にしか過ぎないんです。だから何かのヒントで、それが推
測出来れば…」
「このファイルを開いて、中身が見られるってわけか」
「はい、そうです。よくあるのは本人の名前、電話番号、誕生日、出身
地とかですが」
「それじゃ駄目だった、ってことか」
「はい、ケマル記者に関する個人データはある程度調べてきました。
今、その中で関係ありそうな言葉を幾つか試してみましたが、どれも
違いました」
「他に何か、キーワードがあるっていうわけか」
「彼個人に関する内容ではないかもしれません」
「どういうことだ」
「彼の知っている何かに関することではないでしょうか。だから我々に
は容易には推測することが出来ない、でも本人は良く知っている。ま
あ本来パスワードっていうのはそういうものですが。たとえば…」
 そう言うとハリム刑事は、デスクの上の写真立てを指差した。
「その娘さんの名前とか、ね。ただ心配なのは」
「何だ、なにかあるのか」
「ファイルごとにパスワードを違えてあると一番厄介です。普通は同じ
場合が多いんですが、機密性を考えてよほどの内容であれば、それ
とは別のさらに違うものにします。そういうソフトも実際に開発されて
いるようですから」
「面倒なんだな、パソコンとやらは。いちいちそんな事をしなきゃなら
んとは」
「いえ、普通に使うのなら、そこまで神経使う必要はないですよ。内
容が内容なので、万が一を考えて用心していたんでしょう」
「不幸にも、その心配が的中したってわけか」
「まあ、そういうことになります。あと、もう一つ」
「まだ何かあるのか」
「もし外部と頻繁につないで何か情報収集をしているのなら、ウィル
ス感染しているかも」
「ウィルス感染?パソコンが病気にでもなるのか」
「まあ、そう言えるかもしれませんね。パソコンの中のデータを破壊
する、一種の病原菌みたいなものが存在するんですよ」
「それは防ぎようがないのか」
「ウィルス対策ソフトっていうものがあって、それが最新版になってい
れば、できる限りの防御策は打っていることになります。しかしこの
パソコンの中には、それらしきものはないです」
「そのウィルスとやらに感染しているかどうか、わかるのか」
「わざと変な挙動をさせて自分をアピールするウィルスもありますが、
それ以外だとそのウィルス対策ソフトを走らせてチェックしない限り、
持ち主にはわからないでしょうね」
「えらく厄介なんだな、パソコンというのは」
「ええ、まあ。いずれにせよこの様子では、一筋縄ではいかないでし
ょうね」
 ケマル記者の自宅ではパソコン以外に、特にこれといっためぼしい
収穫はなかった。イスタンブール市警ではギュナイドン紙に連絡を取
り、ケマル記者の家族の住所や名前の情報を得て、その訃報を彼ら
に伝えた。ケマル記者の妻が幼い娘を連れて、遙か黒海地方の東に
位置するトラブゾンから、長距離バスでイスタンブールにやって来たの
は、その翌々日のことだった。変わり果てた夫の姿に、取り乱した妻
が泣き続けながらその名前を叫んでいたのが、同席したハリム刑事
には痛々しかった。

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2008年10月27日 (月)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(7)

「どうした」
「いや、直接は関係ないんでしょうけど」
「何か気になることがあるのか」
「連続警官殺しの犯人、まだ捕まっていませんよね」
「ああ、例のやつか」
 主担当ではないとは言え、イイギュン警部もその事件のことは
ずっと気になっていた。イスタンブール市警の警官が、この半年
で五名殺害されているのだ。手口は様々だが、共通しているの
は現場に必ず赤い薔薇が残されていることだった。それゆえ連
続犯の犯行と断定されてはいるが、その後の捜査は進展して
いない。五名中三名はイイギュン警部も多少は顔や名前を知っ
ている人間だった。
「それがこの事件と、どう関係するんだ」
「こういう言い方は殉職した人たちに失礼になるかも知れません
が、少なくとも彼らは善良な警官とは言えない人たちでした。地
元のマフィアがらみの連中とつるんで店から金を巻き上げてたり、
捜査情報を漏らして麻薬密売人と手を組んでいたり。だからと言
って短絡的に彼らを殺してしまうのは、全く別次元の話ですけど
…。しかし彼らの動向を、犯人がどうやって知って予測出来たの
かを考えた時に、ここの内部の人間に共犯者がいるのなら」
「動向がつかめるから、行き先や行動も読めるってわけか」
「はい。可能性の話にしかすぎないので、根拠があるわけじゃな
いですが」
「まあ、たしかに一理はあるな」
 それはそれとして、イイギュン警部には昨夜から気になっている
事があった。
『ケマルが持っていた資料も全部、犯人に持ち去られたと見るべ
きなんだろうな』
 ケマル記者はまめな性格で、イイギュン警部が知っている限りに
おいては、常に色々な資料をヴァッコ製の茶色い革製の鞄に入れ
て肌身離さず持ち歩いていたはずなので、それが現場で発見され
ていないのが気になっていた。その中には、ルポライター殺害事件
とカワダ夫人の事件に関する内容も当然含まれていただろうし、そ
れ以外にイイギュン警部が知りたかった事もおそらく含まれていた
はずである。今日は午後一で、ギュナイドン紙に問い合わせたケマ
ル記者の住居の、家宅捜索を行う手はずになっていた。
「何か手がかりがあればいいんだが…」

 家宅捜索で向かった先は、イスタンブールの中でも高級住宅街の
一つとして知られるシシリー地区だった。場所的にはタキシム広場
から北に三キロほどである。ケマル記者の住んでいたマンションの
大家にはあらかた事情を話し、あらかじめ合鍵を用意してもらってい
た。だが二つある鍵のうちの一つは、大家の持っていた合鍵では開
かなかった。
『やっぱりな…』
 用心深いケマル記者のことだからと、万一を考えてイイギュン警
部が持って来ておいた、所持品のセカンドバッグに入っていた鍵が
役に立った。鍵を挿したままの状態で、それを蝶番側にひねりなが
ら押すと、ガチリと小さな音をたててドアが開いた。
 部屋の内装自体はかなり豪華だが、内部はどちらかというと質素
で、男一人住まいにしては片付いていた。部屋としては寝室とリビ
ング、それにキッチンとバストイレが付いているだけだが、それでも
上流階級の暮らしの部類になる。てっきり独身だとばかり思ってい
たので、寝室のデスク上に家族三人の仲睦まじい写真が飾ってあ
るのが、イイギュン警部には意外だった。
 寝室のベッド横の机の上には、正面にモニターディスプレイが置
いてあり、その右側にデスクトップ型のパソコンが鎮座していた。
身近にパソコンをしげしげと見るのは、イイギュン警部には初めて
だった。まだまだ普及が始まったばかりなので、かなり高価なもの
であるぐらいの知識しか持ち合わせていない。起動したパソコンの
ディスプレイ上の画面を見ながら、横でハリムが言う。
「アンカラでの研修が役に立つかもしれません」
「わかるのか、ハリム」

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2008年10月26日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(6)

 翌朝イイギュン警部が普段より少し早めに出勤すると、ハリム
刑事がにこやかな顔をデスクからのぞかせて出迎えた。
「お、早いじゃないか」
「昨日までの研修報告書をまとめてたんです。イイギュンさん経
由で今日提出するように言われてたのを思い出したものですから」
「ふうん、そうなのか」
 チャイジュが注文を取りに来たので、ハリム刑事はチャイを二個
頼んだ。チャイジュとは、トルコで紅茶の出前配達をする男性のこ
とをさす。
「ひとつは薄くな」
 トルコでは習慣的に紅茶、トルコ語ではチャイと呼ばれる、が頻
繁に飲まれる。火にかけられた二段重ねのやかんがそれ用の道
具である。上側のやかんには三分の一ぐらいに大量に入れられ
た紅茶の葉が、下のやかんにはお湯が入れられていて、下側の
お湯が沸騰した後に上側のやかんに熱湯を注ぎこみ、かなり濃い
紅茶の原液が出来あがる。実際には小さな独特の形をしたチャイ
グラスに注ぐ際に、紅茶の原液の量を調整して下側のお湯で割る
形になるので、濃度を好みのものにできるわけであるが、おおむね
日本人にとっては濃い目に感じる場合が多い。チャイグラス自体は
さほど大きくはないので、少量を一日何度も頻繁に飲むことになる。
さらに小さな受け皿のそのチャイグラスの脇には、小さなスプーンの
上に角砂糖がだいたい二個、置かれている場合が多い。もちろん
甘さも好みなので、自分で好きな量入れればいいのだが、習慣に
なるとかなりの糖分摂取になる。
 トルコではいたるところ街中に、チャイハネと呼ばれる紅茶の仕出
し店がある。さしずめ日本で言うところの喫茶店のようなものだが、
日本のようにカップルがいるわけではない。暇そうにたむろしている
のは、全てひげを生やした男連中ばかりである。またそれぞれの店
は担当エリアを持っていて、複数いるチャイジュがそのエリア内の
電話注文に常に対応し、出前がすぐ出来るようになっている。また
通常に市中で飲まれるチャイにはコーヒーのように銘柄が特にある
わけではない。チャイはチャイなのだ。それとは別に、エルマ・チャイ
と呼ばれるアップルティーも結構人気がある。

 やがてイスタンブール市警専属の店から先ほどのチャイジュが、
取っ手付きのトレーいっぱいに並んだチャイを置き、順番に配り始め
た。ハリム刑事は、丸く青いプラスチックのおもちゃのコインのような
ものを、そのトレーに二個乗せた。頻繁に飲むので、皆あらかじめま
とめて先払いで払っておくのだ。その証しが、そのおもちゃのような
コインなのである。
 薄めのチャイを自分用に取った後、イイギュン警部の机の上にもう
一つのチャイを置きながら、ハリム刑事はイイギュン警部が机の上
の専用電話の受話器の部分を外そうとしているのを見て、声をかけた。
「朝っぱらから、いったい何を始めるつもりですか、イイギュンさん」
「ああ、これか。気にせんでくれ、ちょっと確認したいことがあってな」
「電話、調子悪いんですか」
「そうじゃないんだ」
 受話器の部分のプラスチック製のカバーは、ねじ込み式になってい
る構造なので容易に分解したものの、それ以上はじっと受話器の内
部を横から斜めに覗き込むだけだった。下手にシロウトが力任せに
分解するととんでもないことになるのが目に見えているので、イイギ
ュン警部はまるで子供が様子を見ている状態にしかすぎなかった。
「どんな具合なんですか、私が見ましょうか」
 イイギュン警部が機械オンチなのを知っているハリムが、見かねて
横から声をかけた。
「ああ、助かる。その方がいいかもしれん。これって、こんなもんなのか」
「はあ?おっしゃってる意味がよくわかりませんが」
「受話器の内部に、何か不審な物は見当たらないか」
「不審な物、ですか」
 そう言われて、ハリムは入念に色々な角度から、外された受話器
の送話部分を覗き込んだ。
「特におかしいところはないように見えますが…」
「そうか」
「内部に不審な物ということは、盗聴器か何かが入っているんじゃな
いかということですか」
「そう思ったんだが、考えすぎだったようだ」
「昨日の件ですか」
「ああ、あまりにもケマルが殺されたタイミングが良すぎる。私はこの
電話で奴と喋ってるんだ、その内容を犯人に聞かれた可能性がある」
「だとすると、必ずしも盗聴器はこことは限りませんよ」
「他にも可能性のある場所があるのか」
「結構たくさんあります。この電話は専用回線ですから」
「例えば?」
「たとえば、この市警の電話回線ボックスの中で、イイギュンさんの回
線がモニター出来るようになってるとか、手が込んでればそこから電波
で他の場所に飛ばすことだって可能だと思いますよ。専門の業者に回
線ボックスを調べてもらえば、すぐにわかるでしょうけど」
「犯人はそんなに馬鹿じゃないってことか」
「イスタンブール市警のこの建物の中に、昨日の事件の犯人か共犯者
がいるってことですか」
「思いたくはないが、そうじゃないかと考えてる」
「内部に手引き者、ですか…」
 ハリム刑事は何事か、思案していた。

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2008年10月24日 (金)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(5)

 すぐにイスタンブール市警から鑑識含め警官が数人やって
来た。イイギュン警部はその中に、ハリム刑事の姿があるこ
とに気付き、少々驚いた。まだアンカラにいるものだとばかり
思っていたのだ。
「ハリム、お前いつ戻って来たんだ」
「ついさっきです。アンカラから戻って来て署の方に顔を出した
ところに、変死の通報ですからね。イイギュンさんもいるとなれ
ば、馳せ参じるのは当たり前です。それに水臭いじゃないです
か、言ってくれれば、退屈な研修なんてすっぽかして飛んで来
たのに」
「悪かった。年寄りのボケた推測に、お前をつき合わせるのも
申し訳なかったんでな」
「で、何か進展でもありましたか」
「その矢先に、このありさまだ」
「なるほど」
 所持品が注意深くテーブルの上に並べられたが、特にそれら
しい資料の類は見当たらない。イイギュン警部は手袋をした手
で、慎重にケマル記者の手帳をめくっていった。走り書きが並
び、お世辞にも達筆とは言えない独特の文字が躍っていた。
「死亡推定時刻は…」
 ハリム刑事が横にきて、手帳を用心深く眺めていたイイギュン
警部に小声で言った。
「先ほど、つまり夜十時前後と思われます。飲み物は今、念の
ため化学鑑識班の方に回しました」
「死因は、何だ」
「まだわかりませんが、外傷はないようです。薬物中毒の可能
性があるようです」
「自殺だとでも言うのか」
「いえ、それは何とも。イイギュンさんと会う約束してたんですか
ら、自殺するとは思えませんが」
「じゃあ…」
「睡眠薬強盗じゃないでしょうか」
「バカな、こんなホテルの宿泊先の部屋で、睡眠薬強盗に遭うと
でも言うのか」
「いずれにせよ犯人は顔見知り、ってことになりますね。ドアチェ
ーンが掛かっていなかったところを見ると、自身の意思でドアを開
けて迎え入れたことになります。全く知らない相手を迎え入れると
は思えません」
「それは相手が男であれば、の話だろう」
 イイギュン警部の言葉に、ハリム刑事は意外な顔をした。
「相手は女だと?」
「可能性として、だ。犯人が男という先入観を持つのは危険すぎる」
「なるほど、たしかに。私も犯人がてっきり男だと思いこんで話して
いました。さすがですね」
 この時、すでにイイギュン警部はある仮説を持っていた。だがそれ
には確認すべきことがある。彼はハリムにその場を任せると、部屋
からいったん出た。ドアのすぐ横にいた警官の一人に何事かを小声
でたずね、次にフロントに向かった。ケマル記者のチェックインの時
間を確認したかったのだ。
「何だって、夕方の六時頃にはチェックインしてたというのか」
「はい、間違いございません」
「部屋の電話の通話記録を見せてほしい」
「承知いたしました」
 通話記録からは、部屋からかけたものは夜九時前のギュナイドン
新聞本社あてとイスタンブール市警あての二通、外線からかかって
きたのは夜九時過ぎの一通のみであることがわかった。かかって来
た電話のことを尋ねても、公衆電話からの若い男の声だったことしか
オペレーターは覚えておらず、モニタリングはしていなかった。タイミ
ング的にはちょうど、イイギュン警部がケマル記者との電話を終えた
頃にあたる。
『まさか、そんな馬鹿なことが…』
 最初は半信半疑だったが、だんだんとそれは確信に変わってきつ
つあった。
『我々の会話が盗聴されていた、としか考えられん』
 ケマル記者が宿泊する予定の部屋はチェックイン寸前まで予測でき
ないので、犯人がその部屋に何らかの仕掛けを事前にしておける可
能性は無いと言ってよい。彼らの会話が犯人に盗聴され、二人を会
わせまいとする犯人によってケマル記者が殺害された可能性が高い
となると、問題はもう一方のイイギュン警部側から漏れたと考える方
がごく自然である。
『俺のデスク電話での会話が、誰かに盗聴されているのか』
 偶然で起こった事件でないことは、イイギュン警部が一番良く知って
いる以上、たしかにそう考えるのが自然だった。
「考えすぎなのかもしれんが。まあいい、明日の朝にでも確認してみる
さ」
 ロビーの横でたばこを吸っているイイギュン警部の姿を見つけ、現場
検証を終えたハリム刑事が片手を上げてやってくるのを見ながら、イイ
ギュン警部はつぶやくようにそう独り言を言った。

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2008年10月22日 (水)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(4)

 ペラパラスホテルは、タキシムからほど近いオスマンベイにあ
る、一八九一年にオープンした歴史と格式を持つホテルだった。
昔、オリエント急行がイスタンブール発だった頃、かのアガサ・ク
リスティが「オリエント急行殺人事件」をこのホテルの四一一号
室で書いたことでも有名な所である。他にもトルコ共和国の建国
の父と言われるケマル・アタチュルクが実際に滞在したりして、
ある意味観光地化している場所でもある。
 約束の時間よりも少し早めに到着したイイギュン警部は、ロビ
ーで一服しながらあたりを見回した。観光客だけではなくトルコ
人の顔も見えるが、皆の表情は明るく、笑顔が目に付くのどか
な光景だった。自分が直面している今の状況が、その場にはそ
ぐわないあまりにも異質なものに思えてくる。
『俺も決して清廉潔白な警官の部類ではないだろうとは思うが、
さりとてそこまで悪に手を染めているわけじゃない』
 そう言い訳がましく思い、ため息をひとつ付くとタバコをもみ消し、
イイギュン警部はソファから立ち上がってフロントの方に向かった。

 トルコでは身分証明書を常に持ち歩かなくてはならないので、
日本などのように偽名でホテルに宿泊はできない。フロントでケ
マル記者の名前を言うと、部屋番号をいとも簡単に教えてくれた。
ケマル記者が入ってくる姿が確認できなかったので、自分よりも
早く到着してチェックインしたようだった。
 名物にもなっている、木造のアンティークな手動式エレベーター
に乗り込むと、イイギュン警部はケマル記者が宿泊している三一
一号室へと向かった。ぺラパレスホテルでは部屋の鍵も、昨今流
行りのカードキーではなく、いわゆる錠前タイプだった。ヨーロッパ
仕様の大きく重い扉が目の前に立ち、ドアを軽く二度ノックする。
内部で人の気配がした気がするが、反応がなかった。イイギュン
警部はもう一度、今度は荒々しくノックした。だがやはり何の返事
もない。
『おかしいな、フロントに鍵はなかったし、部屋にいるはずだが…』
 少し嫌な予感がしたが、あまり乱暴な事をするわけにはいかな
い。現に何人かの宿泊客が談笑しながら、時々イイギュン警部の
後ろを通って行く。しばらく様子を見ていたが、何も変化はなかっ
た。イイギュン警部はもう一度ドアをノックしながら、今度は大きめ
の声で言った。
「ケマル、私だ」
 だが内部からは何の反応もないままだった。胸騒ぎを感じたイイ
ギュン警部は、急ぎフロントに取って返して身分を明かし、フロント
からケマル記者の部屋に電話を入れてもらった。だがやはり無反
応であったことから、合鍵を用意させて、ホテルの人間とともに再
度、ケマル記者の泊まっている部屋の前に立った。あらためて部
屋のドアをノックするが、やはり何の反応もない。目で合図すると、
ホテルのフロントマンが合鍵をドアのカギ穴に入れ、ガチャガチャと
やり始めた。少しすると、ガチリと鍵の開く音がし、ドアが開いた。
「ケマル」
 そう言いながら部屋に踏み込んだイイギュン警部の視界に、ベッ
ドの上に横たわって息絶えているケマル記者の姿が飛び込んでき
た。口から泡のようなものを吹いている。
「何てことだ…」
 背後でうろたえているホテルマンに警察への通報を促したイイギ
ュン警部は、あたりを注意深く見渡しながら、その部屋の中央に立
った。ケマル記者の持ち物を探したが、小さなセカンドバッグのみ
が机の上に置かれているだけで、他には何もないようだった。
『持ち物はたったこれだけか、いつも持ち歩いてた奴の鞄がないじ
ゃないか』
 呆然とイイギュン警部はその場に立ちつくした。これから自分と
会おうと約束している人間が、自殺するなど絶対にあり得ないし、
特に持病があるわけではないケマルが、こんな形で突然死するな
どありえなかった。脇のサイドテーブルの上に、飲みかけのイェニ・
ラク(トルコの蒸留酒)が置いてある。グラスの中は乳白色の、ライ
オンのミルクと称される、水割り状態になっている。アニス(ういき
ょう)の独特の香りが、その部屋じゅうに漂っていた。
『まさかと思うが、例の睡眠薬強盗の手口じゃないだろうな』
 つかみかけた真実の端がまた見えなくなってしまったような、虚
脱感いっぱいの感覚にイイギュン警部は陥っていた。

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2008年10月21日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(3)

「ギュナイドン紙のケマルです、電話もらったそうで」
「ああ、待ってたぞ。ちょっと教えてほしい事があるんだがな」
「何です」
「以前に、睡眠薬強盗事件の裏に売春組織がからんでいるら
しい、と言ってたことがあったろう」
「ええ」
「それはどこからの情報だ」
「ニュースソースを言えるわけないでしょう、イイギュンさん。
勘弁して下さい」
「いつ頃、その情報を得たんだ」
「えらく熱心ですね、何かありましたか」
「そんなに最近の情報じゃないんじゃないかと思ってな」
「ほう、さすがですねえ。ええ、数年前に得た情報ですよ」
「独自で調べてるのか」
「ええ、すっぱ抜ければそれこそ一大スクープですからね。
いい金になる」
「ふうん、お前にしちゃ珍しいな」
「何でですか」
「そんなタイプの奴じゃないと思ってたんだが」
「ははは、そりゃあ買いかぶりすぎでしょう。私だって人間なん
だ、お金だって地位だって名誉だって欲しいですよ」
「そうか…まあいい、それに関する情報が欲しい」
「ストレートに言いますね。見返りは何です」
「この前のアンカラでの俺が無駄にした時間」
「またあ…仕方ないじゃないですか。私だって騙されたんです
から。たしかに結果的には、イイギュンさんには悪いことしたな
って思いますけど、相手がそう言って来たんだから、私はそれ
を素直に伝えただけですよぉ」
「反省してるとは思えんがな。結局あれは…」
 自分がイスタンブールから遠ざけられただけだ、と言おうとし
て、イイギュン警部はハッとした。
「どうしました、イイギュンさん」
「いや、何でもない。ケマル、何が欲しいんだ」
「お、大きく出ましたね。そうですなあ、色々ありますよ」
「たとえば?」
「イスタンブール市警の汚職警官リスト」
「ふん、そんなもの、あれば私が欲しいさ」
「ご冗談を。多分イイギュンさんの頭の中にある、そのリストをく
ださい」
「仕方ないか、考えとこう」
「お、了解いただいたと思っていいですね」
「……ああ」
「イイギュンさんもえらく大胆な取引しますね。何が狙いです」
「言えるわけないだろ」
「あはは、そりゃあそうですな。じゃあ情報整理する時間もらえ
ますか」
「早い方がいい。整理できてなくてもいいんだ」
「何が知りたんです」
「三年ほど前の日本人ルポライター殺害事件で、その売春組織
がからんでたかどうかの情報さ。これ以上は電話では話せん」
「わかりました。じゃあどうです、今から男同士のデートっていう
のは」
「何処に行けばいい」
「誰かに一緒のところを見られるのも困るんで、ペラパレスホテル
でどうですか」
「えらく洒落た場所を指定するじゃないか、女との待ち合わせで
よく使ってるのか」
「ドキッとするようなこと言わないで下さいよ」
「ははは、当たらずと言えども、ってところか」
「部屋は予約しておきますから、フロントで聞いて下さい」
「わかった、時間は」
「もう少ししたら大丈夫なんで、そうですね十時半頃でどうですか」
「わかった、じゃあその時間にな」
 電話を終えると、夜の九時を少し回っていた。イイギュン警部
は自宅の妻に帰りが遅くなることを伝え、それからしばらくの間、
今日の分の書類整理や承認書類の処理に追われていた。やが
てイイギュン警部はそれらを終えると、早めに待ち合わせ場所
に向かうことにして、イスタンブール市警の建物を後にしたのだ
った。

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2008年10月16日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(2)

「アラーのおぼしめしを受けて、天国にいった」
 アルパッサンが、少し言いにくそうに答えた。
「死んだのか、いつ頃だ」
「三年ほど前だ」
「死因は」
「わからない」
「わからない?どういうことだ」
「睡眠薬強盗にやられたような話だったが、本当のところは謎だ。
我々よりも、マイクの方が詳しい。ちょっと待ってくれ、呼んでくる
から」
 どうやらアルパッサン達三人兄弟の長男である、マイクの古くか
らの知人の一人であったらしかった。やがて奥からスキンヘッドに
ひげを蓄えた、細身の男が顔を出した。
「マイクです。カミルのことで今さら何か」
 あまり機嫌の良くない顔で、マイクがスキンヘッドを右手で撫で
ながら言う。
「すまんな、彼が死んだ時のことを何か覚えているか」
「そりゃあ、びっくりしたさ。お世辞にも善人とは言えない奴だが、
根はやさしかった。女とヤクにはだらしなかったがね。それに何し
ろ、近所の目撃者の話では、下半身丸出しで自宅のベッドの上
で死んでたらしいからね。致死量の睡眠薬服用と報道されてた
が、そんな状態で睡眠薬自殺するとは思えないし」
「ほう…たしかに不自然だな」
「それに、同棲してた女が、カミルの死以来、プッツリ消息が途絶
えちまってる。その後、誰かがホテルで見かけたという話もあるが、
本人かどうかはわからない」
「怪しいな。警察には、そのことは言ったのか」
「近所の奴らが伝えたはずだ。だが…」
「だが、何だ」
「捜査はたしか、打ち切りになったと聞いた」
「打ち切り、だと」
「ああ、そんな噂があった」
 不審に思いながらもイイギュン警部は、その男の名前と当時の住
所、事件のあった日を聞いて手帳にメモした。通訳女性と同棲女が
同一人物だったとしたら、二人とも睡眠薬を使って死亡、というのは
あまりにも手口が似過ぎていた。それに捜査が打ち切りという話も
見過ごすことは出来なかった。
 以前にハリムが言っていた言葉が、イイギュン警部の脳裏によみ
がえる。津田がもたらした情報として、川田の住んでいたマンション
のカプジュが、事件の起こる数日前に日本人女性と思われる若い
女性が川田の所を訪ねて来ていたようだと話していたことである。
『まさかと思うが、その日本人女性というのが、この通訳女性じゃな
かろうな』
 念のために、イイギュン警部は川田のマンションにその足で出向
き、カプジュに写真を見せた。しかしカプジュの記憶はかなり曖昧で、
そうであったようにも思えるし、別人だったような気もする、とまったく
当てにならないものだった。
 特に何の手がかりも得られぬまま、イイギュン警部がそのマンショ
ンを出ようとした時、紙袋を胸の前に抱えて戻って来た住人の一人が、
彼に気付いて声をかけてきた。
「イイギュンじゃないか」
 その声に、イイギュン警部はその男を見た。
「ムスタファ…さん」
 それは、かつてイスタンブール市警の本部長だった男だった。在任
中から黒い噂が絶えず、イイギュンの好きな部類の人種ではなかった。
「このマンションに、お住まいなんですか」
「ああ。お前がここにいるってことは、例のカワダの件だな」
 顎をしゃくるように、ムスタファが言う。これは本当に偶然なのだろうか、
とイイギュン警部は訝しがった。当然ながら、このマンションの住人には
刑事達が聞き込みを行っていたはずだが、元本部長が住んでいるという
話は聞いていなかった。
「ええ、まあ。そんなところです」
「大変だな。どうだ、犯人の目星は付いたのか」
 無表情でムスタファが言う。内心では何を考えているのかわからない
男だった。
「何とも言えません」
「愛想がないのは相変わらずだな。どうだ、チャイでも」
「ありがとうございます。せっかくですが、急ぎますので」
 そう言うと、イイギュン警部は軽く会釈をし、そそくさとそのマンションを
後にした。

 夜遅くになってイスタンブール市警に戻ったイイギュン警部は、再
び三年前の日本人ルポライター殺害事件の調書を丹念に見返した。
そして最後に調書中に記載されていた名前を見て、イイギュン警部
は首をかしげると、ギュナイドン紙のケマル記者に電話をかけた。
彼はあいにく外出中とのことだったので、連絡をもらうように伝えた。
『どういうことだ、日本の親族の強い要望でこれ以上の捜査は不要
であると、日本領事館のサカイ副領事から警察省経由で要請があっ
た、だと』
 そこにあった意外な人物の名前に、イイギュン警部は首をひねった。
『ルポライター殺害事件で、どうしてわざわざサカイの名前が出てくる
んだ。それに今回のカワダ夫人の殺害については、サカイ自身が通
訳を送り込んできているじゃないか。両方の事件に共通なのは、この
謎の女とサカイの存在だ。…それよりも、どうしてハリムがこの事に気
付かないんだ。ありえない』
 それはイイギュン警部の中で、初めてハリム刑事への疑念が生ま
れた瞬間でもあった。その思考を断ち切るように、不意に机の上の
電話が鳴った。

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2008年10月14日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(1)

 イイギュン警部は、行き詰ったカワダ夫人殺害事件の捜査の
打開のため、別の視点からアプローチしてみようと思い立ち、
それまでの日本人に関する事件を調べていた。彼の片腕のハ
リム刑事が、二泊三日の研修で今日までアンカラに出張中だ
ったこともあり、たまには彼自身の解釈で色々と探りを入れて
みようと思ったのだ。傷害や窃盗事件は幾つか報告があった
ものの、殺人事件にまで発展したものは、三年ほど前のルポ
ライター殺害と昨年のカワダリョウコ殺害の二件のみだった。

 三年前のルポライター殺害事件の方は、日本からやって来た
ルポライターが睡眠薬強盗に遭い、エユップ地区のガジ・オス
マンパシャ近くの丘の斜面で撲殺され遺棄されていたというも
のだった。所持品はほとんど何もなかったが、上着のポケット
に名刺が残されており、そこから日本人であることがわかった。
同じころ市内のタキシム広場近くのシェラトンホテルから、宿泊
しているはずの日本人が行方不明になっていると届け出があっ
たことから、双方の人物が一致することが判明したのだ。
 その日本人はチェックインした日の夕方に、若い女性と一緒に
ホテルのレストランで食事をする姿が目撃されており、かなり酔
っぱらっていた風だったという証言もあったことが調書に残され
ていた。到着翌日から部屋に閉じこもりきりだったので、不審に
思ったホテル側が部屋を調べたところ、パスポートを始めとした
持ち物はそのままで、本人だけが忽然と消えていたというので
ある。
 外出したという目撃情報がないことから、何者かに部屋から拉
致された可能性もあったが、部屋には特に争った跡もなかった。
ただし部屋の現場検証の際に、女性のものと思われる黒く長い
毛髪が一本、ベッド脇の床から見つかっていたとの記録があった。
死体解剖の結果として、ほぼ致死量に近い睡眠薬成分が血中か
ら検出されていたことが記されている。ただし一緒にいたという女
性が特定できず、関連付けがそれ以上出来ないまま、事件は迷
宮入りとなってしまっていた。

 イイギュン警部は個別に、あの日イスタンブール市警にカワダを
運んできた、ハッサンにも当たってみた。二人には直接の面識が
あったわけではなく、ツダという爆弾事件に巻き込まれたあげく夜
のボスポラス海で射殺されそうになった男が、最後に宿泊していた
のがハッサンの経営するホテルであり、日本語が話せるということ
でカワダがコンタクトして来トし、それで二人は初めて顔を合わせた
のだった。兄のアルパッサンも日本語が達者で、そのホテルや隣
のユーリックという名の絨毯屋には、日本人が常に複数たむろして、
さながらちょっとした日本人村の様相を呈していた。
 色々とその爆弾事件のことも関連して尋ねてみたが、そこでは特
に何も、目新しい情報は得られなかった。イイギュン警部が礼を言
って立ち上がろうと手帳を閉じたはずみに、はさんであった一枚の
写真が床に落ちた。それはカワダ夫人殺害現場で撮られた鑑識の
現場写真のうちの一つで、唯一あの日本人通訳女性の顔が映って
いるものだった。それが彼女が確かに存在したという、唯一の証拠
だった。イイギュン警部はずっとその写真を持ち歩いていたのだ。
「この写真は…」
 アルパッサンは床に落ちたその写真を拾い上げながら、少し首を
かしげて何かを思い起こそうとしていた。横から覗き込んだハッサン
も怪訝そうな顔をしている。なにか記憶にある顔らしかった。イイギュ
ン警部はしばらく二人の様子を黙って見ていたが、やがて尋ねた。
「何か、見覚えがある顔なのか」
「昔、知り合いの奴と一時期同棲してた女に似ているような」
「ああ、例のカミルか」
 ハッサンが思い出したように言った。
「そう、カパルチャルシュで貴金属売りの呼び込みをやってた、あの
カミルだ」
 彼らの言い方に、どこか違和感を覚えたイイギュン警部は、はやる
気持ちを抑えて尋ねた。
「そいつは、今どこにいる」

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2008年10月13日 (月)

作者の簡単レビュー 【その28】

 長かったこの物語もついにクライマックスに突入しますが、その
前に、並行しているイスタンブール編のその後を少しお届けした
いと思います。当時イスタンブールで書いていた初稿にはこの章
はなく、今回新規に追加したものです。
 次の第十一章のサブタイトルは「突破口」です。

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2008年10月12日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十章(14)

 そう言うとロビンは、銃の引き金を引いた。悲鳴とも何ともつか
ぬ嬌声を発して、酒井が気を失った。銃はカチリと小さな音を立
てただけだった。弾は全て撃ち尽くしていたのだ。
「ま、そういうわけだ。……後はどうするね、村上警部さん。念の
ために屋敷内部も一応は探した方がいいと俺は思うが。どんな
証拠が出て来るかも知れないからね。トリムの事件はまだ時効
にはなってないんだろう」
 ロビンはそう言うと、空になった銃を本郷に返した。あまりにも
鮮やかな動きで、皆の目の前でその銃は、本郷の左胸のホル
スターに納まった。ロビンはその傭兵パープルの脇に放り出さ
れるようにして眠っていた銃を、さり気なく床から取り上げると弾
倉を確認し、ふっと笑いを浮かべて玄関の方を見た。
 その笑顔の裏に潜む、猛獣が牙を持ったことに気付き、その時
玄関口に居合わせた人間は皆、ぞっとして思わず一歩退いた。
自然とロビンの前に通路が開けた。ロビンはその銃を持ったまま、
その屋敷から出て行こうとした。皆は先程の光景に呑まれ、誰も
制止出来なかった。
「待て、津田。何処へ行く」
 かろうじて村上警部補がそう言った。彼とてロビンの持つ迫力
に呑まれていたのだ。それに今はこれだけの人数が居ても、とて
も彼を止めるだけの力は持ち合わせていないことは、先程の様子
でわかっていた。それに今のロビンは、弾丸のたっぷり詰まった
弾倉の装着された銃を持っているのだ。今の彼を止めるためには
一個師団の装甲部隊でも来ない限り無理だ、と村上警部補の隣
りで本郷は感じていた。
「最後の決着を付けに行くんだ。邪魔はするなよ」
 ロビンはそう言うと、屋敷の片隅の車庫に向かった。誰も一言も
発せない程の緊迫感が漂っていた。その様子に尋常でない何か
因縁めいたものを感じ、同時に村上警部補はふと想った。
『ひょっとして、野宮達の周辺を我々よりも先に洗ってたのは、津田
だったのか』
 彼らはただ呆然と、津田が車で出て行くのを見送るだけだった。
かろうじて尾行の覆面パトカーを付けるのが、今の彼らに出来る精
一杯のことだったのだ。

 あと数時間後に迫った夜明けに向け、見えない空間で警察無線
が異常に行き交う中を、ロビンを乗せた車は首都高速道路を一路
東に、ひたすら茨城の東海村に向けて走っていた。自分の人生が
今日中に終わるだろうと漠然と予感しながらも、ロビンは自分でも
不思議なくらいに恐怖は感じていなかった。自分はこれから死にに
行くようなものなのだろうがこれが運命なら仕方ない、と自分でも
驚くほどに冷静だった。
 洋子とはもうとうに縁は切れているし、別れの挨拶も出来た。マユ
ミにも日本を脱出するように言ってあるから、ひょっとしたら今頃は
すでに空の上かも知れない。もう今日何が起こったとしても、彼の
周囲の人間で直接の迷惑が掛かりそうな人間は居ない筈だった。
もっとも、浅見所長だけには多少なりとも迷惑は掛かるだろうが、
それは愛嬌だとロビンは思った。
 ふと思い出したように、ロビンはカーラジオのスイッチを入れた。
それまで静かだった車の中に、不意にクリス・レアの低い歌声と
それに絡むスライドギターが響いた。
『ロード・トゥ・ヘル、地獄への道、か。ふ、今の俺にぴったりの曲
じゃないか』
 ロビンは助手席の銃に向けて、微笑みながらそう呟くように言っ
た。そして彼が野宮邸を出て以来ずっと、正確に言うなら警察から
ロビン達が野宮邸に向かった時から、その後を一台の車が秘かに
追跡していたことを、ロビンは全く気付いていなかった。

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2008年10月11日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十章(13)

「おい、まだ生きてるか。お前には聞きたいことがあるんだ」
 そのロビンの呼び掛けに、その傭兵はうっすらと目を開けた。その
傭兵は紫色がやたら好きな奴で、俗にパープルと呼ばれていた。
傭兵パープルは朦朧とした意識の中でロビンの顔をしばらく見てい
たが、相手がかつての仲間のロビンだったことがわかったようで、
力なくうす笑いを浮かべると、虫の息でつぶやいた。
「どうしてお前が、ここにいるんだ…」
 ロビンはその問いにはお構いなく尋ねた。時間がないことは、彼
自身も気付いていた。
「やって来たのは本当にお前だけなのか。他にも誰かが来たんじゃ
ないのか、どうなんだ」
「ふ、そんな事を、俺が、喋るとでも、思ってるのか」
「お前の狙撃の相手は、明日迎賓館に向かう車の中の天皇だろう」
「……知らん」
「ゼブラと野宮は、今何処にいるんだ」
「………」
 その時すでに傭兵パープルは、ロビンの腕の中で息絶えていた。
二階から酒井が刑事に両腕を掴まれて、引きずられるように降りて
来た。ロビンは立ち上がると、右手に銃を持ったままで酒井の正面
に立ち、彼の胸倉を左手でいきなり掴んだ。酒井は両脇の刑事に
救いを求めるような目を向けたが、二人ともそしらぬ顔で酒井の両
脇から少し離れた。
「酒井!野宮とゼブラは今何処にいる。知ってることは正直に全部、
吐いた方が身のためだぞ」
「し、知らん。私には一体何のことだか」
 不意にロビンは、右手に持っていたニュー南部と呼ばれるリボル
バーの銃を酒井の口に突っ込み、撃鉄をゆっくりと起こした。カチリ
という小さな音が酒井に恐怖をもたらした。そしてロビンは引き金に
指を掛けた。酒井の目が大きく開かれ、彼のズボンが股間のあた
りを中心にして、両足の方に向けてだんだん黒く濡れて行った。
「そうか。お前はよっぽど銃撃戦の巻き添えで死にたいんだな。それ
に警察の連中がもしも俺を止めに入ったら、その時にはお前にあの
世を見せてやる。こうやってな」
 表情一つ変えずにロビンはそう言うと、引き金を引く手に少し力を加
えた。酒井の引き釣った表情が一層激しくなり、次に彼の身体がガタ
ガタと大きく震え始めた。
「最後にもう一回だけチャンスをやろう。野宮とゼブラは今何処だ」
「あががが……」
 酒井が何か言いたげにあがいた。ロビンは酒井の口の中に突っ込
んでいた銃を外した。大きく肩で息をしながら、酒井が観念したように
一気に喋り始めた。
「の、野宮さんは、今日はここには帰って来ない。成田空港の近くにあ
るエアポートホテルに泊まってる。明日の朝のJALでシンガポールに
向かうことになってる」
「ゼブラは」
「茨木の東海村の、原子力発電所の中にいる」
「何のために」
「し、知らない。本当だ。私は彼の行動を一切知らされてないんだ。別
々に動いてる」
「ところで、酒井。トリムの時の身代金は、この屋敷の中にあるのか」
「!………な、何の事か、私にはさっぱり見当が」
 瞬時に銃の台尻で、酒井の顔めがけ、ロビンが容赦なく殴りつけた。
何かが潰れるようないやな音がした。
「とぼけるんじゃない。まだお前はあの世に未練があるらしいな」
 にやりと笑ったロビンは、再び銃口を酒井の顔に近付けた。
「わ、わかった。言う。言うから殺さないでくれ」
「時間がねえんだ。これ以上手間取らせたら、本当にブッ殺すぞ」
「あの金は、野宮さんが今回ハンドキャリーで半分持って行くことにな
ってる」
「残りの半分は」
「し、知らん。本当だ、信じてくれ」
「ふん。じゃあ、お前の役目は終わりだ。死ね」

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2008年10月 8日 (水)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十章(12)

「くそっ、こうなりゃ強行突破しかないぞ」
 その傭兵は苦々しくそう言うと、銃を片手に廊下に飛び出して
行った。その後を慌てて酒井が追う。車庫には車が一台スタン
バイされているのだ。何とかそこまで辿り着き、一刻も早くここ
から逃げ出すしか、彼らに脱出手段は残っていない。玄関のド
アが破られ、何人かの刑事達が屋敷内部に踏み込んで来た
足音が、階下の方で聞こえた。
「強制家宅捜査を行なう。これが令状だ、手向かう者は公務執
行妨害の現行犯で逮捕する」
 太く響く男の声が聞こえた。その声を合図に、ばらばらと数人
ごとに固まって刑事達が屋敷の中に散って行った。二階への
階段を駆け登っていったはずの刑事が二人、乾いた音の連射
の直後、次々と胸元を赤く染めて階段を転げ落ちるように落下
して来た。
 入り口でこの様子を見ていた津田が、不意に横にいた本郷の
胸元から、あっという間に拳銃を抜き取った。そして本郷が津田
を制する間もなく、津田は銃を持ったまま屋敷内に飛び込んで
行った。彼は緊張している村上警部補達の脇をすり抜け、階段
の所まで来ると斜め上を見上げた。そこに彼は懐かしい顔を見
た。だが懐かしさなど微塵も起こらなかった。
 瞬時にロビンの銃が火を吹いた。二階の階段の昇り口にいた
その傭兵の銃も、ほぼ同時に火を吹いた。何発かの連続した
銃声が、まるで花火の音のようなやけに乾いた軽い音で、刑事
達の耳に大きく響いた。映画などではこういう場合、お互いに何
やら話した後で銃撃戦になるのだが、現実にはこんな時に呑気
に喋ろうとした方が殺される。躊躇することは自分の死を呼び込
むのと同じことなのだ。どちらが早く相手を撃つかで、運命が別
れる。

 一瞬の静寂が、その場に居合わせた村上警部補達にはとて
つもなく長く感じられた。目の前で津田の速射に近い射撃を見
た村上警部補は思わず唸った。自分達とは経験の数が全く違
うことが、目の前の状況を見れば判る。いつもの彼が知ってい
る津田とは全く異なる姿を目の当たりにして、下手をすれば自
分達が皆殺しにされてしまうような戦慄すら覚え、思わず彼は
心底から恐怖した。そんな経験は長い刑事生活の中でも初め
てのことだった。
『凄い、凄すぎる』
 ロビンの左頬に、ゆっくりと赤い線が浮き出て来た。だが彼は
相変わらず、銃口を定めたまま身動き一つしなかった。やがて
階段を派手な音を立てながら、銃を持った男が一人、ロビンの
足元に転がり落ちて来た。男は両肩を真っ赤な血に染め、腹部
にも多量の出血があり、右足の太股にも見事にロビンの銃弾が
貫通していた。階段の上ではこの光景を見た酒井が、腰を抜
かして座り込んだままだった。
 ロビンは銃口を下ろすと、足元に虫の息で転がっている、か
つての仲間を抱き起こした。救急車が来たところで助かりはし
ない。急所を外して射撃しているような余裕など、ありはしなか
ったのだ。そんな事をしようとしていれば、今頃ここにこうして転
がっていたのはロビンだった筈である。そんな器用なことは、あ
くまでも物語の中の状況でしかないのだ。

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2008年10月 5日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十章(11)

 だが不思議なことに、その狙撃のために用意されていた女
傭兵マユミは、何故か行方不明になってしまった。そのため、
急遽現役ブラック・ローズ部隊の傭兵が召喚されたのだ。そ
いつが目の前にいる男だった。だが酒井自身は、傭兵二人
が来日して別々の行動を取っている事を知らされていないし、
加えて昨夜のロビンとマユミのことを野宮やゼブラからは一切
聞かされていなかった。所詮は彼もブラック・ローズ内では、
一介のメンバーであるに過ぎないのだ。
「おい……」
 何度か呼ばれて酒井は我に帰った。ぼんやりしていた酒井
を、怪訝そうな顔で横の傭兵が覗き込んでいた。彼も以前の
ロビン同様に、野宮がブラック・ローズ総統であることなど知
らされていない。
「もう十一時になるぜ。あと三十分もすれば出発だってのによ。
野宮は挨拶も無しかよ」
「まあそう言わないで下さいよ」
 努めて穏やかな表情で、酒井はそう言った。内心はこの傭
兵ごときが野宮の正体も知らずに何を偉そうに言うのかと思
ったが、野宮が彼らの組織の頂点に立つ人間であることは、
一介の傭兵には絶対に秘密にしておいた方が良いのだ。

 野宮はすでにシンガポール行きの切符の手配を完了してい
るはずだった。明日から二週間の予定で、休暇を申請して認
可されているのである。本来であれば、これから日本国内で
起こる大混乱を思えば、酒井も同様に一時的に日本から脱出
したかったのだが、それは許されなかった。彼が直接的に野
宮の留守中の全権を委任されているのだ。まさかそんな大そ
れた事が起こるとは夢にも思っていない同僚達は、これを嫉ま
しく思っているに違いなかった。
 だが表面上は、野宮の留守中に偶発的に起こる大事件の後
処理で、酒井は苦労することになっている。その後は帰国した
野宮が立ち回り、今回の事件後に政財界を一気に掌握する予
定であった。そのために笹本亮三は邪魔な存在だったのだ。
彼が君臨している限り、野宮が頂点に立つことは出来ないの
だ。自然な形で彼をこの世から葬るには、今回が絶好の機会
だったのだが、肝心のマユミが行方知れずになってしまったの
だから、どうしようもなかった。
 もっともその辺については、野宮とて策を巡らせてあるようで、
まだ酒井は詳しいことを聞いてはいないのだが、恐らく今回の
混乱に乗じて社会的抹殺を企んでいるだろうことは想像に難く
ない。そして酒井は薄々感付いているのだが、今回のレイン計
画はこの狙撃だけでは終わらないようだった。まだ何か別の恐
ろしい事が、裏に隠されている気がしてならないのだ。

 酒井は立ち上がると、窓越しに何気なく外の景色を見た。その
時彼は、木立の陰に少し隠れた野宮邸の入り口のゲートあたり
に、赤い点滅する幾つものライトを見たのだ。瞬時に身体がこわ
張り、振り返ってその傭兵の方を見た。咄嗟のことに、口を突い
て言葉が出なかった。
「け、警察だ」
 酒井はそれだけを言うのがやっとだった。反射的に横にいた傭
兵の身体が、埋もれていたソファーから立ち上がると、彼は急い
で銃を片手に窓際に走り寄った。その時にはすでに、数台のパト
カーが玄関前に横付けされ、数人の刑事達が飛び出していた。
玄関のドアを叩く音が、彼らの耳にも届いた。

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2008年10月 3日 (金)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十章(10)

 酒井の知っているコネを使えば、美雪の動向を調べることは
出来たが、今さらそこまでするほどの未練はなかった。それゆ
え、彼女が変なことを仕出かさない限りは、酒井も自分から接
近しようとは思っていなかった。
 それは長かった任期を経て、日本に帰り着いてからも同じだ
った。そして野宮は当初の約束通り、酒井を自分の部署の部
長補佐待遇で迎えてくれた。そしてその頃には野宮はすでに
日本国内のレイン計画賛同者を陰でまとめあげ、いよいよこれ
までの日本の歴史にピリオドが打たれる瞬間が、あと半日の
うちに起ころうとしているのだ。
 その結果起こるものは、秩序の乱れと左翼と右翼との激突、
すなわち内乱である。さらには機に乗じた外国資本の参入も
ありえた。結果として円の暴落が始まり、日本経済は一時的
な壊滅状態になる。それがブラック・ローズ組織の本当の狙い
なのだ。その混乱に乗じて世界的な規模で莫大な富を築こう
としているのである。これまで一部のリベラルな人間が提唱し
てきた、原子力発電所建設にまつわる莫大なリベートにも、ブ
ラック・ローズ組織は常に絡んでいた。
 だが世界的な風潮で最近は風当たりが強くなり、それによっ
て得られる旨味が以前ほどは無くなり、ほとんど困難になって
来たと言っても良かった。建築や解体コスト上昇の問題が取り
沙汰されるようになり、皆が危機感を持ち始め現実に隠され続
けてきた問題を知り、それらに関する知識を持ってしまったのだ。
日本ではそれが一種のブームのようになり、今現在では多少は
薄れて来たとは言え、世界的には決して油断出来ない状態に
あった。

 世界的に原子力産業から撤退する風潮の中で、日本だけは相
変わらずその得られる金銭的なものに目がくらんだ人間達が、嘘
の必要性を主張しながら、相変わらず建設を推進していた。野宮
とトリム電子産業株式会社との癒着は、この中で始まったのであ
る。あのトリムの事件は、なかなか言う事を聞かず柄にもなく堅い
頭を持った黒田専務を社会的に葬るために、会長・正木英嗣と野
宮邦弘が手を組んで打った、佐々木常務の復讐心を利用した大
芝居でもあったのだ。
 そしてその機会に乗じて、かねてからホフマン長官の心証が悪
かった正木会長すら、偽装された飛行機事故で太平洋の藻屑と
なり、命を失っているのだ。そしてその真の犯人を知る者は、今や
誰もいない。
 戦後の混乱期に乗じて莫大な富を手に入れた人間達が、その
後の社会に君臨し支配して来た……野宮が自身にもそれを望む
ことは、決して不自然ではないし、それを誰も責めることは出来な
いのだ。今再び、あの一部の人間によって導かれた悪夢が再来
しようとしている。兵器製造会社の人間も、てぐすね引いてその瞬
間を待ち構えている、と言ってもよかった。
 当然の事ながら、きっかけとなる標的はスケープゴート的な役割
が大きい程良かった。当然力にものを言わせても、今の政府は倒
さねばならない。その付け込む隙を彼らに与えるために選ばれた
標的が、ミカドだったのだ。これ以上の格好の標的は無かった。
 明日の午前十時、ミカドは皇居前から迎賓館に移動する。アメリ
カ大統領をそこで出迎え晩餐会を催すためである。そこを狙撃する
のである。本来であれば跡形もなく始末出来れば良いのだが、幾
らブラック・ローズの末端組織の一つである、宗教団体『天照』が
広域暴力団と繋がっているとは言っても、さすがにバズーカ砲を用
意するわけにはいかなかったので、通常の狙撃の形となったので
ある。

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2008年10月 1日 (水)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十章(9)

 そんな矢先に、良子があろう事かイスタンブールに一家で赴任
して来たのだった。酒井は良子に是非とも会いたかった。特に会
ってどうしようとか、他意は全く無かった。ただただ懐かしさに、あ
れから約十年経った今、もう一度会って色々な話がしたかっただ
けだった。お互いの近況を知りたかっただけの、単純で純粋な気
持ちからだった。
 だが良子は、そんな酒井の願いをかたくなに拒絶し続けた。逆
にそれが酒井の神経を逆撫でさせたのだ。あれほど愛し合い、
挙げ句の果ては自分の方から結婚しても時々は会って欲しいな
どと言っていた、あの良子と同一人物だとはとても思えなかった。
そんな女の現実的な冷酷さに直面し、戸惑うと同時に酒井の心
の中に殺意にも似た気持ちが生まれたのだ。彼女が酒井のこと
をまるで汚いもののように扱っている気がして、極端に嫌がって
いる印象を受けたのだ。
 その頃にはすでに美雪は、精神的に少し参っていた。酒井が
彼女にトルコ人の政府高官の相手をさせたことがあり、同時に
良子とのことを感付いた様子で、それ以来割と塞ぎ込みがちだ
った。それゆえに、冷静さを欠いていた彼女はわざわざ勝ち誇っ
たように、空港まで川田に告げに行ったのだ。自分の酒井の現
地妻としての立場が絶対に揺るぎないことを暗に誇示するため
に……そう酒井は思っていた。あの時の美雪の不可解な行動
は、酒井の目から見ても理解出来ない部分があったのだ。
 杉本弘美を酒井が知ったのは、やはり塚本美雪と同じパター
ンだった。その頃美雪はかなりヒステリックな性格が出始めて
いて、最早イスタンブールで生活するには限界に近かった。そ
れゆえに良子と同様に就職口を世話することを条件に、美雪
に帰国を納得させたのだ。早い話が酒井は美雪の存在がうっ
とおしくなり、杉本弘美に乗り換えた、とも言えるわけである。
所詮は塚本美雪も杉本弘美も、酒井にとっては良子の存在に
は遠く及ばなかったのだ。

 酒井が後日知ったことだが、美雪は酒井に紹介された就職口
には約三ヶ月いただけで、不意にそこを辞めたらしかった。特に
不満があったわけではないようだったが、とりたてた理由もない
ようだった。それ以降の彼女の足取りは、酒井には全くわかっ
ていない。
 領事の立場を最大限に利用して、酒井がイスタンブールでし
ていることを警察に通報する、とひょっとして彼を脅しに掛かって
くるのではないかと懸念した時期もあったが、そんな事は起こら
なかった。それでも多少は美雪のことが気になりはしたが、自分
の意思で酒井の元から離れようとしているようにも感じられたの
で、あえて酒井はそのまま放っておくことにした。

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