RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(8)
イイギュン警部が驚いたように言った。まさしく最新のテクノロジー
にも対応出来る凄腕の刑事である。イイギュン警部が逆立ちしても
到底かなうはずもなかった。
「これはウィンドウズ3.0って奴です。このマイクロソフトのOSのおか
げで、やっとパソコンが使いやすくなってきました。欲を言うとユーザ
ーインターフェイスの使い勝手が、いまひとつなんですけどね」
イイギュン警部には意味不明な言葉を並べながら、ハリム刑事は
パソコンの画面を食い入るように見つめながら、何やらキーボードで
操作をし始めた。
「起動時のパスワードはかけていないですね、助かりました」
独り言のように誰に言うともなくつぶやきながら、ハリムは五インチ
ディスクに記録されているファイルのタイトル名を順に見ていった。
「これは…」
「何だ、どうした」
「ケマル記者が調査してたと思われる資料が、見事に整理されて入
ってます」
「奴の持ってた情報が、全部ここにあるのか」
感心したようにイイギュン警部が言った。
『えらく便利な物が使える時代になったもんだ。じゃあ奴は資料を持
ち歩くのをやめて、これに切り替えたってことか。例の事件の内容も
これで詳しくわかるな、助かった』
しかしその甘い期待は、ハリムの次の言葉で打ち砕かれた。
「駄目だ、全部パスワードがかかってる。ファイルの中身が開けない」
「何とかならんのか、ハリム」
「私はハッカーじゃないんで…」
「何だ、ハッカーって」
「パソコンに関する知識があって、ソフト的にも詳しくて、要は他人の
秘密をのぞき見するのが好きな連中ですよ。パスワードって言うのは
一種の鍵ですから、その鍵を見つけ出して開けるのが得意な奴とか、
人によって色々得意分野が違うみたいですけど」
「そうか、お前でも無理なのか」
「時間をかければ、何とかなるかもしれませんが。専門の人間に任せ
るべきでしょうね」
「誰か心当たりはいるのか」
「いえ。アンカラの警察省に応援を要請するのが、いちばん時間的に
も早いです」
「時間をかければ何とかなるかも、って言うのは?」
「要はパスワードっていうのは、何かしらの本人が覚えやすい数字や
記号の羅列にしか過ぎないんです。だから何かのヒントで、それが推
測出来れば…」
「このファイルを開いて、中身が見られるってわけか」
「はい、そうです。よくあるのは本人の名前、電話番号、誕生日、出身
地とかですが」
「それじゃ駄目だった、ってことか」
「はい、ケマル記者に関する個人データはある程度調べてきました。
今、その中で関係ありそうな言葉を幾つか試してみましたが、どれも
違いました」
「他に何か、キーワードがあるっていうわけか」
「彼個人に関する内容ではないかもしれません」
「どういうことだ」
「彼の知っている何かに関することではないでしょうか。だから我々に
は容易には推測することが出来ない、でも本人は良く知っている。ま
あ本来パスワードっていうのはそういうものですが。たとえば…」
そう言うとハリム刑事は、デスクの上の写真立てを指差した。
「その娘さんの名前とか、ね。ただ心配なのは」
「何だ、なにかあるのか」
「ファイルごとにパスワードを違えてあると一番厄介です。普通は同じ
場合が多いんですが、機密性を考えてよほどの内容であれば、それ
とは別のさらに違うものにします。そういうソフトも実際に開発されて
いるようですから」
「面倒なんだな、パソコンとやらは。いちいちそんな事をしなきゃなら
んとは」
「いえ、普通に使うのなら、そこまで神経使う必要はないですよ。内
容が内容なので、万が一を考えて用心していたんでしょう」
「不幸にも、その心配が的中したってわけか」
「まあ、そういうことになります。あと、もう一つ」
「まだ何かあるのか」
「もし外部と頻繁につないで何か情報収集をしているのなら、ウィル
ス感染しているかも」
「ウィルス感染?パソコンが病気にでもなるのか」
「まあ、そう言えるかもしれませんね。パソコンの中のデータを破壊
する、一種の病原菌みたいなものが存在するんですよ」
「それは防ぎようがないのか」
「ウィルス対策ソフトっていうものがあって、それが最新版になってい
れば、できる限りの防御策は打っていることになります。しかしこの
パソコンの中には、それらしきものはないです」
「そのウィルスとやらに感染しているかどうか、わかるのか」
「わざと変な挙動をさせて自分をアピールするウィルスもありますが、
それ以外だとそのウィルス対策ソフトを走らせてチェックしない限り、
持ち主にはわからないでしょうね」
「えらく厄介なんだな、パソコンというのは」
「ええ、まあ。いずれにせよこの様子では、一筋縄ではいかないでし
ょうね」
ケマル記者の自宅ではパソコン以外に、特にこれといっためぼしい
収穫はなかった。イスタンブール市警ではギュナイドン紙に連絡を取
り、ケマル記者の家族の住所や名前の情報を得て、その訃報を彼ら
に伝えた。ケマル記者の妻が幼い娘を連れて、遙か黒海地方の東に
位置するトラブゾンから、長距離バスでイスタンブールにやって来たの
は、その翌々日のことだった。変わり果てた夫の姿に、取り乱した妻
が泣き続けながらその名前を叫んでいたのが、同席したハリム刑事
には痛々しかった。


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