RobbinⅡ-レイン計画- 第五章(1)
翌朝、約束の時間ちょうどに、杉本弘美は笑顔で津田の前に現われ
た。彼らの待ち合わせ場所は、エミニュヌからカドキョイ行きの三番と
書かれたバプール乗り場の前だった。折しも、カドキョイからのバプー
ルが到着しようとしているところだった。彼女はちょこんと頭を下げると、
津田に小さなコインのような物を手渡した。ジェトンと呼ばれる専用硬
貨である。
「あ、これ何処で買ったの」
「そこの脇の、ジェトン売り場ですけど、何か」
津田はそのバプール乗り場の前に大勢たむろし、声高に「ジェトン、
ジェトン」と叫んでいるジェトン売りが不思議だった。現にすぐ横でジェ
トンが買えるのに、わざわざ彼らから通常より高い値段で買う人間が
いるとは考えにくかったのだ。津田がそのことを尋ねると、彼女はちょ
っと首を傾げながら言った。
「さあ、どうしてでしょう。でも、バス乗り場の前にはビレット売りがいる
し、電話ボックスの前には電話用のジェトンを売る人間が必ず居ます
ね。それがトルコなんじゃないんですか」
津田はちょっとはぐらかされたような気がしたが、その話はそれぐら
いにしておくことにした。そして二人は、乗り場の入り口にある、東京
ディズニーランドのエントランスに設置されているのに似た、駅の自動
改札のような機械の前に立った。専用のジェトンをまず手前の硬貨投
入口から入れ、それに続いて三本のバーが放射線状に出ている部分
を身体で押すようにしながら、そのバーを前に押す形でまっすぐに進む
と、ガシャという機械的な音と共に、自分の身体が待合室に入り、人
数的にもカウントされる。手馴れた手つきで、津田のすぐ隣を杉本弘美
が同様に移動して行く。
到着した人々が一斉に降りおわった後、やがて待合室の門が開か
れ、目の前に停泊しているバプールに、入れ替えの形で乗り込むこと
が出来た。ちょうど朝の逆ラッシュになるため、さほど乗員はいない。
津田は杉本弘美に案内されるように二階のデッキに出て、そこの木製
のベンチに座った。
「ところで、俺は君のことを何て呼んだらいい。杉本さん、弘美ちゃん、
お嬢さん、ヒロリン、とか色々あるんだが」
「そうですねェ。でももう、津田さんが私を呼ぶ呼び方は決まってるみた
いだけどな」
「へ、そうだっけ?」
「ちょっと子供子供してて、気になるけど、仕方ないかもね」
「……ああ、ごめん。別にそんなつもりで」
「いえ、いいんです。言ってみただけですから、全然気になさらないで下
さい」
杉本弘美が慌ててそう言う横で、津田はいつものように愛用の煙草を
出し一服しようとしたが、もうお馴染みになってきた彼女のキツイ言葉が
即座に飛んで来た。
「津田さん。ここは禁煙です!」
「げっ」
全く予想してなかっただけに、津田もびっくりした。
「トルコ人って、もともとかなりの煙草好きなんですけど、こういうところで
は禁煙なんです。もちろん市内バスや普通の列車の中もね。普通の人
は結構守ってるんだけど、中には不心得な人が居ます」
そう言うと彼女は、あごでしゃくるように、デッキのすぐ脇で煙草を吸っ
ている数人の若い男女を示した。津田は素直に謝ると、煙草を懐にしま
い込み、手持ち無沙汰に周りの景色を見ることにした。
カドキョイに到着するまでの間、杉本弘美は津田に色々と、その左右
に流れるあちこちの景色をずっと説明してくれた。その行程は約二十分
程度の比較的短いものだったが、二人でずっと話していたこともあり、
津田にはそれがあっという間に感じられた。
波に揺れる小舟が幾つも岸壁に繋がれている、そのすぐ横の船付き
場に、そのバプールは到着した。何人かの人間がまだ渡し板がかから
ぬうちに、岸壁に飛ぶように渡って行くのが見えた。
「トルコ人って、我慢できないんでしょうね、こういうの。津田さんはもう気
付いているかも知れないけど、街中を車で走ってると、信号が青に変わ
るか変わらないかのうちに皆走り出すし。律義に信号を守って青になっ
てから発進しようとして一瞬でも遅れたりすると、いきなりクラクションの
嵐が後ろから起こりますからね。ほんのちょっとのことなのに」
「そう言えば、そうだね。そういう意味じゃ、日本はよっぽどマナーがいい
んだね」
「ここが異常なのかもしれませんよ。高速道路だって、車間が開いてれば
すぐにウインカーも出さずに割り込んで来るし、危ないったらないですよ。
だから、日本だったら考えられないような事故も結構多いんです。高速道
路の大型同士の正面衝突とかね」
「へえ……ところで、あれは魚を売ってるわけなの」
津田は渡し板を渡りながら、岸壁に繋がれ波に揺れている複数の小舟
の方に顔を向けて言った。その前の岸壁には比較的大き目の、赤く丸い
浅い皿のような物が並んでいた。
「ええ、そうです。でも表面が乾燥しないように、この海水をかけてるんで
すよ。おせじにも綺麗とはいえないんですけどね。これは私個人の考え方
だから強制する気は全く有りませんけど、津田さんはあんまりトルコで魚
は食べない方がいいと思います。日本人だから欲しがる気持ちはわかる
んですが、黒海のPCB汚染もありますから。以前に黒海のPCB汚染が
問題になった時、領事館からおふれが回った経緯があるし、食べていい
魚、悪い魚を書いた一覧リストも見たことがあります。それに、トルコでは
魚料理は肉料理より高級で、結構値段も張るんですよ」
津田はふと、ガラタ橋の下で軒並み焼き魚のいい匂いをさせて誘って
いる、魚料理レストランを思い浮かべた。まだ幸か不幸か彼は入ったこと
はないのだが、これまで入ろうかどうしようかと何度か迷ったことはあった
のだ。
ジプシーの花売りが数人たむろしているその後ろは、小さな公園のよう
になっており中央には、一人の男が男の子と女の子に何かをさとしている
ような、黒い銅像が一段高く有った。
「アタチュルク、か」
「ええ。トルコの何処へ行っても、お目にかかるでしょうね。トルコ建国の
父と言われてますけど、でも結局彼も上手くおだてられて、政治に利用
されて終わった気がしますけどね」
相変わらずストレートな表現の彼女の言葉だったが、津田はあながち
穿った見方ではないような気がした。杉本弘美はつと歩き出すと、近く
にいたトルコ人に何やら話しかけ、頷いて津田のところに戻って来た。
「行きましょう。ボスタンジュ行きのドルムシュ乗り場は、あっちのバス停
の横みたいです」
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