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2008年5月31日 (土)

作者の簡単レビュー 【その23】

 本作RobbinⅡのサブタイトルは当時、「イスタンブールの夢に…」とし
ていました。しかし内容的に、イスタンブール編と日本編に分かれてい
ることと、前作のラストでマイクホフマン長官がつぶやいた「レイン計画」
が本作の中心である事から、WEB掲載するにあたって今のサブタイトル
に変更しました。
 次回からの第六章のサブタイトルは「ゼブラ再び」です。イスタンブール
編もついに佳境をむかえます。

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2008年5月29日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第五章(11)

 唇を噛みしめたまま、彼女は膝の上でギュッと握ったこぶしを震わせ
ていた。うつ向き加減の彼女の瞳から、大粒の涙が幾筋もこぼれ落ち
て行く。泣き出すのを必死にこらえていたが、やがて両手で顔を覆いな
がら彼女はついに泣き崩れた。
 津田は黙って煙草を吸い続けていた。あまりにもその姿は寂しげで哀
れだったが、彼女は同情を求めていなかったのだ。やがて彼女は手で
涙を拭いながら、津田にしゃくりあげながら言った。
「私を、どうするつもりなの」
「別に。俺は別に君がここで何をしていようと、そのことを一切問題にす
るつもりはない。それは誤解しないでくれ。こうなるまでには色々事情
もあっただろうし、それを詮索するほど俺は物好きじゃないし、そのため
にここにやって来たわけじゃないからね。俺が知りたいのは、川田良子
の一件に関係のあることだけだ。それについて君の知ってることを、全
部俺に教えてくれないか。
 それに、俺を襲った奴らのことも、少しは知っておかないとこっちも困
る。奴らが俺のことをそうそう簡単に諦めてくれたとは思えない。これか
らも狙ってくる可能性が大きいし、それに今度は多分ただじゃ済まない
だろうからね」
 しきりと鼻をすすっている彼女に津田は、Gパンのポケットからハンカ
チとティッシュを取り出すとそっと差し出した。彼女は受け取る時に少し
頷いただけだったが、いつもの冷静な顔付きが少しづつ戻って来たよう
に見えたので、津田は少し安心した。
「何処か、外でお話ししませんか」
 杉本弘美は控え目に言った。津田はじっと彼女の目を見詰めながら、
押し殺した声で言った。
「わかった。でも、他意はないんだろうね」
「外へ誘き出して、後は待ち伏せしてるお兄さん方と交代、って思った
んでしょう」
「思わない方がどうかしてる」
「信じてくれて無いんですね、私の言うこと」
「信じて無いんじゃない。用心深いだけさ」
「嘘!こんなことしてる女の言うことは信じられない、って正直に言って
よ」
「誰もそんなこと、思ってやしないよ」
「そう?信じられないな」
「弘美ちゃん、いい加減にしろよ。俺に開き直ったって仕方ないだろうが。
それに、君にはそういうのは似合わないよ。変に悪ぶらない方が、ずっと
君らしいと思うけどな」
 彼女は再びしばらくの間、無口になった。
「私を軽蔑しないの」
「ふ、そんなに軽蔑して欲しいのか」
「今までの男は、みんなそうだったから」
「………」
「みんな、そう。私の体を欲しがって近付いて来ただけで、玩具にされて
利用されて、挙げ句の果てに捨てられ続けてきたもの。ここでは人を信じ
ちゃいけない、ってわかったの……でも気付くのが遅すぎたけどね」
 哀しそうな笑いを浮かべ、杉本弘美はそう呟くように言った。
「今も、利用されてるの。わかってるわ、でもね、日本へ近いうちに帰った
時に、生きてくために就職口を探さなきゃいけないでしょう。その時のこと
を交換条件で、割り切ってるんだ」
「日本での就職口を、世話してもらえるってわけか」
「そう。ここに居た期間を、何処かの会社に勤めてた、ってことにして胡麻
化してもらうの。もちろん就職する予定の会社にも、そのことは秘密にして
もらうように圧力をかけてもらうわけだけど。平凡な何のコネも持たない一
人の人間が、普通の人と違うコースを歩んでしまった以上、無駄な時間を
費やさずに元の日本人社会に戻るにはそれしかないもの。
 日本人ってそういうところは結構閉鎖的でしょう?自分の常識と違うこと
を受け入れるのに抵抗があるし、その他大勢の中の一人で居たいという
保守的っていうのか、個性がないっていうのか。要は根が暗いのよ。でも
どうのこうの言ってみたところで、私もその日本人の一人なんだけどね。
たしかに我儘な考え方なんだろうけど、最終的には平凡な結婚生活にた
どり着きたいの」

 やはりこの娘も平凡な女性の一人なんだな、と津田は思った。女子転職
者に多い履歴詐欺の一種であるとも言える。津田達が中途採用調査をす
るにしても、以前の会社の人事課長あたりに話を聞くことが多いわけだか
ら、たしかにその辺まで押さえられていれば、滅多なことでは足は出ない。
絶対にばれない保証のある粉飾された履歴で自分を綺麗に見せ、新しい
会社で一からやり直すことが出来るなら、誰しもそれを望むだろう。自分の
過去を消し去れたような錯覚に一時的に酔いしれるだけの話なのだが、事
実はそれほど単純な人間ばかりではなく、意外と転職詐欺は多い。
「そういう先例があるわけか」
「それは私には判りません。今のその人が、過去にそんなことをしてたとは
思えないし。個人的な関係で、本意じゃないけど彼のために協力してあげ
てるだけだから」
「多分、そう言うだろうと思ってた。じゃ聞くが、今の彼と結婚でもするのか。
どういういきさつで個人的な関係が出来たのかは知らんが。それとも今の
自分のやってることを隠せるなら、それと引き換えにどんなことをしてもいい
とでも言うのか。たしかに我儘な論理だな」
「………」
「弘美ちゃん、君の論理はね、善意の第三者を装う共犯者のそれと同じな
んだよ」
「そんな。共犯者だなんて」
「だって、そうじゃないのか。ここではどうか知らんが、日本では立派な犯罪
だよ。君は自分のしてることが一体どういうことなのか、わかって無いんじゃ
ないのか。君はもっと分別のある女性だと思ってたんだが、どうやら俺の見
込違いだったみたいだな」
 津田はそう言うと、煙草を荒々しく灰皿でもみ消し、やおら立ち上がった。
「何処へ行くの」
「決まってるだろ、帰るのさ」
「私は?」
 不安そうな顔付きで、杉本弘美が尋ねる。
「知らん。勝手にすればいいだろう。俺は我儘な女に付き合ってられるほど
暇じゃない」
 そう言うと津田は、スニーカーを履きながら玄関の方に向かった。同時に
背後から、杉本弘美が凄い勢いで、津田の背中にしがみついてきた。
「お願い、帰らないで。私をこのまま一人にしないで!」
 長い髪を振り乱して、泣きながら杉本弘美はそう言った。
「俺に慰めて欲しいんだったら、お門違いだな。その彼氏とやらに抱いても
らえばいい」
「そんな……」
 なおも杉本弘美は、津田の前に回りこむと服をきつくつかんで、哀願する
ように言った。
「お願い、ここに居て。……お願い」
 そう言うと彼女は、その場に泣き崩れた。津田はじっと冷ややかな眼差し
でそれをしばらく見詰めていたが、やがて彼女の涙で濡れた顔を右手でそ
っと上げながら言った。
「ふ、本当に我儘なお嬢さんだな。ん?」
 その言葉に、杉本弘美は堰を切ったように大声で泣き出しながら、津田に
抱きついて来た。

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2008年5月27日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第五章(10)

 緊張した顔の津田が杉本弘美のアパートを夜九時過ぎに突然訪問し
たのは、その翌々日だった。彼女はちょうどシャワーを浴びて、出てきた
ところだった。
「びっくりしたァ。一体誰かと思っちゃった」
 杉本弘美はバスタオルで髪を拭きながら、その時の精神状態にして
は精一杯の笑顔で、津田を迎え入れた。津田はちょっと唇の端に笑み
を浮かべただけで、何も言わずに勝手に杉本弘美の部屋に入り、テー
ブルの一方に腰を下ろした。
「どうしたんですか、津田さん。そんな難しい顔をして、何か判ったの」
「ごめん、冷えたビールがあったらもらえるかな」
 津田は杉本弘美の問いには答えずに、そう短く言っただけだった。
「はい」
 彼女は素直に津田の言葉に従った。しばらくの間、津田の溜息と互
いのビールを飲む音だけがその部屋の中で聞こえていた。杉本弘美
はじっと黙ったままで、津田が喋り出すまで、彼の正面に座って言葉
を待っていた。ややあって、津田が重い口を開いた。
「弘美ちゃん。一つ聞いていいかな」
「……どうぞ」
「君は初めて会った時、どうして俺が悩んでると思ったんだ」
「え?どうしてそんなこと、今ごろ聞くんですか」
「何か意図があって、俺に近付いて来たんじゃないのか」
「まさか。でもどうして、そんな風に考えるんですか」
「今の組織から逃げ出したい、と考えてるんじゃないかと思ってさ」
「何のことですか、組織って」
「一年前に川田さんに救いを求めたようにね」
「津田さん、何か勘違いされてませんか。私には一体何のことか、さっ
ぱり判りませんけど」
「そうかな。だといいんだが」
「………」
「しかし今の組織には困ったもんだな。いきなり俺まで消そうとするか
らね」
「え?」
 杉本弘美はびっくりしたような顔付きで津田を見た。そう言われて彼
女が津田の格好を良く見てみると、あちこち服は汚れた跡があり、腕
には擦り傷から微かに血が滲んでおり、シャツの胸元には赤い小さな
斑点がポツポツと付いている。
「津田さん、それは血?誰かに襲われたんですか」
「ああ、ちょっと色々あってね」
 津田の脳裏に、先ほどの連中との格闘がよぎる。ナイフを振り回して
くるチンピラ程度だからよかったものの、もう少し腕に覚えがある連中に
拳銃でも持たれていたら、今頃はあの世行きだったかもしれない。
「それで、私が誰かに津田さんのことを教えたと」
「その表現はちょっと違うと思うんだが」
「津田さんにしては、回りくどい言い方ですね。はっきりおっしゃってくだ
さい」
「つまり、君が俺のことを知らせたんだろ」
「私が?どうして」
「これ以上俺に嗅ぎ回られると、組織のことを感付くと思ったからだ」
「また……組織って、一体何のことですか」
「とぼけるのもいい加減にしたらどうだい、弘美ちゃん。俺が知らないと
でも思ってるのか。甘く見てもらっちゃ困るな、俺の職業を忘れたのか」
「貴方が何を知ってるというの。変な言いがかりはよして欲しいわ」
「君は知ってるんだろ。『雨』が何を意味してるのかを」
「判らないなあ。どうしてそこに話が飛ぶの」
「この前のヒルトンホテルの六一四号室のこと、知ってるんだよ」
「!!……」
 しばらくの沈黙があった。ややあって杉本弘美は、真っ青な顔で津田
をじっと睨みながら言った。
「私の後を、付けたのね」
「……そういうことになるね」
「最低だわ、そうやって色々嗅ぎ回るのね。探偵って最低の人種」
 彼女はそう吐き捨てるように、短く言った。津田が無言でいると、
「帰って」
 杉本弘美は血の気の引いた顔で、津田がこれまで見たこともない激
しい形相で突然叫んだ。
「帰って!!」

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2008年5月25日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第五章(9)

 六階のフロアに降り立った津田は、目の前の壁に示されている部屋
番号を見ながら、六一四号室のある方向にゆっくりと歩いた。ホテルに
よっては各階に警備員のような人間が居て目を光らせていることがあ
り、津田も実を言えばそれを少々心配していたのだが、少なくともその
フロアにはその類の人間は居ないようだった。ほとんど音もなく津田は
ゆっくりと廊下の中央の赤い絨毯の上を歩いて行った。六一四号室を
わざと通り過ぎ、いったん一番端まで来ると、また戻り始めた。
 誰もそのフロアにいないことを確認して、津田はそっと六一四号室の
前で止まった。ふとドアの下を見て、彼は思わず目を見張った。白いバ
スタオルらしき物がドアと床の隙間を埋めるように置かれ、少し廊下側
にはみ出ているのが見えたのだ。部屋の中の音が少しでも外部に漏
れることを嫌って、そうしている以外には考えられなかった。通常はそ
こまで防音に気が回る人間は少ない筈だし、それを知っている人間が
ここにいることが、津田には意外だった。
 津田は誰か通りかからないかどうかを注意しながら、少しドアに耳を
近付けた。やがて時折、明らかにあの最中の女の呻き声とわかる音
が、津田のそばだてた耳元にドア越しに微かに聞こえて来た。津田は
何事もなかったかのように再びドアから遠ざかると、ゆっくりと歩き出し
た。エレベーターで一階のロビーまで戻ると、彼はそのすぐ斜め前にあ
るラウンジに入り、エレベーターが二基とも見える入り口から少し離れ
た場所に座ると、コーヒーを注文した。

 日本で津田が最近嫌というほど経験している定石通り、それから一
時間少し経った頃、杉本弘美が独りでエレベーターから姿を現わした。
彼女はややうつ向き加減で、ゆっくりした足取りで正面玄関の方に歩い
て行く。津田の推測に間違いは無いようだった。
『相手が特定の彼氏なら、一緒に姿を現わすはず、か』
 津田は見てはいけない彼女の一面を見てしまったことを少し後悔した。
そして彼女がどうやってここで生活資金をまかなっているのかも察しが
付いた。
『待てよ……彼女のところに電話してきたのは、一体誰なんだ』
 一瞬、突拍子もない想像が頭をよぎり、同時に川田良子のことや塚本
美雪のことが浮かんで来た。
『まさか、雨のことを伝えに来た塚本美雪って女は……』
 杉本弘美というのが本当に彼女の本名なのかどうかを、津田は疑い
始めた。彼女がそう名乗って、津田がそう呼んでいるだけで、別に彼
女のパスポートを見せてもらったわけではないのだ。津田にわざわざ
偽名を名乗る必要はないかも知れないが、本名を名乗る必要もない。
『その前に、お相手と面通しさせてもらっとこうか』
 急いで津田は六階まで上がると、部屋を間違ったふりをしてドアをノ
ックし、開いたドア越しに杉本弘美の相手をした男の顔を間近で確認
した。下手に警戒されるようであれば、シェラトンとヒルトンを間違った
とでも言い訳するつもりだったし、最悪の場合は武力行使もやむを得
ないと覚悟していた。だが幸いその心配は不要だった。相手の男の
顔を確認した後、津田は数日間、出来る範囲でその男を尾行し、身
許を確認しようと決心した。
 単なる行きずりの人間であったにしても、何故彼女のことをサカモト
なるその男が知っていたのか、または直接知らずに偶然彼女が彼に
割り振られたとすれば、どういうルートでそうなったのか。津田の考え
過ぎでなければ、そのあたりから川田良子殺害事件の糸口が見えて
くる筈である。もっとも、これはかなり大胆な仮説に基づいているわけ
だが。

 男の年格好が五十過ぎの小太りで頭がかなり薄めの男だったこと
から考えて、イスタンブールへのこのこと観光に来ているわけではな
さそうに思えた津田だったが、予想通りサカモト氏は翌朝、メジデイキ
ョイにある日系企業に出掛けて行った。そこに駐在していると思しき
日本人達と数人で、昼頃一緒に出掛けているところから、恐らく日本
から短期間の出張で来ているように思えた。だが確証はない。それに
今の状況だと言葉の問題があり隠密行動が出来ないので、津田が下
手に動くと、相手に悟られてしまう可能性があった。そうなると面倒な
ことになる。
『日本に連絡して、頼むしかないか』
 もうしばらく様子を見て確証を得ようと考えていた津田だったが、意
に反してそのサカモト氏はその二日後、イスタンブールを後にしてしま
った。やっと手繰り始めた手掛かりの糸が、突然プッツリと切られてし
まったような感じで、津田は拍子抜けしてしまった。こんなことなら、い
っそあの時サカモトの部屋に踏み込んで、力ずくでも吐かせるのだっ
たと津田が悔やんでも、今さらどうしようもなかった。
『日本からやって来た、役付きのそれなりの立場の人間の接待に彼女
を利用した、と見る方が自然だろうな。だがあのサカモトって男がここ
へ頻繁に出張で来ていて、個人的にそういうコネを知ったとも考えられ
る。今回たまたま利用した、って可能性もあるわけだ』
 津田はやがて決心していったんホテルに戻り、最寄のPTTを教えて
もらってそこに出向き、一番高額のテレホンカードを数枚買い求めた。

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2008年5月23日 (金)

RobbinⅡ-レイン計画- 第五章(8)

 津田は最初、そのままホテルに帰るつもりだったのだが、自分なりに
少し頭を整理しておこうと思い立ち、ちょっと休憩がてら寄り道すること
にした。すぐ脇のマルマラ・ホテルの一階にある、屋外に設けられてい
る喫茶店、いわゆるオープンカフェが目に入ったので、とりあえずそこに
入るとアイスティーを注文した。運ばれて来たアイスティーを飲みながら、
何とはなしに景色を眺めていると、やがて津田が出て来た道から杉本
弘美が現われたのがわかった。彼女は服も先ほどとは打って変わって
派手めのものに着換えており、化粧もかなり濃い目だった。
『さっきまでの彼女とは別人みたいだな。何かあるな……』
 杉本弘美はタキシム広場を横断して、シェラトン・ホテルのある方向に
歩いて行った。それをじっと見ていた津田の心の中に、ふと悪意が生ま
れた。彼は勘定を済ませると、足早に杉本弘美の後を追った。彼女が
何処へ行くのか、そして誰に会うのかをのぞき見てやろうと思ったのだ。
もちろん津田は気軽にそう思っただけで、彼女がタクシーやバスを使っ
たらその時点で尾行を諦めようと思っていた。
 杉本弘美はタキシム広場の横にある公園を横切り、シェラトンの方に
歩いていた。だが彼女の行き先はそこではなく、その先の信号を渡ると
なおも真っ直にジュムフリエット通り沿いに歩いて行く。やがて彼女は右
折した。そこはヒルトン・ホテルの入り口だった。
『友達が来て、会いに行くのかな。それとも彼氏か』
 津田は彼女の背を見詰めないように、注意しながら後を追った。尾行
の基礎的なこととして、絶対に被調査人の背中をじっと見詰めてはいけ
ない、という鉄則がある。誰しも背中に投げられた視線は、不思議にそ
れとなく感じるものなのだ。だからこういう時は、感覚の鈍い足元を見る
必要がある。そして尾行する距離も色々な要素で変えなくてはならない。

 杉本弘美は津田に尾行されていることなど、露ほどにも感付いていな
いようだった。彼女はフロントの前を真っ直に進み、その横の右側のエレ
ベーターに乗り込んだ。津田は彼女が乗ったエレベーターが動き始めた
頃を見計らって、急いでそのエレベーターの前にやって来た。乗員が彼
女だけだったことは、遠くから確認している。エレベーターは六階で止ま
っていた。
 駄目もとだと思い、津田はフロントに向かった。できるだけ愛想良く振
る舞いながら、日本人の友人がこのホテルの六階に止まっていると連
絡を受けたのだが、何号室になるのか教えてくれと英語で尋ねた。フロ
ントの人間はコンピューターで検索してくれたが、その日本人の名前は
何と言うのだ、と津田を見ながら尋ねた。一瞬、津田は焦り、頭の中で
英語を探した。
「そんなに何人も日本人が六階に泊まってるのか」
 津田はわざと大袈裟に、びっくりしたような顔でそのフロントに言った。
笑顔で津田の期待した返事が返って来た。
「ミスター・サカモトですか」
「そう、ミスター・サカモトだ」
「彼は六一四号室です」
「ありがとう。ところで、他に日本人が六階に泊まってるのかい」
「いいえ、今は彼だけですが、それが何か」
「いや、君が今そう言ってたから、ひょっとして日本人の団体客でも入って
るのかなと思ったのさ。同じ名前の人がいて間違うと困るなと思ってね」
 津田は笑顔でそう言うと、片手をちょっと上げて礼の仕草をし、すぐにそ
の場を離れた。エレベーターの方にゆっくり歩きながら、横目で六一四号
室の鍵がキーボックスに無いことを即座に読み取ると、津田はエレベータ
ーで六階に上がった。別に杉本弘美の面会の相手が日本人だとは限ら
ないので、これは津田の勘でしかない。だが先ほどの電話口での杉本弘
美の対応は、あくまで津田に会話の内容が聞こえないように気遣ってい
た。それが津田には引っ掛かっているのだ。
 通常、杉本弘美はハキハキとした喋り方をするので、先程の電話の相手
とは日本語で喋っていたことになる。トルコ語でなら津田には判りはしない
のだから、もっと大きな声で喋ればよい。よしんば日本人から電話がかか
り、その人間以外の誰かに会うように頼まれたとしても、先程の彼女のい
でたちは、津田の知っているこれまでの杉本弘美とはまるで別人のようで、
不自然だった。そして杉本弘美はここで男と会うことを、津田には内緒にし
ておきたかったように思えるのだ。たしかに彼女の性格としてプライベート
はきちんと区別しており、他人に踏み込まれることを神経質なほど嫌って
いる。だがわざわざこのことを秘密にする必然性は少ない。杉本弘美にし
ては不自然なその行動が、少し津田の神経を刺激したのだった。

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2008年5月21日 (水)

RobbinⅡ-レイン計画- 第五章(7)

 タキシムへ戻る道すがら、トルコのバスはどこもこうなのかと思う少々
奇妙な姿が、時々津田の目に付く。二台つながった形のバスなのだが、
明らかに後半のそれはバスの運転席部分を切り取って、前のバスとち
ょうど列車の連結部分のようなジャバラ状のものでつながっている、さ
ながらイモ虫を思わせる奇怪な姿だった。何台もバスを見かけるのだ
が、約半数近くはその形のもので、残りはどこにでもある通常のバス
だった。杉本弘美に尋ねても、流石の彼女もその生い立ちまではわか
らないらしかった。
 途中のドルムシュの中で津田は杉本弘美に、近くだからついでに休
憩がてら寄って行かないか、と彼女のアパートに誘われた。彼女がど
んな生活をしているのかという興味もあり、津田は少しだけ立ち寄るこ
とにした。男を招き入れることに抵抗があるのではと訝しがったが、特
に彼女は津田をそういう警戒した目では見ていないようだったので、
津田も変な下心は持たず、素直にその申し出に従った。

 入り口にたむろして井戸端会議をしている数人のトルコ人女性の、二
人の関係を完全に誤解したとわかる視線を浴びながら、津田は彼女と
共にアパートに入って行った。各部屋の入り口のドアには、ノブのあた
りとその少し離れた上に二箇所、鍵が付いている。杉本弘美はまずガ
シャガシャと四回上の鍵を回した後、ニ回下の鍵を回し、さらにそこから
左に少し鍵をひねった。ガチッという音がしてドアが内側に開く。かなり
厳重な施錠だった。
 招き入れられた空間は、津田が予想していたよりも意外と狭く、通常
の一家族が居住するより少し狭いほどの広さに、台所とトイレ兼シャワ
-室、それと部屋が二つだけの質素な作りだった。津田はその薄汚れ
た壁を横目で見ながら、彼女の部屋に入った。彼女は台所の冷蔵庫を
開けると「ピルセン」と書かれた冷えたビールを取り出し、コップを二個
持って来た。
 タイル床に敷かれた絨毯の上に小さな座り机があった。彼女はその
机の上にビールとコップを置くと、再び台所の方に行った。そして栓抜
きと灰皿を持ってやって来た。
「暑い時には冷えたビールが一番、でしょ」
 そう笑いながら杉本弘美は、二人分のビールをコップに注ぐと津田に
勧めた。軽く乾杯した後の咽越しの冷たいビールは、思わず生き返っ
た気分になり心地好かった。
「この絨毯、結構トルコっぽくていいと思いませんか。もちろん、川田さん
のところにあったヘレケとは全然比べものになりませんけどね」
 そう言われて、津田はしげしげと腰の下の絨毯を見た。川田のアパー
トに敷いてあった絨毯の配色が明るかったのに比べ、杉本弘美のは全
体的に暗目の印象があった。
「これは、何て名前の絨毯なの」
「ヤ-ヤル。本当のトルコっぽい感じがして、私は好きなんです。でも日
本人にはヘレケのような細かい織りの絨毯が一般受けしやすいみたいで」
「よく判らないけど、絨毯っていうとペルシャ絨毯を一番に思い浮かべちま
うんだが」
「そうですね。羊毛の絨毯では目の細かさではペルシャが一番でしょうね。
でも絹の絨毯は実はトルコのヘレケ産が世界一なんですよ。それに羊毛
でもヘレケは模様が細かいから、下地の色にムラがあったら見にくいでし
ょう。だからヘレケの絨毯の染料は、全て合成染料なんです。この絨毯は
自然染料しか使ってないやつだから、そういう意味でも私はこっちが好き
だな。いつまでも色褪せないから。津田さんもお帰りになる時には記念に、
奥さんに絨毯でもお土産に買われたらいいんじゃないですか」
「俺はまだ独身なんだけどね、弘美ちゃん」
「え、本当に。ご免なさい」
 その時、トイレの前の洗濯機の脇に置いてある電話が鳴った。杉本弘美
はちょっと眉をひそめ、「ちょっと失礼」と小声で言って立ち上がり、電話を
取った。彼女が津田の方に背を向けるようにして電話で話している間、津
田は手持ち無沙汰にその部屋の中を見回していた。さすがに女性の部屋
らしく、大きめの鏡と化粧品が幾つかある以外は、小さな本棚と衣装ケー
ス、それにベッドに早変わりするソファーがあるきりの質素な部屋の構成
だった。ややあって杉本弘美が戻って来たが、気のせいかあまり元気が
ないように津田には見えた。
「津田さん、すみません。私ちょっと急用が出来て、外出しなければならな
くなって……」
「わかった。じゃ、今日はこの辺で失礼しよう。また連絡すると思うけど、夜
なら帰ってるのかな」
「そうですね、だいた夜の九時以降なら、よっぽどのことがない限りは居る
はずです」
「了解」
 そう言うと津田は杉本弘美のアパートを出て、タキシム広場に出た。

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2008年5月19日 (月)

RobbinⅡ-レイン計画- 第五章(6)

「津田さん、トルコ風のお昼にしますか」
 と杉本弘美に言われ、津田はわけの判らないまま頷いた。彼女は通
りで露店を出している売り子に近付くと、何やら話しかけた後に金を渡
し、その前にあった茶色の山を神妙な顔付きでいじりだした。やがて丸
い大型のドーナツのような物を二つ、両手に持って再び津田の前にやっ
て来ると、津田にその片方をにこやかに差し出した。
「シュミット、って言います。出来たてだから、おいしい筈ですよ」
 二人は近くにあったバーダット通りに面して設置されている長椅子に
腰掛け、かじるというよりは引きちぎるようにしてシュミットを食べた。胡
麻が固めの表面に、これでもかというくらいにくっ付いている。津田の予
想に反して、それは控え目な塩味だった。
「お、結構いけるねえ」
 津田のその言葉に、杉本弘美は嬉しそうに笑った。トルコの青山通り
と言われるだけのことはあり、高級そうな店がずらりと道の両側に立ち
並んでおり、道行く人も何処か高級っぽい雰囲気を持っているように津
田には見えた。流石に日本人が二人ベンチに座ってシュミットを食べて
いる光景が珍しいのか、道行くトルコ人達が彼らを一瞥して行く。二人
は取り敢えずの今日の目的を果たせたことでホッとしたせいもあるだろ
うが、しばらくの間あれこれとりとめのない雑談に花を咲かせていた。
少しだけのんびりした暖かな時間が、二人の間をゆっくりと流れてゆく。

 やがて、杉本弘美が津田に言った。
「津田さん、今後の私の出番は?……今日でおしまいですか」
「いや、今日帰ってから色々なことを、もう一度自分なりに整理してみな
いと判らないけど、多分今後も、また何度か手を借りることになると思う
よ」
 いくら地獄で出会えた仏とは言え、津田とて全てを馬鹿正直に彼女
に教えるわけにはいかない。別に杉本弘美を信用していないわけで
は無い。偶然に出会ったとは言え、彼女ほど津田の今回の調査の助
手に適任な人間は、イスタンブール広しと言えどもそうそうお目にかか
れない。だが津田自身の中で漠然とだが、彼女も自分に対して何か
を隠しているような気がしているのだ。
「あ、ところで弘美ちゃん。仕事の話に戻って悪いんだけど、どのくらい
お礼を払ったらいいのかな。それに色々立て替えてもらってる分の精
算もしなくちゃいけないし」
「そうですね。じゃあ、アメリカドルで一万ドルほどもらっておきましょう」
 杉本弘美は笑いながらそう言った。
「おいおい、弘美ちゃん。冗談は無しにしてくれよ。一瞬ドキッとしたよ」
「ふふふ、ご免なさい。ちょっとからかってみただけ。でも別に今日明日
の生活に困ってるわけじゃないから急ぎませんし、額はお任せしますか
ら、無理をなさらない程度に。本当にお気持ちだけで結構です。私もちょ
うど暇を持て余してたところだし、必ずしもお金のために津田さんのお仕
事のお手伝いをさせてもらってるわけじゃないんです。気分転換にもなっ
てるから、お互いさまってとこもありますから、ね」
「ありがとう。だが仕事は仕事だから、その辺はキチッとさせてもらうよ。
さて、ところでここからどうやって帰ればいいのかな」
「また一人にさせてあげましょうか?」
「おいおい、それは勘弁してよ。あの時は上手くいったけど、そうそう何
回も偶然は続かんからね。出来るならご一緒したいなあ」
「ふふっ、そうですねえ……どう帰ろうかな。ボスタンジュまで行ってそこ
からデニズ・オトビュス、高速艇みたいなものです、に乗ればカバタッシュ
かカラキョイまで直接行けます。時間が合えば、それが一番早いです。
あとタキシム行きのドルムシュを拾うのも可能です。津田さんにはちょっ
と難しいかもしれませんが、ドルムシュの助手席前にそれが何処行きか
を示すプレートが必ず置いてあるので、それを読めばわかるんです。それ
以外だと、ここを走ってるバスの番号が百番台の物は橋を越えてヨーロッ
パ側まで行くバスですから、百二十四番だとメジデイキョイへ行けるし、
百十四番だとベシクタッシュまで行けます。もちろん、ここから四番のカド
キョイとボスタンジュ間の循環バスかドルムシュでカドキョイまでいったん
出て、そこからバプールでカラキョイかエミニュヌまで戻るっていう手もあ
ります。津田さんはどれがいいですか」
「そ、そんなに一杯……うーん」
 似たようなうる覚えの地名が次々に出て来て津田は面食らった。位置
関係があまり良く理解出来ていないので、完全に混乱していた。とても
正常に判断できる状態ではなかった。
「ま、ご一緒させてもらうんだから、弘美ちゃんの好きな方法でいいよ」
「そうですか。じゃあ、ドルムシュでタキシムまで一気に行っちゃいましょ
うかぁ」
 津田に異存があろう筈がなかった。やがて彼らはバーダット通りで、タ
キシム行きのドルムシュを拾って乗り込むと、タキシムまで戻った。

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2008年5月17日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第五章(5)

「私自身のこともあるから。へたにトルコ語が喋れるぶん、私自身のこと
を色々詮索される羽目になるだろうし、私のプライベートの領域まで踏み
込まれるのは好きじゃないから」
「なるほどね、そういうことか」
「はい。すみませんけど」
「わかった。じゃ、話を戻そう。この下の階の人は、事件があった時に住
んでた人と一緒かどうか、聞いてもらえるかな」
「……同じだそうです。このアパートの住人で、事件後に移って行った人
は誰もいないし、この階に川田さんが入居した以外に、ここ数年変化は
無いそうです」
「じゃ、川田さんが入居する前は、ここには誰が住んでたの」
「……数年前にやはり日本人が一度入居したことはあるみたいですが、
それだけで、後はここの大家がずっと住んでたようです」
「ここの大家とは、連絡を取って会おうと思えばいつでも会えるのかな」
「……大丈夫だと言ってます。何なら自分が今から連絡してあげてもい
い、と」
「大家は何処に住んでるって」
「……ギョズテペ、比較的近くですね。もともと外国人向けのアパートが
有るわけじゃないので、本来そのアパートのワンフロアを購入して住ん
でるトルコ人の持ち主が、不動産屋なんかに依頼して入居希望者を探
してもらう場合が多いんです。外国人だとかなり高く吹っ掛けられますし、
大体はほとんど仕事で来てますから、多少値段が高くても払ってもらえ
るので高収入になりますしね。その間、持ち主のトルコ人はまた別の、
安いっていうかトルコの普通の値段のアパートに賃貸で入居して、利鞘
を稼いでるってわけです。そのアパート全体のオーナーが居て、居住者
全員が賃貸のみって場合もありますけどね。でも私に言わせれば、そ
の場合だって外国人相手の値段は、トルコ人に比べてとんでもない値
段が付いてますよ。もっとも、それが相場だって言われると、どうしよう
もありませんけど」
「ところで、このあたりは夜寝る時、窓を開けっ放しで寝ても大丈夫なの」
「……この辺の階なら大丈夫だろうが、普通は三階ぐらいまでは泥棒の
心配もあるので閉めていることが多いみたいだ、と。一階は何処でもだ
いたい、窓やドアに鉄格子がはまっています」
「このアパートで今まで、コソ泥の類の被害にあったことは」
「……全く無かった、と言ってます。今回の川田さんの件で、自分も立場
が怪しくなりかかった、と」
「カプジュとしての、本来のアパート管理業務の遂行能力に疑問を持た
れたわけか。犯人が入る時も出て行く時も、全くその姿を見て無いんだ
からなあ。責められても無理ないか」
 津田はせめて死亡推定時刻さえ判れば、と悔やんだ。今の状況では
あまりにも漠然とし過ぎて、犯人像が全く特定出来ないのだ。川田が
言っていたように、犯人が川田良子の顔見知りなのか、一元の強盗に
過ぎないのか、すらも定かでない。
「弘美ちゃん、ところでこの国は電話料金の支払いはどうなってる」
「毎月請求書が来て、郵便局、PTTって看板が出ているところがそれ
なんですけど、そこで期限までに現金で支払うようになってます。期限
までならイスタンブールの何処のPTTでも支払えますが、期限を過ぎ
ると特定のPTTでしか受け付けません。ここだったら、エレンキョイか
ボスタンジュになると思いますが」
「その請求書は、郵送か」
「ええ。名義人宛ての金額丸見えの、日本の郵便振込の用紙を小型
にしたようなものですよ」
「ということは、カプジュが郵便物と一緒にここに持って来てたわけだな。
金額もチラッとは見たこともあるだろうが、いつも異常に高かったとか、
そんな記憶は」
「……別に。時々国際電話をしてるようで、結構高額な時も有ったが、
外国人だからとそんなに気にはしてなかった、と」
「そうか、国際電話をすれば国内通話分なんてたかが知れてるから、
消されちまうな。この国は日本の通話明細みたいなものは発行して
るの」
「さあ、見たことありません。コンピューター管理されてるように見えて
ますが、実際は怪しいと思います。最近私のところの電話料金がえら
くバラついて請求されるんで、いつからいつまでの通話料金は幾らに
なってるのかの明細を聞きに行ったことがあるんですけど、判らない
らしくて、何やかや言って結局教えてくれませんでしたから」
「そうだ、翔くん、川田さんの息子さんなんだが、普段どんな様子だっ
たかわかるかな」
「……結構、近所やこのアパートの住人の子供達と、下で仲良く遊ん
でたようです。明るくて人見知りしない子供だったと」

 それから津田と杉本弘美は二、三質問した後、屋上を見てから、カ
プジュにその下の階の住人に引き合わせてもらった。だが幸い在宅
だったその住人に質問しても、当時のことはあまり覚えていない様子
で、特にこれと言った新しい手掛かりは何も得られなかった。
 また来るかも知れないからその時はよろしくと言い残し、二人はその
アパートを後にしてバーダット通りに出た。時刻はすでに昼の一時を少
しまわっている。

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2008年5月15日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第五章(4)

「……当日に、このフロアに入ったと思われる人間が居たかどうか、を
まず尋ねられたそうです。彼が知っている範囲では、アパートの住人
以外は出入りしていない、と答えたそうです。ただし彼は当日朝の十
時頃、五階の住人から買い物を頼まれて出掛けていますから、その
間に誰かが出入りしていればわからない、と」
「これまでここには、誰か尋ねて来たことがあるとか」
「……そこまではわからない、と言ってます。その事件の起こる数日前
に、日本人らしい若い女性が訪ねて来たのを一度垣間見てるので、多
分ここに来たんじゃないかと思うが、事件には関係ないだろうと思う、と。
このことは警察には言ってないそうです。警察は男性の出入りがあった
かどうかを執拗に尋ねたそうです。彼も容疑者的な扱いを受けたそうで、
とんでもないことだと言ってます」
「若い女性だって。初耳だな。特徴は、何か覚えてないか」
「……全く覚えてないそうです。髪の長い東洋系の顔つきだったことし
か。背は余り高くなく、ちょうど私より少し高いぐらいだったと思う、と」
「ふうん。ところで川田さんの奥さんは、どんな人だった」
「……親切で、笑顔の素敵な人だった。あんないい人が殺されるなんて、
犯人は何て残酷な奴だろう」
「川田さんの奥さんは、彼に色々用事を頼んでたのかな」
「……いえ、ほとんど自分で買い物等に行ってたみたいです。川田さん
から頼まれてたのは、毎朝の新聞の購入と時折ビールの注文やガスの
補充依頼がある程度で、郵便を持って行くと必ずチップをはずんでくれた、
と言ってます」
「彼女は、長時間の外出は頻繁にしていたのかな」
「……いえ、ほとんど出て行っても、小一時間程度で帰ってくることが多
かったようです」
「ふうん。ところで、彼女はトルコ語の方はどうだった。旦那さんの方はか
なり苦労してたみたいだけど」
「……全く喋れないと思ってたけど、結構それなりに意思は通じた、と言っ
てます」
「それなりに、とはどの程度」
「……普通に、と言ってます。これは自分個人の印象なんだが、彼女はト
ルコ語が喋れるのに、わざと下手に喋っているような感じがした、と」
 津田にとって、これは意外な答えだった。
『トルコ語が喋れるのに、上手く喋れないふりをしてたって言うのか』
「どうして、そう思ったのか、尋ねてもらえるかな」
 川田が赴任していたのは英語圏なので、もしそれが事実だとすると解せ
なかった。
「……単語を良く知ってたし、言葉の語尾変化に間違いがなかったから」
「言葉の語尾変化?何、それ。弘美ちゃん、わかりやすく教えてくれるか
な」
「トルコ語っていうのは、人称や時制を表わす接尾語が、動詞の後ろにく
っ付いていくんです。トルコ語を習い始めた当初は、私もかなり苦労しまし
た。単にくっ付いていくだけじゃなくて、子音が有声から無声になったり、
途中の母音が欠落したりするんです」
「彼女はその辺まで、ほぼトルコ語をマスターしてたってことかい」
「……そのようです。以前にここに長いこと居てトルコ語を勉強してたんじ
ゃないんですか」
「いや、川田さんの話では、彼女は大学時代に友人とイスタンブール旅行
をした程度だ、と言ってる」
「ふうん……そうですか」
「で、警察からはその後何か言ってきたのかな」
「……いえ、その後は何の音沙汰もないそうです」
「そうか、やっぱりな。迷宮入りになってる可能性が高いな」
「特にこれと言った証拠がないから、ですか」
「そう、たしかにこれは犯人の特定が難しいな。本郷を連れて来れば良か
った」
「本郷?お知り合いの方ですか」
「ああ、ちょっとね。ところで弘美ちゃん、警察の方には行ったらある程度の
ことは教えてもらえるのかな。指紋検出の結果とか、捜査上でこれまでに
判ってることとか」
「さあ……申し訳ないけど、私はその時は一緒に行きたくありません」
「え、行ってもらえないの」

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2008年5月13日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第五章(3)

「じゃ、カプジュを呼びますけど、いいですね」
 そう言うと杉本弘美は、玄関の脇の住人の呼び出し釦の下に少し離
れてある、『カプジュ』とトルコ語で書かれた釦を押した。ややあって、
玄関のドアのロックが内側から解除されるブザーのような音がして、同
時に杉本弘美はドアを押していた。
「へ?相手の確認をせずに、ドアロックを解除するの」
「ええ、大体こういう場合がほとんどです。だから、津田さんだって簡単
にこの建物の中に入れますよ。手当たり次第に釦を押せば、誰かがこ
うして招き入れてくれますから」
「厳重なシステムが徹底されてるものだとばかり思ってたんだが、現実
は違うってことか」
「トルコでそれを望むのは所詮は無理な話ですよ、津田さん。この国は、
たしかに一見パッと見はすごく良いように見えるんですが、良く見ると実
はそうじゃないんです。このアパートだって、そうです。日本の観点だと
いかにも鉄筋でしっかりした造りになってると思いがちですが、中身は
やわな煉瓦状のブロックの積み上げがほとんどで、鉄筋なんて数える
くらいしか入ってませんよ。壁なんて、ハンマー一つ有ればすぐに壊せ
るんですから。たとえるなら、ちょうど子供が造るダイヤブロックの建物
と大差ないですよ」
「じゃ、地震が来たら」
「はい、もちろんイスタンブールは壊滅でしょうね」
 こともなげに杉本弘美はそう言い切った。

 やがて怪訝そうな顔をしながら、カプジュが地下からのそのそと階段
を上がって来た。杉本弘美は彼に近付くと、流暢なトルコ語で話しかけ
た。しばらくの間、彼らのやり取りが続いたが、津田に判ったのはカワ
ダとかジャポンとかの類の単語にしか過ぎなかった。やがてカプジュは
地下への階段を降りて行った。
「津田さん、彼が例の川田さん一家が住んでいた部屋を見せてくれる
そうです。殺人事件があったせいで、後の入居者が未だに決まってな
いらしくって。このビルのオーナーから鍵を預かってて、本当はオーナ
ーや不動産屋の紹介で部屋を見に来た人間にだけ見せるように言わ
れてるらしいんですが、川田さんの知り合いということで特別に見せて
くれるそうです」
 この全く予期していなかったスムーズな事態展開に、津田は内心小
躍りして喜んだ。やがてカプジュが鍵をジャラジャラいわせながら、再
び階段を上がって来た。彼らはドアを引いてエレベーターに一緒に乗
り込むと、ドアを閉めたカプジュが最上階の十二階の釦を押した。エレ
ベーターが動き出し、同時に津田は唖然とした。動くエレベーター側に
ドアの類が何もないのだ。つまり眼前には各階のエレベーターのドア
が、時折上から下にむき出しのまま、コンクリートの壁と交互に流れて
行く光景がある。杉本弘美やカプジュが平然としていることから、これ
が通常なのだろう。
『まあ、エレベーターが動いている様子がわかると言えば、そういうこ
とになるんだが』
 到着した十二階には、部屋のドアは一つしか見当らなかった。ワン
フロアのかなり広い部類の高級アパートらしかった。カプジュが鍵を開
け、内部に彼らを招き入れた。ドアを開けた正面が応接間になっている
ようで、床にひかれた派手な絨毯が津田の目に飛び込んで来た。その
横で杉本弘美が色々とカプジュに尋ねている。
「この絨毯の上の、このあたりで、川田さんの奥さんが死んでいたそう
です。川田さんの絨毯だそうですが、彼が残して行ったらしくて、高い
物だし特に捨てることもないので、洗ってそのまま置いてあるそうです」
 自分が川田ならやはりそうするだろう、と津田は思った。そんな絨毯を
平然と持って帰れる神経がある筈もない。持って帰っていたなら、或い
は津田は川田を疑っていたかも知れない。
「かなり前の事だから、あまり覚えてないかも知れんが、彼にその時の
状況を説明してくれるように言ってもらえるかな。それと、警察にどんな
ことを聞かれてどう答えたのかも」
「はい……」
 窓からの景観が良いのを一瞥して、津田は川田から聞いたことをメモ
してある手帳を取り出した。カプジュがどんなことを警察に尋ねられたの
かは川田は知らない筈だから、その点を特に思い出してもらう必要があ
った。杉本弘美は、先程あらかじめスワディエの角のバッカルで買って
おいた、冷えた缶コーラをカプジュに勧めながら、色々と尋ねていた。
「津田さん……彼がその事件を知ったのは、川田さんが血相を変えて帰
って来た後で、多分時間は午後の四時半前後だったと記憶している、と
言っています」
 はやる気持ちを押さえながら、津田は順に一つ一つ、川田の説明の裏
を取るかのように尋ねていった。杉本弘美の喋るトルコ語は、津田が思っ
ていた以上だった。横で聞いていると、まるでトルコ人が二人で喋ってい
るような錯覚すら覚えたくらいで、逆に彼女の方が流暢に喋っていると言
えた。
「……で、警察からはどんなことを尋ねられたの」

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2008年5月11日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第五章(2)

 花屋のある一角を通って、彼らはドルムシュ乗り場に向かった。もち
ろん津田にとっては、乗るのは初めてである。彼方の駐車場の向こう
側に、ごつい黒塗りのかなりポンコツに近い車体ばかりが、幾つか並
んでいる光景が津田の目に入ってきた。
 ドルムシュとはいわゆる相乗りタクシーのようなものだが、その車体
は昔のアメリカ映画に登場するような大型の物ばかりで、新しい車体
はひとつもない。しかもディーゼルエンジンに乗せ換えているせいか、
乗り心地は今一つであり、車内も決してお世辞にも綺麗とは言えない。
 乗客定員は八名で、運転手の横に二名、中央座席に三名、後部座
席に三名が座れる。定員が揃わないと出発しないが、バスと違って自
分の降りたい所で運転手に声を掛けると降りられる便利さがあるし、
空き席があれば途中ルートの何処からでも乗り込めることもあり、現
地の人々の足としてよく利用されている。
 もちろん始発地と終着地は決まっており、ルートも大体決まっている
のだが、乗客の目的地によっては若干変更されることも稀にあるらし
かった。ただし最近では、あまりにも自由すぎることから規制の声も
聞かれ始めていて、決められた場所以外での乗り降りを禁止しようと
する動きもあるらしかった。津田はそういう簡単な説明を、歩きながら
杉本弘美から受けた。
「さ、乗りましょう」
 そう言うと杉本弘美は手慣れた雰囲気で、さっさとその並んでいる
一番前のドルムシュに近付くと乗り込んだ。慌てて津田もそれに続く。
運転手の右に二人と、後部座席に二人、そして中央座席に一人がす
でに乗っていた。彼らは二人分並んで空いている中央座席に隣あって
座った。
「最後の一人が来ないと出ないんだよね。出発までどのくらい待つの」
「急ぐ方法はありますよ。その空席の分も自分が払えば、ね」
「へえ。じゃ、一人でこの八人分を払えば、貸切にも出来るわけだ」
「そういうことです。でも庶民の足代わりだから、そこまでする人は居
ないですけど」
 そうこう言っているうちに、最後の一人が乗り込んで来て、津田のす
ぐ右にある今にも壊れそうなドアをバタンと強目に閉めた。しばらくの
沈黙が車内を支配し、やがて近くで話をしていた運転手がのろのろと
やって来た。やっと出発らしかった。

 ドルムシュが動き始めると、乗客はそれぞれ目的地を言い、運転手
に所定の運賃を支払う。定かでない場合は、運転手に大声で尋ねて
よいことになっている。中央の座席は後部座席の人間の金を運転手
に渡すという仲介作業が付加されているらしく、杉本弘美と彼女の左
側に座っているトルコ人が、当たり前のようにそれをやっている。不思
議と津田に依頼する人間がいなかったところを見ると、不慣れである
ことを見抜いているらしかった。
 そのドルムシュはカドキョイを出発すると登り坂を登り、やがてマクド
ナルドの名前の入った噴水を左に見ながら、道沿いに真っ直に進んで
行く。
「また、あんな無駄なことを。この水不足の時に」
 杉本弘美はその派手に上がる噴水を一瞥しながら、そう小声で言っ
た。ドルムシュは今度は坂を下り始め、やがて左折し、球場らしきもの
に沿って進んで行った。
「ここはフェナルバッチェっていうサッカーチームのホームグランドです。
トルコは、サッカーが盛んで、熱狂的って言ってもいいくらいなんです」
 ドルムシュは混雑した一角を抜け、やがて十分程行くと、左手に広い
公園のようなものが見えて来た。杉本弘美の横に座っていたトルコ人
が何やら運転手に言うと、そのドルムシュは急停車に近い形で、道路
の右に止まった。
「津田さん、いったん降りて下さい」
 杉本弘美にそう言われ、津田は苦労してドアを開けると、降りた。杉
本弘美がそれに続く。トルコ人が降りた後に、再び彼らが乗り込むわけ
である。ちょうどその場所には、トルコ人の太目の中年女性がドルムシ
ュを待って立っており、彼女は津田の後に乗り込んで来た。やっと津田
はシステム自体が理解出来た。それからしばらくの間で、乗客の何人
かが降りて行き、後部座席は空っぽになった。それでもその太目の女
性は後部座席に移ろうともせず、津田の横に窮屈に座ったままだった。
 やがて目の前に海が見えて来て、右に海岸線が見える景色が続いて
いく。彼らを乗せたドルムシュは、その海沿いの道に沿って走って行った。
「この道が、サヒルヨールって言われてる道です。つまり、海岸道」
 信号を幾つか過ぎたあたりで、杉本弘美が不意に運転手に言った。
「ムサイト・イェルデ……」
 それは津田にとっては、まるで魔法の呪文だった。運転手は軽く頷くと、
即座に車を止めたのだ。そして津田は杉本弘美に促されるようにして、そ
の中年女性のお尻を見ながら、ドルムシュから降りた。どうやら、彼らの
目的地近くらしかった。
「あそこにスワディエって書いてあるから、多分ここでいいと思うんです」
 杉本弘美の指差した道向かいのあたりに、青に白抜き文字で書かれて
いる小さな文字看板があった。サヒルヨールをわたる必要があるのだが、
東のボスタンジュ方面に向かう一方通行の道路なので、左側からの車だ
けに注意すればよかったので、津田にも渡るのは容易だった。渡り終えた
後は、その看板の向きにある道沿いに歩いて行った。
 やがて角にガソリンスタンドがある大きな四つ角に出て来た。杉本弘美
に、ここがバーダット通りです、と言われて津田は川田に書いてもらった
地図をポケットから取り出した。一度だけタクシーで訪れた時の記憶が、
わずかによみがえって来る。杉本弘美が歩きながら言う。
「ここは、日本でいうと青山通りってところでしょうね。銀座みたいな派手
さはないけど、高級な店が多いし、お金持ちが多く住んでるところです」
 やがて目指すアパートが見えて来た。入り口に立ち、津田は大きく深
呼吸を一つした。

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2008年5月 9日 (金)

RobbinⅡ-レイン計画- 第五章(1)

 翌朝、約束の時間ちょうどに、杉本弘美は笑顔で津田の前に現われ
た。彼らの待ち合わせ場所は、エミニュヌからカドキョイ行きの三番と
書かれたバプール乗り場の前だった。折しも、カドキョイからのバプー
ルが到着しようとしているところだった。彼女はちょこんと頭を下げると、
津田に小さなコインのような物を手渡した。ジェトンと呼ばれる専用硬
貨である。
「あ、これ何処で買ったの」
「そこの脇の、ジェトン売り場ですけど、何か」
 津田はそのバプール乗り場の前に大勢たむろし、声高に「ジェトン、
ジェトン」と叫んでいるジェトン売りが不思議だった。現にすぐ横でジェ
トンが買えるのに、わざわざ彼らから通常より高い値段で買う人間が
いるとは考えにくかったのだ。津田がそのことを尋ねると、彼女はちょ
っと首を傾げながら言った。
「さあ、どうしてでしょう。でも、バス乗り場の前にはビレット売りがいる
し、電話ボックスの前には電話用のジェトンを売る人間が必ず居ます
ね。それがトルコなんじゃないんですか」
 津田はちょっとはぐらかされたような気がしたが、その話はそれぐら
いにしておくことにした。そして二人は、乗り場の入り口にある、東京
ディズニーランドのエントランスに設置されているのに似た、駅の自動
改札のような機械の前に立った。専用のジェトンをまず手前の硬貨投
入口から入れ、それに続いて三本のバーが放射線状に出ている部分
を身体で押すようにしながら、そのバーを前に押す形でまっすぐに進む
と、ガシャという機械的な音と共に、自分の身体が待合室に入り、人
数的にもカウントされる。手馴れた手つきで、津田のすぐ隣を杉本弘美
が同様に移動して行く。
 到着した人々が一斉に降りおわった後、やがて待合室の門が開か
れ、目の前に停泊しているバプールに、入れ替えの形で乗り込むこと
が出来た。ちょうど朝の逆ラッシュになるため、さほど乗員はいない。
津田は杉本弘美に案内されるように二階のデッキに出て、そこの木製
のベンチに座った。
「ところで、俺は君のことを何て呼んだらいい。杉本さん、弘美ちゃん、
お嬢さん、ヒロリン、とか色々あるんだが」
「そうですねェ。でももう、津田さんが私を呼ぶ呼び方は決まってるみた
いだけどな」
「へ、そうだっけ?」
「ちょっと子供子供してて、気になるけど、仕方ないかもね」
「……ああ、ごめん。別にそんなつもりで」
「いえ、いいんです。言ってみただけですから、全然気になさらないで下
さい」
 杉本弘美が慌ててそう言う横で、津田はいつものように愛用の煙草を
出し一服しようとしたが、もうお馴染みになってきた彼女のキツイ言葉が
即座に飛んで来た。
「津田さん。ここは禁煙です!」
「げっ」
 全く予想してなかっただけに、津田もびっくりした。
「トルコ人って、もともとかなりの煙草好きなんですけど、こういうところで
は禁煙なんです。もちろん市内バスや普通の列車の中もね。普通の人
は結構守ってるんだけど、中には不心得な人が居ます」
 そう言うと彼女は、あごでしゃくるように、デッキのすぐ脇で煙草を吸っ
ている数人の若い男女を示した。津田は素直に謝ると、煙草を懐にしま
い込み、手持ち無沙汰に周りの景色を見ることにした。
 カドキョイに到着するまでの間、杉本弘美は津田に色々と、その左右
に流れるあちこちの景色をずっと説明してくれた。その行程は約二十分
程度の比較的短いものだったが、二人でずっと話していたこともあり、
津田にはそれがあっという間に感じられた。

 波に揺れる小舟が幾つも岸壁に繋がれている、そのすぐ横の船付き
場に、そのバプールは到着した。何人かの人間がまだ渡し板がかから
ぬうちに、岸壁に飛ぶように渡って行くのが見えた。
「トルコ人って、我慢できないんでしょうね、こういうの。津田さんはもう気
付いているかも知れないけど、街中を車で走ってると、信号が青に変わ
るか変わらないかのうちに皆走り出すし。律義に信号を守って青になっ
てから発進しようとして一瞬でも遅れたりすると、いきなりクラクションの
嵐が後ろから起こりますからね。ほんのちょっとのことなのに」
「そう言えば、そうだね。そういう意味じゃ、日本はよっぽどマナーがいい
んだね」
「ここが異常なのかもしれませんよ。高速道路だって、車間が開いてれば
すぐにウインカーも出さずに割り込んで来るし、危ないったらないですよ。
だから、日本だったら考えられないような事故も結構多いんです。高速道
路の大型同士の正面衝突とかね」
「へえ……ところで、あれは魚を売ってるわけなの」
 津田は渡し板を渡りながら、岸壁に繋がれ波に揺れている複数の小舟
の方に顔を向けて言った。その前の岸壁には比較的大き目の、赤く丸い
浅い皿のような物が並んでいた。
「ええ、そうです。でも表面が乾燥しないように、この海水をかけてるんで
すよ。おせじにも綺麗とはいえないんですけどね。これは私個人の考え方
だから強制する気は全く有りませんけど、津田さんはあんまりトルコで魚
は食べない方がいいと思います。日本人だから欲しがる気持ちはわかる
んですが、黒海のPCB汚染もありますから。以前に黒海のPCB汚染が
問題になった時、領事館からおふれが回った経緯があるし、食べていい
魚、悪い魚を書いた一覧リストも見たことがあります。それに、トルコでは
魚料理は肉料理より高級で、結構値段も張るんですよ」
 津田はふと、ガラタ橋の下で軒並み焼き魚のいい匂いをさせて誘って
いる、魚料理レストランを思い浮かべた。まだ幸か不幸か彼は入ったこと
はないのだが、これまで入ろうかどうしようかと何度か迷ったことはあった
のだ。
 ジプシーの花売りが数人たむろしているその後ろは、小さな公園のよう
になっており中央には、一人の男が男の子と女の子に何かをさとしている
ような、黒い銅像が一段高く有った。
「アタチュルク、か」
「ええ。トルコの何処へ行っても、お目にかかるでしょうね。トルコ建国の
父と言われてますけど、でも結局彼も上手くおだてられて、政治に利用
されて終わった気がしますけどね」
 相変わらずストレートな表現の彼女の言葉だったが、津田はあながち
穿った見方ではないような気がした。杉本弘美はつと歩き出すと、近く
にいたトルコ人に何やら話しかけ、頷いて津田のところに戻って来た。
「行きましょう。ボスタンジュ行きのドルムシュ乗り場は、あっちのバス停
の横みたいです」

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2008年5月 7日 (水)

作者の簡単レビュー 【その22】

 第四章はかなりボリュームがありましたが、いかがだったでしょうか。
この物語自体はもちろんフィクションなのですが、いたるところに現実の
イスタンブールの息吹を配置したつもりです。現地にいるような気になっ
ていただければ、筆者冥利に尽きます。
 次回からの第五章のサブタイトルは「疑惑の影」です。舞台はイスタ
ンブールでも、津田や杉本弘美のいるヨーロッパ側ではなく、事件の
あったアジア側に移ります。生き生きとした街の人々の息遣いが表現
出来ていればいいのですが…。

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2008年5月 6日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第四章(11)

 杉本弘美にとって、この津田の行動は意外だった。よく近くの子供達
が路面電車を面白がって、車両後部の金属で出来た熊手のように出っ
張っている部分に掴まって、ただ乗りのように面白半分にぶら下がって
いるのを、彼女は何度も見ていた。だが大の大人が、別の目的でそこ
にぶら下がっていたなど、想像すらしていなかった。
 そう言われてみると、津田を見つける少し前に、路面電車が目の前を
横切って行った気がする。
「でも、どうして私があそこに居ることが、津田さんにわかったんですか。
それにいつからあそこにいたのかも、全然わからなかったし」
「勘さ。それに見付からないようにするのは仕事柄、得意だからね」
 そう短く笑顔で言うと、津田は愛用の煙草を取り出し、彼女に断って
から旨そうに一服した。
「面白い人ですね、津田さんって」
 杉本弘美は、思っていたことが素直に口を突いて出たので、自分でも
びっくりした。
「へ?」
 その津田のきょとんとした表情に、思わず彼女は笑い転げた。彼女が
これまで気を張って生き抜いて来たこの地での生活の中で、失われた
ものは多い。だが今の二人の時間の中には、彼女が思わずホッとさせ
られる、懐かしい何かが確実に有った。
「じゃ今度は、津田さん、お仕事の話を詳しく聞かせて下さいな」
 そう言うと彼女は、二杯目のビールを注文した。夏だと言っても、日本
のように冷房が効いているわけではないので、そのビラハネの中はか
なり蒸し暑く、窓を開けているとはいえ、外の方がまだ涼しいように津
田には思えた。新たに運ばれてきた冷えたビールが咽に心地好い。
「じゃ、話そう。端的に言えば、さっきも君に言ったと思うけど、プライベ
ートな調査ってことになる。ただしちょっと内容が内容なんで、一切他人
には口外しないで欲しい。これが君に依頼するにあたっての、こちらの
条件だ。いいかい」
「他人に知られるとまずいことなんですか。いいですけど、悪いことに利
用されるのはお断りですよ、津田さん」
「ああ、もちろん。そんなんじゃ無いんだが、どうもあまり人に好かれる
職業とは言い難いんでね」
「そう言えば、津田さんのご職業をまだお聞きしてなかったですね」
「聞いたら多分、身構えるかもね。探偵なんだ」
「探偵!それって、あの」
「念のため言っとくけど、私立探偵じゃないよ」
「じゃあ、興信所の人、ってことですか」
「そう、びっくりした?でもゆすりやたかりを商売にしてる輩とは、違うつも
りなんだが」
「だから、調査と言ったんですね」
「ああ。何だったら、今からでも遅くないから、断っていいよ」
「まさか。私って、そんな女に見えますか。ここに二年半も住んでれば、
そんなことでいちいち驚いてちゃ生きてけませんよ」
 杉本弘美はそう言って微笑んだ。歳相応のあどけない少女の面影と同
居する、一人の女の逞しさがそこには垣間見えた。
「わかった、じゃ調査内容の説明をしよう」
 津田は、今から一年ほど前にこの地で起こった、川田良子殺害事件と
塚本美雪の件の顛末を、かいつまんで杉本弘美に説明した。彼女は額
に皺を寄せながら、じっと聞き入っていた。
「雨を知り過ぎたって、何のことだか見当付かないですね」
「そう、謎めきすぎてるんだ。だからとにかく明日にでも、さっそく現場に
一緒に行ってもらって、そのカプジュとやらを中心に、色々聞き込みの
手伝いをして欲しいんだが」
「了解。スワディエだったら、エミニュヌからバプールでカドキョイまで渡っ
て、サヒルヨール沿いにドルムシュかバスで行けば簡単です」
「何だい、そのドルムシュって言うのは」
「ふふ、明日になれば判りますよ。多分、津田さんはバプールも未体験
なんでしょ」
「ああ。お恥ずかしい話だが、タクシーでしか移動してなかったからね」
「仕方ないでしょうね。トルコ語が喋れなければ、そういう現地の乗り物
はどうしても敬遠しがちになってしまいますから。多分、バスに乗ったの
も今日が初めてだったんでしょ」
「そうだね。お陰でいい経験させてもらってるよ」
「ふふ、それは額面通りに取っておくことにします」

 その日は二人はそこのビラハネを出た後、チュネルの近くにある彼女
の知っているトルコ料理レストランで夕食を済まし、明日の待ち合わせ
場所と時間を決めて別れた。そして津田は杉本弘美に教えられた道を
通って、カラキョイまで降りた後、結局ホテルまでぶらぶらと歩いて帰っ
たのだった。
 杉本弘美の教えてくれた道は、チュネルの駅入口脇の楽器屋のある
通りを通ってガラタ塔まで出て、彼女が通称「娼婦坂」と呼んでいる急な
坂道を降り、カラキョイまで出て来る道だった。ガラタ塔周辺にはディナー
ショウ目的の観光客がたむろしており、一方で娼婦坂の途中の左に入る
道の十メートル程先の左側には、何やら目をギラつかせた男達がそれな
りの異様な雰囲気を作っている。そこに赤線地帯があることを、津田は男
の勘で悟った。
『表の顔と、裏の顔か。さしずめ病んだ観光都市の姿、ってところだな』
 矛盾したようでもあるが、だがこれが冷酷な現実だった。津田はなぜ杉
本弘美がわざわざこの道を通って帰るように彼に教えたのか、何となくわ
かるような気がした。

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2008年5月 5日 (月)

RobbinⅡ-レイン計画- 第四章(10)

「ここが、本当のチチェック・バザール、つまり花市場。もっとも花を売っ
てるのはここの入り口の店だけで、あとは普通の市場ですけどね。ち
なみに言うと、この先の左の路地を行った所にはシュテッシっていう、
豚肉を売ってる店があります。イスラム教の国だから一般には豚肉は
食べないの、それは御存じでしょ。その近くには、もやしを売ってたり、
季節によっては白菜が出てる時もあるわ」
「ふうん、もやしと白菜か。日本食にも不自由しないってことかい」
「でも、白菜は輸入物みたいで、冷凍ですよ。解凍して売ってたから」
「へえ。じゃ、大根とかごぼうもあるわけ」
「いいえ、残念ながらそれは見たことありません」
 彼女は津田の少し先に立って歩きながら、色々並んで売られている
物の説明をしてくれた。やがて右に行く路地を指差して、彼女は言った。
「この先に道の両側にレストランが並んでるんです。トルコ料理の店で
すけど、そっちで食べた方が、さっきのチチェック・バザールって名前の
出てる建物の中で食べるより、ずっとおいしいと思うわ。どこでもそうだ
けど、観光名所化してるところでおいしい物を食べられるはずないです
しね。でも今はまだ早いから、ビラハネで一杯やりましょ」
「ビラハネ、って」
「直訳すればビールの家、要はトルコの一杯飲み屋さん。もっとも女性
はまず居ない筈だから、日本の大衆酒場みたいな所を想像しちゃうと、
津田さん、きっとがっかりすると思うな」
 彼女はそう笑いながら言うと、その路地沿いの左側にある一軒の店
に入って行った。津田も彼女に続いて入ったが、例によってその場に
居合わせたトルコ人達の視線を一斉に浴びた。彼女は別にそれを気
にするわけでもなく、二階への階段を上がって行く。津田もそれに続
いた。彼女はさっさと窓際のテーブルに腰掛けると、近付いて来たボ
ーイに何やら早口で言った後、正面に座った津田の方を向いた。ボー
イがうなずいて去っていくところを見ると、トルコ語が喋れるというのは、
たしかに間違いないようだった。

「さて、じゃ津田さん、あそこからここまで来る方法の正解をお教えしま
しょう。まず一番手っとり早いのは、バスを利用することでした。これだ
と上手く循環バスに乗れば、乗り換え無しでタキシム広場までやって
来られます。あそこからだと、T1って書いてあるバスがそれにあたりま
すけどね。バスのビレット、つまり乗車券は持ってないと思うけど、どこ
でもバス停の近くにはビレット売りが居ますから、値段を気にしなけれ
ば彼らから買えます。ちなみにバスにはニ種類あって、市営バスとマビ
バスって通称言われてる個人経営のバスがあるんです。そのマビの方
だと、チケットが無くても現金でもいいんです」
「それ以外のバスに乗った場合は、どうすればいい」
「今回の場合だと、行き先にもよりますけど、安全策としてはエミニュヌ
で、トルコ語でバプールって言いますけど、つまり汽船の乗り場が三つ
並んで有った所で降りた方が間違いないです」
「えーっと、シルケジ駅って言ったかな、それが有るあたりのことかな」
「あら、多少は御存じみたいね。そうです。バスが新市街の方へ行くの
か、旧市街側を回るのかは、多分津田さんには判断がつかないまま
乗ることになると思いますから」
「その、エミニュニュ」
「エミニュヌ」
「そう、そのエミニュルで」
「エミニュルじゃ有りません、エミニュヌ!」
「難しいな。そのエミニュヌで降りた場合は、それから先は」
「仕方ないから、ガラタ橋を歩いて渡り、カラキョイでチュネルに乗って
イスティックラル通りまで上がって来た方がいいでしょうね。カラキョイ
から娼婦坂、ごめんなさいね、これは私が勝手に付けてる名前なんで
すけど、そのかなり急な坂道を登ってガラタ塔の所に出て来れば、イ
スティックラル通りまですぐ出られますけどね。チュネルって言うのは、
直訳するとトンネルって意味なんですけど、一駅だけの地下鉄ってい
うか登山電車みたいなのが、この地下に走ってるんです」
「あとは、歩いてここまで、ってことになるのかな」
「そうですね。ここはイスティックラル通りのちょうど中間あたりになりま
すから、どっちから歩いても早足ならせいぜい五分強ってとこでしょうね。
知ってれば、イスティックラル通りを走ってる路面電車に乗るのもいい
でしょうけど。あれもバスのビレットが使えますし、持ってなければ乗っ
てから車掌から買えます」
「ふうん……ところで、弘美ちゃんはどうやってここまで来たの」
「私は、アタチュルク橋からシシャーネ、テペバシって所を経由して、タ
キシム広場を通ってメジデイキョイまで行くバスが来たのでそれに乗り
ました。ちょうどこの裏手あたりで降りて、ここまで歩いて来ました」
「なるほど」
「津田さんは?怒らないから、正直に言って下さい。タクシー、使ったん
でしょ」
「いいや、本当に使ってないよ。ほとんど今のパターンさ」
「本当に。だとしたら、凄いわ」
「タネ証しするとね、観光警察だっけ、観光客用の相談窓口みたいなも
のがあそこの近くにあったよね。あそこだけはちゃんと英語が通じるか
ら、そこでここまで行く方法を聞いたのさ。バスの番号を聞いて、ビレット
売りから切符を買って乗ったよ。チュネルの入口を見つけるのに少し手
間どってアセったけどね。だけど、一つだけ違うところがある」
「違うところ」
「そう、走っても間に合わない可能性があったんで、最後にイスティック
ラル通りを走る路面電車を使ったんだけど、乗ったわけじゃない」
「?」
「チュネルを出た所に路面電車の乗り場があるじゃない。そこにある
路線図っていうのかな、それを見ながらチチェック・バザールって尋
ねたら、親切な人が指差して教えてくれたんで大体の位置は見当
が付いたんだ。でも乗っちまうと、チチェック・バザールを見付けても
途中で降りられないと困ると思ったから、ちょっと無断で後ろに掴ま
らせてもらった」
「え」

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2008年5月 4日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第四章(9)

 結局津田は、彼女に通訳を頼むことに決め、顔見知りになれたこと
を祝って、夜何処かで一緒に夕食を食べようということになった。
「チチェック・バザール、わかりますか」
「は?」
「イスティックラル通りは、どうです」
「はあ。ちょっと……」
「チュネルはご存知ですか」
「すみません、何ですかそれ」
「じゃ、タキシムは?」
「それなら、何とか」
「じゃあ、ちょっと津田さんに苦労してもらいましょうね。いいですか、タ
クシーは一切使わないこと。歩くだけも駄目。ここからイスティックラル
通りのチチェック・バザールの前まで十五分以内に来て下さい。私は
そこで待ってます」
「俺を試そうっていうことなのかな」
「ま、そう言うことになりますね。幾ら何でも、あんまり足手まといにな
られると、こっちが迷惑するでしょ。私にだって、一緒に仕事をすること
になる以上、相手を選ぶ権利は有ると思うわ」
「厳しいなあ。でも、ま、仕方ないか」
「じゃ、十五分後に……。会えることを祈ってるわよ、津田さん」
 そう言うと杉本弘美は、足早に去って行った。後に残された津田は
ただただ唖然とその後ろ姿を見送るばかりだった。
『参ったな、思いのほかに気の強いお嬢さんだ。だが、彼女の言うこと
も一理あるしな。さてと、兎に角、イスティックラル通りのチチェック・バ
ザールとやらに十五分以内に行かないと、せっかく見付けた優秀な通
訳のお嬢さんが、何処かに消えちまうわけか』
 津田はどういう手段で行ったら良いのか、考えあぐねていた。どれも
何となく記憶にある名前なのだがすぐには思い出せないうえに、全然
頭の中でそれらの場所的な関連性が理解出来ていなかった。領事館
が近くにある関係で、タキシムは何度か行ったことがあるので判るの
だが、タクシーを使わないで、という彼女の条件は厳しかった。津田は
これまでタクシーでしか動いていないのだ。
『バスに乗るって言ってもなあ、何番のバスに乗りゃいいんだ。それに
俺はバスの切符なんて持ってないぞ』
 そうこう考えているうちに、ふと腕時計を見ると、すでに貴重な五分が
過ぎ去ってしまっていた。やがて津田は、その公園と道路を挟んで反
対側の角に、ちょうど地下宮殿の入り口の反対側にある観光警察の
窓口に向かうと、何やら尋ねた後、再び先ほどの公園の側に道を渡っ
て行った。

『ああは言ってみたけど、大丈夫かしら』
 杉本弘美はイスティックラル通りに面したウインピーに入ると、一階の
席にすわりコーラを飲みながら、正面にあるチチェック・バザールの入口
を見詰めていた。
『やっぱり、ちょっとキツかったかなあ。一週間しかいないほとんど観光
客に近い人が、あそこからここまでタクシー使わずに十五分で来るのは
無理だったかしら。悪いことしたなあ、諦めて帰っちゃったかも知れない
な。私がからかったと思ったかも……』
 少々、自分の先ほどの言葉を反省してみるのだが、今さらどうしようも
なかった。
『ちゃんと来てくれたなら、もしタクシー使ってたとしても、大目にみちゃ
おうかな』
 ちょうど彼女は、帰国しようかどうしようかと迷っているところだったの
で、通訳の仕事なら少しは気分転換になりそうに思い、引き受ける気
でいたのだった。理想と期待感に胸膨らませてイスタンブールにやって
来たのが、つい数ヶ月ほど前のような気がする。
『私は結局ここで、人間を失ったのかも……』
 ふと彼女がそんなことを考え始めながら、チチェック・バザールの横に
何気なく目を向けた時、彼女は自分の目を疑った。じっと立ったまま腕
組みをして、店の中で座っている彼女を見詰めている、サングラスを掛
けた一人の見覚えのある男の姿が目に入ったからだ。
「津田さん?でも、そんなに早くどうして」
 彼女は津田が来てくれたことが嬉しかったが、同時に失望感もあった。
先ほどまでは、たとえ大幅に遅れても、津田がここに約束通り来てくれ
さえすれば、通訳の仕事を請け負うつもりになりかかっていた。だがこう
してほとんど彼女とほぼ同じくらいに、明らかに後発の地理に詳しくない
津田がここに到着するためには、安易にタクシーを使ったとしか考えられ
ないのだ。
『もう少し骨のある人かと思ってたんだけどな。でも、仕方ないな。骨の
ある男なんて、ここにいるわけないもの。馬鹿ね、私。一体何をあの人
に期待してたんだろう』
 彼女は津田の視線に促されるように店を出ると、津田の所に一直線
に歩み寄って行った。
「よっ、気が付いてくれたみたいだね。弘美ちゃん」
 津田は笑顔で彼女にそう言ったが、彼女の方は津田を睨みながら、
ふくれっ面で言った。
「津田さん。タクシー使ったでしょ!」
「何もそんな怖い顔して睨まなくてもいいじゃない。約束通り使わなか
ったよ、本当だよ」
「嘘!タクシー使わずに、貴方がこんなに早くここに来られるはずがな
いわ」
「おいおい、信じてくれないのかい。思い込みの激しい娘だなあ」
「じゃ、どうやって来たのか、伺いたいわ。それに貴方は一体いつから、
ここに立って私を見てたの。全然気付かなかったけど」
「その前に是非とも、正解を教えて欲しいな」
「いいわ。じゃ、ここじゃ何だから、場所変えましょ。ついて来て」
 そう言うと杉本弘美は、チチェック・バザールと書かれた建物の入り口
を通り過ぎ、その脇の露店市場のようになっている所に入って行った。

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2008年5月 3日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第四章(8)

 海外で女一人でこれまで生き抜いてきた自信が、彼女から日本女性
の女らしさやしおらしさを奪ってしまっていると言えなくもないが、津田は
それは仕方のないことだと承知していた。女らしさを成田に捨てて来る
覚悟でいなければ、たとえ親日的なトルコとは言え、とても今まで無事
で居られるはずもなかった。中途半端に可愛いい女を引きずりながら、
自分の意思で長期を生き抜いていくなど、絶対に不可能なことなのだ。
男ですら、それに耐えられる人間は最近では少なくなってしまっている。
『若いのに似合わず、結構しっかりしてるんだなあ』
 と、職業柄これまで色々な人間を見てきた津田が驚嘆するぐらいだか
ら、よっぽどである。だが津田はそんな彼女と話していて、ふと一抹の
不安を感じた。
『たしかに必死になって生きてるのは判るんだが、何て言うか、こう、虚
勢を張ってる弱さみたいなものも感じるんだが。彼女って、根は結構デ
リケートに出来てるんじゃ無いのかなァ。海外じゃストレスは結構たまる
から、発散しようがなけりゃあ、落ち込んで精神的に不安定になること
だってあるわけだし。ふ、考え過ぎだな。トルコ人の彼氏がそのあたり
はフォローしてるんだろう、きっと。それにそこまで俺が関わり合いにな
る必要もないか』

 簡単なテストのため、近くのバッカル、早い話が日本で言うキオスク
のようなもの、で唯一カラフルでない新聞を購入すると、津田は彼女と
先の遊牧民の看板のかかっている店を訪れた。
「やあ、津田さん」
 狭い螺旋階段を二階に上がると、絨毯売り場となっているフロアー
があり、そこには日本語を流暢に話すトルコ人兄弟がいた。接客中だ
ったが、津田の姿を見つけると、笑顔でそう気軽に声をかけてきた。
「ああ、お友達とご一緒なんですね」
 三兄弟のうち一番年少のハッサンが、そう津田に言った。三十前の
割には童顔な部類なのだが、イスラム教徒の慣習でひげを生やして
いると、皆かなり年齢以上に年上に見えるから不思議なものである。
「ちょっと場所、借りていいかな」
 津田は空いている一角をあごで指して、そう尋ねた。
「ええ、どうぞ。飲み物はチャイにしますか、それともビール」
 笑顔でハッサンがそう受け答えた。ここ数日間、彼らは津田に嫌な
顔ひとつせずに、いつも歓迎してくれていた。口コミで観光客が訪れ
ているのだが、彼らは丁寧に絨毯の良し悪しの見分け方を説明し、
もし気に入ればと必ず前置きした上で、色々な絨毯を広げていく。観
光地でありながら、決して無理に押し付けるような売り方をしないとこ
ろが、良心的な店である事がわかる。値段も近隣の観光客相手の店
の数分の一にしかすぎなかった。
 絨毯の売買交渉の風習なのだろうが、一つのスペースが大型絨毯
を広げられるぐらいの広さで区切られ、それが幾つか隣り合っている。
津田はハッサンにちょっと耳打ちすると、一番奥の大きな部屋の片隅
の、絨毯が平らに積み上げられている場所に上がると、横に杉本弘美
を手招いた。
「じゃあ、悪いんだけど、ちょっとテストさせてくれるかな」
「はい、何をすればいいですか」
「この新聞の…」
 そう言って津田は、先ほど買った新聞を広げた。
「ここの記事、訳してくれないかな」
 津田は適当に記事を指差した。
「……ああ、教育省のユゼル氏がプロジェクトを新規に起こす奴ですね」
 杉本弘美は、まるで日本語の新聞を読んでいるかのように、流暢に説
明し始めた。そのあたりに絨毯を探しにやって来たふりをして、ハッサン
が横で耳をそばだてて聞いている。
「と、いう内容です。ご理解いただけましたか」
「ふうん」
 感心したふりをして、津田はそっとハッサンの方を見る。ハッサンは少
しうなずくと、絨毯を一枚持って去って行った。内容が間違っていない、
という証拠だった。運ばれてきたチャイをおいしそうに飲みながら、杉本
弘美は言った。
「トルコの新聞って、まるで日本のスポーツ新聞みたいでしょ」
「たしかに」
 やたらカラー印刷の一面が目立つ新聞が多かった。日本のそれと比
べると、印刷技術はまだ見劣りするものの、たしかに見た目のインパク
トはある。
「どうして、ジュムフリエット紙を選んだんですか」
「ああ、この新聞のこと」
「ジュムフリエットって、日本語で言うと共和国って意味なんです」
「ふうん。新聞の名文字だけが赤くて他がモノクロだったから、ただ何と
なく選んだだけだよ」
「そうですか。実は私が購読してるのも、この新聞なので」
「へえ、そうなんだ」
 やがて巨漢のトルコ人が津田に挨拶にやって来た。ハッサンの兄にあ
たる次男のアルパッサンだった。朝一から車を飛ばしてヘレケにシルク
絨毯の仕入れに行っていたらしいが、良い物が見つからなかったとぼや
きながら、ビールを津田と杉本弘美に勧め、自分も一緒に飲んだ。
「帰ってきてたのか」
 商談を終えたハッサンが、その場にやって来て、話に合流した。
「お二人とも、すごく日本語がお上手なんですね」
 杉本弘美が、感心したように言う。
「はい、日本好きですから。それに私たちが相手している八十パーセント
は日本からのお客さんだから、話せないと困るしね」
「アルパッサンさん、ってこの前の日本領事館主催の日本語コンテスト
に出られてませんでしたか。私の思い違いなら、ゴメンナサイ」
「よくご存知ですね。出ました」
「新聞記事に載ってた写真に写ってた人とすごく良く似てるから、ひょっと
したらと思って」
「そりゃあ日本語が上手いはずだ。で、結果はどうだったんですか」
 津田が尋ねた。
「はい、優勝しました」
「すごーい」
 杉本弘美は自分のことのように、嬉しそうな顔をした。
「実は、アルパッサンには逸話があってね」
 ハッサンがニヤニヤしながら言った。
「?」
「昔、街角で座って歌を歌っている日本人女性がいたんです」
「また、その話か」
 苦笑いしながら、アルパッサンが言う。
「ちょうど日本語を習いたてで、日本人と話したかったアルパッサンは
隣に座って、しきりに話しかけたんです」
「それで」
「でもその彼女は無視しながら、歌い続けていた」
「ふうん」
「それでも、アルパッサンは自分は怪しい者じゃないと言って、話しか
け続けた」
「ふむふむ」
「そうしたら、遠くでカーットって声がして」
「カーット?」
「そう、プロモーションビデオの撮影だった」
「えー、本当に」
「はい、えらく怒られました。その人は歌手だったらしい」
「その歌が、飛んでイスタンブール」
「へえ…」