RobbinⅡ-レイン計画- 第四章(3)
汽船の波止場が道の向こう側に並んでおり、その前がやはりバスタ
ーミナルになっているのを横目で見ながら、津田は道なりに歩いた。
歩道橋のあたりで道がいきなり九十度右に曲がっている。真っすぐの
海沿い側にも大きな道は続いているのだが、たいていの車は右折して
いくのが目に入る。
その角を曲がると、道向こうに大きな建物があった。ヨーロッパ側の
鉄道の終着駅と言われるシルケジ駅だった。かなり急な登り坂になっ
ているその道の先を何気なく見ると、市営バスが坂の途中の細い道
を左に曲がって消えて行くのが見えた。その道は少し左になだらかに
曲がる感じの登り坂だった。道なりを取るか、バスの通った道を取るか
で、津田は少し考えて、バスの通った道を行くことにした。
先ほど学んだ方法で道を渡った後、津田はその道のある角を左に曲
がった。本来はバス二台が通れる程度の広さのある道なのだが、道
の左側は車が軒並み駐車しており、今はバス一台が通れるほどの道
幅でしかなかった。左手には、良く見るとホテルという文字が結構目に
付く路地が多いようだった。その道をまっすぐ行くと、T字路の突き当た
りになっていて、車はみな右の方に曲がって行く。そこも登り坂だった。
道の反対側はずっと高い城壁のようなものが続いている。くねっと曲
がった道沿いに歩いて行くと、左手に派手な看板の公園のような所が
あり、そこを過ぎると、赤茶色の壁のジャミイが突然その姿を現わした。
キリストのモザイク画が壁の中から出現したことで有名な、アヤ・ソフィ
アだった。
そのアヤ・ソフィアのある角は、一見して十字路のように見えたが、
良く見るとアヤ・ソフィアの前の道は一段高く荒い石畳になっていて、
他の道とは様子が異なっていた。そして、アヤ・ソフィアの正面の石畳
の道向かいに公園を挟んで、俗にブルー・モスクとも呼ばれているスル
タンアホメット・ジャミイが、その六本のミナレットに囲まれるように佇ん
でいた。その辺は観光のメッカらしく、大型の観光バスが何台も停車し
ていた。
津田の目的地は、ちょうどこの北側になる。彼はその角を右に曲がり、
北の方に向かった。もうこの辺になると、目的地がすぐそこにあるという
安心感から、周りを見る余裕もかなり津田には生まれていた。道の反
対側には、例のイスタンブールを舞台にした『ロシアより愛をこめて』で
登場してくる、知る人ぞ知る地下宮殿への入り口が、地味にひっそりと
存在している。
ちらちらとそれらを見ながら、彼は歩いた。ちょうど最初の路地のある
あたりの道向かいに、日本語で『遊牧民』と看板をあげているピンク色
の壁の店があった。日本人相手を主とする何かの土産物屋のように思
われた。ふと右のその路地の先を見ると、やはり日本語で『瑛理都』と
書かれたホテルの看板がある。たまたまだったのだろうが、外国で日
本語の看板を相次いで見てしまうのは、津田にはあまり気持ちの良い
ものではない。日本人はいいお客さん、と皮肉っぽく言われているよう
な気がしてならないのだ。
もっともたいていの旅慣れてない日本人観光客にとっては、その異国
の地で見る日本語の看板に安心して懐かしくなるのか、誘蛾燈に誘き
出された虫のように、ついその店にふらふらと向かってしまう傾向にあ
るようである。たしかに良心的な店もあるだろうが、そうでない店もある
のは事実である。そしてそれは、英語もろくに喋れない日本人の心理
を巧みに利用しているという気がして、日本人の端くれである津田にと
っては、いたって面白くない商売方法なのだ。
『それだけ日本人観光客が多いってことか』
訝しがりながらも、津田はその二番目の路地を右に曲がった。下り坂
になっているその先の左側に、英語で 『OLD TURKISH BATH』 と
書かれた看板のあるハマムがあり、営業中らしく、盛んに短い煙突の
ようなものから蒸気が吹き出していた。その手前側の隣りあたりに、目
指すモラ・ホテルが有るはずだった。近付くと隣りは、ガラス製のドアに
単に『HOTEL』と書かれているだけだった。
『多分、ここだろう』
津田の推測は正しかったのだが、あいにくそこは閉鎖中だった。
「クローズドって、おい…営業してないってことかよ。参ったな」
まったく予想すらしていなかった事態だった。当てが外れた津田は、
兎に角この辺に泊まる所を見付けなければとやっきになって、あちこち
のホテルを尋ね歩いた。
『迂闊だった。観光シーズンだってことを甘く見過ぎたな。日本からまと
もに予約を入れてもらった方が良かったかな』
今さら後悔しても、すでに遅かった。さほど調査費が裕福に与えられ
ているわけでないので、出来るだけ安いホテルに泊まるに越したことは
ない。最終的にそれは水増しされ、川田に請求される羽目になること
を知っているからこそ余計だった。それに津田は万一を思い、前借り分
とは別に自分の金を持って来ているが、それにも限度がある。海外で
金がなくなってしまうと、もうどうしようもない上に惨めな思いをするだけ
なのは、津田は身にしみて知っていた。
結局、弧軍奮闘の挙げ句、津田は先ほどの遊牧民の看板のある店
の比較的近くの、トプカプと言う名の安ホテルに泊まることになった。
津田が通された部屋は、少し薄汚れた壁が何とも言えぬ雰囲気を醸し
出していた。それに通りに面しているので、少々車の音がうるさいよう
だった。だがこの部屋しか空いていないのだから、あきらめて我慢する
より仕方がなかった。それにさすがに津田も、これ以上炎天下でホテル
を転々として空き部屋があるかどうかを尋ねて回るのには、少々精神
的に疲れてきていた。
とりあえず、シャワーを浴びるまではいかないが、埃だらけの手や顔
でも洗ってすっきりしようと、津田は洗面所の水道の蛇口をひねった。
だがどういうわけか、まったく水が出ない。頭に来た津田が即刻フロン
トに文句を言うと、毎年夏場は結構断水が多いのでこればかりはどうし
ようもない、と言う木で鼻をくくったような返事が返って来た。
『やれやれ、最初からこんなんじゃあ、先が思いやられるな』
どっと疲れが出たような気がした津田は、空港に降り立ってからこれ
まで、珍しく長い時間煙草を吸っていないことにふと気付いて、胸ポケ
ットから愛用の煙草を取り出すと、これも愛用のオイルライターで火を
付け一服した。異国の地でその蒼い色の紙箱を見ることはもうないだ
ろうと思っていただけに、余計に懐かしく感じられた。
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