« 2008年3月 | トップページ | 2008年5月 »

2008年4月30日 (水)

RobbinⅡ-レイン計画- 第四章(5)

 周辺を散歩がてらに見ておこうと、津田はアヤソフィアやスルタンアホ
メットジャミイの見える先程の大通りまで来ると、カパル・チャルシュ(グ
ランド・バザール)の方に歩き出した。埃っぽい乾いた空気が何とも言え
ず、それに輪をかけるように、通り過ぎる車の排気ガスが混じってくる。
やがて右手に、遠目に見ても明らかな、林立した観光土産物店群と思し
き一角が不意に見えてきた。その屋根あたりには丸い小型の、よくジャ
ミイのメインドームにおまけのようにくっついている、椀をひっくり返したよ
うな、一種独特の形状のものがずらりと並んで見えている。
『ま、今くらいだけは、噂のグランド・バザールの中を覗いたって、罰は当
たらんだろう』
 津田はそんな軽い気持ちで、カパル・チャルシュの方に向かった。表に
は観光客目当ての安物の土産物を売る人間達が、声をかけながら幾人
もたむろしている。道沿いのレザーショップや絨毯屋からも、しきりと呼び
込みの声がかかる。
 津田の前にも、観光客と思しき人間が数人歩いていたが、彼らはいか
にも観光客らしく辺りをきょろきょろ見渡しながら地図を持って歩いている
ので、たちまちおもちゃのような笛や絵葉書、独楽、明らかにプリント印
刷されていると判るジャミイの入ったバスタオルのような物などを手に持
った、物売りの男達の格好の的になっていた。
 その後ろに続く津田とて、物珍しいのであちこち左右に目を走らせなが
ら歩いているのだが、彼は決して頭まできょろきょろさせない。だから顔
は正面を向いたままである。そしてサングラスをしているお陰で、津田の
目線が彼らに見えないことが幸いしていたと言える。物売りにすれば、
津田は観光客ではなく、勝手を知っていて目的地に向かって歩いている
人間のように見えていたのかも知れなかった。

 古ぼけた門からカパル・チャルシュの内部に入った津田は、思わずそ
の金屋街の毒気に呆れ果ててしまった。その門から遥か彼方に続く道
の両側は金色で輝いていたのだ。時折、歩く津田の脇から、日本語で
呼び込みの声がかかる。津田は内心苦笑しながら歩いていた。貴金属
を扱っている店が並んでいることもあるのだろうが、時おり自動小銃を持
った警官らしき人間が立っているのが目に入った。瞬時に、セーフティ・
ロックが外されていることが読み取れた。
 金屋筋から奥の方に繋がる道を曲がって行くと、その中はまるで迷路
のようだった。衣料品を売っているブロックがあるかと思えば、絨毯、ア
ンティーク、銀製品、トルコ民芸品を売っている各ブロックがあり、カフェ
テリア、レストラン、郵便局、両替所まで有ったのだ。
 津田が最初に入って来た金屋筋に戻るまでの間、かなりあちこちから
日本語の呼び込みがかかった。たちの悪いのになると、「財布が落ちま
した」と言ってこちらの反応を伺っている男もいる。特に絨毯のブロックで、
しきりと声がかかる。もっともこれは仕方ないとも言える。呼び込みの人
間は一説によれば、絨毯が売れた場合、その利益の三十パーセント程
度を仲介マージンとして手に入れることが出来るらしいのだ。
『よっぽど日本人の旅行者は、いいカモなんだな』
 津田は昔の経験から、比較的簡単に元の金屋筋に戻ることが出来た
が、これが通常の人間だと完全に迷子のようになってしまうだろうと思え
た。およそ二十ほどある出入り口の門に加え、内部の道が複雑に入り組
んでおり、微妙に曲がっていたり緩やかな坂になっていたりする。人混み
の凄さや店に並ぶ品々に気を取られ始めると、その方向感覚が次第に
狂わされていくのだ。そして結局、全く知らぬ門から出て戸惑い、再びそ
の中で何処をどう歩いているのか判然としないままに、何とか元の場所
へ戻ろうと悪戦苦闘する羽目になっていく。
 津田とて本当なら、洋子に金製品でも何か買って行ってやりたいのは
やまやまなのだが、今からそれに金を使うわけには行かなかった。全て
はこれからの調査の進捗次第なのだ。津田は順調に調査が終わること
を心から願いながら、カパルチャルシュを後にした。

| | コメント (0)

2008年4月29日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第四章(4)

 やっと一息つけた、という感じだった。ふと、腕時計を見るといつの間
にかとっくに昼になっている。よく考えてみれば、朝到着して以来、何も
口にしていなかった。急に空腹感が出てきて、思わず軽い眩暈に襲わ
れた津田は、何処かで軽い食事をしようと外に出ることにした。
 バッグから三大貴重品、とは言ってもパスポートと現金と帰国用のオ
ープンチケットだが、を取り出すとポーチに入れて手に下げ、バッグには
鍵をかけたうえで自転車用の番号合わせのチェーンを取っ手に通すと、
その一方をテーブルの足にくぐらせ結び付けた。俺はお前達を信用して
いないぞということが見え見えで、津田としても余り好きではないやり方
なのだが、安易に相手を信用するには、津田は少々これまでの経験が
多すぎた。
 ホテルの前の道を大通りとは逆方向にしばらく歩いた後、近くのトルコ
人相手のロカンタ、日本で言う大衆食堂に入った津田は、いっせいにそ
の場にいたトルコ人達の目線を浴び、さすがに一瞬たじろいだ。商売柄、
逆の立場に立たされると弱いものである。川田の言った通り、英語は全
く通じないようだった。もっとも、物を食べるのに流暢な英語は必要ない
のだが。オリーブオイル独特の香りが、津田の鼻に付く。初めて見るだ
けに、津田も物珍しくあたりを見回していた。その店は観光客にはほと
んど縁がないらしく、やがて店の従業員が持って来たメニューには、トル
コ語しか書かれていない始末だった。
 相変わらず皆、物珍しげに津田の方をちらちらと見ていた。『地球の歩
き方』に簡単なトルコ語の料理や物の名前が出ていたのを思い出したが、
ホテルに忘れてきてしまっている以上、どうにもならない。自力で何とか
するしかなかった。ジェスチャーや英語交じりでこちらの意思を必死で伝
えようとするのだが、そのボーイは英語が全く判らないようで、なかなか
上手く行かなかった。そのうち、その様子を見ていた何人かのトルコ人
が、津田の座ったテーブルの周りに寄って来て、彼を取り囲んだ。
『な、何だ?』
 津田は内心身構えていたのだが、彼らは津田にではなく、そのボーイ
に何事かを早口で言っていた。頷いたボーイは奥に引っ込むと、やがて
何やら皿に入れた物を運んで来て、津田のテーブルに置いた。何種類
かの料理の材料が山積みされている。周りの人間はジェスチャーで、ど
うやら津田にこの中から食べたい物を選べと言っているようだった。結局
津田はその中の一つを指差し、ボーイは頷いた。周りを取り囲んでいた
人間達も、津田に笑顔で挨拶すると、めいめいにもと居たテーブルに戻
って行った。津田の困っている様子を見かねて、手助けに来てくれたよ
うだった。
『結構いいとこ、有るじゃないか』
 津田は親日国であるトルコ人の気質の一端を垣間見た気がした。もち
ろんそれが全てではないのだろうが、少なくとも人が困っているのを見な
がら、見て見ぬふりをする何処かの国の人間よりは、津田にははるかに
好感が持てた。それまでの出来事が、たったこれだけで一気に帳消しに
なったような気さえしてくるのだから、人間というものは単純に出来てい
るらしい。
 やがて先に運ばれて来たコーラが三分の一ほどに減った頃、その料
理が運ばれて来た。日本のハンバーグに良く似ているが、一個一個が
もっと小さく、数個がその皿に盛られている。いわゆるトルコで一般にキ
ョフテと呼ばれているものだった。その横に玉葱の千切りが紫色の香辛
料に大雑把にまみれ、緑のパセリのようなものの微塵切りが一緒にな
って乗っている。
『…お。結構、旨いじゃないか』
 香辛料のきつさを除けば、結構日本人の口に合うと言えた。テーブル
の上に別に置かれたバスケットに入ったフランスパンのぶつ切りをちぎ
りながら、津田はそれなりに満足のいく食事をすることが出来た。そして
やがて食事を終えた津田は、ゼロの多いトルコリラの金額に戸惑いなが
ら勘定を済ませ、その店を出た。

| | コメント (0)

2008年4月28日 (月)

RobbinⅡ-レイン計画- 第四章(3)

 汽船の波止場が道の向こう側に並んでおり、その前がやはりバスタ
ーミナルになっているのを横目で見ながら、津田は道なりに歩いた。
歩道橋のあたりで道がいきなり九十度右に曲がっている。真っすぐの
海沿い側にも大きな道は続いているのだが、たいていの車は右折して
いくのが目に入る。
 その角を曲がると、道向こうに大きな建物があった。ヨーロッパ側の
鉄道の終着駅と言われるシルケジ駅だった。かなり急な登り坂になっ
ているその道の先を何気なく見ると、市営バスが坂の途中の細い道
を左に曲がって消えて行くのが見えた。その道は少し左になだらかに
曲がる感じの登り坂だった。道なりを取るか、バスの通った道を取るか
で、津田は少し考えて、バスの通った道を行くことにした。
 先ほど学んだ方法で道を渡った後、津田はその道のある角を左に曲
がった。本来はバス二台が通れる程度の広さのある道なのだが、道
の左側は車が軒並み駐車しており、今はバス一台が通れるほどの道
幅でしかなかった。左手には、良く見るとホテルという文字が結構目に
付く路地が多いようだった。その道をまっすぐ行くと、T字路の突き当た
りになっていて、車はみな右の方に曲がって行く。そこも登り坂だった。
 道の反対側はずっと高い城壁のようなものが続いている。くねっと曲
がった道沿いに歩いて行くと、左手に派手な看板の公園のような所が
あり、そこを過ぎると、赤茶色の壁のジャミイが突然その姿を現わした。
キリストのモザイク画が壁の中から出現したことで有名な、アヤ・ソフィ
アだった。
 そのアヤ・ソフィアのある角は、一見して十字路のように見えたが、
良く見るとアヤ・ソフィアの前の道は一段高く荒い石畳になっていて、
他の道とは様子が異なっていた。そして、アヤ・ソフィアの正面の石畳
の道向かいに公園を挟んで、俗にブルー・モスクとも呼ばれているスル
タンアホメット・ジャミイが、その六本のミナレットに囲まれるように佇ん
でいた。その辺は観光のメッカらしく、大型の観光バスが何台も停車し
ていた。

 津田の目的地は、ちょうどこの北側になる。彼はその角を右に曲がり、
北の方に向かった。もうこの辺になると、目的地がすぐそこにあるという
安心感から、周りを見る余裕もかなり津田には生まれていた。道の反
対側には、例のイスタンブールを舞台にした『ロシアより愛をこめて』で
登場してくる、知る人ぞ知る地下宮殿への入り口が、地味にひっそりと
存在している。
 ちらちらとそれらを見ながら、彼は歩いた。ちょうど最初の路地のある
あたりの道向かいに、日本語で『遊牧民』と看板をあげているピンク色
の壁の店があった。日本人相手を主とする何かの土産物屋のように思
われた。ふと右のその路地の先を見ると、やはり日本語で『瑛理都』と
書かれたホテルの看板がある。たまたまだったのだろうが、外国で日
本語の看板を相次いで見てしまうのは、津田にはあまり気持ちの良い
ものではない。日本人はいいお客さん、と皮肉っぽく言われているよう
な気がしてならないのだ。
 もっともたいていの旅慣れてない日本人観光客にとっては、その異国
の地で見る日本語の看板に安心して懐かしくなるのか、誘蛾燈に誘き
出された虫のように、ついその店にふらふらと向かってしまう傾向にあ
るようである。たしかに良心的な店もあるだろうが、そうでない店もある
のは事実である。そしてそれは、英語もろくに喋れない日本人の心理
を巧みに利用しているという気がして、日本人の端くれである津田にと
っては、いたって面白くない商売方法なのだ。
『それだけ日本人観光客が多いってことか』
 訝しがりながらも、津田はその二番目の路地を右に曲がった。下り坂
になっているその先の左側に、英語で 『OLD TURKISH BATH』 と
書かれた看板のあるハマムがあり、営業中らしく、盛んに短い煙突の
ようなものから蒸気が吹き出していた。その手前側の隣りあたりに、目
指すモラ・ホテルが有るはずだった。近付くと隣りは、ガラス製のドアに
単に『HOTEL』と書かれているだけだった。
『多分、ここだろう』
 津田の推測は正しかったのだが、あいにくそこは閉鎖中だった。
「クローズドって、おい…営業してないってことかよ。参ったな」
 まったく予想すらしていなかった事態だった。当てが外れた津田は、
兎に角この辺に泊まる所を見付けなければとやっきになって、あちこち
のホテルを尋ね歩いた。
『迂闊だった。観光シーズンだってことを甘く見過ぎたな。日本からまと
もに予約を入れてもらった方が良かったかな』
 今さら後悔しても、すでに遅かった。さほど調査費が裕福に与えられ
ているわけでないので、出来るだけ安いホテルに泊まるに越したことは
ない。最終的にそれは水増しされ、川田に請求される羽目になること
を知っているからこそ余計だった。それに津田は万一を思い、前借り分
とは別に自分の金を持って来ているが、それにも限度がある。海外で
金がなくなってしまうと、もうどうしようもない上に惨めな思いをするだけ
なのは、津田は身にしみて知っていた。

 結局、弧軍奮闘の挙げ句、津田は先ほどの遊牧民の看板のある店
の比較的近くの、トプカプと言う名の安ホテルに泊まることになった。
津田が通された部屋は、少し薄汚れた壁が何とも言えぬ雰囲気を醸し
出していた。それに通りに面しているので、少々車の音がうるさいよう
だった。だがこの部屋しか空いていないのだから、あきらめて我慢する
より仕方がなかった。それにさすがに津田も、これ以上炎天下でホテル
を転々として空き部屋があるかどうかを尋ねて回るのには、少々精神
的に疲れてきていた。
 とりあえず、シャワーを浴びるまではいかないが、埃だらけの手や顔
でも洗ってすっきりしようと、津田は洗面所の水道の蛇口をひねった。
だがどういうわけか、まったく水が出ない。頭に来た津田が即刻フロン
トに文句を言うと、毎年夏場は結構断水が多いのでこればかりはどうし
ようもない、と言う木で鼻をくくったような返事が返って来た。
『やれやれ、最初からこんなんじゃあ、先が思いやられるな』
 どっと疲れが出たような気がした津田は、空港に降り立ってからこれ
まで、珍しく長い時間煙草を吸っていないことにふと気付いて、胸ポケ
ットから愛用の煙草を取り出すと、これも愛用のオイルライターで火を
付け一服した。異国の地でその蒼い色の紙箱を見ることはもうないだ
ろうと思っていただけに、余計に懐かしく感じられた。

| | コメント (0)

2008年4月27日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第四章(2)

 そのうちバスは、不思議と自転車を売る店ばかりしか両側に並んで
いない短いトンネルを通っていった。そしてすぐに、石垣で出来た大き
な二階建ての橋のようなものが架かっている下をくぐり抜けた。すぐに
細い川のようなものが正面に見え始める。津田は地図を広げ、金角湾
に違いないと思った。その金角湾の手前にロータリーがあるのが見え、
その先には橋が金角湾を跨いでいた。
 津田はバスの正面の、金角湾を挟んだ対岸が新市街なんだろうなと
勘で悟った。ホテルらしき高い建物が右の方の奥に二つ三つ目立ち、
ほとんど岸辺に近い方にはくすんだ色の、屋根の部分が灰緑色をした
古びた丸い塔が立っているのが見えた。総じて小高いこんもりした丘の
上に古ぼけた建物群がひしめき合って立っている、という印象だった。
一方で金角湾を挟んだ手前側には、旧市街がある。いかにもイスラム
教の国らしく、所々にジャミイのミナレットが突出している。不思議と新
市街の方には、ジャミイのミナレットはほとんど見られない。
『観光客で来たかったよ、まったく』
 津田は、よほど調査が順調に終わらない限り、自分がこの地の観光
名所を回ることはないだろうと思っている。そして、このイスタンブール
の旧市街は、その幾多の観光名所で溢れているのだ。津田はまるで
おあずけをくった犬状態だった。世界的に有名な観光名所が近くにあ
れば、行ってみたいと思うのが人情である。そんな津田の気持ちをよ
そに、バスは橋を渡り始めた。
『ここは、ガラタ橋なのかな。それともアタチュルク橋なのか』
 どちらかわからなかったが、右手にもう一本橋が見えるのを見て、津
田はそれがアタチュルク橋であることが判った。やがてバスは橋を越え
た所の坂道のロータリーを右に曲がり、THYと書かれた飛行機会社の
ものと思われるオフィスを左に見ながら小さな脇道へと入り、そこのす
ぐ先の行き止まりの広場で止まった。どうやら終点のシシャーネという
所らしかった。

 アクサライという所をとうに過ぎていることだけは明白だった。だがすぐ
そこに旧市街の全景が広がっている。精々歩いてもたかが知れている
と判断した津田は、唯一の手荷物のバッグを持って、そのすぐ前の急な
下り坂になっている道を降り始めた。電気街のような所がずっとその道
の両側にあり、坂を下り切った所で、正面にある大きな道路が大きく右
の方にカーブしているのが見えた。そのまま右に曲がると、目の前に橋
があり、その正面に大きなジャミイがあった。
『これが……有名なガラタ橋、か』
 津田は先程のアタチュルク橋からこのガラタ橋の距離と、自分が歩い
てかかった時間を比較した。旧市街の全体の大きさを想像したのだ。下
り坂で荷物があることもあるが、のんびり歩いて津田の足で約十分とい
うところだった。思った程の距離ではないように思えた。彼はガラタ橋の
上をゆっくりと渡って行った。その右隣りに平行に大きな橋が建設されて
いる。時折、足元の小さな揺れを感じた津田は、観光ガイドにこれが浮き
橋であると書かれていたことを思い出した。
 橋を渡り切ったところには横断歩道や信号はなく、向こう側に渡るため
にはどちらにしても、目の前の車がひっきりなしに通る道路を、強引に横
断するしか手はなさそうだった。彼はちょうど道路を渡ろうとしているトル
コ人をすぐ近くに見付けると、急いで駆け寄り、その右側に立った。こん
な不慣れな所では、トルコ人のすることを見習うしかない。津田はそのト
ルコ人と常に平行になるように気を付けながら、彼を真似て道路を渡って
行った。よしんば失敗して万一車が突っ込んで来たとしても、そのトルコ
人が津田の盾になるわけである。
 だがその道は両側通行なので、前半はそれで良くても、後半は今度は
逆に津田が盾になってしまった。幸い車の流れが途切れたところを見計
らって、彼は見よう見真似で首尾良く道路を渡り終えた。そのジャミイの
前は、バスターミナルになっているせいもあるのだろうが、人の波でごっ
た返している。活気にあふれた物売りの声が、あちこちで聞かれた。
 少々地理に自信がない津田だが、そんなところでイスタンブールの地
図を平然と広げる気にはならなかった。おおむね、こういう場所でのみ
活躍するある種の人間もいる。津田はもちろんそういう目には遭いたく
なかったし、可能性として否定できない以上、迂闊に地理の判らぬ観
光客然とした態度をしない方が良いのは、彼としても当然のことだった。
現に、元イスタンブールのスリだった傭兵と、彼は過去のミッションで出
会ったことがあるのだ。
 旧市街のこの丘の向こう側に、目指す目的地がある筈だった。彼はそ
の巨大なイェニ・ジャミイの前を左の方に歩き始めた。大きな道に沿って
行った方が良いと判断したのだ。それに大体の地理をその目で確かめ
ながら歩く必要もあった。

| | コメント (0)

2008年4月24日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第四章(1)

「飛んでイスタンブール……恨まないのがルール、か」
 津田は複雑な気持ちで、朝日の差し込むイスタンブールのアタチュル
ク国際空港に降り立っていた。いきなりわけの判らないトルコ語が予想
以上に氾濫する世界が目の前にあり、かなり面食らっているのは事実
である。独りで乗り込んで来たことに、津田は流石に少々不安になった。
『川田さんの話だと、空港や観光客相手の店以外は、全く英語は通じな
いらしいが……ま、心配しててもきりがない。とりあえず、市内に行って
泊まる所を見付けないとな』
 結局そうは思っても、何とかなってしまうものだということは、津田はか
つての経験から知っている。市内と空港を往復する定期バスは何処の
国でも存在するはずなので、まずはそれを探すことから始まった。
 出来るだけ周りを見渡さないように気を付けながら、観光客然とした様
子が知られないように、彼は空港の到着ロビーをざっと一周し、その雰囲
気に慣れようとした。そしてしばらくしていったん外に出ると、知人を待っ
ているふりをしながら、いつもの煙草で一服した。ゆっくりと周りを見渡し
ながら、外国人が乗り込んでいるそれらしいバスを探す。
 それまで成田を出発する以前から何度も見返していた『地球の歩き方』
に書かれてあった「シシャーネ」という地名を思い出しながら、それらしい
バスを探した。数分後、やっとのことでイスタンブール市内行きの、シシャ
ーネと何とか読めそうなトルコ語で書かれたプラカードを掲げている、一台
のかなり古ぼけたリムジンバスを見つけ出した。津田はそれに乗り込むと、
本を取り出し、これから泊まろうとしている旧市街のラフな地図を見直した。
ふとそんな自分の姿が、まさしく日本人観光客そのものであることに気付
き、思わず津田は苦笑いした。周りには明らかに外国人観光客と思われ
る人間が何人も座っており、おそらくそのバスで間違いはなさそうだった。
 川田が言うには、トルコに来る若い日本人観光客はほとんどと言ってい
いほど、この本を持っているらしい。たしかに、トルコについて書かれた観
光ガイドブックの中では、比較的内容も判りやすく砕けているし、読みやす
いのは事実だった。だが同時に、読者対象が若い人間という印象もあり、
川田に言わせれば、彼のように仕事で赴任する人間の欲しがっている情
報とは若干ニュアンスが異なるらしい。だが今の津田には、これで充分だ
った。

 バスは間もなく発車し、添乗員らしき人間が運賃を集めに来た。津田は
先ほど出国ロビーを一周していた時に見つけた銀行で両替したトルコリラ
を取り出すと、すぐ前の席に座っていたヨーロッパあたりからと思われる観
光客が、英語で添乗員に尋ねて支払った金額と同じ金額を渡した。バスは
空港からまっすぐ南下して、イェシルキョイ駅付近のロータリーを左折し、
海沿いに東に向かって走って行く。二十分ほど走ったあたりで、運転手が
大声で乗客に何かを叫ぶのだが、津田には何を言っているのやら判らな
いままだった。ちょうど右手に、水中翼船らしきものの波止場があるのが見
える。多分ここで降りたい奴がいるかどうかを尋ねたのだろう、と津田は想
像したが、運転手の話した言葉は英語には聞こえなかった。
 やがて左手には、大きな工場らしきものが幾つかまとまって見え始めた。
革独特の臭いがし、ふと津田が見ると、遠目に見ても大き目の革がほぼ
原形のまま干されているのが目に入った。それも過ぎたあたりで、バスは
それまで走っていた海沿いの道から突然左折し、町中へ入って行こうとし
た。てっきりそのままわかりやすい海沿いの道を走ってくれるものだとばか
り思っていた津田は、これには内心少し慌てた。見回してみても、他の乗
客は皆落ち着いたもので、平然としている。
『ちょっと待てよ、おい。途中で降りたい時はどうすりゃいいんだ』
 バスのルートを説明しているものが何も見つからないので、彼にはバス
がどのようなルートを辿るのか全く判らない。それに車内アナウンスは全
くないし、日本のように降車釦らしきものも見当たらない。彼の持っている
本には、旧市街に行く人は途中のアクサライで降りて市内バスなどに乗り
換えろ、と書かれてあったのだ。
 だが同時に、市内バスに乗るためには専用の乗車券が必要で、その乗
車券もどこでも売られているわけではない、とも書かれている。次の停留
所のアナウンスが有るものだとてっきり思っていた津田は、一切そんな類
のものがないこともあり、不安になってきた。
 そして不幸にも、その時乗り合わせていたバスの乗客で途中下車する
人間はいなかった。だから津田にはさっぱり要領がわからない。もちろん
格好を気にしなければ、アクサライの地名を連発して騒ぎ出せばいいの
だが、津田は初めてで西も東も判らないせいもあり、典型的な日本人的
思考で、表面上は平静を装いながら、大人しくもうしばらく様子を見ようと
思った。それに、そこまで切羽詰っているわけでもなかった。

| | コメント (0)

2008年4月21日 (月)

作者の簡単レビュー 【その21】

 RobbinⅠとⅡの間の約一年間に、津田は二度大きな事件に巻き込ま
れてしまうことになっています。そのうちの一つが連続切り裂き魔事件
(サブタイトル:蛍)で、もう一方が臓器売買事件(サブタイトル:コドモノ
チカラ)です。これらは大雑把な設定までは考えてあるのですが、無事
に小説の形になるのかどうかも今はまだわかりません。
 次からの第四章のサブタイトルは「夢の傷跡」です。イスタンブールの
街の説明が次から次に出てくるので、全体の景色がつかみづらいかも
しれませんが、ご容赦ください。

| | コメント (0)

2008年4月20日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第三章(8)

「私を一人にしないで。私も一緒に連れてって!」
 洋子は泣き出しそうな顔で、津田の胸の中でわめくようにそう言った。
洋子にこういう風に迫られるのが、津田は一番弱い。
「そんなわがまま言って、俺を困らせないでくれよ、洋子。仕事なんだか
らさ」
「じゃ、いつ帰って来るの」
「はっきりは決まってないが、大体一ヶ月、長くても二ヶ月はないと思う」
「えー、そんなに!やだ、やだ、一ヶ月も貴方なしで一人でいるのは」
「洋子、頼むからわかってくれよ」
「独りで居るのは、怖いの。淋しいの、嫌なの。知ってるでしょう」
「ああ……」
「淋しいのね、きっと、私。どうしてかな、以前は耐えられたのに」
「………」
 結局そんな他愛もない言葉が、その部屋の中で何度も何度も繰り返
されていった。
「ねえ、私達これからどうなるの」
 不意に洋子は、今まで二人があえて避けてきたことを尋ねた。
「なるようにしかならんだろう」
 津田は突き放したような言い方をした。冷たいわけではなく、本当に
津田はそう思っているのだ。運命論に固執しているわけでもないし、神
の存在を信じているわけでもない。人生は自分の目の前で、まるで大
木の枝別れした小枝のように、見えない幾種もの選択の余地を残して
いるものだと思っていた。そしてその場その場の運命の別れ道とやら
で、意識していない自分自身の意思で、知らずのうちに、そのどれか
を選択してここまで来て、今の自分が有るのだと。
 そして津田は、人間は今の一瞬一瞬を常にベストで生きているとも思
っている。そして人間は過去を振り返ることは出来ても、決して時間の
中を後戻り出来ない。彼の論理によれば、例えば今の自分が過去に
戻れたとしても、今以上により良い人生を歩めないと言うことになる。
その後に起こることを知っているのだからつい手を抜いてしまいがち
で、津田自身そんな怠惰な自分の積み重ねは御免こうむりたいのだ。
 それを回避しようとする努力は何も知らない自分の方が、よりストレ
ートに自分らしくその時の自分のベストに近いものを発揮でき反応出
来る、と言うかなり片寄った持論の持ち主でもある。出会いがしらの
人間の反応は、本能的なものと相俟ってかなりのものがあるのは確
かに事実かも知れないが。そしてこれらは、過去に彼が悟ったことで
もある。それゆえ彼の辞書には、『後悔』の二文字は存在しない。
 津田も自分のこの考え方が、かなり通常と異なることは知っている。
だが敢えてそれを改めようとは思っていない。起こってしまった物事を
如何に自分に都合の良いように考えられるかで、落ち込む度合いが
異なってくる。気の持ちよう次第で、楽天的にも悲観的にも解釈でき
るのであれば、彼は躊躇無く前者の方を選ぶ。
 だがこれは一般的に男性型の思考パターンであるとも言える。あく
まで一般的な傾向として、同じ物事を考える時、女性は控え目に自
分に分が悪く考えがちで、男性はその逆である。そういう意味では
津田のものの考え方は、程度の差はあれ、決して消極的な男のそ
れでないことだけは確かであると言えた。
 だが白鳥洋子は、津田の思考パターンをまだ深くは知らない。それ
ゆえに、津田の言葉にかなりショックを受けてしまった。彼に甘えて、
筋の通らない我儘なことを言っているのは百も承知の上だったが、も
う少し温かな言葉を掛けてもらえると内心期待していたから、余計だ
った。津田が自分とのことを少しうっとおしく感じ始めて距離を置きた
がっている、と彼女は感じてしまったのだ。
「ひどい。何もそんな言い方しなくたって」
「洋子、誤解しないでくれ。俺が言いたかったのは」
「もういい。私、帰る」
 そう言うと洋子は、津田が制止する間もなく、飛び出すように外に駆
け出して行った。慌てて津田も後を追った。お定まりの恋人同志の些
細な口喧嘩なのだが、彼らが再び仲直りをするのには、互いの性格も
あって通常よりは少々時間がかかりそうだった。

 出発する前に、津田は本郷刑事に連絡を取り、少々調べて欲しいこと
を頼もうと思ったのだが、生憎と彼は超多忙を極めているらしく、けんも
ほろろな応対だった。とても依頼内容を言い出せるような雰囲気でもな
かったので、津田も仕方なく諦めることにした。本郷刑事は一ヶ月に一
度くらいの頻度で、突然ふらりとアルファに姿を現わしたものだったが、
そう言えばここ数ヶ月というもの、津田も洋子も本郷の姿をアルファで見
かけていないのだ。
 出発前の色々な準備やこたごたで、あっと言う間にそれから二週間ほ
どが過ぎて行った。そしてそれから数日後、津田は定期的になるかどう
かは定かではないが何か判ったらその都度連絡することを川田に約束
し、格安な値段と引き替えに窮屈なエコノミーの席に身を沈めながら、
一路イスタンブールに向かっていた。

| | コメント (0)

2008年4月19日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第三章(7)

 それによれば、川田が入社してまもなくの頃、総務部に社内の持ち
株会のことを聞きに行った折り、彼はある女性社員にそのことを尋ね、
その女性は担当でなかったにも拘わらず、結構親身になって色々と
彼に教えてくれたらしかった。外見は物静かだが応対がテキパキして
おり、頭の切れる女性のようだった。腰掛けOLとは明らかに違うその
雰囲気が、彼は何となく印象に残っていた。それが二人の最初の出
会いだった、と川田は懐かしそうに言った。
 彼らの二度目の出会いは偶然だったが、新宿の飲み屋だった。彼
女は友人と女同志二人でその店に飲みに来ており、川田の方も再会
した大学時代の友人とその店にいた。健全な大衆酒場の雰囲気の
中で、注文した焼き鳥をぱくつきながら川田達が昔の話に花を咲か
せていた時、少し離れた所で二人の女性がかなり酔っ払った男にか
らまれていたのだ。
 その男が余りにしつこくつきまとっているにも拘わらず、誰もそれを
助けてやろうとしていなかったのに業を煮やして、川田はつと席を立
ちその場に向かった。その場を何とか収めて酔っ払いに退散願った
後、その女性に丁寧に礼を言われた時、彼は初めてその女性の顔
を見た。そして、おやっと思った。何処かで見たことのある顔だった
のだ。彼女の方も川田と同じことを思ったらしく、しばらく二人とも考
えていたが、ややあってほぼ同時に二人ともお互いを思い出した。
それがきっかけとなって、二人は付き合い始めた。
 そして付き合うにつれ、川田はその女性が彼の思い描いていた理
想の女性像にほぼピッタリ当てはまることに気付いたのだった。控え
目で物静か、それでいて知性を感じさせる会話、冗談も結構言うし、
それでいて嫌味のないものの喋り方をする彼女は、川田が一緒にい
てまったく飽きなかった。それでいて、自分の主張したいことは理路
整然と言う毅然とした態度の彼女に、どちらかと言えば川田の方が、
すっかり夢中になっていた。

 川田は、付き合い出して三ヶ月程経ったある日、突然彼女にプロポ
ーズした。彼女は川田のその言葉を予想していたと見え、さほど驚い
た様子はしなかったが、それでもしばらく考えさせてもらえる時間が欲
しい、と言った。川田はいつまでも待つと言った。
 川田とてこれまで過去に付き合ってきた女性が居ないわけではなか
ったし、どちらかと言えばひょうきんな明るい性格が幸いして、女友達
には恵まれてきた方だった。だがどの女性も、長いこと付き合わなくて
も大抵は短期間で人間性の底が割れ、川田の生理的に嫌いな女の
面を露わにすることがほとんどだった。今がこの性格なら、後十何年
かして中年になったら、一体どんな図太い中年女性になってしまうの
かと、彼は呆れることしきりだった。
 それに川田が彼女の仕草を見ていて安心したのは、レジで金を払う
時や買い物をしている時に、決してその振る舞いが安っぽくないこと
だった。たとえどんな美人であったとしても、そういう時には本性が出
ることを、彼は知っていた。それに結婚すれば、そういう場面を一番目
にするわけだから、それ故にその仕草が彼にとってごく自然に映る女
性でなければならなかった。そして全ての面で、彼女は文句の付けよ
うが無かった。

 川田が彼女の答えを聞いたのは意外と遅く、それから一ヶ月後だっ
た。こんな私で本当にいいんでしたら、と彼女ははにかみながら川田
に言った。川田に異存があろう筈はなかった。彼らはそれからニヶ月
後には月並みな結婚式を挙げ、ハネムーンベイビーの長男の翔が生
まれた。そして川田が入社して丸三年半が経過した頃に、彼の初め
ての海外赴任の話があり、彼ら一家は三年間イギリスで暮らした。
そして帰国後数年を経た後、イスタンブール赴任の話が彼の元へ持
ち込まれたのであった。

「……何か、話が長くなってしまったようで、申し訳なかったですね、
津田さん。退屈だったでしょう」
「いえ、とんでもない。良く話して下さいました、有難うございます。プ
ライベートな部分なものですから、なかなかそこまで正直に話してい
ただける方が少なくて。それだけ信用していただいてるってことです
から、こっちこそ恐縮です」
 津田は本心そう思いながら、手元の資料を片っ端から見ていた。川
田と結婚してから後のものはたくさん有るのだが、やはりそれ以前の
ものはあらかた処分してあるらしく、ほとんど残っていなかった。偶然
資料の中に、彼女の履歴書のコピーが挟んであるのを見付けた津田
は、その履歴や本籍等を手帳に書き写した。その後、関係有りそうな
めぼしいものを幾つかメモした後、再度の打ち合わせが必要な時は
連絡する旨を川田に伝え、いったん帰ることにした。時刻もすでに夜
の十一時近くになってしまっている。
「でも何故急に、貴方は私のこんな困難な依頼を引き受けて下さる気
になったんですか」
 川田は玄関口で津田を見送りながら、さも不思議そうに尋ねた。
「なあに、貴方のそのひたむきな気持ちに打たれただけですよ」
 そう津田は言うと、笑って川田の自宅を後にし、アパートに急いだ。
別に何が起こっているわけでもないだろうが、洋子をぽつんと一人にし
ておくことが、例の狙撃事件以来何となく気がかりでもある。津田は出
来ることならば、彼女に淋しいと言う気持ちを抱かせたくなかった。だが
同時に、今回の海外の調査のことも洋子に言わなくてはならないかと
思うと、少々気が重かった。洋子がどう言うか、大体想像出来たからだ。
『私を一人にしないで、私も一緒に連れてって、って言うだろうなあ。弱っ
たなァ、どう言って説得すりゃいいんだ』

| | コメント (0)

2008年4月18日 (金)

RobbinⅡ-レイン計画- 第三章(6)

 そもそも津田がこの探偵業界の異常さを知ったのは、浅見探偵事務
所に勤め出してすぐの頃だった。何気なしに、職業別電話帳の興信業
の欄をめくった時、えらく派手な公告に唖然としたのだ。大体昔から、
サラ金、葬儀屋、結婚相談所、整形外科、等々に代表されるように、
派手な公告を打つところはそれなりのリスクやデメリットも合わせ持っ
ているものである。そしてそれが料金にも跳ね返っていたりもするのだ。
津田は無事に再就職が出来はしたものの、これから先を思い、少々憂
鬱になったものだった。
 だが幸いなことに浅見探偵事務所は、この業界の中にあっても、所
長が元弁護士であったせいか、昔の仕事の繋がりを生かしてか、弁
護士事務所の裏付け捜査が比較的多く、そういう点では信用が置け
るしっかりした興信所だと言えるし、調査技術は及第点をクリヤーして
いると言えた。そのせいか、電話がかなりの頻度でかかって来る。実
際にそういう興信所は珍しいのだ。
 通常は月に数度電話がかかってくればいい方で、探偵と電話は切っ
ても切れない仲にある。それに電話がかかってきても、それが全て受
注に結び付くわけではない。それゆえに、一般に探偵社を尋ねようか
どうしようかと迷っている人間の、不安材料の最たるものの二番目に
ある調査費の金額が、高額になってくるのも仕方ないわけである。電
話帳の公告費や人件費、家賃等をそれでまかなうのだから。
 それに今どき珍しく、浅見探偵事務所では下請け探偵やフリー調査
員の類は一切雇っていなかった。もっともその分、津田達の仕事がハ
ードであるとも言えるわけだが。浅見所長自身が、今や伝説の岩井三
郎事務所を目指しているせいもあり、津田も探偵の基礎をかなり本格
的にみっちりと仕込まれた記憶がある。
 もちろん、俗に『一本釣り探偵社』と業界で呼ばれている、フリー客
の事件を主体とする興信所のように、男女トラブルも請け負うし、採用
調査興信専門所のように、身元調べを代行したりすることもある。津田
がこのところ腐っているというのも、最近これらの仕事ばかり回されて
いたせいもあるのだ。もっともそれは、他の探偵達が皆たまたま手一
杯の状態だったから、という背景があることも、津田は充分に承知して
いたわけではあるが。
 そして今回の依頼は、非常に特殊だということも津田は重々承知し
ている。通常、興信所の探偵本人が依頼主と直接接触するなど、絶
対に有り得ないのだ。もちろん本来の姿は、実際に調査する探偵と
依頼者が直接会う方が望ましいわけだし、そこから調査に対する熱
意や情熱も生まれて来ようというものである。
 だが現実には、商売である以上、探偵の取り分と興信所の取り分
は金額が違うのだから、そのあたりを探偵自身に知られることを、興
信所側は当然ながら極端に嫌う。それでも浅見所長が敢えて、幾ら
川田本人が強く希望したとは言え、こうして津田が直接川田に会うこ
とを許可した点を考えても、かなりの金額になることだけは間違いな
かった。
 当然、津田にその金額の話をすることは川田には厳しく口止めして
あるだろう。内示額を川田に示し、恐らく半金はすでに受け取っている
はずだが、最終的な金額は恐らく数百万の単位になるのだろう、と津
田は思っている。だが津田とて、この商売で生計を立てている以上、
そんなことに同情していては話にならないわけで、彼に出来るせめて
ものことが、先程の発言だったわけである。

「川田さん、つかぬことをお伺いして申し訳ないんですが、奥さんとは
どういうきっかけでお知り合いになったんですか」
 津田はわざと資料に目を落としたまま、さり気なく尋ねた。聞き流す
風に尋ねないと、正面切って尋ねてしまうと、場合によっては気分を
害され、肝心なところを隠されてしまうことだってあるのだ。意外とそ
んなところに、重大な手掛かりがあったりする場合もある。もっともそう
そういつもは、依頼人が何もかも包み隠さず、正直に話してくれるとい
う保証はないが。
「ああ……。そう、あれは私が」
 少し目を細めた川田は、なつかしさにあふれた表情になり、津田に
二人が知り合った経緯を遠い目で語り始めた。

| | コメント (0)

2008年4月17日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第三章(5)

「川田さん。それによしんば調査するとは言っても、トルコ語が出来なき
ゃあ、現地ではお手上げなんでしょう。英語でコミュニケーションしたって、
はっきり言って何不自由なく喋れる筈もありませんし、どこまでこちらの
言いたいことやニュアンスが相手に伝わるかは疑問ですしね。そうなっ
てくると、日本人のトルコ語通訳がいてくれないと話にならない。それも
イスタンブールで何とかして現地調達と言うか、探し出さなきゃいけない
わけですよね。
 でもそんなに上手い具合に見つかってくれるとは思えないんですがね。
英語やフランス語なら兎に角、トルコ語はハッキリ言ってあまり知名度は
有りませんからね。本格的にやってる人間となると、日本でだってかなり
限られてくるでしょうしね。ましてやイスタンブールにいる人間で、なおか
つ調査に協力出来る人間と言うことになってくると……」
「そう、一番の問題はそれなんです。片言で喋れる人間ならば、在ト期
間に比例してそれなりにかなりいると思うんですが。本格的な会話レベ
ルまで達してる、いわゆる通訳ってことになってくると、たしかに見つけ
るのが大変なんです。トルコ人と結婚して何十年もトルコに住んでいる
日本人女性なら話は別ですが、それ以外には未だかつて私もお目にか
かったことは無いですね。もっとも彼女達に今回の調査の手助けを依頼
するのは、私としてはちょっと」
「そうですね。お気持ちはわかります」
「ひょっとしたらいるのかも知れないが、この調査のために動ける人間と
なると……見つけ出すだけで時間を取られるでしょうし、第一、正直言っ
て本当に見つかるかどうかも定かじゃありません。それにその協力して
くれる人間の人間性というか、信用できる人間なのかどうか、そのあた
りも問題になりますしね」
 川田は大きく溜息をつき、しばらく考え込んでいたが、ふと思い付いた
ように言った。
「あの通訳女性、動転してたんで名前を聞き忘れましたけど、彼女なら
一番うってつけじゃないかと思うんです。領事館に連絡して、コンタクトし
てもらえば、あるいは」
「日本領事館が通訳の人間を斡旋してくれるなんて、期待を持つほうが
甘いと思いますよ。きっと事情が事情で緊急度もあったから、例外的に
特別対応してくれただけに過ぎないんじゃないですかね」
 そうは言いながらも、その線を当たるのも悪くはない、と津田は思った。
「それ以外だと……。ああ、モラ・ホテルに行ってみれば、あるいは」
「モラ・ホテル。何ですかそれは」
「旧市街の中で、日本人旅行客の溜り場になってるホテルがあるんで
すよ」
「そこへ行けば、何とかなるかも知れないんですか」
「確証はありません。ただ、日本人で長期にそこをねぐらにしている人間
は多いと思うので、彼らからそう言う人間が居るかどうかを聞くってことも
手ですよね。意外と彼らの方がそういう類の情報に詳しい時もありますし
ね。彼らが長期滞在しているということは、トルコでアルバイトにせよ何に
せよ働いてるわけだから、横の繋がりでそういう情報も入ってくる可能性
はありますからね。ふふ、でもこれだけ困難が付いて回る海外調査に行
っていただける探偵さんを見つけ出すのが、もっとずっと大変だが」
「そうですね、余程の酔狂な人間じゃなきゃあ、請け負わんでしょうね。よ
しんば請け負ったとしても、実際の調査内容はさておき、途方もない金額
を請求されるでしょうね」
「でしょうね……」
 明らかに川田は落胆していた。誰が見てもこれだけ大変な調査を請け
負う人間が、そう簡単に見つけ出せる筈がないことをあらためて痛感さ
せられたのだから、当然と言えば当然である。
「でも、そういう意味では、川田さん、貴方は実に運がいい人ですよ」
「津田さん、どういう意味ですか」
 川田の不審そうな顔を見て、津田はニヤリと笑った。
「条件があります。結果はどうあれ、今回の調査でこの件に関しては、
貴方の心の中の整理を付けて、後腐れないようにすること。それを飲ん
でいただけるんであれば、お引き受けさせてもらいましょう」
「本当ですか、津田さん!本当に、本当に行っていただけるんですか、
引き受けてもらえるんですか」
 津田は頷いた。それまで沈み込んでいた川田の表情がパアッと明る
くなったのがわかった。
「……で、色々と細部の詰めをしとかないといけないんですが、奥さんの
大学時代の名簿や住所録がありましたら、しばらくお借りしたいんです。
出来れば、親しかった友人の名前とか住所が判ればもっといいですね。
それと申し訳ないんですが、あるだけで結構ですから差し障りのない範
囲で、年賀状とか奥さんに来た手紙類を拝見できませんか。あと、まだ
残っていれば、イスタンブールの地図とかもついでに貸してもらえると助
かるんですが」
「承知しました!ちょっとお待ち下さい、探して来ます」
 そう言うのと同時に立ち上がった川田に、津田は制するように言った。
「とりあえず、今すぐ判るものだけで結構ですからね。あとは、お手数で
すが出来るだけ探しておいて下さい。またお伺いした時にお借りします
ので」
「わかりました」
 川田は何度かその応接間と部屋を行き来し、津田の言ったものをほと
んど揃えていった。一方で津田はそれらを一つずつ丁寧にチェックしてい
た。必要な資料であっても、個人宛の手紙類は出来るだけ借用しない方
が後々のためでもある。依頼人によっては、後でそのことを問題にしてプ
ライバシーの侵害だといちゃもんをつけ、半金の支払いを拒否する輩もい
るのだ。それゆえどうしても必要な場合は、依頼人にその旨の証書をい
ちいち書いてもらわなくてはならない、というのが浅見探偵事務所のルー
ルだった。得体の知れない探偵所が多いと言われている中では、珍しく
手堅い商売を営んでいると言えた。

| | コメント (0)

2008年4月15日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第三章(4)

「たしかに、貴方の言う通りです。それは自分自身が一番良くわかって
いる。矛盾してますよね、誰でもない自分の妻が殺された事件を、まる
で他人事のようにこうして頼もうとしてるんだから。でもね、津田さん、
私は正直言って怖いんですよ」
「怖い?何がですか」
「これは私の想像だからあまり当てにはならないが、今回の事件の背
後には私一人ではどうしようもない、とんでもないことが隠されてるよう
な気がしてるんです。そしてそれはひょっとしたら、良子が学生時代に
イスタンブールを旅行した時に端を発してるんじゃないかと」
「まさか。でも、何故そう思われるんですか」
「塚本美雪という女性が、私が出国する時にやって来て、言ったんです。
良子は雨を知り過ぎた、だから殺された、と」
「雨を知り過ぎたから殺された、ですって」
「ええ。それ以上の意味は教えてくれませんでしたが、たしかに彼女は
そう言ったんです」
 川田はトルコ出国の際に起こった出来事の、一部始終を津田に話した。
「雨……か」
 当然ながら津田にも、全く何のことやら想像すらつかなかった。
「雨が何を指しているかは判りませんが、最近思うんです。たかが赴任
三ヶ月足らずで、平凡な一日本人主婦が何かを知り過ぎる、って言うの
はどう考えても自然じゃない。ひょっとしたら良子は、以前イスタンブール
に旅行に来た時に、その『雨』に何らかの形で関わってて、今回赴任し
て再びそれに関わってしまったんじゃないだろうかと。そしてそれは、少
なくとも私には決して言ってはならないことだったんじゃないのか、と」
「………」
「そして私は、そこに犯罪めいた、きな臭さを感じるんです。これって、考
え過ぎでしょうかね」
「なるほど。だから、探偵事務所に依頼したわけですか」
「ええ。勝手と言えば勝手な論理ですけどね。それに良子の過去を調べ
ることは、私自身は余りしたく無いんです。何か私に言えない辛いことが
有ったように思えるんですが、彼女から言い出さない限りは、私もなるべ
く詮索しないようにしてきました。別に腫れものに触るわけではありませ
んが、私達が知り合う前の出来事ですから、知ったところでどうなるわけ
でもありませんし。それに誰にでも一つや二つは、自分の胸の中にだけ
しまっておきたいことはありますしね。世の中、知らない方がいいことだ
って有りますでしょう。そうは思われませんか、津田さん」
 何となく津田は、自分達のことを言われているようで変な気分だった。
彼と洋子は、今お互いのことをどんな些細なことまでも知りたがっている。
だが知り合う以前の互いの過去は、二人とも差し障りのないことしか喋っ
ていない。洋子は過去のことは余り言わないし、津田も傭兵時代のこと
は言うつもりは毛頭無い。確かに川田が言うように、たとえ洋子の過去
を詮索して知ってみたところで、今の津田がどうこう出来るものではない。
知ってしまったが故に、気まずくなることだって有り得るのだ。その点は、
たしかに川田の言う通りだった。

 津田はこれまでの会話の中で、川田俊彦の妻だった良子と言う女性は、
あまりにも自分の過去のことを喋らなさ過ぎていると思った。かたくななま
でに自分の過去を隠しているように思えてならなかった。夫婦で暮らして
いる以上、いつかは会話の中に互いの過去の話が、何かのきっかけで
自然な形でさりげなく滲み出て来ていて不思議ではないのだ。
 もちろん全てがそうではあるまい、と彼は思う。その個人にとってみれ
ばドラマチックな、だが一般論の枠にあてはめれば所詮は平凡な青春
時代があったはずである。だがその中にたぶんたった一つだけ、彼女に
とっては誰にも知られたくない部分があり、強固な意思の下でそれを含
む全てが隠され続けて来たように感じられてならなかった。そしてそれは、
たしかに川田が推測しているように、一般の枠から少しはみ出した何か
である可能性があった。
 津田には、それが何であるにせよ、川田良子の気持ちがよくわかるよ
うな気がした。津田とて、傭兵時代のことはたとえ相手が洋子であって
も、いや逆に洋子だからこそ、彼自身としてはずっと隠し通すつもりでい
るし、あまり触れて欲しくない部分でもある。そして自然と、それに前後
する頃の彼の大学時代のことも、いつの間にかそれに含まれてきてしま
っているのだ。
 別に彼が学生時代に、特に隠さなくてはいけないような何かやましい
ことをしていたわけではない。ごく平凡なことの積み重ねでしかないのだ
が、いったんその頃の話になった時、彼の傭兵時代にまで話が発展して
行って、何やかやと問いただされてしまうような気がして心配なのだ。だ
から津田自身も傭兵時代前後の過去は大幅にマスクしている。それと同
じようなことを、川田良子がしているように感じられたのだ。それが津田に
は気になった。

『と言うことは、俺に何かあれば、同じ気持ちを洋子に抱かせることになる
のか』
 津田の脳裏を、かつての立川駅前の狙撃が甦った。あの時もしも狙撃
されていたら、洋子は一体どうしただろうかと津田は自問自答してみた。
洋子が果たして今の川田と同じように、彼女なりに真相を探ろうとするか
どうか。その確証はないのだが、そう考えてみると津田が先程言った言
葉が、如何に川田にとってキツイ言葉であったかを彼は痛感し反省した。
川田は川田なりに、必死になって事件の真相を探ろうと努力しているの
だ。その真剣な気持ちは通常の調査依頼の枠を越えており、悲壮感すら
ある。やがて津田は決意した。
『川田良子。あんたが隠し通そうとした過去を、俺が葬ってやるよ』
 津田には、川田良子が自分と似た者のように思えて仕方なかった。彼
女が必死になって隠し続けて来た過去を暴く権利は誰にもない。だが津
田は、自分がそれに一番近い所にいるように思えた。せめて彼女の過去
を、彼女の意思通りに津田の手で葬ってやることが、今の川田のためで
あり、今は亡き川田良子のためでもあるような気がした。それは本来の
探偵調査のマナーに反することだが、依頼人に全ての真実を知らせる必
要はないのだと津田は思う。現に川田自身も言っている、世の中には知
らない方がいいことだってある、と。

| | コメント (0)

2008年4月14日 (月)

RobbinⅡ-レイン計画- 第三章(3)

 その夜、津田が依頼者宅へ到着したのは、約束の時刻の数分前だ
った。窓から明かりが漏れているのを確認してから、津田は玄関の呼
び鈴を鳴らし、自分の名前を名乗った。返事がかすかに内部から聞こ
え、ドアの向こう側に人の気配がした。ややあってドアが開くと、津田
の予想に反して、小柄でやや肥り気味の楽天家風の男の顔が覗い
た。眼鏡でもかけた神経質そうな、ひょろっと背の高い男を連想して
いた津田は、一瞬唖然としてまじまじとその男の顔を見つめてしまっ
ていた。
「ああ、貴方が行って調べて下さる方ですか。本当に有難うございま
す、助かります。ご無理なお願いをして申し訳有りませんが、どうか
どうかよろしくお願いいたします」
 開口一番、依頼主からそう頭を下げて丁寧に言われ、津田は完全
に出鼻をくじかれる形になってしまった。情にもろいところがある津田
にとっては、こういうのが一番苦手なのだ。何となく、調査地に立って
うろうろしている自分の姿が浮かんでくるような、そんな嫌な予感がし
た。
「ま、どうぞこちらへ」
 男は待ち兼ねていたと見え、応接間のテーブルの上の灰皿の中に
は煙草の吸殻がかなりの数転がっていた。それにテーブルの上には、
保温状態のコーヒーがすでに準備してあった。男はテキパキとコーヒ
ーを二人分カップに注ぐと、「どうぞ」と言いながら津田の前に置いた。
「あの、実は私が今日お伺いしたのはですね、状況がちょっと」
「ええ、わかっております。私のわかる範囲でご説明いたします。何な
りとお尋ねください」
『参ったな……』
 津田が取り敢えず挨拶代わりに自分の名刺を差し出すと、相手も返
す手で名刺を津田に手渡した。津田はまじまじとその名刺を見た。
『川田俊彦……声も電話の声と同じだから、確かに依頼主本人に間違
いないようだな』
 半年ほど前に、似たような状況で早合点してしまったために、連続切
り裂き魔などというとんでもない事件に巻き込まれた挙げ句、ひどい目
に遭った苦い経験を持っているだけに、流石に今回は津田も慎重に相
手を確認することを忘れなかった。
「調査依頼書って言うんですか、あれに大体のことは書いておいたんで
すが、もう全部読まれましたか。津田さん」
「ええ、一通りは目を通させてもらいました。でもですね」
 津田は、川田の失望ぶりや怒りの表情が見えるようで言い出しにくか
ったのだが、思い切って言うことにした。それに、依頼を受け入れるとす
れば、苦労するのは津田自身なのだ。
「あれは、不可能ですよ」
「え?不可能、と申しますと」
「あれは、調査ではなく捜査の範疇でしょう。申し訳ありませんが、一介
の探偵事務所がとても受け入れられるような仕事内容ではありません。
ましてや海外で、警察権が与えられるわけじゃ無し、よしんばお受けした
としても、ご満足いただける結果が得られるとは、とても思えんのです。
残念ながら」
「そ、そんな。殺生な」
「わかって下さい。私もこんなことを言いたくは無いんです」
「………」
 二人の間に気まずい雰囲気が流れ、しばらくは互いに無言のままだっ
た。川田はじっとうつ向いたまま、唇を噛みしめていた。津田は怒鳴られ
るぐらいで済む筈がないことを覚悟していた。
「諦めろとおっしゃるんですね、津田さん」
「まあ、早い話が」
 そう言うと津田は、コーヒーを飲み干し、小さな音をさせてカップを受け
皿に置いた。
「たしかに何かが裏にあるのは間違いないんだが、そうなると警察にで
も依頼するしかないんですか。しかし暇を持て余しているわけでもない
日本の警察が、海外で起こったこんな小さな殺人事件を真剣に捜査し
てくれるとは、とても思えない。イスタンブール警察に問い合わせて捜
査の状況を尋ねるぐらいのことはしてくれるかもしれないが、せいぜい
その程度でしょう。このまま私に泣き寝入りをしろ、って言うんですね」
「………」
 小刻みに川田の両手が震えているのがわかった。津田自身も間が持
てず、愛用の煙草を取り出すと、自分だけ一服した。本当は川田にも勧
めたかったのだが、津田の吸っている煙草が吸える人間はそうざらには
いないし、勧めてもかえって迷惑がられることの方が多いのだ。それに
促されるように、川田も自分の煙草に火を付けた。珍しくそれはマルボ
ロだった。
「津田さん、何処か他の信頼できる探偵事務所で、この調査を引き受け
てくれそうなところをご存じありませんか。金なら幾らかかっても構いま
せん。引き受けてくれるところが有るのなら、そこの言い値でお願いす
るつもりです」
「本気でそう思ってらっしゃるんですか、川田さん」
 津田は半ば呆れ顔でそう言った。
「一つお伺いしたいことがある。もしも私がこの調査を引き受けて、イス
タンブールまで出掛けて調査したとしよう。だが結局、何も奥さんが殺
された事件に関する情報を得ることが出来なかったら、貴方はどうする
んですか。私を現地調査にやったことに満足して、それで納得されるん
ですか。たとえ、結果がどうであっても」
 川田はしばらく無言で考えていたが、やがて口許に僅かに笑みを浮
かべながら、ぽつりと言った。
「たぶん、何度でも……何度でもお願いするでしょうね。納得の行く結
果が出るまで。津田さん、言外に貴方のおっしゃりたいことは良くわか
ります。貴方は本当に私のことを考えて、断わって下さっているようだ。
実は貴方のところに依頼するまで、何軒か飛び込みで当たってみたん
ですが、みな金銭的なことと言葉のことしか問題にしていなかったんで
す。すごく事務的な嫌な感じがしましてね、それこそイスタンブールへ
依頼されて行って来た、って言うだけの結果しか得られないような気が
して、最後のところで私の方が不安になって断ってきたんですよ。
 貴方の探偵事務所の反応はこれまでと少し違ったので、どうかなと
思ってたんだが、思った通りでしたよ。それに、貴方は優しい人なんで
すね、津田さん。暗に、私に冷静になって良く考え直してみろ、とおっし
ゃってくださる。気持ちはわかるが、そこまでしてまで調べる必要が本
当にあるのか、単なる気休めだったら止めておけ、と。
 本当に納得したいんであれば、そこまで思っているのなら、全てを捨
ててでもどうして自分自身の手でしようとしないんだ、とね。本当は貴
方みたいな方に行っていただければ、一番良かったんだが……」
「………」
 津田はその川田の言葉には何も答えず、ただ黙って煙草を吸い続け
ていた。

| | コメント (0)

2008年4月13日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第三章(2)

 しぶしぶながらも、津田はそう納得することにした。だが、かと言って、
正体不明の狙撃者のことが頭から消えたわけではない。それはそれ
で、彼にとっては頭の痛い問題だった。流石に最近は何事も起こって
いないが、狙撃者がそうそう簡単に諦めたとは思えなかった。それだ
けに逆に、最近の何事も起こらない静けさが不気味でもあったのだ。
『何か手掛かりでも残してくれていれば……』
 唯一の手掛かりは、津田の部屋の壁に打ち込まれた銃弾の筈だっ
た。だがそれとて、翌日には見事に無くなっていたのだ。あの時は洋
子が居たから下手に刺激しない方が良いと判断し、彼女が居ない時
にと思って、翌日帰宅してから銃弾を取り出そうと考えたのが間違い
だった。部屋の中が全く荒らされていないことから考えても、銃弾を取
り去った人間は、空き巣の類ではないことだけは間違いなかった。
『誰だか知らんが、良くやってくれるぜ。まったく』
 そんな津田の気持ちなど露ほども知らず、浅見所長は机の上の一
角からファイルの書類を抜き出すと、一瞥してから彼に手渡した。
「……で、これが今回の依頼書だ。早速準備に取り掛かってくれ。依
頼者の方は、必要ならこちらの都合に合わせて、いつでも会う時間を
設けると言ってる」
「はい」
 津田は渡された依頼書を手に自分の机の方に戻ると、しぶしぶ表
紙をめくり内容を読み始めた。やがて一読し終わると、彼は思わず浅
見の方を見た。内容について文句を言ってやろうかと思ったのだ。だ
が運悪く浅見は電話中だった。なかなか終わりそうもなかったので、
津田は文句を言うのをあきらめて、再び視線をゆっくりと机の上に戻
すと、大きな溜息をついた。
『こりゃあ、調査と言うよりも、捜査じゃないかよ。こんなことを本当に
調べられると思ってるのかよ。冗談じゃない』
 今さら、浅見に掛け合ってみたところでどうなるものでもないことが
わかり切っているだけに、津田は依頼主に直接会って、こんなことは
調べられないと断固断るつもりになっていた。浅見にそのことが知れ
れば、それこそ怒鳴られるくらいでは済む筈がないのは百も承知で
あった。浅見の性格ならば、下手をすれば津田が解雇される可能性
だってあるのだ。
『ま、そうなったら、その時に考えるさ』
 そう心の中でうそぶきながら、津田は愛用の煙草に火を付け、腕組
みをしながら机の上に置かれている先程の依頼書を、複雑な気持ち
でじっと眺めていた。やがて意を決して、津田はその依頼主の会社の
方に、個人名で電話をかけ直接コンタクトすることにした。
 当たり前のことだが、探偵事務所の名前を出して連絡しようとすると、
大体の場合は依頼人に嫌がられるのだ。浮気調査とか素行調査に代
表される、他人のプライバシーの部分を覗く職業、と言う暗いイメージ
が大きいせいも有るのだろうが、どちらかと言えば依頼内容が秘密め
いたものが多いだけに、迂闊なことは出来なかった。結構、気をつかう
商売ではあるのだ。
 依頼主が電話口に出たのを確認して、津田は浅見探偵事務所の名
前を出した。相手はすぐ了解し、津田が依頼内容の件で直接会いたい
のだがと言うと、相手は早速今晩七時に自宅でどうかと尋ねてきた。
津田は了解し、依頼主の自宅の住所を確認して電話を切った。それか
ら津田は、ロッカーから航空明細地図を引っ張り出して、依頼主の自宅
の位置を確かめると、浅見に簡単に用件を告げ、直帰の形で事務所を
出た。

 待ち合わせの時間までにはまだかなり時間がある。津田は事務所を
出た足で中央線に乗り込むと、洋子の居る喫茶アルファに向かった。
案の定、アルファはいつものように客はおらず、暇を持てあまし気味の
洋子と木島の顔が、カウンターに揃って並んでいた。
 津田はいつものように指定席に座ると、手帳をさりげなく出して走り書
きをした。そしてそれを、コーヒーを運んで来た洋子に木島に判らないよ
うにそっと見せた。洋子はそれを見て小さく頷いた。二人の関係は誰も
知らない。そのことを別にことさらに隠す必要はないのだが、二人だけ
の秘密であるということを、結構スリリングに感じている今の二人だった。
 津田は、今日は夜七時から依頼者と会う約束があるので遅くなるかも
しれない、と書いただけであり、それは他愛もないことにしか過ぎない。
そしてそれを洋子は読んだ、単にそれだけのことなのだが、実は結構、
二人とも内心ドキドキしていた。今の二人は、たとえそれがどんな些細
なことであったとしても、全ての互いの身の回りに起こった出来事を知り
たかった。常に互いを独占しておきたいと願っていた。
 そしてその感情を、人は『恋愛』と呼ぶ。

| | コメント (0)

2008年4月12日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第三章(1)

「えーっ、俺がですかァ!」
 浅見所長からいきなりそのことを告げられた時、思わず津田は、あま
り広くない浅見探偵事務所中に響き渡るほどの、素っ頓狂な声を上げ
ていた。
「おい、何もそんなにびっくりすることはないだろう、津田」
 その津田の反応の大きさに、言った浅見宣之自身が逆に驚いてしま
ったほどだった。
「いや、しかし、幾ら何でも……所長ォ、他の人間にしてくれませんか」
「何だ、嫌だってのか」
 浅見所長は眉をひそめた。明らかに浅見所長の心証を害しているの
が判り、津田はちょっと嫌な感じがした。津田としては軽い気持ちでそ
う言ったに過ぎない。本気で嫌がって言っているわけではないのだが、
浅見は全てのことが自分の思い通りに運ばなければ不機嫌になりや
すいタイプの、少々扱いに困る部類の人間だった。そうなっては浅見が
意地でも、津田を自分の命令通りに動かそうとするだろうことは、想像
するにたやすかった。そうなっては元も子もなくなると思い、津田は必
死になって言い訳をし始めた。
「だって第一、俺、パスポート持ってませんし。それに申し訳ないんです
が、ちょっと個人的に色々有りまして……そんなわけで今、少しでも日
本を離れるわけにはいかんのです。所長、今回だけは、せっかくなんで
すが、ちょっと勘弁して下さいよォ」
 津田はそう哀願するように言った。洋子との甘い同棲生活がいきなり
中断されるのは津田としても本意では無いし、何よりも自分を執拗に付
け狙う正体不明の狙撃者の存在が、彼としても一番の気掛りだった。
津田がいない間に、残された洋子の身にもしも何かが起こってしまって
は取り返しがつかない。自分の留守中に何も起こさないという保証は、
狙撃者からはもらっていないのだ。
「いや、これはやっぱりお前にやってもらおう。適任だ」
 浅見の意地悪とも取れる非情な台詞に、津田は泣き出しそうな顔にな
った。
「そ、そんなァ……殺生な」
「何も、一年もニ年も行って来い、って言ってるわけじゃ無いんだ。仕事な
んだぞ、お前。判ってるのか、津田。そもそもだなあ、仕事というものはだ
な……」
 浅見のいつものお説教が始まったが、津田は上の空だった。
『やばいなあ、洋子に何て言えばいいんだ。弱ったな、こりゃあ……。あい
つ、この浅見のおっさんの性格知らんから、どうして断ってくれなかったの、
なんて言うんだろうなあ。しかしこの我儘なおっさんにも困ったもんだ。より
によって、こんな時に』
「……と言うことだ。判るか、ん?……おい、津田、聞いてるのかお前」
「え、はい、勿論。拝聴させていただいております」
「うむ。そもそも俺の若い頃はだな、お前、そんなこと一言でも言ったら、と
んでもないことだったんだぞ。だいたいあの頃はだな……」
『やばい!話が長くなっちまった。こりゃあ、五分や十分じゃ終わらんぞ』
 そっと横目で入り口付近のカウンター辺りを見ると、経理の三上悦子が
同情の表情で笑いを押し殺しながら、津田の方を見ていた。
『しかし、何でまた、海外調査なんだ。依頼人が誰かは知らんが、きっと謝
礼額を普通より多くはずむんだろうな。でもなきゃあ、このがめつい所長が
簡単にOKするわけがない』

 ひとしきり浅見の自慢話を聞かされた後、結局は津田が折れる形で、そ
の仕事を請け負わされることになってしまった。今さらこうなった以上、何を
言っても聞き入れてもらえるような所長でないことぐらい、これまでの長い
付き合いで津田にもわかりきっていた。
 このひとしきりのお説教で津田が了承しなければ、彼が了承するまでい
つ果てるともなくまるで波状攻撃のように、浅見所長のお喋りにも似た説
教は続いて行くのだ。流石に津田とて、それに悠長に付き合っていられる
ほどは忍耐強く無かった。最初に浅見の御機嫌を損ねてしまった時から、
すでにこの結果は予測出来ていた。
『悪い人間じゃ無いんだが、この性格だけはなあ』
 口では悪態をついても、実際には色々と裏で工作してくれていることもあ
るのだ。現に、以前に津田がトリム電子産業相手の身代金受け渡しに絡
んで警察に拘留されていた時も、実際には裏から手を回して彼を仮釈放さ
せている。彼もその時は釈放されたことが不思議だったが、後でこの事実
を知って納得したのだった。その点は頼りになる所長と言えた。ただし、そ
れが本当に津田の身を案じてしてくれたことなのか、それとも自分の履歴
に汚点が付くのを単に嫌がっただけなのかは定かではなかったが。
『トリムの時の大きな借りがあるからなあ、俺としても頭から無下に断るわ
けにもいかんし。不本意だが、今回は仕方ないかもなぁ』

| | コメント (0)

2008年4月11日 (金)

作者の簡単レビュー 【その20】

 RobbinⅡから意識的に、話の流れで区切るようにして、一回の掲載
量を全体的に以前よりもかなり増やしているのですが、一回ごとの掲
載量は新聞の定期連載のように、ある程度は一定の方が読みやすい
のでしょうかね…ちょっと悩んでしまいます。
 次の第三章のサブタイトルは「飛んでイスタンブール」です。

| | コメント (0)

2008年4月 9日 (水)

RobbinⅡ-レイン計画- 第ニ章(9)

 津田が帰って来たのは、それからニ十分ほど経ってだった。玄関のド
アがいきなり開いた時、彼女はビクッとしたが、津田の顔が覗いたので、
ホッとして全身から張り詰めていた力が抜けて行くようだった。
「ごめん、遅くなって」
 津田はそう短く言うと、窓のカーテンを引き、割れたガラスを注意深く片
付け始めた。洋子はただ黙って立ち尽くしたまま、そんな津田の動作を
じっと見詰めていただけだった。やがて一通り片付けが終わると、彼は
思い出したようにオーディオのスイッチを入れ、カセットテープを控え目な
音で再生した。そしてヘビースモーカーの例に漏れず、煙草を手にした。
「どうした、元気無くなっちゃったみたいじゃないか」
 津田は努めて笑顔で洋子に話しかけた。低く音楽の流れる中、洋子は
黙って津田のすぐ右横のベッドの上に腰を下ろし、うつ向き加減でぽつり
と言った。
「……何があったの」
「ん?いや、誰かがいたずらして空気銃か何かで撃ったみたいだから、
調べてたんだ。最近のいたずらは度が過ぎてるよ」
「嘘!本物の銃じゃないの?この前だって」
「………」
 半信半疑で尋ねた洋子だったが、津田の無言は肯定を意味していた。
思い返すと徐々に恐怖感がつのって来た。やがて不意に洋子はそれに
耐え切れなくなり、「怖い!」と叫ぶと、津田に抱き付いた。意味もなく身
体が震えてくるのが止められない。津田は最初、洋子のその予期してい
なかった行動に戸惑っているようだったが、やがて優しく彼女の肩を抱く
と、そっと言った。
「大丈夫だよ。洋ちゃんが狙われてるわけじゃ無いんだ」
「でも、でも……」
「さ、送ってくよ。もう帰った方がいい」
「いや!独りで居るの、怖い」
「大丈夫だって。洋ちゃんは強い娘だろ」
 洋子はそれには答えず、黙って首を横に強く二、三度振った。それを見
て津田は大きく溜息をつき、胸元にしがみついている洋子に、ちょっと困
ったような顔をした。
「困ったな。ま、ちょっと落ち着け。興奮してるみたいだから」
 優しく洋子の肩をニ、三度叩くと、津田は立ち上がろうとした。だが、洋
子はしっかりと津田の胸元の服をつかんだまま、放そうとはしなかった。
「困ったお嬢さんだなぁ……」
 津田は笑顔でそう言うと、洋子の顔を両手で覆うようにして、彼女の顔
を上げて自分の方に向けさせた。本当の真近で見た彼女の顔は、涙で
濡れてぐしゃぐしゃになっていた。そんな弱い洋子の顔を見たのは、津田
は初めてだった。そして意外でもあった。かつて傭兵コブラに拉致されて
いたのを彼が救い出した時の、あの健気なまでに強かった白鳥洋子の
影は何処にもなく、そこにあるのは彼の支えを必要としている、一人のか
弱い女の姿だった。
 時々しゃくり上げている洋子のそんな姿を見ていると、津田は心の片隅
でいつも否定してきた感情が、つい押さえ切れずに沸き上がって来るの
が判った。その衝動に耐えながら、津田は近くにあったティッシュの箱か
ら数枚を取り出すと、洋子の涙をそっと拭いてやった。洋子はじっと真近
の津田の顔を見詰めたままで、ただされるがままになっていた。
 津田は、洋子のつぶらな瞳の中に、自分が映っているのを見た。洋子
も、津田の瞳の中に、自分が映っているのが見えた。今までもずっとお
互いにそうしてきて、これからもずっとそうであるような、隔絶された二人
だけの世界に迷い込んだような錯覚に、二人とも陥っていた。次第に周
りの景色が二人の視野から消えて行き、物音すらも聞こえなくなってい
くような、そんな催眠術にも似た不思議な時が二人の間に生まれ、そし
てごく自然に二人は結ばれた。

| | コメント (0)

2008年4月 8日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第ニ章(8)

 洋子は津田の真意をはかりかね、また何と言って返事してよいもの
か、迷いながら津田を見た。津田は黙って、ベッドの上を指差した。洋
子は津田のその動作を誤解し、一瞬ドキッとしたが、指差されたベッド
の上を見て、思わず「あっ!」と小さく声を上げた。
 太陽がシーツの白さを眩しくしているその中に、キラキラと輝くガラス
の破片が散乱していたのだ。いつの間にかベッドの脇にも同様のガラ
スの破片があった。洋子は不審な表情になった。そんなものは先ほど
自分が腰掛けていた時にはあろうはずもなかったのだ。あれば気付か
ないわけがなかった。
 ガラスの破片を追うように、やがて目線を窓ガラスの方に向け、洋子
は目を見張った。その窓ガラスはまるで真ん中に石か何かを投げ付け
られたかのような割れ方をしていたのだ。
『何なの。……あ!この前の立川の時と、同じ』
 実際に何が起こったのかは、その時の洋子には判らなかったが、津
田には充分に判っているようだった。津田はガラステーブルの横に座
っている洋子の後ろを通って、窓の方に近付いた。そして、オーディオ
の横にある収納ラックらしきものの中から、黒い双眼鏡を取り出した。
そして上着を脱ぐと、窓の所で、少し外から見えるようにそれを左手で
持つと、注意深くゆっくりと動かした。しばらくの間、津田はそうやって
様子を伺っているようだった。だが特には何も起こらなかった。
「悪いけど、ちょっとここで待っててくれ。ただし、窓には絶対に近付く
なよ!」
 そう言い残すと津田は、双眼鏡を手に足早に部屋から出て行った。

 独りその部屋に残された洋子は、ぼんやりとベッドの上の太陽光に
輝くガラスの破片を見ていたが、あらためて部屋を見渡してみて、ふ
と壁の所で視線が釘付けになった。
『あれは?』
 先ほど部屋を見渡した時には、それは無かったように思えた。丸い
黒い穴のようなものが壁に開いていたのだ。窓ガラスの何かが当たっ
て割れたような位置と、それは一直線上にあるように思えた。
『銃弾なの?……まさか!』
 それをじっと見詰めているうちに、不意に洋子は孤独の不安感に襲
われた。不気味なくらいの静寂の中で、言い知れぬ恐怖感が、じわじ
わと心の中に沸き上がり始めているのが判った。よくテレビの刑事番
組で出てくるような狙撃という事実はあまりにも現実離れしているのだ
が、それ以外にこの状況を説明できるものは無かった。もちろん、その
ような経験が洋子にあろう筈もなく、それだけにいっそう漠然とした不
安感が彼女の中に芽生えていた。
『津田さん、早く帰って来て』
 泣き出しそうな顔で、洋子は祈るような気持ちで、津田が帰って来る
のを待ちかねていた。いても立っても居られなくなり、つい立ち上がっ
てじっとその場にしばらくの間、立ちつくしていた。
 手持ちぶさただったので、津田に言われたように窓際には近付かな
いように注意して、洋子はテーブルの上の二人のコーヒーカップを台所
の方に持って行き、洗って片付けた。ついでに台所の周りもきれいにし
ておいた。そうやって何とか独りきりの時間を潰そうとは試みるのだが、
何をしてみても余りに短時間で終わってしまうようで、だんだん彼女は
苛立ち始めた。

| | コメント (0)

2008年4月 6日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第ニ章(7)

 津田が彼女の目の前に置いてくれたコーヒーカップは、どこにでもあ
る平凡な白い無地のものだった。津田の煎れたコーヒーを飲みながら、
それからしばらくの間、二人はとりとめのない話に花を咲かせていたが、
「洋ちゃん、この前、俺に変なこと言ってたろ。男は勝手だ、って」
 と突然津田は、この前から気になっていたことを洋子に尋ねてみた。
「ああ、あのこと。ご免なさい、気にしてた?」
「何か、嫌なことでもあったのかなあ、と思ったけど」
「………」
 珍しく洋子は無言になって、コーヒーカップを玩び始めた。それを見た
津田は慌てて言った。
「ごめん、ごめん。聞かない方が良かったみたいだな」
 洋子は首を横に振ったが、少し暗い表情になっていた。やがて彼女は
ボソッと言った。
「ねえ、津田さん。男の人って、一度抱いた女はいつまでも自分の物だ
って思ってるの?」
「え?」
 津田はまさか洋子が唐突にそんなことを言い出すとは思っても見なか
ったので、内心かなり慌てふためいた。別に洋子が処女か処女でない
かなど、彼の中で問題にしたことなど無かったのだが、いざ正面切って
そう言われると、洋子に心を動かされ始めている今の津田にとって、ど
うしようもない範疇のことでもあり、正直言って余り気分の良いものでは
なかった。
「……がっかりしたでしょう」
 洋子は寂しそうな笑顔を浮かべて、津田を見ていた。
「よりを戻そう、って言ってきたのか」
「うん……」
 津田は間が持てず、再び新しい煙草に火を付けた。
「でも私、知ってるんだ、慎一の今の生活。嫌なの、ヒモみたいな男の
人って。慎一に比べれば津田さんなんて、ずっと真面目だわ」
「真面目、か」
 思わず津田は苦笑した。洋子は津田のもう一つの側面を知らない。
果たして、元傭兵のサラリーマン探偵という職業が真面目な職種なの
かどうかは、今の津田には何とも言えなかった。額に汗して働いてい
るのは事実だったが、それとて生きていくために仕方なくそうしている
部分もある。彼とてかつての富田隆夫や巽良介のように、ヒモの生活
で自由気儘に毎日が送れる保証があるのであれば、楽なそちらの方
を選んでしまうかも知れない。自分の中の一人の男としてのそういう弱
い部分を、洋子に看破され皮肉られたようで、津田としても複雑な心境
だった。
「……って言うことは、洋ちゃんは拒否したってわけか。それでその慎
一は納得したのか」
「何やかや言って、未練たらしくまとわりついてたけど、結局は諦めた
みたい」
「そうか。大変だったんだな」
 そう言うと少しの間津田は、何処を見るともなく窓から外の景色を見
ていたが、不意に彼の目つきが鋭くなった。次の瞬間、津田は洋子を
凄い勢いで押し倒した。

 洋子は目をつぶり、「きゃっ」と小さく叫んで、身体を堅くした。後頭部
がカーペット越しに床に当たり、ゴンという音が彼女の頭の中に響いた。
自然と両肩に力が入り、彼女は唇をぎゅっと閉じていた。両手はじっと
握り締められたまま、胸の前で小さく震えている。何故か、津田を押し
のけて抵抗しなくては、という気持ちは起こらず、諦めにも似た気持ち
があった。
 それは、男なんて何やかや言ってみたところで皆、同じように女を抱
きたがる生き物なんだ、現に目の前の男だってそうじゃないか、という
醒めた気持ちだったのかも知れない。同時に、顔見知りだとは言え、
やはりここに独りで来るべきではなかった、という後悔の念と、ここに来
てしまった以上、こうなることも心の何処かで覚悟していたのかも知れ
ない、という気持ちが複雑に心の中で入り組んでいた。だが不思議と
『犯される』というよりも『抱かれる』という気持ちが、強く彼女の心の中
を瞬時に通り過ぎて行った。遠くの方で、ガラスか何かの割れる音が
小さく聞こえていたような気もした。
 自分の身体の上にのしかかっている津田の重さを意識しながら、真
近で津田の息遣いをじっと洋子は目を閉じたまま聞いていた。津田の
体温が、皮膚を通して彼女の中に染み込んで来るような気がした。彼
女は意外と冷静でいる自分自身が判った。静寂の中で、目覚まし時
計の時を刻む音だけが、その部屋に小さく響いていた。
 身近な彼からは、微かに煙草の臭いがした。だが洋子には、理由は
はっきりとは判らないのだが、何故かその香りが懐かしいもののように
思えて、安堵の念が芽生えているのが、自分でも不思議で仕方がな
かった。

 しばらくたっても特に津田が彼女に手を出す気配を感じなかったので、
洋子は不審に思い、そっと目を開けて津田を見た。津田は相変わらず
険しい目つきで、洋子の方ではなく、じっと窓の方を見詰めたままだっ
た。下から見上げた