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2008年3月31日 (月)

RobbinⅡ-レイン計画- 第ニ章(3)

 その翌日、津田は久し振りの自由な時間を、珍しく立川で過ごしてい
た。コトブキヤで大金をはたいて、以前から欲しいと思っていたガレージ
キットを買い、機嫌良く出て来たところだった。
『さーて、WILLの本屋にでも立ち寄ってから、帰るとするかァ』
 WILL(ウィル)というのは、JR立川駅に隣接する形で駅ビルと一体化
している、ショッピング街の総称である。ご機嫌な津田は、いつもエスカ
レーターを使う彼にしては珍しく、ガラス張りのエレベーターに乗り込み、
目的の階をエレベーターガールに告げると、見るとは無しに外の景色を
ぼんやりと見ていた。
 WILLの駐車場への車の列が、駅前のロータリー付近まで繋がってい
るのが右の方に見えた。すぐ目先の左前には、高島屋がそびえている。
それはいつもと変わらぬ、平凡な日曜の昼下がりの光景だった。

 やがてエレベーターはゆっくりと上昇を始めた。「ご利用階数をお知ら
せ下さい………かしこまりました」という、エレベーターガールの小さな
感情の無い声が背後に聞こえる。何気なく駅前のビル群の屋上を見た
津田は、思わず自分の目を疑った。
『あれは?』
 とあるビルの屋上に、ぽつんと小さく、人の頭らしきものがあるように
見えた。それだけなら別にどうということは無いのだが、小さな黒っぽい
ものがその頭と同じ位置に見え、さらにそれは津田の方向を向いている
ように見えたからだった。
『銃…まさか。そんな馬鹿なことが』
 津田の中に眠っている何かが、彼に身の危険を知らせている。だがこ
れでは身の隠しようが無い。彼はガラス張りのエレベーターの一番端で、
外を向いた格好になっているのだ。まさかとは思いながらも、津田の全
身を冷汗が流れて行く。それに確証がない以上、今こんな狭い空間で
急に騒ぎ出すのはまずいし、だいいち体裁が悪い。当たり前だが、余程
のことが無い限りは、迂闊なことは出来なかった。
 エレベーターの上昇速度が余りに遅く感じられ、津田は内心いらいらし
始めた。そんな彼の気持ちを察したかのように、エレベーターは四階で
止まった。ドアが開くと同時に、津田は身を翻し、強引に転がり出るよう
に人波をかき分けて、急いでそのエレベーターを降りた。息遣いが少し
荒くなっていた。
『何だったんだ、あれは』
 JR連絡通路のある二階まで降りるか、さもなくば最上階の食堂レスト
ラン街まで行かなければ、手っ取り早く駅前の北側が見える窓はないこ
とを、津田は漠然と思い出した。彼は急いで近くの階段を一気に二階ま
で走り降りると、WILLをいったん出る形をとった。駅ビルを南北に縦断
する形になっている吹き抜けの連絡通路の北側ガラス窓の端に走り寄
ると、もう一度そのビルの屋上を仰ぎ見た。だがそこには何もなかった。
『気のせいだったのか。それとも目の錯覚だった、とでもいうのか』

 彼はまるで狐につままれたような気分になった。現実には有り得ない
ことだった。この日本の平凡な日曜の光景の中に、自分を狙撃しようとす
る人間が居るとは、現実問題としてはとても考えられないし、だいいち、
スナイパーに狙われる覚えなど無いのだ。のんびり本屋に立ち寄る気な
ど、いつの間にかとうに失せてしまっていた。
 ガラス窓越しに見える人並みの中に、それらしいものを持った人間が居
ないかどうかを探そうとしたが、無駄だった。彼は突然、背後から自分の
名前を呼ばれたのだ。今のことがあっただけに、びっくりして津田は即座
に後ろを振り返った。

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2008年3月30日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第ニ章(2)

 津田は龍王のすぐ脇に位置すると、彼の読んでいる本を何気なく覗き
込んだ。一瞬、自分の目を疑った。とてつもなく細かい活字の並んでい
る本だったからだ。龍王はやがて、自分のすぐ横にずっと立っている人
間の存在に気付き、おもむろに顔を上げた。
「あ、兄貴……お久し振りです」
 龍王は何とも言えない表情をしていた。
「どうしたんだ、龍王。何処か身体の具合でも悪いのか」
「いえ。こう、何ていうか……恋って、苦しいもんなんですなあ」
「へ?……!……こ、恋?」
 津田は龍王には悪いと思ったが、我慢出来ずについ思わず吹き出して、
大きな笑い声を上げてしまった。流石に龍王もこれにはムッとした顔にな
って、津田を睨み付けるように、静かに言った。
「そんなにおかしいですか。俺が恋なんていうのが」
「あ、いや……ごめん、悪かった」
 龍王はかつて高校時代に柔道をやっていたことがあるという話で、かな
りがっしりした体格をしていた。それに加えて、お世辞にも優男とは言えな
い顔付きであった。だがそうは見えても、性格の方は人一倍優しかった。
これは津田も保証している。
『いい男なんだが、外見で損してるんだよなぁ。残念ながら、男は顔、って
いうのが現実だからな。それに今の若い女性で、奴の内面の良さを見抜
けるような人間は少ないだろうな』
 津田が興味半分に、龍王の恋の相手のことを尋ねようと、彼の前の席に
腰掛け、いつもの煙草を取り出して一服した時、
「いらっしゃ……」
 と、珍しく洋子の声が途中で止まった。ちょうど入り口を背にして座ってい
た津田は、振り返って洋子を見た。呆然としたような顔をして、彼女は入り
口の来客を見詰めたままだった。つられて、津田もその客を見た。

 一人の若い男が立っていた。彼は洋子に微笑みかけると、入り口の近く
の窓際の席に座った。津田の中の何かが、彼のその男に対する第一印象
を嫌悪感で占めさせていた。一見して、学生風の男だった。彼は上着の濃
紺のスタジャンのポケットから、平凡な白いパッケージの煙草を取り出し、
テーブルの上に置いた。封を切ってある所を下側にして、中に煙草と一緒
に入れてあった百円ライターをだらしなく取り出してから、煙草を一本口に
くわえた。平凡な動作なのだろうが、津田にはなんとなく安っぽく嫌味な動
作のように見えて仕方がなかった。
 職業柄つい、横目でさりげなく、津田はその男を観察した。結構女にもて
そうな色男タイプと言えた。少なくとも、真面目に大学に通って勉学にいそ
しんでいる種類の人間では決してないようだし、世間の苦労を知っている
ようにも彼には見えなかった。早い話がどこにでも居る、少し顔がいいだけ
の平凡な甘ちゃん学生だ、と彼は判断した。洋子の大学時代の知り合い
か何かなのだろうと津田は思ったが、その男の存在が彼には正直気にく
わなかった。
「洋子。今日仕事が終わったら、久し振りに会わないか」
 その男のやけに馴れ馴れしい声が、津田の耳元に微かに飛び込んで来
た。それを聞いた瞬間、津田は内心かなり動揺したものの、表面上は必死
に平静を装い、そのまま黙って煙草を吸い続けていた。
 洋子は小声で何かを言ったようだった。彼女の表情や態度は、今の津田
の居る位置からはまったく判らないが、津田には洋子がその男の出現を迷
惑がっているように感じられた。龍王の相手どころではなくなった津田は、
さりげなくいつもの定位置に移ると、その男を観察した。
『何なんだ、こいつ、いきなり。えらく親しげじゃないか』
 今日のアルファのBGMが、津田の好きな今井美樹であることも関係なく、
彼は不機嫌そのものだった。マスターの木島も気になるらしく、時折チラチラ
とその男を見ていた。何しろ、喫茶アルファの看板娘である洋子に、いきなり
恋人らしき男が出現したのだから無理もないと言えた。結局、彼女は大学を
卒業した後、喫茶アルファの正規従業員になっていた。
 一部の人間にとっては気まずい沈黙の時間が、しばらく続いた。やがて男
はコーヒーを飲み終えて会計を済ませると、再び洋子に何かを小声で囁き、
アルファを出て行った。その男の後ろ姿を見送りながら、津田は漠然と考えて
いた。
『まあ、たしかに俺がどうこう言う筋合いじゃないものなあ』
 そんな出来事には全く関係なく、龍王は相変わらず熱心に本を読んでは、
時折大きな溜息をつき続けていた。

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2008年3月29日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第ニ章(1)

 このところ津田は、最近の仕事の内容が単調な身辺調査ばかり続い
ているということもあるのだろうが、心の片隅に何か引っ掛かるものが
ある気がしてならなかった。なぜ自分は、結局こういう職種を選んでし
まうのだろう、と津田は時々思うことがある。表面的あるいは外見上は、
いかにも格好の良い響きで聞こえる『傭兵』などは、その最たるものだ
ったのかも知れない。
 彼の今の職業にしても、そうだ。仕事を始めた当初は、推理小説に登
場する探偵達の、華麗なそして人間臭くない私生活と、今の自分の現
実の生活とのギャップに、正直ショックを受けたものだった。そもそもそ
れは、津田の認識がなさすぎたのだ、と言われてしまえばそれまでの
話ではある。
『探偵っていうのは、金持ちが前提なのかなァ。小説の世界では』
 はたから見ると儲かる商売だと思われているのかも知れないが、現実
はそうではない。素行調査や身辺調査にしても、せいぜい一件八万円
程度しか請求できない。あとは実費だ。今の世間一般ではそれが相場
である。ましてやフリーでなく事務所勤めだと、それが丸々懐に入るわけ
ではないので余計であった。現実に津田が受け取る月々の給料は、手
取りで13万円を切っている。
『月々のアパート代が、一番痛い出費だものなあ』
 首都圏の住宅費は、今の津田にとっては一番こたえている。ましてや、
津田が国民の義務でも何でもないと堅く信じている放送受信料の支払い
など、とんでもない話である。この前も、集金人と大喧嘩をやらかして、そ
れ以来、彼の所へはやって来ない。
『しかし今の事務所を辞めて独立の真似事をしてみたところで、収入は保
証されないし……。世の中、上手くは出来てないもんだなあ。うー、落ち込
んじまうよ。でなきゃあ、アルファのコーヒー代をツケにしたりするもんかよ。
今どき、恥ずかしくて他人に言えやしない』

 暗雲の立ち込めた気持ちで、津田はややうつ向き加減にアルファのドア
を開けた。最近は結構地方に出張することが多く、交通費は大体は事後
精算が多いので、要は立替払いをする頻度が増えているのだ。それゆえ、
一時的に財布の中身が空っぽに近くなることが多々あった。疲れ果てて帰
ってくると、どういうわけか条件反射的に、自然と足はアルファの方に向い
ている。最早、アルファのコーヒーを飲まなければ、帰って来たという気が
しなくなっているようだった。
『疲れ果てて帰って来た時に、出迎えてくれる人がいる、っていうのに憧れ
てるのかもなあ』
 一瞬、脳裏を洋子の笑顔がよぎったような気がしたが、同時にプーンとい
つもの官能的な芳しいコーヒーの香りが彼の鼻をくすぐり、津田にそのこと
を忘れさせた。そして、いつもの歯切れのいい洋子の声はなく、代わりに彼
女が津田の方に足早に近付いて来て、耳打ちした。
「な、何い。龍王が?……そんな、馬鹿な」
 津田は思わずそう叫んでいた。アルファの片隅を見ると、たしかに龍王五
郎が額に皺を寄せ、難しい顔をして何かの本をじっと熱心に見つめている。
時々、大きな溜息をついているのが見てわかった。少なくとも、いつも彼が
たまに読む週刊誌やグラビア雑誌の類ではないようだ。
『どうしたんだ、あいつ』
 柄にもなく、えらく深刻そうな顔つきをしているように、津田には見えた。

 津田と龍王との出会いは、つい三ヶ月程前にさかのぼる。津田がある会
社員の関西出張の行状を調べるため、京都に出向いた時のことだった。木
屋町の飲み屋街でたまたま、その筋の人間に痛め付けられてボコボコにさ
れていた龍王を、見るに見かねて救ったのが偶然通りかかった津田だった
のである。当時、龍王は最近で言うフリーターで、定職らしきものを持ってい
るわけではなかった。その日も、知人に酒を奢ってもらい、別れた後にほろ
酔い加減で歩いていたところを、すれちがいざまに肩が触れた相手が、運
悪くその筋の人間だったらしかった。
 もちろん津田とて、本格的な武道の心得があるわけではなかったが、ブラ
ック・ローズ時代の格闘技訓練で身に付けていた経験のお陰で、偶然も味
方して相手を倒すことが出来たのだった。それから龍王を抱き起こして、そ
の男の仲間に見つからないうちに、とにかく一刻も早くその場を離れなけれ
ば、と必死に二人は走って逃げた。だから何処をどう通って逃げたのかも、
彼らは覚えていない。そして別れ際に龍王に懇願され、津田にしては珍しく、
しぶしぶではあったが自分の名前と住所を口頭で教えたのだった。

 その時は、どうせその場限りのことだろうとたかを括っていたので、まさか
龍王が本当に自分を頼って上京して来ようとは、津田は思いもしなかった。
自分のところに転がり込まれるのは、可愛くて若い女性でもない限り、津田
の主義ではない。それに津田にしても仕事の関係で、龍王に構ってばかり
もいられないのが現実である。
 だが結局は、津田が就職口を世話した形で、龍王は今、秋葉原の大型電
気店の従業員をしており、龍王は津田のことを「兄貴」と呼んでいる。そして
いつの間にか、アルファの常連が一人増えたわけである。

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2008年3月23日 (日)

作者の簡単レビュー 【その19】

 この第一章のサブタイトルは、「雨を知りすぎた女」でした。
 連載中に数度、前の記載にさかのぼって内容を一部修正しました。
それゆえアップ後にすぐに読んでいただいている方々には、途中で『あ
れっ?』と不思議に思われた箇所があったのではないでしょうか。一番
違っているのは、川田の前に現われた塚本美雪と通訳女性との関係で
す。当時掲載していたものと現在ではかなり表現が違っています。
 それにしても、最後のゼブラの登場シーンは格好良すぎですよねえ…
RobbinⅠでフランスに逃げのびた彼の次のミッションは、実はこの地か
ら始まる、というわけです。
 次の第二章のサブタイトルは「狙撃された二人」です、ご期待下さい。

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2008年3月22日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第一章(11)

 川田は今日帰国の途につくことを、今まで彼の会社関係の限られた
人間にしか話していないのだ。塚本美雪が何故、そのような限定され
た人間しか知り得ない情報を知っていたのかは謎であった。もちろん
彼女が川田の会社に秘かに電話すれば、聞き出すことは可能であろ
う。だがその場合でも、彼の秘書のアイシェルは必ず絡むのだ。
 彼女は川田宛にかかって来た電話や用件は、必ず相手を確認して
逐一報告してくれていた。ここ数日内で、そういう不審な問い合わせ
の電話は、川田が知っている限りかかって来ていなかった。さらに、
川田の顔を塚本美雪が何故知っていたのかが、彼には判らなかった。
『俺が何処で彼女に出会ったというんだ。いや、どう考えても絶対に会
ってないはずだ。よしんば百歩譲って、俺が会ったことを忘れてて、彼
女が俺の顔を知ってたとしてもだ、俺はイミグレーションに並んでたん
だぞ。後ろから見て、瞬時に俺だと判って近付いて来たとでも言うのか。
馬鹿な、ありえない。それとも、俺に捕まって色々尋ねられるのを恐れ
て、ぎりぎりまで何処かに隠れてたのか?……あの切羽詰まったよう
な様子からして、そう見るのが正しいのかも知れんが』

 思いもかけぬ塚本美雪の出現は、川田の心に大きな波紋を投げ掛け
ていた。この地に再び舞い戻り、妻殺害の真相を探ろうという気持ちは、
たしかにあるが、本当のところは一時の気休めにしか過ぎない部分もあ
った。現実にそれをしようとすれば、どのくらい長くかかるかわからない
以上、彼は恐らく今の会社を辞めなければならないだろう。
 一時的にはそれでもよい。だが、再び日本へ戻った時に、まともに再
就職出来るかどうかは保証の限りでは無かった。一人きりならそれでも
よいが、男やもめの身では、そうそう気儘にはしていられない。何よりも
子供の教育が心配だった。一時的にどちらかの実家に預けるのも手だ
が、それをいつまでも続けるわけにもいかない。
『雨を知り過ぎた、か。彼女は一体、俺に何を言いたかったんだろう』
 先ほどの塚本美雪の真剣な表情が、川田の脳裏によみがえって来る。
彼女が何かを、言外に川田に訴えたかったように思えて仕方がなかった。
だが彼女は、具体的に川田にそれを教えることは、敢えて避けたように
見えた。そして、その彼女に出来た最大限の表現が、『雨を知り過ぎた』
ではなかったのか。
『それにしても、どうしてわざわざ俺に』
 何も言わなければ、何も起こらないはずだった。それを、身の危険を冒し
てまで川田に教えにやって来た塚本美雪の行動は、川田にとっても不可
解だった。そしてあまりにも謎めいていた。だが彼の妻の死の裏に、確実
に何かが存在しているのは間違いないように思えた。
『一体、何があると言うんだ。このイスタンブールに……』
 彼一人の手には負えないような、何か途方もないことがこの地に隠され
ているような気がして、思わず川田は身震いした。ふと我に返ると、いつ
の間にか彼のフライトのボーディング最終アナウンスが、空港の出発ロビ
ー内に流れていた。それに気付いた川田は、慌ててボストンバッグを手に
下げると、その場所の方に向かって走り始めた。

 そして当然ながら川田は全く気付かなかったが、その先程からの一部
始終を、片隅からずっと見続けている男がいた。彼はイミグレーションの
隙間越しに、川田がボストンバッグを下げてボーディング場所に向かった
のを確認すると、片隅の電話ボックスに向かった。一番小さなジェトンを入
れ、番号をダイヤルすると、長目の呼び出し音の後に相手が出た。男は
やや低めの声で、小さく言った。
「……ゼブラです。川田は出国しましたが、美雪がやって来ました。ええ、
そうです………判りました、早速に。では」
 そう言うと巽良介は、黒いレイバンのサングラスをかけ、空港のリムジン
バス乗り場の方にゆっくりと向かった。

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2008年3月20日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第一章(10)

『ひょっとして良子は、今の塚本美雪と知り合いだったのか?』
 彼の記憶がたしかなら、日本人会の名簿に塚本という名前の人間は
いなかった。ということは彼女は、正式な長期滞在者ではないというこ
とになる。もしも彼の妻が彼女の知り合いだったとすれば、日本人会の
婦人会の関係で知り合ったのではなく、何か別のルートで個人的に知
りあった可能性が生まれてくる。もちろん、婦人会の誰かの紹介で間
接的に知り合ったのかも知れなかったが、それは今の段階ではどちら
とも言えない。だが知り合いでもなければ、わざわざ空港まで出向い
ては来ないだろうし、ましてや川田に声をかけたりはしない、と見るの
が当然であろう。

 そもそも在留邦人届けは、長期の仕事でトルコに来ている人間が、
同伴家族の分も含め、自己申告の形で通常行なうものであるが、短期
で来ている人間や観光で来ている人間には、原則として届け出の義務
はない。すなわち滞在三ヶ月以内の日本人は、まったく領事館としても
把握できていないのが現実の姿なのだ。だが川田は、トルコで長いこと
住んでいるような印象を、彼女から感じた。もちろん彼女の言った名前
が、果たして彼女の本名かどうかも定かではない。だが川田は彼女の
態度から、本名を名乗ったような気がしていた。
『やはり、知り合いだったと見るべきだな。少なくとも彼女にとっては』
 男女や国籍を問わず、若い観光客がその国に長期に渡って滞在して
いることは、よく有る話で、何もトルコに限ったことではない。彼らは、三
ヶ月の観光ビザが切れる直前に臨国に出国し、再びその国に舞い戻っ
て来る、という正攻法をとることがほとんどである。たいていは値段の安
い汽車か長距離バスを使う。その国での外国人観光客の就労が禁止さ
れているのは世界共通の建前だが、現実には大金持ちでもない限り、
そうしなければ生活出来ないのは誰にでもわかることである。
 だが国境のパスポート検査も、余程のことがない限りは大目に見て、
入国許可のスタンプを押してくれる。と言うよりも、押さざるを得ないのだ。
いちいち大勢の観光客相手にそんな細かいチェックを几帳面にしていた
ら、時間が幾ら有っても足りない。それに観光客はその土地にとっては、
外貨を落としていってくれるありがたい存在なのだ。そんなことで観光客
の足が減る方が、世界的な観光地を持つ国にとってはもっと大きな問題
である。

『トルコの大学に、奨学金か何かで留学でもしてるのなら話は別だが、そ
うじゃないとすれば、あの塚本美雪って女は、ここで何をして生活してる
んだ。そしてその彼女と、良子は一体どういう経緯で知り合いになってた
んだ。妙だな、接点が無いように思えるんだが。婦人会で大挙して土産
物屋にでも行って、そこで日本人の彼女がアルバイトで働いてて知り合
ったとしてもだ、わざわざこうして出向いて来たってことは、二人は結構
親しい間柄だったのかもしれない。
 だがそれなら、良子も今までに話の端に彼女のことを俺に話してたって
不思議じゃない。しかしそんな記憶は、俺には無い。それとも良子が、俺
に彼女の存在を意図的に隠してたってことか?まさか!それとも彼女の
方が、一方的に親近感を持ってただけなのかな。だとしても一介の日本
人の女がどうして、警察にも判ってない良子が殺された原因を知ってる
んだ。何故なんだ。それに、雨を知り過ぎたとは一体、何のことだ』
 振り返ってみれば、彼が出国するギリギリに塚本美雪がやって来て声
を掛けたことも、たしかに彼女の言うように、自分が川田に喋ったことを誰
にも知られたくない、という気持ちが働いていたようにも思われた。だが、
もう一つ川田に判らないことがあった。
『どうして塚本美雪は、俺の今日の出国とフライトナンバーを知ってたんだ』

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2008年3月19日 (水)

RobbinⅡ-レイン計画- 第一章(9)

 翌日、川田はホテルからタクシーでアタチュルク国際空港に直行し
た。荷物のほとんどはアナカンで送る手続きを済ませた後だったので、
彼の手荷物はボストンバッグ一個だけだった。チェックインを済ませ、
空港の土産物屋で何個かのナザール・ボンジューとピスタチオを数袋
買い求め、英語版の新聞を購入した後、彼は早々とイミグレーションに
並んだ。
 イミグレーションの机の上に、パスポートとボーディングカード、それに
緑の出国カードを出した川田は、検査官が無言でそれらを受け取り、目
の前でパスポートにスタンプを押すまでを、まるでテレビか何かの映像
を見ているかのように、黙ってじっと見つめていた。ものの数十秒で所
定の手続きは終わった。そして川田が、パスポートとボーディングカード
を受け取り、脇のゲートをくぐろうとした時だった。
「川田さん……」
 若い女性の声で、不意に自分の名を背後から日本語で呼ばれ、川田
はびっくりして振り返った。今さらこんな自分を見送りに、日本人の誰か
が来ているとは思わなかったのだ。そこには、年のころ二十三、四と思
われる女性がジーパンにTシャツ姿で立っていた。不思議そうに見てい
る川田の近くまで来ると、彼女は突然、突拍子もないことを小声で口走
った。
「あなたの奥さんはね、雨を知り過ぎたのよ」
「え?雨を、知り過ぎた?」
 彼女が言っている日本語が、川田にはとっさには理解出来なかった。
だがそんなことなどお構い無しに、彼女は続けて早口で言った。
「間違っても、余計な詮索をしようなんて考えちゃ駄目よ。わかって?」
「何……君は何のことを言ってるんだ」
 彼女はその問いには答えずに、二、三歩、後退りをした。彼女がその
まま去って行くような気がして慌てた川田は、必死に何とか少しでも長
く彼女を引き止めようと思った。だが今立っている場所は、イミグレーシ
ョンを過ぎた空間だった。もう彼女の居る所まで後戻りすることは出来
ないのだ。横にいたイミグレーションの検査官が、不審そうな目をして
彼をじっと見ていたが、彼はそんなことなどお構い無しに、彼女に少し
声を荒げて言った。
「待て。急にそんなこと言われたって、わけがわからない。もっとちゃん
と説明してくれ」
 彼女はどうやら、彼の妻が殺された理由を何かしら知っているようだ
った。そして川田はたしかにその理由を知る権利があるのだ。だが彼
女は明らかに逡巡していた。
「だいいち、私は君の名前すら知らないんだ。何処の誰ともわからない
人間の言うことを信じろと言う方が、どだい無理な話だろう」
「塚本…美雪よ」
 彼女は少し躊躇しながらも、そう小声で言った。
「塚本美雪、さんか。私の妻が雨を知り過ぎた、って一体どういう意味
なんだ」
「………」
「頼む、教えてくれ!」
 少し大きめの声で川田はそう言った。やがて彼女は、聞き取れない
ほどの小声で、うつ向き加減のまま言った。
「悪いけど、これ以上は言えないの。喋ったことが判ったら、今度は私
が……」
「君が?君がどうなると言うんだ。良子みたいに殺されてしまう、とでも
言うのか」
 その川田の言葉に、彼女の表情がこわばるのがわかった。
「どうして私に、わざわざそんなことを教えてくれるんだ」
「………」
「おい、君!」
「早くこのことは忘れた方がいいわ。いいこと?それが貴方のためよ、
本当に」
 塚本美雪は、後退りしながらそう言うと、不意にきびすを返し、走り去
った。後を追うことが出来ない川田は、ただその後ろ姿を呆然と見守る
ことしか出来なかった。彼女は振り返らずに、そのまま出口の方に走っ
て行き、やがてガラス扉の出口から外へ出ると、右に曲がり、姿が見え
なくなった。彼は今、目の前で行なわれた会話のやり取りを、まるで夢
の中にいるような気持ちで、心の中で反芻していた。
『良子が雨を知り過ぎたから殺された、そう言ったな。雨とは一体何のこ
となんだ。それに、彼女はどうしてそんなことを知ってるんだ。わざわざ
嘘を言ってからかいにやって来たわけでもあるまい。それに、詮索する
なと念を押して。喋ったことが判ったら、今度は自分がどうなるか判らな
いって言いながらどうして、わざわざ俺に知らせるようなことをしたんだ、
矛盾してるぞ。それとも何か、俺に知らせなければならない逼迫した事
情が彼女にあったのか』
 突然の出来事に、疑問ばかりが先走り、頭が現実について行けなか
った。そんな川田が立ちつくした横を、イミグレーションを通過した旅行
客が一人、また一人と、少し怪訝そうな顔をしながら通過して行く。ふと、
川田の脳裏にある疑問が浮かんだ。

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2008年3月17日 (月)

RobbinⅡ-レイン計画- 第一章(8)

『そう言えば……』
 ふと川田は、彼のイスタンブール赴任が決まった時、彼の妻が当初
えらく猛烈に反対していたことを思い出した。自分が学生時代に友人
とイスタンブールに旅行した時、片言の日本語を喋る、えらく馴れ馴れ
しいトルコ人の男に付きまとわれ、随分辟易したことが記憶にあり、あ
まり良い印象を持っていないから、とその時彼女は言ったように川田は
記憶している。
 その時は、そんな観光客相手で日銭を稼いでいるような人間が、いち
いち一観光客にしか過ぎないお前の顔など、いつまでも覚えているわ
けがないだろう、と川田は笑い飛ばしたのだった。それでも彼の妻はあ
まり良い顔はしなかったが、結局川田に押し切られる形で、一緒に海
外赴任することをしぶしぶ了解したのだった。
 そして、その悪い予感は見事に的中してしまい、すでに彼の妻は両親
と息子と共に、イスタンブールから日本に無言の帰宅をしていた。帰国し
てからの彼を待ち受けている色々なことを思うと、川田は今から憂鬱だっ
た。
『しかし、良子の交友関係を調べるったって、今さら不可能だ。それに近
所のトルコ人との付き合いなど、果たしてどこまで判るかも疑問だし、今
回の事件に関係有るのかどうかも定かじゃない。尋ねられたトルコ人の
方がいい迷惑かもな。犯人がその中にいる、っていう確たる証拠がある
のなら話は別だが……』
 結局、犯人像が特定できないことに変わりはなかった。幾ら川田が考
えてみたところで、現実は推理小説の世界とは違う。全く見当すら付か
ないのが実際だった。それ以上はいくら川田が必死になって考えてみて
も、何一つ新しい手掛かりになりそうなことは思い浮かばなかったし、発
見出来なかった。

 やがて川田はそれ以上考えることをあきらめ、窓越しにボスポラスの
夜景をふと眺めた。アジア側の大地が目の前に黒く広がり、家々の灯
かりが煌めく星屑のように輝きまたたいている。その中を高速艇や汽船
の灯かりがゆっくりと動いて行く。左手の方には、ボスポラス第一大橋
のオレンジ色のイルミネーションが輝き、その上を数多くの車のライトが
ゆっくりと流れている。いつもと変わらないイスタンブールの夜景が、そ
こにあった。
『この何処かで、犯人は眠ってるのか。そして俺は何も出来ずにこの地
を去らなきゃいけないのか、手掛かりさえ何も掴めずに。くそっ、何か方
法はないのか!何とかして犯人を挙げる方法は。あんな形で殺された
良子に、俺は何もしてやることが出来ないのか』
 悔しさに、思わず川田は唇を噛みしめた。今のままでは、ただじっと警
察からの捜査結果を待っているだけで、果たして犯人が逮捕されるかど
うかすらも判らないのだ。だが、かと言って、彼にここで何かが出来るわ
けでもなかった。
 日本ならば、彼自身もあちこち自分の足で尋ねて回ることが可能だが、
ここはトルコであり、大きなホテルや観光客相手の店でもなければ、トル
コ語が自由に喋れないことには話にならない。そんなことはこれまでの
三ヶ月間で、嫌というほど毎日のように体験してきているのだ。簡単な
買い物ならともかく、複雑な会話となるとまるでお手上げに近い状態だ
った。
『すまん、良子。今の俺にはお前に何もしてやれない。だが、このままで
は絶対に引きさがらんぞ。見てろ、いつか必ず犯人を探し出してやる!』
 川田は、イスタンブール警察から何も連絡がなければ、いつか近いうち
にこの地に舞い戻って、どのくらい長くかかろうとも自力で調べてやろうと
思っていた。現実問題を考えた場合、それが果たして本当に実行出来る
かどうかは判らないが、今はそうとでも思わなければ、とてもこの地から
は去れそうもない……それが今の川田の正直な気持ちだった。

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2008年3月16日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第一章(7)

 やがて領事館を出た川田は、その坂道を左の方に登って行った。歩く
につれ、タキシム広場がじょじょに目の前に広がっていく。すでに彼は今
朝一番でアパートを引き払って、タキシム広場の近くのシェラトンホテル
にチェックインしていた。
『まさか、こんな気持ちで、最後にこの景色を見るとは思わなかったな』
 タキシム広場の、イスティックラル通りの近くに位置した、独立記念塔
の立っている周りが、今秋完成を目指した路面電車を走らせる工事で
金網が張られ、道のあちこちが掘り返されている。
『結局、あれには乗らずじまいか……』
 川田は赴任してまもなくの頃に、タキシム広場に一家で初めて来た時、
いつか一緒に路面電車に乗ろう、と彼の息子に約束したことを思い出し
た。その時の息子の嬉しそうな顔を、未だに彼は忘れることが出来なか
った。その時、隣りで彼の妻は、そんな二人を微笑みながら見つめてい
たように彼は記憶している。
 そんな出来事をあれこれ思い巡らせているうちに、不意に彼の心の中
に、幸せだった自分達の家庭を破壊した、見知らぬ犯人への憎悪の気
持ちが込み上げて来た。そして同時に、何も出来ずにここを去らねばな
らない自分自身の非力さが悔しかった。

 どこへ行く気も起こらず、そのままシェラトンホテルに戻った川田は、早
目の夕食をホテル内のレストランでそそくさと済ませると、部屋に戻って
これまでの出来事を頭の中で整理し始めた。冷静に自分なりの結論を
出しておきたかったのだ。
『あの日、六階の住人の証言によれば、良子は午前中に買い物に出掛
けたらしいが、昼前に戻って来てることは間違いない。アパートの前で会
って、買い物袋を下げた良子本人と一緒にエレベーターに乗った、って言
うんだから確かだ。問題はそれから良子が、翔が学校から帰ってくるま
での間に外出したかどうか、だ。
 時間的に考えて、外出していたとしても、外出先は近くだった筈だ。せ
いぜいバーダット通りへ出掛けた程度だろう。外出している間にたまたま
犯人が侵入していたとして……そこに良子が運悪く帰って来た、十二階
から逃げ出すわけにもいかんから、当然居直り強盗になる、そして良子
を脅して、USドルの現金は手に入った。そう、部屋の中が荒らされた形
跡がないから、良子が現金を素直に出したとしか考えられない。
 さて、そこでだ……犯人は何故、強姦殺人の道を選んだんだ。良子を
縛り上げて逃げ出せば、それで済むんじゃないのか。誰だって好んで殺
人までは犯さんだろう。だが、犯人が良子の顔見知りの人間だったら、
そういうわけにもいくまい。顔見知りの人間ということになれば、酒井領
事が言ったようにカプジュだって該当するが……だが、わざわざ良子を
犯したりまではしないと思うんだが。どっちにしても、そこまで余裕のある
冷酷な人間が居た、っていうことは間違いないわけか』
 川田の脳裏に、あのショッキングな現場が甦って来た。自分の妻が他
の男に犯されたということを考えていると、自然とその絡みあう光景が頭
の中に浮かんで来て、川田はいたたまれなかった。消しても消しても、
脳裏にはまるでその光景が焼き付いてしまったかのように、何度でも浮
かんで来るのだ。

 じっと考えているのが辛くなり、彼は冷蔵庫からウイスキーのミニチュア
ボトルを取り出すと、グラスにあけ、それを一気にストレートで飲み干した。
そして大きく溜息をつき、煙草に火を付けた。
『……じゃあ、良子がもし外出していなかった場合はどうなるんだ。その
男が尋ねて来た、ドア越しに確認する。常識で考えても、知り合いじゃな
ければ、現実問題として招き入れる可能性は薄いな。幾ら愛想のいい英
語の喋れるトルコ人だったとしても、だ。やはり、顔見知りの人間であるこ
とだけは間違いないようだな。
 それにしても、あのカプジュがそこまで大胆な犯行の出来る人間だとは
とても思えないし、警察だって結構調べ上げてたから、もしも奴が犯人な
ら今頃、何らかの証拠が挙がってるだろうし連絡くらいはあるだろう。たし
かに、一番に疑われてもおかしくないわけだが、第一そんな挙動不審な
ところは奴には無かったものなあ。あと問題になるのは、良子の交際範囲
ってことになるわけか』
 そこまで考えて、川田はふと行き詰まった。考えてみれば彼は、妻の交
友関係や交際範囲を全くと言っていいほど知らないことに、あらためて気
付いたのだ。今までの毎日は警察とのやりとりや急な帰国準備に追われ、
そんなことまでを冷静に考えている余裕もなかったこともある。犯人は憎か
ったが、その憎しみの感情だけが大きく彼の心を占めていたのだ。

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2008年3月15日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第一章(6)

 それから十日後、川田は経緯の報告と在留邦人届けの抹消をしに、
新市街の中心部にほど近い場所にある、イスタンブールの日本領事館
に出向いた。担当の人間との受付窓口を通してだけの報告で終わると
思っていた川田だったが、意に反して彼は内部に招き入れられ、副総
領事の部屋に通された。
 月に一度の日本人会の席で、今までに一度だけ出席していたのを見
かけたくらいで、川田自身は個人的に彼と話をしたことはなかった。そ
れだけに、今回の事件がいかに領事館にとって衝撃的な出来事だった
かを、彼はあらためて認識した。
「どうぞ、お掛け下さい」
 酒井武司は、丁寧な口調で川田にそう促すと、自分も向かい側のソフ
ァーに腰を下ろした。
「この度は、何と申し上げてよいか。どうかお気を落とされませんように」
「恐れ入ります。お手数をおかけしてしまって」
「とんでもありません。で、結局、どうなさることになったのですか」
「ええ……子供のこともありますし、会社の方とも相談した結果、帰国す
ることになりました」
「そうですか。やむを得ないでしょうねェ」
「しかし……こんな事件って、これまでにも発生したことあるんでしょうか。
親日国だと聞いていたので、安心していた部分はあるのですが」
「私はこのトルコに赴任してきてから、かれこれもう丸十年になりますが、
これまで聞いたことはないですし、おそらく起こってはいないと思います。
観光客なら、日本人に限らず似たような被害に逢った女性はいるでしょう
ね。残念ながら、これは世界共通の犯罪のようですから」
 酒井領事は銀ブチ眼鏡の奥から、柔和な目を川田に向けながら、説明
し始めた。
「数年前のデータなんですが、一九八九年ニ月三日付けで、当地のミリエ
ット新聞に掲載された、イスタンブル大学とアナドル大学の一九八七年の
合同調査によるとですね、トルコ国内で一年間に一万九千七百五十九名
が強姦されてるんです。被害者の平均年齢は十八歳で、被害者のうち七
パーセントは殺害されてます。加害者の九十パーセントは低所得者または
失業者ということです。同一九八七年に日本で発生した強姦件数は千八
百二十三件なので、トルコでは人口比約二十倍の強姦発生率になるわけ
なんです。
 もっとも、私達がイスタンブール県警察本部に問い合わせて入手した防犯
統計では、強姦事件に限って言えば、年七十三件しか発生していないこと
になっています。数字の開きが大き過ぎるので、双方ともいちがいには無
条件に信用できませんがね。で、川田さん、犯人の目星というか、そのあ
たりはどうなんですか。警察は何か言ってきましたか」
「いえ、まだ何とも。何か判ったら連絡する、と言ったきりで」
「そうですか。トルコ人の男は、とりわけ日本人の女性には親切ですからね。
表面的な愛想の良さに、つい騙されて気を許してしまったのかも知れません
ね。気さくなセールスマンを装っていて、部屋に入ったとたんに強盗に早変
わりしてしまったのかも」
「しかし、領事。そうはおっしゃいますが、私には解せないんです。妻は何故、
見ず知らずのその人物を安易に部屋の中に入れたのか。領事のおっしゃる
ように、犯人がその類のトルコ人であったとしても、彼女はほとんどトルコ語
は喋れないんです。いくら妻が人が良いと言っても、そんな相手を招き入れ
るほど、迂闊じゃありません。私達は海外は初めてじゃないですし、妻はそ
の点は用心深い方でしたから。そう考えると、犯人は彼女の顔見知りの人
物でなければならないんです。そして、男でなくては。第一、そんな挙動不
審なトルコ人があのアパートにそうもたやすく入れるはずがありません。あの
アパートは常に出入り口のドアはオートロックされてますし、真面目なカプジ
ュだって居るんですから」
「…………」
 酒井領事は返事に窮していた。カプジュに関する色々な出来事やトラブル
を知っていることもあり、彼としてもどう返答してよいものか迷っていたからで
ある。
「カプジュが犯人、ということは考えられないんですか」
「まさか!あのカプジュに限って、幾ら何でも」
「しかし、似た事例を聞いたことはありますよ。威かすわけではありませんが。
その時は、カプジュが部屋の鍵を複製して持っていて、留守を狙って侵入した
ところに、運良くその部屋の住人が帰って来て、事無きを得ましたがね。ずっ
と長いこと勤めてたカプジュだったんで、住人も信用してよく鍵を預けたりして
たそうですが、魔がさしたんでしょうね、きっと。ところで、失礼なことをお尋ね
しますが、金目の物は何か無くなってましたか」
「USドルの現金が全部、盗まれていました。ただたしかに、妻の知っているト
ルコ人で、部屋に入れる可能性を考えれば、おっしゃるようにカプジュだって
該当しますね」
 川田は複雑な心境だった。日頃の愛想の良いカプジュの姿を思い出したか
らである。それに言われてみれば、入り口のドアに鍵がかかっているとは言っ
ても、形だけにしか過ぎないのが現実なのだ。たしかに、一見すれば安全そ
うで、外部の人間が容易に出入り出来ないように見える。最初は川田も安心
していたが、最近は現実のいい加減さがわかってきたので、さほどでもなくな
ってきている。
『外部から簡単に出入り出来る現実を考えて見ると、たしかに警察が言うよう
に、犯人の限定は難しい。現金が盗まれている以上、物取りの犯行で、そこ
に良子が外から帰って来て鉢合わせした可能性が高いわけだし……。カプジ
ュだって忙しいから、始終玄関脇で不審な外来者が来ないかどうかなんて見
張ってるわけないし。それに酒井領事が言うように、カプジュだって容疑者の
一人に数えられるな。良子は英語なら多少は喋れたから、英語の話せる人間
ってことも有り得る。くそっ、一体何処のどいつが……』
 どう考えても川田には犯人の見当は全くつかなかった。すでに彼の息子は、
急遽来トした両親達と一足先に帰国していた。そして川田自身も残務処理を終
え、明日の便で帰途に着くことになっているのだ。今さら、この地に留まって犯
人逮捕までを見届けるには、あまりにも犯人像が漠然とし過ぎており、それに
第一、時間がなさ過ぎた。日本の警察とは違い、果たして犯人が挙がるのか
どうかもはなはだ疑問なのだ。彼にとっては余りに酷だが、運が悪かったと諦
めるしかないのが、残念ながら現実だった。

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2008年3月13日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第一章(5)

 だが特にトルコ人の住人の場合、いちいち相手を確認するのが面倒
臭いのかどうかは定かでないが、呼び出し釦が押されると、その手順
を省略して、いきなりドアロックを解除してしまう事がほとんどである。
それゆえ、別に川田の部屋の呼び出し釦を押さなくても、建物の内部
に入り、川田の部屋に向かうことも現実には容易なのだ。
「カプジュは、その時、何をしていたの」
「玄関の掃除。僕を見て、中からドアを開けてくれた」
「いつも、翔くんが帰ってくる頃に、彼は掃除してるのかい」
「ときどき」
 イイギュン警部は、川田の方に視線を移して、言った。
「すぐ本題に入らなくて申し訳ありません。一応、念のために、カプジュ
のアリバイも確認しておく必要があるものですから」
「まさか。あの真面目なカプジュに限って…」
 カプジュとは、日本語に直訳すれば、門番という意味である。アパー
トやマンションの地下に一家で居住しており、建物全体の管理をオーナ
ーから委託されている人間のことをさす。委託されている関係上、カプ
ジュ一家の居住費と電気代はオーナー持ちである。だが給料が少な
いため、現実にはアパートの住人から色々な買い物等の小間使いや
掃除、雑用を仰せつかって、その駄賃で副収入を得ている場合が多
い。日本人は、人を使うということに慣れていないせいもあり、えてし
て遠慮がちであるが、トルコ人はその辺は慣れたもので、煙草一箱
買うのにもカプジュを使って行かせたりする。

 かつての日本の江戸時代ほどではないにせよ、トルコでは就いて
いる職業によって、身分の高低が暗に存在している。カプジュの子は、
世襲制ではないが、やはりカプジュになる場合が多い。加えて、彼ら
の地位は実に不安定である。住人の誰かがあのカプジュは気にくわ
ないと言い出そうものなら、オーナーは平気で実にあっさりとクビにし
てしまう。カプジュの代わりなど、探す間でもなく、他に幾らでもいるの
である。
 逆にカプジュの方が、住人の自分に対する評判を気にしていると言
える。それゆえ通常は、程度の差はあるにせよ、真面目で愛想が良く、
何でも言い付けを良く聞く、従順なカプジュの姿が多い。そのアパート
で長年、カプジュをやっているということは、働き者で信用もできると見
なさざるを得ない。川田のアパートのカプジュもその点では定評があり、
アパートの他の住人は少し留守にする場合、カプジュに鍵を預けて出
掛けて行ったりする。それゆえ彼は、真面目なカプジュ、と表現したの
である。

「じゃあ、翔くん。話を続けよう。入ってすぐに、お母さんが倒れているこ
とに気が付いたのかな」
「足が、見えたから」
 川田のマンションは、玄関を入ると、正面が居間だった。そのメインテ
ーブルの影に、良子の死体が横たわっていたのだった。
「お母さんの体にさわった?」
「……」
「すぐお父さんに電話したの?」
「……」
 重く、つらい時間が流れた。ややあって再びイイギュン警部が尋ねた。
「どうしてたの」
「……おかあさん、って呼んだ」
「それで」
「返事しないから、しばらく待ってた」
「どうして」
「寝てる、って思ったから」
「それから」
「もう一度、おかあさんって、大きい声で呼んだ」
「それで」
「起きてくれないから、近くに行って、ゆすった」
「どこを」
「おかあさんの、左の肩」
「それで」
「動かないから、怖くなった。それで……」
「お父さんの会社に電話した」
「うん」
 イイギュン警部は、正面の川田の方を向いて、言った。
「奥さんの遺体には、犯人と争った形跡があります。死因は頸部圧迫
による窒息死。死亡推定時刻は、午後一時半から二時と見ています。
ところで奥さんは、昼食は抜かれるのが習慣ですか。ダイエットをなさ
っていたとか」
「いえ。多少は時間がズレても、必ず摂るように心掛けていたはずです」
「そうですか」
「それが、何か」
「先ほど届いた解剖結果で、胃の内容物がほとんどなかったらしいもの
ですから」
 隣に座って手帳にメモしていた刑事が、イイギュン警部に何事か耳打
ちした。髭をたくわえた男達に囲まれていると、イスラム教の風習でしか
ないとわかっていても、こんな時は不思議と心強かった。
「現金や貴重品は取られていませんか」
「先ほど念のために確認したのですが、先週おろしてきたはずのUSドル
で三千二百が、なくなっていました」
「それは、どこに置いてあったんですか」
「寝室のロッカーの中の、スーツケースの中です」
「スーツケースが壊された形跡は」
「ありませんでした」
「それを開けることが出来るのは」
「私と、妻だけです」
「奥さんは、用心深い方ですか」
「そう、思います。貴重品や現金は、面倒でも必ず二重三重にしまって
いました。誰かが尋ねてきても、必ずドアの覗き穴から相手を確認して
から、戸を開けていましたし」
「奥さんが誰かに恨まれていたとか、思い当たることは何かないですか」
「さあ……特には、何も」
「奥さんが親しくされていた方は、どなたですか」
「学校関係者だと思いますが、正直申しまして、昼間のことは、私はよ
く知らないんです」
「川田さんがお休みの日は、どうですか」
「一家で動くことがほとんどでした。観光や食事とかですけど」
 あたりさわりのないことを幾つか質問された後、事情聴取の方は何と
か無事に終えることが出来た。最後に川田と息子の二人の指紋を採取
され、その日はいったん全員引き上げることになった。
「どうされますか」
 通訳の女性が、赤いセルロイドの眼鏡の奥から、不意にそう尋ねてきた。
「どう、とは」
「ここでおやすみになりますか、それとも…」
「お心遣いは感謝しますが、多分大丈夫だと思いますよ」
 息子を見ながら、川田はそう言った。
「辛いのは息子も私も同じですが、場所が変わったから安心できるわけ
ではないし」
「でも、息子さんは…」
「ええ。でも現実から逃避するわけにはいかんでしょう。今ここから逃げ
出したら、戻ってくるのが辛くなるだけです。それに」
「それに?」
「ここは私たち家族の居場所ですから」
 川田は力なく微笑んで、そう言った。

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2008年3月12日 (水)

RobbinⅡ-レイン計画- 第一章(4)

 親日国で知られるトルコでの在留邦人殺害、それも女性の強姦殺人
事件は、これまで発生した事例はなかった。領事館からの緊急連絡を
受け、それから十分足らずで、最寄りのスワディエ署から三名の警官
が現場検証にやって来たのも、異例のスピードと言えた。
 到着と同時に開始された鑑識の現場検証は、川田がテレビ画面で
見る、日本のそれとほぼ同じだった。フラッシュがたかれるたびに、異
国の地でさらしものにされている妻の死体がふびんでならず、シーツが
かけられた時は、思わず小さな安堵の溜息がもれた。
 領事館からの強い要請があったらしく、イスタンブール市警からも、数
名が急行する旨が伝えられた。そしてイスタンブール市警に同行する形
で、要請を受けて派遣されたという通訳の日本人女性が川田の自宅に
やって来たのは、その日の夜六時過ぎだった。
 また予想外に早く、現地のマスコミが嗅ぎ付けたため、イスタンブール
市警一行が到着した頃には、マンション周辺は大混乱の様を呈してい
た。立錐の余地もないくらいの野次馬でごったがえし、スワディエ署から
の応援警官五名くらいでは、とても収拾がつけられる状態ではなくなって
いた。
 そのため急遽、当夜のイスタンブール市警での事情聴取は、川田のマ
ンションで行なわれることに変更された。来客用の空き部屋で、刑事二
人と通訳の女性、そして川田と彼の息子の計五人が同席して始まる形と
なった。

「ご愁傷さまです。このたびは、予期せぬことになり、心中お察しします。
犯人の早期逮捕に、我々イスタンブール市警は全力をあげて努力します。
ぜひご協力をお願いします」
 柔和な顔つきの、イイギュン警部と名乗る男の話すトルコ語を、その彼
女はほとんど同時通訳で川田に伝えた。
「まず、申し訳ありませんが、川田さんの今日一日の行動を教えて下さい」
「七時少し前に起床しました。朝食を摂った後、新聞を見て、八時前に車
で出かけました。会社に着いたのが、大体九時十分くらい前だったと思
います。十時半ごろ、ベヨール地区の通関業者の所へ、打ち合わせで出
かけました。一緒に昼食を摂った後、オフィスに戻ったのが一時半くらい
だったと思います。それからは、息子からの電話がかかってくるまで、ず
っとオフィスにいました」
「ご協力ありがとうございます。間違いないようですね」
 秘書のアイシェルと、通関業者の方には、事前に川田のアリバイを確認
してあるようだった。
「第一発見者は、こちらのご子息ですね」
 皆の視線が、翔に集中した。彼はずっと無言のまま、両手を握り締めて
膝の上に置き、唇をかみしめていた。思い出したくない光景が、川田の脳
裏によみがえる。
「はい」
「名前は何とおっしゃいますか」
「翔、です」
 イイギュン警部は小さく頷くと、
「翔くん。辛いだろうけど、学校から帰って来てからの出来事を、もう一度だ
け思い出してほしいんだ」
 そう、語りかけるように、翔の方を向いて言った。
「……」
「日本人学校のドライバー、エルサンにはすでに確認済みだが、彼がバー
ダット通りで翔くんを降ろしたのが、午後三時四十分ごろ。それから翔くんは、
まっすぐ歩いて自宅に戻ったのかな」
 翔は、小さくうなずくだけだった。
「どうやって部屋に入ったの」
「……鍵、使った」
 今にも泣き出しそうな、か細い声だった。
「じゃあ、ドアはきちんと閉まってたんだね」
「うん」
「一階の出入り口では、合図のインターホン、鳴らさなかったのかい」
「カプジュのおじさんが、開けてくれたから」
 川田のマンションに限らず、トルコでは通常、一階の出入り口のドアはオ
ートロックされている場合が多い。それは一見すれば安全そうで、外部の
人間が容易に出入り出来ないように見える。だが実際は、形だけにしか過
ぎない事が多い。
 順序としては、常時入り口のドアはオートロックされていて、外部からその
建物に入る場合、来訪者はまず、入り口の横にある各部屋の呼び出し釦を
押す。そして部屋の住人とインターホンで会話した後に、相手を確認した部
屋側が、各部屋に設置されているロック解除釦を押し、来訪者は初めて玄
関から建物内部に入れることになっている。日本のように、きちんとこれが
律義に守られていれば、セキュリティシステムとしての役目がいちおうは果
たせることになるわけである。

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2008年3月 9日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第一章(3)

 とんでもないスピードで「E-5」と呼ばれる高速道路を飛ばしている
のだが、それでも今の彼には、とてつもなくゆっくり走っているように思
えて仕方がなかった。
『こういう時は、アジア側に住んでる事を後悔する……』
 川田が一番心配していた、ボスポラス第一大橋の料金所の手前の
いつもの渋滞は、時間が少し早いせいか、さほどではなかった。料金
所を通り過ぎ、アンカラ方面に約二十分ほど車を走らせると、ボスタン
ジュと書いてある標識が見え始める。本線から右に緩やかに分岐して
いる道路沿いに、彼はいつものように曲がった。やがてボスタンジュの
駅が見えるあたりで、バスターミナルの脇を右に曲がる。
 道なりに進み、短い跨線橋を越えると、バーダット通りに出る。そして
方向的には、今まで走って来た方に、平行に少し戻る形になる。バー
ダット通りが、ヨーロッパ側への一方通行路であるため、川田の住んで
いるスワディエから少し東のボスタンジュまで行って引き返すという、
若干の回り道を余儀なくされるのだ。
 スワディエの駅から南下してくる道との交差点には、トルコでも屈指
のヴァッコという名のブティックがある。運悪く、そこの信号が故障して
いるらしく、その部分を抜けるのに少し手間取った。すぐのアンティーク
っぽい建物を横目に通り過ぎ、一つ先の角を左折する。海側までの一
本道の突き当たりが、彼の住んでいるアパートだった。最上階が彼の
フラットである。

 玄関にいたカプジュが、何も知らずに笑顔で「メルハバ(こんにちは)」
と、彼に挨拶した。それに応える余裕など全くなく、彼は急いでエレベー
ターの所に駆け寄ると、途中階から降りてくるランプの点灯をもどかしく
待った。降りて来たトルコ人を押しのけるように、すぐさま乗り込むと、最
上階の釦を押し、同時にドアを手で閉めた。上昇するエレベーターの速
度が今まで以上にまどろっこしく、階段を駆け上がれば早かったのにと、
少し後悔したくらいだった。
 到着と同時に、飛び出すようにエレベーターから出て、彼は部屋のドア
の前に立った。何かの間違いであって欲しいと祈り、大きく一つ深呼吸
をした。
「翔、お父さんだ。開けてくれ」
 大声でドアを叩きながら、彼は叫んだ。小さな足音がドアの向こう側で
すると、チェーンを外す音がして、彼の息子が引きつった顔を覗かせた。
「お母さんは?」
 彼の息子は、無言で居間の方を指差した。恐る恐る彼は居間へ向か
い、妻を探した。その彼女の姿を見た時、彼は後頭部を殴られたような
ショックを受け、呆然とその場に立ちすくんだ。
『翔は、この光景を……見たのか』
 彼女は着衣をぼろぼろに破られ、下半身をあらわにされたうえ、仰向け
に横たわっていた。つい一週間ほど前に購入したばかりの、羊独特の香
りがする花柄のヘレケ絨毯の上で、口から少し泡のようなものを出し、目
をかっと見開いたまま、微動だにしない。すでに息絶えているようだった。
羊毛の香りの中に、かすかに精液に似た臭いが鼻に付くような気がする。
 子供がこの光景を一人で見た時、一体どれほどの精神的ショックが刻
まれるのだろう、と彼は瞬時に思った。自分がこうして帰り着くまでの間、
彼の息子はずっとここでこうして、死体を見ながら無言で立ち尽くしていた
のだろうと思うと、川田はやりきれなかった。
 現場を荒らさないように注意して、動転しながらも彼は領事館に一報を
入れて、指示を仰いだ。日本と違い、言葉も充分に通じないのに加えて、
イスタンブールの警察の番号を彼はまだ知らなかった。

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2008年3月 8日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第一章(2)

「支店長。息子さんから、お電話です」
 秘書のアイシェルが、少し怪訝そうな顔をしながら、そう言った。
『何だ、こんな時間に』
 午後の強い日差しにも拘わらず、部屋の中は快適にエアコンが効い
て、少し肌寒いくらいである。彼は、アイシェルに冷房を少し弱めるよう
に言うと、電話口に出た。
「もしもし、翔か」
「うん……」
 彼は受話器を通して聞こえる息子の呼吸が荒いのが少し気になった。
それに通常であれば、会社には妻の良子が電話してくるはずである。
彼の息子は七歳になったばかりで、日本語以外はろくに喋れないのだ。
電話の相手が彼の息子からだと、よくアイシェルが判ったものだと思った。
「どうしたんだ、珍しいな。何かあったのか」
「………」
 彼の息子は荒い息をしたまま喋らなかったが、やがて彼は、それが息
子のしゃくり上げるように泣いている声である事に気付き、少し嫌な予感
がした。
「どうした。泣いてるのか、翔。泣いてちゃ判らんだろう。学校で何かあっ
たのか。お母さんはどうしたんだ」
「お母さんが、お母さんが……」
 彼の息子は突然、悲痛な叫びにも似た声を、受話器の向こう側であげた。
「お母さんがどうしたんだ。怪我でもしたのか」
「……死んでる」
「何だと!し、死んでるだって。こら翔、そんな変な事、言うもんじゃないぞ」
「だって、お母さん、全然動かないんだもの。お父さん、怖いよう。早く帰っ
て来て」
「わかった、今からすぐ戻る。誰か来ても、絶対に部屋には入れちゃいかん
ぞ。じっとしてるんだ!」
 急用で自宅に戻る旨をアイシェルに告げると、川田は慌てて事務所を飛び
出した。死んでいると言う言葉を、彼の息子が正確に理解したうえで言った
のかどうかは判らない。だが悪い冗談を平気で口にするような息子ではなか
った。部屋の中で彼の妻が倒れている事だけは、間違いないようだった。車
を発進させてすぐに、事務所のすぐ前のブユックデレ通りの渋滞に巻き込ま
れた。時刻は午後四時を少し回っている。
『翔は学校から帰って来た時に、良子の異変を発見して、私の所に電話して
きたのか』
 日本人学校のスクールバスが、いつも通りに彼の息子を自宅前まで送迎し
ていたとすれば、多少の時間的な誤差はあるとしても、三時半頃には帰宅し
ていた筈である。帰宅した彼の息子が、母親の異常事態を発見し、彼の元
へ電話をかけて来たとすれば、時間的にも符合する。
『何でもなければいいんだが』
 慣れないトルコ語の世界で、一番苦労していたのは、他ならぬ彼の妻だっ
たはずである。彼らが住んでいる場所の近くには、他に日本人は住んでいな
い。つまり海外生活での、最大のストレス発散手段である、日本語での雑談
の場がないのだ。前回のイギリス赴任の時に、川田自身もそれを痛感したは
ずだった。だが現実には、家族のことよりも仕事を優先させる、悲しい日本人
ビジネスマンの性を相変わらず持ち続けている。こうして妻が倒れた時ぐらい
にしか、その心労を思いやる余裕がない自分自身が、川田には少し腹立たし
かった。

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2008年3月 7日 (金)

RobbinⅡ-レイン計画- 第一章(1)

 一九九◯年九月二十四日、月曜日。イラクがクウェートに侵攻して五
十三日目のその日も、イスタンブールは晴れだった。
『コンスタンチノープルの陥落、か』
 メジディエキョイのバスターミナルの喧騒を遠くに見ながら、日本オリ
エンタル商事イスタンブール支店長・川田俊彦は、ふとそう思った。
『こっちに来て、もう三ヶ月になるのか…』
 最近ではようやくこちらの生活にも慣れたとは言え、前任地のイギリ
スとはまったく勝手がちがい、トルコ語しか通じない普段の生活は、今
でも結構大変だった。バッカルと呼ばれている日本の雑貨屋に近い何
でも屋で、一方的な単語の羅列で済む煙草やコーラなどの単純な買い
物なら何とかなるが、それ以上はお手上げである。

 ここイスタンブールは、日本の秋田あたりと同緯度だが、その気候は
想像以上に温暖で、東京のそれとほぼ近い。また世界的に有名なトル
コの国際観光地であり、地理的にはアジア大陸とヨーロッパ大陸の境
界ともいえるボスポラス海峡を挟んでいる。そして街自体も、アジア側
とヨーロッパ側に分かれて存在しており、主要な企業の大半は、観光
スポット同様、ヨーロッパ側に集中している。
 川田も当初、住居を決めるにあたって、会社のあるヨーロッパ側で、
日本人が多く住んでいる地域を中心に家探しをした。一人息子の日本
人学校への通学と、妻の日常生活を彼なりに考えてのことだった。だ
が前任者は決してそれを勧めなかった。逆に、あまり日本人が住んで
いない所か、アジア側に住むことを勧めたのだ。川田がその理由をた
ずねると、彼はこともなげに言った。
「家族の健康のことを第一に考えるんなら、そうするんだね。冬場のイ
スタンブールで、ヨーロッパ側のスモッグ公害の激しさは、半端じゃな
いんだ。日本人が住む所ってのはだいたいが高級住宅街が多い。皮
肉なことに、金持ちが住んでる所ほど暖房を早目に入れるから、そう
なっちまう。スモッグっていうのは、暖房用の褐炭を燃やす時に出る煙
なんだよ」
 最初に聞いた時は、思わず『まさか』と思ったし、川田自身も実際に
はまだ体験していないから半信半疑なのだが、前任者に言わせれば、
「ボスポラス大橋から対岸が見えないのは、冬場の日常茶飯事」であ
ると言う。ボスポラス大橋とは文字通り、ボスポラス海峡にかかる車両
専用の有料道路である。北と南に五キロほど離れて、二本架けられて
いるが、その長さはどちらもせいぜい千メートル程度である。
「たしかに夏場は『飛んでイスタンブール』なんだが、これが冬場になる
と『とんでもないイスタンブール』に見事に変貌するんだよ。ヨーロッパあ
たりからの観光客は、皆それを良く知ってるからこそ、夏場にしか来や
しない。冬場にイスタンブールをうろついているのは、それを知らずに安
い料金に騙されてのこのこやって来た、日本人観光客くらいのもんだ。
 アンカラの大気汚染は、かつては国連でも問題になったくらいに悪か
ったが、この頃は良質の石炭や天然ガスに切り替えてるから、以前ほ
どじゃなくなってる。かえって今じゃ、イスタンブールの方が悪いよ。
 世界的な観光地だから、そんな都合の悪い事、宣伝するわけもない。
『濃霧に浮かぶブルー・モスク』は絵になるが、『スモッグにかすむブル
ー・モスク』じゃサマにならんし、観光客も来やしない。写真に臭いは映
らないから、みんな胡麻化されちまうんだ。それに、まぁ、霧も多少はあ
るのは事実だしね」

 川田はかなり悩んだ末、多少でも冬場の環境汚染の程度が軽いと言
われる、アジア側に住むことに決めた。だがそうは言っても、これからの
通勤や通学の事を考えれば、交通の便のよい場所に住まざるを得ない。
結局は、在留邦人の間で俗に『トルコの青山通り』と言われる、バーダッ
ト通りのすぐ近くの、海沿いの十二階建て高級マンションで生活すること
に決めたのである。

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2008年3月 4日 (火)

作者の簡単レビュー 【その18】

 唐突にではありますが、RobbinⅡ-レイン計画-の連載を開始しました。
物語的には、前作RobbinⅠの続編にあたりますが、実際にはⅠとⅡの
間には1年と少しの隔たりがあります。
 前作は三度の推敲をした後のものだったので、単に順番に掲載をして
いけばよかったので(毎日掲載出来たので)すが、本作は実のところ書
き上げるのに精一杯で、その後の推敲が放置プレイ状態でした。なので
掲載しながら少しずつ、前にアップした内容にも必要に応じて、手を入れ
させていただこうと思っています。
 本作品の舞台は、日本とイスタンブールです。イスタンブールの街の
描写がやたらリアルだったりするのは、私が実際に赴任していた所なの
で、いちおう現地取材をしているということで… (^^ゞ

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2008年3月 3日 (月)

RobbinⅡ-レイン計画- プロローグ(2)

 それから半年後、二人は東京で再会することが出来た。彼女はつて
で大手商社に中途採用で勤め始めていた。一時帰国したその男との、
久し振りの激しい時間が過ぎ去った後、彼女はベッドの上で彼の胸の
中に顔を埋めながら、甘えるような声で言った。
「結婚……しちゃおうかな」
「何だ、そういう相手ができたのか」
「うん、結構気に入られてるみたいなんだ。同じ会社の人なんだけどね。
別に断る理由はないから、何度かデートもしたことはあるの。どう思う」
「どう思うって……それはお前が決めることだろう。俺がとやかく言う筋
合いじゃない」
「そんな風に言わないで。私、そんな言われ方って好きじゃないわ」
「ああ、ごめん。でも、そいつのこと好きなんだろ?」
「うん…嫌いじゃないわ。でも誤解しないで。本当はやっぱり貴方の方
が好き。でも私は貴方の奥さんにはなれないから。今の奥さんや子供
さんは貴方のことを頼りにしてるし、信じてると思うの。私は貴方の奥
さんや子供さんを不幸にしてまで、自分だけが貴方との幸せな生活を
送ることには、やっぱり耐えられない」
「………」
「一つだけお願いがあるの。私が結婚しても、時々は会ってくれる」
「いいのか、今からそんなこと言って」
「その人、決して悪い人じゃないんだけど、でも私の過去は決して話す
つもりはないの。知らない方がいいに決まってるし、もし知られると、私
から去って行かれるんじゃないか、っていう漠然とした不安があるの。
貴方は私の過去を全て知ってて、それでも私を愛してくれてるでしょう?
ひょっとしたらその人も、私の過去を知っても私のことを許してくれるの
かも知れない。でも私自身が、ここまで自分の全てを安心してさらけ出
せるのは、やっぱり貴方だけだと思うの。だから……」
「わかった」
 誰も知らない二人だけの背徳の秘密……そのことに後ろめたい気は
あるが、同時にどうしようもない妖しい気持ちが自分の心を支配してい
くのを、彼女は感じていた。

 不意に彼女は、時に感情的に不安定になったかつての自分が、彼を
困らせたことがあったのを思い出した。異国の地での長い生活の中で、
不意に孤独感が募り、いてもたってもいられなくなったことが何度かあっ
たのだ。
 思い返せばうつ状態にあったのだろうと思うが、そんな時の感情のは
け口は、彼女を受け入れてくれる彼にばかり向いてしまっていた。それ
は、いつもの自分ではない、もう一人の自分だった。そんな閉じこもりが
ちな彼女を気遣った、彼のかける電話越しの優しい言葉にも、トゲトゲし
い口調でしか返せない自分がいた。

「一人で大丈夫なのか。今からそっちへ行こうか」
「いい、来ないで!私、今とっても怖い顔してるから。たぶん貴方が見
たら、ギョッとするわ」
「そんな事、構わない。じゃあ、今から俺の所へ来るか」
「ううん、行かない。独りでここに居る」
「じゃあ、今からそっちへ行くから。待ってろよ」
「駄目!」
「……」
「ごめん、お願い、独りにしておいて。私は大丈夫だから」
「心配だよ……お前のそんな声聞いて、放っておけるわけないだろう」
「いいの。大丈夫だから心配しないで」
「どうしてそんな風にしか言えないんだ。淋しくていられないんじゃないの
か?遠慮しなくていいんだぞ、俺は構わないから」
「だって、貴方に頼ることは出来ないもの……」
 いつの間にか彼女は、泣きじゃくりながら会話をしていた。
「いつも独りぼっちだったから、こうやってずうっと淋しさに耐えてきたんだ
もん」
「……俺じゃ、心の支えにはなれないのか」
「わかってるでしょう?…私に情が移らない程度にしておいた方がいいん
じゃないの。それが貴方のためよ」
「どういう意味だ。じゃあ、お前にとってこの俺は一体何なんだ。俺がお前
を求めてるから、必要としてるから、お前は俺を可愛そうに思って、言うな
りになってるって言うのか。俺はお前が俺に同情してただけなのを勘違い
して、お前も俺を必要としてるって思い込んでたのか?そうなのか」
 しばらくの間、互いの荒い息遣いの音だけが、受話器を通して聞こえて
いた。
「最初に言ったはずよ、貴方に迷惑かけるようなことはしないって」
「俺に迷惑かけること、って何だ」
「言ってもいいの?」
「ああ」
「あの人と別れて。私と一緒になって、って」
「………」
「でしょう?そうよね、貴方が答えられるわけ、ないものね」
「………」
「独りで居ることに疲れてるのかな、きっと」
「俺がいくら心配してみたところで、お前が独りなのは変わりないっていう
ことか」
「そうじゃないの?」
「………」
「私だって男は何人も知ってるのよ。ふふ、失望した?私って、ふしだらだ
から」
「よせよ!そんな言い方」
「淋しいのね、きっと私。耐えられないぐらい。どうしてかな、以前は耐えら
れたのに」
「お前がそれでも俺の元へ来てくれないってことが、俺にとってはもっと淋
しいよ」
「嫌いになったんじゃないの。私達、おしまいにしようか」
「終わりにしたいのか?」
「……だめね。こんな中途半端な気持ちじゃ、終われっこないわ」
「いっそ、嫌いになった方が気が楽だろうな。こんなに苦しまないですむ」
「私のせい……ね。傷つけた?」
「ああ、かなり……な」
「ご免なさい。私、素直じゃないから」
「いいよ、気にしなくて」
「怒っていいのよ」
「怒る気力もないよ、今は」
「私のこと、好き?」
「好きでなきゃ、こんなに苦しんだりなんかしないよ」
「じゃ、私とあの人と、どっちが好き」
「もちろんお前の方さ」
「信じていいの」
「信じられないのか」
「じゃあ、あの人は貴方にとって何なの」
「子供の母親……かな」
「あの人が聞いたら、哀しむわよ」
「多分な」 
「ねえ。また、できるよね?もうできない、なんてこと、ないよね、絶対」
「もちろんさ。大丈夫だよ。だから安心しておやすみ」

 感情の高ぶりを抑えて安心させてくれるのはいつも、自分を暖かく包
んでくれる彼の言葉だった。何度それに救われたか知れない。時には
自分を叱ってくれる、でもその後には必ず優しく抱きしめてくれる、それ
はあるいは彼女にとって、幼い頃に亡くしてしまった父親にも似た、憧
れた存在だったのかもしれない。
『ごめんね……』
 彼女は一瞬脳裏をちらついた、未来の夫になるであろう男に、そう心
の中で呟いた。
『貴方が悪いわけじゃないの。悪いのは私なんだから』
 何故か不意に、彼女の目からまったく予期していなかった一粒の涙が
こぼれ落ちた。その理由は、彼女自身にも判らなかった。そして彼女は
横にいる彼にも知られぬようにそっと手でそれを拭うと、再び彼の胸に
顔を埋めた。
 あるいはそれは、この先もうニ度と出会えることのない二人の、虚しい
約束なのかも知れなかった。だがそう約束したことで、心の何処かで安
堵感が静かに広がって行き、自分自身が落ち着くのが判った。

 セントラルヒーティングのあまり効いていない、少し肌寒かった彼女の
部屋の中で、二人毛布にくるまって無言で抱き合っていた冬の日のこと
が、今さらながらに懐かしく思い出された。お互いに顔を見合わせては、
意味もなく微笑みあっていた、あの頃を。
 未だに彼女の心の中の彼の占める大きさを痛感しながら、やがて彼女
は深い眠りに落ちて行った。

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2008年3月 1日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- プロローグ(1)

「私はね、ここで人間としての自分を失ったの」
 テーブル越しに、不意に彼女は語り始めた。
「でも最後に、貴方は私に自分を取り戻させてくれた。どれくらい感謝
しても、足りない。自分でわかってたの、わがままばっかり言ってるこ
と。最初はね、多分貴方とはこうして付き合っていけないだろう、って
思ってたの。自分でも、自分が自分じゃ無くって、どうしてこんなにき
ついことばかりしか言えないんだろうって思ったわ。でも貴方は、そん
な私にいつも優しかった。どんなに救われたことか……本当に色々
ありがとう」
「まるで、これが最後みたいに言うなよ」
 その言葉を聞いた時、彼女は不意に泣き出しそうな顔付きになった。
「だって薄々感じてるはずよ、二人とも。日本に帰ったら、この関係の
結末がどうなるのかを。でも口に出してそれを言うのが、二人とも出来
ない。そんな勇気、ないもの。こんな関係、他人事だとしか思っても見
なかったけど、まさかいざ自分がこうなってみると、不思議な気分ね。
 ふふ、何て言うのかなあ、こう……上手く言えないけど、歌の世界だ
けで、現実には自分とは縁のない世界に居るみたいで」
「………」
「私達、これでお別れなのね」
「信じて、日本で俺の帰りを待っててくれるんじゃなかったのか」
「待ってたい!でも、怖いの。待って待って、挙げ句の果てに、貴方に
捨てられてしまうのが。貴方には待ってる人や家があるけど、私には
無いんだもの」
「………」
「わかって欲しいの。貴方との思い出だけじゃ、一人では生きていけ
ない。誰でもいい、頼れる人が欲しい。それが、私が結婚に求めるも
のなの」
「………」
「それにね、貴方は今はそう言ってくれてるけど、それはずっと奥さん
や子供さん達と会ってないからよ。日本に帰って会えば、その気持ち
はきっと変わると思うわ」
「そうかな」
「多分、そうだと思うわ。貴方は優しい人だもの。そして、そうなったら
多分私は……貴方を忘れるために、誰かを好きになろうとするわ。誰
かに抱かれるかも知れない。とんでもない男に引っ掛かるかもね。で
も私には、そうすることしか出来ないのよ。そうじゃなくて?……ふふ、
まるで、テレサ・テンの世界ね」
「………」
「貴方のお嫁さんに、なりたい」
 突然、ぽつりと彼女は言った。
「私だって男は何人か知ってるわ。でも、貴方に私の最後の男の人
になって欲しい。私、貴方の子供だったら、産んで育てられそうな気
がする。絶対に子供なんか、欲しいと思わなかったのに」
「俺も本当は、お前に俺の子供を産んで欲しいよ。そして何処かで、
三人で静かに暮らせたらどんなにいいか」
「本当?本当にそう思ってくれてるの」
「ああ」
「嬉しい。よかった……」
 彼女は嬉しそうに、男の顔をじっと見詰めていたが、やがて小声で
クスッと笑った。
「ん?どうした」
「ふふ、この前のことを思い出したの」
「ああ。そうだな、二人とも泣いてたものな」
「でも、良かった。遅れてただけで」
「本当だな、まったく。二人とも顔が引き攣ってたぞ。今だから笑い話
になるけどな」
「本当ね……あ、もう行かないと」
 彼女は腕時計を見ながら言った。男も反射的に自分の腕時計を見
た。いつの間にか、出発の時刻まで、あと三十分足らずに迫っている。
「行くのか」
「うん。手紙ちょうだね、きっとよ」
「わかった、書くよ。その代わり、お前も手紙くれよ」
「約束……」
 二人は小指を絡ませた。空港の二階の出発フロアの片隅の喫茶コ
ーナーから出ると、彼女は出国のイミグレーションに並んだ。カウンタ
ーでのチェックインはすでに済ませてあった。

 やがて彼女の番がやって来た。彼女は、ボーディングカードと出国
カードを挟んだ赤いパスポートを、そっと目の前のテーブルの上に置
いた。検査官が彼女を一瞥して、そのパスポートを無雑作に受け取
った。検査官はコンピューターを叩き、その表示画面か何かを見てい
るようだった。しばらくの無音の時間と、検査官の手続きがあまりに
長く感じられ、彼女の心の中に一抹の不安感をつのらせた。
 彼女のパスポートには、特に要注意人物とされる『4』マークは記入
されていなかったが、それでもこれまでの長かった滞在を思うと、何
をしていたのかを尋ねられるのではないかと、内心ビクビクしていた。
唐突に『何をしていたのか』と聞かれたら、自分はどう答えよう、と彼
女は心細くなってきた。トルコ人のその検査官が、彼女のことなど知
っている筈がないのは承知していても、彼女の心の中に後ろめたい
気持ちがあることは事実だった。

 やがてドンと言う出国スタンプが押される音が聞こえ、彼女は安堵
感を覚えた。思わず小さく溜息が漏れる。全ての出国手続きは終わ
ったのだ。彼女がこれまでイスタンブールで過ごした期間に起こった
全ての出来事が、そのスタンプでトルコ共和国から許されたような、
そんな複雑な気がした。
 返されたパスポートとボーディングカードを手に、彼女は後に続いて
いる人間のために少し左に寄ると、後ろを振り返った。そこには笑顔
で彼が立っていた。
「じゃ、行くね」
「ああ、気を付けて。元気でな」
「ありがとう。貴方も……」
 笑顔で手を振り、彼女は脇のゲートをくぐって出発ロビーに出た。後
ろを振り返っても、そこには白い壁があるだけで、もう彼の姿を見ること
は出来なくなっていた。あっけない別れだったが、彼女はこれでいいと
思った。いつまでも未練たらしくしていると、自分が泣き出してしまうの
は充分すぎるほどわかっていたのだ。
 彼女はすぐ近くにある柱の所に行くと、荷物をいったん下ろして、友
人が来るのを待った。彼女がここにやって来てから出来た初めてのト
ルコ人の友人で、これまでにも色々と親身になって相談に乗ってくれ
た、この地で一番信頼できる友人だった。
 その友人は、さいわいなことに空港関係者に知人が居るので、自分
も当日は見送りに行くことが出来ると思う、と彼女に電話してきてくれ
たのだった。だが、出発の時刻は刻一刻と迫って来るのだが、彼女の
友人は一向に姿を見せる気配がなかった。
『どうしたのかしら…』
 少しだけ時間を持て余し、彼女はゆっくりと出国審査のゲートを見渡
した。こうして見ると実に様々な人種が居るものだと、彼女は今さらな
がらに思った。大半はヨーロッパあたりからの観光客であろうと思われ
たが、東洋系の顔もその中に混じっている。何度か漠然とゲートを見渡
していた時、彼女は思わず目を留めた。そして自分の目を疑った。
 イミグレーションの白い壁の隙間から見える僅かな空間の先に、彼が
立ち尽くしたまま、じっとこちらの方を見つめているのが判ったからだっ
た。自分自身は今まで気付かなかったが、多分さっきからずっと、そう
してくれていたのだろう。そんな彼の優しい気持ちが嬉しかった。
 彼女は彼に手を振った。彼も彼女が自分の存在に気付いてくれたこ
とがわかり、小さく手を振ってそれに応えた。不意に彼女は悲しくなっ
た。泣き出しそうなのを必死にこらえてみるのだが、涙は後から後から
込み上げてきてしまい、彼女の頬を濡らしていった。届くはずのない、
そして出せない声の代わりに、彼女の唇は『愛してる』と動いた。彼の
唇も同じに動いた。

 しゃくり上げる彼女は、その場に立ちすくんだまま、しかし彼をじっと
見つめたままだった。その時の自分の顔がどんなであろうと構わなか
った。恥ずかしい、とも思わなかった。その二人の間を、搭乗手続き開
始のアナウンスが静かに流れて行った。
 不意に彼女は「良子、遅くなってごめん!」と言う友人の声を背後に
聞いた。その瞬間、堰を切って彼女は、友人の胸の中で大声を上げて
泣いていた。
「どうしたの。どうして、そんなに泣くの?」
 戸惑ったように友人は、彼女の顔を両手で包み込んで、涙を拭って
くれた。もちろん、彼女にわけなど判りはしない。
「彼が、あそこに……」
 彼女は、イミグレーションの隙間から見える僅かな空間を指差した。
友人も彼の姿を見つけ、納得した。
「もう、行かないと。これが最後の別れになるわけではないんでしょう」
 その言葉に、彼女は大きく頷き、バッグを肩に担ぐと、友人の後につ
いてボーディングの場所に向かおうとした。最後にもう一度、その隙間
から彼を見た。彼は立ち尽くしたままだった。彼女は精一杯の笑顔で
彼に手を振ると、意を決してその空間に背を向け、前を向いて歩き始め
た。

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