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2007年10月28日 (日)

RobbinⅠ-帝王の花嫁- 第三章(1)

 このところ自分はついてない、と松本好則は思っていた。
 世間体はトリム電子産業の本社勤務なのでよく皆から羨まれるが、実際
の仕事内容はかなりのハードワークで、自分の身体が人並み以上に丈夫
なことを親に感謝したいくらいだった。
『トリムは大きくなり過ぎたんだ』
 最近、松本には特にそう思えてならなかった。今でもそうだが「世界のトリ
ム」というコピー文句は、一種の魔法のようだった。就職活動をする学生達
にとって、絶対的とも言える魅力があるのだ。皆が皆、寄らば大樹の陰とい
う考え方の人間ばかりでは無いにしても、その就労条件から福利厚生に至
るまで、全ての面で他社とは比較にならないくらいに飛び抜けているのだ。
だから結局は誰しもが一度は、駄目元で必ず会社訪問していた。その異常
人気は常に、毎年テレビのニュースに登場するほどである。
 当時は松本もその他大勢のうちの一人だった。だからまさか本当に合格
するとは夢にも思わなかったし、内定通知を貰った時はまさしく飛び上がっ
て狂喜したのである。しかし希望に胸膨らませて入社した松本を待っていた
のは、子会社「トリム・サービス株式会社」への出向命令だった。商品企画
かデザイン設計を希望していた彼にとって、これはショックだった。

 彼が出向させられた三百六十五日体制のアフターサービスの現場は、ま
さしく息つく暇もない戦場と言ってよかった。初めて修理の現場に案内され
た時、その職場の汚さと共に修理品の多さに我が目を疑ったことを、彼は今
でも覚えていた。これまでのトリム製品の累計販売台数が莫大な数字であ
る以上、故障率が僅かコンマ数パーセント以下でも、台数にすれば途方もな
い数になる。そのことが頭の中で判ってはいても、実際に目の当たりにする
と皆、必ず最初は「こんなにこわれるのか」とビックリする。松本もその例に
漏れなかったうちの一人である。
 トリムサービスで働く松本にやがて判ったのは、直接対ユーザー相手に仕
事をする人間の苦労を本社は理解してくれてない、と感じている現場の人間
が多いことだった。本社にとって一つのデータに過ぎない数字が、雲の下の
現場にとっては全てなのだ。中には辛辣に批判する人間も当然いる。本社か
ら出向している身分とは言え、悪口を耳にするのは余り気分のいいものでは
なく、松本達が肩身の狭い思いをしたことも何度かあった。
 またアフターサービスという仕事は、その性質上『直って当たり前』である。
そのため実際の仕事内容はかなりハードで、さながら厳しい時間制約のある
間違い探しパズルの感がある。サービスに対する一般ユーザーの文句が「高
い・遅い・直ってない」の三つに集約されている事からも、この一端が伺えよう。
 修理品が全てユーザーの財産である以上、一刻も早く修理して返さねばとい
う責任感から、松本達は毎日の新規分をこなしながら、それと平行して必死に
なって夜遅くまで回路図とにらめっこする羽目になる。だが原因が特定出来な
いまま、苦悩する時間だけがあっという間に過ぎていく。やがて地道な努力が
実り、技術者としての使命感と達成感が報われる時がやって来るが、ユーザ
ーにそんな裏の事情は決して理解してもらえることはない。遅いと文句を言わ
れ、あげくは修理代が高いと言われるのがオチである。
  その一方で、クレーム処理の業務も常に付いて回った。ユーザーはメーカー
を選べても、メーカーはユーザーを選べない。行ってみたら「その筋」の人間が
出て来て監禁され、とんでもない目に遭いかけた経験を持つ者も何人かいた。
また当時はトリムサービスが大々的に修理技術者を募集した時期でもあり、歩
合給で働く委託の技術者が多かった。そのためか、効率が悪い手間のかかる
仕事や難しい仕事を、出向者に意図的に回される事も一度や二度ではなかっ
た。要は体のいい何でも屋であり、ヘルパーであり、早い話が雑務係であった。

 このあらかじめ抱いていた甘い期待と厳しい現実とのギャップに耐えきれず、
何人かの同期の人間が辞めていったが、松本は残った。無論、彼とて出来る
ことなら辞めてしまいたかったが、他に転職しようにもやはり最終的には、金銭
的条件と勤労条件が物を言うのが現実である。そうなるとトリム以上の条件と
いうのは皆無だった。

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作者の簡単レビュー 【その5】

 作者としては、物語全体の中で、章としてどこまでを括るかは結構悩ま
しかったりします。
 この第二章は当初、この後の第三章の導入部の位置付けだったので
一緒にしてあったのですが、各章にサブタイトルを付けたときに、「最初
の通告」という括りにして、章としては分けました。
 次の第三章はサブタイトル「身元不明の女」です。冒頭からまた少し、
修理の話が出て来ますが、ご容赦下さい。

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2007年10月27日 (土)

RobbinⅠ-帝王の花嫁- 第ニ章(4)

 警察という言葉を出せば相手はびっくりしてすぐ電話を切るだろう、と思っ
て桑田はそう威圧的に言った。現に知り合いも何人かいる。
「ふん、いいだろう。何ならこのまま電話を保留にしといてもらって、警察に
逆探知してもらってもいいんだがね」
 逆に相手の男はそのような事など何とも思っていないような、むしろ挑戦
的な言い方をした。これはちょっとたちが悪いな、と桑田は直感的に思った。
むしろ相手にならない方が懸命な対処方法だった。
「まあ、いい。いきなりこんな要求をしても、お前さんがそれをそのまま信用
するとは、こっちだって思っちゃいないさ。むしろこんな途方もない要求を、
いきなり信じる方がどうかしてる。よし、わかった。じゃあ、こうしよう。明日
の朝お宅の会社の前に、面白い物を置いといてやろう。それを見れば少し
は、我々がお宅の会長を殺してもいいと本気で思ってる、っていう事がわ
かるだろう。話はそれからにしよう」
「面白い物?何だね、それは」
 さすがに気になって桑田は尋ねた。よくテロリストや過激派がやるように
時限爆弾でも置かれた日には、冗談にならない。ふと見ると、妻の美奈子
が警察とか脅迫とか言う言葉を聞きつけて、心配そうにこちらの方を見て
いるのがわかった。
「まあ、いいじゃないか。じゃあまた、明日の夜にな」
「もしもし、君。もしもし、待ちたまえ!」
 つい大声で桑田は叫んだが、電話はそこで何の躊躇もなく、一方的に切
られてしまった。電話の相手の引き際が余りにも見事すぎて、それが桑田
には気に入らなかった。自信たっぷりで余裕すら感じられたからだ。はなか
らこちらが信用しないのをあくまでも承知の上で、予告電話を入れてきたよ
うだった。今までに仕事柄、何度か脅迫まがいの電話を受けた事はあった
が、皆いずれも警察という言葉を出せば、慌てて切ってしまうものが大半だ
った。
「あなた。会社の方って、嘘でしたの」
 変な電話を取り次いでしまった事に気付き、妻の美奈子が心配そうに、
さも申し訳なさそうな顔で近寄って来た。
「いや、気にする事はない。かなりたちの悪いいたずら電話だったようだ」
「そうでしたか。すみません、気が付かなくて」
 美奈子は自分の至らなさを詫びた。
「気にしなくていい。それより美奈子、熱いお茶を一杯入れてくれんかな」
 暗くなりがちな雰囲気を払拭するように、桑田は努めて明るく少し笑顔を
見せて言った。妻にあらぬ心配をさせたくなかったからでもある。
「はい……」
 彼の妻は素直に応じた。もともとお嬢さん育ちである事もあるが、今さらな
がらこの歳になっても妻との語らいは自分の心を和ませてくれる、と桑田は
思っている。世間一般にすれば、実際にそういう余裕を持っている家庭とい
うのは比較的少ないのが現実である。それだけに桑田にとっての彼女は、
実に貴重な存在であると言える。
 トリム電子産業・社長という肩書きを持って、毎日を人並み以上に神経を
擦り減らしながら気を張って生きる桑田にとって、妻との二人きりの生活は
充分に満足できるものであった。一時は子供が出来ない事が原因で、夫
婦仲が険悪になった波乱の時期もあったが、幾多の山や谷を乗り越えて
きた二人にとっては、既に過去の思い出でしかない。
『会長を殺す、か…』
 ゆったりとソファーに腰掛けながら、桑田は先程の電話の事を考えた。
冷静になって考えてみると、会長を殺すという脅迫電話を、何故社長であ
る自分の所にかけてきたのかが不思議に思えてきた。今の桑田が置か
れている状況を良く知り尽くしている人間が、逆説的な示唆の意味を含め
て電話してきた、とも解釈出来るのである。つまり十億円の金を出すつも
りがないのなら会長を殺してやるが、会長を殺してはまずいのだったら十
億円を支払えという意味である。
『電話をかけてきた山下と名乗った男は、という事は、今の私の状況をか
なり詳しく知っていると思えるフシもあるな。そうなると会社の人間だとい
うのは、あながち私を電話口に引っ張り出すための口から出まかせの口
実、とは言えなくなってくるが、まさかな。ちょっと考え過ぎだな。そう言え
ば例の件がその後どうなったかを、早速明日にでも佐々木君に確認して
おかないと、そろそろ会長がしびれを切らす頃だな』
 彼の頭の中は、正木会長から依頼されている例の件の事で一杯だった。
『仕事の事なら兎に角、なんで私が正木会長のプライベートな事まで面倒
を見なきゃいかんのだ。全く…』
 腹立たしくは思うが、所詮は自分の意のままにならない相手だった。ど
こか心の片隅に一抹の不安を感じながらも、いつしか桑田は先程の電話
の事を忘れかけていた。いちいちそんな細かい事を気にしていたのでは、
世界に冠たるトリムの社長はつとまらない。妻の美奈子が煎れてくれた熱
いお茶をすすりながら、彼は妻と談笑していた。日曜の夜の団欒が、静か
にそして暖かく、そこに確実に存在している。
 もっともそれから数時間後に彼は、山下と名乗った男の事を嫌と言うほど
思い出さざるを得ない羽目になるのだが、今の彼には事態がそのような展
開になろう事など、想像も出来なかった。
 こうして、運命の月曜日の朝は、いつもと同じように始まっていった。

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RobbinⅠ-帝王の花嫁- 第ニ章(3)

 ロビンが富田と会った日の夜、桑田社長宅にその電話がかかってきたの
は、夜の九時を少しまわった頃だった。ごく限られた関係者にしか知らされ
ていない電話番号なので、電話口に出るのは住み込みのお手伝いではな
く、妻の美奈子の仕事だった。
「もしもし、桑田でございますが」
「夜分に恐れ入ります。桑田社長はご在宅でしょうか?」
 相手の男は礼儀正しく尋ねているのだが、桑田美奈子はその声に有無
を言わせぬ威圧感のようなものを感じた。
「失礼ですが」
「ちょっと緊急に、どうしてもお耳に入れておきたい事がございまして、夜分
に大変恐縮なのですが、お電話させて頂きました。申し訳ありませんが、
公衆電話なもので。社長秘書室の者ですが、私の名前を申し上げても、桑
田社長は恐らく失念されているかと存じますが」
「はい。でも申し訳ありませんが、一応念のため、お名前を」
 公衆電話にしては周囲の音が全く聞こえなかったが、静かな所からかけ
ているのだろうと、美奈子は勝手に判断した。微かに音楽の様なものがバ
ックに流れているように思えた。
「社長秘書室の情報管理部統括をさせていただいております、山下と申し
ます」
「山下様ですね。少々お待ちくださいませ」
 彼女は電話を保留にすると、居間でくつろぎながらテレビを見ている夫に
声をかけた。
「あなた、情報管理部統括の山下さんとおっしゃる方からお電話です」
「情報管理部の山下?」
 怪訝そうな顔で彼女の夫は、彼女の方を振り返って言った。電話の相手
が言った通りの反応だった。だがこの電話番号を知っているのだから、不
審な人物ではない事になる。
「ええ。その方もあなたは多分、名前は覚えていらっしゃらないだろう、と」
「どんな用件だって」
「何でも、緊急にお耳に入れたい事があるとか。公衆電話からとおっしゃっ
ておられました」
「はて、山下ねえ。情報管理部に山下なんて奴がいたかなあ」
 彼はのろのろとソファーから立ち上がると、玄関口の電話に出た。
「はい、桑田ですが」
「桑田社長さんですね」
「情報管理部は一課と二課があるが、どちらの山下さんかな。申し訳ない
が思い出せなくてね」
「まあそれはいいじゃないですか。これからお話しする事に比べれば、取
るに足らない些細な事ですよ」
 話し方がえらくなれなれしいのが、ちょっと桑田の気にさわった。
「ん?どういう事かね」
「一度しか言わんから、良く聞くんだ」
 相手は急に威圧的態度に豹変した。これには流石に桑田もムッとした。
「何だね、君は」
 相手はそれには構わず続けた。
「いいか、現金で十億円用意しろ。さもなくば、お宅の会長を殺す」
「何を言ってるのかね、君は」
 一瞬桑田は、相手が何を言っているのか、その言葉の意味が理解出来
ないでいた。
「十億円は、使い古しのアメリカ・ドルの百ドル札で用意するんだ。受け取
り方法に関しては、後日また連絡する」
「ちょ、ちょっと待ちたまえ。君はそれで私を脅迫しているつもりなのかね。
冗談もいい加減にしたまえ」
 たちの悪いいたずら電話だと桑田は思った。どこでこの電話番号を調べ
たのかは知らないが、余りに途方もない要求であり、少なくとも脅迫のプ
ロがやることではないと思った。
 第一、本当にその気ならば、先に会長を誘拐してから身代金を要求する
筈である。会長は現在再びアメリカ出張中であり、日本にはいない。だが
その会長が誘拐されたと言う情報は、今現在まで彼の耳には入って来て
いないのだ。
「いたずらもいい加減にしたまえ!私はこんないたずら電話の相手をして
いるほど、暇じゃ無いんだ。今度かけてきたら、警察に通報するぞ。逆探
知でお前を捕まえてやる」

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2007年10月26日 (金)

RobbinⅠ-帝王の花嫁- 第ニ章(2)

 結局いつの間にか、最初に一服しただけで、煙草は指先の近くまで燃え
つきていた。
「断わる?ほう、考えても見なかったな」
 ロビンは少しずつ余裕を取り戻すにつれ、忘れていた事をだんだん思い
出してきた。
「事の是非をとやかく言ってるんじゃない。たとえ最後のミッションだとしても、
もう関係なくなった人間を、必要だからと言って呼び出すのは、ルール違反
じゃないのか。俺は除隊する時に契約書にサインしたが、それには確かこう
書いてあった筈だ。今後一切ブラック・ローズとは関係ないが、ブラック・ロー
ズ時代にあった事は一切口外しない。口外した事実が判明した時は、いか
なる処罰をされても文句はない。ただしその代わり、ブラック・ローズの方か
らは今後一切接触はしない、と。再度の入隊は本人が希望すれば可能だ
が、いかなるトラブルがあってもブラック・ローズはその責を負わないし、技
量的に問題がある場合は、再入隊は拒否される事もありうる。そうじゃなか
ったか?」
「………」
「鮫島さんやあんた達の、誰が言い出したのかは俺は知らん。だが最初の
段階として、俺が入隊を希望しなければ、話は一切進められない筈だ」
「………」
「おかしいじゃないか。再入隊という形をとらずに、俺がブラック・ローズと一
緒に行動するっていうのは、それこそ変だ」
「じゃ、一体どういう風にすれば、お前は納得して俺達を手伝うと言うんだ」
 一時は、話によってはもう一度だけ手伝ってもいい、と思っていたロビンだ
ったが、だんだんと話を聞くにつれ、そしてまた同時に忘れかけていた昔の
事を思い出すにつれ、富田の申し出を納得出来なくなっていた。
 ただ、富田の言わんとする事も、わからないわけではなかった。そして自
分が屁理屈をこねまわしている事も、充分承知している。もしこれが相手が
富田隆夫でなく鮫島省吾であったなら、そんな言い方もしなかっただろうし、
あるいは一発オーケーしていたかも知れない。同じ事を言われても、相手に
よっては、こちらの返答が異なる場合があるのだ。それは人間が所詮は感
情の動物である以上、ある程度は仕方のない事かもしれない。
『よりによって、富田とは……』

 富田はブラック・ローズでは、通称「コブラ」で通っていた。それは暗に、彼
の蛇の様なねちっこい性格や陰湿さ、残忍さ、その全てに対する総称でもあ
った。もちろんロビンとて彼は大嫌いであったし、たまの訓練の空き時間等
でも、とても一緒には居たくないタイプの人間だった。ただしそれがいったん
ミッションに関わってくると、その個人感情は一切持ち込めないシビアな世界
に豹変する。
 確かに富田は他人に好かれる性格であるとは言い難いが、少なくとも実戦
の上では、彼の実力はブラック・ローズの中においては三指に入る事は事実
であり、それはメンバーであれば誰しもが認めざるを得なかった。ミッションを
集団で実行する際、ことさらにチームワークが要求される場合もある。その点
も実戦における彼のそれは正確かつ的確なもので、冷静な状況判断のもとに
下されたものだった。これについてもロビンとて異議を差し挟む気は毛頭ない。
  実戦とは冷酷無比な世界であり、一時の感情に溺れたり油断する事は即、
自分の死につながる。ひいてはそれが部隊の壊滅につながる場合もある。イ
ンドネシアのミッションでも、あの時ゼブラがすぐ近くにいてくれていなければ、
死体となって地面にころがったのは、ゲリラの男ではなくロビンの方だったろう。
確かに最終的には殺るか殺られるかの世界に住んでいるわけだから、本来
傭兵というのはコブラのようにあるべきなのだろう。
 また通常、一般の人間が『傭兵』と言う言葉から受けるイメージは、いわゆる
富田のような、冷血で殺人機械の様な人間を思い浮かべるのが一般的であ
る。しかし実際は、いったん戦場を離れれば皆、根は優しい男達である事が
多いものなのだ。しかし富田の場合は、ただ殺戮本能を発揮したくて入隊した
と思えるフシもあり、ロビンにとっては生理的に好きになれなかった。また好き
になろうとも思わないタイプの人間である事に変わりはない。

 過去の思い出を払拭し、一気に未練を断ち切るようにロビンは富田に言った。
「どういう風にもない。はっきり言えば今回の事は、いや俺の事は、きれいさっ
ぱり忘れてくれと言うことさ」
「貴様。よくも抜け抜けと、そんな事が俺に平気で言えるな」
「何とでも言え。話は済んだみたいだから、帰らせてもらう」
 富田はじっとロビンを見つめていたが、やがてポツリとつぶやくように言った。
「そうか、まあいい。そのうち考え直してくれるだろう」
「そのうち?そうだな、それにはあと百年ぐらいかかるかもな」
「………」
 もう富田は黙ったままだった。完全に彼の気分を害しているのは、ロビンには
充分判っている。わざとそういう言い方をしたのだ。
「じゃ、これで。皆によろしく。会えなくて残念だけど」
 彼はドアのノブに手をかけて出て行こうとしたが、その背中に向けて富田が、
押し殺した声で静かに言うのが聞こえて来た。
「いいだろう、好きにするがいい。だがな、近いうちにお前はきっと、俺達を手伝
ってくれる気になるさ」
「甘いな、コブラ。俺の性格はわかってると思ってたんだが」
 富田の方を振り返り、ロビンは少し笑って言った。
「わかってるさ、充分な。なあに時間はまだあるんだ」
 富田も不敵に笑い返した。
「ま、せいぜい頑張って、最後のミッションを完遂させてくれよ。陰ながら応援し
てるよ」
 捨て台詞を残し、ロビンはドアを力一杯に閉めた。

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2007年10月23日 (火)

RobbinⅠ-帝王の花嫁- 第ニ章(1)

「よう、来たな」
 富田隆夫は不敵な笑みを浮かべながら、約束の時間ちょうどに彼の部屋
を訪ねて来た、その男を迎え入れた。
「どういうつもりだ」
 彼はドアの所で開口一番、不快感をあらわにそう低い声で言った。かすか
な苛立ちと怒りが露骨に感じられた。
「まあ、入れよ」
 富田は作り笑顔でドアを開け、彼を迎え入れた。その男は遠慮する素振り
も見せず、ずかずかと部屋の中に入ると、ブスッとした表情のまま、部屋の
中央にあるソファーに勝手に座った。 彼らは約二年半振りの再会であった
が、その男にとっては相手が富田では、懐かしいという感情は全く生まれて
こなかった。
「ふん、見たところ御機嫌ななめ、ってとこか」
「当たり前だ」
 吐き捨てるように、その男は言った。
「突然電話してきておいて、否応なしに場所と時間を指定するんだからな」
「変わらんな、お前は。かれこれ二年半振りなんだぜ」
 そう言いながら富田は、その男の正面に位置しているソファーに、ゆっくり
と腰を降ろした。
「俺が電話口に出なかったらどうするつもりだったんだ。いつもあそこにいる
とは限らないんだぜ」
「ふん、いるとわかってたから電話したのさ」
「そうみたいだな」
「まあ、いい。時間があんまりないんだ。早速用件に入るとしよう」
「………」
 その男は右ポケットから愛用の煙草を取り出し、オイルライターで火を付
けた。
「お、相変わらずそれか。変わってないな。一本くれんか」
 その男は黙って、蒼い箱を富田に差し出した。富田は無雑作に一本抜き
取ると、テーブルの上のホテルのマッチで火をつけ一服した。
「旨いのは判るが、辛いし、やっぱりキツイな。天下のショート・ピースだけ
の事はある」
 富田はちょっと顔をしかめてそう言った。
「そうかい、それはどうも」
 その男は相変わらず無愛想に答えた。
「ところでな、ものは相談なんだが、ちょっと助けてくれんか」
「ちょっと待て。もうあんた達とはとうに縁が切れちまってる俺に、今頃にな
ってどうして相談を持ちかけるんだ。筋違いじゃないのか」
「なるほど。考えてみれば、もっともな質問だ」
「そんな筋の通らない話を俺に持ってく事を、あの鮫島さんがオーケーした
とは、とても思えない」
「うーん、どう説明すれば、今の状況をお前に判ってもらえるのかなあ」
 富田は少しの間部屋の天井の方を見ながら、額にしわを寄せ、小首をか
しげるようにして考え込んでいた。それとは無関係に、その男はその部屋
の中を黙ったまま見渡していた。
 このホテルのこの部屋にいるから今日の午後二時に会いたい、と突然
富田が今日の昼前に、彼に電話をよこしたのだった。有無を言わさぬ、相
変わらずの強引なやり方だった。
「ブラック・ローズは、これが最後のミッションになる」
 いきなり富田の口から、意外な言葉が飛び出してきた。
「え、最後……って」
「そう、最後なんだよ。つまり部隊はこれを最後に解散、って事さ」
「どうして……」
「まあ想像するに、早い話が、その筋からそう言う圧力がかかった、って事
だろうと俺は思うんだがな」
「そんな馬鹿な。ブラック・ローズは一体、いつから日本国の正式な傭兵部
隊になったんだ。私設傭兵部隊にそんな事は関係ないだろう。ブラック・ロ
ーズがいつ頃から活動を始めてたのかは俺は詳しく知らんが、外交筋や政
府筋にも特別なルートがあった筈だ。そうでなければあれ程の内容のミッシ
ョンが、次から次へと転がり込んでくるわけがない。
 武器の調達だって、余程のコネとルートが常に確保されてなきゃ不可能だ。
たかが一介の私設部隊が、強大なバックもなしに今まで活動を続けられる
筈もなかろう。ひょっとしたらCIAやKGBあたりの連中とも、裏ではつるんで
るんじゃないのか」
「さあな。色々と想像するのは簡単だが、本当のところは難しすぎて俺にも
よく判らん。だがお前も知っての通り、日本って国は公式な軍隊を認めてな
いからな。私設である以上、いつかは国際的に問題にされて、潰される宿
命だったんだ。それがたまたま今回だ、って事さ」
「いや、納得出来んな。いくら圧力がかかったとしても、一種の海外での企
業活動みたいなもんだろうが」
「ふん、面白い例えをする奴だな。しかしな、良く考えてみろ。我々は所詮、
ただの雇われ兵にしか過ぎん。ブラック・ローズが私設だったからこそ逆に、
ヘッドにそう通達されれば、我々としては一切反論しようが無い。そうだろう。
 どういう経緯で部隊の解散が決まったのかは、確かによく判らん。だが解
散の事実は、事実なんだ。今さら我々がどう言ってみたところで、絶対にひっ
くり返りはしない」
「………」

 富田の説明は筋の通らない説明だった。しかし一方では一理あった。たし
かに傭兵というのは、所詮は雇われの身なのだから、雇用主からそう通達
されれば、一方的であっても常にそれに従うしかない。
「最後だからこそ、昔の仲間で腕利きだった、お前が必要なのさ」
「それもわからない。今いる現役の傭兵連中で出来るだろうが。皆、俺より
優れてるはずだ。それによしんば納得出来る理由があったとしても、俺は
もう傭兵稼業から足を洗って三年近く経ってる。ロビンと呼ばれてた頃と同じ
活動は、望まれても出来っこない。皆の足手まといになるだけだ。俺は過小
評価されるのは構わんが、過大評価されるのは好きじゃない」
「もちろん、それは承知の上だ。だから実行部隊とはちょっと違う事を、ロビン、
お前にはして欲しいのさ」
「違う事?」
「そう、具体的に言うとだな、単なる」
「待て。待ってくれ」
「何だ」
「話を勝手に進められちゃあ困る。俺はオーケーした覚えはないぜ。悪いが
俺にだって、今の生活があるんだ。あんた達の手伝いを、『ああそうですか、
はいわかりました』と素直に手伝える程、暇は持て余しちゃいない」
 富田はロビンを睨みつけると、凄味を効かせた声で言った。
「ロビン……お前、俺達の頼みを断るって言うのか。えらく偉そうな口がきけ
るようになったもんだな。傭兵としてのお前を一人前に育て上げ、時には何
度か危ない所を救ってやった事もある俺達に、恩を仇で返そうってのか。ブ
ラック・ローズからの頼みを断るなんて、いい度胸してるじゃあないか」
「それはそれだ。確かに恩はある。感謝もしてる。俺が今こうしていられるの
も、あんた達のお陰だ。本当にいい経験をさせてもらったと思ってる」
「だったら、今さら、何を駄々っ子みたいに」
「なら、なら、どうして鮫島さんが出て来ないんだ。いつもあの人自身が、直
接連絡を取っていた筈だ」
 富田のペースに巻き込まれまいと、必死に彼は反論した。
「俺がお前に連絡をとっちゃいかん、とでも言うのか」
 富田はやや気色ばんだ表情になって言った。
「いや、別にそういうわけじゃない。ただ、俺はもう傭兵ロビンじゃないんだ」
「………」
「話を聞いてから断るのは、ルール違反だからな。だから、そう急に言われ
ても」
「時間がないんだ。ミッションの第一段階は、今夜実行される」
「今夜!」
「そう。だがこれはお前には直接関係ないから、気にしなくていい。俺の言
う通りに動いてくれれば、何の問題もなくラストミッションは、無事フィニッシ
ュさ」
「しかし、いくら何でも、考える時間がなさ過ぎる」
「うだうだ言うな。決まっちまってるものは仕方なかろう。それに報酬だって
今まで以上に出るんだ。条件としちゃあ悪くない」
 富田の有無を言わせぬ強引なペースに、翻弄されかかっているロビンだ
ったが、
「じゃあ、もし俺が断ったら、どうする気なんだ」
 と、富田をじっと見つめながらそう切り返した。

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作者の簡単レビュー 【その4】

第一章の当時のサブタイトルは「それぞれの思惑」でした。
トリムという架空会社のとりわけサービス(修理)部門に関する描写がえらくくどいのは、私がそういう関係の仕事に携わっていたからでもあります。
今後登場する警察関係者以外の登場人物はあらかた出揃ったので、次の第二章から物語は少しずつ動き始めます。

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2007年10月21日 (日)

RobbinⅠ-帝王の花嫁- 第一章(6)

「佐々木君、悪い知らせだ……」
 桑田社長と巽明代の件を打ち合わせた数日後に、佐々木のデスクの上
の直通電話が鳴った。相手は桑田社長だった。常務室は完全防音が施さ
れ、秘書とは完全に別室になっているので、この会話の内容が漏れる心
配は全くなかった。
「悪い知らせ、と申されますと」
「実は……例の巽明代の件を、国際電話で会長に打診してみたんだが」
「はい」
「会長は二つ返事で、オーケーしたよ」
「何ですって。そんな馬鹿な」
「私にも信じられなかった。だが、これは本当なんだよ」
「それだけ巽明代にご執心、っていう事ですか」
「ああ。私が金額の事を言った時は、さすがに一瞬考えた様だったがね。
すぐに間髪を入れずに一言、『いいだろう』とおっしゃってな。こっちの方が
唖然として、しばらくは何も言えなかったよ」
「そうでしたか」
「一応彼女の方はその金額でオーケーするわけじゃなく、考えても良いと
言った、という事は忘れずに話しておいたがね」
「その事については、会長は何かおっしゃってましたか」
「ああ、是非ともその線で話を進めて欲しいと」
「………」
「今は、何を言っても無駄のようだ」
「そうですか」
 いくら正木会長でもこの法外な要求は受け入れないだろう、と佐々木は
たかをくくっていた。現役の国際ビジネスマンとしての誇りがあれば、老い
たりとは言え、たかが一人の女の言いなりになる筈がない、と淡い期待を
抱いていたのだ。一蹴して当然、と信じていただけに、佐々木は余計に呆
れはてた。
『会長の世話は疲れる……』
 つくづくそう思えた。腹立たしくさえなってくる。
『まったく…自分の事なんだから、自分ですりゃあいいのに』
 そうは思ってみても、世界のトリム電子産業・会長ともあろう者が、自ら
銀座の高級クラブへ出没し、女を口説くわけにもいかない事はよくわかる。
「すまないがもう一度、彼女の説得に行ってくれないかね。もちろん公私混
同しているのは、いつも充分に承知しているのだが。こんな事を頼める人
間は、君以外にはいないんだ。申し訳ないとは思うが、一つよろしく頼むよ。
な、佐々木君」
「……はい」
 断われるわけがなかった。
『情けないが、会長の要求をはねつけるだけの力は、所詮は今の桑田社
長にはない、っていう事か。こんな事じゃトリムも先が知れてるな。会長の
勇退勧告を持ち出してみたところで、一体どのくらいの人間が賛同するか
どうか……怪しいもんだ』

 受話器を置いた佐々木は大きな溜息を一つつくと、再び机の上の企画書
に目を落とした。そこにはトリムサービスの修理工数のデータが並び、様々
なコストの一覧表があった。
「集中修理しか手はない……か」
 効率を高める為に、修理品を集中させるのである。エンジニアをリーダー
としたラインを作り上げ、そこにアルバイトや嘱託の人間を補助作業員とし
て充て、人件費の削減をも計ろうというのである。この一石二鳥の首都圏
集中修理構想は、既にトライアルで走り出していた。エンジニアの間接業
務を出来るだけ排除し、純粋に故障診断のみに従事させる事で効率アッ
プを計るわけである。
 だが佐々木個人としては修理という業務は、所詮は孤独な仕事だと思っ
ていた。たしかに大半の故障はノウハウ修理で片付くが、故障によっては
本格的に回路を追わないと直らない。そして時間をかけて修理品に頭を悩
ます事で、自分の技術力が向上するのは事実である。 
 だが皮肉な事にそれは同時に、意外と閉鎖的なサービス技術の世界を
造っている要因でもあるのだ。そして佐々木は今では、さすがにそうも悠長
な事を言っていられる立場にはない。
『教えれば誰にでも全てが出来るってわけじゃないんだ。それならこの世界
にエンジニアは必要なくなる。長年の経験に基いたコツや勘が、説明しただ
けで判ってたまるものか!製造工場とはわけが違うんだ。エンジニアは歯
車じゃない……』
 佐々木自身は本心、そう叫びたかった。だが色々なデータを突き付けられ
ると、自分がかつて在籍していた古き良きサービスのワンマン修理の時代
がすでに終わりを告げている事を、今さらながらに痛感せざるを得なかった。
桑田社長にサービス現場に信頼出来る部下がいると言ったのは決して事実
ではなく、その情報は佐々木自身が時々古巣の修理センターを訪ねては自
身の目と耳で拾い集めていた現場の生の声だった。そして地位は高くなって
も決して気取らない、佐々木のその気さくな人柄が今でも現場の人間の信
頼を集めていることこそが、実はトリムサービスの屋台骨でもあるのだ。
「俺ももう若くはない、か」
 そう口に出して呟いた瞬間、佐々木は昔の暖かな思い出の数々が、自分
の脳裏をかすめた気がして複雑な思いだった。自分がかつて在籍したサー
ビスの仲間達を、自らの手で今まで以上に厳しい環境に追い込む為の、最
終決断が迫っているのだ。
 そして次の瞬間、机の上で小さな音と共に、その修理工場設立案の企画
書は佐々木常務に承認された。

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RobbinⅠ-帝王の花嫁- 第一章(5)

「多分、そんな馬鹿な事がある筈がない、と思ってるんだろう。残念ながら
これまでは、少なくともそうだったんだよ。あんただって同じ事をして、今の
会長の愛人の座に座ったのさ。あんたは気付かなかっただろうがね。しか
し結局は、あんたがしたのと同じ事さ。違うかね」
「………」
 彼女はどう言って良いのか判らず、ただ黙って相手の言う事を聞くしかな
かった。
「このまま黙って、愛人の座から追い落とされるのを待ってるかね。鎌田芳
子さん」
「私に何が言いたいの」
「別に……。最初に言っただろう、これは忠告の電話に過ぎない、とね。こ
こからはあんた自身で、今後の身の振り方を考えるんだね。せいぜい頑張
ることだ、じゃ」
「待って、お願い」
 電話はそこで一方的に切られてしまった。しばらく彼女は部屋の中で、
受話器を持ったまま呆然と立ち尽くしていた。静寂の中で掛け時計が時を
刻む音だけが、やけに耳障りなくらいに大きな音を立てていた。
『どうすればいいって言うの、私は……』
 自分が彼の最期を看取ってあげるのだという使命感は、彼女の心の中に
確固として存在している。だがそれには、今の二人の関係が続いている事
が大前提なのである。
『落ち着かなくちゃ』
 彼女は壁際の棚から、ヘネシーのブランデーを取り出した。居間の中央
のテーブルに持って来ると、グラスに半分ほど茶色の液体を注ぎ、一気に
飲み干した。我慢できず、むせるように咳き込む彼女の鼻孔に、ブランデ
ー独特の香りと味があふれた。涙が出て止まらなかったが、それにも構わ
ず、もう一度グラスに半分ほど注いだ。今度はさすがに一口だけを、ゆっく
りと口に含む様に味わって飲んだ。涙を人指し指でぬぐう以外は、大きな
溜息しか出て来なかった。
 静かな部屋の中で、今まで気にもしなかった孤独感が、急にひしひしと
押し寄せて来るのを彼女は感じていた。冷静になろうとしながら、先程の
電話の内容を必死に思い返してみた。もしも相手の言った事が本当なら、
今の仕事を辞めてまでも彼の為だけにこの身を一生捧げようと決意して
いる自分にとって、それは余りにも冷酷な仕打ちと言える。その不安感は
時間がたてばたつほど大きく膨らんでいくばかりだった。考えあぐねた後、
彼女はアドレス帳をハンドバッグから取り出すと、何枚か頁を繰った。
「あった」
 今いるかどうかは判らないが、少なくともその相手に相談するしか、彼
女には思い付かなかった。彼女は祈るような気持ちで、相手が電話に出
るのを待った。呼び出し音が鳴ることすらもどかしく思え、それが途方もな
く長い時間に感じられた。
『お願い、いてちょうだい…』
 数度の呼び出し音の後に相手が電話に出た時、彼女は正直ホッとした。
「もしもし」
 相手の男の声が、この上もなく頼もしく聞こえた。
「もしもし。私、鎌田です。鎌田芳子です」
「ああ……。珍しいですね、あなたが私に電話して来られるなんて。そう言
えばここ半年ばかり、すっかり御無沙汰してますね。お元気そうで何よりで
す」
「夜分に申し訳ありません。今、お時間の方はよろしいですか」
「ええ、構いませんよ。何かあったんですか?」
「はい、実は……」
 そう言いかけて、彼女はふと考えた。もしも先程の内容が真実であったと
しても、相手が誰か判らないなどと正直に言ってしまう訳にはいかない。た
ちの悪いイタズラ電話だろう、と一笑に伏され、胡麻化されてしまう可能性
もあるのだ。あくまでも自分の情報網から得たという事にして、彼女は先程
の電話の件の真偽を尋ねた。
「どうなんです。間違いありませんの?」
 相手の男は返事に窮していた。そしてそれは、無言の肯定を意味した。
『やっぱり……。本当だったんだわ』
 彼女は急に悲しくなって来た。自分が一体いつ、彼に嫌われる様な事を
したと言うのだろうか。自分は慎ましやかに、彼の言う事をこれまでずっと
笑顔で聞いて来たのだ。それを一方的に何の相談もなく、そんな仕打ちを
しようとする事が信じられなかった。たかが銀座のバーのホステスごときに、
自分にとって代わられてはたまったものではない、と彼女は思った。
「お願い、助けると思って何とかして頂戴。でないと、私」
 彼女は涙声で自分の気持ちを訴えた。さすがに相手の男も彼女が気の
毒に思えたのか、ややあって溜息をつくと言った。
「わかりました、お手伝いしましょう。あなたがそこまで、会長の事を愛して
いるとは思わなかった。おっしゃる事も、もっともだ。何処までお力になれる
かは保証の限りではないが、全力をつくして巽明代の件を白紙に戻すよう、
私からも働き掛けてみましょう」
「ああ……ありがとう。一生恩にきます」
「しかし、代償は高くつきますよ。鎌田さん」
「わかっています。私に出来る事なら」
「本当ですか。いいでしょう、そこまで覚悟が出来ているのであれば」
「本当に宜しくお願いします。私、貴方ぐらいしか、こんな事頼れる人いなく
て……。じゃ、これで失礼します。夜分に突然電話を差し上げて、本当にす
みませんでした」
 彼女は繰り返し礼を言うと電話を切った。安心して眠りにつけそうだった。

 一方の男の方は、受話器を置いた後、しばらく考え込んでいた。まさか巽
明代の事が鎌田芳子に知れるとは、予想もしていなかったのだ。話の流れ
で請け負いはしたものの、一体どうすれば良いのか、すぐに名案が浮かぶ
筈もなかった。正木会長が他人の意見を素直に聞き入れるような性格でな
い事は、今さら言うまでもなかった。時刻は九時を少しまわっていた。
『もう、いるかな……』
 彼は受話器を取ると、先程かけようとしていた所に、電話をかけた。今度
は一度のコールで相手が出た。
「もしもし、私だが」
「おう、これはお珍しい。最近とんと御無沙汰ですな。たまにはいらして下さ
いよ、お待ちしてますから」
 相手は愛想良く、社交辞令風にそう答えた。男は苦笑いをしながら言った。
「良く言うよ。セラヴィなんて高級な所へ個人で行ったら、金がいくらあっても
足りやしない。女性の質が最高級なのは認めるがね」
「ははは。これはまたご冗談を、あなた程の人が」
「ところで、またちょっと相談に乗って欲しいんだが」
「何でしょうか。私でお力になれる事でしたら」
「実は……」
 彼はこれまでのいきさつを、かいつまんで説明した。
「それはさぞお困りでしょう。で?」
「俺としては、そろそろ潮時だと思ってる。そこで内密に処理をお願いしたい。
手段はそちらに任せるが、公にならないよう絶対に気を付けて欲しい」
「わかってます、お任せ下さい。で、いつ頃までに」
「勿論、早いに越した事はない。そちらの都合次第だ」
「そうですな、準備も必要なので、出来ればさ来週の方が……」
「そうか、わかった。じゃ、よろしく頼む」
「ちょっと今回は、大掛かりになるかも知れませんが」
「わかってる。こっちも出来るだけ手助けはするつもりだ」
「潜り込めますか」
「何とかなると思うんだが。何人だ」
「二名、ってとこでしょう」
「それなら大丈夫だ。詳しい予定を明日確認しておくから、夜また知らせる」
 しばらく彼らは電話で計画を練っていたが、その時セラヴィのその部屋の
外で、一人の女が彼らの会話を盗み聞きしていた事など、彼らには知る由
もなかった。
 そしてそれは、ロビンにかつての仲間コブラから連絡の入る三ヶ月程前の、
珍しく東京が季節はずれの寒さに震えていた夜の事だった。

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2007年10月20日 (土)

RobbinⅠ-帝王の花嫁- 第一章(4)

 その電話がかかってきた時、彼女はちょうど外出から帰って来たばかりだ
った。時刻は夜の八時を少し過ぎたばかりである。
「はい、もしもし。鎌田でございます」
 ひょっとしたら彼からの電話かも知れない、と心をときめかせながら彼女は
電話口に出た。このところ連絡もなく、とんと御無沙汰なのだ。相手の男は
彼女とはかなり年齢が離れているから、『彼』という表現は適切ではなかっ
た。強いて言えば、自分は『若い愛人』という事になるのだろう、と彼女は思
っている。だが別にそんな事はどうでも良かった。例え年齢が親と子以上に
離れていても、彼は彼だった。
 当初は、毎月の手当て額の多さにびっくりしたものだったが、同時に金の
為と割り切って、半ば嫌々ながら付き合ってきた。だがそれもこうして一年も
続いてくると、不思議なもので次第に情が芽生え始め、今ではいとおしくす
ら思えて来ている。
 それに今の国際線のスチュワーデスという仕事にも、彼女はそろそろ疲れ
てきていた。端から見ている程に楽な仕事ではなく、体力が勝負だと言って
も良い。自分の体調が思わしくなくても、搭乗しなくてはならぬ時もある。生
理休暇が自由に取れる、普通の会社のOLとはわけが違うのだ。
 最近の時流なのだろうが、新しく配置される新人スチュワーデスの考えに
は自分はついていけない、と彼女は思っている。タダで海外旅行に行けて、
現地での男漁りを特典の様に考えている風潮が、彼女には我慢ならない。
乗客へのサービスという本来業務そっちのけで、心は最初から到着地の観
光や、青い瞳の男達に飛んでしまっているように見えるのだ。
 しかしそれならそれでも良い、と彼女は思う。最早この仕事に未練はなか
った。自分が一人で生活出来るだけの最低限の手当て以外は、欲しいとも
思わなかった。必要ならパートで働きに出てもいいとまで、彼女は覚悟を決
めている。たとえ陽の当たる人生でなくとも、ずっと彼の元で一緒に暮らして
いければ、それだけで満足だった。
 他人が見れば、所詮は彼の莫大な財産目当てだろう、と陰口を叩かれる
のかも知れない。だが、そう思われるならそれでも良い、と彼女は思う。自
分は彼の財産ではなく、彼自身を愛し始めているのだと、やっとこの頃その
事に気付き始めていた。
 だが残念ながら相手は、彼女の想像していた人物ではなかった。
「鎌田芳子さん、だね」
 彼女は職業柄、色々な相手と会う事が多い為、割と相手の顔や声、職業
などを覚えている方だった。しかし相手の男の声を、彼女は今まで聞いた事
がなかった。
「はい、そうでございます。失礼ですがどちら様でしょうか」
 彼女は用心深く尋ねた。
「あんた、近いうちに会長に捨てられるよ」
「え?」
 相手の男は突然、とんでもない事を口にした。彼女はギョッとした。自分が
トリム電子産業・会長、正木英嗣の愛人である事を知っている人間が、そう
そういるわけがないのだ。厳重な箝口令が関係者にひかれている筈だった。
「な、何の事でしょうか。私にはさっぱり、おっしゃってる意味が判りませんが。
電話番号をお間違えではありませんか」
 下手な受け答えは出来なかった。万が一、この電話が録音でもされていて、
自分とのスキャンダルが表面に出れば、それこそ取り返しがつかない事にな
るのだ。彼に迷惑をかける事だけは絶対に避けねば、という思いが一瞬にし
て彼女の脳裏をよぎった。徹底してシラを切り通した方が良いと判断した彼女
は、次の瞬間、ささやかな反撃に転じた。
「あなた、どなた。いきなり電話して来て、捨てられるとか、会長がどうしたとか。
訳の判らない事、言わないでよ。言いがかりはよしてちょうだい!私はいたず
ら電話に付き合ってるほど、暇じゃないのよ」
 そう一方的に言うと、彼女は電話を切った。暫くすると、また電話がかかって
来た。
「はい、もしもし。鎌田でございます……」
 彼女は冷静に、先程と同じ受け答えで電話に出た。すぐにかかって来たから
といって、同一人物からの電話だとは限らないのだ。しかし今度も、相手は先
程の男だった。
「鎌田さん、あんたが会長をかばう気持ちは良くわかる。まあ、話だけでも聞き
たまえ。別にあんたや会長さんを、脅そうというつもりで電話してるんじゃないん
だ。いきなりこんな電話がかかってくれば、用心するのは当たり前だしな。あく
までも俺はあんたの為を思って、わざわざ電話したんだがね。ま、聞く聞かない
はそっちの勝手だが……」
「何の事やらさっぱり見当が付かないけど、話を聞くだけだったら聞いてもいい
わ。変な電話だったら、勝手に途中で切らせてもらいますからね」
「いいだろう。まず、あんた以外に、会長には愛人が三人いる。一人はアイドル
歌手の南涼子、もう一人はモデルの八木光江、もう一人は女優の春日由佳里。
その事は知ってたかね?」
「!ふうん……それから?」
 彼女は平静を装いながら、相手の男に先を促した。彼に自分以外にも愛人が
いるらしい事は、うすうすとは感付いていた。だがはっきり面と向かってこうも言
われると、余り気分の良いものではない。迂闊な受け答えをしない様に細心の
注意を払いながらも、彼女は相手の話につい耳をそば立てていた。
「会長が最近、どうしても新しい愛人にしたい、と目をつけた女がいてな。銀座の
高級クラブ『セラヴィ』のホステスの巽明代、って女なんだが」
「何ですって!本当なの、それ」
「ああ。嘘を言ったところで、調べればすぐに判る事だろう?最初に言った筈だ…
…俺は別に会長さんやあんたを脅そうとして、この電話をかけてるわけじゃない
んだ、と。俺はただあんたが余りに可愛そうだと思ったから、こうして忠告の電話
をしてやってるのさ。どうしたね、途中で電話を切るんじゃなかったのか」
「……面白そうなお話じゃない。続けてよ」
「いいだろう。別に今さら、会長の愛人が一人ぐらい増えたってどうと言う事はな
い、とあんたは思うかも知れん。だが実はな、会長の愛人の定員数は、常に四
人でこれまで来てるんだよ。つまり巽明代が今回、会長の愛人になる事をオー
ケーすれば、自動的に誰か一人が今の会長の愛人の座から追い落とされて、
路頭に迷う羽目になるってわけさ。現実は厳しいよな。そしてそれは四人の内で、
一番古い者順ってわけだ。今の四人の中で、一体誰が最古参だと思う?」
「さあ…」
「……あんたなんだよ、鎌田芳子さん!」
 少し間を置いて言い放った相手の男の言葉が、彼女の心にグサリと突き刺さる。
「そ、そんな。嘘でしょう?冗談もほどほどにしてちょうだい」
 彼女はさすがに心の動揺を隠すことが出来ず、うろたえながらそう言った。
『そんな馬鹿な事があってたまるもんですか!』

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RobbinⅠ-帝王の花嫁- 第一章(3)

「はあ、それが…」
 佐々木がそう口ごもれば、おのずと結論は容易に推測出来る。
「そうか、やっぱりなあ」
「ええ。かなり難しいかと」
「ところで……もうこの前みたいに、襲われたりはしてないんだろうね」
「まさか。それにこの前だって、偶然かも知れませんし。彼女に関係あるの
かどうかも、はっきり断定できませんでしたから」
「まあ、それならいい。しかし佐々木君、充分注意してくれたまえ。君の身
体の事もそうだが、こんなスキャンダルをマスコミにでも嗅ぎつけられたら
一大事だ。我が社の社会的信用問題にも関わってくるし、それこそイメー
ジダウンどころの騒ぎじゃなくなる」
「はい、良くわかっております」
「会長の女好きにも困ったもんだが、これを最後にして欲しいもんだよ。何
で我々が会長のプライベートな事まで、面倒を見なきゃいかんのだ、まっ
たく…」
 いつもは温厚な桑田社長が、珍しく感情を露わにして言った。
『今回はさすがの社長も、よっぽど頭にきてる様だな。まあ無理もなかろう。
仏の顔も三度まで、とはよく言ったもんだ』

 戦前・戦中は軍需工場の端くれで、零細規模でしかなかった前身の会社
を、正木会長は戦後の混乱期であったにも拘わらず、一躍大規模な発展を
遂げさせたのである。今や世界に冠たる大企業のひとつであるトリム電子
産業株式会社の礎を、たった一代で創り上げたその手腕は、確かに誰しも
が認めざるを得ない事実だった。
 戦後の混乱期に乗じて財をなした、というのはよく聞かれる話であり、実
際のところ、裏ではかなり悪どい事にも幾度となく手を染めた筈だという想
像は容易だった。だが本当のところは誰にもわからない。結果的に富や名
声を勝ち取った者だけに、黒い噂話が次から次へと生まれて来るのは、通
俗的だがよくある事である。
 それにしても、トリム電子産業・会長、正木英嗣の影響力は半端ではな
かった。日米通商産業連盟の顧問でもある彼の発言力と影響力は絶大で
あり、為替相場にさえ波及するという。加えて、アメリカ政府の要人とも大
半は顔馴染みで、現CIA長官のマイク・ホフマン氏とも、プライベートな交流
があるらしいという噂だった。
 七十を越えても今なお、世界中を精力的に駆け回る彼こそは、まさしく現
在の日米の電気電子産業界の『帝王』と呼ばれるにふさわしい人物だった。
 今やトリム電子産業は、日本のと言うよりも『世界のトリム』が通り名にな
っているくらい、ありとあらゆる方面に進出している。豆電球から不動産まで、
およそ取り扱っていない物を探した方が早いくらいである。電気製品は言う
に及ばず、原子力発電プラント、芸能プロダクション、海外不動産、レジャー
施設などを始めとして、近頃では保険業界にも進出している。
 だが所詮トリムは、正木会長のワンマン会社にしか過ぎない。トリムほど
の世界的規模の会社ともなれば、通常はその会社経営において、社長や
副社長の他に数名の専務や常務、さらには理事、監査役などの肩書きを
持つ人間が少なくとも数十名、スタッフとして参画していて当然である。だ
が「会社経営に多くの船頭は必要ない」と言う会長の鶴の一声で、現在の
専務一名、常務二名、取締役七名のみの経営陣が出来上がったのである。
そして現在まで、副社長は存在していない。
 一方で「英雄色を好む」の例に漏れず、正木会長がかなりの女好きである
事は、公然の秘密であった。すでに夫人は正木会長が五十になる前に没し
ており、その後はそのあり余る財力にものを言わせ、幾多の若く美しい女性
達を手に入れてきた筈だった。それは傍から見ても、羨ましいという気持ち
を通り越して、最早呆れてしまうくらいであった。それが桑田の知っている現
実である。そしてそのために、今もこうして、余計な事で頭を悩ます羽目にな
っているのだった。

「で、何とかなりそうなのかね」
「はい。彼女が申しますには、これくらい出す気があるのなら、考えてみて
も良いと。ただし考えてみても良い、と言ったのであって、オーケーすると言
っている訳ではありませんので」
「ああ、それはいい。で、一体いくらと言ったんだね」
 佐々木は、黙って指を一本立てた。それを見た桑田社長が、小さく頷いた。
「我々には縁がないから高い気がするんだが、まあ会長の愛人の相場として
は、そんなところだろう。月百万、か」
「いえ、社長。それが違うんです」
「何だって。違うって君、まさか」
「月一千万出すのなら、考えても良い、と」
「そんな、法外な」
 桑田社長は唖然とした。開いた口が塞がらないとはこの事である。
「ですが彼女は、金額を問題にしている風ではありませんでした。そのくらい
吹っ掛ければ、二度と愛人の話など持ち出さなくなるだろうと踏んでる様です。
彼女自身、この話には余り乗り気ではないように感じられましたが」
「なるほど、そういう事か。わかった。その線で会長には今度話してみよう。奴
さん、ビックリするだろうな。ま、ちょっとは懲りてもらった方が、本人の為だ」
 佐々木がふと時計を見ると、既に昼食の時間になっていた。
「申し訳ございません、勝手に長話をしてしまいまして。確か今日は、お昼から
外出の予定がございましたよね」
「うん、実はそうなんだよ。メーカー会が一時半からだから、そろそろね。ま、こ
の話は後日、もう一度相談するとしよう」
 佐々木は平身低頭した。彼は桑田社長の為にこれまで働いてきたと言って
も良いくらいに、彼をサポートしてきた。一方の桑田の方も、佐々木に対する
信頼には揺るぎないものがあった。
 気の合う者同士という関係で、どちらも社長、常務という肩書きには、必要以
上にはこだわっていない風であった。もっとも桑田の方はそれで良くても、佐々
木の方はそうはいかない部分が多かったが。
「では、社長。私、これで」
 深々と礼をして退室しようとした佐々木に、桑田社長が
「佐々木君……」
 と言いながら近付いて来た。
 佐々木が真近であらためて見ると、桑田社長の髪の毛の白い部分が、つい
数日前に会った時よりも、少し増えている様な気がした。
「佐々木君、例の件。大変申し訳ないが、どうか、どうかこの通りだ。よろしく頼
むよ」
 そう言うと桑田社長はあろう事か、何と佐々木に向かって深々と頭を下げた。
この予想外の桑田社長の行動に、佐々木はビックリした。
「しゃ、社長!そんな……何をなさるんですか。どうか頭をお上げ下さい」
 思わず駆け寄る佐々木だったが、その桑田社長の目が涙で潤んでいるのを
見て、再びたまげてしまった。
「いや。こんな仕事でも何でもない私事を君に押しつける私が、一番責められる
べきなんだ。会長に頭の上がらない私を、どうか笑ってやってくれたまえ」
「社長……」
 佐々木とて、正木会長の公私にわたる無理難題は、誰よりも一番良く知って
いた。桑田が頭を痛めながら、これまで処理してきた事も、充分承知している。
「これで最後にしたい、そう思っている」
「社長……」
 どう返事してよいものやら、佐々木には二の句が告げなかった。ただ黙って、
真近の桑田の涙を見つめるだけだった。
「だから、だから、佐々木君。お願いだ。しかし私とて君のその努力は、絶対に
無駄にはしないつもりだ。信じて欲しい」
「社長!」
 二人は互いの手を握り合ったまま、目にうっすらと涙を浮かべ、じっと見詰め
合っていた。

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2007年10月14日 (日)

RobbinⅠ-帝王の花嫁- 第一章(2)

 トリム電子産業の社長室で、二人の男がテーブルを挟んで、額にしわを寄
せ合いながら密談していた。一人は社長である桑田裕一郎、もう一人は常
務で実質上の彼の片腕、佐々木安孝だった。
「ところで、社長。この前おっしゃってた事、あれは本気なんですか」
「ああ、会長の勇退勧告の話か。もちろん本気さ。当然本人は怒り狂うが、
何処まで周りに根回し出来るかが勝負の分かれ目だろう。その後の株主総
会への対処も考えなきゃならん。会長に牙をむく以上、負ければ私にはもう
後がない」
「その事なんですが、秘かに黒田専務が動いているという噂があるんですが」
「何だって。一体、何処から」
「わかりません。いつの世も、蝙蝠のような世渡りの上手な奴はいますからね。
私が申し上げるのも僭越ですが、充分ご注意下さい」
「ありがとう、だが一体誰が…。わかった、今後は充分気を付けよう。ま、それ
はそれとして、そろそろ本題の仕事の話に入ろうか」
 ともすれば憂鬱になっていく気持ちを振り払うように、桑田社長はそう言った。
佐々木も苦笑せざるを得なかった。やがて先程とは打って変わった業務の話
に、二人は時間のたつのも忘れるほど、熱心に協議し始めた。

 サービス部門の責任者である佐々木は、従来からの体制に疑問を抱き続け
てきた一人でもあった。かつてエンジニアだった経験から、現場の人間のやる
気を引き出せる体制に向け、改革に徐々に乗り出しつつある。
 だが好景気とは言えぬ昨今、世間の風潮はコスト削減と、それにからむリス
トラに他ならなかった。もちろん世界のトリムとて例外ではない。そしてそれは
特に、佐々木が守ろうとするサービスの現場には、一番風当たりが強かった。
佐々木はとりわけ、コスト削減に伴うサービス現場への締め付けを危惧してい
た。表面上の数字の辻褄合わせに終始しがちな状況を憂い、現場の人間がや
る気をなくしている現状を訴えた。
「もう、限界だと?」
 その桑田社長の言葉に、佐々木は力強くうなずき、続けた。
「原因は、申し上げにくい事なんですが、これまでのサービスの体制から来る
ものかと」
「体制とは、どういう事かね」
「最近は特に、製品が多種多様化し、新技術が導入されたセットが急速に増え
つつあります。加えてモデルチェンジも、以前よりかなり早くなっています。
 ところが各営業所では、これまで経済成長と共に年々増大してきた台数処理
に追われ、目先の生産性や効率を優先してきた結果、最優先すべきエンジニア
の技術的育成が後手に回ってきました。つまり技術力が新しい製品に追従でき
ていないのです。
 この状況が今後も続けば、この先三年後、五年後のトリムサービスは惨々たる
ものになります。信頼できる部下からの報告データとも合致しますので、まず間
違いないでしょう」
「抜本的な体質改善が急務、と言う訳だな」
 桑田社長は困惑の表情で、腕組みをして考え込んだ。
「で、どうすれば良い、と君は考えているのかね」
「はい。残念ながら従来の概念の枠を越えた、フレキシブルな発想の出来る人
間がいない、と言う事になりますから」
「だから?」
「まずは、思い切った人材の刷新かと」
「しかし佐々木君、その人材は一体、何処から持ってくるのかね。各社が同じ方
向で動いている以上、君の理屈から行くと、横レベルの人事異動は意味がない
ように思えるが。それにその状況では、次の世代の人材が育っているかどうかも
疑問だね」
「かつての、全国展開でシェアを拡大した時の様に、若いパワーを前面に出して、
会社全体を引っ張る図式を再現する必要があると考えます。ですので、まずは社
内応募で若い人材を募りたいと考えています。最終的には私が面談をして、精鋭
メンバーを集めます。
 所定内生産性を追求する事は、確かにトリムが存続するために必要不可欠です。
ですが同時に、余裕のないサービスの現場からは、期待以上のものは何も生まれ
ないのも事実だと思っています。
 カスタマー・サティスファクション実行面において、サービスとはパワーなんです。
エンジニア全員が所定日数出社する事を前提に、ぎりぎりの状態で組まれている
今のサービスに、余裕のある、心のこもったユーザーへの対応を期待する方が酷と
いうものです。そもそもサービスを数字で計ること自体に、無理があるとは思われま
せんか。表面上の数字には決して出てこない、販売にフィードバックされていく要因
も無視できません」
「ふ、相変わらず手厳しい意見だな。管理職の発言にしては少々、考え方が若過ぎ
るがね。だがいつまでもそんな考え方が出来る君が、正直言って羨ましいよ」
「恐れ入ります。自分でも判ってはいるのですが、つい本音で物を言ってしまうもの
で。現場の人間の立場で物を言う癖が抜けきらないんです。ですから私は人の上
に立つ器ではない、と常日頃から申し上げている訳でして…」
「ふふふ、私との時はいいさ。だが黒田専務や松岡常務がいる時は、控え目にして
おいた方がいいよ、佐々木君」
「はい、申し訳ございません。充分に気を付けます…」
「……佐々木君、ところで例の件だが。どうかね、その後の進捗は」
少しの間を置いて、桑田社長が尋ねる。口調が先ほどとはうって変わっていた。

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RobbinⅠ-帝王の花嫁- 第一章(1)

 若いという事がそれだけで充分武器になる事を、すでに若さを失った世代
の男が実感させられる瞬間は幾らでもある。特に若い女性相手のベッドの
上では、年甲斐もなく奮い立っても肝心の身体の一部が言う事をきかない
と、焦りと同時に少しみじめな気持ちになる。今の彼がそうだった。世界的
に有名な日本を代表する企業、トリム電子産業の専務として昼間は毅然と
した態度で仕事に臨む彼も、夜のベッドの上では普通の歳相応の中年男
性に戻ってしまう。
「うふふ……。いや」
 八木光江は甘い声で、形ばかりの抵抗を示した。そう振る舞う事がいっそ
う男の欲望を駆り立てる事を、彼女は本能的に知り抜いている。彼女は今
やメディアに登場しない日はないくらいの、超売れっ子モデルである。左胸
の上にほくろが三つ、三角形を形作っているのがトレードマークだった。彼女
の人気が一気にブレイクしたのは、一年ほど前のトリム電子産業のCMに出
演してからだった。その好感度に徐々に人気が出始め、それがきっかけとな
り本業以外のタレント業にも引っ張りだこで、司会からバラエティまでをそつ
なくこなし、その頭の回転のいい受け応えが茶の間で幅広い人気を呼んで
いる。
「あ……」
 自分の若く張りのある肉体が、男を虜にしている事が、彼女に満足感を与
えていた。人並み以上の美貌を武器に、若い今のうちに男から富も名声も、
ありとあらゆる物を吸い取ろうとしていた。そうする事がこれからの自分の人
生を、楽しく享受出来る唯一の方法だと、彼女はこれまでの経験から本能的
に知り抜いている。
『自分に与えられた魅力的な肉体を武器にして、何処が悪いのよ。生まれつ
いて私が授かってる運なんだから、当然の事よ』
 それが彼女の本心だった。もちろん相手の男とて馬鹿ではないが、彼女の
さらけ出された若く魅力的な肉体の挑発を目の前にすると、つい欲望が先行
してしまう。彼女の行為中のそれは、若いにも関わらず、経験が非常に豊富
である事を物語っていた。そして逆にそれが、相手の男の欲望を一層駆り立
てていた。
「光江!」
 男は彼女の名を呼び、やがてそれまでの激しい動きが止まった。荒々しい
呼吸をしながら、男が彼女の中で果てたまま、自分に身体をあずけて来るこ
の瞬間が、八木光江はたまらなく好きだった。
 しばらくの間、二人は互いに抱き合ったまま、じっと余韻を楽しんでいた。
何度となく交わすキスや手をからめる仕草は、二人の仲が長いことを物語っ
ている。やがて男の方から身体を離すと、彼はいつものように枕元の煙草に
手を伸ばし、旨そうに一服した。
「ねーぇ、専務さん。私、お小遣いなくなっちゃったの」
「何だ、またか。しょうのない奴だな」
 黒田文彦は背広の内ポケットから財布を取り出すと、数枚の一万円札を無
雑作に彼女に手渡した。彼女は別に悪びれた様子もなく、片手で長い髪を掻
き上げながら、もう一方の手でそれを受け取った。
「ありがと、専務さん」
 そう言うと彼女は、黒田ににっこりと微笑んだ。
「会長からたんまり手当てを貰ってるだろうに」
「だってぇ、なくなっちゃったんだもの」
 そう言うと彼女は、可愛い舌をペロッと出して言った。若い八木光江が時折
見せるそういう仕草が、黒田にはたまらなく可愛いものに映る。
「会長とは、時々は会ってるのか」
「うん。でも多くても、月に一度ってとこね。最近は海外行ってる事が多いみた
いだから、滅多にお声がかからないけど」 
「そうか」
「ねえ、ところで。私、今月、まだなんだ」
「まだ、って。何がまだなんだ」
「決まってるじゃない」
「おい、まさか」
「そうかもよ。どうしようかァ」
 彼女はいたずらっぽく笑いながら言ったが、さすがに黒田は内心慌てた。トリ
ム電子産業・会長、正木英嗣の現役の愛人の一人に、自分がこうして手を出し
てしまっている事がもしも彼に知れれば、絶対にただですむ筈がなかった。彼
は会長派の最右翼の立場にいる人間なのだ。
 これまで正木会長の贔屓があったからこそ、彼は今の地位を得る事が出来
たのである。だからこそ余計に、会長の逆鱗に触れるような事は慎まねばなら
ず、黒田が八木光江と関係している事も、絶対に悟られてはならなかった。そ
もそもはCMが好評だったことでトリム本社に招いたのがきっかけで、その際に
彼女の方からモーションをかけてきたのだが、二人の関係を悟られぬよう黒田
はこれまで、それこそ細心の注意を払いながら密会を重ねて来た。
 今のトリム電子産業・専務という社会的地位は、一介の人間が望んでも実力
だけではとうてい一生かかっても到達出来ない所にある。またそこまで昇りつ
めるためには、その人間の持つ運も大きく左右してくる。せっかくこれまで苦労
して築き上げてきた社会的基盤を、今さらたかが一人の女のために棒に振りた
くはないと言うのが本音でもあった。社長の椅子が欲しいわけでは決してない
が、やがて会長亡き後は、迷走するであろうトリムを先頭に立って引っ張って
いくのは、誰でもない自分の責務だという自負がある。
『…こいつ、俺を脅そうってのか』
「そんな怖い顔しないで。あのおじいちゃんの相手も結構疲れるから、私の身に
もなって欲しかっただけよ。心配しないで、からかっただけだから」
 悪びれもせずにあっけらかんとそう言うと、彼女は枕元の時計に目をやり、時
刻を確認した。そして小さく「あ、いけない」と言うと、彼女はベッドから身を起こ
し、急いで身繕いを始めた。
「ごめんね、もう行かないと。これからスチール写真の撮影があるの。こう見えて
も私、結構忙しいのよ。来週はタヒチで久し振りのグラビア撮影がある予定だし、
また帰ってきたら会いましょ。電話入れといてね」
 そそくさと光江はドアの方に歩いて黒田の方を振り返ると、にっこり笑いながら
そう言った。
「じゃ、またね。お土産買ってくるからね、楽しみにしといて」
「ああ、気を付けてな。あんまり若い男と浮気ばっかりするんじゃないぞ、光江」
「わ、焼きもちやいてるんだ。そんな風に言われると、かえって浮気したくなっち
ゃうな、私…じゃあ、ね」
 幼い子がするような仕草で、胸の前で手を振りながら、彼女はドアを半分開け
た。次にやや真顔になって、彼女は言った。
「でもね、今月まだない、って言うのは本当なの」
「どうする気だ、お前」
 光江はしばらく黙っていたが、やがてはにかむように言った。
「私……あなたの子供なら、産んでもいいな」
 そう笑顔で言うと、彼女はドアをパタンと閉めた。後に残された黒田はしばらく
考えていたが、やがて大きく溜息を一つ付いた。そして吸っていた煙草を灰皿で
荒々しく揉み消すと、バスタオルをつかみシャワールームに向かった。

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2007年10月13日 (土)

作者の簡単レビュー 【その3】

RobbinⅠの時代設定は、バブル期にあたる1988年頃になります。どうしてその頃かというと、早い話が主にその頃書いていたから、という単純な理由なんですけどね…。robbinが誰なのか、はバレバレなんですけど、まぁご勘弁下さい。
いちおう各章ごとに、終わったら少しコメントを入れようと思ってます。と言うわけで、次からは第一章に突入です。

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RobbinⅠ-帝王の花嫁- プロローグ(5)

「ロビンを呼べ」
 電話の相手の男は、同じ事を繰り返して言った。
「ろ、ロビンさん、ですか」
 そう言って彼女は喫茶店の中を見渡した。外人など、いないのだ。
「あの、ロビンさんっていう方は、いらっしゃらないようなんですが」
「いるはずだ。ロビンを呼べ!」
 相手の高圧的な言い方に、洋子は内心ムッとしたが、ひょっとして日本人の
ように見えても、出身が中国や東南アジア系あたりの人間もいるかも知れない
と思い直し、店内の誰に言うともなく少し声を荒げて言った。
「すみません。お客様の中で、ロビンさんって方、いらっしゃいますか」
 反応は予想した通りだった。
 アベックは知らん顔して、額をくっつける寸前で話を続けたままだし、会社員
らしき二人の男も一時会話を中断したが、またすぐ再開した。中年の厚化粧の
女性は、知らん顔で煙草をふかしている。もう一人、カウンターに腰掛けている
学生風の男がいたが、彼はカウンターの上に広げた文庫本を相変わらず熱心
に読み続けていた。他には津田と洋子と木島がいるきりだった。
 津田は、と見ると、木島がカウンターの上に置いたコーヒーを、自分で取りに
来ている。特に今の洋子の発言に関心を示した人間は、誰一人としていない
ようであった。それらを全て確認した上で、洋子は電話の相手に言った。
「あの、やはり、いらっしゃらないようです」
「いる筈だ。ロビンを呼べ」
 相手の男は、先程と同じ事をまた繰り返した。ほとほと困り果て、洋子は木
島を見た。かなり思い入れが激しい相手のようだった。
「どうした?」
 脇から首をはさむ様に、津田が聞いてきた。彼はカウンターの所へいつの間
にか、ちゃっかり席を移動し、その場所でコーヒーに砂糖とミルクを入れ、無事
にかき混ぜ終わったところだった。その時の彼女にとって、津田はまさに救い
の神に見えた、渡りに船とはまさにこの事だった。彼女は受話器を手でふさぎ
ながら、眉間にしわを寄せ、小声で津田に言った。
「変なのよ。ロビンって人を出せ、って一点張りなの。いない、って言っても『い
る筈だ、ロビンを呼べ』って言うだけなのよ。間違い電話だと思うんだけど、しつ
こくって」
「間違い電話か。よし、俺が代わってやろう」
 そう言うと津田は、洋子から受話器を取り、気軽に電話に出た。
「もしもし。こちらは喫茶店のアルファっていう所なんですけどね」
 相手は津田に何かをぼそぼそ喋っている様だが、洋子には聞き取れない。
「ですから、ここには今、そう言う人はいないんですよ。電話をかける先を間違
えてられるんじゃないんですか。何番におかけです」
 相手はまた、何かをぼそぼそ喋っている様だった。洋子にとってはしゃくにさ
わる事だが、同じことを女の自分が言っても相手は納得しないだろうと思う。残
念ながら所詮は日本がまだまだ男中心の社会なのだという事を、こういう時に
痛感するのだ。それが彼女には腹立たしい。
「番号はそうですけど、違うみたいですね。ええ、そうですね、その方がいいと
思いますよ。それじゃ…」
 津田は受話器を置いた。話は予想外に簡単に終わったようだった。
「やれやれ、せっかくの煎れたての旨いコーヒーが冷めちまったよ」
 そう言いながら津田は、少し音を立ててコーヒーを一口すすった。
「何て。どうなったの」
 野次馬精神旺盛で、洋子は津田に尋ねた。
「電話番号は合ってるみたいだったんだ。もう一度確認したほうがいいなって
言って、しぶしぶ納得して、電話を切ったよ。それで終わりさ」
「なあんだ…」
 あっけない幕切れだった。
 やがて、客も一人帰り二人帰り……と、いつの間にか客で残っているのは
津田だけになってしまった。アルファにもやっと、いつもの見慣れた風景が戻
って来た。洋子の持って来た『ベスト・オブ・イーグルス』が、どうやら今日の
BGMらしかった。
「さあーて、と」
 津田はそれからしばらくしてから、やおら席から立ち上がった。
「あら、どこかへお出かけなの」
 洋子はニコニコしながら、意地悪く聞いてみた。
「うっ。洋ちゃん、良く言うなァ。誰だい、さっき俺に、日曜なのにどこへも出か
けないのは不健全だ、みたいなことを言ったのは」
津田が笑顔で、少しすねたような口調で言った。
「あら。私にそう言われたから出かけようって気になるなんて、津田さん、ずい
ぶん殊勝な心掛けじゃない」
「あれ、知らなかったっけ。昔から根は素直なんだよ。じゃ、また」
 そう言うと津田は、木島にちょっと片手を上げると、そのままアルファから出
ようとドアを手で押しかけた。それを見て慌てた洋子が、大声で叫ぶ。
「ちょっとちょっと、津田さん。コーヒー代」
「あぁ、ごめんごめん。今、持ち合わせがないんだ、給料前だから。ツケといて」
「ツケといて、って。ちょっとォ、津田さんってば」
 呆れて洋子は大声で津田を呼び止めようとしたが、すでに津田は笑いなが
らアルファのドアを開け、小走りに駅の方に走り去って行った後だった。
「もう。マスター、どうしましょう」
 洋子はふくれっつらで木島に尋ねた。木島は笑っていた。
「まァ、まァ。いいじゃないか。住んでる所も知ってるし、踏み倒すこともないお馴
染みさんなんだから、たまには」
「甘いんだからァ」
 とんでもない人間だ、と洋子は思った。
「今どき給料前でお金がないからって、喫茶店のコーヒー代つけといて、なんて
人間いませんよォ。お金がないのなら、わざわざコーヒー飲みに来なきゃいいじ
ゃないの。早い話が、無銭飲食やったのと似たようなもんじゃない!」
「まァまァ」
 木島が笑いながらなだめるのを尻目に、洋子はしばらくの間、一人で憤慨して
いた。

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2007年10月 7日 (日)

RobbinⅠ-帝王の花嫁- プロローグ(4)

 翌朝は、前夜の雨も嘘だったかのように真っ青な空が広がり、東京は一気
に秋の気配を増していた。ここ喫茶「アルファ」でウェイトレスのアルバイトをし
ている白鳥洋子は、常連になってしまっている一人の男を、しげしげと眺めて
いた。
『常連なのはありがたいけど、この人、やっぱりちょっと変わってるわ。常識の
枠っていうのが、ちょっとズレてるのよね…』
 彼は一番奥のテーブルで、一人旨そうにコーヒーを飲みながら、時々口を
への字に曲げ、何やら報告書らしき物を書いていた。小さめの椅子の上で器
用にあぐらをかき、例によって煙草を吹かしながらである。
 勤め先の自分の机の上で書けばいいものを、と洋子は思うし、その辺が少
々彼女としては理解しかねる部分でもある。だが彼の場合は必ずと言ってい
いほど、この喫茶アルファの彼が勝手に決めている自分の指定席に陣取り、
そのような類の作業をしていることが多かった。
 彼がこの喫茶店を愛用している理由は、彼女は知らない。だが彼女がここ
に、半年前にアルバイトの応募でやって来た時には、既に彼は常連だった。
間違いない事と言えば、彼女目当てに急に日参し始めたわけではない、と
言う事だった。
 ただし本当のところは、彼女には判らない。だが少なくとも、日頃の言動の
端々には、そういう下心らしきものは微塵も感じられなかった。それが救いと
言えば救いなのかも知れない、と洋子は思っている。
「よーし。出来た、出来た」
 彼は、独り言とは言えないほどの声でそう呟き、冷めたコーヒーを一気に
飲み干した。洋子にとっては今まで出会ってきた男達が、余りにも常識的で
平凡すぎたせいもあるのだろうが、その男が特に風変わりに感じられて仕方
なかった。彼の就いている職業自体も、彼女にとってはちょっと変わっていた。
探偵、なのである。
 だが探偵と言っても、よく推理小説に出てくる、颯爽とした私立探偵ではな
い。浅見探偵事務所という所に勤務しているので、正確な肩書きは興信所の
調査員ということになる。敢えて言うなら、サラリーマン探偵とでも言えばいい
のかもしれない。
 それに洋子の持っている『探偵』というイメージは、かなり映画や小説の影
響を受けた物である。それと比べる事自体に無理があるわけで、まともに定
職についているだけマシだと言えるのだが、洋子に言わせれば「変わってる」
ということになるらしい。

 津田の声につられ、そちらの方に顔を向けた洋子は、あらためて彼の表情
や顔立ち、仕草を観察してみた。今まで意識的に見たことはなかったが、顔
立ちはそれなりに結構いい線をいっている。身長もかなり高い方で、百八十
位はあるように見えた。体格も決して華奢な部類でない事は、着ている半袖
のポロシャツ越しに判る。
 年齢を正面切って聞いてみたことはないが、彼女自身は外見上から判断し
て、三十前後ぐらいだろうと思っている。大雑把に真ん中で分けた髪を、かき
あげる仕草も嫌味がなかった。総合評価では、結構カッコイイ部類に入りそ
うな気もするが、かと言って今のところ、洋子が特別な感情を彼に対して抱い
ているわけではない。
「おーい、洋ちゃん。コーヒーお代わりくれるゥ。あ、それとお水もね」
 良く通る少し大きめの声で、彼は空になったコップを持ち上げながら、にこや
かに洋子に言った。
「はいはい。マスター……だそうです」
 彼女は呆れ顔で、カウンターの方に顔を向けながら言った。今日はこれで
三杯目の注文である。ささやかながらでも店の売り上げに貢献してくれるの
はありがたかった。
「はい了解。ブレンド一つね」
 カウンターの中で、マスターの木島が少し笑いながら応じた。日曜日の午
前中なので、日頃の午前と比べれば多少は忙しいとは言えるが、今彼が
座っている以外の三つのテーブルは、アルファにしては珍しくそれなりに埋
まっていて、結構繁盛していた。

 かつて洋子はアルバイトを始めた当初、こんなに客が来なくてこの店は商
売が成り立っていくのだろうかと、他人事ながら心配になり木島に尋ねたこ
とがあった。最寄り駅である国分寺の駅周辺は、決して小さくない。だがア
ルファは、南口の表通りから一本入った路地に、ひっそりと目立たぬように
静かに存在していた。
 場所的には不利だし、特に派手な宣伝をしている訳でもない。どこかの駅
前で今風の音楽を流し、若い男女で一杯になっている様な、モダンなガラス
張りの明るく洒落た喫茶店とは訳が違うのだ。今までにアルファの中が満席
に近く埋まった光景を、洋子は一度も見たことがない。もっとも正規の従業員
ではないのだから、そんな心配はしなくても良いことだった。アルバイト料さえ
きちんと貰えれば文句はないのだが、どうも彼女の性分として、黙って放って
おけないのだ。
 マスターの木島は洋子がそう尋ねた時、「そんな心配は無用さ。どうせ道
楽でやってるんだから」と、即座に一笑に伏した。逆に木島にそう自信たっぷ
りに言われたので、ああそうかと単純に納得してしまった洋子であった。
 喫茶アルファも以前はBGMにカセットテープを使っていたが、最近では時
代の流れでCDを使い始めている。洋子がお気に入りのCDを持って来ると、
木島は嫌な顔一つせず、気軽にかけてくれる。そんなアット・ホーム的な雰囲
気を持っているのがここなのだ、と洋子は思う。ここは彼女の最高にお気に入
りの場所の一つだった。
 ついつい大学から足が遠退くようになった代わりに、アルバイトの時間が多
くなってきているのも、そのせいだった。今や従業員なのかアルバイトなのか、
わからない位であった。いつまでアルバイトを続けるかはまだ決めてないが、
このまま当分ここで働くのも悪くない、と彼女はこの頃思い始めている。ここは
そのくらい今の自分の性に合っている場所だ、と思えてならない。

 だが彼女にとっての唯一の難点は、数少ない常連の中に一人だけ、口の悪
い、ストレートに物を言う人間がいることだった。本人は別に悪気があってやっ
ているわけではさらさら無いのだが…。それが今、一番奥のテーブルを定位置
にしている男、つまりはサラリーマン探偵の津田宗弘なのである。彼の空にな
ったグラスに水を注ぎ終わると、彼女は皮肉たっぷりに言った。
「津田さん。花の日曜日なのよ、今日は。一人で朝からこの喫茶店で生活する
つもり?いい歳した大人が、もう少し健全な余暇の過ごし方、思い付かないの」
「はァ?」
 津田は、何で自分が突然、洋子に説教される羽目になっているのかわけが
わからず、ただ唖然と目を丸くして洋子を見ていた。
「はァ、じゃないわよ。全くゥ」
 彼女にすれば、津田のこのような時間の過ごし方を見ていると、不健康その
もののように思えてならないのだ。本来それを津田に言うこと自体が余計なお
せっかいなのだが、洋子は性格上黙っていられなかった。
 自分でも、思った事をついズバズバ言ってしまう男勝りの性格は直した方が
良い、と常日頃から思っているのだ。だが特に津田と接している時など、自分
でも思いもかけないキツイ言葉が、ポンと出て来たりする。彼女はそれを、津田
の持っている雰囲気に自分が一時的に染まってしまうからだ、と自己分析して
いる。要は、全ての元凶は津田にある、と思っているわけである。
『あーあ、いつまでたってもこれだから、彼氏が出来たって長続きしないんだろ
うな。損な性格だわ』
 その時、入り口の近くにある電話が鳴った。
「はい、喫茶アルファでございます」
 自分でも結構よそ行きのすました声だなと思いながら、洋子は電話に出た。
ちょうど木島が、津田の分のコーヒーを、カウンターの上に置いたところだった。
「もしもし、喫茶アルファでございますが」
「………」
「もしもしィ!喫茶アルファですが」
 洋子の声は、急にいつもの調子に戻った。一瞬いたずら電話かと思い、切ろ
うとした。
「ロビンを呼べ」
「は?」
 突然言われても洋子には、何の事やらさっぱり意味が判らなかった。

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2007年10月 6日 (土)

RobbinⅠ-帝王の花嫁- プロローグ(3)

 とうに過ぎ去ってしまった事の中でも、記憶の淵に埋もれずに、今でも輝
いている思い出は、誰にでも一つくらいはある。彼にとってはブラック・ロー
ズ時代が、それだった。しかし、いつまでも過去の思い出と共に生きていけ
るほど現実は甘くない。その事を彼は、帰国後にいやというほど思い知らさ
れた。
 最初のうちは、何不自由ない生活が送れ、住んでいたのも山手線内の1L
DKの超高級マンションだった。帰国後しばらくしてから社会人として溶け込
もうとはしたが、傭兵時代の報酬に匹敵するだけの収入を得る事は、日本
ではとうてい不可能だった。
 経歴上も傭兵であった事は絶対