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2007年8月31日 (金)

イーグルからの帰還 4

 次の日は、不思議な事に取り調べはなかった。遂にあきらめられたんだろうか
……。兵士がやって来て、いきなり銃殺されるんじゃないだろうか、っていう気持
ちで、逆に僕はビクビクしていた。
 その次の日の夕方、不意に兵士が二人やって来た。
『殺される!』
 僕は直感的にそう思った。いつまでもこんな僕らに関わっていられないのだろう。
錠を外す音が、静まり返った独房内に響く。
「出ろ!」
 兵士の一人が、銃で手招きしながら、そう言った。僕は観念して立ち上がると、
言われた通りにした。今さらじたばたしたって、逃げられるわけでもなかった。銃を
背中に突き付けられたまま、僕はその独房から出て、歩かされた。でもいつもの
取調室へ行く道ではなかった。
  急に、広い庭に出た。きれいな花壇だ。噴水もある。大きな木が何本か植えられ
ていて、小鳥がさえずっている。まるで、ペルシャか何処かの王宮の庭のような感
じだ。一瞬、夢の世界にでも紛れ込んだような気がした。
 庭を横切り、その白亜の建物の中に入る。絨毯の感触が足に心地よい。突き当
たりには大きな風景絵がかけられ、その両側にブロンズの等身大の女性像がある。
突き当たりを右に曲がる。すぐ左に階段があり、そこを登って二階に行く。二階に出
て、さらに左側にしばらく歩く。広い建物だ……。行き止まりに部屋がある。僕の前
にいた兵士が、そのドアをノックする。
「連れて来ました」
「お入り……」
 若い女性の声がした。どこかで聞いたような……。ドアが開かれる。兵士がうや
うやしく遠慮がちにその部屋に入る。僕も背中の銃に押されて続く。
「御苦労様でした。あなた達は下がっていなさい」
「はっ!」
 と、兵士は二人ともその部屋から出て行った。その女性は、僕に背を向け、ベッド
に腰掛けたまま、窓の外を眺めていた。彼女は不意に立ち上がると、僕の方を向い
た。
『アデニー!』
 僕は心の中で叫んだ。多分、唖然とした表情をしていたんだろう。彼女がクスッと
笑う。
「そんな所に立ってないで、お座りなさいな……」
 と、ソファーを指差した。
「どうして、君が……」
 狐につままれているような気分だった。なぜ、この娘がここに……?
 僕の前のソファーに腰掛けた彼女と、僕は向かい合う形になった。
「苦労したのよ、貴方を釈放してもらうのに」
「釈放?」
「そうよ。もっとも、私のそばにいる事が条件だけど……」
「君は一体?」
「私?……この国の王女よ。一人娘、と言ったところかしら?」
 笑顔の似合う女の娘だ。僕は矢継ぎ早に質問を浴びせた。
「何故、僕を釈放したの?危険人物かもしれないのに……」
「貴方に興味を持ったのよ。だからお父様を説得したの」
「他のみんなは?」
「心配ないわ。みんな無事よ。そのうち、会わせてあげるから……」
「この国は、モラビア連邦共和国、って言うの?」
「そうよ」
「今、西暦何年何月何日?」
「西暦19××年8月12日よ、今日は」
「この国の緯度は?」
「そうね……北緯15度から40度位まであるかしら」
「この国は、何年位前からあるの?」
「お父様で52代目かしら……。西暦以前から、あるわ」
 そんなやりとりの後、僕はフッと、壁に貼ってある世界地図が目に止まった。
「これが、世界地図なんだね……」
「そうよ……よく見て」
 見た瞬間、やっぱり、いの一番に日本を探してしまった。
『あった!』
 日本は確かに存在している。形もいっしょだ。
「アデニーさん、いや、姫」
 思わず、僕は叫ぶように尋ねた。
「この国の名前は?」
 僕は、世界地図の中の日本を指して、聞いた。
「アトラス王国」
 彼女はすぐさま答えた。
「アトラス…王国?」
「そこなの?貴方が言っていた『日本』って言う国は?」
「そうだよ。この国で、僕は生まれ育ったんだ」
「それは、違うわ」
 彼女は即座に否定した。えらく自信たっぷりに。
「どうして?」
「だって、アトラス王国は、黒人だけの国よ。黒人以外の人種に永住権は与
えていないはずだわ」
「え?!」
 もう、頭が爆発するんじゃないかと思ったくらい、ショックだった。気を取り直
して、アメリカのちょうどグランドキャニオンあたりを指して、僕は念のために
尋ねてみた。
「僕達は、今、ここだろう?」
 彼女は首を横に振った。
「じゃあ、こっち側?」
 僕はニューヨークとかアトランタの付近を指差した。
「全然、違うわ」
「え?そんな馬鹿な……。じゃ、今、何処にいるの?」
「ここよ……」
 彼女は立ち上がると、僕の左側に来て、地図のある一点を指差した。
「え!?」
 僕は絶句してしまった。頭が現実について行けない。
「でも君は、北緯15度から40度位、って言ったじゃないか!」
「そうよ……」
 彼女はけげんそうな顔をした。
「だから、北緯15度から40度、って言うのは、この辺なのよ」
 彼女が指差した所、そこは、僕らの世界では、こう呼ばれている。
『オーストラリア』……と。

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2007年8月26日 (日)

イーグルからの帰還 3

 アスファルトの道の上をさっそうと僕らを乗せたバスが走っている。しばらく僕は
考えてみた。ベティにああは言ったものの、やっぱり不安は消えてくれない。太
陽が東から昇って西に沈むっていう事は絶対の事実だ、磁石が雷の影響か何か
で単純に北と南を指し間違ってる事になる。でもそうなると影が南にできてる訳
だから、南半球に僕らはいる、って事になってくる。北半球にいたはずの僕らが、
今南半球にいるなんてそんな馬鹿な事があるんだろうか?頭の中が混乱してる。
『でも、すると、ここはやっぱり、アメリカ?』
 湖に沿って、そのアスファルトで舗装された道は、最初のうちは多少曲がりくね
っていたけど、しばらく行くと一直線の道になった。遥か彼方の湖岸に、先程ボー
トらしき物に乗っていた人達が降りているのが、双眼鏡で確認できる。
「おい、あれは?」
 ファラデーが叫んだ。
「え?何?」
 僕らは皆、そのバスの前方を見た。ぽつんと、その道の向こうにあった黒い物は、
近付くに連れ、人だとわかった。しかし、銃を持っている。道はそこで遮断され、何
か僕らに対して合図しているようだ。
「何かあったのかな?……検問みたいだけど」
 トムが不安気に言った。
「大丈夫だよ。何も悪い事なんかしてないんだから」
 シュナイザーが言う。やがて僕らのバスは、その検問で停まった。検問といって
も、道路を走り高跳びのバーのようなもので簡易的に遮断してあり、銃を持ったま
るで兵士としか見えない人間が五人程いるだけだ。
「何処へ行くんだ?お前ら、見慣れない顔だが……何処から来た?」
 その兵士の一人が、銃を小脇に抱えたまま言った。
「アメリカフリーウェイバスで、デンバーからロスアンゼルスに行くとこなんですが、
道に迷ってしまったらしくて……」
  車を運転していたファラデーが、いかにも若者らしい爽やかな口調で答えた。
「?」
 という顔で、その兵士達はお互いに顔を見合わせている。
「あの……今日は、何年の何月何日ですか?」
 僕はおずおずと尋ねた。
「変な連中だな。今日は19××年8月8日だよ」
『今日だ!』
 皆、この答えを聞いてホッとした。タイムスリップしたわけではないらしい。
「北はどっちの方ですか?」
 シュナイザーが聞く。
「あっちの方だ……」
  彼が指差したのは、ちょうど僕らの磁石では南の方角だった。磁石が狂って、
南と北を指し間違えてたのは、本当だったようだ。しかし、最大の疑問点がまだ
残されている。シャーリーがおずおずと兵士に尋ねた。
「あのう……変な質問ばかりで申し訳ないのですが、ここは……アメリカ合衆国
……ですよね?」
「ちょっと待て!」
 別の兵士が制止して、彼らのジープに戻り、何か無線でしゃべっている。ほん
の20~30秒くらい喋って大きくうなずくと、彼はまた僕らの所に戻って来た。最
初に僕らに尋ねた兵士と小声で相談してから、僕らの方を向き直って、彼が言っ
た次の言葉………
「お前ら、さっきからアメリカだの何だのと言ってるが、何だそれは?そんな地名は
この付近にも、隣のイルペジュ連邦にもないぞ!」
「イルペジュ……連邦?」
 僕らは、思わず顔を見合わせてしまった。
「じゃ、ここは、一体?」
「モラビア連邦共和国だ!」
「えっ!!」
 少なくても、僕らの住んでいる、いや住んでいたと言った方がいいだろうが、地
球上には、そんな名前の国は存在しない。よしんば存在していたとしても、北緯
35度付近にはそんな名前の国はない。日本、中国、イラン、トルコ、ギリシャ、ロ
ーマ、スペイン、ポルトガル、そしてアメリカ……これくらいのはずだ。
「挙動不審な奴らだ。本部に連行して取り調べる」
「そんな……」
 その時、すでにその五人の兵士は、僕らに銃を突き付けていた。何がどうなっ
ているのか、今度こそ完全に僕らは混乱していた。兵士が二人乗り込んできて、
彼らのジープを先頭に、僕らのミニバスは走らされた。
 その検問所からしばらく走っていくと、道路の左側のその湖の岸辺に、多分さっ
きのボートに乗っていた人なんだろうが、その女性がチラッと僕らの方を見た。そ
の時、外を見ていたのは僕だけだった。みんな、進行方向の運転席のすぐ後ろに
立って僕らの方に銃を向けている兵士達に気を取られていたから。
 彼女は、僕が見ている事に気付くと、ニコッと微笑みかけた。あどけなくてかわ
いい笑顔だった。雰囲気から察するに、この国の身分の高い家柄の女性なのか
も知れない。まだあどけなさの残る、二十歳そこそこの女の子だった。
 そして、それが、僕とアデニーとの最初の出会いだった。


 何度同じ事を質問され、何度同じ事を答え、そして何度殴られ、何度死ぬかと
思ったことだろう……。僕達はモラビア連邦とか言うこの国の陸軍本部に連れて
来られた。三日前の事だ。全員、別々の独房に入れられた。そして取り調べは
連日、朝から夜まで行われた。もちろん、ここに入れられてからというもの、他の
みんなの顔は見たことがない。みんな無事なんだろうか……?
 たしかに、僕らの言うチンプンカンプンな事を信じてくれというのが、所詮無理
なのだろう……。かんじんの僕らだって、にわかには信じられない事だらけだ。
涙が自然に出てくる。淋しさもある、不安もある、でもやっぱりこの事態が理解
できない自分、っていうものがわからなくなってくる。
 不意に誰かが独房の前に立った。また、取り調べ……。そう絶望的な気持ち
になって顔を上げると、そこには、思いもかけない若い女性の笑顔があった。
この暗い独房の中が、急に華やいだようになった。
「やっぱり、貴方ね」
「あ、君は……あの時……」
 湖岸で僕に微笑みかけた女性だった。
「アルタスから聞いたんだけど、訳のわからない事ばかり言ってるんですって?」
「アルタス?」
「貴方を取り調べてた、陸軍の隊長よ」
「ああ……彼……」
 あの肥った、嫌味ったらしい男のことらしい。髭をたくわえ、その髭をなで回し
ながら、僕が困惑しているのをニヤニヤしながら眺めていた男だ。
「でも、本当の事なんだ。他のみんなも同じ事、言ってるはずだ。嘘じゃないん
だよ。でも、信じろという方が無理なんだろうけど……」
「もう一度、初めから、私に話していただける?」
 僕は必死になって、彼女にこれまでのいきさつを話した。一人でも、たとえ嘘
でもいいから、真剣に聞いてくれる人が欲しかったんだ。みんな、僕らを気狂い
扱いで、はなからまともに聞いてくれようとはしなかった。でも、この娘はきちん
と聞いてくれた。僕はそれが嬉しかった。だからと言って、どうなるものでもない
んだけれど……。説明し終わって、ややあって、彼女が溜息まじりに言った。
「やはり……信じろ、と言うのが無理だわ」
 ああ、この娘も、そして誰一人としてわかってくれないんだ。このままでいくと、
銃殺刑ぐらいになって、死を待つだけなんだろうか……。
「でも……」
 その彼女の言葉に、思わずハッとして顔を上げた。彼女の瞳は澄んだブルー
をしていた。まるで、あの湖の水みたいに……。しばらくの間、僕らはお互いの
顔を独房の檻越しに見つめていた。ほんの短い時間だったんだろうが、僕にと
っては静かで安らぎのある、ささやかな束の間の休息だった。
「貴方……嘘は言ってないみたいね」
「どうしてそんなことが言えるの?」
「だって貴方は、私の目を見て喋ってたでしょう?心に後ろ暗い所のある人や
嘘をついている人は、そんなこと出来ないもの」
 二コッと笑いながら、彼女はそう言ってくれた。嘘をついてない事をわかって
くれただけでも嬉しかったけど、だからと言って、どうなるものでもなかった。
「ありがとう……。信じる信じないは別だけど、ちゃんと僕の話を真面目に聞い
てくれたのは、君だけだよ」
「貴方はどこの国の人なの?」
「日本だけど……」
「日本?」
「うん……。でも、この世界では、そんな国、ないんだろう?」
「聞いたことは、ないわ……」
「そう……」
 不意に淋しさが込み上げてきた。唇を噛みしめる。少なくとも、この世界で日
本人は、僕、唯一人なんだ。このまま死んでいくのだろうか……。
 そんな僕の淋しさがわかったのかどうかは知らないけれど、彼女はじっと立
ったまま、僕を見ていた。自分の介入する余地のないことを悟ったのだろう、
「また、来るわ……」
 そう言うと、彼女は去って行こうとした。
「待って!」
 僕は思わず叫んだ。
「なあに……」
「あの、君の……君の名前は?」
「私の?……アデニーよ。貴方は?」
 僕は自分の名前を言った。
「覚えておくわ……」
 そう言い残すと、彼女は去って行った。
『アデニー……』
 僕は心の中で何度も彼女の名前をつぶやいた。でも、不思議な事が一つあ
る。なぜ、彼女はこの独房に入って来られたんだろう。入り口には衛兵が三人
はいて、常に見張っているはずなのに……。

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2007年8月24日 (金)

イーグルからの帰還 2

 僕らが混乱と恐怖感でキャンピングカーに逃げ帰ったのは言うまでもない。
かわいそうに、女の子二人は泣き出してしまった。いくら考えても、全く別の
場所なのだ。その時の僕らの混乱ぶりは、わざわざ説明しなくても判っても
らえると思う。皆、わけがわからず顔面蒼白だ。この時、僕らは地図を持って
ない事を初めて後悔した。
『何処なんだろう、ここは……』
 言い知れぬ不安感が、容赦なく僕らを襲う。
「とにかく、良く考えてみようよ」
「考えろったって、現実は見ての通りだよ」
 シュナイザーがトムに食ってかかっていた。無理もないよ。この僕だって、
そして今このキャンピングカーに乗り合わせているみんなだって、そう思う。
まったく合点がいかない事だらけだ。
「まあ、待て。いいかい、まず雷雨があった。この前後で状況が変わってしま
っている、これは事実だ。受け入れなくちゃいけない」
「ああ……そして雷雨はたしか、急に止まった気がしたけど」
「うん、僕もそんな気がしたな」
「わたしも……」
 皆、口々に賛同した。
「その時、霧はどうだったんだろう?」
 僕が尋ねた。ファラデーがニヤッとして言った。
「うーん、わかんないね。あの時、誰か外を見る余裕のある人間いたっけ?」
 みんな思わずクスッと笑った。このファラデーの言葉で、少しみんなに落ち着
きが戻ったみたいだ。
この日は結局、いくら議論してもとうとう結論は出なかった。とりあえず明日、
朝から周囲を調べてみる、と言う事でこの日は終わった。

 気になっていたせいか、翌朝は、朝早く目をさました。みんな起きているよう
だ。床についてからも、多分みんな自分なりにこの出来事を理解しようとしてい
ただろうし、そのせいか僕も含めてみんな眠そうな顔をしてる。
 簡単な朝食の後、僕達はそろって外に出た。ひんやりした夏の朝の空気は
とっても気持ちがいい。思わず深呼吸をしてしまう。この日はちょうど霧もほと
んどなく、視界もよかった。
『本当にここはアメリカなんだろうか?』
 そんな漠然とした不安感が僕らの心の中に生まれている。何しろ、昨日の雷
雨の前後で地理が全く違っているという事が一番の謎だと言っていいだろう。
 みんなで分担を決めた。最初のうちは、女の子はバスの中に残そうという事
だったが、これにはシャーリーとベティが反対し、結局いっしょに外に出て調査
することにした。トムがまずキャンピングカーの屋根に登り、双眼鏡で周りを注意
深く観察した。
 その結果、やはり地理が根本的に違っているのは間違いないようだ。いくら雷
雨の中とは言っても、雷雨の前の周りの状況くらい、僕らは覚えている。昨日の
議論の中で、シュナイザーが車がサイドブレーキの効きが甘く自然に動いていっ
たのではないかという意見を出したけど、それにしたっていくら何でも違いすぎて
いる。どうやらあの雷雨の後で、僕らが全く違う場所に置かれてしまった事だけは
明白だった。とすれば、それはそれで動かしようのない事実だし、素直に受け入
れなくてはいけない事だろう。
 最初のうちは、僕達みんな同じ夢を見ているんだろうと、ほっぺたをつねったり
したもんだった。でもやっぱり現実なんだ。
 では、次になすべき事は何か……当然、ここが一体何処なのか、という事を知る
必要がある。何処か近くに高い場所があれば、そこへ行って周りを見るんだけど、
そういうものもない。ただ、僕らの前に静かに広がっているこの湖のそのずっとむこ
うの水平線、この言葉が正しいのかどうかは知らないけど、のあたりは、モヤのよ
うな霧のような物がたなびくように漂っていて、その遥か彼方に二つ、高い山が見
えている。
 午前中は、僕らのキャンピングカーの周囲を調査してみたけど、何んにもわからな
かった。ただ、その湖が不気味なほど静かに僕らの眼前に広がっていて、その水
がものすごく澄んでいて、手がしびれるくらい冷たい事が印象的だった。
 昼食後、ファラデーがある事実を突き止めた。
「ねえ、みんな。太陽の位置がおかしくないかい?」
「太陽の位置?」
「ここに磁石があるけど……」
「どういう事?」
「つまり……いや、その前に、磁石ってこわれるものかい?」
「こわれないんじゃない?シンプルすぎるもの……」
「うん……。つまりだね、仮にだよ、この磁石が正常であるとしての話なんだけど、
ここの太陽は、西から出て東に沈むみたいなんだよ」
「何だって!」
「そんな馬鹿な!」
 みんな驚いてしまった。確かに、思い出してみれば、太陽は朝、湖の方から顔
を出した。そしてそれは、その磁石によると、まぎれもなく西なのだ。もう、何が
何だかさっぱりわからなくなってきていた。僕達はひょっとして集団発狂でもして
るんだろうか?
「で、緯度は合ってるの?」
 僕は、混乱しそうになる頭で、聞いた。
「うん……太陽の高さからいくと……今、北半球は夏だから、地球はこの方向に
傾いてるよね……そうすると……」
 と、ファラデーは簡単な図を書いて僕らに示した。小学校の時に、夏至とか冬至
とかで習った図だ。彼の説明によると、北緯は大体35度前後らしい。難しい計算
式は省略するけど……。
「じゃあ、ナッシュビルとか、オクラホマシティとか、サンタフェのラインだな」
 と、トムが言った。
「大体、その辺だろうね」
「じゃ、別にとんでもない所にいるわけじゃないよ。ロスだって35度弱だもの。ルー
トを大幅に間違えたんじゃないんだ」
 確かに、僕らはデンバーを出発し、コロラド川を越え、ロッキー山脈を横断して少し
南下し、ロスアンジェルスに到着する予定だった。
「でも、この現実は、どう考えても異常だよ」
「………タイムスリップでもしたのかしら、私達?」
 シャーリーが不意に言った。
「現実離れしすぎてるけど、そうとでも言わなきゃ説明がつかないよ、これは」
 僕達はまたもや混乱してきてしまった。
「太陽の位置から計算して、僕達が北半球の何処かにいる事は間違いないんだ
よね?」
 僕はファラデーに聞いた。
「うん、多分ね」
「でもね、地球の自転の方向は、反時計回りだよね、北極から見て」
「そうだよ」
「でも、太陽の方向を考えると、西と東が逆になってる、って言ったよね」
「うん……何か気付いたのかい?」
「じゃあ、こういう考えは?北と南が逆になってるから、西と東が逆に見えてるんだ、
って……つまり影が本当は南側に出来てる、つまり僕らは今、南半球の何処かに
いるんじゃないか、って気がするんだ」
「ありえないよ。地球の地軸の傾きが変わってない限り、北緯35度は絶対に北緯
35度だよ。でも地球の自転の方向と太陽との関係を考えると、君の言うように確か
に矛盾するんだ」
「…………」
 誰も二の句が告げなかった。言い出した僕自身、誰かにそんな馬鹿な事はないよ
と強く打ち消して欲しかったんだ。
「じゃ、私達、南半球の何処かの湿地帯にいるわけ?」
 ベティが、泣き出しそうな顔をして僕に言った。
「いや……そういう可能性も考えられるっていう、あくまで僕個人の意見なんだよ。
まだそうと決まったわけじゃないんだし……」
 あわてて僕が言葉を続けようとした時、僕はベティの肩越しに湖の見える位置に、
その時たまたま座ってたんだけど、湖の上を何かが動いているのが見えて、僕の
視線はそれに釘付けになった。僕の視線に気付いて、みんな、湖の方を見た。トム
が素早く双眼鏡を手に覗き込んでいる。次の瞬間、彼は叫んだ。
「人だ!」
 みんな、思わずどよめいた。やっぱり、他に誰一人見つからぬ事が僕らの不安を
増長していたし、その人間に聞けばここがどこかはすぐにわかるだろう。
「すぐ出発だ!ボートみたいな小さな船のようだ。二人乗ってるみたいだよ」
「OK!」
 ファラデーの運転で、僕達はそのボートらしき物が着く岸辺あたりを目指して、湖
岸沿いに車を走らせた。そして、相変わらず泣きそうな顔をしているベティに、僕は
微笑みながらこう言った。
「大丈夫だよ。南半球になんか、いやしないよ。だって、そうすると、僕らが北緯35
度付近にいるっていう現実を説明できないもの……」
 ベティの顔がパッと明るくなった。
「そう、そうよね!」
 地面の様子は段々良くなってきているようだ。ぬかるみだらけの湿地から、段々
堅い地面になっているのが、車の振動でわかる。
 遂に、ここが何処か、が判るかもしれない。トムはじっと湖の上を観察したままだ。
ドキドキしてくるのがわかる。ここが何処だかが判れば、対策の立てようもある、と
言うものだ。もっとも、大昔にタイムトリップでもした事になったら、多分大変なことに
なってしまうけど……。それだけはあってほしくない、と僕も含めみんな内心思って
いることだろう。
「変な服、着てるみたいだよ……」
 トムが突然言った。
「変な服?どんな?」
「まア、見てごらんよ」
 みんなかわるがわる双眼鏡を覗き込んでは、変な顔になった。そして、僕も覗いて
みた。そして、思わず、言った。
「まるで、昔のペルシャか何処かの王宮の服、っていう感じだね」
 湖の上の人間の顔までははっきり判らないけど、でもそんな感じの服を着てるのは
間違いないようだ。その時、僕らのバスは突然、大きな衝撃でガクンと傾くように揺れ
た。
「どうしたんだ!」
「アスファルトの道に出たんだよ」
 ファラデーが叫んだ。

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2007年8月18日 (土)

イーグルからの帰還 1

 その時、僕は突然何ともいいようのない吐き気に襲われた。
 最初のうちは食中毒でも起こしたのかな、と思った。でも胃から食道を通して
こみ上げて来る熱いものがある訳でもなかったし、もちろんそんな変な物を食
べた記憶もない。もしそうなら、今この車に乗っている他のメンバーだって、変
調を訴えても不思議じゃないはずだ。何しろ僕らはこの一週間、皆同じミニバス
に乗っているし、共同で自炊して生活しているんだもの。
 僕の様子がおかしいのに気付いたファラデーが、
「どうした。気分が悪いのかい?」
 と、心配そうに尋ねてきてくれた。
「……………」
 僕はただ少しうなずくだけで精一杯の状態だった。物を言う気力さえ失くして
いたのだ。
「おい、トム。車を脇に停めてくれ。彼が気分が悪いみたいなんだ」
「OK!大丈夫かい?」
 すぐに車、とは言ってもキャンピングカーみたいなもんだけど、をその時運転し
てたトムは停めてくれた。気のせいか、目の前がチカチカして、ちょうど星が飛
んでる感じだった。
 気を利かせて、シャーリーが冷たく冷やしたタオルを持って来て、ちょうどファ
ラデーとシュナイザーに横にしてもらった僕の額に当ててくれた。僕はじっと目
をつぶったままだった。
「どうしたんだろう、急に」
  みんなが心配そうに話し合ってるのが聞こえる。
「車に酔ったのかナ」
「いや、そんな事はないだろう。彼はこの前、冗談半分とは言え、今までに病気
になんて一度もかかった事ないし、どんな乗り物だって平気だと言ってたじゃな
いか」
「じゃ、食中毒か何かかしら」
「みんな同じもの食べてるのに、彼だけが?それはないと思うな」
「でも、急に具合が悪くなったみたいよ」
「うん……ま、いいや。少し休んでいこう。何やかやで強行軍だったから、きっと
疲れてるんだよ」
「そうね」
 みんなの喋っている声は、ことさらに僕の頭の中でガンガン響いていた。だけ
ど、『お願いだから、喋るのをやめてくれないか』と口に出して言うほどの元気も
なかった。だからみんなの声が止んだ時、僕は正直ホッとした。
『でも、何故僕だけが?ひょっとしたら何か悪性の病気にかかって、このまま死
んでしまうんじゃないかな……』
  弱気になると人間、悪いことばかりが先行して頭の中を駆けめぐってしまうみ
たいだ。でも、横になって少し休んでたおかげで、気分も一時ほどは悪くなくなっ
た。まだ少し頭の芯がズキズキするけど。
「ごめんよ、迷惑かけて……」
  我ながら元気のない声だなと思った。みんなは僕が喋ったのでホッとしたよ
うだ。みんなの顔に安堵の表情が浮かび、笑顔が戻ったのがわかる。
「ねえ、トム」
「何だい?」
「今日の宿泊予定地までは、あとどの位?」
「そうだな……」
  トムは、道の前方はるか彼方を遠い目をして見た後、
「あと二時間もあれば充分だと思うな」
 と、横たわっている僕の方に視線を移して、言った。
「じゃ、そろそろ出発しようよ」
  僕は上半身を起こしながら言った。
「大丈夫なの?もう少し休んでた方がいいと思うわ」
 つぶらな瞳のベティが言う。本当に心の底から心配してくれているのがよくわ
かる。
「いや、大分楽になったから、もう大丈夫だヨ。ここでずっとこうしてたって仕方な
いもの。先を急いで、今日の予定地まで行ってしまおうよ。なあに、多分疲れて
ただけだろうから、今晩ぐっすり眠れば、明日の朝にはケロッとしてるさ」
 自分でそう言い切ったせいかも知れないが、かなり気分は良くなっている。
『軽い日射病にでもかかってたのかな…』

 それから一時間くらいも走っただろうか。それまで空は、いかにもアメリカらし
く真っ青に澄みきっていた。ま、僕らの走ってるルートは山脈を横断する形だか
ら、特に空気はきれいだろうけど。でも今、空はあたり一面恐ろしくなるくらい
不気味な灰色で、今にもザアーッと物凄い雨を降らせそうな形相だった。遠く
の方でかすかに雷が光り、独特の音が小さく聞こえる。
 ずっとつけっぱなしのラジオからも時々ノイズが聞こえ始めたところをみると、
どうも雨に降られる可能性が高いようだ。あまりノイズが頻繁なので、シュナイ
ザーがラジオを止めた。
『そう言えば、出発してからのこの一週間は、雨の日なんてなかったな』
 稲妻があちこちで見られるようになってきた。かなりの激しい雷雨になりそう
だった。シュナイザーが皆に尋ねている。
「どうしようか……何処かでこの車停めて、様子見ようか?」
  一応簡単に説明しておくと、この僕らのキャンピングカー、本当はアメリカ・
フリーウェイバス五十四号車と言うのが正式な呼び名なんだけど、には総員
六名が乗り組んでいる。女性はシャーリーとベティの二人、男性は僕とトム、
ファラデー、シュナイザーの四人。みんな学生だ。でもみんな国籍は違う。主
に運転手として活躍しているトムが唯一のアメリカ人。彼が一番このあたりの
道に詳しいのでそうなっただけ。あえて僕らは地図は持たなかった。あくまで
気ままな一ヶ月間の旅を楽しもうという事で、出発前のミーティングで全員の
意見が一致したからだ。
 今も全員の意見は様子を見ることで一致し、トムと交代で運転していたファ
ラデーは、小さな林の中に僕らの車を停めた。
  まだ昼の三時過ぎだというのに、あたり一面は本当に真っ暗になってしま
っている。そのうちにポツリポツリと大粒の雨が車の屋根を叩き始めた。
「かなり降りそうね……」
 ベティが心配そうに窓の外を見ながらつぶやいた。ふと前方を見ると、道路
の遥か彼方の方から、順に道が黒く濡れながらこちらに向かって来ている。
 それから一分とたたないうちに、ものすごいどしゃ降りがやって来た。車の
中の僕達が話す声さえ屋根を叩く雨音にかき消され、ほとんどと言っていい
ほど聞き取れないくらいだった。
 次の瞬間だった。物凄い音と共に、雷が僕らのキャンピングカーのすぐそば
に落ちた。「わあーっ」とか「きゃあー」って言う悲鳴とも叫びともつかない声を
上げて、僕らは思わず近くにある物に本能的にしがみついていた。力の限り
歯を食いしばり、堅く目を閉じ、身体を縮めたままだった。雷は連続して二回
落ちた。ついつい、握り締めた手にギュッと力がはいる。ビリビリと身体が電
気にしびれるような気もする。雷がこんなにも怖いものだなんて初めて知った。
 僕らは息をひそめて、雷が通り過ぎるのをひたすら待っていた。誰も外の景
色なんか見ちゃいない。だから、一体いつ霧が僕らを包み込んだのかも、全く
知らなかった。

 雷雨はかなり長い時間、僕らの回りをうろついていたようだった。でも突然、
プッツリと雷の音も雨の音も止んでしまった。変な経験だった。ちょうど、台風
の目に入ったような感じだと言えば、わかってもらえるだろうか。みんな、この
外の変化に気付いて、きょろきょろとあたりを見渡している。
 シャーリーとベティは抱き合ったままだし、ファラデーは毛布を頭からかぶっ
て床につっ伏していた。シュナイザーは座席に抱きつきながらしっかり両手を
合わせてお祈りの格好してるし、トムはと言えば、座席の下に頭だけ突っ込ん
でいた。ま、僕も他人のことは言えない。何せ、毛布と抱き合って震えてたん
だから……。お互いに何とも言えない格好をしてることに気付いて、もう過ぎ
去ってしまったという安心感から、みんな互いの格好を見て大笑いをしてしま
った。
 そして、ちょっと早いけど、予定を変更して、今日はここに泊まろうという事に
なった。濃霧が僕らを包んでいる事に、その時僕らは初めて気付いた。
「すごい霧だな」
 思わず、誰言うともなく、皆そうつぶやいていた。
「不気味で、怖いくらい……」
 シャーリーが顔をしかめて言った。
「ちょっと外へ出てみるよ」
 ファラデーがドアを開けて外に出ようとした。トムが彼に声をかけた。
「あんまり遠くへは行くなよ。この霧だから、迷うかもしれないぜ」
「わかってるよ」
「あ、私もちょっと行きたいわ」
 と、ベティも一緒に出て行った。それからしばらくして、
「じゃ、夕食の準備をそろそろ始めとくか」
 と、今日の当番のシュナイザーとシャーリーがキッチンの方に行こうとした
時だった。
「誰か!……来て!」
 悲鳴とも絶叫ともつかぬ大声でベティが叫んだ。僕達は大急ぎでめいめい
車から降りると、ベティの姿を探した。
「ベティ、どこ?」
「こっちよ、早く!」
 霧の中を僕らは皆、走りながら声のする方に向かった。突然、ベティとファラ
デーの姿が霧の中から現われた。
「どうしたんだい、何かあったの?」
 僕は尋ねた。彼女は、そしてファラデーも、今にも泣き出しそうな顔で、ある
方向を指差した。僕らもその方向を見た。そして愕然としてしまった。
 目の前の霧が晴れて、そして僕らの前に、巨大な湖らしきものが悠然とその
姿を現したのだ。そればかりではない。だんだん晴れてくる霧の中に、僕らは
今まで走り続けてきたハイウェイも無くなっている事に気付いた。
 僕らは何が何だか判らなくなってきた。そして、目の前にそれまでそびえて
いたはずの雄大なロッキーの山々もことごとく消えている。周りを見渡しても、
平原そのものだった。平原と言うよりは、まるでアマゾンの湿地帯を思わせる
ような所に、僕らは今いるのだった。

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2007年8月 8日 (水)

乾燥人間 Ⅴ

 それからしばらくの間、私は戦戦恐恐とした日々を送っていた。あの館の住人
が私の居所を探しあて、不意にやって来るのではないかという脅迫観念があっ
たからだ。だが、何事も起こらなかった。考えてみれば、あの館に私の身元を確
認出来る物は、何一つ残していないのだ。何事も起こらなくて当たり前だった。
こんな大都会で、私の居所など捜し当てられるわけがない。
 私は安心して、以前と同じ平凡な生活を繰り返していた。だが、そんな私を完
膚なきまでに叩き潰すような出来事が、ある日起こった。それは、新聞に載って
いたある公告記事が始まりだった。
『永遠の生命を貴方に……××社が全力を上げて開発したバイオテクノロジー
先端技術を応用して、貴方は特殊コーティングされ、今のままの姿で未来永劫
に生き続けられます。またご希望の方は、体型等も自由に変えられます。貴方
の理想的な姿を、お手伝いします』
 こんな記事が平然と新聞に載ってもよいのだろうか?一体、日本はどうなって
しまったのだろう?……何かが狂っているとしか思えない。
 私がひっかかったのは、体型が自由に変えられる、という件だった。これは、
まるであの乾燥人間そっくりだ。気になった私は、まさかと思いながらも、そこに
書いてあった説明会の会場に出掛けてみることにした。

 私が到着した時、すでに会場はそれこそ立錐の余地もないほどの人々でごっ
たがえし、むんむんした熱気であふれていた。よくもまあこの人間達は、そこま
でして永遠の生命とやらを手に入れたいのだろうか、と私は呆れ顔でその人々
の顔を見ていた。皆、真剣そのものの表情だった。やがて、定刻通りに説明会
が始まった。
 私の知っている戦慄すべき事柄が、そこに再び甦ってきた。まさしくそれは乾
燥人間の説明だった。私にはもはや、その説明は必要なかった。私が彼女から
聞いて知っている事だらけだった。私は前の席で説明している連中を見た。
多分、あの中の誰かがあの館の住人なのだ。そう思うと、私は一刻も早くこの
場を離れたかった。こんな場所に長居は禁物だ。よく見ると、前の席の一番端に
座っている白髪の男は、説明会に来た人々の顔を順に目で追っている。
『まずい!』
 私は直感した。あの男が、あの館の住人で、私を見ていたとすると、これはとん
でもない事になってしまう。人波をかき分ける様に、私は必死になって外へ出た。
会場から走り去りながら、私は思った。
『ひょっとしたら、この説明会は私を誘き出すために?』
 もしそうだとすると、とんでもない事だった。冷や汗をかきながら、私は雑踏の中
に紛れ込んだ。ここまで来れば、もう安心だった。幸い今日は土曜日で会社も休
みだった。久し振りに私は、この昼間の街で羽根をのばす事に決めた。評判にな
っている映画を見たり、本屋に立ち寄ったり……あっという間に一日が過ぎて行っ
た。だが夕闇の迫る頃、自宅付近で私は不意に、背後から
「すみませーん、ちょっとお尋ねしたい事が……」
 と声をかけられた。何気なく振り返った私は、一瞬目の前を白い物がよぎった様
に見えたが、それっきり気を失ってしまった。

 次に私が気付いたのは、何やら狭苦しい容器の中だった。目を開けると、透明
なカプセルの中に寝かされている事が判った。上半身を起こし、辺りを見回すと、
私の入っているカプセルは丁度ボーリング場のレーンのような所に置かれ、徐々
にゆっくりと動いて奥の場所の何やらマスクされた場所に向かいつつあった。
 一体どうして私がこのような場所にいるのか、とっさには思い巡らなかった。左右
を見渡すと、私の入っているのと同じカプセルが数台ゆっくりと動いている。中に人
が入っているようだが、皆横になったままだった。
『とにかく、ここから出ないと……』
 私は助けを呼ぼうとした。何かの間違いで、このような場所に入れられてしまった
に違いなかった。丁度、私から十メートルほど離れた所に、若い娘とその母親らしき
中年女性、そして若い男性が三人で何やら話している姿が目に入った。若い男が
何かを説明しているようで、二人はしきりにうなずいたりして聞き入っている様子だ。
時折、こちらの方を向いては若い男がカプセルを指差して、何やら喋っている。私は
大声で叫んだ。
「おーい!助けてくれ!ここから出してくれ!」
 私は彼らに向かって手を振りながら、カプセルの透明な蓋を力の限り叩きながら、
何度も叫んだ。やがて娘の方が私に気付き、何やら私の方を指差しながら、その男
に言っている。
『しめた、気付いてくれたぞ!……もう少しだ』
 私は再び、大声で助けを求めた。男は笑いながら、娘に何事かを言っている。娘が
頷いた。彼女の反応はそれっきりだった。
『馬鹿な!どうして助けてくれないんだ!』
 私は焦った。このままでは、どうしようもない。カプセルの蓋を開けようとしてみたが、
それはびくともしない。やがて、カプセルの周辺から、何やら空気の漏れるような音が
してきて、次第に私は意識が遠のいて行った。

「……という事です。当社のシステムはご理解頂けましたか?」
 男は笑顔を絶やさず、目の前の客に話しかけていた。
「ええ……!……あら?」
 若い娘は、小さな異変に気が付いた。
「あのカプセルに入っている人、こっちに向かって何か言ってるみたい……」
「え?」
 男と彼女の母親は、彼女が指差す方を見た。確かにそこには、カプセルの中から
彼らに向かってまるで救いを求めているかのような、一人の男の姿があった。
「ああ……」
 男は笑いながら、事もなげに彼らに言った。
「いらっしゃるんですよ、時々、ああいう方が……。契約を済まされて、カプセルにお
入りになったんですが、いざこれから、となると不安になられるんでしょうね。でも、
ご心配には及びません。どなたにも安心して頂けるよう、睡眠ガスが噴出して安ら
かな眠りの中で特殊コーティングされるように設計されていますから。万が一があっ
ては大変ですからね……ほら、静かになったでしょう?」
 男が指差した方を見ると、先程の男は横になっていた。
「本当だわ、一時的に不安になっただけなのね……」
「では、契約の方の詳しいご説明を致しましょう。どうぞ、こちらへ……」

『体が、動かない……』
 私は絶望した。催眠ガスか何かをかがされた様だ。一体私は、これからどうなっ
てしまうのだろう?手を上げようにも、とても重く感じられて、自分の意思では持ち
上げることが出来ない。むしょうに眠気が襲ってくる。私は必死に眠るまいとした。
ここで眠ってしまったらおしまいだ。
 だが、天井しか見られない今の私に、一体何が出来るのだろう……。あの先で
何が起こるのかは知らないが、こうして私以外にも人が向かっているところを見る
と、そんなに心配するほどのものではないかも知れない。
 それまで続いていたコンクリート製の天井と蛍光灯の光景が途切れ、ガラス張り
の天井が現われた。その奥の方に人が立って、私を見下ろしている。
『あれは?……!!』
 私は我が目を疑った。そこに立っていたのは、あの白髪の男だった。彼の口許が
かすかにゆるんだ。その時私は、これからあのマスクされた場所の向こう側で待ち
受けている事が一体何なのかを一瞬にして悟り、同時に必死に体を起こそうとした。
 ここは……乾燥人間の製造工程なのだ!そして私は、その上に乗せられたのだ。
一体の乾燥人間を、故意でなかったとは言え壊してしまった私を、あの男が許すわ
けがない。私は彼らにとって、すでに乾燥人間の秘密を知り抜いている危険な、そ
して邪魔な存在なのだ。
『殺される!』
 私はそう直感した。よしんば殺されないにしても、あの時彼女が言った様に、今の
記憶は一切消されて乾燥人間にされてしまう。セックスの道具としてのただの人形
にされてしまうのだ。だが私の場合、本当にそれで終わるだろうか?
 私は彼らの貴重な開発中の実験体を台無しにしているのだ。時期的に考えても、
恐らく彼女はどこからか拉致され、実験的に乾燥人間化され、当時としては数少な
い貴重な成功例だったのではないだろうか。そしてその生態を観察されていたと見
るべきだろう。そして偶然に迷い込んだとは言え、私もその相手として観察されて
いたのだろう。もし私が彼なら、私を絶対に許さない。乾燥人間に仕立て上げた後、
今後の研究材料として徹底的にモルモット扱いしてやろうと思う筈だ。
「誰か、助けてくれー!」
 私は力の限り叫んだ。だが、もう限界だった。私の意識は急速に薄れていった。


 その白髪の男は、眼下を通り過ぎて行くカプセルを冷ややかに見詰めながら、
受話器を取った。
「はい…!…これは、これは。わざわざ恐れ入ります。……ええ、ご安心下さい、
無事に始末できました。これで安心して、思惑通りに、増え過ぎた人口を合法的
に減らす作業に入れますよ。勿論、そちらのご協力をいただかねば……ええ、わ
かっております、何しろ国家機密ですからねえ……」
 折しもちょうど、そのカプセルはマスクされた場所に入って行く処だった。

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2007年8月 5日 (日)

乾燥人間 Ⅳ

 当然、私は金縛りにでも会ったかの様に、その場に立ち尽くしていた。一体
何処から、この目の前の若い全裸の女は現われたというのだろう。それに、
先程までそこにあった人形は、一体何処に行ってしまったのか……。
 自分の心臓の鼓動の高鳴りが、自分の耳に聞こえてくる。気のせいか、先
程の人形と寸分違わぬ体つきや顔つきをしているように思えてならないのだ
が、そんな馬鹿な事があろうはずもない。
「ごめんなさい、驚かせちゃって……」
 彼女がにっこりと微笑みながら私に言った。こんな時、私はどう答えていい
のか見当もつかないが、さすがに気を取り直して、私は彼女に言った。
「き、君は?」
「私?……貴方が目覚めさせてくれたのよ」
「俺が、君を?」
 私には彼女が言っている意味が、何のことやらさっぱり判らなかった。
「そう……そのシャワーのお湯を全身に浴びて、私は生命を取り戻すの。もっ
とも、時間に限りはあるけど」
「じゃ、君はさっきまでそこにあった人形?」
「そうよ。でも、いいじゃない、そんなこと。せっかくの限られた時間なんだから、
楽しまなくっちゃ……」
 そう微笑んで言うと、濡れた床に横になった彼女は、私に対して挑発的なポ
ーズを取った。全裸の若い女性のそんな姿態を見るのは久し振りで、私は思
わず我を忘れ、本能のおもむくままの行動に出た。
 彼女は余りに魅力的で、そして抜群だった。私はめくるめく押し寄せる快感
の虜になっていた。それは魔性のものだった。本当は狐か何かに化かされて
いるのかも知れないが、今はそれでもよいと私は思った。
 未だかつて経験した事のない快楽の世界だった。たとえこれで私の生命が
吸い取られる事になったとしても、仕方ないと思った。それほどに彼女は素晴
らしかった。これほどまでに満足を与えてくれるものがこの世の中にあろうとは。
 満足しきっていた私は、そこが何処であるのかもすっかり忘れていた。その
時の私にとってはそんな事など、もうどうでもよかった。柄にもなく何度も挑み、
彼女もそれに応えた。いつ果てるともない欲望が、私を捕えて放さなかった。

 どのくらいの時間が経ったのかも定かではなかったが、少なくても二時間は
経っているはずだ。半ば放心状態で、私は荒い息をしながら彼女の上にいた。
「満足した?……そう、よかった……」
 彼女も息を荒げながら私に言った。ふと私は、彼女は一体何者なのか、と思
った。この感触はまぎれもなく人間のものだ。だが彼女はさっき、シャワーの湯
を浴びて生命を取り戻すのだと言った。となると、やはりさっきの人形が今の
彼女に変わったことは間違いない事になる。
『一体、どうなってるって言うんだ?……そんな事がありえるのか?……それ
に、彼女はもともと人間だったのか?……それとも、人形が生命を与えられて、
一時的に人間の様になってるだけなのか?』
 間近で見る彼女は、どう見ても正真正銘の人間だった。私は彼女に尋ねて
みた。
「ねえ、君は以前は何をしてたの?」
「……わからない」
「わからない?」
「そう……乾燥人間になった時に、昔の普通の人間だった頃の記憶は一切消
されてるから……。でもそれが条件だから、仕方ないんだけど」
「乾燥人間 !?」
「そうよ。永遠の生命を与えられた人間……体が乾燥している時は眠りについ
てるけど、特殊なこのお湯で充分な水分と温度が与えられた時にだけ、普通
の人間に戻れるの」
「そ、その後は?」
「また眠りにつくだけ……。今度誰かが目を覚まさせてくれる時まで……」
「…………」
 荒唐無稽な話だった。だが彼女が私に嘘をついているとは思えなかった。
『そんな事が、現実に可能なのか?』
 それに、彼女の記憶が消されている以上、今更尋ねようもないが、彼女は
何故乾燥人間とやらになったのだろう?自分から志願したのか、それとも…
…。そして一体誰が、彼女を乾燥人間に仕立て上げたのか?……そこまで
考えて、私はふと思い当たった。
『ひょっとして、この館の住人が……!』
 そう考えるのが一番妥当だろう。その目的が一体何なのかは判らない。
しかし、そんな科学力が今のこの世界で存在するのだろうか?
 不意に私は恐ろしくなってきた。ひょっとしたら、彼女もそしてこの私も、実は
その類の研究のモルモットにされているのではないかと思えてきたからだ。
気のせいかも知れないが、そう思うと、誰かにじっと私達の恥態の一部始終
が冷静に観察されている様な気がしてきて、余り気持ちの良い物ではなかっ
た。私は不意に、ここはあの館の一室なのだという事を思い出した。
 ここら辺が潮時だと思い、いったん引き上げることにした。私は衣服を身に付
け、彼女に別れを告げると、その部屋から出て行こうとした。最後に私がドアの
所で振り返ると、彼女は相変わらずの裸体のまま、恋人を見送るように笑顔で
私に手を振った。
 私もそれに応えて笑顔で手を振り、ドアをゆっくりと閉めた。彼女に対するある
種の感情が芽生え始めているのを感じながら……。
『今度、ここへやって来られるのは、いつなんだろう?』
 そう思った。いつもいつもこの館がここに存在しているわけではない以上、平
凡な人間の私がそうそう巡り会えるものでもない。今回にしても、偶然だった
かも知れないのだ。
 その館を出た後、何気なく二階の窓の方を見上げた私は、ドキッとした。白い
カーテンの端が揺れたのだ。ほんの一瞬だったが、その隙間から初老の目つき
の鋭い男の顔が覗いていたように見えた。私は気味が悪くなって、後も見ずに
大通りの方へと駆け出した。

 やがて彼女は私にとって、麻薬のような存在になってしまった。そう、それから
も何度となく私はその館を訪れ、彼女を抱いたのだ。
 そしてわかった事は、私がシラフの時にいくら探してみてもその館は発見でき
ない、という事だった。不思議と、決まって私が酒を飲んでから探した時に限っ
て、その館は発見できた。
 他の部屋に行けば別の素晴らしい女が抱けるのだろう。だが、つい私の足は
彼女のいる部屋に向いてしまう。彼女は私にとって理想の女性だった。彼女の
方も、私に愛着を持ってくれ始めている様だった。今や二人は、本当の恋人同
志のような関係になっていた。
「なあ、この館から出て、俺と一緒に暮らさないか?」
 私は本気でそう彼女に言った。だが、彼女は青ざめた顔で言ったのだ。
「だめ!それだけは……。お願い、わかってちょうだい。私はここ以外の場所で
は生きられないの」
 二人の間に、気まずい空気が流れた。仕方なく私は、話題を変える事にした。
「わかったよ、ごめん……。ところで、ここへ来るのは俺だけなのか?」
「いいえ、女の人もたまに来るわ……」
「え?……女の人?」
 この館の住人の事を聞き出そうと思っていた私だったが、意外な答えが返って
きたのでびっくりしてしまった。
「女の人って……君が相手をするのか?」
「そうよ……だって、私……」
 彼女はちょっと言いにくそうだったが、一呼吸おいて言った。
「両性具者だから……」
「え!?」
 びっくりして私は彼女の股間を見た。それを見た瞬間、私は自分自身が萎えて
いくのが判った。私のモノが彼女に入っているそのすぐ上に、小さな男性器があ
ったのだ。自分でもどうして今まで気付かなかったのか、不思議なくらいだった。
唖然とする私に、彼女は言った。
「そんなにびっくりしないで……。貴方だって私の体を自由に造り変える事が出
来るのよ」
「え?」
「そこに、組成材料があるでしょう?」
 彼女に言われた方を見ると、確かにそこには粘土のような物が木箱に入れられ
て置いてあった。
「それを、乾燥している時に私の体に、貴方の好みで塗り付ければいいの。それ
からお湯を浴びせてくれれば、造り変えられた私が蘇生するわけ……」
「!……じゃあ、そこにある組成材料を使えば、乾燥人間が造れるわけか?」
「だめ、本体は別に必要よ。あくまでも肉付けにしか使えないわ」
「だから、君に男性器も付けられるわけか」
「そうみたいね……。だから今は両性具者だけど、乾燥した時ならこれは外せる
わ。でも、男性が女性になることは出来ないみたいよ……」
「本来ある物を外すことは出来ないって訳か……」
「そう……。本当言うとね、私のこの胸も、そうして造られたのよ」
「…………」
 私は何と言えばいいのだろう。ここまでくると、これはもう狂気としか思えない。
第一、これは早い話がセックス産業の一種ではないのか。ソープランドやホスト
クラブの行き着く末路を垣間見たような気がした。恐ろしい世の中になりつつある
ようだ。そんな事を考えている私のすぐ横に座っていた彼女の息遣いが、急に荒
くなってきた。
「どうした?」
「タイムリミット、みたい……」
 私はギョッとした。そう言えば、彼女が乾燥人間に戻るところをこれまで見た事
がなかった。私と彼女は、いつも彼女が人間に戻っている時間内に別れていた。
「こんな処を、貴方に見せたくない……。お願い、悪いけど今すぐ、帰って!」
「心配するな。今すぐシャワーの湯をかけてやるから」
「駄目なの!……私の蘇生時間は、最初のお湯の量で決まるから……」
 そう言われると、慣れっ子になっていたせいか、今日は余りいつものようにふん
だんにシャワーを彼女にあびせなかった。私は言われるままに、衣服をかかえると
足早にその部屋を出て行こうとした。
 ドアに手を掛けたが、気になったので、私は後ろを振り返って彼女の方を見た。
本当はそれは絶対に見てはいけないものだったのかも知れない。彼女の表面が
次第に乾いて行くのが判り、見る間にそれはあの泥人形に変わっていったのだ。
おぞましい光景を見てしまった事を、私は後悔した。
 恐る恐る私は、そのさっきまで彼女だった乾燥人間に近付いた。表面はすっかり
乾ききって、私が訪れた時と同じ状態になっている。ふと、私は思った。途中でシャ
ワーをかけてもその蘇生時間は延ばせないのかも知れないが、一旦乾燥人間に戻
ってしまえば、再度シャワーをかけてやればまた蘇生するはずだろう、と。
 そして私は、忘れないように彼女の股間に付いている男性器の組成材料を取り
外そうとした。もう、あんな経験はごめんだからだ。だが、それは意に反して、容易
には外れてくれなかった。
『そうか、削り取ってしまえばいいんだ……』
 私はそれらしい道具を探した。多少削り取った後が残ったとしても、組成材料で
もう一度その部分を盛り直して修正してからシャワーをかけてやれば、何の問題も
ないはずだった。
 組成材料を入れてある木箱の脇に、それらしい工具がある。私はそれから、時
間をかけて男性器を削り落とし、彼女のそこをそれらしい形に組成材料で造り直
した。結構、骨の折れる仕事だった。
 作業を終えるまでにそれなりの時間がかかった気がするが、必死だったから
はっきりとはわからない。我ながら良く出来たと思う。道具を元に戻してから、私
はおもむろにシャワーのバルブを思いっきりひねった。
 彼女にシャワーの湯がかかり、次第に濡れた部分が全身に広がって行くのを、
私はじっと見詰めていた。大丈夫、もうすぐ彼女は蘇生して、またあの笑顔を私
に向けてくれるはずだった。
 今回はたっぷりシャワーを浴びせてやろうと思い、彼女の方はしばらくそのまま
にしておいて、私は床に置きっぱなしだった衣服を少し離れた所に置きにその場
を少し離れた。そして彼女の所にすぐに戻って来た。その時、私は頭から冷水を
浴びせられたような気分になった。
 彼女が、もう蘇生しているはずの彼女が、溶け始めていたのだ。
 本当の泥で出来た人形にシャワーを浴びせている時のように、彼女の表面が
溶け始めていた。慌てた私は、すぐにシャワーを止めた。まずい、と思った。彼女
をこのままにして帰るわけにはいかない。それなりに元に戻しておかねばと思い、
私は組成材料を彼女の表面に塗り始めた。だが、先程のように上手くはいかなか
った。
 表面が余りに濡れ過ぎているせいかどうかは判らないが、上手く組成材料が彼
女にくっついてくれないのだ。彼女が腰掛けた姿勢であるせいもあるようで、ボロ
ボロと落ちてしまう。私は彼女を寝かせることにした。
 だが、私が彼女を抱いて寝かそうとした時、とんでもない事が起こってしまった。
彼女の右足が、付け根から、鈍い音と共に取れてしまったのだ。
 私は慌てた。とんでもない事になってしまったと思い、必死に彼女を元通りに直
そうと試みた。だが、駄目だった。注意して彼女を動かそうとしたつもりなのだが、
これほどまでに乾燥人間がもろい物だとは思っても見なかった。芯のような物が
見えるから、きっとあれが骨に当たるんだろう。だがそれが折れてしまっているの
だ。もう、私にはどうしようもなかった。
 もし、このまま彼女が蘇生したら、一体どういう事になってしまうのか……それを
考えただけで、私はゾッとした。もはや、そこにあるのは彼女ではなく、ただの泥
人形にすぎなくなっていた。
 恐ろしくなった私は、服を手早く身に付けると、廊下に出てあたりに誰もいない事
を確認し、急いでその館を後にした。後ろはもう振り返らず、必死になって全速力
で駆けた。とんでもない事をしでかしてしまった。後悔してもはじまらないが……。
二度とこの館に近付くことはないだろう。悪い夢を見ていたんだ、と私は心の中で
叫んでいた。

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2007年8月 4日 (土)

乾燥人間 Ⅲ

『あれはやっぱり、夢か何かだったんだろうか?』
 結局、私がその場を訪れることが出来たのは、それから一週間程経った頃
だった。仕事が忙しくなり、夜遅くまでの残業が連日続いたせいで、とてもあの
場所に行こうという元気がなかったからという事もあったが、無意識的に近付く
のを避けていたのかもしれない。
 やっと久し振りに早く仕事が終わったので、そそくさと会社を後にしてあの場
所に向かったのだが、その館があった場所には、あの時竹田が言っていたよ
うに、華やかなパチンコ屋があり、独特のネオンと音楽が流れていたのだ。
 私は恥をかくのを承知の上で、その館の特徴を説明し、その辺で見かけたこ
とがないかと何人かに尋ねたが、答えは予期したものだった。そのパチンコ屋
もずっとここ二十数年来、その場所にあるという事だった。
 狐につままれた気分だった。どう何度考えても、その場所以外にはないのだ。
だが現実は……。その後、再び竹田と会った時にこの話をしたが、彼は私ほど
のこだわりは持っておらず、酒を飲んで不思議な体験が出来たからいいじゃな
いか、と極めてさばさばしていた。
「二人して、狐にでも化かされたんだろうぜ」
 現実主義の竹田は、物事の割り切りが私よりもずっと早いようだ。物事をいつ
までも未練たらしく考える傾向にある私には、そんな彼がうらやましくもあった。
しかしその竹田が交通事故であっけなく死んでしまったのは、私達が最後に会
った翌日の事だったらしい。
 彼が死んでしまった事に対する悲しみは、不思議とさほど起こらなかった。い
つの間にか私も、この街の持つ冷たさに冒されてしまっているようだ。所詮は
他人にしか過ぎない竹田が生きようが死のうが、私には関係ない事なのだ。
彼と親しくしていた時期もあったなあ、くらいにしか思わなかった。私はその後、
仕事に追われ気が紛れる日々が続いたせいか、あの館の事はいつの間にか
すっかり忘れていた。

 数ヶ月があっという間に過ぎ、ある夜私は会社の同僚達と連れ立って飲みに
出掛けた。彼らと別れた後、ぶらぶら酔いをさましがてら歩いていた時、いつの
間にか見覚えのある一角に自分が立っている事に、私は気付いた。何処をどう
歩いたものかは定かではないが、そこは数ヶ月前に今は亡き竹田と二人で、
ほうほうのていであの館から逃げ出してきた時に通った道だったのだ。
 私の心の中で、捨て切れずに眠っていた好奇心が甦って来た。もう一度だけ、
あの館を探してみようという気になった。私は微かな記憶を頼りに、あの時の道
順の逆をたどった。
『この角を曲がれば、あとは一本道だったな……』
 そう懐かしく思いながら、私はその角を曲がり、次の瞬間、幽霊でも見たかの
ようにその場に立ち尽くした。
「!……あった」
 その館は、確かに存在していた。
 懐かしい物に出会ったかのような、そんな気持ちだった。ここにこうしてあるの
に、どうして今まで誰もその存在に気付かず、見付けられなかったのだろうと不
思議だった。
 入り口のドアの前に立った時、私はふと思い出して、二階の窓を仰ぎ見た。
西洋風の大型の窓には、内側から白いカーテンが引かれ、内部は全く見えない。
以前、私が振り返って見た時には、部屋がかすかに明るく、カーテン越しに人影
が見えたような気がした事を思い出した。だが今は真っ暗である。
 私は駄目元で、そのドアのノブを回して手前に引いてみた。そうそう何度も上手
くドアの鍵がかかっていない事などある訳ない、と半ば諦めながらだった。だが、
そのドアはやはり鍵がかかっていなかった。
 意外なほどのあっけなさに、私は拍子抜けした。私はそっと内部の様子を伺った
が、以前の様に静まり返っていた。廊下は赤い絨毯が敷き詰められており、天井
はほのかに明るく、無限の彼方で廊下と天井が収束している。
 見慣れた光景だ。
 私は堂々とその館の中に入った。以前の記憶から、入ってすぐ左の部屋のドア
をそっと開けると、中に人の気配がないのを確かめて、その部屋に入った。

 部屋の明かりをつけると、私はこの前の人形のある場所に行ってみた。だが、
そこにこの前の人形は影も形もなかった。やはり、誰かが持って行ったのだと思
い、それはこの館の住人なのだろうと思った。恐らくこの館の住人は、新しい、
よりリアルなマネキンを造るのが仕事なのだろう。
 だが、何気なくふと反対側を見て、私はギョッとした。そこに、この前の人形が、
今度は簀の子に腰掛ける形で置いてあったのだ。近付いて、再びそれに触って
みて、私は再度ギョッとした。かすかに温もりがあるのだ。
 だが私は、周りを見回して納得し、思い直した。そんな馬鹿な事があるはずが
ない以上、この人形は多分、あのシャワーの温水を浴びて暖まり、その温かさ
が醒めぬうちに私が触っているのだろう。それ以外には考えられない。
『そうか、多分シャワーの湯で形を変えられる新素材か何かで造られているんだ
な。だからこうして、この前と違う格好でここに置かれてるんだ』
 理屈で状況の説明が出来たので、気分が落ち着いてきた。思い出したように
私はポケットからタバコを取り出すと、一服した。しかしそれにしても、目の前の
人形は良くできていた。何か、妙に色気のある人形だった。豊かな胸元を触って
いるうちに、私は変な気分になってきた。
『ちぇっ、どうかしてるな俺も。人形相手に発情しても仕方ないのに……』
 私はふと横のシャワーを見て、ひとつシャワーでも浴びて帰ろう、と大胆にも考
えた。この館の住人に見とがめられたら、その時はその時だと覚悟していた。泥
棒の類ではないのだし、精々住居不法侵入で警察に一晩留められるくらいで済
むだろう。
 私は早速衣服を脱ぐと、少し離れたパーテーションにそれらを掛けた。シャワー
の湯で濡れては困ると思ったからだ。ついでにその人形を少し動かしておこうと
思い、持ち上げようとした。温水に濡れて形が変わったのでは、私の責任になっ
てしまうと思ったからだ。
『お、重いな……』
 だがその人形は重くて、とても簡単に持ち上げられるような代物ではなかった。
まるで通常の人間ほどもある重さだった。マネキン程度の重量だろうとたかをくく
っていた私にとって、これは意外だった。
 結局、その人形を動かすことは諦めて、私はシャワーを浴びることにした。下手
に動かして、傷でも付けたり壊したりしては元も子もないと思ったからだ。
 そのシャワーにはバルブが一つあるきりで、温度調節できそうな物は付いてい
なかったが、多分温水が出るはずだと思い、バルブを少しひねった。少しぬるめ
の湯が出て来たので、安心してもう少しバルブをひねった。熱目のシャワーに慣
れている私にとっては少々温度が低いが、我慢できないほどではなかった。
『ぬるめのシャワーも、たまにはいいかもな……』
 そう思いながら、私はシャワーを浴び始めた。気になって人形の方を見ると、案
の定、シャワーの湯が派手にかかっていた。しばらく様子を見ていたが、形が変
わってくるとか湯を浴びて溶け始めるとかそんな様子はまるでなかったので、私
は安心して派手に辺りに湯をまき散らし始めた。
『さっき人形が少し温かかったのは、多分こうしてシャワーの湯がかかっただけ
なのかも知れないな……』
 そう思った。どうも私は、物事を理屈っぽく考えるという悪い癖があるようだ。
『待てよ、シャワーを浴びた後の、体を拭くタオルがないな……』
 そんな事を考えていた時、私の背中を見詰める人の気配らしき物を不意に背後
に感じ、ハッとして私は振り返った。次の瞬間、心臓麻痺でも起こして卒倒してし
まうかと思った。そこに、今の今まであったはずの先程の人形の位置に、全裸の
若い女が、簀の子に腰掛けて私をじっと見詰めていたのだ。

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