2008年5月17日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第五章(5)

「私自身のこともあるから。へたにトルコ語が喋れるぶん、私自身のこと
を色々詮索される羽目になるだろうし、私のプライベートの領域まで踏み
込まれるのは好きじゃないから」
「なるほどね、そういうことか」
「はい。すみませんけど」
「わかった。じゃ、話を戻そう。この下の階の人は、事件があった時に住
んでた人と一緒かどうか、聞いてもらえるかな」
「……同じだそうです。このアパートの住人で、事件後に移って行った人
は誰もいないし、この階に川田さんが入居した以外に、ここ数年変化は
無いそうです」
「じゃ、川田さんが入居する前は、ここには誰が住んでたの」
「……数年前にやはり日本人が一度入居したことはあるみたいですが、
それだけで、後はここの大家がずっと住んでたようです」
「ここの大家とは、連絡を取って会おうと思えばいつでも会えるのかな」
「……大丈夫だと言ってます。何なら自分が今から連絡してあげてもい
い、と」
「大家は何処に住んでるって」
「……ギョズテペ、比較的近くですね。もともと外国人向けのアパートが
有るわけじゃないので、本来そのアパートのワンフロアを購入して住ん
でるトルコ人の持ち主が、不動産屋なんかに依頼して入居希望者を探
してもらう場合が多いんです。外国人だとかなり高く吹っ掛けられますし、
大体はほとんど仕事で来てますから、多少値段が高くても払ってもらえ
るので高収入になりますしね。その間、持ち主のトルコ人はまた別の、
安いっていうかトルコの普通の値段のアパートに賃貸で入居して、利鞘
を稼いでるってわけです。そのアパート全体のオーナーが居て、居住者
全員が賃貸のみって場合もありますけどね。でも私に言わせれば、そ
の場合だって外国人相手の値段は、トルコ人に比べてとんでもない値
段が付いてますよ。もっとも、それが相場だって言われると、どうしよう
もありませんけど」
「ところで、このあたりは夜寝る時、窓を開けっ放しで寝ても大丈夫なの」
「……この辺の階なら大丈夫だろうが、普通は三階ぐらいまでは泥棒の
心配もあるので閉めていることが多いみたいだ、と。一階は何処でもだ
いたい、窓やドアに鉄格子がはまっています」
「このアパートで今まで、コソ泥の類の被害にあったことは」
「……全く無かった、と言ってます。今回の川田さんの件で、自分も立場
が怪しくなりかかった、と」
「カプジュとしての、本来のアパート管理業務の遂行能力に疑問を持た
れたわけか。犯人が入る時も出て行く時も、全くその姿を見て無いんだ
からなあ。責められても無理ないか」
 津田はせめて死亡推定時刻さえ判れば、と悔やんだ。今の状況では
あまりにも漠然とし過ぎて、犯人像が全く特定出来ないのだ。川田が
言っていたように、犯人が川田良子の顔見知りなのか、一元の強盗に
過ぎないのか、すらも定かでない。
「弘美ちゃん、ところでこの国は電話料金の支払いはどうなってる」
「毎月請求書が来て、郵便局で期限までに現金で支払うようになって
ます。期限までならイスタンブールの何処の郵便局でも支払えますが、
期限を過ぎると特定の郵便局でしか受け付けません。ここだったら、エ
レンキョイかボスタンジュになると思いますが」
「その請求書は、郵送か」
「ええ。名義人宛ての金額丸見えの、日本の郵便振込の用紙を小型
にしたようなものですよ」
「ということは、カプジュが郵便物と一緒にここに持って来てたわけだな。
金額もチラッとは見たこともあるだろうが、いつも異常に高かったとか、
そんな記憶は」
「……別に。時々国際電話をしてるようで、結構高額な時も有ったが、
外国人だからとそんなに気にはしてなかった、と」
「そうか、国際電話をすれば国内通話分なんてたかが知れてるから、
消されちまうな。この国は日本の通話明細みたいなものは発行して
るの」
「さあ、見たことありません。コンピューター管理されてるように見えて
ますが、実際は怪しいと思います。最近私のところの電話料金がえら
くバラついて請求されるんで、いつからいつまでの通話料金は幾らに
なってるのかの明細を聞きに行ったことがあるんですけど、判らない
らしくて、何やかや言って結局教えてくれませんでしたから」
「そうだ、翔くん、川田さんの息子さんなんだが、普段どんな様子だっ
たかわかるかな」
「……結構、近所やこのアパートの住人の子供達と、下で仲良く遊ん
でたようです。明るくて人見知りしない子供だったと」

 それから津田と杉本弘美は二、三質問した後、屋上を見てから、カ
プジュにその下の階の住人に引き合わせてもらった。だが幸い在宅
だったその住人に質問しても、当時のことはあまり覚えていない様子
で、特にこれと言った新しい手掛かりは何も得られなかった。
 また来るかも知れないからその時はよろしくと言い残し、二人はその
アパートを後にしてバーダット通りに出た。時刻はすでに昼の一時を少
しまわっている。

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2008年5月15日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第五章(4)

「……当日に、このフロアに入ったと思われる人間が居たかどうか、を
まず尋ねられたそうです。彼が知っている範囲では、アパートの住人
以外は出入りしていない、と答えたそうです。ただし彼は当日朝の十
時頃、五階の住人から買い物を頼まれて出掛けていますから、その
間に誰かが出入りしていればわからない、と」
「これまでここには、誰か尋ねて来たことがあるとか」
「……そこまではわからない、と言ってます。その事件の起こる数日前
に、日本人らしい若い女性が訪ねて来たのを一度垣間見てるので、多
分ここに来たんじゃないかと思うが、事件には関係ないだろうと思う、と。
このことは警察には言ってないそうです。警察は男性の出入りがあった
かどうかを執拗に尋ねたそうです。彼も容疑者的な扱いを受けたそうで、
とんでもないことだと言ってます」
「若い女性だって。初耳だな。特徴は、何か覚えてないか」
「……全く覚えてないそうです。髪の長い東洋系の顔つきだったことし
か。背は余り高くなく、ちょうど私より少し高いぐらいだったと思う、と」
「ふうん。ところで川田さんの奥さんは、どんな人だった」
「……親切で、笑顔の素敵な人だった。あんないい人が殺されるなんて、
犯人は何て残酷な奴だろう」
「川田さんの奥さんは、彼に色々用事を頼んでたのかな」
「……いえ、ほとんど自分で買い物等に行ってたみたいです。川田さん
から頼まれてたのは、毎朝の新聞の購入と時折ビールの注文やガスの
補充依頼がある程度で、郵便を持って行くと必ずチップをはずんでくれた、
と言ってます」
「彼女は、長時間の外出は頻繁にしていたのかな」
「……いえ、ほとんど出て行っても、小一時間程度で帰ってくることが多
かったようです」
「ふうん。ところで、彼女はトルコ語の方はどうだった。旦那さんの方はか
なり苦労してたみたいだけど」
「……全く喋れないと思ってたけど、結構それなりに意思は通じた、と言っ
てます」
「それなりに、とはどの程度」
「……普通に、と言ってます。これは自分個人の印象なんだが、彼女はト
ルコ語が喋れるのに、わざと下手に喋っているような感じがした、と」
 津田にとって、これは意外な答えだった。
『トルコ語が喋れるのに、上手く喋れないふりをしてたって言うのか』
「どうして、そう思ったのか、尋ねてもらえるかな」
 川田が赴任していたのは英語圏なので、もしそれが事実だとすると解せ
なかった。
「……単語を良く知ってたし、言葉の語尾変化に間違いがなかったから」
「言葉の語尾変化?何、それ。弘美ちゃん、わかりやすく教えてくれるか
な」
「トルコ語っていうのは、人称や時制を表わす接尾語が、動詞の後ろにく
っ付いていくんです。トルコ語を習い始めた当初は、私もかなり苦労しまし
た。単にくっ付いていくだけじゃなくて、子音が有声から無声になったり、
途中の母音が欠落したりするんです」
「彼女はその辺まで、ほぼトルコ語をマスターしてたってことかい」
「……そのようです。以前にここに長いこと居てトルコ語を勉強してたんじ
ゃないんですか」
「いや、川田さんの話では、彼女は大学時代に友人とイスタンブール旅行
をした程度だ、と言ってる」
「ふうん……そうですか」
「で、警察からはその後何か言ってきたのかな」
「……いえ、その後は何の音沙汰もないそうです」
「そうか、やっぱりな。迷宮入りになってる可能性が高いな」
「特にこれと言った証拠がないから、ですか」
「そう、たしかにこれは犯人の特定が難しいな。本郷を連れて来れば良か
った」
「本郷?お知り合いの方ですか」
「ああ、ちょっとね。ところで弘美ちゃん、警察の方には行ったらある程度の
ことは教えてもらえるのかな。指紋検出の結果とか、捜査上でこれまでに
判ってることとか」
「さあ……申し訳ないけど、私はその時は一緒に行きたくありません」
「え、行ってもらえないの」

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2008年5月13日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第五章(3)

「じゃ、カプジュを呼びますけど、いいですね」
 そう言うと杉本弘美は、玄関の脇の住人の呼び出し釦の下に少し離
れてある、『カプジュ』とトルコ語で書かれた釦を押した。ややあって、
玄関のドアのロックが内側から解除されるブザーのような音がして、同
時に杉本弘美はドアを押していた。
「へ?相手の確認をせずに、ドアロックを解除するの」
「ええ、大体こういう場合がほとんどです。だから、津田さんだって簡単
にこの建物の中に入れますよ。手当たり次第に釦を押せば、誰かがこ
うして招き入れてくれますから」
「厳重なシステムが徹底されてるものだとばかり思ってたんだが、現実
は違うってことか」
「トルコでそれを望むのは所詮は無理な話ですよ、津田さん。この国は、
たしかに一見パッと見はすごく良いように見えるんですが、良く見ると実
はそうじゃないんです。このアパートだって、そうです。日本の観点だと
いかにも鉄筋でしっかりした造りになってると思いがちですが、中身は
やわな煉瓦状のブロックの積み上げがほとんどで、鉄筋なんて数える
くらいしか入ってませんよ。壁なんて、ハンマー一つ有ればすぐに壊せ
るんですから。たとえるなら、ちょうど子供が造るダイヤブロックの建物
と大差ないですよ」
「じゃ、地震が来たら」
「はい、もちろんイスタンブールは壊滅でしょうね」
 こともなげに杉本弘美はそう言い切った。

 やがて怪訝そうな顔をしながら、カプジュが地下からのそのそと階段
を上がって来た。杉本弘美は彼に近付くと、流暢なトルコ語で話しかけ
た。しばらくの間、彼らのやり取りが続いたが、津田に判ったのはカワ
ダとかジャポンとかの類の単語にしか過ぎなかった。やがてカプジュは
地下への階段を降りて行った。
「津田さん、彼が例の川田さん一家が住んでいた部屋を見せてくれる
そうです。殺人事件があったせいで、後の入居者が未だに決まってな
いらしくって。このビルのオーナーから鍵を預かってて、本当はオーナ
ーや不動産屋の紹介で部屋を見に来た人間にだけ見せるように言わ
れてるらしいんですが、川田さんの知り合いということで特別に見せて
くれるそうです」
 この全く予期していなかったスムーズな事態展開に、津田は内心小
躍りして喜んだ。やがてカプジュが鍵をジャラジャラいわせながら、再
び階段を上がって来た。彼らはドアを引いてエレベーターに一緒に乗
り込むと、ドアを閉めたカプジュが最上階の十二階の釦を押した。エレ
ベーターが動き出し、同時に津田は唖然とした。動くエレベーター側に
ドアの類が何もないのだ。つまり眼前には各階のエレベーターのドア
が、時折上から下にむき出しのまま、コンクリートの壁と交互に流れて
行く光景がある。杉本弘美やカプジュが平然としていることから、これ
が通常なのだろう。
『まあ、エレベーターが動いている様子がわかると言えば、そういうこ
とになるんだが』
 到着した十二階には、部屋のドアは一つしか見当らなかった。ワン
フロアのかなり広い部類の高級アパートらしかった。カプジュが鍵を開
け、内部に彼らを招き入れた。ドアを開けた正面が応接間になっている
ようで、床にひかれた派手な絨毯が津田の目に飛び込んで来た。その
横で杉本弘美が色々とカプジュに尋ねている。
「この絨毯の上の、このあたりで、川田さんの奥さんが死んでいたそう
です。川田さんの絨毯だそうですが、彼が残して行ったらしくて、高い
物だし特に捨てることもないので、洗ってそのまま置いてあるそうです」
 自分が川田ならやはりそうするだろう、と津田は思った。そんな絨毯を
平然と持って帰れる神経がある筈もない。持って帰っていたなら、或い
は津田は川田を疑っていたかも知れない。
「かなり前の事だから、あまり覚えてないかも知れんが、彼にその時の
状況を説明してくれるように言ってもらえるかな。それと、警察にどんな
ことを聞かれてどう答えたのかも」
「はい……」
 窓からの景観が良いのを一瞥して、津田は川田から聞いたことをメモ
してある手帳を取り出した。カプジュがどんなことを警察に尋ねられたの
かは川田は知らない筈だから、その点を特に思い出してもらう必要があ
った。杉本弘美は、先程あらかじめスワディエの角のバッカルで買って
おいた、冷えた缶コーラをカプジュに勧めながら、色々と尋ねていた。
「津田さん……彼がその事件を知ったのは、川田さんが血相を変えて帰
って来た後で、多分時間は午後の四時半前後だったと記憶している、と
言っています」
 はやる気持ちを押さえながら、津田は順に一つ一つ、川田の説明の裏
を取るかのように尋ねていった。杉本弘美の喋るトルコ語は、津田が思っ
ていた以上だった。横で聞いていると、まるでトルコ人が二人で喋ってい
るような錯覚すら覚えたくらいで、逆に彼女の方が流暢に喋っていると言
えた。
「……で、警察からはどんなことを尋ねられたの」

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2008年5月11日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第五章(2)

 花屋のある一角を通って、彼らはドルムシュ乗り場に向かった。もち
ろん津田にとっては、乗るのは初めてである。彼方の駐車場の向こう
側に、ごつい黒塗りのかなりポンコツに近い車体ばかりが、幾つか並
んでいる光景が津田の目に入ってきた。
 ドルムシュとはいわゆる相乗りタクシーのようなものだが、その車体
は昔のアメリカ映画に登場するような大型の物ばかりで、新しい車体
はひとつもない。しかもディーゼルエンジンに乗せ換えているせいか、
乗り心地は今一つであり、車内も決してお世辞にも綺麗とは言えない。
 乗客定員は八名で、運転手の横に二名、中央座席に三名、後部座
席に三名が座れる。定員が揃わないと出発しないが、バスと違って自
分の降りたい所で運転手に声を掛けると降りられる便利さがあるし、
空き席があれば途中ルートの何処からでも乗り込めることもあり、現
地の人々の足としてよく利用されている。
 もちろん始発地と終着地は決まっており、ルートも大体決まっている
のだが、乗客の目的地によっては若干変更されることも稀にあるらし
かった。ただし最近では、あまりにも自由すぎることから規制の声も
聞かれ始めていて、決められた場所以外での乗り降りを禁止しようと
する動きもあるらしかった。津田はそういう簡単な説明を、歩きながら
杉本弘美から受けた。
「さ、乗りましょう」
 そう言うと杉本弘美は手慣れた雰囲気で、さっさとその並んでいる
一番前のドルムシュに近付くと乗り込んだ。慌てて津田もそれに続く。
運転手の右に二人と、後部座席に二人、そして中央座席に一人がす
でに乗っていた。彼らは二人分並んで空いている中央座席に隣あって
座った。
「最後の一人が来ないと出ないんだよね。出発までどのくらい待つの」
「急ぐ方法はありますよ。その空席の分も自分が払えば、ね」
「へえ。じゃ、一人でこの八人分を払えば、貸切にも出来るわけだ」
「そういうことです。でも庶民の足代わりだから、そこまでする人は居
ないですけど」
 そうこう言っているうちに、最後の一人が乗り込んで来て、津田のす
ぐ右にある今にも壊れそうなドアをバタンと強目に閉めた。しばらくの
沈黙が車内を支配し、やがて近くで話をしていた運転手がのろのろと
やって来た。やっと出発らしかった。

 ドルムシュが動き始めると、乗客はそれぞれ目的地を言い、運転手
に所定の運賃を支払う。定かでない場合は、運転手に大声で尋ねて
よいことになっている。中央の座席は後部座席の人間の金を運転手
に渡すという仲介作業が付加されているらしく、杉本弘美と彼女の左
側に座っているトルコ人が、当たり前のようにそれをやっている。不思
議と津田に依頼する人間がいなかったところを見ると、不慣れである
ことを見抜いているらしかった。
 そのドルムシュはカドキョイを出発すると登り坂を登り、やがてマクド
ナルドの名前の入った噴水を左に見ながら、道沿いに真っ直に進んで
行く。
「また、あんな無駄なことを。この水不足の時に」
 杉本弘美はその派手に上がる噴水を一瞥しながら、そう小声で言っ
た。ドルムシュは今度は坂を下り始め、やがて左折し、球場らしきもの
に沿って進んで行った。
「ここはフェナルバッチェっていうサッカーチームのホームグランドです。
トルコは、サッカーが盛んで、熱狂的って言ってもいいくらいなんです」
 ドルムシュは混雑した一角を抜け、やがて十分程行くと、左手に広い
公園のようなものが見えて来た。杉本弘美の横に座っていたトルコ人
が何やら運転手に言うと、そのドルムシュは急停車に近い形で、道路
の右に止まった。
「津田さん、いったん降りて下さい」
 杉本弘美にそう言われ、津田は苦労してドアを開けると、降りた。杉
本弘美がそれに続く。トルコ人が降りた後に、再び彼らが乗り込むわけ
である。ちょうどその場所には、トルコ人の太目の中年女性がドルムシ
ュを待って立っており、彼女は津田の後に乗り込んで来た。やっと津田
はシステム自体が理解出来た。それからしばらくの間で、乗客の何人
かが降りて行き、後部座席は空っぽになった。それでもその太目の女
性は後部座席に移ろうともせず、津田の横に窮屈に座ったままだった。
 やがて目の前に海が見えて来て、右に海岸線が見える景色が続いて
いく。彼らを乗せたドルムシュは、その海沿いの道に沿って走って行った。
「この道が、サヒルヨールって言われてる道です。つまり、海岸道」
 信号を幾つか過ぎたあたりで、杉本弘美が不意に運転手に言った。
「ムサイト・イェルデ……」
 それは津田にとっては、まるで魔法の呪文だった。運転手は軽く頷くと、
即座に車を止めたのだ。そして津田は杉本弘美に促されるようにして、そ
の中年女性のお尻を見ながら、ドルムシュから降りた。どうやら、彼らの
目的地近くらしかった。
「あそこにスワディエって書いてあるから、多分ここでいいと思うんです」
 杉本弘美の指差した道向かいのあたりに、青に白抜き文字で書かれて
いる小さな文字看板があった。サヒルヨールをわたる必要があるのだが、
東のボスタンジュ方面に向かう一方通行の道路なので、左側からの車だ
けに注意すればよかったので、津田にも渡るのは容易だった。渡り終えた
後は、その看板の向きにある道沿いに歩いて行った。
 やがて角にガソリンスタンドがある大きな四つ角に出て来た。杉本弘美
に、ここがバーダット通りです、と言われて津田は川田に書いてもらった
地図をポケットから取り出した。一度だけタクシーで訪れた時の記憶が、
わずかによみがえって来る。杉本弘美が歩きながら言う。
「ここは、日本でいうと青山通りってところでしょうね。銀座みたいな派手
さはないけど、高級な店が多いし、お金持ちが多く住んでるところです」
 やがて目指すアパートが見えて来た。入り口に立ち、津田は大きく深
呼吸を一つした。

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2008年5月 9日 (金)

RobbinⅡ-レイン計画- 第五章(1)

 翌朝、約束の時間ちょうどに、杉本弘美は笑顔で津田の前に現われ
た。彼らの待ち合わせ場所は、エミニュヌからカドキョイ行きの三番と
書かれたバプール乗り場の前だった。折しも、カドキョイからのバプー
ルが到着しようとしているところだった。彼女はちょこんと頭を下げると、
津田に小さなコインのような物を手渡した。ジェトンと呼ばれる専用硬
貨である。
「あ、これ何処で買ったの」
「そこの脇の、ジェトン売り場ですけど、何か」
 津田はそのバプール乗り場の前に大勢たむろし、声高に「ジェトン、
ジェトン」と叫んでいるジェトン売りが不思議だった。現にすぐ横でジェ
トンが買えるのに、わざわざ彼らから通常より高い値段で買う人間が
いるとは考えにくかったのだ。津田がそのことを尋ねると、彼女はちょ
っと首を傾げながら言った。
「さあ、どうしてでしょう。でも、バス乗り場の前にはビレット売りがいる
し、電話ボックスの前には電話用のジェトンを売る人間が必ず居ます
ね。それがトルコなんじゃないんですか」
 津田はちょっとはぐらかされたような気がしたが、その話はそれぐら
いにしておくことにした。そして二人は、乗り場の入り口にある、東京
ディズニーランドのエントランスに設置されているのに似た、駅の自動
改札のような機械の前に立った。専用のジェトンをまず手前の硬貨投
入口から入れ、それに続いて三本のバーが放射線状に出ている部分
を身体で押すようにしながら、そのバーを前に押す形でまっすぐに進む
と、ガシャという機械的な音と共に、自分の身体が待合室に入り、人
数的にもカウントされる。手馴れた手つきで、津田のすぐ隣を杉本弘美
が同様に移動して行く。
 到着した人々が一斉に降りおわった後、やがて待合室の門が開か
れ、目の前に停泊しているバプールに、入れ替えの形で乗り込むこと
が出来た。ちょうど朝の逆ラッシュになるため、さほど乗員はいない。
津田は杉本弘美に案内されるように二階のデッキに出て、そこの木製
のベンチに座った。
「ところで、俺は君のことを何て呼んだらいい。杉本さん、弘美ちゃん、
お嬢さん、ヒロリン、とか色々あるんだが」
「そうですねェ。でももう、津田さんが私を呼ぶ呼び方は決まってるみた
いだけどな」
「へ、そうだっけ?」
「ちょっと子供子供してて、気になるけど、仕方ないかもね」
「……ああ、ごめん。別にそんなつもりで」
「いえ、いいんです。言ってみただけですから、全然気になさらないで下
さい」
 杉本弘美が慌ててそう言う横で、津田はいつものように愛用の煙草を
出し一服しようとしたが、もうお馴染みになってきた彼女のキツイ言葉が
即座に飛んで来た。
「津田さん。ここは禁煙です!」
「げっ」
 全く予想してなかっただけに、津田もびっくりした。
「トルコ人って、もともとかなりの煙草好きなんですけど、こういうところで
は禁煙なんです。もちろん市内バスや普通の列車の中もね。普通の人
は結構守ってるんだけど、中には不心得な人が居ます」
 そう言うと彼女は、あごでしゃくるように、デッキのすぐ脇で煙草を吸っ
ている数人の若い男女を示した。津田は素直に謝ると、煙草を懐にしま
い込み、手持ち無沙汰に周りの景色を見ることにした。
 カドキョイに到着するまでの間、杉本弘美は津田に色々と、その左右
に流れるあちこちの景色をずっと説明してくれた。その行程は約二十分
程度の比較的短いものだったが、二人でずっと話していたこともあり、
津田にはそれがあっという間に感じられた。

 波に揺れる小舟が幾つも岸壁に繋がれている、そのすぐ横の船付き
場に、そのバプールは到着した。何人かの人間がまだ渡し板がかから
ぬうちに、岸壁に飛ぶように渡って行くのが見えた。
「トルコ人って、我慢できないんでしょうね、こういうの。津田さんはもう気
付いているかも知れないけど、街中を車で走ってると、信号が青に変わ
るか変わらないかのうちに皆走り出すし。律義に信号を守って青になっ
てから発進しようとして一瞬でも遅れたりすると、いきなりクラクションの
嵐が後ろから起こりますからね。ほんのちょっとのことなのに」
「そう言えば、そうだね。そういう意味じゃ、日本はよっぽどマナーがいい
んだね」
「ここが異常なのかもしれませんよ。高速道路だって、車間が開いてれば
すぐにウインカーも出さずに割り込んで来るし、危ないったらないですよ。
だから、日本だったら考えられないような事故も結構多いんです。高速道
路の大型同士の正面衝突とかね」
「へえ……ところで、あれは魚を売ってるわけなの」
 津田は渡し板を渡りながら、岸壁に繋がれ波に揺れている複数の小舟
の方に顔を向けて言った。その前の岸壁には比較的大き目の、赤く丸い
浅い皿のような物が並んでいた。
「ええ、そうです。でも表面が乾燥しないように、この海水をかけてるんで
すよ。おせじにも綺麗とはいえないんですけどね。これは私個人の考え方
だから強制する気は全く有りませんけど、津田さんはあんまりトルコで魚
は食べない方がいいと思います。日本人だから欲しがる気持ちはわかる
んですが、黒海のPCB汚染もありますから。以前に黒海のPCB汚染が
問題になった時、領事館からおふれが回った経緯があるし、食べていい
魚、悪い魚を書いた一覧リストも見たことがあります。それに、トルコでは
魚料理は肉料理より高級で、結構値段も張るんですよ」
 津田はふと、ガラタ橋の下で軒並み焼き魚のいい匂いをさせて誘って
いる、魚料理レストランを思い浮かべた。まだ幸か不幸か彼は入ったこと
はないのだが、これまで入ろうかどうしようかと何度か迷ったことはあった
のだ。
 ジプシーの花売りが数人たむろしているその後ろは、小さな公園のよう
になっており中央には、一人の男が男の子と女の子に何かをさとしている
ような、黒い銅像が一段高く有った。
「アタチュルク、か」
「ええ。トルコの何処へ行っても、お目にかかるでしょうね。トルコ建国の
父と言われてますけど、でも結局彼も上手くおだてられて、政治に利用
されて終わった気がしますけどね」
 相変わらずストレートな表現の彼女の言葉だったが、津田はあながち
穿った見方ではないような気がした。杉本弘美はつと歩き出すと、近く
にいたトルコ人に何やら話しかけ、頷いて津田のところに戻って来た。
「行きましょう。ボスタンジュ行きのドルムシュ乗り場は、あっちのバス停
の横みたいです」

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2008年5月 7日 (水)

作者の簡単レビュー 【その22】

 第四章はかなりボリュームがありましたが、いかがだったでしょうか。
この物語自体はもちろんフィクションなのですが、いたるところに現実の
イスタンブールの息吹を配置したつもりです。現地にいるような気になっ
ていただければ、筆者冥利に尽きます。
 次回からの第五章のサブタイトルは「疑惑の影」です。舞台はイスタ
ンブールでも、津田や杉本弘美のいるヨーロッパ側ではなく、事件の
あったアジア側に移ります。生き生きとした街の人々の息遣いが表現
出来ていればいいのですが…。

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2008年5月 6日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第四章(11)

 杉本弘美にとって、この津田の行動は意外だった。よく近くの子供達
が路面電車を面白がって、車両後部の金属で出来た熊手のように出っ
張っている部分に掴まって、ただ乗りのように面白半分にぶら下がって
いるのを、彼女は何度も見ていた。だが大の大人が、別の目的でそこ
にぶら下がっていたなど、想像すらしていなかった。
 そう言われてみると、津田を見つける少し前に、路面電車が目の前を
横切って行った気がする。
「でも、どうして私があそこに居ることが、津田さんにわかったんですか。
それにいつからあそこにいたのかも、全然わからなかったし」
「勘さ。それに見付からないようにするのは仕事柄、得意だからね」
 そう短く笑顔で言うと、津田は愛用の煙草を取り出し、彼女に断って
から旨そうに一服した。
「面白い人ですね、津田さんって」
 杉本弘美は、思っていたことが素直に口を突いて出たので、自分でも
びっくりした。
「へ?」
 その津田のきょとんとした表情に、思わず彼女は笑い転げた。彼女が
これまで気を張って生き抜いて来たこの地での生活の中で、失われた
ものは多い。だが今の二人の時間の中には、彼女が思わずホッとさせ
られる、懐かしい何かが確実に有った。
「じゃ今度は、津田さん、お仕事の話を詳しく聞かせて下さいな」
 そう言うと彼女は、二杯目のビールを注文した。夏だと言っても、日本
のように冷房が効いているわけではないので、そのビラハネの中はか
なり蒸し暑く、窓を開けているとはいえ、外の方がまだ涼しいように津
田には思えた。新たに運ばれてきた冷えたビールが咽に心地好い。
「じゃ、話そう。端的に言えば、さっきも君に言ったと思うけど、プライベ
ートな調査ってことになる。ただしちょっと内容が内容なんで、一切他人
には口外しないで欲しい。これが君に依頼するにあたっての、こちらの
条件だ。いいかい」
「他人に知られるとまずいことなんですか。いいですけど、悪いことに利
用されるのはお断りですよ、津田さん」
「ああ、もちろん。そんなんじゃ無いんだが、どうもあまり人に好かれる
職業とは言い難いんでね」
「そう言えば、津田さんのご職業をまだお聞きしてなかったですね」
「聞いたら多分、身構えるかもね。探偵なんだ」
「探偵!それって、あの」
「念のため言っとくけど、私立探偵じゃないよ」
「じゃあ、興信所の人、ってことですか」
「そう、びっくりした?でもゆすりやたかりを商売にしてる輩とは、違うつも
りなんだが」
「だから、調査と言ったんですね」
「ああ。何だったら、今からでも遅くないから、断っていいよ」
「まさか。私って、そんな女に見えますか。ここに二年半も住んでれば、
そんなことでいちいち驚いてちゃ生きてけませんよ」
 杉本弘美はそう言って微笑んだ。歳相応のあどけない少女の面影と同
居する、一人の女の逞しさがそこには垣間見えた。
「わかった、じゃ調査内容の説明をしよう」
 津田は、今から一年ほど前にこの地で起こった、川田良子殺害事件と
塚本美雪の件の顛末を、かいつまんで杉本弘美に説明した。彼女は額
に皺を寄せながら、じっと聞き入っていた。
「雨を知り過ぎたって、何のことだか見当付かないですね」
「そう、謎めきすぎてるんだ。だからとにかく明日にでも、さっそく現場に
一緒に行ってもらって、そのカプジュとやらを中心に、色々聞き込みの
手伝いをして欲しいんだが」
「了解。スワディエだったら、エミニュヌからバプールでカドキョイまで渡っ
て、サヒルヨール沿いにドルムシュかバスで行けば簡単です」
「何だい、そのドルムシュって言うのは」
「ふふ、明日になれば判りますよ。多分、津田さんはバプールも未体験
なんでしょ」
「ああ。お恥ずかしい話だが、タクシーでしか移動してなかったからね」
「仕方ないでしょうね。トルコ語が喋れなければ、そういう現地の乗り物
はどうしても敬遠しがちになってしまいますから。多分、バスに乗ったの
も今日が初めてだったんでしょ」
「そうだね。お陰でいい経験させてもらってるよ」
「ふふ、それは額面通りに取っておくことにします」

 その日は二人はそこのビラハネを出た後、チュネルの近くにある彼女
の知っているトルコ料理レストランで夕食を済まし、明日の待ち合わせ
場所と時間を決めて別れた。そして津田は杉本弘美に教えられた道を
通って、カラキョイまで降りた後、結局ホテルまでぶらぶらと歩いて帰っ
たのだった。
 杉本弘美の教えてくれた道は、チュネルの駅入口脇の楽器屋のある
通りを通ってガラタ塔まで出て、彼女が通称「娼婦坂」と呼んでいる急な
坂道を降り、カラキョイまで出て来る道だった。ガラタ塔周辺にはディナー
ショウ目的の観光客がたむろしており、一方で娼婦坂の途中の左に入る
道の十メートル程先の左側には、何やら目をギラつかせた男達がそれな
りの異様な雰囲気を作っている。そこに赤線地帯があることを、津田は男
の勘で悟った。
『表の顔と、裏の顔か。さしずめ病んだ観光都市の姿、ってところだな』
 矛盾したようでもあるが、だがこれが冷酷な現実だった。津田はなぜ杉
本弘美がわざわざこの道を通って帰るように彼に教えたのか、何となくわ
かるような気がした。

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2008年5月 5日 (月)

RobbinⅡ-レイン計画- 第四章(10)

「ここが、本当のチチェック・バザール、つまり花市場。もっとも花を売っ
てるのはここの入り口の店だけで、あとは普通の市場ですけどね。ち
なみに言うと、この先の左の路地を行った所にはシュテッシっていう、
豚肉を売ってる店があります。イスラム教の国だから一般には豚肉は
食べないの、それは御存じでしょ。その近くには、もやしを売ってたり、
季節によっては白菜が出てる時もあるわ」
「ふうん、もやしと白菜か。日本食にも不自由しないってことかい」
「でも、白菜は輸入物みたいで、冷凍ですよ。解凍して売ってたから」
「へえ。じゃ、大根とかごぼうもあるわけ」
「いいえ、残念ながらそれは見たことありません」
 彼女は津田の少し先に立って歩きながら、色々並んで売られている
物の説明をしてくれた。やがて右に行く路地を指差して、彼女は言った。
「この先に道の両側にレストランが並んでるんです。トルコ料理の店で
すけど、そっちで食べた方が、さっきのチチェック・バザールって名前の
出てる建物の中で食べるより、ずっとおいしいと思うわ。どこでもそうだ
けど、観光名所化してるところでおいしい物を食べられるはずないです
しね。でも今はまだ早いから、ビラハネで一杯やりましょ」
「ビラハネ、って」
「直訳すればビールの家、要はトルコの一杯飲み屋さん。もっとも女性
はまず居ない筈だから、日本の大衆酒場みたいな所を想像しちゃうと、
津田さん、きっとがっかりすると思うな」
 彼女はそう笑いながら言うと、その路地沿いの左側にある一軒の店
に入って行った。津田も彼女に続いて入ったが、例によってその場に
居合わせたトルコ人達の視線を一斉に浴びた。彼女は別にそれを気
にするわけでもなく、二階への階段を上がって行く。津田もそれに続
いた。彼女はさっさと窓際のテーブルに腰掛けると、近付いて来たボ
ーイに何やら早口で言った後、正面に座った津田の方を向いた。ボー
イがうなずいて去っていくところを見ると、トルコ語が喋れるというのは、
たしかに間違いないようだった。

「さて、じゃ津田さん、あそこからここまで来る方法の正解をお教えしま
しょう。まず一番手っとり早いのは、バスを利用することでした。これだ
と上手く循環バスに乗れば、乗り換え無しでタキシム広場までやって
来られます。あそこからだと、T1って書いてあるバスがそれにあたりま
すけどね。バスのビレット、つまり乗車券は持ってないと思うけど、どこ
でもバス停の近くにはビレット売りが居ますから、値段を気にしなけれ
ば彼らから買えます。ちなみにバスにはニ種類あって、市営バスとマビ
バスって通称言われてる個人経営のバスがあるんです。そのマビの方
だと、チケットが無くても現金でもいいんです」
「それ以外のバスに乗った場合は、どうすればいい」
「今回の場合だと、行き先にもよりますけど、安全策としてはエミニュヌ
で、トルコ語でバプールって言いますけど、つまり汽船の乗り場が三つ
並んで有った所で降りた方が間違いないです」
「えーっと、シルケジ駅って言ったかな、それが有るあたりのことかな」
「あら、多少は御存じみたいね。そうです。バスが新市街の方へ行くの
か、旧市街側を回るのかは、多分津田さんには判断がつかないまま
乗ることになると思いますから」
「その、エミニュニュ」
「エミニュヌ」
「そう、そのエミニュルで」
「エミニュルじゃ有りません、エミニュヌ!」
「難しいな。そのエミニュヌで降りた場合は、それから先は」
「仕方ないから、ガラタ橋を歩いて渡り、カラキョイでチュネルに乗って
イスティックラル通りまで上がって来た方がいいでしょうね。カラキョイ
から娼婦坂、ごめんなさいね、これは私が勝手に付けてる名前なんで
すけど、そのかなり急な坂道を登ってガラタ塔の所に出て来れば、イ
スティックラル通りまですぐ出られますけどね。チュネルって言うのは、
直訳するとトンネルって意味なんですけど、一駅だけの地下鉄ってい
うか登山電車みたいなのが、この地下に走ってるんです」
「あとは、歩いてここまで、ってことになるのかな」
「そうですね。ここはイスティックラル通りのちょうど中間あたりになりま
すから、どっちから歩いても早足ならせいぜい五分強ってとこでしょうね。
知ってれば、イスティックラル通りを走ってる路面電車に乗るのもいい
でしょうけど。あれもバスのビレットが使えますし、持ってなければ乗っ
てから車掌から買えます」
「ふうん……ところで、弘美ちゃんはどうやってここまで来たの」
「私は、アタチュルク橋からシシャーネ、テペバシって所を経由して、タ
キシム広場を通ってメジデイキョイまで行くバスが来たのでそれに乗り
ました。ちょうどこの裏手あたりで降りて、ここまで歩いて来ました」
「なるほど」
「津田さんは?怒らないから、正直に言って下さい。タクシー、使ったん
でしょ」
「いいや、本当に使ってないよ。ほとんど今のパターンさ」
「本当に。だとしたら、凄いわ」
「タネ証しするとね、観光警察だっけ、観光客用の相談窓口みたいなも
のがあそこの近くにあったよね。あそこだけはちゃんと英語が通じるか
ら、そこでここまで行く方法を聞いたのさ。バスの番号を聞いて、ビレット
売りから切符を買って乗ったよ。チュネルの入口を見つけるのに少し手
間どってアセったけどね。だけど、一つだけ違うところがある」
「違うところ」
「そう、走っても間に合わない可能性があったんで、最後にイスティック
ラル通りを走る路面電車を使ったんだけど、乗ったわけじゃない」
「?」
「チュネルを出た所に路面電車の乗り場があるじゃない。そこにある
路線図っていうのかな、それを見ながらチチェック・バザールって尋
ねたら、親切な人が指差して教えてくれたんで大体の位置は見当
が付いたんだ。でも乗っちまうと、チチェック・バザールを見付けても
途中で降りられないと困ると思ったから、ちょっと無断で後ろに掴ま
らせてもらった」
「え」

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2008年5月 4日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第四章(9)

 結局津田は、彼女に通訳を頼むことに決め、顔見知りになれたこと
を祝って、夜何処かで一緒に夕食を食べようということになった。
「チチェック・バザール、わかりますか」
「は?」
「イスティックラル通りは、どうです」
「はあ。ちょっと……」
「チュネルはご存知ですか」
「すみません、何ですかそれ」
「じゃ、タキシムは?」
「それなら、何とか」
「じゃあ、ちょっと津田さんに苦労してもらいましょうね。いいですか、タ
クシーは一切使わないこと。歩くだけも駄目。ここからイスティックラル
通りのチチェック・バザールの前まで十五分以内に来て下さい。私は
そこで待ってます」
「俺を試そうっていうことなのかな」
「ま、そう言うことになりますね。幾ら何でも、あんまり足手まといにな
られると、こっちが迷惑するでしょ。私にだって、一緒に仕事をすること
になる以上、相手を選ぶ権利は有ると思うわ」
「厳しいなあ。でも、ま、仕方ないか」
「じゃ、十五分後に……。会えることを祈ってるわよ、津田さん」
 そう言うと杉本弘美は、足早に去って行った。後に残された津田は
ただただ唖然とその後ろ姿を見送るばかりだった。
『参ったな、思いのほかに気の強いお嬢さんだ。だが、彼女の言うこと
も一理あるしな。さてと、兎に角、イスティックラル通りのチチェック・バ
ザールとやらに十五分以内に行かないと、せっかく見付けた優秀な通
訳のお嬢さんが、何処かに消えちまうわけか』
 津田はどういう手段で行ったら良いのか、考えあぐねていた。どれも
何となく記憶にある名前なのだがすぐには思い出せないうえに、全然
頭の中でそれらの場所的な関連性が理解出来ていなかった。領事館
が近くにある関係で、タキシムは何度か行ったことがあるので判るの
だが、タクシーを使わないで、という彼女の条件は厳しかった。津田は
これまでタクシーでしか動いていないのだ。
『バスに乗るって言ってもなあ、何番のバスに乗りゃいいんだ。それに
俺はバスの切符なんて持ってないぞ』
 そうこう考えているうちに、ふと腕時計を見ると、すでに貴重な五分が
過ぎ去ってしまっていた。やがて津田は、その公園と道路を挟んで反
対側の角に、ちょうど地下宮殿の入り口の反対側にある観光警察の
窓口に向かうと、何やら尋ねた後、再び先ほどの公園の側に道を渡っ
て行った。

『ああは言ってみたけど、大丈夫かしら』
 杉本弘美はイスティックラル通りに面したウインピーに入ると、一階の
席にすわりコーラを飲みながら、正面にあるチチェック・バザールの入口
を見詰めていた。
『やっぱり、ちょっとキツかったかなあ。一週間しかいないほとんど観光
客に近い人が、あそこからここまでタクシー使わずに十五分で来るのは
無理だったかしら。悪いことしたなあ、諦めて帰っちゃったかも知れない
な。私がからかったと思ったかも……』
 少々、自分の先ほどの言葉を反省してみるのだが、今さらどうしようも
なかった。
『ちゃんと来てくれたなら、もしタクシー使ってたとしても、大目にみちゃ
おうかな』
 ちょうど彼女は、帰国しようかどうしようかと迷っているところだったの
で、通訳の仕事なら少しは気分転換になりそうに思い、引き受ける気
でいたのだった。理想と期待感に胸膨らませてイスタンブールにやって
来たのが、つい数ヶ月ほど前のような気がする。
『私は結局ここで、人間を失ったのかも……』
 ふと彼女がそんなことを考え始めながら、チチェック・バザールの横に
何気なく目を向けた時、彼女は自分の目を疑った。じっと立ったまま腕
組みをして、店の中で座っている彼女を見詰めている、サングラスを掛
けた一人の見覚えのある男の姿が目に入ったからだ。
「津田さん?でも、そんなに早くどうして」
 彼女は津田が来てくれたことが嬉しかったが、同時に失望感もあった。
先ほどまでは、たとえ大幅に遅れても、津田がここに約束通り来てくれ
さえすれば、通訳の仕事を請け負うつもりになりかかっていた。だがこう
してほとんど彼女とほぼ同じくらいに、明らかに後発の地理に詳しくない
津田がここに到着するためには、安易にタクシーを使ったとしか考えられ
ないのだ。
『もう少し骨のある人かと思ってたんだけどな。でも、仕方ないな。骨の
ある男なんて、ここにいるわけないもの。馬鹿ね、私。一体何をあの人
に期待してたんだろう』
 彼女は津田の視線に促されるように店を出ると、津田の所に一直線
に歩み寄って行った。
「よっ、気が付いてくれたみたいだね。弘美ちゃん」
 津田は笑顔で彼女にそう言ったが、彼女の方は津田を睨みながら、
ふくれっ面で言った。
「津田さん。タクシー使ったでしょ!」
「何もそんな怖い顔して睨まなくてもいいじゃない。約束通り使わなか
ったよ、本当だよ」
「嘘!タクシー使わずに、貴方がこんなに早くここに来られるはずがな
いわ」
「おいおい、信じてくれないのかい。思い込みの激しい娘だなあ」
「じゃ、どうやって来たのか、伺いたいわ。それに貴方は一体いつから、
ここに立って私を見てたの。全然気付かなかったけど」
「その前に是非とも、正解を教えて欲しいな」
「いいわ。じゃ、ここじゃ何だから、場所変えましょ。ついて来て」
 そう言うと杉本弘美は、チチェック・バザールと書かれた建物の入り口
を通り過ぎ、その脇の露店市場のようになっている所に入って行った。

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2008年5月 3日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第四章(8)

 海外で女一人でこれまで生き抜いてきた自信が、彼女から日本女性
の女らしさやしおらしさを奪ってしまっていると言えなくもないが、津田は
それは仕方のないことだと承知していた。女らしさを成田に捨てて来る
覚悟でいなければ、たとえ親日的なトルコとは言え、とても今まで無事
で居られるはずもなかった。中途半端に可愛いい女を引きずりながら、
自分の意思で長期を生き抜いていくなど、絶対に不可能なことなのだ。
男ですら、それに耐えられる人間は最近では少なくなってしまっている。
『若いのに似合わず、結構しっかりしてるんだなあ』
 と、職業柄これまで色々な人間を見てきた津田が驚嘆するぐらいだか
ら、よっぽどである。だが津田はそんな彼女と話していて、ふと一抹の
不安を感じた。
『たしかに必死になって生きてるのは判るんだが、何て言うか、こう、虚
勢を張ってる弱さみたいなものも感じるんだが。彼女って、根は結構デ
リケートに出来てるんじゃ無いのかなァ。海外じゃストレスは結構たまる
から、発散しようがなけりゃあ、落ち込んで精神的に不安定になること
だってあるわけだし。ふ、考え過ぎだな。トルコ人の彼氏がそのあたり
はフォローしてるんだろう、きっと。それにそこまで俺が関わり合いにな
る必要もないか』

 簡単なテストのため、近くのバッカル、早い話が日本で言うキオスク
のようなもの、で唯一カラフルでない新聞を購入すると、津田は彼女と
先の遊牧民の看板のかかっている店を訪れた。
「やあ、津田さん」
 狭い螺旋階段を二階に上がると、絨毯売り場となっているフロアー
があり、そこには日本語を流暢に話すトルコ人兄弟がいた。接客中だ
ったが、津田の姿を見つけると、笑顔でそう気軽に声をかけてきた。
「ああ、お友達とご一緒なんですね」
 三兄弟のうち一番年少のハッサンが、そう津田に言った。三十前の
割には童顔な部類なのだが、イスラム教徒の慣習でひげを生やして
いると、皆かなり年齢以上に年上に見えるから不思議なものである。
「ちょっと場所、借りていいかな」
 津田は空いている一角をあごで指して、そう尋ねた。
「ええ、どうぞ。飲み物はチャイにしますか、それともビール」
 笑顔でハッサンがそう受け答えた。ここ数日間、彼らは津田に嫌な
顔ひとつせずに、いつも歓迎してくれていた。口コミで観光客が訪れ
ているのだが、彼らは丁寧に絨毯の良し悪しの見分け方を説明し、
もし気に入ればと必ず前置きした上で、色々な絨毯を広げていく。観
光地でありながら、決して無理に押し付けるような売り方をしないとこ
ろが、良心的な店である事がわかる。値段も近隣の観光客相手の店
の数分の一にしかすぎなかった。
 絨毯の売買交渉の風習なのだろうが、一つのスペースが大型絨毯
を広げられるぐらいの広さで区切られ、それが幾つか隣り合っている。
津田はハッサンにちょっと耳打ちすると、一番奥の大きな部屋の片隅
の、絨毯が平らに積み上げられている場所に上がると、横に杉本弘美
を手招いた。
「じゃあ、悪いんだけど、ちょっとテストさせてくれるかな」
「はい、何をすればいいですか」
「この新聞の…」
 そう言って津田は、先ほど買った新聞を広げた。
「ここの記事、訳してくれないかな」
 津田は適当に記事を指差した。
「……ああ、教育省のユゼル氏がプロジェクトを新規に起こす奴ですね」
 杉本弘美は、まるで日本語の新聞を読んでいるかのように、流暢に説
明し始めた。そのあたりに絨毯を探しにやって来たふりをして、ハッサン
が横で耳をそばだてて聞いている。
「と、いう内容です。ご理解いただけましたか」
「ふうん」
 感心したふりをして、津田はそっとハッサンの方を見る。ハッサンは少
しうなずくと、絨毯を一枚持って去って行った。内容が間違っていない、
という証拠だった。運ばれてきたチャイをおいしそうに飲みながら、杉本
弘美は言った。
「トルコの新聞って、まるで日本のスポーツ新聞みたいでしょ」
「たしかに」
 やたらカラー印刷の一面が目立つ新聞が多かった。日本のそれと比
べると、印刷技術はまだ見劣りするものの、たしかに見た目のインパク
トはある。
「どうして、ジュムフリエット紙を選んだんですか」
「ああ、この新聞のこと」
「ジュムフリエットって、日本語で言うと共和国って意味なんです」
「ふうん。新聞の名文字だけが赤くて他がモノクロだったから、ただ何と
なく選んだだけだよ」
「そうですか。実は私が購読してるのも、この新聞なので」
「へえ、そうなんだ」
 やがて巨漢のトルコ人が津田に挨拶にやって来た。ハッサンの兄にあ
たる次男のアルパッサンだった。朝一から車を飛ばしてヘレケにシルク
絨毯の仕入れに行っていたらしいが、良い物が見つからなかったとぼや
きながら、ビールを津田と杉本弘美に勧め、自分も一緒に飲んだ。
「帰ってきてたのか」
 商談を終えたハッサンが、その場にやって来て、話に合流した。
「お二人とも、すごく日本語がお上手なんですね」
 杉本弘美が、感心したように言う。
「はい、日本好きですから。それに私たちが相手している八十パーセント
は日本からのお客さんだから、話せないと困るしね」
「アルパッサンさん、ってこの前の日本領事館主催の日本語コンテスト
に出られてませんでしたか。私の思い違いなら、ゴメンナサイ」
「よくご存知ですね。出ました」
「新聞記事に載ってた写真に写ってた人とすごく良く似てるから、ひょっと
したらと思って」
「そりゃあ日本語が上手いはずだ。で、結果はどうだったんですか」
 津田が尋ねた。
「はい、優勝しました」
「すごーい」
 杉本弘美は自分のことのように、嬉しそうな顔をした。
「実は、アルパッサンには逸話があってね」
 ハッサンがニヤニヤしながら言った。
「?」
「昔、街角で座って歌を歌っている日本人女性がいたんです」
「また、その話か」
 苦笑いしながら、アルパッサンが言う。
「ちょうど日本語を習いたてで、日本人と話したかったアルパッサンは
隣に座って、しきりに話しかけたんです」
「それで」
「でもその彼女は無視しながら、歌い続けていた」
「ふうん」
「それでも、アルパッサンは自分は怪しい者じゃないと言って、話しか
け続けた」
「ふむふむ」
「そうしたら、遠くでカーットって声がして」
「カーット?」
「そう、プロモーションビデオの撮影だった」
「えー、本当に」
「はい、えらく怒られました。その人は歌手だったらしい」
「その歌が、飛んでイスタンブール」
「へえ…」
「嘘でしょ」
「いえ、信じてもらえないかもしれませんが、本当の話です」
 アルパッサンとハッサンは、笑顔でそう言った。

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2008年5月 2日 (金)

RobbinⅡ-レイン計画- 第四章(7)

「え?ああ、いや、その何て言うか」
 その彼女は、くったくのない笑顔で津田に話しかけてきた。夏休みを
利用して、イスタンブールに観光に来ている女子大生のような雰囲気
だった。通りすがりで親切に声を掛けてくれたようだったので、無視す
るわけにもいかず、津田は正直に言った。
「トルコ語の通訳を探してるんだけど、全然見つからなくて」
「ああ、それで……」
 彼女は津田の隣りに座ってもいいかと尋ね、ベンチに腰を下ろした。
「お仕事か何かで来られたんですか」
「ええ、まあ。貴方は、こちらへは観光で?」
「いえ、観光じゃないんです」
「観光じゃない、じゃあ留学されてる学生さんなんですか」
「いえ。何て言うか……」
 明解な答えが返ってくると思っていただけに、彼女が口ごもったのが
津田には意外だった。だが様子からして、あまりその部分には触れて
欲しくないように感じられた津田は、すぐに話題をそらすことにした。
「領事館の方にも尋ねてみたんですが、以前ならそれらしい人間が一
人いたようなんですよ。でも今は該当者無しみたいで、諦めて引き上
げようかと思ってたところでしてね」
「通訳って、どんな通訳なんですか」
「トルコ語の堪能な日本人を探してたんです。結構、高望みしてるのか
も。もっとも、トルコ人に色々細かいニュアンスを尋ねてもらうことになる
から、日常会話が出来る程度じゃ話にならないんです」
「ふうん。内容はどんなことなんですか」
 津田はちょっと躊躇したが、引き上げるつもりでいたので、気軽に言
った。
「調査、なんですよ。プライベートな、ね」
「調査ですか」
 彼女はしばらく考えあぐねていた風だったが、やがて冗談っぽく笑顔
で言った。
「面白そうですね、もし私でよろしかったら、お手伝いしてさしあげます
けど」
「え?」
 津田はまさか彼女の口からそんな言葉が出るとは思っても見なかっ
たので、唖然として思わずしげしげと、真近の彼女の顔を見詰めてしま
った。
「あの、今、何と」
「ええ、私で良ければお手伝いする、と言いましたけど。私じゃ役不足
ですか」
「とんでもない!でも失礼ですが、トルコ語の方は大丈夫なんですか」
「人並み以上には喋れると思ってますけど、ご心配でしたらお試しにな
りますか」
「テレビのニュースとか、新聞は読んで理解出来ますか」
「特に不自由は感じてませんけど」
 彼女は笑顔で言った。津田は地獄に仏を見た思いだった。からかわれ
ているかも知れないのだが、今は彼女の言うことを信じてみるしかなか
った。
『騙されてるのかも知れんが、ま、いいか。他に手段は無いんだし』
 彼女は簡単に自己紹介をした。それによれば、彼女の名前は杉本弘
美と言い、イスタンブールに二年半ほど滞在しているらしかった。住居は
タキシムの一角で、トルコ人女性とアパートで共同生活しているという。
これまでの二年間は留学生の生活をしていたらしいが、最近半年ほどは
大学の友人の紹介で、通訳や翻訳のアルバイトをしているらしかった。

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2008年5月 1日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第四章(6)

 それから一週間後、スルタン・アホメット・ジャミイとアヤ・ソフィアの間
にある公園のベンチで、困惑して昼間から座り込んでいる津田の姿が
あった。
『弱ったな。予想してたとは言え、何て報告すりゃいいんだ。完敗じゃな
いか』
 津田の口許からは、さすがに溜息ばかりが漏れていた。通訳が見つ
からないという、懸念されていた最悪の事態になってしまったのだ。す
でにこれまで、津田はあらゆる手段を講じて通訳を見付け出そうとして
きたのだが、全て空振りに終わってしまっていた。
 一番自然そうなカバーとして、彼は新進のルポライターになりすまし、
いの一番にイスタンブールの日本領事館に乗り込んでみたのだった。
もちろん贋の名刺と、それらしい出版物を持って行くことは忘れなかっ
た。それらを利用して、ひとしきりこれまでの嘘の実績を説明し、今回
トルコ各地の人々の生活に触れると同時に、それを通して、かつての
東ローマ帝国から現在に至る栄枯盛衰のトルコの歴史や遺跡の数々
を特集記事にするためにやって来た、とそれらしい目的をでっち上げ、
ついては現地の人にも取材をしたいので、トルコ語と日本語の通訳の
出来そうな人物を紹介してもらえないかと持ちかけ、かなりねばった
のだが、あいにく今はそれらしい人物はいない、とやんわり断られて
しまった。
 脈はあるようだったので津田は、一応泊まっているホテルの名前と
電話番号を伝え、もし該当しそうな人間が見つかったら是非連絡して
くれるようにと頼んだ。ホテルのチェックイン時に記入した本名の津田
は、同伴で来ている雑誌社カメラマンということにしておいた。その方
が自然だし、格好が付くわけである。そのせいか、領事館で津田の
応対に出た人間も、彼のことをすっかり信じ込んでいるようだった。
「普通ですと、一般の方にこの種の紹介はしないことになってるんで
すが、そういうことでしたらトルコの紹介にもなるわけですから、個人
的にはなんとかしてあげたいんですがねえ。つい数ヶ月前だったら、
一人該当する人間がいたことはいたようなんです。留学生でしたが、
アルバイトに通訳の職を探してましてね。彼女だったら適任だったん
でしょうが、残念ながら今はもう帰国してしまったんで、紹介してあげ
たくてもねェ」
 と残念そうに言ってくれたのが、せめてもの救いと言えば救いであ
った。日本であったらこうも簡単にことは運んでくれない。
 次に津田は、若い日本人観光客でイスタンブールに長期滞在して
いる人間を探し出すことにした。横の繋がりから、通訳の出来そうな
人間が居ないかどうかを探ろうとしたのだ。泊まっているホテル近く
の遊牧民の看板のかかった店は、絨毯屋と出来たばかりのホテル
の両方を経営している店であったが、そこにも足を踏み入れ、日本
語のかなり流暢なトルコ人兄弟とも親しくなり、何人かを紹介しても
らったものの、簡単な日常会話は出来ても、結局は通訳レベルに達
したトルコ語の喋れる人間は居なかった。
 最後に残った手段として、彼は日本企業に接触してみることにした。
トルコ語の通訳を雇っている可能性が強かったからである。だが津田
の意に反して、接触してみた数社は全て、英語の喋れるトルコ人が
通訳の役目を果たしており、わざわざ日本人通訳を雇う必要はない
という見解だった。

 トルコ語が出来なければ調査など出来るはずもないことは、この一
週間で津田も身にしみて感じていた。実際に川田が住んでいたスワ
ディエのアパートにも一度足を向けたのだが、応対のカプジュは全く
英語が通じなかった。そのアパートの住人で英語が喋れるというトル
コ人にも会ってみようかと考えたのだが、迂闊に核心に触れるわけ
にも行かず、結局アパート周辺の様子を探った程度で、そのまます
ごすごと引き下がらざるを得ない羽目になっていた。
 もちろん彼自身も必死にトルコ語を覚えようと試みているのだが、
所詮は生活レベルの会話でしかなく、最低限トルコ語の現地新聞
が自由に読めて理解できるレベルでなければ、調査になりはしな
い。それに残念ながら、今さら新しい外国語を短期間でマスター出
来るほど、彼の頭は柔軟には出来ていない。
『完敗だ。二度目があるかどうかは判らんが、出直すしかないな』
 津田は今さらながら、安請け合いをしてしまったことを後悔した。
川田の落胆する様子が脳裏にちらついた。最早これ以上イスタン
ブールにいても金の無駄遣いだった。サマータイムを実施している
ので、今のトルコと日本との時差は六時間である。今から日本に連
絡を入れて引き上げる準備をしようかと、津田が思い始めた矢先だ
った。
「あの……何かお困りなんですか?」
 若い日本人らしき女が、津田が座っていたベンチに近付いて来て、
彼に声を掛けたのだ。

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2008年4月30日 (水)

RobbinⅡ-レイン計画- 第四章(5)

 周辺を散歩がてらに見ておこうと、津田はアヤソフィアやスルタンアホ
メットジャミイの見える先程の大通りまで来ると、カパル・チャルシュ(グ
ランド・バザール)の方に歩き出した。埃っぽい乾いた空気が何とも言え
ず、それに輪をかけるように、通り過ぎる車の排気ガスが混じってくる。
やがて右手に、遠目に見ても明らかな、林立した観光土産物店群と思し
き一角が不意に見えてきた。その屋根あたりには丸い小型の、よくジャ
ミイのメインドームにおまけのようにくっついている、椀をひっくり返したよ
うな、一種独特の形状のものがずらりと並んで見えている。
『ま、今くらいだけは、噂のグランド・バザールの中を覗いたって、罰は当
たらんだろう』
 津田はそんな軽い気持ちで、カパル・チャルシュの方に向かった。表に
は観光客目当ての安物の土産物を売る人間達が、声をかけながら幾人
もたむろしている。道沿いのレザーショップや絨毯屋からも、しきりと呼び
込みの声がかかる。
 津田の前にも、観光客と思しき人間が数人歩いていたが、彼らはいか
にも観光客らしく辺りをきょろきょろ見渡しながら地図を持って歩いている
ので、たちまちおもちゃのような笛や絵葉書、独楽、明らかにプリント印
刷されていると判るジャミイの入ったバスタオルのような物などを手に持
った、物売りの男達の格好の的になっていた。
 その後ろに続く津田とて、物珍しいのであちこち左右に目を走らせなが
ら歩いているのだが、彼は決して頭まできょろきょろさせない。だから顔
は正面を向いたままである。そしてサングラスをしているお陰で、津田の
目線が彼らに見えないことが幸いしていたと言える。物売りにすれば、
津田は観光客ではなく、勝手を知っていて目的地に向かって歩いている
人間のように見えていたのかも知れなかった。

 古ぼけた門からカパル・チャルシュの内部に入った津田は、思わずそ
の金屋街の毒気に呆れ果ててしまった。その門から遥か彼方に続く道
の両側は金色で輝いていたのだ。時折、歩く津田の脇から、日本語で
呼び込みの声がかかる。津田は内心苦笑しながら歩いていた。貴金属
を扱っている店が並んでいることもあるのだろうが、時おり自動小銃を持
った警官らしき人間が立っているのが目に入った。瞬時に、セーフティ・
ロックが外されていることが読み取れた。
 金屋筋から奥の方に繋がる道を曲がって行くと、その中はまるで迷路
のようだった。衣料品を売っているブロックがあるかと思えば、絨毯、ア
ンティーク、銀製品、トルコ民芸品を売っている各ブロックがあり、カフェ
テリア、レストラン、郵便局、両替所まで有ったのだ。
 津田が最初に入って来た金屋筋に戻るまでの間、かなりあちこちから
日本語の呼び込みがかかった。たちの悪いのになると、「財布が落ちま
した」と言ってこちらの反応を伺っている男もいる。特に絨毯のブロックで、
しきりと声がかかる。もっともこれは仕方ないとも言える。呼び込みの人
間は一説によれば、絨毯が売れた場合、その利益の三十パーセント程
度を仲介マージンとして手に入れることが出来るらしいのだ。
『よっぽど日本人の旅行者は、いいカモなんだな』
 津田は昔の経験から、比較的簡単に元の金屋筋に戻ることが出来た
が、これが通常の人間だと完全に迷子のようになってしまうだろうと思え
た。およそ二十ほどある出入り口の門に加え、内部の道が複雑に入り組
んでおり、微妙に曲がっていたり緩やかな坂になっていたりする。人混み
の凄さや店に並ぶ品々に気を取られ始めると、その方向感覚が次第に
狂わされていくのだ。そして結局、全く知らぬ門から出て戸惑い、再びそ
の中で何処をどう歩いているのか判然としないままに、何とか元の場所
へ戻ろうと悪戦苦闘する羽目になっていく。
 津田とて本当なら、洋子に金製品でも何か買って行ってやりたいのは
やまやまなのだが、今からそれに金を使うわけには行かなかった。全て
はこれからの調査の進捗次第なのだ。津田は順調に調査が終わること
を心から願いながら、カパルチャルシュを後にした。

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2008年4月29日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第四章(4)

 やっと一息つけた、という感じだった。ふと、腕時計を見るといつの間
にかとっくに昼になっている。よく考えてみれば、朝到着して以来、何も
口にしていなかった。急に空腹感が出てきて、思わず軽い眩暈に襲わ
れた津田は、何処かで軽い食事をしようと外に出ることにした。
 バッグから三大貴重品、とは言ってもパスポートと現金と帰国用のオ
ープンチケットだが、を取り出すとポーチに入れて手に下げ、バッグには
鍵をかけたうえで自転車用の番号合わせのチェーンを取っ手に通すと、
その一方をテーブルの足にくぐらせ結び付けた。俺はお前達を信用して
いないぞということが見え見えで、津田としても余り好きではないやり方
なのだが、安易に相手を信用するには、津田は少々これまでの経験が
多すぎた。
 ホテルの前の道を大通りとは逆方向にしばらく歩いた後、近くのトルコ
人相手のロカンタ、日本で言う大衆食堂に入った津田は、いっせいにそ
の場にいたトルコ人達の目線を浴び、さすがに一瞬たじろいだ。商売柄、
逆の立場に立たされると弱いものである。川田の言った通り、英語は全
く通じないようだった。もっとも、物を食べるのに流暢な英語は必要ない
のだが。オリーブオイル独特の香りが、津田の鼻に付く。初めて見るだ
けに、津田も物珍しくあたりを見回していた。その店は観光客にはほと
んど縁がないらしく、やがて店の従業員が持って来たメニューには、トル
コ語しか書かれていない始末だった。
 相変わらず皆、物珍しげに津田の方をちらちらと見ていた。『地球の歩
き方』に簡単なトルコ語の料理や物の名前が出ていたのを思い出したが、
ホテルに忘れてきてしまっている以上、どうにもならない。自力で何とか
するしかなかった。ジェスチャーや英語交じりでこちらの意思を必死で伝
えようとするのだが、そのボーイは英語が全く判らないようで、なかなか
上手く行かなかった。そのうち、その様子を見ていた何人かのトルコ人
が、津田の座ったテーブルの周りに寄って来て、彼を取り囲んだ。
『な、何だ?』
 津田は内心身構えていたのだが、彼らは津田にではなく、そのボーイ
に何事かを早口で言っていた。頷いたボーイは奥に引っ込むと、やがて
何やら皿に入れた物を運んで来て、津田のテーブルに置いた。何種類
かの料理の材料が山積みされている。周りの人間はジェスチャーで、ど
うやら津田にこの中から食べたい物を選べと言っているようだった。結局
津田はその中の一つを指差し、ボーイは頷いた。周りを取り囲んでいた
人間達も、津田に笑顔で挨拶すると、めいめいにもと居たテーブルに戻
って行った。津田の困っている様子を見かねて、手助けに来てくれたよ
うだった。
『結構いいとこ、有るじゃないか』
 津田は親日国であるトルコ人の気質の一端を垣間見た気がした。もち
ろんそれが全てではないのだろうが、少なくとも人が困っているのを見な
がら、見て見ぬふりをする何処かの国の人間よりは、津田にははるかに
好感が持てた。それまでの出来事が、たったこれだけで一気に帳消しに
なったような気さえしてくるのだから、人間というものは単純に出来てい
るらしい。
 やがて先に運ばれて来たコーラが三分の一ほどに減った頃、その料
理が運ばれて来た。日本のハンバーグに良く似ているが、一個一個が
もっと小さく、数個がその皿に盛られている。いわゆるトルコで一般にキ
ョフテと呼ばれているものだった。その横に玉葱の千切りが紫色の香辛
料に大雑把にまみれ、緑のパセリのようなものの微塵切りが一緒にな
って乗っている。
『…お。結構、旨いじゃないか』
 香辛料のきつさを除けば、結構日本人の口に合うと言えた。テーブル
の上に別に置かれたバスケットに入ったフランスパンのぶつ切りをちぎ
りながら、津田はそれなりに満足のいく食事をすることが出来た。そして
やがて食事を終えた津田は、ゼロの多いトルコリラの金額に戸惑いなが
ら勘定を済ませ、その店を出た。

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2008年4月28日 (月)

RobbinⅡ-レイン計画- 第四章(3)

 汽船の波止場が道の向こう側に並んでおり、その前がやはりバスタ
ーミナルになっているのを横目で見ながら、津田は道なりに歩いた。
歩道橋のあたりで道がいきなり九十度右に曲がっている。真っすぐの
海沿い側にも大きな道は続いているのだが、たいていの車は右折して
いくのが目に入る。
 その角を曲がると、道向こうに大きな建物があった。ヨーロッパ側の
鉄道の終着駅と言われるシルケジ駅だった。かなり急な登り坂になっ
ているその道の先を何気なく見ると、市営バスが坂の途中の細い道
を左に曲がって消えて行くのが見えた。その道は少し左になだらかに
曲がる感じの登り坂だった。道なりを取るか、バスの通った道を取るか
で、津田は少し考えて、バスの通った道を行くことにした。
 先ほど学んだ方法で道を渡った後、津田はその道のある角を左に曲
がった。本来はバス二台が通れる程度の広さのある道なのだが、道
の左側は車が軒並み駐車しており、今はバス一台が通れるほどの道
幅でしかなかった。左手には、良く見るとホテルという文字が結構目に
付く路地が多いようだった。その道をまっすぐ行くと、T字路の突き当た
りになっていて、車はみな右の方に曲がって行く。そこも登り坂だった。
 道の反対側はずっと高い城壁のようなものが続いている。くねっと曲
がった道沿いに歩いて行くと、左手に派手な看板の公園のような所が
あり、そこを過ぎると、赤茶色の壁のジャミイが突然その姿を現わした。
キリストのモザイク画が壁の中から出現したことで有名な、アヤ・ソフィ
アだった。
 そのアヤ・ソフィアのある角は、一見して十字路のように見えたが、
良く見るとアヤ・ソフィアの前の道は一段高く荒い石畳になっていて、
他の道とは様子が異なっていた。そして、アヤ・ソフィアの正面の石畳
の道向かいに公園を挟んで、俗にブルー・モスクとも呼ばれているスル
タンアホメット・ジャミイが、その六本のミナレットに囲まれるように佇ん
でいた。その辺は観光のメッカらしく、大型の観光バスが何台も停車し
ていた。

 津田の目的地は、ちょうどこの北側になる。彼はその角を右に曲がり、
北の方に向かった。もうこの辺になると、目的地がすぐそこにあるという
安心感から、周りを見る余裕もかなり津田には生まれていた。道の反
対側には、例のイスタンブールを舞台にした『ロシアより愛をこめて』で
登場してくる、知る人ぞ知る地下宮殿への入り口が、地味にひっそりと
存在している。
 ちらちらとそれらを見ながら、彼は歩いた。ちょうど最初の路地のある
あたりの道向かいに、日本語で『遊牧民』と看板をあげているピンク色
の壁の店があった。日本人相手を主とする何かの土産物屋のように思
われた。ふと右のその路地の先を見ると、やはり日本語で『瑛理都』と
書かれたホテルの看板がある。たまたまだったのだろうが、外国で日
本語の看板を相次いで見てしまうのは、津田にはあまり気持ちの良い
ものではない。日本人はいいお客さん、と皮肉っぽく言われているよう
な気がしてならないのだ。
 もっともたいていの旅慣れてない日本人観光客にとっては、その異国
の地で見る日本語の看板に安心して懐かしくなるのか、誘蛾燈に誘き
出された虫のように、ついその店にふらふらと向かってしまう傾向にあ
るようである。たしかに良心的な店もあるだろうが、そうでない店もある
のは事実である。そしてそれは、英語もろくに喋れない日本人の心理
を巧みに利用しているという気がして、日本人の端くれである津田にと
っては、いたって面白くない商売方法なのだ。
『それだけ日本人観光客が多いってことか』
 訝しがりながらも、津田はその二番目の路地を右に曲がった。下り坂
になっているその先の左側に、英語で 『OLD TURKISH BATH』 と
書かれた看板のあるハマムがあり、営業中らしく、盛んに短い煙突の
ようなものから蒸気が吹き出していた。その手前側の隣りあたりに、目
指すモラ・ホテルが有るはずだった。近付くと隣りは、ガラス製のドアに
単に『HOTEL』と書かれているだけだった。
『多分、ここだろう』
 津田の推測は正しかったのだが、あいにくそこは閉鎖中だった。
「クローズドって、おい…営業してないってことかよ。参ったな」
 まったく予想すらしていなかった事態だった。当てが外れた津田は、
兎に角この辺に泊まる所を見付けなければとやっきになって、あちこち
のホテルを尋ね歩いた。
『迂闊だった。観光シーズンだってことを甘く見過ぎたな。日本からまと
もに予約を入れてもらった方が良かったかな』
 今さら後悔しても、すでに遅かった。さほど調査費が裕福に与えられ
ているわけでないので、出来るだけ安いホテルに泊まるに越したことは
ない。最終的にそれは水増しされ、川田に請求される羽目になること
を知っているからこそ余計だった。それに津田は万一を思い、前借り分
とは別に自分の金を持って来ているが、それにも限度がある。海外で
金がなくなってしまうと、もうどうしようもない上に惨めな思いをするだけ
なのは、津田は身にしみて知っていた。

 結局、弧軍奮闘の挙げ句、津田は先ほどの遊牧民の看板のある店
の比較的近くの、トプカプと言う名の安ホテルに泊まることになった。
津田が通された部屋は、少し薄汚れた壁が何とも言えぬ雰囲気を醸し
出していた。それに通りに面しているので、少々車の音がうるさいよう
だった。だがこの部屋しか空いていないのだから、あきらめて我慢する
より仕方がなかった。それにさすがに津田も、これ以上炎天下でホテル
を転々として空き部屋があるかどうかを尋ねて回るのには、少々精神
的に疲れてきていた。
 とりあえず、シャワーを浴びるまではいかないが、埃だらけの手や顔
でも洗ってすっきりしようと、津田は洗面所の水道の蛇口をひねった。
だがどういうわけか、まったく水が出ない。頭に来た津田が即刻フロン
トに文句を言うと、毎年夏場は結構断水が多いのでこればかりはどうし
ようもない、と言う木で鼻をくくったような返事が返って来た。
『やれやれ、最初からこんなんじゃあ、先が思いやられるな』
 どっと疲れが出たような気がした津田は、空港に降り立ってからこれ
まで、珍しく長い時間煙草を吸っていないことにふと気付いて、胸ポケ
ットから愛用の煙草を取り出すと、これも愛用のオイルライターで火を
付け一服した。異国の地でその蒼い色の紙箱を見ることはもうないだ
ろうと思っていただけに、余計に懐かしく感じられた。

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2008年4月27日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第四章(2)

 そのうちバスは、不思議と自転車を売る店ばかりしか両側に並んで
いない短いトンネルを通っていった。そしてすぐに、石垣で出来た大き
な二階建ての橋のようなものが架かっている下をくぐり抜けた。すぐに
細い川のようなものが正面に見え始める。津田は地図を広げ、金角湾
に違いないと思った。その金角湾の手前にロータリーがあるのが見え、
その先には橋が金角湾を跨いでいた。
 津田はバスの正面の、金角湾を挟んだ対岸が新市街なんだろうなと
勘で悟った。ホテルらしき高い建物が右の方の奥に二つ三つ目立ち、
ほとんど岸辺に近い方にはくすんだ色の、屋根の部分が灰緑色をした
古びた丸い塔が立っているのが見えた。総じて小高いこんもりした丘の
上に古ぼけた建物群がひしめき合って立っている、という印象だった。
一方で金角湾を挟んだ手前側には、旧市街がある。いかにもイスラム
教の国らしく、所々にジャミイのミナレットが突出している。不思議と新
市街の方には、ジャミイのミナレットはほとんど見られない。
『観光客で来たかったよ、まったく』
 津田は、よほど調査が順調に終わらない限り、自分がこの地の観光
名所を回ることはないだろうと思っている。そして、このイスタンブール
の旧市街は、その幾多の観光名所で溢れているのだ。津田はまるで
おあずけをくった犬状態だった。世界的に有名な観光名所が近くにあ
れば、行ってみたいと思うのが人情である。そんな津田の気持ちをよ
そに、バスは橋を渡り始めた。
『ここは、ガラタ橋なのかな。それともアタチュルク橋なのか』
 どちらかわからなかったが、右手にもう一本橋が見えるのを見て、津
田はそれがアタチュルク橋であることが判った。やがてバスは橋を越え
た所の坂道のロータリーを右に曲がり、THYと書かれた飛行機会社の
ものと思われるオフィスを左に見ながら小さな脇道へと入り、そこのす
ぐ先の行き止まりの広場で止まった。どうやら終点のシシャーネという
所らしかった。

 アクサライという所をとうに過ぎていることだけは明白だった。だがすぐ
そこに旧市街の全景が広がっている。精々歩いてもたかが知れている
と判断した津田は、唯一の手荷物のバッグを持って、そのすぐ前の急な
下り坂になっている道を降り始めた。電気街のような所がずっとその道
の両側にあり、坂を下り切った所で、正面にある大きな道路が大きく右
の方にカーブしているのが見えた。そのまま右に曲がると、目の前に橋
があり、その正面に大きなジャミイがあった。
『これが……有名なガラタ橋、か』
 津田は先程のアタチュルク橋からこのガラタ橋の距離と、自分が歩い
てかかった時間を比較した。旧市街の全体の大きさを想像したのだ。下
り坂で荷物があることもあるが、のんびり歩いて津田の足で約十分とい
うところだった。思った程の距離ではないように思えた。彼はガラタ橋の
上をゆっくりと渡って行った。その右隣りに平行に大きな橋が建設されて
いる。時折、足元の小さな揺れを感じた津田は、観光ガイドにこれが浮き
橋であると書かれていたことを思い出した。
 橋を渡り切ったところには横断歩道や信号はなく、向こう側に渡るため
にはどちらにしても、目の前の車がひっきりなしに通る道路を、強引に横
断するしか手はなさそうだった。彼はちょうど道路を渡ろうとしているトル
コ人をすぐ近くに見付けると、急いで駆け寄り、その右側に立った。こん
な不慣れな所では、トルコ人のすることを見習うしかない。津田はそのト
ルコ人と常に平行になるように気を付けながら、彼を真似て道路を渡って
行った。よしんば失敗して万一車が突っ込んで来たとしても、そのトルコ
人が津田の盾になるわけである。
 だがその道は両側通行なので、前半はそれで良くても、後半は今度は
逆に津田が盾になってしまった。幸い車の流れが途切れたところを見計
らって、彼は見よう見真似で首尾良く道路を渡り終えた。そのジャミイの
前は、バスターミナルになっているせいもあるのだろうが、人の波でごっ
た返している。活気にあふれた物売りの声が、あちこちで聞かれた。
 少々地理に自信がない津田だが、そんなところでイスタンブールの地
図を平然と広げる気にはならなかった。おおむね、こういう場所でのみ
活躍するある種の人間もいる。津田はもちろんそういう目には遭いたく
なかったし、可能性として否定できない以上、迂闊に地理の判らぬ観
光客然とした態度をしない方が良いのは、彼としても当然のことだった。
現に、元イスタンブールのスリだった傭兵と、彼は過去のミッションで出
会ったことがあるのだ。
 旧市街のこの丘の向こう側に、目指す目的地がある筈だった。彼はそ
の巨大なイェニ・ジャミイの前を左の方に歩き始めた。大きな道に沿って
行った方が良いと判断したのだ。それに大体の地理をその目で確かめ
ながら歩く必要もあった。

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2008年4月24日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第四章(1)

「飛んでイスタンブール……恨まないのがルール、か」
 津田は複雑な気持ちで、朝日の差し込むイスタンブールのアタチュル
ク国際空港に降り立っていた。いきなりわけの判らないトルコ語が予想
以上に氾濫する世界が目の前にあり、かなり面食らっているのは事実
である。独りで乗り込んで来たことに、津田は流石に少々不安になった。
『川田さんの話だと、空港や観光客相手の店以外は、全く英語は通じな
いらしいが……ま、心配しててもきりがない。とりあえず、市内に行って
泊まる所を見付けないとな』
 結局そうは思っても、何とかなってしまうものだということは、津田はか
つての経験から知っている。市内と空港を往復する定期バスは何処の
国でも存在するはずなので、まずはそれを探すことから始まった。
 出来るだけ周りを見渡さないように気を付けながら、観光客然とした様
子が知られないように、彼は空港の到着ロビーをざっと一周し、その雰囲
気に慣れようとした。そしてしばらくしていったん外に出ると、知人を待っ
ているふりをしながら、いつもの煙草で一服した。ゆっくりと周りを見渡し
ながら、外国人が乗り込んでいるそれらしいバスを探す。
 それまで成田を出発する以前から何度も見返していた『地球の歩き方』
に書かれてあった「シシャーネ」という地名を思い出しながら、それらしい
バスを探した。数分後、やっとのことでイスタンブール市内行きの、シシャ
ーネと何とか読めそうなトルコ語で書かれたプラカードを掲げている、一台
のかなり古ぼけたリムジンバスを見つけ出した。津田はそれに乗り込むと、
本を取り出し、これから泊まろうとしている旧市街のラフな地図を見直した。
ふとそんな自分の姿が、まさしく日本人観光客そのものであることに気付
き、思わず津田は苦笑いした。周りには明らかに外国人観光客と思われ
る人間が何人も座っており、おそらくそのバスで間違いはなさそうだった。
 川田が言うには、トルコに来る若い日本人観光客はほとんどと言ってい
いほど、この本を持っているらしい。たしかに、トルコについて書かれた観
光ガイドブックの中では、比較的内容も判りやすく砕けているし、読みやす
いのは事実だった。だが同時に、読者対象が若い人間という印象もあり、
川田に言わせれば、彼のように仕事で赴任する人間の欲しがっている情
報とは若干ニュアンスが異なるらしい。だが今の津田には、これで充分だ
った。

 バスは間もなく発車し、添乗員らしき人間が運賃を集めに来た。津田は