2009年7月 4日 (土)

Robbin - コドモノチカラ - (4)

「別に、罪悪感などありませんよ」
 高木壮一郎は、女性レポーターのインタビューに、毅然としてそう
答えた。
「後ろめたいことをしているわけじゃない。社会奉仕の一種ですよ」
 今や、高木壮一郎が率いる高木グループは、医療法人をベース
にした世界的な総合企業となっていた。この男の一挙手一投足に
世間の注目が集まっており、時代の寵児ともいえる存在である。
「この世界中で、臓器移植のおかげで命を救われた人はたくさんい
ますよ。自分の死をすぐそこに意識しなくてもいい健康な人たちは、
臓器移植は罪悪だと言うのかもしれない。でもね、自分や自分の愛
する人が死に瀕していて、臓器移植という手段が残されているのな
ら、そんなに簡単に生をあきらめることができると思いますか」
 高木壮一郎は熱く語り始めた。両手でオーバーアクションを取りな
がら熱弁をふるうたび、そのダイヤをちりばめた左手首のロレックス
が妖しく光る。話し相手のうらやましげな視線が一瞬そちらに注が
れるのが、彼の優越感をくすぐる。

「みんな、死ぬわけにはいかないから、仕方がなく臓器移植を受け
るんです。その臓器移植のお手伝いを、私達はしているんです。た
しかに移植で使われるのは、もしかしたら万にひとつの可能性とし
て、おっしゃるように元は臓器売買による臓器だった可能性がある
のかもしれない。だが我々は、闇の組織を相手にしてるわけじゃあ
りません。この商売は信用を失くしたら成り立たないですからね。正
当なものであるという確証のもと、この国際ビジネスを行っています」
「臓器の入手元はどのあたりからですか」
「それは企業秘密です。ノーコメント」
「海外での臓器移植を希望される人に、高額で斡旋しているという
噂を聞きますが」
「根も葉もないうわさ話でしょう、馬鹿馬鹿しい」
「来週インドに海外出張される、という噂をうかがっていますが」
「さあ、知りませんね。それが、何か」
「臓器、特に腎臓の買い付けではないかと」
「失敬な!」
 それ以降、高木は一言も喋らなくなった。明らかに気分を害している
のがわかり、カメラがいったん止められた。女性レポーターは困り果て
て、横のプロデューサーを救いを求めるような目で見つめた。
「申し訳ありません、ご気分を害されてしまわれましたでしょうか」
「当たり前でしょう。こんな内容を放送するんですか」
「ええ、まあ…最近の医療事情という特集の一環なもので」
「臓器買い付けなどという表現は、イメージ悪化につながる。気を付け
てもらわないと困るね。お宅の放送局に、正式に抗議文を送ってもい
いんだが」
「申し訳ありません。その部分は放送時には編集でカットさせてもらい
ます。ご安心ください」

 ドアがノックされ、秘書の女性が顔をのぞかせた。取材の時間は高木
が超多忙であることを理由に、わずか十分間しかもらえていなかったの
だ。
「申し訳ございません、次の予定が入っております。お引き取りいただ
けますでしょうか」
 彼らがしぶしぶ退室するのを見届けて、彼女は高木の傍にやって来
ると小声で言った。
「今しがた、厚生省の宮嶋局長が、内密で至急お目にかかりたいと」
 高木は、彼女の膝上ミニスカートからのぞく太ももあたりを一瞥した。
秘書でもあるが愛人でもある彼女と、最近はろくにプライベートに会う時
間さえ取れていない毎日なのだ。その太ももがやたらと色っぽく感じら
れ、彼のその衝動を刺激する。
「用件は何か言ってなかったのか」
「はい、特には何も。でもひょっとすると、来週のインド行きの件ではない
かと」
「どうしてそう思う」

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2009年6月21日 (日)

Robbin - コドモノチカラ - (3)

「失踪した旦那を探すんですか」
 津田は面白くなさげな顔で、半ばあきれ顔で大矢敏雄に言った。
大矢は、浅見探偵事務所では中堅の、グループリーダー的な存在
だった。組織的には、彼の配下に津田を含めた三名がいる。二つあ
る応接室のうちの片方で、いつものように調査の説明が始まった。
いつもと違うのは、津田を含めたあとの二人、斉藤光彦と川野伸二
も今回は同席していることだった。
「それも、そんなちっぽけな額で。よくあのケチな所長が受ける気に
なりましたね」
「以前、弁護士時代に懇意にしてもらっていた製薬会社からの依頼
だそうだ。そうでなければ受けなかったろうな」
「製薬会社の社員ですか」
 大矢は写真をテーブルの上に置いて、説明を始めた。
「名前は、山下幸次、三十五歳。身長百七十二センチ、体重六十五
キロ前後、中肉中背。口元の右側に大きめのホクロ、髪はウェーブ
のかかったくせ毛、目はいい。ここ一週間ばかり無断欠勤でな、川
崎の自宅に問い合わせたらずっと帰ってないらしい、で失踪届を出
す前に事前調査依頼が来たってわけだ」
「普通に警察に届ければ、いいんじゃないですか。会社が嫌になって
行方くらませただけでしょう。どうせ多摩川の河川敷あたりでウロウロ
してるんですよ。ありがちな話です」
「どうもそうはいかん事情があるらしい」
「と、いうと?」
「さあな。こっちも警察じゃないから、依頼主が言わない限りは聞けん
よ。期限は一週間だそうだ」
「期限付きですか、それも一週間。厳しいなあ」
「想像だが、やっこさん、会社の重要機密を持って消えたって可能性も
ある。それなら会社側が公にしたくない理由も合点がいく」
「なるほどね」
「これが自宅の住所、家族は奥さんと小学校四年の娘が一人。これが
そうだ」
 津田は写真を一瞥すると、ふところにしまった。あらかたの山下幸次
の行動は、すでに斉藤の方で調査済みだった。彼が消息を絶ったのは、
二週間前の金曜の夜。同僚と居酒屋の前で別れたのが、夜の十一時
ごろ。それ以降の、目撃情報がなかった。
「その同僚にも当たった。何でも山下は酔っぱらうといつも、自分はもっ
と裕福な生活を送るんだと口癖のように言ってたらしい」
「妄想癖もあるんですかね。それがストレス発散になってるんでしょう」
「さあな。だがそう言い出したのが、最近数カ月だとすると、どうだ」
「何か儲け話が転がり込んだ、ってところですか」
「その同僚もそれ以外はよく知らんようだ。山下はいつも、そいつとだけ
飲みに行く」
「ほう、気心の知れた同僚なんですかね」
「そのようだ、あまり仲間は多い方じゃなかったようだし。だが、ちょっと
引っかかることがある。考えすぎかもしれんが」
「何です」
「その製薬会社っていうのは、高木コーポレーションの子会社なんだ」
「高木コーポレーションですか」
「ちょっとな、黒い噂があると聞いた」
「どんな」
「浮浪者や金に困ってるやつから、臓器を買うらしい」
「山下もその話に一役買ってると?」
「かもしれん。社員だからな、その話を斡旋していたクチなのかもしれん」
「なら余計ですね。奴は重要な臓器売買のデータを持ってたのかも」
「会社がまずは公にしたくないっていうのも、それなら理由になりますね」
「その同僚の男の身辺も、洗った方がよくないですか。山下が相談できる
のはその同僚ぐらいなんでしょうから、彼の接触を隠してるかもしれない」
「かもな。だから君ら三人に集まってもらった。今回はちょっと厄介で期限
も切られてるから、慎重なチームプレーで頼む」

 慎重なチームプレーという言葉が、ことさらに自分に言われた気がして、
津田は少し気が引けた。昨年六月からのトリム電子産業を舞台にした一
連の殺害事件にからんで、かなり勝手で強引な独自調査をして、浅見探
偵事務所の他のメンバーに迷惑をかけていたのは紛れもない事実だった
からだ。
 こともあろうに身代金取引現場で身柄拘束され、一時は犯人一味という
ことで顔写真まで公開された時には大騒ぎになり解雇寸前だったが、濡れ
衣であったことが証明され、結果としてその後の捜査に協力して真犯人逮
捕にこぎつけたことが評価される形で、かろうじて今もここにいられた。津田
しか知らない一部の真相は、その後も警察に語られることはなく、彼の胸に
しまいこんだままだった。
 かんたんな役割分担とスケジュールを打ち合わせた後、いったん三日後
に再度お互いの情報を持ち寄ることで打ち合わせは終わった。いつものショ
ートピースに火を付け、津田はあらためて渡された写真の二人をしげしげと
見つめた。彼の役目は、その残された家族の周辺を洗い、本人からの接触
の有無を確認することだった。まずは川崎市の航空地図帳を広げ、その自
宅の位置を頭に入れると、津田はすぐさま現場に向かうことにした。

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2009年6月13日 (土)

Robbin - コドモノチカラ - (2)

 次に目を覚ました時、彼は見知らぬ部屋のベッドの中だった。いつ
どうやって、ここに運ばれたのかもわからない。全身の痛みは気にな
らないくらいにおさまっていた。顔面も少しまだ引きつれていて、全体
的にむくんだ感じはあるが、我慢できないほどではない。
 空腹感を抑えながら、彼はゆっくりとベッドから抜け出し、おそるお
そる部屋のドアを開けた。通路が左右に伸びていた。右手には分厚
いドアがあり、そこが玄関らしかった。ドアチェーンがかかっているの
で、誰かが不意に入って来る恐れはないものの、自分でかけた覚え
はなかった。
 ドアを出て、分厚いカーペットを足裏に感じながら、左の明るい方に
歩いて行く。マンションのリビングと思しき部屋が見えてきた。足を踏
み入れるとそこは、これまで見たこともない別天地だった。二十畳ほ
どはあろうかという、開放感のある空間に黒革のソファーとガラステー
ブル、その前には大型のテレビが壁際に備え付けられている。ガラス
張りの外のまぶしい景色は、テレビのドラマでしか見たことのない、見
下ろした都会の景色が広がっていた。
『ここは、どこなんだ』
 そう思った男の視界の端に、何かが動く気配があった。
「やっと目が覚めたみたいね」

 女の声がした。ビックリして声のした左の方を向くと、そこには気の強
そうな、眼鏡をかけた女の姿があった。ショートカットの栗色の髪に、赤
いルージュ、どこかで見た覚えがある気がするのだが、思い出せない。
彼女は吸っていたタバコをダイニングテーブルの上のガラス製の灰皿で
もみ消すと、つと立ちあがった。すらっとしたかなりの長身で、なかなか
のプロポーションなのが服の上からも見て取れた。
「これからのあなたの名前は、高木壮一郎」
「たかぎ…そういちろう」
「そう」
 女は、何枚かの紙を大型テレビの前のガラステーブルの上に置くと、
自分の横に座るように促した。
「この筆跡、完璧に真似られるようにしてちょうだい。それが、あなたが生
きていくための絶対条件」
 言われて手元の紙に目を落とすと、少し個性的な文字が並んでいた。
「それと、自分のプロフィールの暗記ね。この写真と一緒に」
 男はソファーに腰掛け、きょろきょろとあたりを見回した。これまでの生
活とは全く違う、その調度品の豪華さに圧倒されてしまう。
「まず、このビデオを見てちょうだい。内容を徹底的に頭に叩き込んで、
丸暗記して。あとでテストするから」
 女はビデオテープを彼に渡した。大型テレビの下にビデオデッキがあっ
たので、彼は無造作にテープを挿入した。テレビの電源が連動して自動
的に入り、テープの再生が始まった。それは二十分ほどの、ある大企業
の公告ビデオだった。記憶力には自信があったが、最後に登場した会長
の姿を見て、唖然とした。それは少し前に見たことがある顔だったのだ。

「テストは百点満点でないとダメよ。百点を取れなければ」
「…百点を取れなければ」
「あなたの人生はここで終わる」
「え…」
 女は少し顔を上げ、彼の背後に目をやった。つられて振り返ると、そこ
にはいつの間にか、テレビドラマにでも登場しそうな、黒サングラスに黒
い背広の男が無表情で立っていた。
「彼に勝てるなんて思わない方が身のため。だから必死でやることね。
それと」
「…」
「私は高木壮一郎本人の秘書であり、愛人でもあるの。だから必要な時
には、あなたの行動や一挙一動を監視して報告する。今後は一緒に行
動する時があるけど誤解しないでね、私はあなたの女じゃないから。名
前は美咲」
「美咲…」
「それと当面は、ここから絶対出ないように。食事は私が作るから、テスト
に合格さえすればあとは自由にしていいわ。何か用事があるときは、彼
に言えばやってくれる」
 彼女は、その黒づくめの男の方を顎で指しながら言った。
「察しはついてると思うけど、彼はボディガード。いつもいるわけじゃないけ
ど、あなたも彼のことを覚えていないとダメ」
「…金子健司だ」
 そう短く、その男はつぶやくように言った。

「ところで、英語はしゃべれる?」
 不意に美咲が、思い出したかのように尋ねてきた。
「え、英語ですか。中学高校では習いましたけど、その程度で」
「まったく喋れないわけじゃないでしょ、どの程度出来るの」
「いえ、本当にまったくダメです」
 美咲は大きくため息をくと、じっと男を正面から見つめながら言った。
「じゃあそちらの方も、準備するわ。堪能に喋れるようになってもらわない
とね」
「え、そんなぁ。そんなこと聞いてませんよ」
「おだまりなさい!」
 美咲の表情が変わった。
「甘えるんじゃないわよ。何様のつもり」
「…」
「高木壮一郎を演じられないのなら、あなた、用無しよ」
 その言葉に呼応するかのように、黙って背後に立っていた金子が、無
言で数歩近づいて来たのがわかった。理由もなく、背筋が凍りつきそう
な感覚が湧いた。
「あなたの代わりなんて幾らでもいる。この場にいられる幸運を台無しに
したくないのなら、死に物狂いでやることね。そうしたら…」
「そうしたら」
「そうね、ちょっとはいい目を見られるかもよ」
 美咲は意味ありげな笑いを浮かべて、男を正面からじっと見ていた。

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2009年6月 5日 (金)

Robbin - コドモノチカラ - (1)

 金持ちになりたかった。
 いつの頃からか、貧乏ゆえの小汚さに生理的な嫌悪感があった。女房の
顔も品のないブスに見えた。どうしてこんなブサイクな女と一緒になろうなど
と思ったのだろう。若いころの単なる欲望のはけ口にしかすぎない、都合の
いい女だった。妊娠させてしまっても、堕胎させれば済むと考えていた。
 そして実際に妊娠した時、それを言うと彼女は涙ながらに産ませてほしい
と哀願したのだ。冗談ではなかった。自分の人生をこんなブサイクな女と一
緒に歩むなど、考えただけで反吐が出そうだった。冬の寒空に放り出したり、
腹をけったりしたこともあるが、自分は悪くないのに「ごめんなさい」と謝りな
がら、必死に腹をかばう姿に、少しだけ心が動いたのが間違いだった。
 生まれた子供は女の子だったが、自分の幼いころの面影がある気がして、
さすがに子供には手を出さなかった。だが夜泣きなどで寝付かれずうるさい
時などは、そのぶん女房にさんざん当たり散らす日々だった。子供が成長す
るにつれ、子供と女房がかわす笑顔には心がほっとさせられる安らぎがあっ
たが、それはほんのつかの間だった。いつもそんな自分を客観的にじっと見
つめては蔑む、もう一人の自分自身が必ずいた。
 勤め先は、川崎にある小さな製薬会社だった。うだつのあがらぬ外交営業
員だったせいもあり、酒に酔って深夜帰宅する日が多かった。着ているもの
も、安月給の身としては分相応なのだが、どこか安っぽく感じられて嫌だった。
そしてそれが自分の人格すらもおとしめている気がしていた。美男美女が笑
顔で話す姿を尻目に、本当は自分もそこにいるべきはずだったのにと、何度
思ったことだろう。

 人生をやり直したい、と思わなかった時はない。自分の過去に、人生に、こ
れまでの全てに、コンプレックスと嫌悪感を持ち続けて生きてきたのだ。何も
いいことなど、ありはしなかった。これから先も、多分そうだ。どうしてこんな運
命のもとに生まれてしまったのかと、内心両親を恨んだものだった。
 だからこそ、偶然舞い込んできた甘い誘いに乗った。迷いなど、あろうはず
もなかった。人生を変えられる千戴一遇のチャンスだと思った、ただそれだけ
のことだ。家族と二度と会わないことが条件だったが、即座にOKした。あんな
ブサイクな女の寝顔など、もう見なくてすむと思うと心が晴れた気がした。子供
にも別に未練はなかった。
 整形手術後に鏡の前に立った時、わが目を疑った。過去のこれまでの自分
は、もうそこにはいなかった。今の自分が隣にいて話しかけても、女房でも絶
対にわからないだろう、そんな自信すら芽生えてきた。これからの栄光と贅沢
な人生が約束された喜び、生まれ変われたことに心から感謝した。
『これは夢だ…』
 そうとしか思えなかった。だがたとえ夢でも良かった。これこそが現実なのだ。
そう、これまでが悪夢の連続だった。だがこれからは、もう違う。ほんの少しだ
けの時間を束縛されるとは聞いていたが、それ以外は条件さえ守れば、何不
自由ない生活が送れるという約束だった。金だって使い放題だ。贅沢な暮しに
きらびやかな服、高級マンションでの生活。最高の女だって、自分のものに出
来るに違いない。まさしく心躍る快適な人生の始まりだった。

 だがその前に今は、手術時の麻酔が切れかかって、顔のあちこちが痛み始
めていた。胸板を厚くするために腹部から吸引した脂肪を入れたので、両脇の
傷口あたりにも痛みがある。美容整形などした経験がないので良くわからない
が、全身麻酔でないのが不思議なくらいだった。ベッドに横たわって、とりあえ
ず点滴のチューブだけは左腕につながれている。意識はまだボーっとしたまま
だったが、とりあえず枕元のナースコールのボタンを押して、全身にも痛みが
あることを伝えた。眼鏡をかけた看護婦らしき若い女性がすぐにやって来ると、
点滴の袋の横に新しく黄色の奴を付け加え、彼を一瞥しただけで無言のまま
足早に去って行った。
『何だよ、もうちょっと愛想よくしろよな』
 右手には窓があるが、すりガラスのせいで、外の景色が全く見えない。見え
るのは窓の上の方、透明なガラス部分越しにほんの少しだけ見える青空だっ
た。白い雲がゆっくりと流れていた。なにも物音がしない静かなその部屋で、
やがて彼はまどろむと、ゆっくりと眠りに落ちていった。

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2009年5月 3日 (日)

作者の簡単レビュー 【その33】

 「声」は、数年前に母を亡くした時に、夢の中で母からの電話を受けて
目が覚めた経験をもとに書き下ろしたものです。今も年に一度帰省する
たび、その母が亡くなった病院の近くを通るので、複雑な気分です。

 「バロンの夢」は、人の夢を食べてその人格に一時的になる奇妙な動
物を擬人的に描いた物語です。本当はもう少し色々な話が続くのですが、
今回は最初の二つのエピソードでとどめました。

 「あおいとり」は、実際に西国分寺にあった幼稚園の話です。物語として
はもっと長く出来ますが、今回の掲載にあたっては、あえて最後の卒園式
にしぼった話にしました。
 実際に私の息子がこの最後の卒園者でもあったので、父兄としてこの場
に同席していました。今では当時の記憶が定かではありませんので、内
容はほとんどフィクションですが、年少保育者の家庭に園から手紙が届い
たくだりは事実です。
 記念にもらった果肉植物は、今も我が家で生き続けています。社会人に
なった息子が未だに思い出して言うぐらいなので、子供たちにとっては本
当に素晴らしい場所だったのでしょう。

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2009年4月18日 (土)

あおいとり

「それでは、名前を呼ばれた人は、前に出てください」
 やさしげな声で呼ばれた園児たちの、「はーい」というハキハキした
まだ幼い声が教室に響き、小さな木製の椅子にすわった小さな頭が
動く。後ろの壁際には、立ったままそれをじっと笑顔で見守る父親や
母親たちの姿がある。皆いつもと変わらぬ顔だった。
 ここは、あおいとり幼稚園。子供たちにのびのびと自由な時間を与
えてあげたいという趣旨で設立された私立幼稚園である。決して進
学校への入学準備のための習い事を強要させるところではなく、園
児が笑顔で毎日を自由に遊びながら過ごせる場所だった。
 誰もそのことには触れようとせず、平穏のうちに式次第は進んでい
た。これが最後の卒園式、そう、ここには来年が来ないのだ。

 幼稚園が今期いっぱいで閉園になるらしい、というその噂が出始め
たのは、昨年の夏休みの最中だった。年少保育の家あてに、来年の
幼稚園を探してくれるようにという、園側からの要請文書が届いたの
だ。もちろんそれに関わる入園料や手続き費用は、一家族につき五
万円ずつ園が支払うという。それは保護者たちの間を、大きな衝撃と
ともに、またたく間に広がっていった。
 理由は、事業を起こすための借金のカタに、幼稚園を含む土地すべ
てが抵当に入れられ、結局その借金の返済が出来なくなって差し押
さえられたという、ありきたりと言ってしまえばそれまでのことだった。
それで初めて皆に、切羽つまった園の状況がわかったらしい。
 それでも、園を何とか続けてもらえないか、という嘆願が後を絶たなか
った。だがいかんせん、事態はどうしようもないところまで来ていたのだ。
そして、その願いは決して届かないことが皆にわかった。何人かが借金
の肩代わりを考えたが、それが出来るようななまやさしい額ではなかっ
たこともある。
 誰も文句を言わなかった。不服を申し立てるものは、いなかった。だが、
それは決してあきらめではない。園のことをおもんばかった皆が、思いや
ったのだ。

「あんなこと、こんなこと、あったよね…」
 園児が歌に乗せて、一年間の色々な思い出を振り返る。式次第は、こ
れが最後だった。父兄の中には、つい目頭を押さえる者も出ていた。小
学校にあがることに希望と期待を膨らませる園児たちのくったくのない笑
顔が逆に、廃園のことを知らないことの悲しさと切なさを、父兄たちの心に
湧きあがらせていく。
「それでは最後に、園長先生から、皆さんにお話があります」
 その言葉にうながされるように、静かに園長先生が壇に上がった。園長
先生は、白髪のおじいちゃんだった。いつもと変わらぬそのやさしげな表情
で、皆に語りかけるように話し始めた。
「みなさん、卒園おめでとう。この春から、あなたたちは小学校に行きます。
そこでは新しいお友達が皆を待っているでしょう。どうかこれからも仲良く元
気でいてくださいね」
 そこで言葉を区切ると、園長先生は少し姿勢を正し、園児たちの背後で壁
際に立っている父兄の方に視線を移した。
「…ご父兄のみなさま、本日はお忙しいところ、あおいとり幼稚園の卒園式
にご出席いただき、ありがとうございました」
 そう言うと、園長先生は少しおじぎをした。父兄もおじぎを返す。
「すでにご存じと思いますが、この園での卒園式はこれが最後になります。
こうして目を閉じれば、子供たちのはしゃぐ声が今にも聞こえてきそうな気が
します。あどけなさの残る、かざらない笑顔。そんなみんなの笑顔や姿しか、
ここでは思い出せません。残念な結果となり誠に遺憾ですが、あおいとりは
廃園となります。しかし、ここでのその思い出がある限り、皆がやさしい気持
ちを失うことはありません。どうかこれからもお元気で、お子様たちをあたたか
く見守ってあげてください」
 笑顔でそう結ぶ言葉に、父兄の間から、一斉に力強い拍手がわいた。そし
てそれは、しばらく続いていた。今にも泣き出しそうな気持ちを抑え、誰の目
にも涙が潤む。だが晴れの卒園式に涙は似合わない、その気持ちが伝わっ
ていた。かけられる言葉はない、ただただ感謝の気持ちで、拍手が贈られて
いた。

 卒園式が終わった後、園児には記念に、鉢植えの多肉植物が一つずつ、担
任の先生から手渡された。小さくて地味ではあるが、丈夫でずっと長く園児た
ちのそばにいられるものをと、園長先生が考えたものだった。園児たちはいつ
もと変わらぬ様子で、早くこの窮屈な儀式を終えて遊びたい気持がはやり、さ
かんに横にいる親にもう帰っていいんでしょうと聞き始める。やがて一人、また
一人と、帰路につき始めた。
「はい、さようなら」
 園長先生は、園の出入り門の横で、園児やその父兄に声をかけ、いつまでも
笑顔でゆっくりと手を振り続けていた。そしてその後ろでは、それを微笑みなが
ら見つめる、おばあちゃんの姿があった。園長先生の奥さんだった。この園を創
立する時に、二人で一緒に築いてきた思い出が、ふとよみがえり、熱いものが
こみ上げる。
 ここはいつも、人の心があたたかさであふれていた。せちがらい世の中だが、
こんな世界もたしかに存在するのだ。そしてわずかな期間ではあったが、その
世界の一人としていられたことが、そして最後の卒園式に立ち会えたことが、
誇りに思えた。

 夕方、担任の先生たちも先に帰し、人気(ひとけ)のなくなった園で、教室にひ
とつひとつ鍵をかけて回る園長先生の姿があった。それも終わって、部屋に戻っ
てくると、あたたかな笑顔で奥さんが迎えた。
「お疲れさま、熱いお茶をいれましたよ」
 そう言って差し出した茶碗を、園長先生はうれしそうに「ありがとう」と言いなが
ら、受け取った。
『まあまあ、園児たちと同じ笑顔ね…』
 二人は黙って、お茶をすすった。静かな時が流れてゆく。柱時計のコチコチとい
う音が大きく聞こえる。荷物の整理やらでまだ何日か通わなくてはいけないが、
園の仕事としてはこれで終わりだった。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか」
「はい。いい卒園式でしたね」
「そうだね。みんなの笑顔が見られて、よかったよ」
 最後に門に鍵をかけ、園長先生が振り返ると、奥さんは小さな包みを渡した。
「長い間、おつかれさまでした」
 その包みの中には、三人の唯一の写真が収まった写真立てが入っていた。い
つも机の上に置いてあったせいか、色褪せているが、その思い出だけは決して
忘れてはいけないものだった。そしてそれが、二人が幼稚園を始めようと決める
きっかけになった。
 そこには、まだ若い二人の間で微笑んでいる、幼稚園の制服を着た幼い男の
子がいた。その写真を撮った翌日、家の前でボールを追って車道に出たところを、
車にはねられてあの世に召されていったのだ。あまりにもあっけない死を受け入
れることが出来ず、しばらく二人は茫然自失の状態だったが、やがて失くしてしま
った幼い笑顔を毎日でも見ていたいと願うようになった。そうしていれば、いつも我
が子と一緒にいられる錯覚で、心が慰められたからだ。
 幼稚園の名前、それは息子が一番好きだった童話のタイトルから取られた。い
つも一番近くにいるのに気付かない、幸せという名の青い鳥。だが二人の青い鳥
は、今はもう飛び立ってしまった。
「今日があの子の卒園式なのかもしれませんね」
「そうだね」
 二人の心の中で止まっていた時間が今、ゆっくりと流れ始めた。連れ立って帰
る二人は、その真ん中を少し開けた。そこには息子があの時の姿のままで、二
人を交互に見上げ、うれしそうに手をつないで一緒に歩いている気がした。

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2009年3月11日 (水)

バロンの夢 (4)

 そこまでは何となくだが、覚えていた。だがその先の記憶が何も
なかった。それ以前の記憶もだ。なぜか今、この瞬間の記憶しか
ない。私はいったい何者で、何のためにここにいるのか。家族は
あるのか、仕事は何をしていたのかすらも全く思い出せない。さら
には目の前の二人の兵士が話している言葉も、私には理解出来
ないものだった。
 異世界にでも迷い込んでしまったのだろうか。どちらかといえば
空腹感はあるが、それとは別の何か、むらむらとした抑えきれな
い衝動が、心の中で疼いている。大声を出して叫び出したい気分
だ。ふと、手を見る。
『何てことだ…』
 あの毛むくじゃらの手が、また目の前にある。また化け物の姿に
なってしまっている。
『悪夢なら、早く醒めてくれ』
 私は祈りにも似た気持ちで、じっと檻の外の兵士を見つめていた。
フラッシュバックしていた牢屋の光景が、今、現実に目の前に存在
している。目の前の二人の兵士は、私を冷ややかに見つめながら、
何か会話をしている。
 ふと足もとを見ると、タバコの箱とライターがあった。私は気を落ち
着けようと、その箱をあけた。太い茶色の葉巻がある。その甘い香
りをかぐと、少し落ち着きを取り戻せた。今はジタバタしても始まら
ない。そう思った私は、ライターで葉巻に火を点けた。大きく息を吸
い込みながら、ゆっくりと煙を吐き出す。今は冷静になろう、そう考
えていた。
 やがて兵士が去るのと入れ違いに、白衣を着た赤いセルロイドの
眼鏡をかけた髪の長い女が、何事かを小声で言いながら、檻に近
付いてきた。彼女には、見覚えがあった。
『そうだ、思い出した。彼女が私をここから解放してくれるのだ』
 彼女こそが、私の唯一の理解者であり、協力者でもあるのだ。
「ああ、これでやっと解放される…」
 私は笑顔で、彼女に近づいて行った。

           * * * * *

「こいつ、自分が人間だとばかり思いこんでるのさ。たしかにある
程度は、こっちの言うことも理解出来てる時があるみたいだが」
「へえ、そうなのか。外見からは知能がそんなに高いとは見えな
いがな」
「こいつ、人の夢を食うらしい」
「夢を食う?」
「ああ、そういう噂だ。そしてしばらくの間は、その人間の意識でい
るらしい」
「じゃあ夢を消化するまでは、夢を食ったその人間になりきってる、
ってわけか」
「そうだ」
「じゃあ夢を消化しちまったら、こいつは?」
「こうして元の自分に戻るだけさ」
 そう言いながら、その兵士はそいつを見つめた。まるで自分が偉
い人間であるかのように、そいつは毛むくじゃらの身体を壁にもた
れかけて、ゆったりと葉巻を吹かしていた。
「本当に、お偉いさん気取りだな」
「ああ、男爵サマか何かの生まれ変わりなのかもな」
 ちらりと檻の前の名札を見ながら、片方の兵士が言う。
「上が甘やかすから、こうなるのさ。動物の分際で、タバコの味をす
っかり覚えちまいやがって」
 二人の兵士は、冷笑しながらその場を後にした。入れ違いに、白
衣を着た髪の長い女性がやって来た。彼女は檻の前で立ち止まる
と、にっこりほほ笑んだ。
「さあ、バロン。出かける時間よ」
 そいつは嬉しそうに、彼女の近くに寄って来た。幾度となく繰り返
される宴が、また始まるのだ。

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2009年3月 1日 (日)

バロンの夢 (3)

 フラッシュバックのように、牢屋と思しき光景がまだ少し脳裏に残っ
ている。時々見る光景なのだが、夢なのかどうかも定かではない。
もし夢だとすれば、悪夢の残りなのだろうが…

 次に私が覚醒した時には、廃墟と化した街が眼前に広がっていた。
私は建物の陰に隠れながら、その巨大な怪物と思しきものの右後方
の地面を移動していた。両手を見て、もうあの毛むくじゃらな動物のま
まではないことを知り、ホッと安堵する。やっと本来の姿に戻れたのだ
ろう。
 なぜか最近、自分の意思で空を飛ぶことが出来なくなっている。こ
の前もそうだった。あの時は落下する海面スレスレで、やっと飛べた
から良かったようなものの、そうでなければ今ごろあの世だ。私の仲
間は、もう一人の女性だ。彼女はちょうど私と反対側の位置から、そ
の巨大な怪物を見守っている。別に私たちは天使とかそういう部類
ではない、超能力で空が飛べるのだ。だから精神的なものや体調に
よって、発現される能力にその時その時でバラツキが出るのだ。
 やがて彼方から戦闘機が五機、けたたましい騒音とともにこちらに
向かって来た。私は嫌な予感がした。こういう時は、お決まりの爆弾
攻撃と決まっている。しかし奴の足もとには、この私達がいるのだ。
政府は私たちを見殺しにするとでもいうのだろうか。次の瞬間、不意
にすぐ近くで大爆発が起きた。もうもうとした煙と埃が舞い上がり、建
物の瓦礫が頭上から降り注ぐ。私がすぐ近くの瓦礫の下に逃げ込む
のと、あたりに瓦礫が散乱するのとがほぼ同時だった。数発がすぐ
近くで連続して爆発する。熱波でほとんど呼吸が出来ないくらいの
状況で、私は思わず左腕で口と鼻をおおい、目を閉じて瓦礫の陰で
じっとしていた。下手に動くと命取りだ。

 やがて、あたりが急に静かになった気がした。ゆっくりと目を開ける
と、そこには瓦礫の街の姿があった。だが目の間にあった、怪物の姿
がどこかに消えていた。攻撃で倒れたわけではなさそうだ。上から見
てみないことには、状況がわからない。私は自分が飛び立つ姿を、頭
の中に思い描いた。そして少し背伸びするように、軽く身体を上方に少
し動かした。だが、それだけだった。
『駄目だ、また…飛べない』
 こういうのをスランプとでも言うのだろうか。何度か試みても一向に飛
び立てるとは思えない。すでに彼女は斜め前方の空中に浮かんで、こ
ちらを心配そうに見つめている。気のせいか、彼女の表情がこわばって
いるようにも見えた。不意に、彼女が後方に飛び退くように離れた。私
はずっと、何度も飛び立とうと念じていた。やがて、身体が真上に浮き
あがった。
『ああ、よかった。やっと飛べた』
 だがそれは、いつもの感覚とは違っていた。私の意志ではなかったの
だ。彼女がいる前方に移動しようとしても、その場に止まったままでただ
上昇するだけだ。自分の自由にならないのが、はがゆい。
「オマエハ、何者ダ」
 不意に頭の中に、野太い声ががんがんに響く。
『誰だ、こいつ…』
 自分の意思とは関係なく、背負ったリュックを中心に、身体が回転して
後ろを向く。そいつは、そこにいた。何のことはない、私は自身の意思で
飛び立てていたのではなく、そいつに背負ったリュックを背後からつかん
でつままれて、持ち上げられていただけだったのだ。まるで龍のような顔
をしたそいつは、じっと私を見ていた。やがて何も言葉を発しない私に興
味を失ったのか、そいつは不意に私を瓦礫めがけて投げつけた。
 ぐるぐると回る景色と、急速に近づく瓦礫。こんなスピードで激突したら
即死だ。思わず私は、死を覚悟した。その瞬間、身体がふわりと宙に浮
いた。ふと気付くと、彼女がすぐ目の前にいた。
「大丈夫?」
 どうやら私は、すんでのところで飛べたようだ。
「ああ。なんとか」
 目の前のそいつは、身体を少し反らせると、不意に私たちめがけて炎を
吐きかけてきた。予想もしなかったまばゆい光に目がくらんだ。飛んでい
る時に周りの空間を歪ませているため、幸いにもそれがバリヤーの役目
を果たして、炎が目の前で反れてゆく。その強い熱気に思わずひるんで、
腕で顔を隠す。
 やがてそいつの吐き続ける炎に、少しずつ空間バリヤーが溶かされ、炎
が私に近付いてくる。そして次の瞬間、私はすでにそこにはいなかったの
だ。

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2009年2月15日 (日)

バロンの夢 (2)

 やがて私たちに束の間の休息が許された。私は何気に後ろ手で
床に手を付きながらその場に腰を下ろすと、少し背を反らせた。天
井は今まで気にして見ていなかったが、なかなかどうして立派な
造りだ。がっしりした太めの木を組み合わせた、古風な造りになっ
ている。
 そんな私の右手の平に、わずかに冷たい空気が触れ、少しスー
スーする。その感じに違和感を覚えた。冷たい空気がほんのわず
かに当たっているのだ。私の右手が置かれているのは、床なのだ。
そんな隙間があるのは妙だ。
「あ…」
 よおく目を凝らして、手のひらをゆっくりと移動させながら、その床
のタイル目地に沿って、念入りにのぞき込む。わずかに冷たい空気
が感じられる部分は、その外れたタイルの端から上下にまっすぐ広
がっている。どうしてこんな簡単な部分を、今まで見逃していたんだ
ろうか。最初はタイル地の一部が簡単に外れただけで終わったので、
それ以上探さなかったからだろうか。絵模様のようになっている部分、
その全体が大きなドアになっていて、たしかにわかりづらい構造にな
っていた。
 先ほど外れたタイルのあたりに手をかけ、私が爪を立てるようにし
て持ち上げようとすると、ほんの少しだけ浮き上がった。私は横のキ
ッチンにあるナイフの先をその隙間に差し込むと、こじ開けるようにし
て何箇所かを浮かせた。やっと指が差し込めるくらいに、床全体が
すこし浮いた。そこに両手の指を添わせると、私は身体全体に力を
込めた。意外と簡単に、その床の隠しドアが開いた。思うほどは重く
なかったのが幸いだった。鈍い音をしてドアが開くと同時に、冷たい
風が穴の中から一斉に吹き上げて来る。その音に、周りの皆が振り
返っているのが、感覚でわかった。

 のぞきこんだその中は、ほぼ真っ暗で何も見えなかったが、首を突
っ込んだ状態でしばらくじっと目を凝らしていると、おぼろげながら何
かが見えてきた。すぐ真下には地面らしきものがある。その少し先に
どこからか漏れている光で、おぼろげに光の帯が揺れるのがわかっ
た、たぶん水面だろう。鉄製かどうかはわからないが金属で出来た
ように見える階段がそこの上にかかっている。水面があるあたりの先
には、また暗闇がある。すぐ真下に、まるでミニチュア模型のジオラマ
が置かれているように錯覚しそうな光景があった。
『降りてみよう…』
 未知の空間のはずなのに、特に恐怖心もなにも感じなかった私は、
ごく自然にそう思った。本能的に私は足からこの中に立とうとして、床
に腰を下ろしてまるで掘りごたつに入っている時のように足をブランと
させた状態から、斜め前に滑るようにそこに立とうとした。
 だが立てなかった。
 それは思ったよりも、かなり深さがあったのだ。自分の身長以上の
高さがあった。目の錯覚で、自分の膝ほどの近い距離に思えていた
のだが、実際にはかなりの深さがあった。奇妙な感覚を覚えながら、
それでも私は地面に降り立った。その地面はかなりの急勾配で、下
り坂になっていたので、着地する時にもう少しで足首をひねってしまう
ところだった。
 しばらくの間は周りの様子をうかがいじっとしていたが、静寂だけだ
った。どうやら誰もいないらしい。目を凝らしながら暗闇の中をゆっくり
とそしてまっすぐに歩くと、やはりそれは鉄製の階段だった。わずかな
光をたよりにじっと見ると、左側にはずっと水面があり、陸地らしいもの
が見えているのだが、直接そちら側には行けないようになっていること
がわかった。目の前の階段を使ってその前の島のようなものの上に降
り立ち、いったん向こう側からぐるりと回りこむ形でないと、左側の陸地
には行けないようになっている。
 私はここまで見た時点で、いったん降りた場所に戻ると、上に向かっ
て大声で叫んだ。自力ではもう登れない。何人かの覗き込む顔が見え
る。やがて階段梯子らしきものがゆっくりと降ろされた。先ほどのムチを
持った軍服の男が、何かを抱えて降りてきた。
「ここがそうか。やっと見つけたぞ」
 そいつはその何かを抱えたまま、躊躇なくその鉄製の橋を渡り、ぐる
りと回り込むように、私の左側の陸地に歩いていく。やがてその奥にあ
る建物らしきものの中に入っていった。
 その建物の屋根には、青いトゲトゲ様の突起があるのが微かに見て
取れた。男が入ってしばらくすると、やがてその部分全体が、低いモー
ターと思しき回転音とともに、まるでタービンか何かのようにけたたまし
い音を上げて一斉に回り始めた。それは実に不思議な光景だった。
 そいつが入った場所は暗いながらも見当が付いていた。気になって私
は、後を追うようにそこに入った。一歩足を踏み入れた途端、予想もしな
かったまばゆい光に目がくらんだ。そして次の瞬間、私はすでにそこには
いなかったのだ。

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2009年2月 7日 (土)

バロンの夢 (1)

 車でかなり長い時間揺られ続けたすえに、やっとのことで車が停ま
り、ドアが開け放たれた音と気配がした時は正直ホッとしたものだ。
目隠しを外されて初めて、ここが寒風吹きすさぶ草原の中の一軒家
の前だと知った。私以外には男性二人、女性一人の合計四人が連
れて来られた。厚手の防寒服を着ていても、身体にしみ込んでくるこ
の寒さはどうにもならない。
 軍服を着た男に、フローリング床のどこかにある隠し入口を探すこと
を一方的に命令されて、我々はその家の中に土足のままで踏み込ん
だ。家の住人は年寄り夫婦に若い女性が一人と子供が二人だけで、
みな特に我々の不意の侵入を驚くでもなく、あきらめにも似た表情で
我々の所作をじっと見つめているだけだった。

 まずは居間のテーブルと椅子が置いてあるあたりが一番怪しい。
絨毯をとっぱらい、念入りに床を調べていくが、何も変わったところは
ない。それこそ床に落ちたコンタクトレンズか針でも容易に見つけられ
るほどの念の入れようだった。
 壁際の暖炉のあたりは暖かい半面、炎が逆に邪魔になって床を見
づらい。懐中電灯でもあればいいのだろうが、そんなものは一切持た
されていない。ふと窓ガラス越しに、外が極寒の雪景色であることを
あらためて痛感する。暖かな部屋の中にいられることの幸福を実感し
ていた私をじっと見続けている、その老人と幼い子の視線がやけに
痛く感じる。
『まったく、これだから…』
 これだから、人間って奴は…と思った。だが自分自身で、その表現
に不自然さを感じた。まるで自分が人間でないかのようなものの言い
方だ。ふと何気なく、手袋を外して手を見る。
「え?」
 私の両手は毛むくじゃらだ。まるでゴリラか何かのような。不意に不
安が私を襲う。立ち上がると、無意識に鏡のようなものを探す。ない。
思い付いて、窓ガラスの所に近付く。曇ったガラスを手で拭くと、少しだ
け鏡っぽくなる。
「ウソだろ…」
 そこに映った自分の姿を見て、唖然と立ち尽くした。あの金髪、ブルー
グレイの瞳、白い肌…私の痕跡はそこには何もなかった。そこにあるの
は、さしずめ服を着たゴリラだ。
『どうしてこんなことになってるんだ』
 不意に身近で、ムチの音が大きく響く。さっきの軍服を着た男が、私が
サボっているのを見つけたのだ。その男は無言で私を睨みつけながら、
再びムチの音をその部屋中に響かせた。その男に何か言い訳出来るよ
うな状況ではなかった。私は無言で作業に戻らざるをえなかった。
 居間から隣のキッチン、バスルームやトイレまでも念入りに探しまわっ
たが、それらしい入口は見つからなかった。再度我々は、玄関からもう
一度同じことを繰り返した。何か見落としているかもしれないからだ。

 やがて「おお…」という声にならない声が、隣の居間の方であがった。
皆が駆け寄ると、女が右手に二十センチ四方ぐらいの大きさのタイルを
持っていた。自然と女を取り囲むようにして、そのタイルを皆が見つめる。
だがごく普通の白っぽいタイルのように見える。床全体にはタイル地で
模様のようなものが描かれている。その一枚を手にしていた。よくある
模様で、特に何かの意味があるとは思えない。皆は何度かそのタイル
の表と裏を覗き込むように見ていたが、やがて持ち場に戻っていった。
床のタイルが一枚剥がれただけのようだった。
 それからもずっと、床を叩いたり斜めから覗き込んでみたり、指先をわ
ずかな段差や隙間に入れてみたり、何度となくその作業を繰り返してい
た。しゃがみこんだままの姿勢や這いつくばった姿勢を交互にずっと取っ
ていたせいか、背中が痛くなって来た。私は立ち上がると、少し後ろに
上半身を反り返し、背中を伸ばした。少々肩もこっている。立ったままの
状態で、先ほどの女が外したタイルがあったあたりに立ち、周りを何とな
く見ていた。だが、特にこれといった発見は出来るはずもなかった。

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2009年1月11日 (日)

 母が、亡くなった。
 数年前から入退院を繰り返して、父がずっと付き添いで看病し、
寝たきり状態が続いていたから、いつかはこの日が来るとはわか
っていた。だが不思議と実感はなかった。ずっと覚悟が出来てい
たからなのかもしれない。母の遺体と対面しても、涙が出るわけ
ではなかった。葬儀の時も、火葬場で骨を拾う時も、心はそこに
はなかった。
 自分の中では、母は生き続けていた。小さい頃から母に甘えて
ばかりで、父よりも母を第一に考えてきた。身体が弱く臥せがち
だった小学生の頃、よく「具合はどうかね」と笑顔で尋ねていた母。
実家に戻っても、母に会うのは病院のベッドの上が多かったせい
か、未だに母はあの病院にいると思えた。帰省しても、あの病院
に行けば笑顔の母に会える、そんな気がずっとしていた。
 大学生になった頃から、いつの間にか、おふくろ、と呼ぶように
なった。母はそのことについては、特に何も言わなかった。結婚し
て帰った時、女房を見て娘が増えたよう、と喜んでいた母。子供が
生まれて顔見せに戻った時も、目を細めてその幼い仕草に喜んで
いた母。やがて歳月が母の身体から自由を奪い、骨を溶かしてい
っても、泣きごとを言わずじっと耐えていた母。

 それは明け方だった気がする。枕もとでずっと鳴りっぱなしの電
話を取った。
「具合はどうかね」
 それは忘れもしない、母の声だった。聞き間違えなど、あろうは
ずもない。朦朧としながらも、思わずこらえていた感情が突然わき
上がる。だがそれと同時に、母の葬儀のことも思い出していた。
「母ちゃん、本当に、母ちゃんだよね。今でも母ちゃんが死んだな
んて信じられんよ。こうして話も出来てるし」
 言葉使いは、子供の時に母を呼ぶのと同じに戻っていた。だが
自分なりに、その瞬間、この会話が途切れてはいけないと思った。
そうすると、母が本当に遠い所に行ってしまいそうで、何とか引き
留めたいと思った。だから、続けた。
「元気だよ、だから心配しなくていい。父ちゃんも一人でちゃんと生
活してる」
 だが、もう母の声は聞こえなかった。
「もしもし、もしもし…」
 電話は無音のままだった。寝起きで朦朧としていた私は、そのま
ま受話器を置くと、ふたたび眠りについていた。心の中には、母か
らの電話があった、という安心感があった。
 翌朝、目が覚めた時、電話のことを思い出した。だがあれは夢だ
ったような気もする。それはあの世からつながった電話だったのか
もしれない。ひょっとしたら母は、生前最後に声が交わせなかった
ことを悔いて、ただひとこと、会話をしに来てくれたのかもしれない。
そう思えた。そして皮肉なことに、それで母の死がやっと実感できた。

 今年も、来年も、これからもずっと毎年、帰省しては母の墓前に手
を合わせるだろう。母が死んだという実感が、年を追うごとに少しず
つ増えている気がするのは、やはりあの声を聞いたからだ。誰に言
っても、そんな馬鹿げたことと、信じてくれるわけがない。だから誰に
も言わない。だが、あれはたしかに母の声だった。夢の中でもいい、
私に会いに来てくれた母の声だ、それは間違いない。今でもそう信
じている。
 そしてもう一つ、心残りなことがある。あの時は寝起きでぼうっとし
ていたこともあり、とっさに声に出して言えなかった言葉。人の気持
ちは、声に出さないと相手に伝わらない。それは相手が生きていて
も死んでいても関係のないことだ。
「母ちゃん、あなたの子供に生まれて良かったよ」
 感謝の気持ちを込めたその一言を、今度話す機会があったら絶対
に伝えよう。そう思いながら、また電話がかかってくるのを待ち続け
ている。

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2009年1月 6日 (火)

作者の簡単レビュー 【その32】

 RobbinⅡ‐レイン計画‐、約十か月間にわたる合計156回の連載で
したが、いかがだったでしょうか。原稿用紙換算で約780枚とかなり
の長編でした。もともとサブタイトルは「レイン計画」ではなくて、「イス
タンブールの夢に…」でした。そういうこともあって、いちばん最後は
ああいう風に締めました。もう少し悲観的なラストもあったのですが、
色々と悩んだ末、それはやめにしました。

 実のところ、連載中に過去掲載分にさかのぼって、何回か手を入
れています。イイギュン警部とムスタファの会話のシーンが追加され
ていたり、津田と杉本弘美がバーダット通りでお昼を食べる時に「ア
フェットオルスン」のちょっと笑える話を入れたり、とか。『あれ、前回
見た時はこんなじゃなかったぞ』って思える部分もたぶん幾つもあり
ます。(二度は読んでくれないから、わからないかなあ…)
 この作品は前作・RobbinⅠ‐帝王の花嫁‐の後編としての位置付け
になっています。なので、前作で真犯人がゼブラだったと思わせてい
ましたが、実は違っていた、などのどんでん返しも私なりに入れてあ
ります。

 この二つの作品は、私が実際にイスタンブールに単身赴任していた
時に書き上げたものですが、その時はRobbinという物語は三部構成
になっていました。しかし第三部は、もはや推理小説の体をなさなくな
っていたので、実際に作品として書き上げたのはここまでです。最後
のシーン自体や幾つかのシーンは書いてありますが、悲劇の物語に
なってしまうので、どうしようかちょっと悩んでます。 

 以前の簡単レビューにも書きましたが、ⅠとⅡの間に短編が二つ入
る形なので、そちらが書き上げられれば、また掲載させてもらいます。
 当面は、全然別の短編を幾つか掲載する予定にしています。

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2009年1月 3日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- エピローグ(4)

 時計にせかされるように、彼女は立ち上がった。山の斜面いっぱ
いの墓を左に見ながら、彼女は先ほど登って来た道をゆっくりと戻
り始めた。名残を惜しむように彼女は、何度も振り返ってそのピエ
ール・ロティのチャイハネを見た。そこは今まで彼女が居たことなど
少しも気に止めていないような、相変わらずの落ち着いた雰囲気
のままだった。遠くの方で花火か何かの音が、数度小さく聞こえた
が、それもすぐに収まったようだった。
『もう、ここに来ることも無いだろうな……』
 昔の自分を振り返って見ると、あまりに優しすぎたように彼女には
思えた。他人の気持ちを考え過ぎたようにも思える。それゆえ自分
というものを、常に犠牲にして来た。いつも自分だけが傷付いて来
た。必要以上に相手のことを思い、結果として全てを許して来た。
他人の考えに流されて、しかしそれでも自分が我慢すれば済むの
だと、無理矢理に納得して来た。
 それにここでこれまで見聞きして来た日本人女性達の生活は、彼
女に言わせれば何処か一種の狂気が漂っていた。男に対する免疫
を持ち合わせていないが故に、親に出して貰った金で留学した挙げ
句に、トルコ人青年と堂々と同棲をして今を楽しむだけで将来のこと
など何も考えていない、彼女と同年齢に近いお嬢様達……昼間から
持ち回りで仲間の家に上がり込んでは、酒や菓子を片手にマージャ
ンに興じている有閑奥様達……トルコ人青年の情熱にほだされて結
婚したものの、数年後自分に金がなくなって捨てられたのにそれに
気付かず、それでも私は彼を愛しています、と未練がましく言い残し
て、後ろ髪引かれる想いで日本に帰って行く女達……。そうかと思
えば、逆にトルコ人の男達と三角関係を続けながら、日本人を騙し
て粗悪絨毯を高い値段で売り付け、そのマージンで生活しているし
たたかな女達。
 別に特定の誰かが悪いわけでは決してないのだ、と彼女は思う。
騙す方も悪ければ、騙される方も悪いのだ。ただその狂気に毒され
ていつの間にか、彼女自身もその深淵の中に身を置いていた事は
事実だった。かつて津田がズバリと指摘したように、海外だからと
いう一言で、ここは日本ではないという開放感が、全ての判断を誤
らせ、結果としてそれらを許しているのだ。イエロー・キャブ、誰でも
乗れる黄色のタクシー、それがそんな日本人女性達に秘かに付け
られているニックネームであることを彼女達自身は知る由もない。
 そして同時に彼女は、川田良子達の辿って来た過去に、漠然とし
た不満を感じていた。だがこれからの自分は彼らとは違うのだ、と
彼女は心底思う。
「川田良子さん……貴方も多分、私と似たような道をたどったはずだ
と思うわ。でも結局、貴方は運がなかったのよ。だから殺される羽目
になった。でも私は違う!絶対に貴方の二の舞はしない。私は私の
人生をこの自分の手で掴み取る。人生の敗北者なんてまっぴらよ。
武司さん、私がいつまでも操り人形のように、貴方の言うことを素直
に聞いている女だと思ったら大間違いよ。私はあの二人とは違うの。
これまでの私の借りは日本に帰ってから、そっくり返してもらうわよ。
私が何もしないでただ従順に貴方の言うことを聞いて来たと思わな
いでね。貴方にはこれから色々面倒を見てもらうことになるわ。覚悟
しとくのね、二度目は無くてよ」
 そう呟くと、彼女は前を向いて歩き始めた。もう、心の迷いは何もな
かった。今はただ、自分の新しい人生がこれから始まるのだ、という
すがすがしい気持ちで、彼女の心はいっぱいだった。
 冬のイスタンブールの一日が終わろうとしている。懐かしい褐炭の
臭いが、あちこちの家の煙突から煙と一緒に流れ出し始めているの
が見えた。
『変わらないのね、ここは……』
 彼女はそう小声でつぶやくと、目を細め、にっこり微笑んだ。

 新ガラタ橋の開通は、再三の資金繰り悪化のため、当初の予定だ
った十月二十九日のトルコ共和国誕生記念日には間に合わず、翌
一九九二年の春にずれ込んだうえに、工事が休止していた。旧ガラ
タ橋の処遇については、取り壊すか否かでイスタンブール市議会で
も意見が分かれたまま結論が出ていなかったが、新旧を併用する方
向で決着が付こうとしていた。
 だがちょうどこの頃、係留中のバプールが真夜中に不審火を起しな
がら旧ガラタ橋にぶつかり、旧ガラタ橋が延焼する事故が発生したの
である。結局のところ、失火原因は明らかにされておらず、物議をかも
したのも事実だが、単純な偶然だったのかどうかは定かではない。そ
して皮肉にもこの事故のため、新ガラタ橋の工事が急遽再開され、そ
れから短期間で開通の運びとなった。それまでのイスタンブール庶民
の象徴とも言えた旧ガラタ橋は、延焼の影響で、もはや保存するに耐
えられる状態ではなくなっており、市議会で取り壊される事が正式決
定された。 
 こうしてまたひとつ、かつてのイスタンブールがひっそりと消えていっ
た……
                                    fin

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2009年1月 1日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- エピローグ(3)

 そして空港での不可解な行動の件に関しては、後日塚本美雪の
証言があった。それによれば、彼女はこの時は自分が自分でなか
ったとは言え、あの時の自分なりのレイン計画阻止を狙った誘い水
のつもりだったと言う。酒井にそこまで悪の道に入り込んで欲しくな
かった自分の漠然とした気持ちが、ああいう形でしか表現出来なか
ったらしい。だが同時に彼女はたとえ過去がどうあれ、今の自分が
酒井の隣にいられる事、つまり良子に彼女は勝ったのだということ
を暗に誇示する気持ちも、複雑に絡んでいたとも語ったのである。
 訊問の最後に、レイン計画がいつ頃から動き始めていたかを問わ
れ、酒井はこう答えた。
「ブラック・ローズ組織の一員として、イスタンブールに派遣された頃
から、おぼろげながらレイン計画の案はあったと思います。ですが事
が事だけに、実行する前にあちこちと話を付けるためにある程度の
資金が必要だった。同時に当時のその計画の阻害要因として、正
木英嗣氏の名前が一番に挙がっていました。そのために仕組まれ
たのが、トリム産業株式会社の事件であった、とゼブラから聞いた
覚えがあります。真の首謀者のことは、今はまだ申し上げられませ
ん」
 結局、そう言い残したまま酒井武司は、刑務所への護送で警察か
ら出て来たところを、テレビ局のカメラが回り大勢の取材陣のいるそ
の目の前で、何者かに狙撃され頭部を見事に撃ち抜かれて即死し
た。この事件の犯人は未だに謎である。野宮邦弘という統括者まで
を逮捕されたブラック・ローズ組織が、これ以上の被害を避けるため
に彼の口封じに動いた、と見るべきなのかどうかは警察内部でも意
見が別れた。今回の犯罪に加担していた何者かが裏で暗躍し、政
治家達の存在が浮かび上がらないように画策した、と言う見方も出
来るからだ。
 しかし世間一般に対しては、必ずしも全ての真実は知らされなか
った。何しろ天皇の狙撃計画のことを発表しようものなら、どこかの
輩が本当に真似をしかねないご時世なのだ。酒井がにおわせた真
の首謀者の件もそうだった。野宮の経歴をたどると、おそらくはアメ
リカ合衆国公然の某秘密組織が裏で糸を引いているのではないか
と思われたが、野宮は黙秘権行使で頑として口を割らないままだっ
た。そして多額の保釈金で釈放された後、地検も粘りはしたものの
そこまでの追及が出来ず、警視庁の捜査自体も暗礁に乗り上げて
いた。ブラックローズという組織が存在すること自体も秘密とされ、
あくまでも事件は野宮邦弘と酒井武司による、国家転覆の騒乱罪と
しか発表出来なかった。

 一方の津田については、情状酌量の余地はあるものの、過去にブ
ラック・ローズ組織の一員であった事と、トリム事件の偽証は間違い
のない事だし、実際にゼブラとパープルの二人を、仕方がなかったと
は言え射殺している事実は事実である。懲役刑はまず間違いのない
ところだろうと村上警部補達は思っているが、執行猶予が付くのかど
うかもまだわからない。そもそもブラック・ローズ部隊のことは関係者
に厳重な緘口令が敷かれているので、その事実が今後本当に公表
されるのかどうかもわからない。公表されないとなれば、津田の刑の
重さもかなり変わってくる。だが一つだけ間違いないことは、たとえ執
行猶予になったとしても、津田は今の浅見探偵事務所にはおそらくも
ういられないことだった。
「津田、か」
 今はもう洋子も辞めてしまってひっそりとしている喫茶アルファの片
隅で、本郷はかつての津田の指定席に腰掛け、じっと考えていた。こ
の席で津田はこれまで一体何を考えてきたのか……彼がこれまで体
験してきた世界は、本郷にとっては想像もつかない、あまりにも殺伐
とした世界だった。これまで何度か津田は、ある時は横から強引に割
り込んで来て捜査の邪魔をしかけた事もあったし、ある時は行き詰ま
った捜査を助けてくれた事もあった。結構ストレートにものを言うタイプ
の人間で、時にはこちらが気分を害されたこともよくあったが、現実に
こうして定位置に彼がいなくなってしまうと、実に寂しいものだった。
 洋子はすでに立川のアパートを引き払い、木島にアルファを辞めると
言い残して、長野の実家に帰って行った。龍王は相変わらず、秋葉原
の量販店で真面目に働きながら、いつか自分の元に美雪が戻って来
る日を信じて待ち続けている。そしてこの事件を解くきっかけになった
川田は、再び彼の息子と二人でアメリカに海外赴任して行った。本郷
はあの津田の笑顔を、もう一度ここで見たいと思った。自分の中で津
田の存在が意外に大きく占められている事が、彼には意外だった。
 アルファを出た後、本郷は津田のアパートの前までやって来ると、二
階の彼の部屋がある場所を見た。洋子が部屋の合鍵を持っていて、
事件後にある程度津田の荷物を整理していたことを知り、それで二人
の関係を本郷も知った。それは意外でもあったが、うすうす感じていた
だけに、驚きはなかった。今はひっそりとその部屋だけが、窓にカーテ
ンがかかったままで暗く静かだ。
「帰って来るよな、津田」
 淋しげにそう小さくつぶやくと、本郷はコートのえりを立てて歩き始め
た。

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2008年12月29日 (月)

RobbinⅡ-レイン計画- エピローグ(2)

 シャルと呼ばれる大判の肩掛けを頭から深くかぶって顔が見えな
いようにして、女物のコートを羽織った酒井は、ムスタファに付き添
われながら彼の車に乗り込むと、領事館付近まで急いで戻った。
美雪は彼らとは別行動をとり、ドルムシュを使ってほぼ同時刻に酒
井の家に戻っていた。そして酒井は何食わぬ顔で仕事をしたのだ。
酒井はこの日、あらかじめ休みを取っていたが、急ぎの仕事がある
と言って休みの日に酒井が領事館に午後から顔を出す事はそれま
でも頻繁にあったので、領事館の誰もそのことを不審には思わなか
ったはずである。
 さらに酒井は、イスタンブール警察の上層部の人間に連絡し、捜
査状況を聞き出すと、川田の関係者が入国する情報を得た。すで
に十年もこの地の領事館にいる利点とブラック・ローズ組織を利用
して、それまで惜しげもなく金をばらまいて来ていたので、彼はあら
ゆる方面にコネを持っていた。警察の上層部の人間とて、酒井の息
がかかっている関係者はごまんと居る。一度だけ政府高官に最高
級の女を斡旋した時に、現場の隠し撮り写真が新聞記事になった
ことがあったが、その際も記者に大金をつかませて何とか丸め込み、
事なきを得た。

 今回もことが良子の事であっただけに、彼は領事館から紹介した
という触れ込みで、息のかかった人間を川田と警察の通訳によこし、
状況を慎重に見守る必要があった。そのために眼鏡で外見を多少カ
モフラージュさせた美雪を送り込んだのだ。また領事館で、善意の第
三者を装い川田に悔やみを述べたのも、立場上であったとは言え、
酒井自身は内心複雑な気持ちで川田と接していたのだった。
 念のためを思い、川田が無事に出国するかどうかをゼブラに確認
させた。だがあろう事か、その場に美雪がやって来たのだ。美雪が
川田に何事かを囁いたことを、ゼブラからの報告で知った酒井は美
雪を詰問した。だが彼女のその行動の意味するものは、謎のまま
だった。彼女自身、言っていることがかなり支離滅裂になっていた
のだ。彼女をイスタンブールで人知れず葬ることも出来たが、あえて
そこまでの危険は冒せなかった。
 日本人女性が連続して殺害されれば、否応なく目につくし、捜査に
もかなりの人員が投入される可能性があったからだ。そうなれば、日
本の警察には及ばないとは言え、いつ何をきっかけに自分と良子と
の過去が露呈しないとも限らない。帰国してもまだ美雪の神経が参
ったままであれば、日本で密かに処理してもらおうと考えて、その事
を野宮に相談したのだ。これ以上自分の目の前で、自分に関係した
女が殺されるのは出来るなら見たくなかった。

 野宮はさんざん反対したが、酒井は自分のその考えを何とか押し
切った。美雪が帰国した後の就職先を世話してやったが、結局彼女
はそこにはほんの三ヶ月いただけで辞めてしまった。その頃には彼
女の精神状態も落ち着きを取り戻していたことを、彼は日本からの
連絡で知り、ホッと胸を撫で下ろしていた。
 そして美雪が帰国する前に酒井が知り合った杉本弘美が、彼の三
番目の現地妻になったのだ。そしてそこに、事件から一年を経過した
頃、要注意人物とされる津田宗弘という探偵が事件の真相を探りに
日本からはるばるやって来たのだ。これは帝国ヒューマン・リサーチ
の情報として酒井の元にもたらされた。帝国ヒューマン・リサーチは
日本におけるブラック・ローズ組織の一部でもあり、美雪の動向を探
っていたのもそこを介してだった。
 何度かこれまでトラブルを処理していたゼブラに、酒井は津田の件
を依頼した。その頃にはレイン計画の詳細が本格的に固まり、その
決行が知らされた。そのための狙撃要員として、マユミなる女傭兵が
酒井の元にやって来た。そして津田を仕留めた後、彼ら二人は日本
に向かったのだ。だが実は津田は死んではいなかった。長かった任
期を終了して帰国し、野宮の元に無事に復帰した酒井だったが、そ
の事を彼は迂闊にも知らなかったのである。
 だがこれには川田の機転によるところが大きかった。彼は良子殺害
の一件で、イスタンブール市警の捜査に不審を抱いていたのだ。たし
かに、ひと通りの捜査は行なうように酒井は警察の上層部を通じて指
示していた。だが川田は警察が買収されていたことをうすうす感付い
ていたのだ。それゆえ津田からの状況報告を聞いた時、川田は自ら
急遽イスタンブールに向かうことを決め、休みを取ってやって来た。
一緒にギュルハネ公園に駆け付けた警察官を金で買収し、事をあくま
でも秘密裏に運んだのだ。津田を運び込んだ緊急病院も、以前に秘書
のアイシェルから聞いていた腕利きの医者の所だった。それが効を奏
して、その後の日本での一連の津田の行動に反映されたとも言える。

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2008年12月26日 (金)

RobbinⅡ-レイン計画- エピローグ(1)

「良子がイスタンブールにやって来たことは、イスタンブール市警の
情報提供者に教えられて知っていました。彼女の住んでいたあの
スワディエのアパートには、偶然でしたが五階にムスタファという我
々の仲間が住んでいたんです。ムスタファは元イスタンブール市警
の本部長だった男で、在任中からかなり悪い評判がある奴でした
が、裏情報にも詳しくて色々と利用価値があったので、定期的に会
ったりしていました。
 私は前の日の夜から彼の所にいて、翌日の朝の十時にムスタフ
ァがカプジュを呼んで外に買い物にやらせた隙に、近くに潜んでい
た美雪を合図して招き入れ、良子の所に向かわせて彼女にドアを
開かせたんです。相手が私では、いきなり訪れても恐らく内部には
入れてくれなかったろうし、その点日本人の女なら、良子が油断す
るだろうと思ったんです。結果は案の定でした。そしてその後に私
が向かい、美雪が内側からドアを開けて私を招き入れました。良子
はさすがにビックリしていました。
 当然でしょうね。まさかこの私が、突然に自分の自宅にやって来る
とは思ってもみなかったでしょうから。美雪は川田さんの知り合いで
通訳をしている人間ということにして、急に一両日中に必要になった
金があって借りる目処が付かないので、考えあぐねた結果、悪いと
は思ったが川田さんの善意に甘えようと決心してここにやって来た、
という設定にしてありました。良子は美雪の真に迫った演技に騙され
て、家にあった現金を彼女に貸してやったところでした」

 酒井の脳裏に、あの時の記憶が鮮明によみがえって来た。帰って
くれ、貴方とは二度と会いたくない、とけんもほろろな態度の良子に、
酒井はカッと頭に血が昇り、言葉にならない言葉を発しながら衝動的
に彼女に飛び掛かると、両手でその首を締めつけたのだ。女の冷酷
さと裏切られた現実が脳裏を駆け巡る中で、彼は泣きながら良子の
首を思いきり締め続けていた。
 もはやもう後戻りなど出来なくなっていた。良子の身体が次第に力
を失い、その場に足元から崩れるように倒れていき、ついには息絶え
ても彼の両手はまだ良子の首を力一杯に締め続けていたのだ。
「死んでるわよ、もう……」
 その美雪の言葉で、思わず酒井がハッと我に返って手を放した時は、
すでに手遅れだった。彼は自分のその手で、良子を絞殺してしまって
いたのだ。自分がしでかした事に呆然と立ち尽くしている酒井を尻目
に、美雪は絨毯の上に倒れている良子のスカートを脱がしにかかった。
「何を……何をするつもりなんだ、美雪」
「見ればわかるでしょ。強盗の仕業に見せかけるのよ」
 冷たい目付きで彼女はそう言うと、その後、酒井にとんでもないこと
を言ったのだ。動転していた酒井は、彼女の言い放った言葉に愕然と
し、思わずその恐ろしさに身震いした。
「そんなことが出来るわけ無いだろう。良子はもう死んでるんだぞ」
「何を今さらそんなこと言ってるの!貴方は警察に捕まって、自分の人
生を棒に振りたいの」
「し、しかし。いくら何でも、そんなことが出来るわけは」
「やるのよ!出来なければ私が協力してあげる。私達はもう共犯者な
のよ」
 そう言うと美雪は、良子の死体の横で全裸になって、酒井を招いた。
狂気が二人を支配していた。良子が酒井に強要したこと、それは酒井
に良子を死姦させることだった。狂ったように大胆に酒井を求め、おびた
だしい量の愛液にまみれる美雪に引き込まれ、酒井は横に良子の死体
がある事もいつか忘れていった。その快楽に、二人は溺れた。そして美
雪は酒井に自分の中に射精してと叫びながら、達した。酒井も美雪のそ
の言葉とほぼ同時に、美雪の中に異常なほどの量の自分の熱いものが
ほとばしり出て行くのを股間に感じた。
 酒井のものが自分の中に注入されるのが完全に終わると、美雪はま
だ息を荒げながらも酒井を押しのけ、良子の死体の股間に自分の中か
ら溢れ出てくる酒井の精液を手に付けると、良子の内部にその手を押し
入れた。それを何度か彼女は繰り返した。
 それも終わると彼女は手早く衣服を身に付け、今まで二人が抱き合っ
ていた場所を注意深く観察し、自分の髪の毛が一本落ちているのを見付
けるとそれをそっと取り去った。そして彼ら二人の指紋が残っていそうな
場所を全てハンカチで拭うと、彼らはその部屋を後に、いったん五階のム
スタファの部屋に戻ったのだ。

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2008年12月23日 (火)

作者の簡単レビュー 【その31】

 長かったこの物語も、次回からついに最終章「エピローグ」を迎え
ます。あらためて読み返してみると、ああここをこうすればもっと良く
なったのになあ、とか色々考えたりもしますが、それはおいおい校
正をかけて、過去ログに反映させていこうと思っています。

 イスタンブールもすっかり変わってしまっているのでしょうね。しか
し何よりも今年は、私にトルコ語を教えて下さった、俳優でもあるア
イデン・ヤマンラールさんが七月に逝去されたことが一番のショック
でした。この場を借りて、ご冥福を心よりお祈りします。

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2008年12月21日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(10)

「金銭のやり取りがあったのかどうかはわからない、だが現場にい
たあんたは、その時ケマルに便宜を図って情報提供してやったは
ずだ。だからケマルの記事だけが、他社よりもずば抜けて優れて
いた。そしてそれがきっかけで、以降ケマルは一気に凄腕記者の
階段を駆け登っていく。全部あんたからの情報提供があったおか
げだ。だから奴にとってはルポライター事件は特別なものだった。
だからパスワードが他のと違っていた。パスワードは、イイギュン
さん、あんたの名前だったよ」
「ほう。さすがだ、よく調べたな。パスワードまで見つけ出すとはた
いしたもんだ。私に内緒にしていたのは、そのパスワードのことを
言うわけにはいかなかったからか」
 ハリムは小さくうなずいて、続けた。
「だが、わからない事がある」
「何だ」
「どうしてカワダ夫人殺害の今回の事件も、パスワードがあんたの
名前なんだ?」
「簡単なことさ、わからんのか」
「……」
「頭の切れるお前にしては珍しいな。たぶんケマルは気付いていた
んだ、だから私の名前にしたんだろう」
「気付いていた?何を」
「わからんのか、事件のきっかけを作ったのが私だということさ」
「きっかけ、だと」
「そう、カワダリョウコがこの地にやって来たことを、サカイに知らせた
のはこの私だ。あの女は最高だったからな、今でも覚えてるぐらいだ」
「そうか、あんたは昔、イスタンブール市警で捜査統括課長をずっとや
ってたな。そのつながりで面識があったのか」
「色々と揉め事を水面下で解決してやっていた、その見返りさ。まあ昔
の話だが」
「じゃあ、どうして仲間割れしたんだ」
「仲間割れ、とは」
「これまで殺害された悪徳警官五人のうち、オルファンとハルックはあ
んた達が始末したんだろ。連続殺害犯に罪を着せるために、現場に赤
い薔薇を残す手口を真似て」
「じゃあ残りの三人が連続殺害犯の仕業だと言うのか、そう断言できる
証拠は何だ」
「……」
「証拠があるのなら、言ってみろ」
「証拠はこれさ」
 ハリムが腕組みを解くのとほぼ同時に、不意にイイギュン警部の至近
距離から、パンパンと花火にも似た音がした。イイギュン警部には、何が
起こったのかがすぐには理解出来なかった。

「ハリム、お前どうして…」
 ハリム刑事の腕には、硝煙が少し出ている銃が握り締められていた。
腹のあたりが我慢できないくらいの痛みと熱さで立っていられず、イイギ
ュン警部は思わずしゃがみ込んだ。腹部に当てた手が生暖かい。見ると
おびただしい出血が始まっていた。
『撃たれた?ハリムに?』
「イイギュンさん、あんたは深入りしすぎたんだ」
「何だと」
「私があれほど遠まわしに何度か注意したのに。あんたは見張られてる、
と」
「何だと」
 そう言われれば、ハリムの言い回しには時々首をかしげる場面もあった。
「自制さえしててくれてれば、俺だってこうやって恩のあるあんたを手に掛
けたりはしなかったさ。売春組織と麻薬組織は裏でつながってるんだ。以
前にクルド民族解放戦線を名乗って、あんたをアンカラにおびき出したのも、
俺がケマルに交換条件で要求したことだ。この前日本で起きた原子力発
電所の件もそうだ。あれは表向きは事故だが、実際は違う。世の中ってい
うのは、そんなものさ」
「お前、どうしてそんなことを知ってる……」
 力なくハリムが笑う。
「それは、あんたは知らずに終わる。三人の警官達を殺害した時と同じよう
に、俺が赤い薔薇を置いておくから、あんたはあの世で考えてみるといい」
 イイギュン警部は次第に意識を失っていった。ここは低所得者層の群生
する場所で、誰も他人のことを構わない。ここで殺人事件が起こっても、誰
も警察に通報することはないし、身ぐるみはがされて転がるだけだ。
 この山の向こう側のピエール・ロティのチャイハネで若い頃、今の夫人と
二人でよく通い、将来のことを熱く思い描いたものだった。
「ネルミン…」
 その小さなつぶやきにも似た言葉はイイギュン警部の夫人の名前だった
が、それが彼が発した最後の言葉だった。

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2008年12月18日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(9)

「その理由は何か。私が何か用事があって会いたがっているのを、
その前に社に電話して伝言で知ったんだろう。だから時間を稼ぎた
かった」
「………」
「お前と話す時間をな。あるいはケマルが私に電話していた時、隣
にお前がいたのかもしれん」
「………」
「そう黙るな、ハリム。それじゃ肯定しているのと変わらんぞ」
「いや、あまりにも突拍子もない発想なんで、開いた口がふさがらな
いだけですよ」
「今さら、シラを切るのか」
「どうして私が、ケマルを殺さなきゃいかんのですか」
「それがずっと謎だった」
 そう言うとイイギュン警部は、上着の内ポケットから新聞記事のコピ
ーを取り出して、ハリムに見えるように見せた。
「理由は、これだろう」
 ハリムの顔が青ざめた。
「どうして、そんなものをあなたが持ってるんだ」
 それは、外務省高官がアンカラで女性接待を受けている現場の隠し
撮り写真が掲載されている、ギュナイドン紙の記事の切り抜きだった。
「これを探し出すのにアンカラで丸三日かかったぞ、お前を騙すのが大
変だったが」
 イイギュン警部が珍しく、食当たりと言って数日休んだことを、ハリム
は思い出した。あの時、イイギュン警部はアンカラに出向き、ハリムの
過去を洗っていたのだ。
「この高官の横にいる若い男は、お前だろう。お前もおこぼれにあずか
ったクチだ」
「………」
「この高官はこの記事が原因で自殺した。そしてお前もキャリアではい
られなくなった。だがまだ若く優秀だったお前を惜しむ声はあった、お前
が残れる手段は一介の警察官として天下ることだった。そしてお前は
刑事となったが、アンカラにいるのはまずい。だからイスタンブール市
警に派遣されて来たんだ。そしてこの記事を書いたのは、誰あろうケ
マルだ」
「………」
「ケマルがお前をいつ認識したのかはわからん。だが奴はある時、お
前に気付いた。あるいはお前は、気付いた奴に脅されていたのかも
しれん」
「その通りです」
「!……やはり、そうだったか」
「お察しの通り、ケマルがイイギュンさんに電話していた時、私は隣に
いました。これ以上、私につきまとうのは止めてくれと。たしかに過去
にそういう場に居合わせたが、今は一生懸命に働いているんだ、私は
犯罪者じゃない」
「………」
「だが彼は容赦してくれない。イスタンブール市警の機密情報を渡せ、
としつこく言って来た」
「イスタンブール市警の、機密情報だと?」
「そうです。イスタンブール市警に根付く悪習の温床とも言える、悪徳警
官リストです」
「悪徳警官リストだと?そんなものは存在しない」
「いえ、存在します」
「聞いたことがないぞ、そんなリスト」
「そりゃそうだろ」
 急にハリムの口調が変わった。
「何しろ、イイギュンさん。あんたがその頭目だからね。それに、あんたは
知ってるはずはない」
「どういうことだ」
「私がイスタンブール市警にやって来たのは、さっきの理由だけじゃない。
イスタンブール市警に根付いている悪徳警官一掃の密命を受けてる」
「何だと!」
 今度はイイギュン警部が気色ばむ番だった。
「それにイイギュンさん、あなたもケマルとは一蓮托生の関係だ。あんたと
ケマルのつながりは、奇しくもここで起こった日本人ルポライター殺害事件
がきっかけだったはずだ」
「……」

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2008年12月15日 (月)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(8)

「彼女はルポライターとその同棲相手の二人の男を睡眠薬で殺害
した。被害者二人に共通点がない以上、個人的な感情や関係の
もつれとは思えない。だから誰かに依頼されたか誰かのために殺
人を行ったとも考えられる。そしてそれはおそらく…」
「それが誰だか想像ついてるんですか、イイギュンさん」
「海外では皆が言葉に不自由しないわけではない。それゆえ充分
に意思疎通できる相手、つまり潜在的に同じ国の異性を暗に求め
ている場合が比較的多い。だから彼女の知ってる日本人の誰か、
ではないかと。たとえばサカイとか、な。だがこれは確たる証拠が
あるわけじゃない、私の想像でしかないんだ。だが…」
「だが?…だが、何ですか」
「ケマルが殺された事件とは、全く原因が違う」
「イイギュンさん、話が飛びすぎてて、おっしゃっている意味が良く
わかりません」
「ハリム、どうしてケマルを殺した!」
 突然のイイギュン警部の言葉に、ハリム刑事は一瞬絶句した。
「…わ、私がですか?」
 イイギュン警部はじっと、ハリム刑事を見詰めたまま立っている。
「何を言い出すのかと思えば。悪い冗談はやめてくださいよ、イイ
ギュンさん」
「私は冗談でこんな事は言わんよ」
「………」
「お前はあの時、イスタンブール市警から鑑識連中と一緒にやって
来たんじゃない。ペラパレス・ホテルの前で合流しただけだ」
「………」
「イスタンブール市警から一緒にやって来てなかった事は、顔見知
りだった鑑識の連中に確認して裏が取れてる。それにホテルのフ
ロントマンにイスタンブール市警に連絡させた時、私の名前は彼に
まだ教えてはいなかったから、私の名前を出して通報したはずがな
いんだ」
「………」
「だがお前は私がいる事を知っていたな、それは私がホテルにいる
のを知っていたからだ。だからいかにもそれらしく、鑑識と同行して
きた理由にした。だが、どうしてアンカラから戻って来たばかりのは
ずのお前が、あのホテルに行ったんだ」
「………」
「それにお前はアンカラを、あの日の昼前の飛行機で出発してるな。
どうしてだ。どうしてそんなにイスタンブールに急いで帰ってこなくち
ゃいけなかったんだ」
「………」
「理由を言ってやろうか、ケマルに会うためだろう。ケマルもそのつも
りだったと考えるべきだ、それなら早い時間からチェックインしていた
理由が付く。時間的にケマルが私に電話をかけた時、私はてっきり
ギュナイドン新聞社の奴のデスクからだろうと思いこんでたが、あの
時すでに奴はホテルの部屋にいて、そこから私に電話をよこした。
さも新聞社にいるように見せかけてな」
「………」
 ハリム刑事は腕組みをして、黙ったままイイギュン警部を見つめて
いた。

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2008年12月13日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(7)

 その日、珍しくイイギュン警部は朝から夫人と口論になり、途中の
交通渋滞に苛立ちながら定時を少し遅れて出社した。昨夜判明し、
確信した事実がどうしても信じられず、どうしたものかと今も迷っても
いた。やがて彼は、ハリム刑事を誘って、日本人ルポライターが殺害
された現場におもむいた。これ以上避けては通れない、と覚悟を決め
たからでもあった。行きの車の中でも、運転するハリム刑事の世間話
にもろくに返事をせず、イイギュン警部はじっと目をつぶって腕組みし
たままだった。おのずと二人とも何もしゃべらなくなっていた。
 ゴミがあちこちに散乱し、一夜城とも言われるゲジェコンドが群集す
る山肌の斜面に立ちながら、二人は殺害現場だったとされる場所に
立った。しばらくは二人とも無言のままだったが、やがてイイギュン警
部の方が先に口を開いた。
「なあ、ハリム。あのルポライターを殺した奴は、どうしてこの場所を選
んだんだろう」
「さあ、何か特別な意味があるとは私には思えませんでした。ここなら
山の裏側にあたるので、発見されづらい場所だと思ったんじゃないん
ですか」
「だが実際にはゲジェコンドがあちこちにある。ジプシー達が犯人や遺
棄現場を見かけたとしても、ただちに警察に通報するとは思えないが、
人目につきにくい場所ではない」
「たしかに」
「だから主犯はトルコ人ではない、とも言える」
「え?」
「トルコ人なら多少なりとも地理状況ぐらいわかる。治安の程度もな。
ここはたしかに裏通りに当たるし治安も決して良くないが、人目がな
いわけじゃない。だがあまり事情に詳しくなければ、ここを選ぶかもし
れない」
「その日本人通訳の女性が主犯ということですか。同棲相手のトル
コ人男性ではなくて」
「たぶんな。そして彼女はこの向こう側によく来たことがあるんじゃな
いか。だから裏側のこのあたりの治安が悪いのを知っていた」
「この向こう側に何かありましたっけ」
 ハリム刑事は振り返って丘の上を仰ぎ見た。アンカラからやって来
た彼自身、日頃の多忙さもあり、たまの休みの日はほとんどベッドで
眠っていることが多く、イスタンブールの観光地のことはまだよく知ら
ない。休みの日に観光地巡りが出来るほど、彼はまだ偉くはない。
「ピエール・ロティのチャイハネがある」
 イイギュン警部は少し懐かしそうな表情で、そう言った。
「なるほど、裏側が治安の悪い場所だと知っていた、というわけです
か。だが実際に死体を運び込んでみると、ゲジェコンドが乱立してる
ので、思ったほど人目がない所ではない。だが今さら別の場所に運
ぶには目立ちすぎる。だからやむなくここに遺棄した」
「だがその同棲相手も、睡眠薬強盗の手口で後日殺されてる」
「それはその女が弱みを握られていたからじゃないんですか。だから
口封じで殺した」
「どんな弱みだ」
「共犯ですからね。それにここに来てる日本人の女は、皆だいたい金
を持ってる。今回のことで一生ゆすられ続けるのが心配だったとか」
「本当にそれだけだろうか」
「…と言いますと?」

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2008年12月10日 (水)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(6)

 彼女の中で、消そうとしても消えない酒井武司に対する疑惑が
膨らんできていた。おそらく川田良子と酒井武司は何らかの面識
があったのではないかと思えた。それもわざわざ酒井自身がイス
タンブール市警とやり取りするほどの関係…となれば、単なる顔
見知りのレベルではなく、特別な男と女の関係とみるのが自然だ。
 その関係が終わっていたのか続いていたのかは、彼女にはわ
からない。だがそのかつて愛し合っていただろう二人が、あるいは
川田良子が生きている間に、再びこの地で出会ったのかもしれな
い。そこで何かが起こったのか、今さらそれは彼女には知る由もな
い。だが酒井に後ろめたいところがないのなら、何もわざわざイス
タンブール市警と川田良子の死後も直接やり取りする必然性は少
ないと言える。何かしら酒井は、この川田良子殺害に関与していて、
捜査の進展や情報をそれとなく探っていたように思えた。
 時期的に考えれば、その時酒井武司の横には自分の前の女、
塚本美雪がいた可能性があるのだ。自分がもしも川田良子だった
ら、酒井武司とは会いたくないと思うだろうと彼女は考えた。たとえ
十年前の恋人であったとしても、冷静に現実を秤にかければ、いつ
までも若く気儘な人生を送れるわけでもない以上、今まで築き上げ
て来たそしてこれからの将来の生活基盤の方がずっと大切なはず
である。よしんば酒井との生活を選ぼうとしてみたところで、自分だ
けを一途に思い続けてくれていたのならいざ知らず、彼の横に自分
より若い魅力溢れた女がいる現実が許せるはずもない。

 では酒井武司の方はどう思うのか……これは彼女の想像でしか
ないのだが、おそらく彼の方は川田良子に会いたがると思えた。た
いていの場合、男の方がロマンチストだし、そのあたりの感情をい
つまでも女々しく持ち歩いていることが多いものだ。ではそこに何が
起こるか。たとえ彼女にそんな気が毛頭なかったとしても、その川
田良子の態度から、酒井は築き上げてきた今の自分の立場を危う
くされる可能性を、感じ取ったはずである。
『川田良子が死んで一番安心出来るのは、武司さんということね』
 思わず彼女はチャイグラスを落としそうになった。とんでもない発
想なのだが、今の彼女にそれは否定出来ないほどの説得力があ
った。川田良子は酒井の秘密を握っていた、そしてそれがばれる
ことを酒井が極端に恐れ、川田良子殺害を計画したとすれば、犯
行の動機は成立する。辻褄は全て合うのだ。
『じゃ、私が塚本美雪とすれば、出国する川田さんにわざわざその
事を言いに行くかしら。自分の恋人の秘密を、彼に匂わせるような
ことをする必要は……』
 しばらく思案した後、ある、と彼女は思った。酒井にその余りにも
突拍子もないことを何とか思いとどまって欲しいと心底願う女なら、
それほど酒井を愛しているのなら、そのことを彼にそれを断念させ
るきっかけにしたいと自分なら考える、と杉本弘美は思った。
『それほどまでに恐ろしいことを、あの人は考えていたんだろうか』
 その後日本で起こったレイン計画の顛末を彼女が知っていれば、
あるいはもっと早く真相に気付いていたかも知れない。日本で起こ
った原子力発電所の事故のことは、テレビニュースや新聞報道な
りで多少は知っていたが、遙かなこの地では所詮はその程度で、
さほど大きな扱いにはならなかったのだ。酒井武司が川田良子に
殺意を持った、と言う彼女の推測はたしかに正しい。だがそれは全
てではない。真の犯罪の全貌は、酒井武司しか知らないのだ。そし
て彼はすでに日本で数ヶ月前に逮捕され、一連の事件の真相を自
白していたのだが、杉本弘美がそれを知るはずもなかった。

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2008年12月 9日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(5)

 ゼブラと呼ばれていたその男に、半ば領事館から連れ去られる
ようにして、彼女は彼らのアジト、すなわち酒井領事の自宅に同
行させられ、そこで強制的に津田宛ての手紙を書かされたのだっ
た。拒否すればおそらく、そこに居る何人かの目つきの悪いトルコ
人の男達のおもちゃにされるだけだという恐怖心が彼女の脳裏を
よぎった。せめて津田と一緒にいる間は、彼女はきれいな身体で
いたかった。それが他愛もないことだとはわかっていても、そうあ
りたかったのだ。それゆえ、彼女は言われるままに手紙を書いた。
そしてその手紙を、その場に居たマユミと呼ばれていた女が、津
田の泊まっていたホテルに届ける手はずになっていた。
 彼女はその時初めて、自分と津田は常に遠くから見張られてい
たのだという事を知った。そして彼女が酒井の三番目の女である
という事実もだった。あとの二人は誰、と彼女がゼブラを睨みなが
ら言っても、彼は口を滑らせたことを隠すように薄笑いを浮かべた
ままで何も答えなかった。それくらいは察しが付くだろう、と意味
深な言い方をされただけだった。その時は彼女にはさっぱりわけ
がわからなかったが、ゼブラがギュルハネ公園で津田に言いか
けたあの瞬間に、本能的に悟ったのだ。

 津田の部屋が爆破された事を、彼女は二日後の新聞の片隅の
記事で知った。彼らの仕業に間違いない、とその時彼女は確信し
た。何故ならマユミが出掛ける際に、小さな菓子箱のような物を
異常なほど慎重に手提げ袋に入れていたのを、彼女自身が目撃
していたからだった。おそらくその中には、爆薬か何かが仕掛け
られていたのだろう、と彼女は思った。
 マユミと呼ばれていた女が津田の部屋にその爆薬を仕掛けるの
は、さほど難しいことではない。仲間が当日、津田と同じ階の部屋
にチェックインしていれば、訪ねて行くのも自然だし、見つからない
ように合鍵で侵入するのはたやすいはずである。彼らは恐らくその
手のプロの集団だろうと彼女は考えている。ただ、どうして酒井が
そんな人間達の仲間になっているのかは彼女にはわからなかった。
彼に尋ねてみたところで、正直に教えてくれるはずも無かった。
 彼女の書いた手紙に易々と呼び出された津田に、彼女は津田が
本当に自分を信じてくれていたのだと思った。同時に心底、津田に
すまないと思った。だから津田が銃で撃たれて夜の海に飛び込ん
だ時、彼女はゼブラにとっさに嘘を言ったのだった。その場所は決
して、さほど深い水深ではなかった。ただただ津田に助かってもら
いたい一心で、ゼブラが確認しに近付くことを諦めるように、わざと
そう言ったのだ。
 津田が生命を落としたのか、一命を取り留めたのかは彼女は知
らない。だがどちらにしても、二度と津田に顔向け出来ないことに
変わりはなかった。そしてあまりにも短かい期間であったにも拘わ
らず、印象深かった日々だったがゆえに、鮮烈に津田のことは彼女
の記憶に残っている。
『でも結局、川田良子殺害の犯人は特定できなかった』
 彼女はふと自分が犯人だったら、どうするだろうかと考えた。しば
らく考えていて、彼女の中に過去の或る記憶が突然よみがえって
来た。酒井武司が川田良子の事件のことで、警察と色々あって大
変だったと彼女に寝物語で洩らしていた事を思い出したのだった。
『たしか、そう言ってた。おかしいんじゃないのかしら、どうしてあの
事件のことで領事が直接、いちいち警察とやり取りをする必要があ
るの』

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2008年12月 7日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(4)

『結局、私はあの人を裏切ってしまった。こんなに今でも忘れられ
ないほど好きなのに。今まで出会ったどんな男よりずっと男らしく
って、いつも私を一人の人間として対等に扱ってくれた。本当に
優しい人だったのに、そんなあの人を私は……』
 短かったがこれまでの彼女の人生の中で一番充実していたあ
の夏の日々……自分が確実にその男の役に立っているという充
実感と、その裏に秘めた淡い恋心。自分の正体を知っても、なお
かつそれまでと変わらない態度で接してくれた男。そして銃声と
共にその男が夜の海に消えたあの瞬間を思い出すたび、彼女は
これまで幾度となく悪夢にうなされ続けて来た。
『津田さん、ごめんなさい。私は所詮、こんな女なのよ。貴方が言
ったように、私と貴方は偶然に出会ったんじゃなかったの。最初か
ら目的があって、私は言われるままに貴方に近付いて、貴方を見
張る役をしてたのよ。きっと貴方は気付いてたんでしょう……それ
が結局、あの二人が貴方を殺すことになるなんてわかってたら、
私は絶対にそんな事しなかったのに。どうして私達はこんな星の
巡り合わせに生まれて来てしまったの』
 涙で潤んだ目で彼女はじっと、三分の一ほどチャイの残ったグラ
スを見詰めながら、津田と出会った頃のことを考えていた。すでに
身も心もぼろぼろになっていた彼女は、あの頃真剣に帰国を考え
始めていたのだ。すでにそれまでのイスタンブールの日々は、彼
女が思い描いていた甘い理想を打ち砕き、海外の現実の厳しさは
容赦なく、日本でぬくぬくと育ってきた一人の女性に襲いかかって
いた。彼女に近付いて来る人間を誰も信じられなくなって、いつし
か心に大きな穴がポッカリと開いた状態で、彼女は目的を失った
まま、ほとんど惰性で生活していた。
 それまで自分のしてきたことがどういうことかはわかっていても、
迂闊にもいったん入り込んでしまった底無しの泥沼の世界から脱
出しようとしても、自分の意思では最早どうすることも出来なかっ
た。そしてそんな彼女が命じられたのが、津田に近付いて彼の来
トの目的を探り、同時に彼の行動を逐一報告することだったのだ。
必要であれば誘惑しろ、とまで言われていた。

 だが不思議と津田と話しているうちに、彼女は失われた何かを
彼との間に見出せたような気がしたのだ。それは彼女の中に残っ
ていた、最後の何かだったのかも知れない。津田といる時だけ昔
の自分が取り戻せているような、不思議な感情が彼女の中に芽
生えたのだった。バーダット通りで二人並んでシュミットをかじって
いたあの時、彼女はまるで恋人と一緒に居るような幸福感があっ
た。だがそんなささやかな彼女の幸福感を、たった一本の電話が
すべてぶち壊し、どうしようもない現実に引き戻したのだった。
 大事な日本からの客だからいつものように頼むと言われ、どうせ
自分を利用して誰かに恩を売るんだろうとは思ったが、今さら彼女
に断れる筈もなく、津田に聞かれないように気を付けて喋るのが
精一杯だった。そして津田に後を付けられ、彼にだけは決して知
られたくなかった秘密を知られてしまったのだ。
 津田が自分を抱いてくれたのは、ひょっとしたら彼の優しさだった
のかも知れない、と彼女は思った。たいていの男は自分と関係が
出来ると急になれなれしくなり、まるで彼女を自分の持ち物のよう
に扱いたがった。だが津田はそれらの男達とは違ったのだ。
 津田に頼まれたことを調べるなど、彼女には造作もなかった。ひ
と言尋ねれば、彼女に電話をかけて来た男が即座に調べてくれる
だろうと思っていた。そしてそのつもりで彼女は翌日、津田と別れ
て早速に領事館の方に向かったのだ。だが、そこにはその男と、
彼女が我が目を疑った男が居たのだ。その二人が同室しているな
ど、彼女は想像すら出来なかった。何故ならその二人は以前、彼
女の目の前で派手な取っ組み合いをしていたのだ。
 その瞬間、彼女は自分が落ちた罠を悟った。最初から彼らはグル
で、彼女をこの世界に引きずり込もうとしたのだった。その男……
領事館から紹介されたと偽って彼女のアパートを訪れ、彼女の所
持金を奪い凌辱されそうになった、あの目つきの鋭い冷酷そうな
日本人の男……本名は彼女は知らない。だが津田とその男があ
の夜、ギュルハネ公園で何やらニックネームらしき名前で呼び合
っていたところを見ると、彼らは今は敵対する立場にあるが過去に
おいては互いに知り合いだったと思えた。

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2008年12月 6日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(3)

 反射的に彼女は、「ちょっと待って」と言う代わりにトルコ人がよく
やるように、右手の人指し指を一本立てながら、小走りに折りしも
動き始めたそのバスに飛び乗った。さいわい私営バスだったので、
切符がなくても現金を払えば済む。彼女はバス代を支払うと、運転
席の横にいる助手に自分が行きたい場所を告げ、どこで降りれば
いいか教えてくれ、と尋ねた。
 大体はおぼろげながら覚えているのだが、イスタンブールに来て
まだ間が無い頃、友人に連れられて一度行ったきりだった事もあ
り、はっきりとそのバス停の名前を思い出せなかったからである。
助手は、トルコ人特有のにこやかな顔つきで「わかった」と短く言っ
ただけで、すぐ運転手と雑談の続きを始めた。
 金角湾沿いの道をバスはしばらく走っていたが、トプカプの表示
を過ぎてしばらく行った所にある大きな交差点を、バスは不意に左
に曲がった。エユップ・ジャミイの脇の小道をバスがくねくねと曲が
って行く。バス一台がやっと通れる程度の細い小道だった。駐車
場らしき場所でバスは方向転換をし、今来た道の方に戻って行こ
うとしている。
『たしか、バス停はこのあたりだったはずだけど……』
 一瞬、彼女は不安になった。助手の方を見ると、運転手と何やら
熱心に話し込んでいる。
『ほら、またこれだ。きっと、私が尋ねたこと、もう忘れてるんだわ』
 彼女は仕方なく、次のバス停で降りようと思った。やがてバスは
その細い道の途中の、バス停ではない所で止まり、間髪を入れず
前の乗降口が開いた。
『何かしら』
 どうせ運転手か誰かの知り合いの人間でも居たのでバスを停め
たのだろう、ぐらいにしか彼女は思わなかった。しかし助手は、手
招きをして、その彼女自身を呼んでいる。
『え?』
 彼女は招かれるままに、半信半疑で前の乗降口に向かった。
「ここですよ。ここの細い道を登っていけば着けますよ」
 運転手が説明してくれた。どうやら彼女のために、バス停ではな
い所で親切にも止まってくれたようだった。彼女は丁寧に礼を言う
と、バスから降りた。小さな目立たぬ看板が出ている。横には墓石
屋らしき小さな店があった。
『そう、……ここだったわ』
 長い石畳の上り坂を、ゆっくりと彼女は歩いて行った。
 初めてこの場所に来た時、こんな墓地のある小高い丘の、一体ど
こにピエール・ロティのチャイハネがあるのかと、訝しがったことを思
い出した。
 たしかにここは、観光ガイドに大々的に宣伝されているわけではな
いので、訪れる人間は地元の常連が多く、観光客然とした人間にし
ても大半はヨーロッパ人に限られているようである。そのせいかマナ
ーを心得ている人間ばかりで、むやみに団体で押しかけて騒いだり
するどこかの国の観光客とは比べものにならない。

 丘を一つ越えた所にあるそこは、決して大勢の人間で賑わってい
るわけではないが、寂れた雰囲気の中にも、相変わらずの落ち着い
た静かな風情が支配していた。彼女は見晴らしの良い席に腰を下ろ
した。やがてトルコの民族衣装を着たボーイが、注文を取りにゆっくり
と近付いて来た。
「お茶を、ひとつ。うんと、濃くしてくれる」
 流暢なトルコ語で、彼女はそう言った。ボーイは頷くと、近付いて来
た時と同じように、ゆっくりと去って行った。かじかんだ手を吐く息で暖
めながら、彼女は目の前の景色を眺めていた。金角湾が大きく左に蛇
行して、目の前に大きな浅瀬がある。金角湾沿いの道を通る車が、思
ったより小さく見えた。比較的近くには『E-五』の、空港やエディルネ
の方に通じる橋が見える。その向こうの左岸には軍の造船所が見え、
ガラタ塔がさらに遠くに、冬独特の灰色っぽいイスタンブールの淀んだ
空気の中にぽつんとその姿を見せている。
『ここで、夕焼けを見てみたかったな。きっと綺麗だろうな』
 やがて運ばれてきた小さなグラスに入った紅茶を飲みながら、彼女は
ふっとそう思った。時折イスタンブールが見せる夕焼けの素晴らしさには、
筆舌に尽くしがたいものがある。彼女とて、本当に美しい夕焼けは、これ
まででもわずか一度しか見たことがない。雲のほとんど無い大空がオレ
ンジ色からディープ・パープルに染まり始め、ジャミイのシルエットがその
中に浮かび上がる。ほんの僅かな時間の出来事に過ぎないのだが、初
めてそれに出会った時、彼女は思わず立ち尽くして、呆然としたまま、し
ばらくの間じっと見とれてしまったほどだった。日本人観光客ではないが、
その時だけは流石にカメラを持っていなかったことを心底悔やんだもので
ある。
 両手でそのグラスを握り締めて暖を取るようにしながら、鼻先でトルコ特
有の苦味の効いた紅茶の香りをかいだ。思いの外、ここへ来るのに手間
取ってしまっていた。先程まで持て余していたはずの時間が、今度はあっ
という間に過ぎて行く。
『私のこと、きっと恨んでるだろうなあ』
 心を痛めた数ヶ月前の夏の日のある出来事を、彼女は思い出していた。

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2008年12月 4日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(2)

『貴方はこれからもずっと、イスタンブールが変わっていくのを、ここ
でじっと見守るしかないのね。貴方の周りにはもう、かつての仲間
は誰も居なくなっているのに。こんなにも変貌してしまったイスタン
ブールを、貴方はどんな気持ちで見詰めているのかしら。きっと、
辛く悲しいんでしょうね、だってここはもう、貴方の知ってるイスタン
ブールではなくなってしまったものね。
 目の前のあのガラタ橋も、もう少しの生命ですもの。古き良きイス
タンブールの夢が、少しずつ無くなっていく。でも、誰もそれを止め
ようとしない。これが時代の流れって言うものなの?だとしたら、あ
まりにも切なすぎる。でもたとえ独りぼっちになっても、貴方は、貴
方だけは……』
 潤んだ目で彼女は、ガラタ橋のすぐ横に平行して作られた新ガラ
タ橋を見た。
『何のために人は破壊を繰り返すの。自分達の行為の愚かさにす
ら気付かずに。その結果残されるものは、たった一時の虚しい満足
感でしかないのに』
 冬の北風が、彼女の襟元の暖かさを奪うように、周りを吹き抜けて
いった。
『ごめんね……もう、行くわ。貴方にはこれまで何度励まされたこと
か。でも、これが最後よ。貴方無しでも、私は立派に生きていく。見
ててね』
 彼女はガラタ塔の中に入った。夜になると、ここでは連日観光客相
手のナイトショーが繰り広げられるのだ。有名なべリーダンサーのトラ
イ・カラジャが出演することでも知られている。夜のイスタンブールの
象徴的な、ケルバンサライと並ぶ双璧の一つでもあり、そして観光名
所でもある。誰も居ないステージを横目で見ながら、彼女は再び螺旋
階段を降りた後、エレベーターで一階へと向かった。出入り口のドア
を通り、再び屋外に出た時、彼女は最後にもう一度、ガラタ塔を仰ぎ
見た。灰茶色に薄汚れたその塔は、大空の大部分を占めて、眩しい
くらいに彼女の目に飛び込んで来た。
「さよなら、私のガラタ塔……」
 彼女は小さく囁きかけるように呟いた。もう二度とこの思い出の場所
に来ることは無いはずだった。何もかもが、あの頃と変わっていない。

 彼女は再び娼婦坂を降り、カラキョイに出た。活気とも喧騒とも言え
ぬ、彼女が以前感じたままの、イスタンブールの飾らない現実の姿が
そこにある。時の流れで変わったのは彼女の方だった。
 久し振りにガラタ橋の下の、店の有る方を通ってみようと彼女は思っ
た。ギシギシと小さな音をさせ、その浮き橋は微かに揺れている。目
ざとく彼女を日本人の観光客と見たレストランの呼び込みの男達が、
日本語の魚の名前を羅列し、「どうぞ」とか「いらっしゃい」と言いなが
ら、迷惑なくらいに行く手に何人も群がってくる。最初は無視して歩い
ていたが、流石にそのしつこさに辟易した彼女は、
「悪いけど、静かにしてくれない。私は観光客とは違うの」
 と流暢なトルコ語で、少し大きめの声で言った。呼び込みの男達は
びっくりしたような顔になり、塞いでいた前の道を開けた。橋の上では、
幾人もの釣り人が派手に釣糸を垂れている。それはいつもの見慣れ
た光景だった。

 時計を見ると、まだ少々出発までには時間的に余裕があった。当て
もなく彼女は、バスターミナルの近くにある地下道を通って、道の反対
側のイェニ・ジャミイの前に出ると、雑踏の中をゆっくりとムスル・バザ
ールの方へ歩いた。香辛料の強烈な臭いが鼻を突き始める。時間潰
しにしばらく中をぶらぶらした後、ムスル・バザールから抜け出た彼女
は、アタチュルク橋の方向に歩き始めた。右手の新市街側には先程の
ガラタ塔が後方に見えている。
 しばらく行くと、こじんまりしたバスターミナルがあり、やがて九十九
番の循環バスの表示が彼女の目に入った。行き先はエユップと表示
されている。
『そうだ、あそこへ……』

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2008年12月 2日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十三章(1)

 彼女はカドキョイからエミニュヌ行きの、バプール(汽船)のデッキ
に佇んでいた。アジア側の鉄道の始発駅として知られる、ハイデル
パシャの駅の建物が、目の前をゆっくりと右に流れて行く。冷たい
冬の風に乱される髪の毛を手で押さえようともせず、彼女はじっと
立ち尽くしていた。それに呼応するかのように、相変わらず手前の
防波堤の上では、おびただしい数の海鳥が羽根を休めながらじっと
こちらを眺めている。
 握り締めた手の中に彼女のイニシャルの彫られた、少しくすんだ
色の使い込まれた銀のキーホルダーがあった。この地に来て初め
て迎えた誕生日に、彼女の友人がプレゼントしてくれた想い出の品
だった。だがその友人も今はこの地にはいない。
『結局、あの人が一番、私のことをわかろうとしてくれた』
 今はもう、遠い昔の煌めく思い出の一つになってしまった、束の間
の一人の男との出来事を、彼女はそのキーホルダーを眺めながら思
い巡らせていた。
『優しすぎたのね、あの人は……』
 目の前には、荷揚げされたコンテナが山積みの税関の建物が見え
る。その背後の小高い丘の上には、あまり一般には知られていない
が、思想犯のみを収鑑する刑務所があるのだ。やがてアジア側の長
距離バスターミナルであるハレムが見えてきた。バス会社の名前や
トルコ国内の色々な地名の書かれた看板が掲げられているのが微か
に見え、大型観光バスがその前に何台か停車している。まるでそれ
を覆い隠すように、折しも今しがたエミニュルから到着したばかりと思
われるカーフェリーが見え、人の波や車が動いている。
 彼女はキーホルダーをもう一度見た。裏側にはイスタンブール市の
マークが浅く彫られている。ぎゅっとそれを握り締めながら、彼女はし
ばらくの間、じっと目を閉じた。三年間に彼女がこの地で経験した色々
な出来事が、次々に頭の中に浮かんでは消えて行く。
『イスタンブールの、夢……そう、そうだったのよね』
 やがて彼女は目を開けると、唇をギュッと噛みしめ、思いっきりそれ
をクズ・クレシ(娘の塔)めがけて投げた。太陽の光の中で、それはキ
ラキラと輝きながら、遠い波間に消えた。不思議と涙は出て来なかっ
た。以前の自分なら、きっとこんな時には泣き出していただろう、と思
えた。そんな自分自身に逞しさすら感じられた。いつの間にか、幾多
の経験を経て、彼女は人間的にも成長していたのかも知れない。
 小さく溜息を付き、ふと後ろを振り返ると、そこにはイスタンブールの
三大観光名所である、通称ブルーモスクと言われるスルタンアホメッ
ト・ジャミイ、アヤ・ソフィア、そしてトプカプ宮殿が控えている。もう冬だ
というのに、手前の海岸縁のギュルハネ公園のベンチには、相変わら
ず熱々のアベック達の姿が見えている。

 やがて汽船は大きくガラタ橋の横で左に旋回すると、エミニュヌに到
着した。彼女はガラタ橋を渡りきると地下道をくぐり、急な娼婦坂を登っ
て行った。その先には、彼女がかつて独りの寂しさに辛くなった時によ
く行った、ガラタ塔がそびえている。
 入り口で入場券を買い求め、相変わらず動作の遅いエレベーターで
屋上階まで上がる。そこから螺旋階段のステップの狭さに注意しなが
ら、二階分上がると本当の最上階がある。彼女は屋外に出た。周りが
展望できるその場所で、彼女はじっと、つい先程まで自分が居たアジ
ア側を見詰めていた。
 左の方に、ボスポラスの第一大橋が灰色の淀んだ空気の中でぼん
やりと見えた。そのすぐ右にはチャムルジャの丘の巨大なテレビ塔が
見える。トプカプ宮殿から右の方に目を転じれば、何事もなかったかの
ように六本のミナレットの立つスルタン・アホメット・ジャミイ、そして殺戮
の過去を持つ赤茶色のアヤソフィアも見える。眼前の金角湾では、黒い
煙を吐きながらバプールが、相変わらず忙しそうに行き来していた。

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2008年11月30日 (日)

作者の簡単レビュー 【その30】

 女傭兵マユミについては私なりにかなり悩んだのですが、結局は
彼女の死という結末になってしまいました。私自身というよりも、登
場人物達が紡いでいった物語の流れに沿って進んだ結果、こうなっ
てしまった、というのが真実に近いのかもしれません。
 どうしても私の中では、マユミをイメージした仲間由紀恵さんが重
なって、彼女のその尋常でない清楚で美しい死に顔が脳裏に浮か
んで仕方ありません。マユミには生きていてほしかった…
 仲間由紀恵さんがもしもこの役柄だったら、マユミの心情の変化や
最後のシーンをどう思うのでしょう。必然と思ってくれるのか、それと
も自分ならこう思うって別のストーリーを思い描かれるのでしょうか。
個人的に是非とも聞いてみたい気はしますが、まあ住んでる世界が
違う人なので無理ですけどね。(笑)

 当初はこの次の章がエピローグだったのですが、あまりにもボリ
ューム的に長いので、今回のWEB掲載にあたり章を分けました。
次の第十三章のサブタイトルは「過去の呪縛」です。これまでわか
らなかった部分も次第に明らかになっていきます。そう、事実はまだ
全部明らかにはなっていないのです…。

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2008年11月29日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十二章(9)

 眠りから醒めた非常警報が、再び甲高い音でその建物の内部に
響き渡り始めた。ぐずぐずしてはいられなかった。刻一刻と破滅へ
のカウントダウンが始まっているのは、相変わらず同じなのだ。あと
は運を天に任せるのみだった。
「洋子、行こう……」
 洋子を促してその部屋から出て行く前に、ロビンはマユミの脇に
立った。ほんの数分前までの彼女とのやり取りが、嘘のようだった。
洋子は黙ったまま、横たわったマユミを見つめていた。
「この人は、いいの?」
「もう、死んでる」
「でも、この人はあなたの…」
「同棲相手の恋人だと思ってるんだろうけど、ちょっと違う。俺を育て
てくれた部隊長の娘さんだ。本当はこんな形で出会うはずじゃなか
ったが」
「そうだったの」
「…行こう、もうあまり時間がない」
 洋子はその言葉にうなずくと、ロビンを脇から支えるようにして一緒
に歩き始めた。部屋の入口のところでロビンは立ち止ると、最後に振
り返ってマユミを見た。
『マユミ。あの世で、親父さんに思いっきり甘えろよ』
 少し離れた所に転がっているゼブラの死体を一瞥して、彼らはその
部屋を後にした。

 入り口のドアを出ると、急に明るい日差しが彼ら二人を包み込んだ。
その先には村上警部補や本郷刑事達が相変わらず立ち尽くしたまま、
じっと彼ら二人がやって来るのを見守っていた。
「決着は、ついたみたいだな」
 村上警部補が言った。ロビンは小さく頷くと、今の発電所の内部の
状態を彼らに簡単に説明した。一番近隣にいる現場に詳しい関係者
がすでに数名到着しており、念のために消防車を呼ぶ手配もすでに
完了していたが、ロビンの説明に現場関係者の顔色が変わった。
「万一があるので、防護服の手配が大至急必要です。複数の関係者
ですぐにでも内部に入っていかないと、最悪の事態になりかねない」
「しかし、放射能漏れはまだ起こしてないようだし、何とか制御装置で
抑えられているのかもしれない」
「たしかに、でもいつ暴走するか…」
 皆が不安げに建物を見上げたその時、異変は起こった。
 大地を揺るがす大音響と共に、原子炉の白煙が黒煙に変わり、そ
れも異常な量が凄い勢いで噴出し始めたのだ。その噴煙はまるで天
にも届かんばかりの凄まじい勢いだった。この状態を見てしまえば、
皆パニック状態に陥るのは当然のことである。恐怖感からめいめいが
後も見ずに、一目散にその場から急いで逃げ出し始めた。同時に原子
炉のコンクリートの建屋の壁の一部が吹き飛んで、大音響と共に、逃
げて行く彼らの頭の上から容赦なく降り注いで来た。何人かの警官が
その直撃を受け、地面に倒れ込んだまま起き上がらなかった。そして
それが、逃げ惑う人々の恐怖感をさらに増長させてしまったのである。
 その中に混じって、洋子を庇うようにしてその場から離れようとしたロ
ビンの真上にも、人の頭程もある大きさのコンクリートの塊が降り注い
だ。強烈なショックが二人を襲い、彼らは否応なく地面に叩き付けられ
た。辛うじて意識はあったものの、ロビンは全身が自由にならないよう
な状態になってしまった。集中的な痛みから察して、彼の背中にコンク
リートの塊が直撃したようだった。そして気を失った洋子が、ロビンの体
の下にいた。

 非情にも空は、一転にわかに淀んだ黒雲で覆われ始めていた。轟音
と共に、背後の原子炉がいつの間にか燃え盛っている。ロビンにはコン
クリートが燃える光景が不思議だった。いち早く消防車が現場に駆け付
けて消火作業が開始されたが、火はいっこうに衰える気配を見せなかっ
た。その一方で、防護服を着た原子炉関係者が、火事の中を必死の作
業を決行していた。だが、彼らが内心一番恐怖していたことがやがて起
こった。あたり一面に雨が降り始めたのだ。
 ロビンにもこの雨がただの雨ではないことは本能的に感じ取れていた。
何か鉄分を含んだような、異様な臭いと味がするのだ。雨が降り始める
前の土っぽい臭いとは明らかに違う。自分がこのような盾になってみた
ところで、所詮はこの放射能を含んだ雨から洋子を守れるわけがなかっ
た。それはただの気休めにしか過ぎない。だが今のロビンにはそうする
ことしか出来なかった。これまで仕事とはいえ、幾多の人間をその手で
殺して来た。その報いが今訪れているのかもしれない。だが出来ること
なら、この放射能を一身に浴びても、周りの人間が皆死に絶えても、洋
子にだけは無事でいて欲しかった。
「洋子は関係ないんだ。お願いだから、不幸は俺一人だけでたくさんだ。
頼む!」
 ロビンは生まれて初めて、神に祈った。洋子だけは自分の生命に代え
ても守り通したい、それが津田宗弘としての、そして傭兵ロビンとしての
一人の男の確固たる意思だった。
「黒い雨が…」
 ロビンは、泣き出した曇り空から舞い降りる、灰色の雨粒を見上げなが
ら、つぶやくように言った。それが自分の顔を始め、あたりのあらゆる場所
を濡らしてゆく。瓦礫が散乱するだけの身を隠す場所すらない状況で、人
々はただじっと黒い雨に打たれるだけだった。
「洋子、俺はこれからどうしたらいいんだ。教えてくれ」

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2008年11月25日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十二章(8)

「洋子、お前……」
 その声で我に返った洋子の手から、銃が床に滑り落ちると、静かな
その部屋の中に、金属のやけに大きな音が響き渡った。ロビンは銃
を杖のようにしてゆっくりと立ち上がると、全身の痛みをこらえながら
彼女の所へ歩いて行った。おそらくは生まれて初めて手にしただろう
本物の銃の引き金を引き、実弾の発射される時に予想以上の衝撃を
受けたことに、彼女は未だに呆然としているように見えた。
 それに加えて彼女は、ロビンがゼブラを撃ち殺した現場をその目の
当たりに見たはずだった。通常の人間が、人が殺される現場を見た
時のショックは半端ではない。近付くと、彼女の唇がわなないている
のが、ロビンにははっきりとわかった。
「貴方が殺される、って思ったから……夢中で、私……」
 洋子はそう言うと、泣きながらロビンの胸に飛び込んで来た。少しよ
ろめきながらも、彼は両手でしっかりと彼女を受け止めた。杖代わりの
CAR-十五はもはや不要だった。
「わかってるよ」
 そう言ってロビンは洋子をきつく抱きしめた。むせ返るほどの自分の
血の臭いの中でも、彼女の香りがはっきりと識別できることが、ロビン
にとっては不思議だった。

 どのくらいの時間、そうして二人で抱き合っていただろうか。不意に、
まるで水が沸騰しているような不気味な音が、次第に高まって来るの
が背後から聞こえた。音は中央の丸い大型のポットのような所の内部
から聞こえていた。明らかに異常なのだろうが、彼にはどう対応してい
いのかわからない。唯一わかっていることは、このままではこの原子
炉が恐らく大爆発を起こして日本中が汚染されてしまうだろうというこ
とと、彼ら二人がその最初の犠牲者になるという事実だった。
『たしか、ゼブラは電源系統を切断したと言ったな。警報音が止まった
のもそのせいか……だが、奴にそれほど時間的な余裕はなかったは
ずだ…とすると、奴はあそこからここへ降りてくるまでの間に、それを
やってのけたのか?………どこだ』
 見渡すと、壁際の大きな電源ボックスがロビンの目にとまった。彼は
そこまで必死の思いで歩くと、ボックスのドアを開けた。ブレーカーは
全てオフになっている。即座に彼は全てのブレーカーをオンにした。
『たったこれだけのことで、奴は電源系統を切断したと言ったのか』 
 ロビンの不安は消えていない。警報音は止まったままなのだ。難し
いことは皆目わからないが、冷却水のポンプが作動していないことが
原因で、原子炉が暴走を始めたように思えた。
『だが、緊急停止装置っていうのがあるだろう。それが働くんじゃない
のか』
 これまで幾度となく繰り返されてきた電力会社のPRでは、万一の場
合でも二重、三重の安全装置が働き、大災害には至らないとされてき
ている。だがそれらとて所詮は、電源が切られてしまえばただのガラク
タにしか過ぎない。
『あとは?……他にも絶対何かあるはずだ』
 見渡したロビンの目に、扉が半開きになって何本かコードらしき物が
垂れ下がっている、中二階の壁際に設置された電源ボックスが飛び込
んで来た。瞬間、ロビンは嫌な予感がした。まどろっこしい自分の身体
の動きに苛立ちながらも、駆け巡る痛みに顔をしかめながら、彼は螺旋
階段を登ってその場所に行った。洋子は下で心配そうに見上げている。
扉を開けると、「ECCS」と朱書されたスイッチに繋がる線が引き千切ら
れて、他にも幾つか破壊された部分があった。何処が何処に繋がるの
かすら、すぐには判断出来ない。
『駄目だ……』
 ロビンは戦慄した。彼は破壊されていないスイッチを全てオンにすると、
再び階段を下りた。長居は無用だった。

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2008年11月21日 (金)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十二章(7)

「そんなに悲しむことはない。すぐにまた会わせてやるさ」
 間近で声がした。いつの間にか警報音も途絶えて、あたりはしん
と静まり返っている。声の主の方をゆっくりと振り返ると、そこには
ゼブラがうす笑いを浮かべながら、銃口をロビンに向けて立ってい
た。ロビンは思わずカッと頭に血が昇った。
「貴様!」
 ロビンはゼブラを睨んだまま、ゆっくりとマユミを床に横たわらせた。
「ふん、そんな怖い顔して俺をにらむなよ。その腕で俺と勝負しよう、
ってのが十年早かったんだ。それだけのことさ」
 それだけ言うとゼブラは真顔になり、引き金にかけた指に少し力を
入れた。
『この至近距離だと、俺の頭の半分は跡形もなく吹っ飛ぶな』
 そう思いながらロビンは、じっとゼブラを見詰めたままだった。
「まさかとは思うが、わざと外して嬲り殺しにしようなんて思うなよ、
ゼブラ。俺は今くらい人を殺したいと思った時はない」
「当たり前だ。俺が今までそんなドジなことをした事があったか」
 ニヤリとゼブラは笑い、引き金に掛けた指に力を入れた。その時、
不意に乾いた連射音が二人の背後で上がり、同時に彼らの周囲の
コンクリートの床が何箇所か被弾し、コンクリートの破片があたりに
飛び散った。ゼブラが思わず目線をロビンからそらしたほんの一瞬、
その僅かな隙を付いてロビンは動いた。
 彼は自分でもびっくりするくらいの早さで、脇の銃を掴んで床を転
がり一回転すると、ゼブラめがけて無我夢中でCAR-十五の引き
金を連続して引き続けていた。同時にゼブラも、ロビン目掛けてウ
インチェスター二七〇の引き金を連続して引いた。互いの銃声が
大きくその部屋に数秒間こだまし、互いの肉体が至近距離からの
被弾の衝撃で大きく揺れ動いた。そしてその後に、長い沈黙の時
が訪れた。

 体がちぎれそうな激しい痛みが全身を襲っていたが、ロビンには
今自分が生きていることが不思議だった。彼は床に仰向けに横た
わったまま、しばらくぼんやりと天井を見ていた。即死だけは何と
か免れているようだったが、身体が言うことをきかない。
「う……」
 それから数秒経っただろうか、やがてゼブラの呻き声が足元の
方で小さく聞こえた。その声にうながされるように、ロビンは肩や
腹の痛みに耐えながら上半身を起こし、ゼブラの方を見た。何発
が相手に命中したのかわからないが、互いに即死は免れていた。
ゼブラはうつ伏せに倒れていたが、身体の右半分を斜めに浮かせ
るようにしてロビンの方を見ており、なおかつ両手にはしっかりと銃
が握り締められ、その銃口はロビンの頭部に照準を定めていた。
『よっぽど俺を殺したいんだな……』
 自分でも驚くほど冷静に、ロビンはゼブラを見つめていた。
「貴様さえいなければ……全てが上手くいったんだ。だが、もう遅
い。電源系統を切断したから、この建物はあと数分で木っ端微塵
だ。もう誰にも停められんぞ。日本中を放射能汚染させて壊滅させ
てやる」
 にやりと笑うとゼブラは引き金を引いた。カチンと小さな音がした
だけだった。
「お前の運も尽きたってわけか、ゼブラ」
 ロビンはCAR-十五の引き金を躊躇無く、即座に引いた。銃声が
大きくその部屋にこだまし、床にゼブラの死体が転がった。
「弾倉には常に弾丸を残しておけ、って教えてくれたのはあんただっ
たろうが……」
 ロビンはそうつぶやくと、その部屋の入り口付近を見た。AK-四
七らしき銃を胸元に、じっと立ち尽くし、ロビンの方を見ている人間
の姿があった。洋子だった。

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2008年11月17日 (月)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十二章(6)

「マユミ!」
 ロビンは彼女に自分の方を向かせるためにそう叫び、彼女にジェ
スチャーで自分の意思を伝えた。彼女は大きく頷き、にっこりとロビ
ンに微笑み返すと、弾倉を新しいものと交換した。弾が途中で無く
なったのでは援護射撃にはならない。
 ロビンは大きく頷くと、コントロールテーブルから素早く顔を出し、
ゼブラのいると思われるあたりに一発御見舞いすると、すぐさま一
気に走り出した。マユミの前を走りながら、その螺旋階段に向かう。
マユミがその後を間髪を入れず、ゼブラに銃を撃つ余裕を与えさせ
ないように、連続の援護射撃を行った。抜群のコンビネーションだっ
た。
『いいぞ、マユミ。その調子だ。もう少しだけ頑張ってくれよ!』
 神に祈るような気持ちで、ロビンが螺旋階段を駆け登ろうとしたそ
の時、不意にマユミの銃声が途絶えた。続いてガシャガシャという
音が聞こえた。
『……ジャミング!』
 マユミの青ざめた表情が、一瞬ロビンの脳裏をかすめた。
『まずい!』
 マユミが体勢を整えるまで、今度はロビンが援護射撃をしなくては
ならない。そう思ってロビンが素早く銃を構え、遮二無二ゼブラのい
るあたりりを狙撃しようと引き金に指を掛けた時、聞き慣れたウイン
チェスター二七〇の銃声が数発、その部屋に響き渡った。同時に「
ウッ」と言う小さな呻き声と共に、マユミの身体がゆっくりと床に膝か
ら崩れ落ち、うつ伏せに倒れた彼女の背中に長いストレートの髪が
おおうように広がるのが見えた。
「マユミ!」
 ロビンはマユミの元に駆け寄ると、銃をその場に投げ捨て、彼女
を抱きかかえた。もはや彼等の敗北は明らかだった。同時にロビン
は自分の死をも覚悟した。
「ごめん、貴方の役に立ちたかったのに……」
 マユミは力なく笑みを浮かべた。弾丸は肺を貫通しているらしく、
抱きかかえるロビンの左手がねっとり濡れてきているのがわかった。
大きくむせかえると、鮮血が一筋マユミの口元からゆっくりと流れ出
した。
「喋るんじゃない。すぐ病院に連れてってやるからな」
 マユミは首をゆっくり左右に振って、努めて笑顔でロビンの目をじっ
と見ていたが、やがてその潤んだ目から、不意に涙がこぼれ落ちた。
「気休め言わないで……駄目だってことくらい、私にだって判ってる。
……でも私、死にたくない……貴方のために………生きたい……本
当よ」
 悲しそうな目で、マユミはロビンをじっと見つめた。
「ロビン……好きよ……」
 泣き出しそうな顔つきでマユミは、左手でロビンの右の二の腕をぎ
ゅっと握り締めたが、その力が次第に弱くなっていった。やがて彼女
の頭が不意に力を失ったと同時に、緩やかに彼女の左手がロビンの
右腕を離れ、床に滑り落ちていった。瞬間、ロビンは言葉を失った。
「マユミ、嘘だろ?……なあ、マユミ、返事してくれよ。マユミ!」
 ロビンはマユミの体を揺さぶり、何度も声をかけた。だがすでにマユ
ミは息絶えていた。涙が幾筋も頬を伝って、マユミの顔の上に落ちて
いく。唇を噛みしめ、ロビンはマユミを強く力の限りに抱きしめた。彼
にはそれ以外に、今の自分の感情を表現することが出来なかった。
マユミの最後の言葉が、あまりにも切なく彼の心を締め付けた。そし
てそのすぐ脇では、放り出された銃が持ち主を失って、途方に暮れて
怪しく輝きながら眠っていた。

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2008年11月15日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十二章(5)

 警報装置のうるさい音に紛れて時折、鈍い銃声が奥の方でした。
ロビンはともすれば走り出したい衝動を必死に押さえながら、注意
深く足音を忍ばせ、音のする方にゆっくりと向かった。今この建物
の中にいるのは、ロビンとゼブラとそしてマユミだけの筈なのだ。
 両側をコンクリートに挟まれた幅三メートルほどの廊下を、彼はゆ
っくりと進んでいた。方向的に、建物の中央に向かっていることだ
けは間違いなさそうだった。淀んだ空気がやけに身体を締め付け
ているような気がし、同時に異常なほど急激に咽の乾きが気にな
り始めた。
 数メートル先がやけに明るい。おそらく発電所の中央の空間から
の明かりが漏れてきているのだろうと思われた。すぐそこに二人が
いるのだと思うと、自分が緊張するのがロビンには判った。
 乾いた銃声が聞こえ、次の瞬間、彼は意を決してその中央の空
間に飛び込んで行った。瞬時にして彼の数十センチ脇で、コンクリ
ート・タイルの小さな煙と炸裂音が連続して上がった。的確な射撃
だった。彼としては一番標的になりにくいように充分注意して、回
避動作をしながら動いているつもりなのだが、だんだん着弾位置
が彼に近付いて来ているのがわかり、瞬時の判断で左右の隠れ
る場所を探した。

 勢いよく踏み込んだロビンの左足のすぐ近くに着弾があった時、
反射的に彼はすぐ近くの右側に目に付いた、コントロールテーブル
の下に滑り込みながら、一瞬鋭い視線で周囲とその空間の構成を
一瞥した。その部屋は、円形の直径三十メートルくらいの大きさで、
中央部にはちょうど上から見ると鍵穴のような形の、堅固な機械の
ような物が壁の一方から、周りを幾重もの建築現場の囲いのような
鉄で出来たパイプで囲まれながら、繋がって建てられていた。そこ
の中二階のような場所に、人影が一瞬だけ見えたような気がした。
それとほぼ同時に彼の左腕に熱い感触が走った。完全に自分の
行動パターンは読まれている、とロビンは思った。
『ゼブラか!』
 マユミが自分を誤射するとは考えられなかった。それに彼女はま
だ、ロビンの回避パターンを知らないはずだった。テーブルの陰から
周りを見渡すと、ちょうど反対側のコンソールの脇に、そのマユミの
姿が確認出来た。片膝を立てて座り込んでいる彼女の迷彩服の所
々がどす黒く染まり、照明の光の加減で時折鈍く光るのが見える。
思いのほかダメージが大きい様子で、肩で息をしているのが、ロビ
ンのいる位置からも確認出来たくらいだった。
「マユミ、大丈夫か!」
 思わずロビンは叫んだ。その声が届いたのか、彼女もロビンの方
を見て力のない笑みを返した。状況的には二人とも圧倒的に不利
な位置にあった。見晴らしの良い場所からの狙撃が有利なのは、
至極当然である。ましてやゼブラのスナイパーとしての腕前を考え
れば、二人がかりで対抗してみたところで、どう見ても勝負は時間
の問題であった。あの夜、ゼブラの眉間を打ち抜かなかったことを、
ロビンは後悔した。
「ゼブラ、これ以上無駄なことはやめろ!野宮は逮捕されたぞ」
 返事の代わりに、ロビンの隠れているコントロールテーブルに銃弾
が一発お見舞いされ、小さな火花と金属音が上がった。
 中二階に登る螺旋階段はただ一ヶ所、マユミの隠れているコンソ
ールのすぐ前にあるだけである。相手がゼブラである以上、ロビンが
それを強行するには余りに危険が大きすぎた。おそらくは階段を半
分も登りきらないうちに、見事にあの世とやらの入り口に立っている
自分を発見することだろう。殺して下さい、と言っているのと同じこと
なのだ。
 方法はただ一つ、マユミが援護射撃をしている間に、一気にロビン
が全速力で螺旋階段を登りきるしか手はなかった。それしか今の状
況を突破する道はない。だが問題は、果たして今のマユミがゼブラの
カウンタースナイパーとして、彼の注意を充分に引き付ける役目が出
来るかどうかである。だがそれは彼女を信じるしかないのだ。

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2008年11月13日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十二章(4)

 その場に居合わせた全ての人間の動作が凍りつき、そして静寂
があたりを支配した。やがてドスッという鈍い音と共に、眉間を見事
に打ち抜かれたプリズムの身体が地面に倒れた。ゼブラの姿はす
でに発電所内部に消えて、その場には放り出されたAK-四七が
あった。恐らく発電所内部に彼の愛銃ウインチェスター二七〇が置
いてあるのだろう。ロビンはマユミの方を見た。マユミは彼にウイン
クして見せ、微笑みながらゆっくりと立ち上がった。
「役に立てたみたいね」
 そのマユミの言葉にフッとはにかむように笑うと、ロビンは銃を下
ろして背後をゆっくりと振り返った。そこには村上警部補と本郷刑
事、そして何故か白鳥洋子が一緒にパトカーの脇に立っていた。
パトカーに設置されている警察無線が、時折ノイズと共に何かを叫
んでいるのが聞こえているだけで、誰も一言も発しなかった。
 不意に構内に非常警報ベルが鳴り響き、その場に居合わせた人
間は皆思わず発電所の方を見た。その時、不意にマユミが長い髪
をなびかせながら発電所の方に向かって駆け出したのだ。
「馬鹿な!マユミ、お前の腕でゼブラに勝てるわけがない。引き返
せ」
 プリズムの死体の足元に転がっているCAR-十五コマンド用サ
ブマシンガンがロビンの目に留まった。素早く取り上げて、弾倉に
まだかなりの弾丸が残っているのを確認した後、彼は気になって
洋子の方を振り返った。洋子もじっと彼の方を見ている。
 これで自分のカバーは完全にスッ飛んでしまうだろう。出来るなら
自分の正体は洋子にだけは知られたくなかった。津田宗弘としての
本音を言うなら、今は何もかも捨てて洋子の方を取りたかった。彼女
との明るい未来を選びたかった。しかしマユミをみすみす見殺しにす
るのは、彼の中の傭兵ロビンが絶対に許さない。逡巡している間に
も、発電所の中からは警報に紛れ、時折かすかに小さな銃声が聞こ
えて来る。
「すまん、洋子。俺はやっぱりお前の恋人としては失格なんだ」
 行かないで、と洋子の唇が動いた。ロビンはサブマシンガンを握り
締めた。悲しいほどに切なかった。心底からこの場に置き去りに出来
る自分がもう一人欲しかった。
「あいつが呼んでるんだ。行かなきゃ」
 洋子の悲しみに満ちた顔を振り切るように、ロビンは発電所の方に
向かって駆け出した。ロビンとて、自分がただで済むわけがないのは
百も承知している。
『衝動的な感情で今の俺は動いているのかも知れない。だが……わ
かってくれるよな、洋子』
 それは決して洋子に届くことの無い、彼の心の叫びだったのかもし
れない。

 開きっぱなしのドアから中の気配を伺い、聞き耳を立てながら、ロビ
ンはしばらくの間じっとしていた。構内に鳴り響く警報音以外には、不
気味なくらい物音一つしていない。彼は注意深くあたりの様子を伺い
ながら、その建物の内部に侵入して行った。
 ゼブラがウインチェスター二七〇を愛用していたように、ロビンもCAR
-十五なら扱い慣れていた。かつてのブラック・ローズ部隊のスナイパ
ー科目で、CAR-十五コマンド用サブマシンガンで、二百メートル先に
動く直径二十センチくらいの標的に対して、十発を速射に近い状態で
全て命中させられる程の腕前だったのだ。もちろん望遠レンズなど付
けずに、である。当時はゼブラに一歩譲るとは言え、ロビンの射撃の
腕前もかなりのものであった。ただし残念ながら、今それと同じことが
出来たとすれば、ほとんど奇跡に近かった。

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2008年11月12日 (水)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十二章(3)

 二人はほぼ同時に振り返って、その原子力発電所を見た。先程ま
での表情とは打って変わって、二人とも自然と視線が鋭くなっていた。
ちょうど正面入り口の方を向いている監視カメラが一台あるのが、辛
うじて確認出来た。ロビンは彼にしては珍しく慎重に狙いを定めると、
引き金を引いた。
 鈍い音をしてカメラが破壊されたのと同時に、二人は飛び出すよう
にしてその発電所の正面入り口に向かった。ゼブラやプリズムが監
視カメラをどの程度見ているかはわからないし、今彼らが何処にいて
何をしているのかもわからないが、異常が起こったことを彼らが察知
するよりも前に、出来るだけ早くロビン達は正面入り口に到達してお
く必要があるのだ。
 重い鉄の扉が、辿り着いた彼らの正面にあった。近くで見るそれは
思いのほか、分厚く巨大な物だった。マユミは素早く扉の周辺をあち
こちを見渡し、扉の脇を這っている警報装置らしき線を見付けると、そ
れを素早く引きちぎった。その時、それを合図のようにその扉がゆっく
りと開き始めた。そしてその扉の向こう側に並んで、二人の人間が彼
らを笑顔で出迎えている姿が目に入った。
 瞬時にロビンとマユミは左右に別れて飛んだ。同時に乾いた連射音
が静かな構内に響き渡り、今まで彼らが立っていた場所のコンクリー
トの地面が白い煙を立てた。扉はやがて完全に左右に開き切った。
「ようこそ……」
 不気味に笑いながら、ゼブラがそう言った。その声を聞きながら、ロ
ビンはどうしたものかと思案した。すでに彼らは先程とは違った位置に
移動を開始している筈である。マシンガンの類であれば、連射しなが
ら踊り込んで、きっかけを掴むことも可能だろうが、彼らは通常のスナ
イパー用の銃しか持っていない。そして先程の一瞬の光景の中で、
ゼブラはAK-四七を、そしてプリズムはCAR-十五を構えていたの
だ。

 その時遠くの方から、パトカーがサイレンを派手に鳴り響かせながら、
かなりの数でこちらに向かって来るのが聞こえて来た。あらかじめ示し
合わせていたわけではなかったが、それを合図にロビンとマユミは同
時にゼブラ達がいたあたりを狙って数発を盲撃ちで発射しながら、その
門の所で互いにクロスしながら内部に飛び込むと、地面を転がりなが
らさらに数発を発射した。回転しながら移動する視界の中での狙撃は、
狙いが定まらず全く正確ではないが、今の場合は弾が何処に飛んで
行くかが保証出来ないそちらの方が、ロビン達には都合が良かった。
 案の定、彼らは位置を大幅に移動していたが、数発の内の一発が少
し離れた所にいたプリズムに命中したらしく、彼が一瞬躊躇するのがロ
ビンの視界に入った。一方で彼はゼブラの姿を探した。発電所の入り
口の所で、ゼブラが内部に走り込もうとしている後姿が、ロビンの目に
入った。
「ゼブラ!」
 そう叫ぶとロビンは、視界の端にプリズムが引き吊った形相で、自
分に銃を向けているのを知りながらも、起き上がりながらゼブラの背
中に向けて銃を構えた。同時にマユミがプリズムに銃口を向けていた。
間近に一台のパトカーが突然荒々しく停まり、数人が慌てて降りる物
音を背後に聞きながら、ロビンは引き金を躊躇無く引いていた。ほぼ
同時に三発の銃声が起こり、谺のようにその音が構内に響き渡った。
ロビンの耳元のすぐ脇を、いつか聞いたのと同じ鈍い音が、空間を切
り裂くように通り過ぎて行った。

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2008年11月 9日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十二章(2)

 そこにはもう日本からとっくに脱出しているはずの、マユミの笑顔
が草原の中にあったのだ。彼女は唖然としているロビンを尻目に、
彼の横めがけて、原子力発電所から見えないように気を配りなが
ら、屈みながら走ってやって来た。手には彼女愛用の銃が握られ
ていた。H&Kのスナイパーライフル、PSG-一である。
「マユミ、お前」
「ふふ、来ちゃった」
 そう冗談っぽく言う彼女は、この上もなく幸せそうな顔をしていた。
彼女が近付いて来た方の彼方には、見覚えのある車が目立たない
ように停まっていた。多摩ナンバーの紺とグレーのツートンカラーの
見慣れた車、それは他ならぬロビン自身の車だった。それを見た瞬
間、ロビンには彼女の行動の全てがわかった。
「まったく……。呆れてものが言えんよ」
「しゃべれてるじゃない。で、どうなの?」
 ロビンは仕方なく簡単に状況を説明した。ここから戻れと今さら言
ってみたところで、マユミが素直に言うことを聞くとはとても思えなか
った。たしかに今は猫の手も借りたいぐらいだったが、ロビンとしては
内心はかなり複雑な心境だった。
 本郷刑事や村上警部補達は今頃何処でどうしているんだろう、と
ふとロビンは思った。昨夜はあれから、おそらく酒井を連行して訊問
しているはずだし、新たな証言が得られているかも知れない。レイン
計画の全貌や関わりあっている人間達が何処まで判明するかに興
味はあったが、今ロビンが知りたいのはゼブラ達がこれから何をする
つもりなのか、という事だけだった。ロビンは高性能双眼鏡を自分の
部屋に置き忘れて来たことを後悔した。そんな彼の気持ちを察したか
のように、マユミがつと彼にその双眼鏡を差し出した。
「要るんでしょ、そう思って持って来たわ。なんて言ったら、嘘……私
が貴方の動向を探るのに必要だったから、きっとあるだろうと思って
押入れの中を探して、勝手に持って来たの」
 ロビンはマユミに礼を言うと、早速それを発電所の方に向け、しば
らく様子を伺った。監視カメラの位置を探ろうとしたのだ。同時にゼブ
ラとプリズムのいる位置も掴んでおかなくてはならない。その横でマ
ユミが、何やら包装紙を開く時のような、ゴソゴソした音をさせていた。
「はい……」
 そう言うとマユミはロビンの鼻先に、どことなく恥ずかしそうな表情で、
アルミホイールで包んだ何かの固まりを差し出した。
「言われる前から言っとくね……おにぎり、のつもりだったんだけど、上
手く出来なくて結局、ただのご飯の丸い塊になっちゃったの。ゴメン」
 笑顔でそれを受け取ると、ロビンは包みを開いた。もうすっかり冷め
切っているが、この上もなくそれは温かく感じられた。不器用な彼女が
一生懸命作った様子がうかがえ、梅干しの赤い部分があちこちにはみ
出していて、確かにお世辞にもいい形ではなかった。
「そうだな。腹が減っては戦さは出来ぬ、か。遠慮なくご馳走になるよ」
 旨そうにロビンは、そのおにぎりにかぶりついた。どうもいつもの悪い
癖で、熱中するとロビンは食欲が何処かに置き去りになるのだ。ロビン
が美味しそうにその形の悪いおにぎりを食べるのを見て、マユミも安心
したのか、彼女も同じようにアルミホイールに包んであった自分用のお
にぎりを取り出し、食べ始めた。ロビンはまるで二人でピクニックにでも
来ているような錯覚すら覚えた。最近の一連の出来事が、まるで夢の
ようにすら感じられる。だがこのくつろぎは束の間の今だけに約束され
た、はかない夢物語にしか過ぎないことを、二人は知っていた。
 いつものように、食べ終わるとロビンはショートピースにジッポで火を
付け、大きくそして長く白い煙を吐き出した。脇でマユミはじっと、目を
細めるようにしながらそれを見ていた。やがてロビンは煙草を地面でも
み消した。傭兵達の戦いの前の休息は今、終わったのだ。

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2008年11月 7日 (金)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十二章(1)

 結局ロビンが、ゼブラが潜んでいる原子力発電所を発見するまで
には、かなりの時間を要した。ある発電所だけ全く人気がなく静ま
り返っていたのを不審に思い、近付いて確認したのだが、そこには
ゼブラだけではなく、もう一人の男の姿が有るのが見て取れた。
『プリズム!今度は貴様か』
 ブラック・ローズ部隊の工作班の中心的存在で、カモフラージュを
得意とする傭兵パープルは、射撃は決して得意な方ではなかった。
それゆえに辛うじてロビンは彼を仕留めることが出来たのだが、相
手が傭兵プリズムでは同じことは二度とは続かない。彼は身の軽
さでは部隊随一の腕前だったし、今でもその筈である。射撃の腕は
少なくともパープルよりは上である。それにプリズムとゼブラの二人
が相手では、ロビンには勝ち目は絶対に無い。
『さて、どうするかだが……』
 彼らがこの原子力発電所で一体何を企んでいるのかは、ロビンに
は見当が付かない。原子力発電所の破壊は一番考えられるところ
だが、それをすれば彼らが一番最初に死ぬ。幾ら何でもそんな馬鹿
げたことを実行しようとしているとは思えなかった。だがある意味、日
本の象徴を消そうとまで考えて、実行しようとしている連中のことだ。
その可能性が絶対に無いとは断定出来ない。
『ひょっとして、本当のレイン計画って言うのは』
 まさかとは思いながらも、ロビンは戦慄が走るのを禁じえなかった。
今の日本で原発が一基でも爆発すれば、放射能を強烈に含んだ雨
は、一両日中に日本全土に降り注ぎ、日本は瞬時に壊滅状態に陥
り、国際的な存在価値が消える。円はただの紙切れに変わり、日本
の歴史は終わったと世界中が見放すだろう。必然的にその結果、国
内で生じるものは、混乱を避けるための戒厳令である。その中で日
本人は誰も真実を知らされずに、最後の一人まで見えない放射能に
おかされて、血を吐いて苦痛にのたうちながら死んでいくのだ。
 これまで幾らでもその気になればチャンスがありながら、海外に決
してトリムの金を持ち出さなかった野宮が、どうして今回に限ってわ
ざわざハンドキャリーしてまで、無理に持ち出す必要があるのか……
それが答えなら、筋が通るのだ。今回を逃せば、二度と持ち出せなく
なるような状況が生まれるからに違いないからだ。つまり野宮は生き
ているうちに、二度と日本の土を踏むつもりはない、と言うことになる。
そしてそれは、彼の意思とは関わり無く、日本が二度と立ち入れなく
なる状況が生まれるから、に他ならない。
『もう一度あの呪わしい、黒い雨を降らせることなんじゃないだろうな』
 たかが一つの狙撃で国内や世界が混乱する程度で終わるのなら、
野宮は単にその期間を海外で過ごせば良いのであって、わざわざ大
金をハンドキャリーする必然性はない。混乱に乗じて、番号が控えら
れた金をきれいな物に変えようという魂胆があるとしか思えないのだ。
『だから失策を犯したゼブラだけでは不安だから、パープルとプリズム
を呼び寄せた、か』
 野宮は今ごろ、警察の予期せぬ訪問を受け、緊急逮捕されているは
ずだった。それとも野宮が外交特権とやらを振り回して逃げたか、それ
はロビンには判らない。ここまで来たら日本の警察の良心を信用するし
か方法はないのだ。

 車をはるか彼方に置いて、ロビンは地形を上手く利用しながら、その
原子力発電所に接近していた。幸いなことに深い霧があたりを包み始
めている。少し窪んだ地形の草原で彼は横たわると、仰向けに寝転が
りながら煙草を吹かして灰色の空を見ていた。別にこれと言った名案
が浮かぶわけでもなかった。彼の脇には昨夜パープルが持っていた、
〇〇七の映画にも登場したことがあるドイツ軍のスナイパーライフル、
WAニ〇〇〇が暇そうに出番を待っていた。ご丁寧にもレーザーノクト
ビジョン付きである。ふと何気なく彼方の道路沿いを見ると、霧の中を
木の陰に隠れるようにして、覆面パトカーが一台停まっているのが彼
の目に入った。
『ふ、見張り付きってわけか。…まあ、仕方あるまい』
 まるでこの二日のことなど嘘であるかのように、ヨーロッパの何処か
の田園風景のようなのどかな光景が目の前にある。そしてその中に
原子力発電所が、静かにそして不気味に立っていた。
 その時ロビンは、自分を呼ぶ誰かの声を微かに聞いた気がした。声
のしたあたりを何気なく見て、彼は我が目を疑った。

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2008年11月 4日 (火)

作者の簡単レビュー 【その29】

 この第十一章を書き始めた当初は、こんなに長くなる予定じゃ
ありませんでした。イスタンブールで書いていた第一稿ではトル
コ部分の解決パートがろくに含まれていなかったので、読み返し
た時に、いくら何でもこれじゃあ片手落ちだよなあ、と思い直して
補足的に書くだけのつもりだったのです。

 全般的にこのRobbinⅡでは登場人物たちに引っ張られる形で
物語が作られていっている気がします。ケマル記者やハリム刑
事の部分なんて、その最たるものです。
 またイスタンブール編では、実は登場人物の名前にけっこう苦
労しています。よくあるトルコ人の名前とか、仕事関係で知って
いる人達の名前を一部勝手に借用したりして、それらしい名前に
して使っています。

 次の第十二章のサブタイトルは「哀しみのスナイパー」です。
日本編もついにクライマックスに突入します。そしてロビン対ゼブ
ラ、宿命の対決がついに決着をむかえます。

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2008年11月 3日 (月)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(10)

 イイギュン警部同様に、ハリム刑事もこのサカイ副領事の行動に
は疑問を持っていた。だが彼にはもっと気になることがあった。派
遣された二名の警官、そして殺害現場検証に立ち会った警官、そ
れらにはいずれにも共通する名前があったのだ。
『オルファンと、そしてもう一人…』
 ハリム刑事は、あらためてケマル記者の経歴も見直してみた。
「もともとトラブゾン生まれで現地で結婚し、地元の新聞社に勤めて
いたが、企業癒着や裏金などの摘発記事が評判を呼び、それに目
をつけたギュナイドン紙が破格の契約金で引き抜いたようだな。彼
が単身イスタンブールにやって来たのが、六年前の秋のことだ。し
かしイスタンブールでは地方と違って競争も激しく、なかなか才能
が発揮できないでいたようだ。だが三年前頃から頭角を現してスク
ープ記事を連発するようになってる。何かきっかけがあった筈だが。
まさか…ちょっと待てよ」
 そのルポライター殺害事件の、当時の各新聞紙の報道記事も、
ハリム刑事はすでに収集済みだった。掲載されている現場写真は
ギュナイドン紙のが圧倒的な迫力で、記事内容も他社にはない情
報が含まれていた。確認のため、ギュナイドン紙に連絡し、その回
答を得た時、ハリム刑事の中で何かがつながった。
『そういうことか、その時からつながっていたんだ。だとすると…』
 ハリム刑事は、深呼吸をひとつすると、パソコンの画面に向かっ
た。カーソルが点滅していて、早くパスワードを入れろと言っている。
「i…y…」
 その六文字を入力した後、ハリム刑事は確証を持って、エンター
キーを押した。
「やっぱり!」
 ファイルが何事もなかったかのように開いたのだ。たしかにあたら
めて考えると、両方の事件に関わっている人物を、ハリム刑事は迂
闊にも見逃していたのだ。
『だから、このパスワードか。情報提供を受けてたんだ』
 だがその内容は期待した程でもなく、特に捜査の有力情報になり
そうな内容は含まれていなかった。ハリム刑事はあらためて、カワ
ダ夫人殺害の調書を読み直したが、これには彼自身も当初からか
らんでいたので、特にそういった意味では目新しい発見はなかった。
「ここでも、その後、ルポライターのツダが川田氏の要請を受けて派
遣されてきてる。……妙だな、両方とも本物のルポライターなのか。
ツダの泊まっていたホテルはよくあるツーリスト向け安ホテルだから
真実味があるが、最初の方はスポンサーでもいない限り、ルポライ
ターが泊まる場所としては、高級ホテルっていうのは妙に不自然に
思える。偽者のような気がするが、彼には別の目的があったのか、
またはそこに泊まるように仕組まれていたとも言える。人の出入り
が多いホテルなら、多少は挙動不審でも気付かれにくい。待てよ、
最初の事件でホテル側にハヤシの宿泊予約したのは誰だ?」
 ハリム刑事はシェラトンホテル側に確認電話を入れ、調べた後に
折り返し電話をもらうことにした。画面上にはもうひとつ、そのホル
ダーの横に、トルコ語でバラを意味する「gul」というタイトルのホル
ダーがあった。こちらもパスワードは娘の名前ではなく、また今回
判明したパスワードでもなかった。少し本能的に嫌な感じはしたの
だが、ハリム刑事は今はそのホルダーは気にしないことにした。
と言うよりも、こちらの方こそ、まったく見当が付かないのだ。未知
の事件が何かあるのかもしれなかったが、今はこれら二つの事件
の関わりと解決を優先すべきと判断したのだ。
『イイギュンさんの情報をこれに合わせると…』
 ハリム刑事は、ジグソーパズルのコマが見えてきた気がしていた。
「カパルチャルシュで貴金属売りの呼び込みをやってたカミルという
男が、このルポライター殺害事件が発生してから一カ月も経たない
頃に、致死量の睡眠薬服用で死亡していた。近所の目撃者の話で
は、下半身丸出しで自宅のベッドの上で死んでたらしい。そしてだ、
時を同じくして同棲相手の女性が姿を消す。そしてその女性が、カ
ワダ夫人殺害事件の際に、サカイの要請を受けて現場に派遣され
てきた。だが待てよ、カミルはどうして殺されたんだ」

 ハリム刑事は調書置き場に行き、時間をかけてカミル殺害事件の
調書を探し出そうとしたが、見つからなかった。
『見当たらないとはどういうことだ。誰かが持ち出してる?あの事件
を今さら誰が…。それに捜査が打ち切りになった事が何か記載され
ているのかどうかだ。まさか今回もサカイがからんでるんじゃあるま
いな。それとも例の連中の誰かの仕業か』
 例の連中というのは、イスタンブール市警の中に暗に存在してい
る悪徳警官のグループである。ハリム刑事は警察省の特命を受け
て、イスタンブール市警に潜入捜査をしているのだった。だがこのこ
とは、上司であるイイギュン警部にも知らされてはいないし、ハリム
からも絶対に誰にも口外してはいけないことになっている。
『この女がカギを握ってることは間違いない。サカイと親密な関係に
あると睨んでいたが、もし当たっているとなると、サカイがらみか。ル
ポライター殺害の現場にいた二名が、この女とカミルって可能性が
ある。その秘密を知られたカミルを口封じで殺した…辻褄としては
合うな』
 そう考え事をしていた時、彼の机の上の電話が鳴った。シェラトン
ホテルからの回答電話だった。ハヤシのホテル予約を入れたのは、
トルコ語を話す女性だったという情報だった。被害者がチェックイン
した時に、すぐ近くにその女がいたかどうかまではわからなかった。  
「しかし、すでにサカイは…」
 尋問しようにも、もう無理だった。彼は長かったトルコ共和国での
任期を終え、二か月ほど前に日本に帰国してしまっているのだった。
よほどの物的証拠でもない限り、トルコ警察が日本の警察に代理で
逮捕拘束を要請することなど出来ない。相談しようにも、肝心のイイ
ギュン警部は、ここ二、三日体調不良で珍しく休みを取っていた。
見舞いに行こうかと思ったのだが、細菌性の下痢とかで感染すると
まずいから来ないでいいと、電話口で言っていた。
『何を食べたんだよ、イイギュンさん』

 相変わらず遠くの方の声は鎮まる様子もなく、悲鳴とも驚愕とも取
れる声に変わっていた。
『何だよ、いったい』
 ロビー近くのテレビを設置してあるあたりで、それは起こっていた。
周りを警察署内の野次馬がどんどん取り巻き始めている。尋常では
ないその雰囲気がさすがに気になり、ハリム刑事はその場所に行っ
てみた。テレビの緊急ニュースで、アナウンサーが叫ぶように概要を
繰り返し説明している。
「日本で、そんなことが…」
 イスタンブール市警のその時そこにいた全員が、そのテレビのニュ
ース速報に互いに顔を見合せ、ただ立ち尽くすだけだった。

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2008年11月 1日 (土)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(9)

 それから二ヶ月間と言うもの、ハリム刑事はイスタンブール市警
にいる時は、ほとんどこのパスワード解析を試みた。過去形となっ
ている事件については、使用パスワードはハリム刑事の予想通り、
ケマル記者の娘の名前だった。だがイイギュン警部が気にしてい
る、三年前の日本人ルポライター殺害事件とカワダ夫人暴行殺人
事件の二つについては、パスワードは別のものらしく、幾つか試し
たがどれもダメだった。
『どういうことだ。カワダ夫人殺害の方が未解決なのはわかるが、
もう一方の日本人ルポライター殺害の方は、とっくに迷宮入りして
る過去の事件だ。今さら新しい進展があるなんて思えないんだが、
ケマル記者は独自でずっと何かを追い続けていたってことか。い
ずれにせよ、パスワードがわからなきゃ話にならん』
 座ったままで背伸びしながら少し反りかえり、あくびをしたハリム
刑事の背後の遥か彼方、ちょうどイスタンブール市警の出入口あ
たりと思われるあたりから、歓声ともどよめきとも取れる声がした。
『またぁ、誰か有名人が通りかかったとでも言うのか。ほんと好き
だなあ』
 超美系と抜群のプロポーションで知られる歌手、シベル・ジャンが、
三か月ほど前に歌のプロモーションビデオ撮影を近くでしていた時
の、イスタンブール市警の中のあの大騒ぎを思い出し、ハリム刑事
は呆れた。
『歌唱力なんて全然ないのに、どうして顔がいいだけでこうももては
やすのかね…』
 ハリム刑事がお気に入りなのは、小柄で少しボリュームのある、
それでいてパンチの利いた歌で、現地ポップス曲のベストテン常連
歌手、セゼン・アクスだった。今も机の上で自分だけに聞こえる程度
に、彼女のファーストアルバムのカセットを小さな音で控え目に鳴ら
しているのだ。
『完全に行き詰ってるな。見方を変えなきゃ駄目だ』
 そう思い、ハリム刑事は日本人ルポライター殺害事件の手書き調
書を、あらためて最初から眺め直した。

「事件が起こったのは、今から三年少し前の八十八年春。当時日本
からトルコの現地生活レポートを記事にしようと、ルポライターのハヤ
シ・ケニチロウがやって来て、タキシム広場近くの高級ホテル、シェ
ラトンホテルにチェックインした。ルポライターが高級ホテルに泊まる
って言うのも、何か不自然な気はするんだがな。
 で、この日の夜は、ホテルのレストランで夕食しているのがレシート
へのサインでも確認されていて、その際に女性と同席しているという
目撃情報がある。だがその相手女性の詳細がわかっていない。比較
的小柄で黒く長い髪をしていたようだという話があるな、それだと…こ
の部屋の現場検証の際に見つかったという黒く長い髪の毛、とも一致
するから、食事の後にその女性と部屋に戻った可能性が高い。かなり
上機嫌で酔っぱらっていた風だったとも従業員が証言しているしな。
だが彼らがこのハヤシを見たのは、結局それが最初で最後だ。
 結局彼は、到着翌日からホテルを出た姿が誰にも目撃されていない。
部屋のドアには、ドント・ディスターブの札がかかったままだったらしい
から、メイドも部屋に入れないってわけだ。それがその翌日も翌々日も
続き、食事を頼んだ形跡が全くなかったことから、さすがに不審に思っ
たホテル側が、部屋に電話を入れたが誰も出ない。
 そこでイスタンブール市警に電話して、警官を二名派遣してもらった
後に、マスターキーを使って彼らと一緒に部屋に入っている。すると部
屋の中には本人はおらず、パスポートを始めとした持ち物はそのまま
になっていた、部屋のキーもあったと記載されている。
 こうなると何者かに部屋から拉致された可能性が高くなってくるが、
部屋には特に争った跡もなかった、とある。だがガジ・オスマンパシャ
で変死体で発見された時、死体解剖の結果として、ほぼ致死量に近
い睡眠薬成分が血中から検出されていたことが記されている。だが直
接の死因は、後頭部からの鈍器による打撲と思われる頭がい骨骨折
だ。
 発見現場の検証では…足跡が複数あるな。少なくとも被害者以外に
二名はいた痕跡がある。睡眠薬で眠らせた後に運び出して、ここで被
害者が目を覚まして逃げようとしたところを、追いかけて行って後頭部
から撲殺、ってところか。痕跡からして、これは一人は男だがもう一人
は女だな、他の二種類よりも明らかに足跡が小さい。一緒にいたとい
う女と思って間違いなかろう。その女が被害者を騙して、睡眠薬強盗
をやってのけた、仲間の男を呼んでホテルからうまく人目につかない
ように運び出したっていうところまでは想像が付く。
 被害者の死亡推定時刻からして、殺害されたのは到着した翌日の
早朝だな。身元をわからなくするために、財布とかは全部抜き取られ
ていたが、上着のポケットの隅にたまたま名刺がしわになって入って
いたのを犯人が見逃したのが、身元が割れるきっかけだった。で、そ
の第一発見者は…近くに住んでいた住人か。早朝ジョギングの際に、
連れていた犬が過剰に反応するので、不審に思って近づいて行き、
死体を発見したってわけだ。
 ほう、ホテル従業員と殺害現場付近の聞き込みはきっちりやってる
な。何人かの証言はあるが…だめだ、どれも曖昧で決め手にはなら
ない。その後に、これだ。日本の親族の強い要望でこれ以上の捜査
は不要であると日本領事館のサカイ副領事から警察省経由で要請
があった、とある。この事件はこれ以上進展してないな。ここで調書
が終わってる」

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2008年10月29日 (水)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(8)

 イイギュン警部が驚いたように言った。まさしく最新のテクノロジー
にも対応出来る凄腕の刑事である。イイギュン警部が逆立ちしても
到底かなうはずもなかった。
「これはウィンドウズ3.0って奴です。このマイクロソフトのOSのおか
げで、やっとパソコンが使いやすくなってきました。欲を言うとユーザ
ーインターフェイスの使い勝手が、いまひとつなんですけどね」
 イイギュン警部には意味不明な言葉を並べながら、ハリム刑事は
パソコンの画面を食い入るように見つめながら、何やらキーボードで
操作をし始めた。
「起動時のパスワードはかけていないですね、助かりました」
 独り言のように誰に言うともなくつぶやきながら、ハリムは五インチ
ディスクに記録されているファイルのタイトル名を順に見ていった。
「これは…」
「何だ、どうした」
「ケマル記者が調査してたと思われる資料が、見事に整理されて入
ってます」
「奴の持ってた情報が、全部ここにあるのか」
 感心したようにイイギュン警部が言った。
『えらく便利な物が使える時代になったもんだ。じゃあ奴は資料を持
ち歩くのをやめて、これに切り替えたってことか。例の事件の内容も
これで詳しくわかるな、助かった』
 しかしその甘い期待は、ハリムの次の言葉で打ち砕かれた。
「駄目だ、全部パスワードがかかってる。ファイルの中身が開けない」
「何とかならんのか、ハリム」
「私はハッカーじゃないんで…」
「何だ、ハッカーって」
「パソコンに関する知識があって、ソフト的にも詳しくて、要は他人の
秘密をのぞき見するのが好きな連中ですよ。パスワードって言うのは
一種の鍵ですから、その鍵を見つけ出して開けるのが得意な奴とか、
人によって色々得意分野が違うみたいですけど」
「そうか、お前でも無理なのか」
「時間をかければ、何とかなるかもしれませんが。専門の人間に任せ
るべきでしょうね」
「誰か心当たりはいるのか」
「いえ。アンカラの警察省に応援を要請するのが、いちばん時間的に
も早いです」
「時間をかければ何とかなるかも、って言うのは?」
「要はパスワードっていうのは、何かしらの本人が覚えやすい数字や
記号の羅列にしか過ぎないんです。だから何かのヒントで、それが推
測出来れば…」
「このファイルを開いて、中身が見られるってわけか」
「はい、そうです。よくあるのは本人の名前、電話番号、誕生日、出身
地とかですが」
「それじゃ駄目だった、ってことか」
「はい、ケマル記者に関する個人データはある程度調べてきました。
今、その中で関係ありそうな言葉を幾つか試してみましたが、どれも
違いました」
「他に何か、キーワードがあるっていうわけか」
「彼個人に関する内容ではないかもしれません」
「どういうことだ」
「彼の知っている何かに関することではないでしょうか。だから我々に
は容易には推測することが出来ない、でも本人は良く知っている。ま
あ本来パスワードっていうのはそういうものですが。たとえば…」
 そう言うとハリム刑事は、デスクの上の写真立てを指差した。
「その娘さんの名前とか、ね。ただ心配なのは」
「何だ、なにかあるのか」
「ファイルごとにパスワードを違えてあると一番厄介です。普通は同じ
場合が多いんですが、機密性を考えてよほどの内容であれば、それ
とは別のさらに違うものにします。そういうソフトも実際に開発されて
いるようですから」
「面倒なんだな、パソコンとやらは。いちいちそんな事をしなきゃなら
んとは」
「いえ、普通に使うのなら、そこまで神経使う必要はないですよ。内
容が内容なので、万が一を考えて用心していたんでしょう」
「不幸にも、その心配が的中したってわけか」
「まあ、そういうことになります。あと、もう一つ」
「まだ何かあるのか」
「もし外部と頻繁につないで何か情報収集をしているのなら、ウィル
ス感染しているかも」
「ウィルス感染?パソコンが病気にでもなるのか」
「まあ、そう言えるかもしれませんね。パソコンの中のデータを破壊
する、一種の病原菌みたいなものが存在するんですよ」
「それは防ぎようがないのか」
「ウィルス対策ソフトっていうものがあって、それが最新版になってい
れば、できる限りの防御策は打っていることになります。しかしこの
パソコンの中には、それらしきものはないです」
「そのウィルスとやらに感染しているかどうか、わかるのか」
「わざと変な挙動をさせて自分をアピールするウィルスもありますが、
それ以外だとそのウィルス対策ソフトを走らせてチェックしない限り、
持ち主にはわからないでしょうね」
「えらく厄介なんだな、パソコンというのは」
「ええ、まあ。いずれにせよこの様子では、一筋縄ではいかないでし
ょうね」
 ケマル記者の自宅ではパソコン以外に、特にこれといっためぼしい
収穫はなかった。イスタンブール市警ではギュナイドン紙に連絡を取
り、ケマル記者の家族の住所や名前の情報を得て、その訃報を彼ら
に伝えた。ケマル記者の妻が幼い娘を連れて、遙か黒海地方の東に
位置するトラブゾンから、長距離バスでイスタンブールにやって来たの
は、その翌々日のことだった。変わり果てた夫の姿に、取り乱した妻
が泣き続けながらその名前を叫んでいたのが、同席したハリム刑事
には痛々しかった。

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2008年10月27日 (月)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(7)

「どうした」
「いや、直接は関係ないんでしょうけど」
「何か気になることがあるのか」
「連続警官殺しの犯人、まだ捕まっていませんよね」
「ああ、例のやつか」
 主担当ではないとは言え、イイギュン警部もその事件のことは
ずっと気になっていた。イスタンブール市警の警官が、この半年
で五名殺害されているのだ。手口は様々だが、共通しているの
は現場に必ず赤い薔薇が残されていることだった。それゆえ連
続犯の犯行と断定されてはいるが、その後の捜査は進展して
いない。五名中三名はイイギュン警部も多少は顔や名前を知っ
ている人間だった。
「それがこの事件と、どう関係するんだ」
「こういう言い方は殉職した人たちに失礼になるかも知れません
が、少なくとも彼らは善良な警官とは言えない人たちでした。地
元のマフィアがらみの連中とつるんで店から金を巻き上げてたり、
捜査情報を漏らして麻薬密売人と手を組んでいたり。だからと言
って短絡的に彼らを殺してしまうのは、全く別次元の話ですけど
…。しかし彼らの動向を、犯人がどうやって知って予測出来たの
かを考えた時に、ここの内部の人間に共犯者がいるのなら」
「動向がつかめるから、行き先や行動も読めるってわけか」
「はい。可能性の話にしかすぎないので、根拠があるわけじゃな
いですが」
「まあ、たしかに一理はあるな」
 それはそれとして、イイギュン警部には昨夜から気になっている
事があった。
『ケマルが持っていた資料も全部、犯人に持ち去られたと見るべ
きなんだろうな』
 ケマル記者はまめな性格で、イイギュン警部が知っている限りに
おいては、常に色々な資料をヴァッコ製の茶色い革製の鞄に入れ
て肌身離さず持ち歩いていたはずなので、それが現場で発見され
ていないのが気になっていた。その中には、ルポライター殺害事件
とカワダ夫人の事件に関する内容も当然含まれていただろうし、そ
れ以外にイイギュン警部が知りたかった事もおそらく含まれていた
はずである。今日は午後一で、ギュナイドン紙に問い合わせたケマ
ル記者の住居の、家宅捜索を行う手はずになっていた。
「何か手がかりがあればいいんだが…」

 家宅捜索で向かった先は、イスタンブールの中でも高級住宅街の
一つとして知られるシシリー地区だった。場所的にはタキシム広場
から北に三キロほどである。ケマル記者の住んでいたマンションの
大家にはあらかた事情を話し、あらかじめ合鍵を用意してもらってい
た。だが二つある鍵のうちの一つは、大家の持っていた合鍵では開
かなかった。
『やっぱりな…』
 用心深いケマル記者のことだからと、万一を考えてイイギュン警
部が持って来ておいた、所持品のセカンドバッグに入っていた鍵が
役に立った。鍵を挿したままの状態で、それを蝶番側にひねりなが
ら押すと、ガチリと小さな音をたててドアが開いた。
 部屋の内装自体はかなり豪華だが、内部はどちらかというと質素
で、男一人住まいにしては片付いていた。部屋としては寝室とリビ
ング、それにキッチンとバストイレが付いているだけだが、それでも
上流階級の暮らしの部類になる。てっきり独身だとばかり思ってい
たので、寝室のデスク上に家族三人の仲睦まじい写真が飾ってあ
るのが、イイギュン警部には意外だった。
 寝室のベッド横の机の上には、正面にモニターディスプレイが置
いてあり、その右側にデスクトップ型のパソコンが鎮座していた。
身近にパソコンをしげしげと見るのは、イイギュン警部には初めて
だった。まだまだ普及が始まったばかりなので、かなり高価なもの
であるぐらいの知識しか持ち合わせていない。起動したパソコンの
ディスプレイ上の画面を見ながら、横でハリムが言う。
「アンカラでの研修が役に立つかもしれません」
「わかるのか、ハリム」

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2008年10月26日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(6)

 翌朝イイギュン警部が普段より少し早めに出勤すると、ハリム
刑事がにこやかな顔をデスクからのぞかせて出迎えた。
「お、早いじゃないか」
「昨日までの研修報告書をまとめてたんです。イイギュンさん経
由で今日提出するように言われてたのを思い出したものですから」
「ふうん、そうなのか」
 チャイジュが注文を取りに来たので、ハリム刑事はチャイを二個
頼んだ。チャイジュとは、トルコで紅茶の出前配達をする男性のこ
とをさす。
「ひとつは薄くな」
 トルコでは習慣的に紅茶、トルコ語ではチャイと呼ばれる、が頻
繁に飲まれる。火にかけられた二段重ねのやかんがそれ用の道
具である。上側のやかんには三分の一ぐらいに大量に入れられ
た紅茶の葉が、下のやかんにはお湯が入れられていて、下側の
お湯が沸騰した後に上側のやかんに熱湯を注ぎこみ、かなり濃い
紅茶の原液が出来あがる。実際には小さな独特の形をしたチャイ
グラスに注ぐ際に、紅茶の原液の量を調整して下側のお湯で割る
形になるので、濃度を好みのものにできるわけであるが、おおむね
日本人にとっては濃い目に感じる場合が多い。チャイグラス自体は
さほど大きくはないので、少量を一日何度も頻繁に飲むことになる。
さらに小さな受け皿のそのチャイグラスの脇には、小さなスプーンの
上に角砂糖がだいたい二個、置かれている場合が多い。もちろん
甘さも好みなので、自分で好きな量入れればいいのだが、習慣に
なるとかなりの糖分摂取になる。
 トルコではいたるところ街中に、チャイハネと呼ばれる紅茶の仕出
し店がある。さしずめ日本で言うところの喫茶店のようなものだが、
日本のようにカップルがいるわけではない。暇そうにたむろしている
のは、全てひげを生やした男連中ばかりである。またそれぞれの店
は担当エリアを持っていて、複数いるチャイジュがそのエリア内の
電話注文に常に対応し、出前がすぐ出来るようになっている。また
通常に市中で飲まれるチャイにはコーヒーのように銘柄が特にある
わけではない。チャイはチャイなのだ。それとは別に、エルマ・チャイ
と呼ばれるアップルティーも結構人気がある。

 やがてイスタンブール市警専属の店から先ほどのチャイジュが、
取っ手付きのトレーいっぱいに並んだチャイを置き、順番に配り始め
た。ハリム刑事は、丸く青いプラスチックのおもちゃのコインのような
ものを、そのトレーに二個乗せた。頻繁に飲むので、皆あらかじめま
とめて先払いで払っておくのだ。その証しが、そのおもちゃのような
コインなのである。
 薄めのチャイを自分用に取った後、イイギュン警部の机の上にもう
一つのチャイを置きながら、ハリム刑事はイイギュン警部が机の上
の専用電話の受話器の部分を外そうとしているのを見て、声をかけた。
「朝っぱらから、いったい何を始めるつもりですか、イイギュンさん」
「ああ、これか。気にせんでくれ、ちょっと確認したいことがあってな」
「電話、調子悪いんですか」
「そうじゃないんだ」
 受話器の部分のプラスチック製のカバーは、ねじ込み式になってい
る構造なので容易に分解したものの、それ以上はじっと受話器の内
部を横から斜めに覗き込むだけだった。下手にシロウトが力任せに
分解するととんでもないことになるのが目に見えているので、イイギ
ュン警部はまるで子供が様子を見ている状態にしかすぎなかった。
「どんな具合なんですか、私が見ましょうか」
 イイギュン警部が機械オンチなのを知っているハリムが、見かねて
横から声をかけた。
「ああ、助かる。その方がいいかもしれん。これって、こんなもんなのか」
「はあ?おっしゃってる意味がよくわかりませんが」
「受話器の内部に、何か不審な物は見当たらないか」
「不審な物、ですか」
 そう言われて、ハリムは入念に色々な角度から、外された受話器
の送話部分を覗き込んだ。
「特におかしいところはないように見えますが…」
「そうか」
「内部に不審な物ということは、盗聴器か何かが入っているんじゃな
いかということですか」
「そう思ったんだが、考えすぎだったようだ」
「昨日の件ですか」
「ああ、あまりにもケマルが殺されたタイミングが良すぎる。私はこの
電話で奴と喋ってるんだ、その内容を犯人に聞かれた可能性がある」
「だとすると、必ずしも盗聴器はこことは限りませんよ」
「他にも可能性のある場所があるのか」
「結構たくさんあります。この電話は専用回線ですから」
「例えば?」
「たとえば、この市警の電話回線ボックスの中で、イイギュンさんの回
線がモニター出来るようになってるとか、手が込んでればそこから電波
で他の場所に飛ばすことだって可能だと思いますよ。専門の業者に回
線ボックスを調べてもらえば、すぐにわかるでしょうけど」
「犯人はそんなに馬鹿じゃないってことか」
「イスタンブール市警のこの建物の中に、昨日の事件の犯人か共犯者
がいるってことですか」
「思いたくはないが、そうじゃないかと考えてる」
「内部に手引き者、ですか…」
 ハリム刑事は何事か、思案していた。

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2008年10月24日 (金)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(5)

 すぐにイスタンブール市警から鑑識含め警官が数人やって
来た。イイギュン警部はその中に、ハリム刑事の姿があるこ
とに気付き、少々驚いた。まだアンカラにいるものだとばかり
思っていたのだ。
「ハリム、お前いつ戻って来たんだ」
「ついさっきです。アンカラから戻って来て署の方に顔を出した
ところに、変死の通報ですからね。イイギュンさんもいるとなれ
ば、馳せ参じるのは当たり前です。それに水臭いじゃないです
か、言ってくれれば、退屈な研修なんてすっぽかして飛んで来
たのに」
「悪かった。年寄りのボケた推測に、お前をつき合わせるのも
申し訳なかったんでな」
「で、何か進展でもありましたか」
「その矢先に、このありさまだ」
「なるほど」
 所持品が注意深くテーブルの上に並べられたが、特にそれら
しい資料の類は見当たらない。イイギュン警部は手袋をした手
で、慎重にケマル記者の手帳をめくっていった。走り書きが並
び、お世辞にも達筆とは言えない独特の文字が躍っていた。
「死亡推定時刻は…」
 ハリム刑事が横にきて、手帳を用心深く眺めていたイイギュン
警部に小声で言った。
「先ほど、つまり夜十時前後と思われます。飲み物は今、念の
ため化学鑑識班の方に回しました」
「死因は、何だ」
「まだわかりませんが、外傷はないようです。薬物中毒の可能
性があるようです」
「自殺だとでも言うのか」
「いえ、それは何とも。イイギュンさんと会う約束してたんですか
ら、自殺するとは思えませんが」
「じゃあ…」
「睡眠薬強盗じゃないでしょうか」
「バカな、こんなホテルの宿泊先の部屋で、睡眠薬強盗に遭うと
でも言うのか」
「いずれにせよ犯人は顔見知り、ってことになりますね。ドアチェ
ーンが掛かっていなかったところを見ると、自身の意思でドアを開
けて迎え入れたことになります。全く知らない相手を迎え入れると
は思えません」
「それは相手が男であれば、の話だろう」
 イイギュン警部の言葉に、ハリム刑事は意外な顔をした。
「相手は女だと?」
「可能性として、だ。犯人が男という先入観を持つのは危険すぎる」
「なるほど、たしかに。私も犯人がてっきり男だと思いこんで話して
いました。さすがですね」
 この時、すでにイイギュン警部はある仮説を持っていた。だがそれ
には確認すべきことがある。彼はハリムにその場を任せると、部屋
からいったん出た。ドアのすぐ横にいた警官の一人に何事かを小声
でたずね、次にフロントに向かった。ケマル記者のチェックインの時
間を確認したかったのだ。
「何だって、夕方の六時頃にはチェックインしてたというのか」
「はい、間違いございません」
「部屋の電話の通話記録を見せてほしい」
「承知いたしました」
 通話記録からは、部屋からかけたものは夜九時前のギュナイドン
新聞本社あてとイスタンブール市警あての二通、外線からかかって
きたのは夜九時過ぎの一通のみであることがわかった。かかって来
た電話のことを尋ねても、公衆電話からの若い男の声だったことしか
オペレーターは覚えておらず、モニタリングはしていなかった。タイミ
ング的にはちょうど、イイギュン警部がケマル記者との電話を終えた
頃にあたる。
『まさか、そんな馬鹿なことが…』
 最初は半信半疑だったが、だんだんとそれは確信に変わってきつ
つあった。
『我々の会話が盗聴されていた、としか考えられん』
 ケマル記者が宿泊する予定の部屋はチェックイン寸前まで予測でき
ないので、犯人がその部屋に何らかの仕掛けを事前にしておける可
能性は無いと言ってよい。彼らの会話が犯人に盗聴され、二人を会
わせまいとする犯人によってケマル記者が殺害された可能性が高い
となると、問題はもう一方のイイギュン警部側から漏れたと考える方
がごく自然である。
『俺のデスク電話での会話が、誰かに盗聴されているのか』
 偶然で起こった事件でないことは、イイギュン警部が一番良く知って
いる以上、たしかにそう考えるのが自然だった。
「考えすぎなのかもしれんが。まあいい、明日の朝にでも確認してみる
さ」
 ロビーの横でたばこを吸っているイイギュン警部の姿を見つけ、現場
検証を終えたハリム刑事が片手を上げてやってくるのを見ながら、イイ
ギュン警部はつぶやくようにそう独り言を言った。

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2008年10月22日 (水)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(4)

 ペラパラスホテルは、タキシムからほど近いオスマンベイにあ
る、一八九一年にオープンした歴史と格式を持つホテルだった。
昔、オリエント急行がイスタンブール発だった頃、かのアガサ・ク
リスティが「オリエント急行殺人事件」をこのホテルの四一一号
室で書いたことでも有名な所である。他にもトルコ共和国の建国
の父と言われるケマル・アタチュルクが実際に滞在したりして、
ある意味観光地化している場所でもある。
 約束の時間よりも少し早めに到着したイイギュン警部は、ロビ
ーで一服しながらあたりを見回した。観光客だけではなくトルコ
人の顔も見えるが、皆の表情は明るく、笑顔が目に付くのどか
な光景だった。自分が直面している今の状況が、その場にはそ
ぐわないあまりにも異質なものに思えてくる。
『俺も決して清廉潔白な警官の部類ではないだろうとは思うが、
さりとてそこまで悪に手を染めているわけじゃない』
 そう言い訳がましく思い、ため息をひとつ付くとタバコをもみ消し、
イイギュン警部はソファから立ち上がってフロントの方に向かった。

 トルコでは身分証明書を常に持ち歩かなくてはならないので、
日本などのように偽名でホテルに宿泊はできない。フロントでケ
マル記者の名前を言うと、部屋番号をいとも簡単に教えてくれた。
ケマル記者が入ってくる姿が確認できなかったので、自分よりも
早く到着してチェックインしたようだった。
 名物にもなっている、木造のアンティークな手動式エレベーター
に乗り込むと、イイギュン警部はケマル記者が宿泊している三一
一号室へと向かった。ぺラパレスホテルでは部屋の鍵も、昨今流
行りのカードキーではなく、いわゆる錠前タイプだった。ヨーロッパ
仕様の大きく重い扉が目の前に立ち、ドアを軽く二度ノックする。
内部で人の気配がした気がするが、反応がなかった。イイギュン
警部はもう一度、今度は荒々しくノックした。だがやはり何の返事
もない。
『おかしいな、フロントに鍵はなかったし、部屋にいるはずだが…』
 少し嫌な予感がしたが、あまり乱暴な事をするわけにはいかな
い。現に何人かの宿泊客が談笑しながら、時々イイギュン警部の
後ろを通って行く。しばらく様子を見ていたが、何も変化はなかっ
た。イイギュン警部はもう一度ドアをノックしながら、今度は大きめ
の声で言った。
「ケマル、私だ」
 だが内部からは何の反応もないままだった。胸騒ぎを感じたイイ
ギュン警部は、急ぎフロントに取って返して身分を明かし、フロント
からケマル記者の部屋に電話を入れてもらった。だがやはり無反
応であったことから、合鍵を用意させて、ホテルの人間とともに再
度、ケマル記者の泊まっている部屋の前に立った。あらためて部
屋のドアをノックするが、やはり何の反応もない。目で合図すると、
ホテルのフロントマンが合鍵をドアのカギ穴に入れ、ガチャガチャと
やり始めた。少しすると、ガチリと鍵の開く音がし、ドアが開いた。
「ケマル」
 そう言いながら部屋に踏み込んだイイギュン警部の視界に、ベッ
ドの上に横たわって息絶えているケマル記者の姿が飛び込んでき
た。口から泡のようなものを吹いている。
「何てことだ…」
 背後でうろたえているホテルマンに警察への通報を促したイイギ
ュン警部は、あたりを注意深く見渡しながら、その部屋の中央に立
った。ケマル記者の持ち物を探したが、小さなセカンドバッグのみ
が机の上に置かれているだけで、他には何もないようだった。
『持ち物はたったこれだけか、いつも持ち歩いてた奴の鞄がないじ
ゃないか』
 呆然とイイギュン警部はその場に立ちつくした。これから自分と
会おうと約束している人間が、自殺するなど絶対にあり得ないし、
特に持病があるわけではないケマルが、こんな形で突然死するな
どありえなかった。脇のサイドテーブルの上に、飲みかけのイェニ・
ラク(トルコの蒸留酒)が置いてある。グラスの中は乳白色の、ライ
オンのミルクと称される、水割り状態になっている。アニス(ういき
ょう)の独特の香りが、その部屋じゅうに漂っていた。
『まさかと思うが、例の睡眠薬強盗の手口じゃないだろうな』
 つかみかけた真実の端がまた見えなくなってしまったような、虚
脱感いっぱいの感覚にイイギュン警部は陥っていた。

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2008年10月21日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(3)

「ギュナイドン紙のケマルです、電話もらったそうで」
「ああ、待ってたぞ。ちょっと教えてほしい事があるんだがな」
「何です」
「以前に、睡眠薬強盗事件の裏に売春組織がからんでいるら
しい、と言ってたことがあったろう」
「ええ」
「それはどこからの情報だ」
「ニュースソースを言えるわけないでしょう、イイギュンさん。
勘弁して下さい」
「いつ頃、その情報を得たんだ」
「えらく熱心ですね、何かありましたか」
「そんなに最近の情報じゃないんじゃないかと思ってな」
「ほう、さすがですねえ。ええ、数年前に得た情報ですよ」
「独自で調べてるのか」
「ええ、すっぱ抜ければそれこそ一大スクープですからね。
いい金になる」
「ふうん、お前にしちゃ珍しいな」
「何でですか」
「そんなタイプの奴じゃないと思ってたんだが」
「ははは、そりゃあ買いかぶりすぎでしょう。私だって人間なん
だ、お金だって地位だって名誉だって欲しいですよ」
「そうか…まあいい、それに関する情報が欲しい」
「ストレートに言いますね。見返りは何です」
「この前のアンカラでの俺が無駄にした時間」
「またあ…仕方ないじゃないですか。私だって騙されたんです
から。たしかに結果的には、イイギュンさんには悪いことしたな
って思いますけど、相手がそう言って来たんだから、私はそれ
を素直に伝えただけですよぉ」
「反省してるとは思えんがな。結局あれは…」
 自分がイスタンブールから遠ざけられただけだ、と言おうとし
て、イイギュン警部はハッとした。
「どうしました、イイギュンさん」
「いや、何でもない。ケマル、何が欲しいんだ」
「お、大きく出ましたね。そうですなあ、色々ありますよ」
「たとえば?」
「イスタンブール市警の汚職警官リスト」
「ふん、そんなもの、あれば私が欲しいさ」
「ご冗談を。多分イイギュンさんの頭の中にある、そのリストをく
ださい」
「仕方ないか、考えとこう」
「お、了解いただいたと思っていいですね」
「……ああ」
「イイギュンさんもえらく大胆な取引しますね。何が狙いです」
「言えるわけないだろ」
「あはは、そりゃあそうですな。じゃあ情報整理する時間もらえ
ますか」
「早い方がいい。整理できてなくてもいいんだ」
「何が知りたんです」
「三年ほど前の日本人ルポライター殺害事件で、その売春組織
がからんでたかどうかの情報さ。これ以上は電話では話せん」
「わかりました。じゃあどうです、今から男同士のデートっていう
のは」
「何処に行けばいい」
「誰かに一緒のところを見られるのも困るんで、ペラパレスホテル
でどうですか」
「えらく洒落た場所を指定するじゃないか、女との待ち合わせで
よく使ってるのか」
「ドキッとするようなこと言わないで下さいよ」
「ははは、当たらずと言えども、ってところか」
「部屋は予約しておきますから、フロントで聞いて下さい」
「わかった、時間は」
「もう少ししたら大丈夫なんで、そうですね十時半頃でどうですか」
「わかった、じゃあその時間にな」
 電話を終えると、夜の九時を少し回っていた。イイギュン警部
は自宅の妻に帰りが遅くなることを伝え、それからしばらくの間、
今日の分の書類整理や承認書類の処理に追われていた。やが
てイイギュン警部はそれらを終えると、早めに待ち合わせ場所
に向かうことにして、イスタンブール市警の建物を後にしたのだ
った。

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2008年10月16日 (木)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(2)

「アラーのおぼしめしを受けて、天国にいった」
 アルパッサンが、少し言いにくそうに答えた。
「死んだのか、いつ頃だ」
「三年ほど前だ」
「死因は」
「わからない」
「わからない?どういうことだ」
「睡眠薬強盗にやられたような話だったが、本当のところは謎だ。
我々よりも、マイクの方が詳しい。ちょっと待ってくれ、呼んでくる
から」
 どうやらアルパッサン達三人兄弟の長男である、マイクの古くか
らの知人の一人であったらしかった。やがて奥からスキンヘッドに
ひげを蓄えた、細身の男が顔を出した。
「マイクです。カミルのことで今さら何か」
 あまり機嫌の良くない顔で、マイクがスキンヘッドを右手で撫で
ながら言う。
「すまんな、彼が死んだ時のことを何か覚えているか」
「そりゃあ、びっくりしたさ。お世辞にも善人とは言えない奴だが、
根はやさしかった。女とヤクにはだらしなかったがね。それに何し
ろ、近所の目撃者の話では、下半身丸出しで自宅のベッドの上
で死んでたらしいからね。致死量の睡眠薬服用と報道されてた
が、そんな状態で睡眠薬自殺するとは思えないし」
「ほう…たしかに不自然だな」
「それに、同棲してた女が、カミルの死以来、プッツリ消息が途絶
えちまってる。その後、誰かがホテルで見かけたという話もあるが、
本人かどうかはわからない」
「怪しいな。警察には、そのことは言ったのか」
「近所の奴らが伝えたはずだ。だが…」
「だが、何だ」
「捜査はたしか、打ち切りになったと聞いた」
「打ち切り、だと」
「ああ、そんな噂があった」
 不審に思いながらもイイギュン警部は、その男の名前と当時の住
所、事件のあった日を聞いて手帳にメモした。通訳女性と同棲女が
同一人物だったとしたら、二人とも睡眠薬を使って死亡、というのは
あまりにも手口が似過ぎていた。それに捜査が打ち切りという話も
見過ごすことは出来なかった。
 以前にハリムが言っていた言葉が、イイギュン警部の脳裏によみ
がえる。津田がもたらした情報として、川田の住んでいたマンション
のカプジュが、事件の起こる数日前に日本人女性と思われる若い
女性が川田の所を訪ねて来ていたようだと話していたことである。
『まさかと思うが、その日本人女性というのが、この通訳女性じゃな
かろうな』
 念のために、イイギュン警部は川田のマンションにその足で出向
き、カプジュに写真を見せた。しかしカプジュの記憶はかなり曖昧で、
そうであったようにも思えるし、別人だったような気もする、とまったく
当てにならないものだった。
 特に何の手がかりも得られぬまま、イイギュン警部がそのマンショ
ンを出ようとした時、紙袋を胸の前に抱えて戻って来た住人の一人が、
彼に気付いて声をかけてきた。
「イイギュンじゃないか」
 その声に、イイギュン警部はその男を見た。
「ムスタファ…さん」
 それは、かつてイスタンブール市警の本部長だった男だった。在任
中から黒い噂が絶えず、イイギュンの好きな部類の人種ではなかった。
「このマンションに、お住まいなんですか」
「ああ。お前がここにいるってことは、例のカワダの件だな」
 顎をしゃくるように、ムスタファが言う。これは本当に偶然なのだろうか、
とイイギュン警部は訝しがった。当然ながら、このマンションの住人には
刑事達が聞き込みを行っていたはずだが、元本部長が住んでいるという
話は聞いていなかった。
「ええ、まあ。そんなところです」
「大変だな。どうだ、犯人の目星は付いたのか」
 無表情でムスタファが言う。内心では何を考えているのかわからない
男だった。
「何とも言えません」
「愛想がないのは相変わらずだな。どうだ、チャイでも」
「ありがとうございます。せっかくですが、急ぎますので」
 そう言うと、イイギュン警部は軽く会釈をし、そそくさとそのマンションを
後にした。

 夜遅くになってイスタンブール市警に戻ったイイギュン警部は、再
び三年前の日本人ルポライター殺害事件の調書を丹念に見返した。
そして最後に調書中に記載されていた名前を見て、イイギュン警部
は首をかしげると、ギュナイドン紙のケマル記者に電話をかけた。
彼はあいにく外出中とのことだったので、連絡をもらうように伝えた。
『どういうことだ、日本の親族の強い要望でこれ以上の捜査は不要
であると、日本領事館のサカイ副領事から警察省経由で要請があっ
た、だと』
 そこにあった意外な人物の名前に、イイギュン警部は首をひねった。
『ルポライター殺害事件で、どうしてわざわざサカイの名前が出てくる
んだ。それに今回のカワダ夫人の殺害については、サカイ自身が通
訳を送り込んできているじゃないか。両方の事件に共通なのは、この
謎の女とサカイの存在だ。…それよりも、どうしてハリムがこの事に気
付かないんだ。ありえない』
 それはイイギュン警部の中で、初めてハリム刑事への疑念が生ま
れた瞬間でもあった。その思考を断ち切るように、不意に机の上の
電話が鳴った。

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2008年10月14日 (火)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十一章(1)

 イイギュン警部は、行き詰ったカワダ夫人殺害事件の捜査の
打開のため、別の視点からアプローチしてみようと思い立ち、
それまでの日本人に関する事件を調べていた。彼の片腕のハ
リム刑事が、二泊三日の研修で今日までアンカラに出張中だ
ったこともあり、たまには彼自身の解釈で色々と探りを入れて
みようと思ったのだ。傷害や窃盗事件は幾つか報告があった
ものの、殺人事件にまで発展したものは、三年ほど前のルポ
ライター殺害と昨年のカワダリョウコ殺害の二件のみだった。

 三年前のルポライター殺害事件の方は、日本からやって来た
ルポライターが睡眠薬強盗に遭い、エユップ地区のガジ・オス
マンパシャ近くの丘の斜面で撲殺され遺棄されていたというも
のだった。所持品はほとんど何もなかったが、上着のポケット
に名刺が残されており、そこから日本人であることがわかった。
同じころ市内のタキシム広場近くのシェラトンホテルから、宿泊
しているはずの日本人が行方不明になっていると届け出があっ
たことから、双方の人物が一致することが判明したのだ。
 その日本人はチェックインした日の夕方に、若い女性と一緒に
ホテルのレストランで食事をする姿が目撃されており、かなり酔
っぱらっていた風だったという証言もあったことが調書に残され
ていた。到着翌日から部屋に閉じこもりきりだったので、不審に
思ったホテル側が部屋を調べたところ、パスポートを始めとした
持ち物はそのままで、本人だけが忽然と消えていたというので
ある。
 外出したという目撃情報がないことから、何者かに部屋から拉
致された可能性もあったが、部屋には特に争った跡もなかった。
ただし部屋の現場検証の際に、女性のものと思われる黒く長い
毛髪が一本、ベッド脇の床から見つかっていたとの記録があった。
死体解剖の結果として、ほぼ致死量に近い睡眠薬成分が血中か
ら検出されていたことが記されている。ただし一緒にいたという女
性が特定できず、関連付けがそれ以上出来ないまま、事件は迷
宮入りとなってしまっていた。

 イイギュン警部は個別に、あの日イスタンブール市警にカワダを
運んできた、ハッサンにも当たってみた。二人には直接の面識が
あったわけではなく、ツダという爆弾事件に巻き込まれたあげく夜
のボスポラス海で射殺されそうになった男が、最後に宿泊していた
のがハッサンの経営するホテルであり、日本語が話せるということ
でカワダがコンタクトして来トし、それで二人は初めて顔を合わせた
のだった。兄のアルパッサンも日本語が達者で、そのホテルや隣
のユーリックという名の絨毯屋には、日本人が常に複数たむろして、
さながらちょっとした日本人村の様相を呈していた。
 色々とその爆弾事件のことも関連して尋ねてみたが、そこでは特
に何も、目新しい情報は得られなかった。イイギュン警部が礼を言
って立ち上がろうと手帳を閉じたはずみに、はさんであった一枚の
写真が床に落ちた。それはカワダ夫人殺害現場で撮られた鑑識の
現場写真のうちの一つで、唯一あの日本人通訳女性の顔が映って
いるものだった。それが彼女が確かに存在したという、唯一の証拠
だった。イイギュン警部はずっとその写真を持ち歩いていたのだ。
「この写真は…」
 アルパッサンは床に落ちたその写真を拾い上げながら、少し首を
かしげて何かを思い起こそうとしていた。横から覗き込んだハッサン
も怪訝そうな顔をしている。なにか記憶にある顔らしかった。イイギュ
ン警部はしばらく二人の様子を黙って見ていたが、やがて尋ねた。
「何か、見覚えがある顔なのか」
「昔、知り合いの奴と一時期同棲してた女に似ているような」
「ああ、例のカミルか」
 ハッサンが思い出したように言った。
「そう、カパルチャルシュで貴金属売りの呼び込みをやってた、あの
カミルだ」
 彼らの言い方に、どこか違和感を覚えたイイギュン警部は、はやる
気持ちを抑えて尋ねた。
「そいつは、今どこにいる」

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2008年10月13日 (月)

作者の簡単レビュー 【その28】

 長かったこの物語もついにクライマックスに突入しますが、その
前に、並行しているイスタンブール編のその後を少しお届けした
いと思います。当時イスタンブールで書いていた初稿にはこの章
はなく、今回新規に追加したものです。
 次の第十一章のサブタイトルは「突破口」です。

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2008年10月12日 (日)

RobbinⅡ-レイン計画- 第十章(14)

 そう言うとロビンは、銃の引き金を引いた。悲鳴とも何ともつか
ぬ嬌声を発して、酒井が気を失った。銃はカチリと小さな音を立
てただけだった。弾は全て撃ち尽くしていたのだ。
「ま、そういうわけだ。……後はどうするね、村上警部さん。念の
ために屋敷内部も一応は探した方がいいと俺は思うが。どんな
証拠が出て来るかも知れないからね。トリムの事件はまだ時効
にはなってないんだろう」
 ロビンはそう言うと、空になった銃を本郷に返した。あまりにも
鮮やかな動きで、皆の目の前でその銃は、本郷の左胸のホル
スターに納まった。ロビンはその傭兵パープルの脇に放り出さ
れるようにして眠っていた銃を、さり気なく床から取り上げると弾
倉を確認し、ふっと笑いを浮かべて玄関の方を見た。
 その笑顔の裏に潜む、猛獣が牙を持ったことに気付き、その時
玄関口に居合わせた人間は皆、ぞっとして思わず一歩退いた。
自然とロビンの前に通路が開けた。ロビンはその銃を持ったまま、
その屋敷から出て行こうとした。皆は先程の光景に呑まれ、誰も
制止出来なかった。
「待て、津田。何処へ行く」
 かろうじて村上警部補がそう言った。彼とてロビンの持つ迫力
に呑まれていたのだ。それに今はこれだけの人数が居ても、とて
も彼を止めるだけの力は持ち合わせていないことは、先程の様子
でわかっていた。それに今のロビンは、弾丸のたっぷり詰まった
弾倉の装着された銃を持っているのだ。今の彼を止めるためには
一個師団の装甲部隊でも来ない限り無理だ、と村上警部補の隣
りで本郷は感じていた。
「最後の決着を付けに行くんだ。邪魔はするなよ」
 ロビンはそう言うと、屋敷の片隅の車庫に向かった。誰も一言も
発せない程の緊迫感が漂っていた。その様子に尋常でない何か
因縁めいたものを感じ、同時に村上警部補はふと想った。
『ひょっとして、野宮達の周辺を我々よりも先に洗ってたのは、津田
だったのか』
 彼らはただ呆然と、津田が車で出て行くのを見送るだけだった。
かろうじて尾行の覆面パトカーを付けるのが、今の彼らに出来る精
一杯のことだったのだ。

 あと数時間後に迫った夜明けに向け、見えない空間で警察無線
が異常に行き交う中を、ロビンを乗せた車は首都高速道路を一路
東に、ひたすら茨城の東海村に向けて走っていた。自分の人生が
今日中に終わるだろうと漠然と予感しながらも、ロビンは自分でも
不思議なくらいに恐怖は感じていなかった。自分はこれから死にに
行くようなものなのだろうがこれが運命なら仕方ない、と自分でも
驚くほどに冷静だった。
 洋子とはもうとうに縁は切れているし、別れの挨拶も出来た。マユ
ミにも日本を脱出するように言ってあるから、ひょっとしたら今頃は
すでに空の上かも知れない。もう今日何が起こったとしても、彼の
周囲の人間で直接の迷惑が掛かりそうな人間は居ない筈だった。
もっとも、浅見所長だけには多少なりとも迷惑は掛かるだろうが、
それは愛嬌だとロビンは思った。
 ふと思い出したように、ロビンはカーラジオのスイッチを入れた。
それまで静かだった車の中に、不意にクリス・レアの低い歌声と
それに絡むスライドギターが響いた。
『ロード・トゥ・ヘル、地獄への道、か。ふ、今の俺にぴったりの曲
じゃないか』
 ロビンは助手席の銃に向けて、微笑みながらそう呟くように言っ
た。そして彼が野宮邸を出て以来ずっと、正確に言うなら警察から
ロビン達が野宮邸に向かった時から、その後を一台の車が秘かに
追跡していたことを、ロビンは全く気付いていなかった。

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